2012年1月7日土曜日

リア充もいいけど、仮想もね

りか(1)「リア充」という言葉を最初に知ったのは、斎藤環さんとの往復書簡のときで、「どういう意味か」と知り合いに聞いたら、リアルが充実しているということだった。それ以来、徐々に頻繁に目にするようになって、今ではすっかり定着しているようである。

りか(2)これは、ある講演会での質疑応答で言ったことかもしれないけれども、たとえば恋愛でも、リア充の人よりも、充実していない人の方が、案外その本質を知っているようなところがある。これは、もちろん、リアルに充実することの意味を否定するものではない。

りか(3)何年か前の歳末、朝羽田空港に帰ってきて、カレーライスを食べていて、となりの小さな女の子が妹に、「ねえ、サンタさんていると思う? 私はこ う思うんだ」と話しているのを耳にしたことが、『脳と仮想』という本を書くきっかけとなった。未だに読んでくださる方も多く、うれしく思う。

りか(4)実際に異性と付き合う前の思春期のときに、男の子ってこんな感じなのか、女の子ってこんな感じなのかとあれこれと思い巡らしている。そんな「仮 想」の中に、私たちが思い描く理想の恋人像というのは案外潜んでいるもので、「リア充」ではないからこそ育まれるものもある。

りか(5)もちろん、いい歳して理想の異性像はこうだ、などといつまでもこだわっていると、周囲からあいつは何だ、と言われかねない。そのあたりはバランスの問題だけれども、リア充であればいいというものでもなく、乏しいからこそ想像力が育まれるということもある。

りか(6)遠藤周作が『沈黙』を書いた、その舞台の海を訪れたことがある。神が人間の呼びかけに対して「沈黙」を守っているからこそ、人間は神とはこんな存在なのではないかとあれこれ想像する。神の本質は不在であり、目の前に顕われてしまっては、神ではない。

りか(7)理想のご馳走とか、夢のような旅行とか、飛び上がるような栄達とか、そういうものは全て「仮想」の領域に属するのであって、実際にそうなってし まったら案外つまらないものだろう。人間精神の健康のためには、「リア充」と「仮想」のバランスがとれていなければならない。

りか(8)インターネット全盛の時代になって、すべての情報が顕在的になっている今こそ、「仮想」の大切さが増大している。どんな表現も、脈絡も可能ではないような「仮想」の領域を育んでこそ、人間の精神としてはちょうどバランスがとれる。

りか(9)日本に元気がなくなったのも、「仮想」の領域がやせ衰えたから、という気もする。かつて、外国は最大の「仮想」だったが、今では当たり前の現実 で、わくわくしなくなった。リアルの増大に比例して、仮想も膨らませなければ。ネットの膨大に対抗できるくらいの、大いなる仮想を抱け。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月6日金曜日

ネットの世界は下克上の戦国時代だけど、日本はカヤの外だね

ねに(1)時代の流れを空気のように感じていることは大切だと思う。一ヶ月ほど前だったか、Flipboard for iPadを手に入れて以来、ニュースをそれ経由で読むことが圧倒的に多くなった。指でめくる感覚が心地よいアプリで、良いニュースを動的にキュレーション してくれる。

ねに(2)FlipboardがキュレーションするTechのニュースを見ていると、ネットの世界は今がまさに戦国時代、群雄割拠で下克上の状況になって いるということがよくわかる。何しろ、得られる報酬は青天井。グーグルやフェイスブックの成功を見て、血をたぎらせている若ものの群れ。

ねに(3)スタートアップが、IPOまでにどれくらいの資金を得て、その結果どれくらいのリーターンがあって、平均どれくらいの利益になるか(確か 600%以上だったかな?)とか、アプリを探索するのが大変だから、その生態系の検索システムが求められているとか、いろいろな話題。

ねに(4)ネットの話題の面白いところは、それが潜在的にただちにグローバルな意味合いを持つことだろう。システムやアプリの世界に国境線はない。だか ら、ネットの上で、新しい帝国主義の時代が来ている。もっともプレイヤーは国家ではなく、自宅の二階にいる一人の若者かも知れぬ。

