2012年6月20日水曜日

千両みかん、たばこの火

せた(1)古典落語には、いろいろなものがあるけれども、私が特に好きなものは、ナンセンス系なのかもしれない。私たちの社会の中で前提とされている「価値観」をゆるがし、もう一度最初から考えなおさせる。ナンセンスの無重力空間を、私たちは時に必要としている。そうじゃないと堅苦しくなる。

せた(2)ナンセンス落語の筆頭は、「千両みかん」だろう。大店の若旦那が病にたおれる。「やわらかくて、ふっくらとした」というから恋患いかと思ったら、「みかんが食べたい」という。番頭さん、お安いご用と引き受けたが、よく考えたら暑い夏の盛り。当時はみかんなどあるはずがない。

せた(3)若旦那が死んだら、お前も主殺しで死刑だと旦那に脅された番頭さん、必死になって大阪中を駆け回って、やっとみかん問屋で一個のみかんを見つける。ところが、千両だという。看板商品を切らさぬようにたくさん囲ってあって、そのうちたった一個腐らなかったやつだから、それだけするという。

せた(4)番頭さんは腰を抜かすが、旦那は「息子の命が助かるなら安い!」と千両バーンと出す。若旦那は「おいしい美味しい」とみかんを食べ元気を取り戻す。「ありがとう。みかんが、ここにまだ3房ある。お前と、父、母で1房ずつ食べておくれ。」そこで番頭さんは、はたと考える。

せた(5)「けちな旦那が、子どものためならたった10房のみかんに千両出す。来年私がのれん分けしてもらうのは、せいぜい100両だ。まてよ、ここに300両分のみかんがある。ええい、あとは野となれやまとなれだ」と、番頭さんはみかん3房を持って逃げ出す。実にすばらしい幕切れではないか。

せた(6)番頭さんの勘違いを笑うのは簡単である。みかん一個が1000両だというのは、夏の暑い盛りにみかんを食べたいと無理難題を言う、大店の若旦那がいて始めて成立する価格。しかし、そもそも価値とは何か。お金とは何か、ナンセンスだからこそ、『千両みかん』は考えさせる。

せた(7)『千両みかん』と並ぶ壮大なナンセンス噺が『たばこの火』。高級料亭でお金を貸してくれという質素な客を断る。実は大旦那。もし貸していたら、何倍にもお礼になって戻ってきたのに、と後で知り悔しがる。今度その客が来たらいくらでも貸せるようにと、大阪中のお金を集めて、用意しておく。

せた(8)やがてやってきたそのお客。お店の人は張り切って「いくらご用立ていたしましょう? 千両ですか? 一万両ですか?」と尋ねると、だんなは、涼しい顔で、「いや、たばこの火をちょっと貸してほしいのじゃ」。人間の欲を相対化する、すばらしいオチ。さわやかな風が吹く。

せた(9)ナンセンス噺としては、もう一つ、『はてなの茶碗』という名作がある。注目すべきは、『千両みかん』にせよ、『たばこの火』にしても、『はてなの茶碗』にしても、すべて上方落語。今日の吉本に通じるユーモアのセンスがそこに。堅苦しくなりがちな東京に対する、大阪のパワーがそこにある。

2012年6月19日火曜日

人間として、目を開けばいいんだよ

にめ(1)昨日、鳩山由紀夫さんの「サイエンス・フォーラム」に参加してお話した。いわゆるfund raisingの会合。以前から鳩山さんとはお目にかかっていろいろお話させていただいており、依頼されたときに喜んでうかがいますと答えた。プリンスホテルの会場は、いっぱいだった。

にめ(2)まずは私が30分話して、それから鳩山由紀夫さんとの対談であった。会場の後ろを見ると、各局のテレビカメラが並んでいたから、それじゃあ、少し「サービス」して、後半の対談では、いろいろメディアが聞きたいことを聞こうかと思い、消費税、民主党、その他いろいろ鳩山さんに伺った。

にめ(3)鳩山さんは、逃げたりごまかしたりすることなく、とても真摯にお答えになった。どんなニュースになるか、と思って今朝ネットをチェックしてみると、いくつか記事になっている。その字面を眺めていて、以前から感じていたマスコミの問題点が、改めて胸に迫ってきた。

にめ(4)記者クラブや、「政局部」の弊害については言い尽くされた感がある。しかし、そこには生身の記者がいるはずだ。ところが、政治記事の「定型性」の中に閉じ込められて、記者たちの生の感性が伝わってこない。まるで人工知能、あるいはゾンビのような記事になってしまっているのだ。

