2012年6月20日水曜日

千両みかん、たばこの火

せた(1)古典落語には、いろいろなものがあるけれども、私が特に好きなものは、ナンセンス系なのかもしれない。私たちの社会の中で前提とされている「価値観」をゆるがし、もう一度最初から考えなおさせる。ナンセンスの無重力空間を、私たちは時に必要としている。そうじゃないと堅苦しくなる。

せた(2)ナンセンス落語の筆頭は、「千両みかん」だろう。大店の若旦那が病にたおれる。「やわらかくて、ふっくらとした」というから恋患いかと思ったら、「みかんが食べたい」という。番頭さん、お安いご用と引き受けたが、よく考えたら暑い夏の盛り。当時はみかんなどあるはずがない。

せた(3)若旦那が死んだら、お前も主殺しで死刑だと旦那に脅された番頭さん、必死になって大阪中を駆け回って、やっとみかん問屋で一個のみかんを見つける。ところが、千両だという。看板商品を切らさぬようにたくさん囲ってあって、そのうちたった一個腐らなかったやつだから、それだけするという。

せた(4)番頭さんは腰を抜かすが、旦那は「息子の命が助かるなら安い!」と千両バーンと出す。若旦那は「おいしい美味しい」とみかんを食べ元気を取り戻す。「ありがとう。みかんが、ここにまだ3房ある。お前と、父、母で1房ずつ食べておくれ。」そこで番頭さんは、はたと考える。

せた(5)「けちな旦那が、子どものためならたった10房のみかんに千両出す。来年私がのれん分けしてもらうのは、せいぜい100両だ。まてよ、ここに300両分のみかんがある。ええい、あとは野となれやまとなれだ」と、番頭さんはみかん3房を持って逃げ出す。実にすばらしい幕切れではないか。

せた(6)番頭さんの勘違いを笑うのは簡単である。みかん一個が1000両だというのは、夏の暑い盛りにみかんを食べたいと無理難題を言う、大店の若旦那がいて始めて成立する価格。しかし、そもそも価値とは何か。お金とは何か、ナンセンスだからこそ、『千両みかん』は考えさせる。

せた(7)『千両みかん』と並ぶ壮大なナンセンス噺が『たばこの火』。高級料亭でお金を貸してくれという質素な客を断る。実は大旦那。もし貸していたら、何倍にもお礼になって戻ってきたのに、と後で知り悔しがる。今度その客が来たらいくらでも貸せるようにと、大阪中のお金を集めて、用意しておく。

せた(8)やがてやってきたそのお客。お店の人は張り切って「いくらご用立ていたしましょう? 千両ですか? 一万両ですか?」と尋ねると、だんなは、涼しい顔で、「いや、たばこの火をちょっと貸してほしいのじゃ」。人間の欲を相対化する、すばらしいオチ。さわやかな風が吹く。

せた(9)ナンセンス噺としては、もう一つ、『はてなの茶碗』という名作がある。注目すべきは、『千両みかん』にせよ、『たばこの火』にしても、『はてなの茶碗』にしても、すべて上方落語。今日の吉本に通じるユーモアのセンスがそこに。堅苦しくなりがちな東京に対する、大阪のパワーがそこにある。

2012年6月19日火曜日

人間として、目を開けばいいんだよ

にめ(1)昨日、鳩山由紀夫さんの「サイエンス・フォーラム」に参加してお話した。いわゆるfund raisingの会合。以前から鳩山さんとはお目にかかっていろいろお話させていただいており、依頼されたときに喜んでうかがいますと答えた。プリンスホテルの会場は、いっぱいだった。

にめ(2)まずは私が30分話して、それから鳩山由紀夫さんとの対談であった。会場の後ろを見ると、各局のテレビカメラが並んでいたから、それじゃあ、少し「サービス」して、後半の対談では、いろいろメディアが聞きたいことを聞こうかと思い、消費税、民主党、その他いろいろ鳩山さんに伺った。

にめ(3)鳩山さんは、逃げたりごまかしたりすることなく、とても真摯にお答えになった。どんなニュースになるか、と思って今朝ネットをチェックしてみると、いくつか記事になっている。その字面を眺めていて、以前から感じていたマスコミの問題点が、改めて胸に迫ってきた。

