2012年4月5日木曜日

猫ひろしさんの挑戦は現代アートなんだけど、そのことを言わないのが一番いい

ねそ(1)新聞を読んでいたら、猫ひろしさんがカンボジア代表としてロンドン五輪に出場するというニュースについて、共同通信が配信した「核心評論」という記事が載っていた。そのことをきっかけに、猫さんの挑戦について考えたことがあるので、そのことを今朝は書きたい。

ねそ(2)共同通信記事は、基本的に猫ひろしさんの挑戦に対して批判的である。「五輪憲章」は、「選手による自身の競技パフォーマンスの宣伝目的使用を明 確に禁止している」とする。そして、猫さんが芸人としてのパフォーマンスの一環として五輪に出場するならば、五輪憲章違反だとするのである。

ねそ(3)また、共同通信記事は、猫さんの国籍変更についても「違和感をぬぐえない」とする。この点については、他でも批判されているの見た。国籍には歴 史的、文化的な「重み」があり、五輪出場のために「便宜的に変更する」のは軽率であるという意見を表明する論者が、あちらこちらにいる。

ねそ(4)私は、猫ひろしさんの「カンボジア代表として五輪に参加」という挑戦を否定的にとらえる論 調に出会う度に、「いちいちごもっとも」と思いながら、結論としては猫さんを応援したいと思う。「良識派」が唱える違和感の中にこそ、まさに、猫さんの挑 戦の意義があると考えるからである。

ねそ(5)本質は、そもそも論の中にある。そもそも、なぜ五輪は国別の代表、というかたちをとっているのか? なぜ、国別にメダル獲得数を競ったりするの か? 現代の意識とはずれていないか? 100メートルの日本代表も応援したいけれども、ボルト選手の走りも見たいだろう。

ねそ(6)「国籍」とは何か。進化論的には群淘汰で説明されるのだろう。文化的、遺伝的につながった集団。国と国との戦争では、相手をあやめても自分たち の利益を図ろうとする。絶対的な自由や平等とは真逆の、やっかいで現実に存在する「国」というもの。「国」って、そもそも何なのか?

ねそ(7)国というものの成り立ちが冷徹な現実として存在するとして、五輪がそのような国家概念の上に乗っかったものだとして、猫ひろしさんの挑戦を批判 する人は現状を肯定し、にゃあにゃあ走る猫さんを否定する。だけどね、たとえ2時間30分でも、体を張って走るの、大変なんだよ。

ねそ(8)猫ひろしさんの挑戦は、まさに、国とは何か、五輪とは何かという既成概念を揺るがし、もう一度考えさせるからこそ価値がある。揺るがないと、生 命はすぐに陳腐化する。猫さんの挑戦で、五輪に対する、そして何よりもカンボジアという国に対する関心が高まったのはよいことではないか。

ねそ(9)国や五輪の成り立ちについて考えさせる。猫ひろしさんの挑戦は、一つの「現代アート」と言える。そのことを言わずに、あくまでもまじめにマラソ ンに挑戦することが、一番価値があるだろう。「正論」を唱えて反対する人たちも、実際に猫さんが走っているのを見れば、心が動くと思うよ。

2012年4月4日水曜日

立ち止まるためのこだわりから、進むためのこだわりへ

たす(1)先日、4月2日に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、久しぶりに番組に参加させていただいた。@nhk_proffのスタッフの、相変わらずの濃密な仕事ぶりに感銘を受けた。番組のテーマは、「プロのこだわり」。番組の準備をしている中で、あることに気づいた。

たす(2)「こだわり」というと、世間では、なんとはなしに「頑固」だとか「融通が利かない」というような意味でとらえられることが多い。たとえば、「がんこ親父がかたくなに自分のやり方を守る」というような。しかし、『プロフェッショナル』が焦点を当てた「こだわり」は、少し違っていた。

たす(3)たとえば、すでにおいしいパンができているのに、さらにあるはずだ、もっとあるはずだと工夫を重ねる。レシピを、誰でも、どんな状況でも実行できるものへと「ヴァージョン・アップ」させていく。現状に満足せず、さらに先を目指す動機付けとしての「こだわり」があるのである。

たす(4)テレビのグルメ番組などで、「開店以来同じやりかたを貫いている」と紹介されるような時の「こだわり」は、いわば立ち止まり、踏みしめて、変わらないための「こだわり」である。それはそれで価値があることかもしれないが、進むための「こだわり」は、より現代的で、普遍的だ。

