2012年6月12日火曜日

あらためて、レディについて

あれ(1)昨日、紳士とレディの条件についてツイートしたら、多くの反響があった。どんな理不尽なことでも黙って受け入れる忍耐強さが紳士の条件である。一方、相手がある女性をレディとして扱った瞬間にレディとなるのだとツイートしたら、特に後者について、数々の疑問が寄せられた。

あれ(2)それでは、レディになるのは他人任せで、自発的なものではないかという疑問である。もっともな疑問であるし、そんなはずがないので、今朝は、「レディ」の条件について、改めて補足(clarification)をしてみたいと思う。

あれ(3)まず、レディは紳士と同じ資質を持つことは、男女とも人間なのだから当然である。その典型は、BBCの『サンダーバード』に出て来るレディ・ペネロープ。どんなに困難な状況下でも、決してその朝の湖のような静けさを失わない。淡々と物事に当たっている。

あれ(4)レディには、プリンシプルがある。日本で言えば白洲正子さんがそうだろう。韋駄天お正と言われながらも、凛と筋を貫く。レディ・ペネロープも、白洲正子さんも、ジェントルマンに通じる芯の確からしさがある。本質においては、男と女の区別はない。若干のスタイルの違いがあるだけだ。

あれ(5)綺麗な格好はレディの条件ではない。私が大学院生の時、隣の研究室で実験補助をしていた女性は、当時60歳くらい。正真正銘のレディだった。いつも長靴を履いて、ショウジョウバエの実験に使う試験管を洗っていた。その一方で、彼女はホームレスの方への炊き出しをされていたのである。

あれ(6)結局、レディは、内面の美しさがにじみ出るのだと思う。ショウジョウバエの試験管を大量に洗いながら、にこやかに今度の日曜の公園での炊き出しの話をされるその方は、神々しいまでのレディだった。そのありさまは、一つの神話的光景として、私の心に焼き付いている。

あれ(7)「女性にレディとして接した瞬間に、その女性はレディとなる」というのは、世の男性諸君に対する戒めであり、自らへの戒めでもある。レディとして接したときに、その女性の最も美しい内面が引き出されるのだ。そのことを、世の男性諸君は肝に銘じていなければならない。

あれ(8)最後に、おとぎ話を一つ。取材でアイラ島に行った時に会ったフィオナ・ミドルトンは、アザラシの前でヴァイオリンを弾くという不思議な女性だったが、西風の中に立っているようなレディーだった。私が脳科学者だと知ると、「私のこと、おかしいと思う?」とフィオナは言って笑った。

あれ(9)これは、個々人で見解の異なるところかもしれないが、レディには、森の中から出てきたような不思議さがあると、より好ましい。最近の「森ガール」という言葉は、レディの本質をとらえた言葉であると、私は考える。アザラシの前でヴァイオリンを構えたフィオナは、レディの典型だった。