にめ(4)記者クラブや、「政局部」の弊害については言い尽くされた感がある。しかし、そこには生身の記者がいるはずだ。ところが、政治記事の「定型性」の中に閉じ込められて、記者たちの生の感性が伝わってこない。まるで人工知能、あるいはゾンビのような記事になってしまっているのだ。

にめ(5)「天声人語」が、花鳥風月を論じている間はそれなりに読めるが、政治ネタになった瞬間に力を失うように、定型性の限界は、記者たちが現場で感じたことによって突破されるしかない。ところが、日本の政治記事は、カテゴリーとして、ありきたりの型に押し込められるため、感動がないのだ。

にめ(6)昨日、鳩山由紀夫さんとお話していて、はっとした瞬間がある。鳩山さんが、「ぼくのように、既得権益を何とか打破しようと思い詰めて行動している人間を、マスコミはどうしても・・」と言われたその時。私はひとりの人間の「魂」に触れたような気がして、はっと鳩山さんを見た。

にめ(7)考えてみれば、鳩山由紀夫さんほどの「エスタブリッシュメント」はそれほどいない。その鳩山さんが、「既得権益」にメスを入れようと思い詰めた、その理由は何か。その点にこそ、鳩山由紀夫という政治家を理解する上での核心があるのに、記者クラブメディアの定型性はそれを伝えない。

にめ(8)まずはシロアリ退治をしようと政権をとったのに、シロアリ退治をする前に消費税増税に走ってしまっている現状。そんな民主党の現在に対し、日本を改革しようと民主党をつくった鳩山さんは当然いらだっているはずだし、その感触を伝えるメディアがあっていいのに、相変わらず無味乾燥な記事。

にめ(9)別に記者クラブがあっていい。一人ひとりの記者が、生身の人間ならば。ゾンビのように定型的な記事を垂れ流すがゆえに、日本の政治記事はつまらない。伝わるべき情報が、伝わっていない。それが、閉鎖性ゆえの談合体質、競争の不在に起因しているならば、開いて新しい空気を入れるしかない。

2012年6月18日月曜日

かえってきた、フェイスブック

かふ(1)twitterの面白さは、ある問題についてさまざまな角度からの意見や考えが得られることで、「ミーム」の淘汰、進化には適している。それに比べて、フェイスブックは、ゆるくて、まったりしていて、それが不満である、ということはこの欄でも何回か申し上げた次第。

かふ(2)ところが、人間の気分というのは不思議なもので、丁々発止、キッタハッタの論争、泥仕合に疲れてきたな、と思う季節が訪れた。この二年くらい、twitter上でさまざまな議論をしてきたが、それだけだと人生イヤだな、と思うようになった。とりわけ、正解のない問題について。

かふ(3)世の中には、こんな奇妙な考えをする人がいるんだ、感情の勢いをのせてしまうことがあるんだ、人を罵倒し、風刺して自分は匿名でふふふしている人がいるんだ、というのはサンプリングとしては面白いものの、それはこっちが元気なうちで、疲れてくるとうっとうしくなる。

かふ(4)それで、二三日前から、フェイスブックで少し長めの文章を載せ始めて(http://www.facebook.com/ken.mogi.1)気づいたことがある。フェイスブックは、市場性のないもの(あるいは小さいもの)を、ゆっくりと、穏やかに、育んでいくのには適した媒体であると。

かふ(5)もともと、フェイスブックに対する不満は、それが仲間内の写真の見せ合いや、日常のつぶやきを「イイネ!」とするゆるい場になりがちだ、という事だった。しかし、違う視点もあることに気づいた。それは、例えば、一つのコンサートの準備のプロセスについて考察すると見えてくる。

かふ(6)コンサートという一つの「作品」をつくる際には、当然そのことに「関心」がある人たちが劇場を占める。興味もない人や、反対派や、匿名の皮肉屋がそこにいたら、創造のオーラが失われる。そして、市場性がある必要はかならずしもない。むしろ、マイナーなことでいい。

かふ(7)自分が何をたべたとか、誰に会ったとか、そのようなことはもともと「マイナー」な私的領域である。しかし、それ以外にも私的領域はある。世間を騒がせるような大きな出来事以外にも、長い目で見ると、大切なことの種が、たくさんあって、それを育むには温かいコミュニティが必要だ。