ねに(5)Flipboardは、Techの分野だけでなく、一般Newsのキュレーションも面白い。やや米国中心の傾向があるのは仕方がないこととし て、各地域のニュースも拾っていて、グローバルな関心事項(地球温暖化や、エネルギー問題など)にかかわることをチェックするのに便利。

ねに(6)ところで、世界には依然としてドメスティックな関心事項もあって、フランスに行ったときフランス人と話すと今年行われる大統領選についていろいろ言う。サルコジがどうの、ルペンの娘がどうのという。なるほど、と思うが、実はそんなに聞く方の力は入っていない。

ねに(7)それぞれの国内のニュースは大切だが、今日においては、よりグローバルな視点への注意の分配が求められる。そうでないと、現代をいきいきと生きることにはならない。ツイッターのトレンド語を見ていても、日本では依然として国内ニュースの比重が大きすぎるようだ。

ねに(8)日本から、世界規模のネット・ベンチャーが出にくい、という指摘があって久しい。もちろん、がんばっている挑戦者たちもいるから応援しているけれども、社会全体として、ドメスティックなことにばかり関心が向いているという状況も足を引っ張っているのではないか。

ねに(9)文明にはその時々の坩堝のようなものがある。今はネット。アメリカの若者たちが、世界を見据えて下克上の闘いに挑んでいるときに、日本の大学制 度とか、就職活動のこととかは、確かに国内問題としては大切だが、どうでもいいこと。逆にそんな感覚で国内制度を見直す必要があるのだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月5日木曜日

日本のサブカル力は最強だ

にさ(1)前回パリを訪れたとき、植物園の近くに遊戯王カードを売っている店があって、そこにいい年したパリの若者たちが群がっていた。一人は、コンピュータでカードのレア度を調べていた。みな、普通にオタク風の雰囲気だった。女子度は低かった。

にさ(2)今回、リールからシャルル・ド・ゴールに帰る時に、オート・グリルで食事をした。横に売店があって、そこが日本のキャラクターの独壇場だった。 ハローキティだとか、ピカチュウだとか。レストランにフランスのキャラクターらしい、ロビンフッドみたいなのが描いてあったが、可愛くなかった。

にさ(3)シャルルドゴール空港で、フランス人と中国人らしいカップルがいた。3歳くらいの女の子が、キティちゃんのリュックを背負っていた。かわいかっ た。フランス人は金持ちっぽくって、中国人らしい女の子もファッショナブルな格好をしていた。ブランド名はわからないけど。

にさ(4)このところ海外に行って思うのは、日本のサブカル(マンガ、アニメ)力は最強だということである。こわいものなし。だって、圧倒的に質が高い。そこには文化的かつ歴史的な必然があるのだなあ、ということを、帰りの飛行機の中で見た映画でふたたび思った。

にさ(5)見た映画は、メル・ギブソンやジョディ・フォスターが出ている『マヴェリック』と、クリント・イーストウッドとジーン・ハックマンが出ている 「許されざる者」。たまたま両方とも西部劇だったけど、勉強だと思って見た。後者は傑作の誉れ高く、実際にすばらしかった。

にさ(6)『許されざる者』は、いわゆる西部劇の文法に批評的にアプローチしていて、ちゃんと作家も出てくる。最後に、クリントがぶっ放す、西部劇に必須 のカタルシスの場面もあるのだけれども、批評性が貫かれているので、ほろ苦い。映像もすばらしく、傑作の名にふさわしかった。

にさ(7)それでも、僕は思った。台本としての面白さは、やはり『用心棒』や『椿三十郎』、あるいは『七人の侍』の方が上じゃないかな。なぜそうなるのか というと、結局、人間というものの振れ幅なんだと思う。マッチョを肯定するという世界観から、アメリカはなかなか抜けられない。

にさ(8)日本でサブカルが隆盛したのは、歴史的必然がある。正統派のカルチャーでは、どうせ適わない(日本の知識人で世界的ブランドになった人は皆 無)。大空襲や原爆。大地震。さんざんひどい目にあってきて、マッチョだとか、前向きだとか、それだけでは世界がうまく行かないのは知っている。