にめ(5)「天声人語」が、花鳥風月を論じている間はそれなりに読めるが、政治ネタになった瞬間に力を失うように、定型性の限界は、記者たちが現場で感じたことによって突破されるしかない。ところが、日本の政治記事は、カテゴリーとして、ありきたりの型に押し込められるため、感動がないのだ。

にめ(6)昨日、鳩山由紀夫さんとお話していて、はっとした瞬間がある。鳩山さんが、「ぼくのように、既得権益を何とか打破しようと思い詰めて行動している人間を、マスコミはどうしても・・」と言われたその時。私はひとりの人間の「魂」に触れたような気がして、はっと鳩山さんを見た。

にめ(7)考えてみれば、鳩山由紀夫さんほどの「エスタブリッシュメント」はそれほどいない。その鳩山さんが、「既得権益」にメスを入れようと思い詰めた、その理由は何か。その点にこそ、鳩山由紀夫という政治家を理解する上での核心があるのに、記者クラブメディアの定型性はそれを伝えない。

にめ(8)まずはシロアリ退治をしようと政権をとったのに、シロアリ退治をする前に消費税増税に走ってしまっている現状。そんな民主党の現在に対し、日本を改革しようと民主党をつくった鳩山さんは当然いらだっているはずだし、その感触を伝えるメディアがあっていいのに、相変わらず無味乾燥な記事。

にめ(9)別に記者クラブがあっていい。一人ひとりの記者が、生身の人間ならば。ゾンビのように定型的な記事を垂れ流すがゆえに、日本の政治記事はつまらない。伝わるべき情報が、伝わっていない。それが、閉鎖性ゆえの談合体質、競争の不在に起因しているならば、開いて新しい空気を入れるしかない。

2012年6月18日月曜日

かえってきた、フェイスブック

かふ(1)twitterの面白さは、ある問題についてさまざまな角度からの意見や考えが得られることで、「ミーム」の淘汰、進化には適している。それに比べて、フェイスブックは、ゆるくて、まったりしていて、それが不満である、ということはこの欄でも何回か申し上げた次第。

かふ(2)ところが、人間の気分というのは不思議なもので、丁々発止、キッタハッタの論争、泥仕合に疲れてきたな、と思う季節が訪れた。この二年くらい、twitter上でさまざまな議論をしてきたが、それだけだと人生イヤだな、と思うようになった。とりわけ、正解のない問題について。

かふ(3)世の中には、こんな奇妙な考えをする人がいるんだ、感情の勢いをのせてしまうことがあるんだ、人を罵倒し、風刺して自分は匿名でふふふしている人がいるんだ、というのはサンプリングとしては面白いものの、それはこっちが元気なうちで、疲れてくるとうっとうしくなる。

かふ(4)それで、二三日前から、フェイスブックで少し長めの文章を載せ始めて(http://www.facebook.com/ken.mogi.1)気づいたことがある。フェイスブックは、市場性のないもの(あるいは小さいもの)を、ゆっくりと、穏やかに、育んでいくのには適した媒体であると。

かふ(5)もともと、フェイスブックに対する不満は、それが仲間内の写真の見せ合いや、日常のつぶやきを「イイネ!」とするゆるい場になりがちだ、という事だった。しかし、違う視点もあることに気づいた。それは、例えば、一つのコンサートの準備のプロセスについて考察すると見えてくる。

かふ(6)コンサートという一つの「作品」をつくる際には、当然そのことに「関心」がある人たちが劇場を占める。興味もない人や、反対派や、匿名の皮肉屋がそこにいたら、創造のオーラが失われる。そして、市場性がある必要はかならずしもない。むしろ、マイナーなことでいい。

かふ(7)自分が何をたべたとか、誰に会ったとか、そのようなことはもともと「マイナー」な私的領域である。しかし、それ以外にも私的領域はある。世間を騒がせるような大きな出来事以外にも、長い目で見ると、大切なことの種が、たくさんあって、それを育むには温かいコミュニティが必要だ。

かふ(8)過去1年間、日本社会を分断してきたさまざまな問題は、確かに重要であり、twitter上の重要な案件であった。しかし、世界はそのようなことだけで出来ているのではない。もっとゆっくり、小さく、育んでいくべき大切なことがある。twitterを炎上させるような市場性はないけど。

かふ(9)市場性のないことを、ゆっくりと、育んでいく。必ずしも日常生活のような私的なことではなく、むしろ文化的なこと、概念的なこと。そのようなかたちでフェイスブックを使うとしたら、有意義だということに気づいた。それはつまり、私自身がそちらの方に回帰していく兆しなのだろう。