かふ(8)過去1年間、日本社会を分断してきたさまざまな問題は、確かに重要であり、twitter上の重要な案件であった。しかし、世界はそのようなことだけで出来ているのではない。もっとゆっくり、小さく、育んでいくべき大切なことがある。twitterを炎上させるような市場性はないけど。

かふ(9)市場性のないことを、ゆっくりと、育んでいく。必ずしも日常生活のような私的なことではなく、むしろ文化的なこと、概念的なこと。そのようなかたちでフェイスブックを使うとしたら、有意義だということに気づいた。それはつまり、私自身がそちらの方に回帰していく兆しなのだろう。

2012年6月17日日曜日

ダンヒルのライターだったということが、大切なんだよ

だた(1)新潮社で、小林秀雄さんの担当の編集者をされた池田雅延さんに、いろいろなことを教えていただいている。池田さんが朝日カルチャーセンターで小林さんのことを語った時の音声が、私の弟子の野澤真一が運営しているもぎけんPodcastにある。http://bit.ly/LWmXPv

だた(2)その池田さんに、小林秀雄さんのことをご講義いただく「池田塾」が始まって、5回を数えた。池田さんが凛としたたたずまいで、生前の小林秀雄さんのことを含めて、さまざまなことを教えて下さっている。池田さんがテクストに選ばれたのは、「美を求める心」。この文章を、一年かけて読む。

だた(3)池田さんによれば、難解だと思われがちな小林秀雄の文章ではあるが、「美を求める心」は、その小林さんが中学生でもわかるように書いた、一つの文章の到達点。そして、もっとも大切なことが、その中に書かれているのだという。この長くはない文章を、一年かけてじっくり読んでいくのだ。

だた(4)昨日読んだ箇所に、ダンヒルのライターの話があった。小林さんが自宅のテーブルの上に、ダンヒルのライターを置いておく。お客さんはそれをとりあげるが、「ライターか」「ダンヒルですね」と言って、それ以上見ようとしない。その美しさに、関心を払わない。

だた(5)「ダンヒルのライター」という、ラベルや機能を把握しただけで、満足してしまう怠慢さが人間の中にはある。それ以上に対象に向き合えるか。小林さんが書かれていることは、現代的な用語で言えばクオリアの問題であり、現象学的なエポケーの問題であると思う。

だた(6)ここで大切なのは、それがダンヒルのライターだったということである。名前や機能を超えて対象にきちんと向き合うことは、観念的に語ることもできる。しかし、それを「ダンヒルのライター」という具体的な例に託して語っている点に、小林秀雄の人生の一回性も、表現の工夫もあると思う。

だた(7)そんなことを池田さんや塾生に言ったら、池田さんが話をして下さった。小林秀雄さんは、1954年だったか、戦後、初めての外国旅行に行く。当時は外貨制限もあり、難しかったので、朝日新聞が特派員にしてくれて、今日出海さんと半年ヨーロッパに行ったのだという。

だた(8)出発前、小林秀雄さんは、「観念でいっぱいになったヨーロッパを見てくる」という意味のことを言われたのだという。文学や絵画で通暁したヨーロッパの文化に、実際に触れる。現地に行った小林さんは、ルーブルだけで3日も通って、徹底的に絵画を見る。そんな中でダンヒルとの出会いがある。

だた(9)だから、ダンヒルのライターだった。観念だったヨーロッパの文化が、生活や現物に落ちてきた、その象徴としての、また自身の人生の履歴としてのダンヒルのライター。誰の人生にも、ダンヒルのライターはあるだろう。問題は、抽象的な観念に満足せずに、それに向き合うことができるかだ。

2012年6月16日土曜日

著作権法改正案は、誰を保護しようとしているのか

ちだ(1)グーグルのオフィス。スライドを、ほとんど一秒ごとに変えながら、早口でまくし立てる、眼鏡をかけた男がいる。「amvって知っているか? そうか、グーグルの人たちに教えることがあるなんてうれしいよ」会場爆笑。男は、アニメを編集して、音楽をつけたremix作品を見せ始めた。