たす(5)今のやり方でも、よい成果が上がっている。周囲からも評価され、自分なりの充実感もある。それでも、「これではまだダメだ」という「根拠のない不満足」を持って、さらによいものを追求すること。そのような休むことのない魂のよりどころとしての「こだわり」が、番組では描かれた。

たす(6)スティーヴ・ジョブズは、たくさんのボタンがついていたスマートフォンの現状に満足しなかった。ボタンは一つ。そして、立ち上がるアプリに応じて、柔軟にボタンが配置されるような、そんな新しいかたちがあるはずだという「こだわり」が、iPhoneに結実した。

たす(7)メディアのありかた、大学のあり方、働きかた。生き方。日本の社会の中で、本当は変えた方がいいはずのものはたくさんあるはずだ。今までのやり方に固執する「こだわり」ではなく、よりよいやり方をあくまでも模索する「こだわり」を、みんながもっと持った方がよい。

たす(8)ジョブズさんもそうだったが、現状に満足しない、進むための「こだわり」を持つ人は、必ず現状と摩擦を起こす。それでも、安易に妥協せずに、自分のヴィジョンを信じて突き進むこと。現代社会に求められている「こだわり」は、そのようなダイナミックで熱き心だろう。

たす(9)進むための「こだわり」を持つためには、まずは自分のヴィジョンと、現実との「差分」に敏感であること。日本はそれなりに豊かな国になったが、まだまだ満足してはダメだ。「根拠のない不満足」を持ち続けて、突き進もう。「こだわり」を、立ち止まるためのいいわけにしてはいけない。

2012年4月3日火曜日

笑いの送り手は、いつも探っている

わい(1)アメリカで『となりのサインフェルド』(Seinfeld)という人気コメディ・ドラマの脚本、主演をしていたジェリー・サインフェルドは、スタンドアップ・コメディアン。彼が、笑いの新ネタを舞台にかけるときの心境について、次のような興味深い証言をしている。

わい(2)新しい笑いのネタを舞台にかけることは、外科医が練習をせずにいきなり手術をするようなものとサインフェルドは言う。果たして笑ってもらえるかどうか。その境界をぎりぎり探るのが、コメディアンの使命。それは微妙なバランスの行為。笑いはもともと不安や恐怖を起源とするからだ。

わい(3)笑いの進化的起源として有力な「偽の警告仮説」。危険が迫っている、と仲間に知らせたあとで、違っていたとわかったときに、笑って安心させる。男がバナナの皮にすべって転ぶという古典的な笑いの文法を見てもわかるように、あぶないところに突っ込んでいかないと、笑いは得られない。

わい(4)難しいのは、どのようなところまでは笑ってもらえて、どこからは笑ってもらえないのかという境界が、社会や文化、時代によって異なるということ。だから、笑いの送り手は、いつも危険な手探りをしなければならない。時には行き過ぎて傷を負うことがあっても、それは一つの勲章だ。

わい(5)イギリスの人気コメディ『リトル・ブリテン』の二人がきたとき、おもしろいことを言っていた。イギリスでは、伝統的に王室も笑いの対象とする。ところが、ダイアナ妃の事故死のあとは、しばらく、王室ネタの笑いが避けられる傾向があったという。何を笑ってもらえるかという境界は変動する。

わい(6)日本では、人種や国籍、宗教による差別や、格差の問題といった、社会の本当にきびしい側面についての笑いは避けられることが多い。これも、コメディアンの資質と同時に、「市場」の圧力を反映する。「笑ってもらえないんですよね。」あるテレビ関係者が、さびしそうに言っていた。

わい(7)そんな日本でも、笑いの天才、大御所たちはいつも「笑ってもらえる」と「笑ってもらえない」の境界をさぐっている。タモリさんやビートたけしさんと収録をご一緒すると、「これは放送では使えないだろう」というようなことを時々言われる。それが、スタジオが爆笑するほどおもしろい。

わい(8)たとえ、「最大公約数」という「市場」の圧力から見れば放送できないようなことでも、編集前の現場では、あえて話してみて反応を見る。そのような、ダイナミックな手探りをしないと、もともと「不安」や「恐怖」を起源とする「笑い」をいきいきと保つことはできない。

わい(9)「笑い」の効用は、ついつい凝り固まってしまう問題についての見方を柔軟にすることである。硬直した世界観を超えてやわらかな風が吹いてくるからこそ、笑いには恵みがある。だから、社会がついムキになったり、しびれてしまうようなネタこそを、笑いの対象にする価値がある。