2012年6月17日日曜日

ダンヒルのライターだったということが、大切なんだよ

だた(1)新潮社で、小林秀雄さんの担当の編集者をされた池田雅延さんに、いろいろなことを教えていただいている。池田さんが朝日カルチャーセンターで小林さんのことを語った時の音声が、私の弟子の野澤真一が運営しているもぎけんPodcastにある。http://bit.ly/LWmXPv

だた(2)その池田さんに、小林秀雄さんのことをご講義いただく「池田塾」が始まって、5回を数えた。池田さんが凛としたたたずまいで、生前の小林秀雄さんのことを含めて、さまざまなことを教えて下さっている。池田さんがテクストに選ばれたのは、「美を求める心」。この文章を、一年かけて読む。

だた(3)池田さんによれば、難解だと思われがちな小林秀雄の文章ではあるが、「美を求める心」は、その小林さんが中学生でもわかるように書いた、一つの文章の到達点。そして、もっとも大切なことが、その中に書かれているのだという。この長くはない文章を、一年かけてじっくり読んでいくのだ。

だた(4)昨日読んだ箇所に、ダンヒルのライターの話があった。小林さんが自宅のテーブルの上に、ダンヒルのライターを置いておく。お客さんはそれをとりあげるが、「ライターか」「ダンヒルですね」と言って、それ以上見ようとしない。その美しさに、関心を払わない。

だた(5)「ダンヒルのライター」という、ラベルや機能を把握しただけで、満足してしまう怠慢さが人間の中にはある。それ以上に対象に向き合えるか。小林さんが書かれていることは、現代的な用語で言えばクオリアの問題であり、現象学的なエポケーの問題であると思う。

だた(6)ここで大切なのは、それがダンヒルのライターだったということである。名前や機能を超えて対象にきちんと向き合うことは、観念的に語ることもできる。しかし、それを「ダンヒルのライター」という具体的な例に託して語っている点に、小林秀雄の人生の一回性も、表現の工夫もあると思う。

だた(7)そんなことを池田さんや塾生に言ったら、池田さんが話をして下さった。小林秀雄さんは、1954年だったか、戦後、初めての外国旅行に行く。当時は外貨制限もあり、難しかったので、朝日新聞が特派員にしてくれて、今日出海さんと半年ヨーロッパに行ったのだという。

だた(8)出発前、小林秀雄さんは、「観念でいっぱいになったヨーロッパを見てくる」という意味のことを言われたのだという。文学や絵画で通暁したヨーロッパの文化に、実際に触れる。現地に行った小林さんは、ルーブルだけで3日も通って、徹底的に絵画を見る。そんな中でダンヒルとの出会いがある。

だた(9)だから、ダンヒルのライターだった。観念だったヨーロッパの文化が、生活や現物に落ちてきた、その象徴としての、また自身の人生の履歴としてのダンヒルのライター。誰の人生にも、ダンヒルのライターはあるだろう。問題は、抽象的な観念に満足せずに、それに向き合うことができるかだ。

2012年6月16日土曜日

著作権法改正案は、誰を保護しようとしているのか

ちだ(1)グーグルのオフィス。スライドを、ほとんど一秒ごとに変えながら、早口でまくし立てる、眼鏡をかけた男がいる。「amvって知っているか? そうか、グーグルの人たちに教えることがあるなんてうれしいよ」会場爆笑。男は、アニメを編集して、音楽をつけたremix作品を見せ始めた。

ちだ(2)男の名前は、ローレンス・レッシグ。ハーバード大学で法学の教授をつとめる。ロースクールでも教鞭をとる。レッシグは、インターネット時代における著作権のあり方についての論客である。オープンでフリーなネットの文化。そこで起こっている新しい事象に着目する。

ちだ(3)レシッグのグーグル講演(http://bit.ly/LOFfRD)の文明観を昨日衆議院で成立した著作権法改正案を比べると後者の恐竜ぶりに絶望する。米国にも、保守主義者がいないわけではない。問題は、日本には例えば東大法学部にレシッグのような新文明の論客がいないことだろう。

ちだ(4)そもそも、著作権法改正案は、誰を保護しようとしているのか? 音楽を例にとれば、作曲家や演奏家がフェアな報酬を得ることは当然である。しかし、どのように生活するかという「ビジネス・モデル」は、時代とともに変わる。ネットに音楽があふれていても、人々はライブにかけつける。

ちだ(5)実際、ライヴ・コンサートには人が詰めかけている。ロック・フェスは盛況である。音楽家が生活していく方法は、時代とともに変わる。CDやDVDが売れないという。それが、音楽や映画という産業の育成において、本当にそんなに問題なのか?