ちだ(2)男の名前は、ローレンス・レッシグ。ハーバード大学で法学の教授をつとめる。ロースクールでも教鞭をとる。レッシグは、インターネット時代における著作権のあり方についての論客である。オープンでフリーなネットの文化。そこで起こっている新しい事象に着目する。

ちだ(3)レシッグのグーグル講演(http://bit.ly/LOFfRD)の文明観を昨日衆議院で成立した著作権法改正案を比べると後者の恐竜ぶりに絶望する。米国にも、保守主義者がいないわけではない。問題は、日本には例えば東大法学部にレシッグのような新文明の論客がいないことだろう。

ちだ(4)そもそも、著作権法改正案は、誰を保護しようとしているのか? 音楽を例にとれば、作曲家や演奏家がフェアな報酬を得ることは当然である。しかし、どのように生活するかという「ビジネス・モデル」は、時代とともに変わる。ネットに音楽があふれていても、人々はライブにかけつける。

ちだ(5)実際、ライヴ・コンサートには人が詰めかけている。ロック・フェスは盛況である。音楽家が生活していく方法は、時代とともに変わる。CDやDVDが売れないという。それが、音楽や映画という産業の育成において、本当にそんなに問題なのか?

ちだ(6)インターネットは、「中間業者」を淘汰する文明の波である。音楽家がいる。聴衆がいる。本質はそれだけ。CDをつくったり、DVDを売ったりする人たちに、固有の「権利」があるわけではない。時代の流れとともに市場構造が変わるのは当たり前。法律は既得権益を守るためにあるのではない。

ちだ(7)新しい技術が出てきた時に、権利の保護と、情報流通の自由をどのように調和するか。重要な問題である。だからこそ、既得権益者の声だけで、罰則規定があるような法律を作るべきではない。それは、一つの「恐竜の愚行」であろう。もっとも高度な文明観が必要とされる分野なのだ。

ちだ(8)このような法案は、本来、議員たちがさまざまな専門家にヒヤリングして、議論を尽くし、文明を先に進めつつ本当に保護されるべき人たちが保護されるような形にすべき。文部科学省が改正案を提出するというのは最悪の選択である。役人たちは、その本質において保守的なものだからだ。

ちだ(9)いろいろな考え方があっていい。しかし、日本には、レッシグのような論客、文明観がもっと必要。昨日、衆議院で文部科学省提出の著作権法改正案が成立したことは、はからずも、日本がインターネットという文明の波を作り出す側ではなく、もたもた遅れてついていく国であることを示した。

2012年6月15日金曜日

肩書きや組織ではない、安全基地を鍛えよ!

かあ(1)あなたの脳が、健康な状態かどうか、簡単に判別できるテストがある。人生においては、不確実性が避けられない。あなたは、これから人生で起こる不確実性が、不安ですか? それとも、楽しみですか? この問いに対する答えで、あなたの脳の健康度がわかる。

かあ(2)これからの人生の不確実性が、楽しみだという人は、脳が健康な状態にある。一方、不安だという方は、これから書くことを参考にして、自分の人生を見直してほしい。不確実性を楽しむことができるようになってこそ、人間は発展ができるし、幸せな人生を送ることができるのである。

かあ(3)もともと、何が起きるかわからないということは楽しみなことである。子どもの頃、遠足にの前の日はわくわくしてなかなか眠れなかったのではないか? 明日、どんな経験が待っているかわからない。その不確実性が、脳を刺激して、眠れないほど興奮するのである。

かあ(4)子どもの頃は、「人生で初めて」のことがあふれているから、脳もそれに根拠のない自信を持って向き合える。ところが、大人になると、大抵のことは経験済みになる。そのために、不確実なこと、新しいことが苦手な人が出てくる。その気になれば、勝手を知った「村社会」に引きこもれるからだ。

かあ(5)不確実性に向き合うためには、「根拠のない自信」が必要である。そして、根拠のない自信を支えるのが、「安全基地」。子どもが新しいことにチャレンジできるのも、保護者が見守るという「安全基地」が、ある程度の確実性の基盤を与えてくれるからである。