わい(10)@nhk_pr さんのツイッター上での活動は、以前から注目、評価されていた。お堅いイメージのあるNHK。ユーモアをまじえたPRは、NHKの公共放送としての課題である「若者の接触率」向上に貢献していたという点において、「職務」の本分にそったものである。

わい(11)その@nhk_pr さんが、4月1日に送ったエイプリル・フールのツイートが、一部の人の苦情によって削除されたという。これは、残念なことである。まずは、笑いの本質から。見方が硬直化しがちなテーマについてこそ笑いの価値がある。@nhk_pr さんは、その境界を探ったのだ。

わい(12)苦情を寄せた方が、自分の良識や良心に沿って意見したことは信じる。しかし、笑いの本質として、必ず一部の人にはひんしゅくを買うような構造になっているということを、もっと社会の常識として共有したい。BBCで好評のコメディにも、イギリスの「良識派」から苦情は寄せられるのだ。

わい(13)いつもより長い連続ツイートを、そろそろまとめよう。笑いの起源は不安や恐怖である。そして、凝り固まった見方をほぐす点において、笑いは私たちの生命に資する。笑えるかどうかの境界はつねに探らなければならない。良識派の反発は、むしろ勲章だ。

2012年4月2日月曜日

ひとはひとりで生きるにあらず、国家も一国で生きるにあらず

ひこ(1)北朝鮮が「人工衛星」を打ち上げると予告している。国際社会との先の「合意」に違反する重大な挑発行為だと韓国、日本、米国などの関係国が反発している。懸念される事態なのはもちろんだが、私は例によって少し違う視点から気になることがあったので、今朝はそのことを考えてみたい。

ひこ(2)地球は小さな村になったが、未だに私たちはそれぞれの主権国家の中に住んでいる。ヨーロッパのように国家統合への試みを始めた先進的地域もあるが、世界のリアリティにおいては未だ「国家」が基本をなす。アメリカとカナダのようにほとんど同じじゃないかという場合も「国家」の壁がある。

ひこ(3)「主権国家」は、英語のsovereigntyという単語のニュアンスからもわかるように、ある地域においては絶対的な権限を持つ。たとえば、北朝鮮の政府にどんなに大きな問題点があるとしても、その「領土」の中では、とりあえずは他国の干渉を許さぬ、不可侵の権利を持つことになる。

ひこ(4)「主権国家」はどんな意志決定をしてもいいということになっている。実際、アメリカもロシアも中国も過去に核兵器を開発してきたし、それを地球上どこにでも「届ける」「運搬手段」たる長距離ミサイルも開発してきた。人類の平和を脅かす行為であるが、「主権国家」なのだから仕方がない。

ひこ(5)もし、地球上の主権国家が規模の大小、経済力、統治機構の性質にかかわらず「平等」ならば、アメリカやロシアが核兵器やミサイルを開発、保持するのが「自由」なように、北朝鮮がミサイルを開発、保持するのも「自由」なはずである。しかし、それでは困ると私たちは思っている。なぜか。

ひこ(6)関連する事情や、前提となる世界観は複雑で、中学校あたりでぜひ討論の材料にするべきだと思うが、ロシアやアメリカが核兵器やミサイルを保持することは許されるのに、北朝鮮がそうすることは許されない、という私たちの認識は、私たちの国際政治観を振り返る上で非常に興味深い。

ひこ(7)本質は、主権国家といえども国際的な関係性にあるということ。その国土の中では何をしてもいい、という「主権」の概念自体が、もう時代遅れなのだろう。人権原則に基づく働きかけは「内政干渉」ではないし、非民主的な政府の存在は、その国だけでなく地球全体にとっての脅威である。

ひこ(8)伝統的な意味での「主権」概念に基づく国内政治に比べて、国と国との関係を司る「国際政治」の比重が増している。この点から懸念されるのは、「回転ドア」と揶揄されるように、日本の首相の在任期間が短すぎること。官僚機構が継続性を支えるとは言っても、それは国内だけのことである。

ひこ(9)主権国家といえども、他国と継続的で実務的な交渉ができない場合は地球的「禁治産者」と同様である。北朝鮮政府がその禁治産者に近い扱いを受けることは仕方がないとして、気をつけないと日本政府も危ない。国内で、コップの中の嵐に右往左往している場合ではないだろう。