にさ(9)沖縄戦を経験した金城さんがウルトラマンを立ち上げたのが象徴的。日本のサブカル力には、それだけ元手がかかっている。ハリウッド映画は、どん どん日本から学べばいい。ぼくたち日本人も、そのあたりについては、もう少し自負を持っていいんじゃないかな。日本のサブカル力は最強だ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月4日水曜日

幸せとはバランスのことであるが、そんなことを考えないのが一番幸せである

しそ(1)昨日、リールのレストランでクルーたちとご飯を食べていたら、パリ在住の江口さんが、突然「幸せってなんだと思いますか?」と聞いた。ディレク ター=監督の牛山さんが言ったことがひどくて出鼻をくじかれたけれども、カメラのアパッチ青木さんの答えは、ぼくもそう思えるものだった。

しそ(2)アパッチ青木さんは、「自分のところには来るまい、と思っていたものが来たとき」と言った。本当にそうだな、と思う。そしてそれは幸せの一つの かたちであって、全てではない。福音以外にも、日々の命の調和の中に幸せがある。幸せとは、一つのバランスのことである。

しそ(3)そしたら、江口さんが、パウロ・コエーリョの小説『アルケミスト』のことを話し始めた。城主が少年に、スプーンをもたせて、オリーヴオイルを満 たす。そして、スプーンを持って、城の中を一周してきなさいと言う。少年は、オリーヴオイルをこぼさないようにしながら、一周してくる。

しそ(4)少年がもどってきた時、城主が「すばらしい絵をみたか」「庭師と話したか」と聞くと、少年は、「いいえ、スプーンの中のオリーヴオイルをこぼさないのに精一杯で見ませんでした」と答える。城主が、「それはもったいない、もう一周してきなさい」と少年に言う。

しそ(5)少年は今度は部屋にかかっているすばらしい絵を見たり、美しく整えられた庭に感嘆する。戻ってきて城主に、「すばらしいものを見ました」と報告 する。城主が、「スプーンの中のオリーヴオイルはどうした?」と聞くと、少年は夢中になっていたから、すべてこぼれてしまっていた。

しそ(6)物語の結論は、人生とは、スプーンの中のオリーヴオイルをこぼさないようにしながら、すばらしい絵や美しい庭を見ることが幸せ、だということ。 つまり、人生の目的(=ライフワーク)を忘れない一方で、日々出会う思いもかけぬものをきちんと見て、楽しむことなのだろう。

しそ(7)ちょうど、パリの蕎麦屋さん、円(YEN)で、中山美穂さんと「アルケミスト」の話をしたばかりだった。その時のドキュメンタリーのディレク ター(監督)が牛山さん。江口さんはさらにUFOの話をはじめて、半分に割ったらU2が出てきたとか、他愛もない話をした夕べは楽しかった。

しそ(8)幸せとは、workとlifeの間とか、失敗と成功とか、努力と弛緩とか、予想と意外とか、さまざまなものの間のダイナミックなバランスのことなのだろう。それこそが、生命の本質。一つのことのみにこだわる原理主義は、その性質からして、もっとも幸せから遠い。

しそ(9)そして、幸せの原風景が子どもの時代にあるように、本当は、「幸せってなんだっけ?」と取りたてて問わない、無自覚な日常が幸せなんだろうと思 う。江口さんの問いかけで、ぼくたちは幸せについて考えた。そして、談笑の中に没入して我を忘れたとき、本当に幸せになっていた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月3日火曜日

言語のすべてに対応するのは無理だから、諦めよう

げあ(1)昨日の夕飯は、ローランと一緒だった。あいつだったら、きっといい店を知っているだろうと思ったら、案の定すばらしかった。各テーブルにクレヨンが置いてあって、敷いてある紙にイタズラ書きできる。気に入ったら、持って帰るお客さんも多いのだという。