かあ(6)大人になっても同じこと。自分の中に、スキルや経験、価値観などの揺るぎない安全基地がある人は、臆することなく不確実性に向き合える。不確実性が不安だという人は、自分自身の安全基地をもう一度点検してみてはどうだろう。確実性と不確実性の脳内ポルトフォリオを見直すのである。

かあ(7)問題は、何が自分の「安全基地」になるか。「肩書き」や「組織」といった、日本社会で従来安心のもととなってきた属性は、変化の時代には役に立たない。むしろ、そのような村社会的なよりどころは、激変の時代には邪魔になる。個人の発展を阻害し、社会を停滞させてしまう。

かあ(8)組織や肩書き、学歴といったラベルではなく、実質的な経験、知識、スキルへと「安全基地」を移行していくこと。この「体重移動」に成功している人は、どんなに変化があっても不安には感じない。むしろ、不確実性をこちらから迎えにいくくらいの勢いで、時代を疾走していけるのだ。

かあ(9)肩書き、組織に依存しない自分自身の安全基地を内在化させるためには、「ホーム」だけでなく「アウェイ」の闘いを経験することが必要である。自分自身が何者であるか、実力で示さなければならない現場。「部長」が「ただのおじさん」になるようなアウェイでこそ、「根拠のない自信」が輝く。

2012年6月14日木曜日

いきなりトップスピードは、水道から水が出るようなものである

いす(1)先日、マイケル・サンデルさんの授業の収録でNHKに行った時のこと(番組は好評で、BS1で、6月17(日)午前1時から2時49分(16日(土)の深夜) に再放送されるそうです!)。一つ、びっくりしたことがあった。サンデルさんが入ってきて、いきなり収録が始まったのだ。

いす(2)丸いセットにサンデルさんが歩み入ると、間髪を入れず、本題を切り出した。その様子を見ていて、ああ、サンデルさんは「役者」でもあるのだと思った。ハーバードの『ジャスティス』の授業は、一つの演劇でもある。そして、いきなりトップスピードに入るのだ。

いす(3)いきなりトップスピードに入る、というと思い出すのがタイガー・ジェット・シンである。猪木が花束贈呈を受けていると、サーベルで殴りかかる。段取りや根回しなしで瞬時に本題に入る。その生命のリズムが心地よくて、私は子どもの頃シンのファイトを見るのが大好きだった。

いす(4)橋下徹さんもいきなりトップスピードの人である。記者会見などを見ていると、会見場に入ってくるなり、いきなり本題に入る。あのスピード感が、従来の政治家のもたもたした感じから一線を画していて、好感を持てる。あのリズムでやらないと、疾走する現代においては適応できないと思う。

いす(5)そして、話題のTEDもまたいきなりトップスピードのスタイルであることは言うまでもない。もともと各スピーカーに割り当てられた時間が短いが、その時間を一秒もムダにしないように、すぐに本題に入る。日本のモタモタ、うだうだのスピーチを見慣れた人にとっては、剛速球に見えるだろう。

いす(6)パブリックな現場でいきなりトップスピードの人を見ると好感が持てるのは、ふだんもそうだと推論できるから。サンデルさんがハーバードの部屋で仕事をする時、おそらく座ってすぐに没頭するのだろう。他人の目に見えるところでいきなりトップスピードの人は、誰がいなくてもそうしている。

いす(7)逆に、パブリックでうだうだ、もたもた、根回し、段取りの人を見ていると、一人で仕事をしている時にも同じなのだろうと推論が働く。人が見ていないところで何をやるかが圧倒的に大きな意味を持つ。だからこそ、他人が見ている時くらい、うだうだもたもたしてはいけないのだ。

いす(8)いきなりトップスピード、というと、難しそうだが、要は脱抑制。抑制を外してあげれば、あとは蛇口から水が出るように簡単にできる。いきなりトップスピードができる人は、脱抑制の達人である。うだうだもたもたの人は、自分だけでなく他人も抑制する。だから迷惑である。

いす(9)日本人が脱抑制が比較的ヘタなのは、子どもの頃からちいちいぱっぱで抑制しておとなしくすることばかり学んでいるだろう。日本の世直しのために一番必要なことは、賢く脱抑制することを学ぶことかもしれぬ。いきなりトップスピードの練習を、誰も見ていない時からやるように心がけよう。