2012年4月1日日曜日

他の人と、違うことをすると活性化する脳回路の発見について

ほち(1)周知のように、前頭葉にはミラーニューロンがある。自分がある動作をしていても、他人が同じ動作をするのを見ていても活動する。以前から、他人の心を読み取る「心の理論」を支えることはわかっていたが、最近になって、感情と結びついた新しい機能を果たしていることが報告された。

ほち(2)すなわち、ミラーニューロンが、「安心」の感情と深く結びついていることがわかったのである。他人と自分が同じ行動をとっていると安心する。鏡に映したように、世間と自分の価値観が一致していると安心する。そんな働きを、ミラーニューロンが果たしていることがわかった。

ほち(3)ミラーニューロンの「安心」作用を国際的に比較した研究によると、日本人はとくに自他一致の際の活動が高いことがわかった。赤信号は通常「警告ニューロン」の活動を引き出すが、みんなで渡っていると、この警告ニューロンの活動が、ミラーニューロンによって抑制されることもわかった。

ほち(4)自分と他人が同じことをしているとほっとするミラーニューロンの「安心作用」には、個人差が大きい。一部の被験者では、違うことをやっていると発火する「警告ニューロン」の活動が低い。それどころか、むしろ他人と違うことをやっていないと不安になるという、希なケースもある。

ほち(5)米国の裁判所で、審判員の評決において11対1で反対し、昼食に他の人がみなチーズバーガーを頼んだのに一人だけフィレオフィシュを頼んだ被験者の脳を調べたところ、他人と違う行動をとった時にだけ、活動する神経細胞が見つかった。この被験者は、違う行動をとらないと満足しないのだ。

ほち(6)最近の研究によると、相対性理論を発表した当時のアルベルト・アインシュタインの行動には、「逆転ミラーニューロン」で説明できる点が多い。時間や空間について、世間と同じ認識をしているとむしろ安心できず、わざと違うことを考える、天の邪鬼な特性の記録が残っているのである。

ほち(7)アインシュタインは、高校をドロップアウトして、無国籍となってヨーロッパを放浪していた。教授を敬称で呼ばずに恨まれて、同級生の中で唯一職をもらえず干された。他人と違う行動をとることが報酬となる「逆転ミラーニューロン」の活動の結果と推定される。

ほち(8)文部科学省は、このような研究を受けて、「他の人と違うことをする」ことを評価する新教育指導要領の作成に着手した。評価する教員の側の基準もまちまちであり、文科省の指導に従うと、降格される。また、教科書検定において、指導要領外の内容があると花まるをつける運用を始めた。

ほち(9)他人と同じだと安心する脳と、違うことを報酬と感じる脳の差は、背外側前頭前皮質の近傍にある「逆転回路」の作用によってもたらされる。文科省は、今年度から、逆転回路を刺激する装置を各学校に配置することを決め、文部科学大臣室と、東京都教育委員会にはすでに配置を完了した。

2012年3月31日土曜日

もはやメジャーなんかない、みんなオタクでいいんだよ

もみ(1)あれは昨年の暮れの頃だったか、新聞を読んでいたら、「今年いちばん売れた」としてある本が紹介されていたのだけれども、タイトルも著者名も初見だった。へえ〜と思ったが、未だにどんな本なのか知らない。どうやらミステリーかサスペンスらしいんだけれども。

もみ(2)それで、昨日、ある大手出版社の編集者と打ち合わせしていて、「最近どうですか」と聞いたら、「いいんですよ!」と答えが返ってきた。それで、なんとかという本のタイトルを言って、「売れてます。ドラマにもなりましたから」と言うけれども、そのドラマの題名が初耳である。

もみ(3)私が怪訝な顔をしていると、編集者が、ちょっと不満そうに、「今クールで一番視聴率が高かったんですよ」と言ったが、知らないものは知らない。それで、話題は次に行ってしまったが、街を歩いているときに思いだして、ああ、世の中はもうそうなってしまっているんだなと思った。

もみ(4)かつては誰もが知っているヒット曲とか、ベストセラーがあったとはよく言われる話である。ところが、100万部とか売れても、もはやある「セグメント」の中のことでしかない。そのセグメントを外れると、誰も知らない。変化をもたらしたのは、インターネットと、グローバル化だろう。