げあ(2)注文のときなど、片言のフランス語を話す。聞いていても、ある程度はわかる。でも、ローランのように流暢には喋れない。牛山さんが、フランス語は喋らないのですか、と聞くから、ぼくは英語に集中して投資をする決断をしています、昔、ドイツ語はやっていたことがありますがと答えた。

げあ(3)はっきり言って、キリがない。世界には数千の言語があるという。中南米の多くの国ではスペイン語だし、ブラジルはポルトガル語。アフリカの多くの国はスワヒリ語だし、アラビア語ももちろん無視できない。お隣の韓国語だって、話せたり読めたりできればそれにこしたことはない。

げあ(4)実際的な意味で重要になりつつある北京語や広東語もあるし、台湾の繁体字の体系もある。ベトナム語もあるし、タイ語もある。インドは多言語国家で、ヒンディー語だけじゃなくて、ベンガル語も詩的な言語として忘れてはいけない。詩的な言語と言えばペルシャ語もある。ロシア語もお忘れなく。

げあ(5)もう十分だろう。フランス語やドイツ語は目立つし歴史的な経緯で重要とされたが、それぞれの国の言語の中に、固有の愉しみと煌めきがある。すべてに対応することは不可能。だったら、有限な人生の時間で、言語への個別対応とは異なる形での水平的普遍性を持つことを図るしかない。

げあ(6)そもそも、言語は自然言語だけとは限らない。コンピュータのプログラム言語も重要だし、数学や音楽だって一つの言語。もちろん絵画も。だから、どこかで見切って、自分の手持ちの言語を選択と集中で磨いていくしかない。普遍性は、網羅的な言語対応以外の何かで担保しなければならない。

げあ(7)英語は、lingua francaとして重要であり、特に科学や技術を記述する言語として主要な地位を占めている。インターネット文明がアメリカ起源だったことで、より重要性が高まった。言語としての学習曲線も奥深い。だから、英語に絞って資源を投入するのが、私の判断である。

げあ(8)もちろん、どこかに旅行すれば、その国の言語を少しでも学ぼうと思うけど、それ以上自分の資源を投入しようとは思わない。フランス語やスペイン語を流暢に喋っている人がいたら、一抹の寂しさは感じるけれども、まあ、それは仕方がない。人生には他にやるべきことが沢山あるから。

げあ(9)今後は自動翻訳の技術が格段に向上するし、多言語間のNxNの流通も増していく。lingua francaとしての英語の実力を金剛なものにすると同時に、他のかたちでの普遍性を目指す。これが私が自分の人生で選択した言語政策。それぞれの言語学習を考える時のご参考までに!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月2日月曜日

世界的な文脈で考えよう。できるだけ

せで(1)成田から飛行機に乗って、パリに着いた。シャルルドゴール空港でスタッフの方々と待ち合わせて、ホテルに向かった。さっそくiPhoneや iPadでメールやニュース、twitterをチェックする。時折mapで自分の位置を確認する。ホテルに着いて、すぐにネットに接続した。

せで(2)インターネットの発達によって、生活したり仕事をしたりする環境が、世界のどこでも同じになってきた。ネット上のアプリやサービスも、地球共通 の生きる上での関心を反映し始めている。アプリの「生態系」は進化の緒についたばかりであり、これからカンブリア爆発を迎えるだろう。

せで(3)ジョブズの伝記の中に、スティーヴが「はっ」と気づく瞬間が出てくる。確かトルコにいる時だったと思うが、現代の流行、特に技術的流行というも のは、もはやグローバルで、トルコ風の、日本風の、あるいはアメリカ風の技術というものは徐々に意味を失ってきているということ。

せで(4)世界的な規模の関心事について考え、行動することが適応的な時代になってきた。たとえば、貧困の問題。教育の問題。エネルギーのこと。水資源の 問題。食糧問題。平和。メディア。世界中のどんな国のどんな人たちにとっても共通の課題についてパス回しをすることで、人は成長していく。

せで(5)世界的な規模でのことを考えるかどうかは、実は言語とは相関しない。日本語でも、世界的な視野で考えることはできるし、英語でも、ドメスティッ クな関心事について語ることはできる。要するに、どんな意識を持つかであって、そのことによって、生み出されるものの質が決まってくる。