もみ(5)ネットの発達によって、自分の志向に合った情報源に手軽に接することができるようになった。その結果、それぞれの小宇宙が発達した。逆に言えば、かつて「マスメディア」が時代の流行を作っていたときは、いかに「全体主義的」だったかということがわかる。

もみ(6)もともと、人間というものはそれぞれ見ている世界が異なる。同じ家族でも、食卓に座る場所によって光景は異なる。マスメディアの寡占がそもそも異常なことだったのであって、人類の文化史から見れば、ごく一時期の、特殊な状況だったということなのだろう。

もみ(7)100万部売れる「ミステリー」や、「今クールで一番視聴率の高いドラマ」だって、それに興味がない人はつきあう必要がない時代になった。逆に、インターネットは世界中の情報をもたらすから、日本のドラマよりもアメリカのドラマやイギリスのコメディに詳しい人が出て来る。

もみ(8)もともと、私の周囲ではトレンディ・ドラマに出ている俳優よりも、チューリングやゲーデルの方がよほどメジャーである。以前はそれでもマスメディアに付き合っていたが、困ったことにネットのお蔭で、自分の好きなチューリングやゲーデルの情報をいくらでも深掘りできるようになった。

もみ(9)アニメを深掘りする人も、趣味の植物を深掘りする人もいる。そして、その向こうに広がる小宇宙では、同好の士がおいでおいでをしている。比べるとマスメディアの最大公約数は薄味だ。結果として、メジャーだろうがそんなもの知らない、そんな時代になったのはおそらく歓迎すべきなのだろう。

2012年3月30日金曜日

日本で死刑廃絶の動きが弱いことについて

(1)昨日、小川敏夫法相の判断により、三人の死刑囚の死刑が執行された。これをきっかけに、ふたたび死刑についての議論が上がっている。この問題について、世間で議論されている論点とは少し異なる視点から、検討を加えてみたい。

(2)長年にわたって人権問題に取り組み、ノーベル平和賞も受けている団体アムネスティ・インターナショナルによれば、死刑制度を存続している国はむしろ少数派となりつつある。とりわけ、ヨーロッパ諸国では、死刑を行うこと自体が現代の人権原理にそぐわないという認識が定着している。

(3)死刑についての議論はむずかしい。被害者の方々の報復の感情は、人間として自然のものである。それを支持する世論もある。一方、一国の法制度が感情や世論だけで決まるわけではないことも事実である。実際、死刑を廃止した国でも、世論がそれを必ずしも支持していたわけではない。

(4)日本が死刑を存続させ、今や少数派になっても世論を含め廃絶への動きが鈍いことには、歴史的に見て注目すべき点がある。明治以来、日本はなんとか「文明国」の一員として認めてもらおうと努力してきた。不平等条約を撤廃し、対等に扱ってもらおうと、憲法をつくり近代国家のかたちを整えた。

(5)ヨーロッパを始めとする現代の「文明」の大勢が死刑廃止に動いている中、「文明化」をすることで世界の「一等国」の仲間入りをしたいというかつての日本の衝動からすれば、当然死刑廃止への動きが出てくるはずである。しかし、そうならないのはなぜか。おそらくな地政学的な要因がある。

(6)何よりも大きいのは、米国の存在である。「文明国」でありながら、米国の多くの州は死刑を存続させている。テキサス州など、確定・執行数が多い州も目立つ。日本にとって、米国は戦後よくもわるくも一つの「標準」であり、米国が死刑を存続させている限り、日本にとっての改変圧力は低い。

(7)さらに、アジア各国、とりわけ中国の存在がある。中国はアムネスティが指摘するように世界最大の死刑大国である。また、経済事犯や薬物犯にも死刑を適用する点において、米国に比べても特異な文化を持っている。薬物犯への死刑適用は、「先進国」であるはずのシンガポールにさえ存在する。

(8)「先進的」な人権思想を持つヨーロッパ諸国からすれば、「文明国」である日本が死刑を存続させているのは不思議に思えるだろう。しかし、日本の「同盟国」である「米国」が死刑を存続させ、中国を始めとするアジア諸国の刑法の特異性の中で、日本が死刑を廃絶させる地政学的圧力は弱い。

(9)ヨーロッパの人権思想を淵源とするアムネスティの活動が日本で広がらないのは、現代日本にとって「文明国」や「普遍的価値」といった符丁が、もはや抽象的、歴史的なものに過ぎないことを示す。そのことが日本という国の将来にとって何を意味するのか。近代は本当に終わりつつあるのだろう。