せで(6)パリに来る飛行機の中で、日本を代表する週刊誌二誌を読んだ。一つには私が伊勢神宮に行った記事が出ていて、「ひゃあ」と思ったが。どちらも、ドメスティックな話題がたくさん載っている。日本に住み、日本語を母語とする人しか興味を持たないようなことの数々。

せで(7)ドメスティックな話題に意味がないわけではない。身内の関心事があるし、仲間としての結束があり、固有の伝統や文化もある。その一方で、世界的 な規模の関心事を反映する記事も、両誌(週刊新潮と週刊文春だけど)にはあちらこちらに掲載されていて、その変化の兆しに関心を持った。

せで(8)ここまで相互依存関係が密になると、たとえば経済の課題を解くにしても、一国の内部パラメータばかりいじっていてもらちが明かない。世界規模でのイノベーションと強靱性に取り組むことによって、結果としては日本の経済もよくなっていく。

せで(9)国内の話題やテーマはついつい面白いから目が向くけれども(政治が典型)、世界的な文脈での課題に取り組む時間を、少しでも増やそう。そうする ことが、個人としても、組織としても、国としても、結局は適応的である。世界のあちらこちらでみんなが何に困り、何を夢見ているか想像すること。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月1日日曜日

ある日突然、思い立つ

あお(1)年が明けて2012年になった。年が改まるというのは人為的な約束だが、それでも気持ちが引き締まり、新たな思いや希望がわいてくる。正月の本質はコミュニティ。周囲の人もシンクロしてそのような感慨を抱くことで、共感の質が高まっていく。

あお(2)人生には、カレンダー上の節目があると同時に、ある日突然やってくるきっかけもある。その時に、人生は改まる。気づき、出会い、断念。その突然の節目を大切にして、逃さないようにしなければならない。

あお(3)忘れもしない、去年の正月。私は突然2時間40分歩いた。年末に多忙でちょっと体調を崩して、これではいけないと思ったのだろう。自分でも不思議だったが、あの日から、自分の中で確実に何かが変わった。今でも、長距離歩くということを続けている。

あお(4)小学校5年生のある日、私は、突然、「絵画教室に行きたい!」と言い出した。その週から行って、大学生の頃まで油絵の教室に通っていた。最初に描いたのは、「アジの開き」だった。あの日の突然の思いつきは何だったのだろう?

あお(5)そして、私の人生の最大の転機と言えば、31歳の春に電車に乗っていて、突然「ガタンゴトン」という音の生々しい質感に気づいて、「クオリア」に目覚めたことである。物理主義の限界を悟った。その後の人生の方向を決定付ける、もっとも本質的な転機だった。

あお(6)暦の上での画期は普通に生きていれば向こうからやってくる。しかし、自分の内面での画期は、心に耳を澄ませていないと気づかないことも多い。年 代が改まる、大きな変化は、いつどこでやってくるかわからない。そして、思い立ったら、その勢いに乗って、自分が変わるところまで行ってしまえ!

あお(7)気づきのうちもっとも貴重なものは、その瞬間から何か新しいことを始める、というものであろう。自分の行動のあり方が変わる。新たな挑戦を始め る。そこには緊張と不安がある。自分がそんなことをするとは思っていなかった行動する時間に、事も無げに飛び込んでいく。そんな年にしたい。

あお(8)というのも、人間には、前からやろうやろうと思ってやっていなかったり、あるいは自分には無理だと思っていたり、縁がないと考えていることが沢山あるからである。その「壁」をいかに乗りこえていくか。自分の邪魔をしているのは、結局は自分自身なのだ。

あお(9)ある日、突然思い立つ。新しい年の始まりは、本当はそこにある。その瞬間はいつやってくるかわからない。カレンダー上の新年は、みんながその気 持ちになるから共感の輪が広がるが、自分だけの新年は、孤独の中にやってくる。自分や他人の中の、季節外れの新年の気配に耳を澄ませていこう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。