ちだ(6)インターネットは、「中間業者」を淘汰する文明の波である。音楽家がいる。聴衆がいる。本質はそれだけ。CDをつくったり、DVDを売ったりする人たちに、固有の「権利」があるわけではない。時代の流れとともに市場構造が変わるのは当たり前。法律は既得権益を守るためにあるのではない。

ちだ(7)新しい技術が出てきた時に、権利の保護と、情報流通の自由をどのように調和するか。重要な問題である。だからこそ、既得権益者の声だけで、罰則規定があるような法律を作るべきではない。それは、一つの「恐竜の愚行」であろう。もっとも高度な文明観が必要とされる分野なのだ。

ちだ(8)このような法案は、本来、議員たちがさまざまな専門家にヒヤリングして、議論を尽くし、文明を先に進めつつ本当に保護されるべき人たちが保護されるような形にすべき。文部科学省が改正案を提出するというのは最悪の選択である。役人たちは、その本質において保守的なものだからだ。

ちだ(9)いろいろな考え方があっていい。しかし、日本には、レッシグのような論客、文明観がもっと必要。昨日、衆議院で文部科学省提出の著作権法改正案が成立したことは、はからずも、日本がインターネットという文明の波を作り出す側ではなく、もたもた遅れてついていく国であることを示した。

2012年6月15日金曜日

肩書きや組織ではない、安全基地を鍛えよ!

かあ(1)あなたの脳が、健康な状態かどうか、簡単に判別できるテストがある。人生においては、不確実性が避けられない。あなたは、これから人生で起こる不確実性が、不安ですか? それとも、楽しみですか? この問いに対する答えで、あなたの脳の健康度がわかる。

かあ(2)これからの人生の不確実性が、楽しみだという人は、脳が健康な状態にある。一方、不安だという方は、これから書くことを参考にして、自分の人生を見直してほしい。不確実性を楽しむことができるようになってこそ、人間は発展ができるし、幸せな人生を送ることができるのである。

かあ(3)もともと、何が起きるかわからないということは楽しみなことである。子どもの頃、遠足にの前の日はわくわくしてなかなか眠れなかったのではないか? 明日、どんな経験が待っているかわからない。その不確実性が、脳を刺激して、眠れないほど興奮するのである。

かあ(4)子どもの頃は、「人生で初めて」のことがあふれているから、脳もそれに根拠のない自信を持って向き合える。ところが、大人になると、大抵のことは経験済みになる。そのために、不確実なこと、新しいことが苦手な人が出てくる。その気になれば、勝手を知った「村社会」に引きこもれるからだ。

かあ(5)不確実性に向き合うためには、「根拠のない自信」が必要である。そして、根拠のない自信を支えるのが、「安全基地」。子どもが新しいことにチャレンジできるのも、保護者が見守るという「安全基地」が、ある程度の確実性の基盤を与えてくれるからである。

かあ(6)大人になっても同じこと。自分の中に、スキルや経験、価値観などの揺るぎない安全基地がある人は、臆することなく不確実性に向き合える。不確実性が不安だという人は、自分自身の安全基地をもう一度点検してみてはどうだろう。確実性と不確実性の脳内ポルトフォリオを見直すのである。

かあ(7)問題は、何が自分の「安全基地」になるか。「肩書き」や「組織」といった、日本社会で従来安心のもととなってきた属性は、変化の時代には役に立たない。むしろ、そのような村社会的なよりどころは、激変の時代には邪魔になる。個人の発展を阻害し、社会を停滞させてしまう。

かあ(8)組織や肩書き、学歴といったラベルではなく、実質的な経験、知識、スキルへと「安全基地」を移行していくこと。この「体重移動」に成功している人は、どんなに変化があっても不安には感じない。むしろ、不確実性をこちらから迎えにいくくらいの勢いで、時代を疾走していけるのだ。

かあ(9)肩書き、組織に依存しない自分自身の安全基地を内在化させるためには、「ホーム」だけでなく「アウェイ」の闘いを経験することが必要である。自分自身が何者であるか、実力で示さなければならない現場。「部長」が「ただのおじさん」になるようなアウェイでこそ、「根拠のない自信」が輝く。

2012年6月14日木曜日

いきなりトップスピードは、水道から水が出るようなものである

いす(1)先日、マイケル・サンデルさんの授業の収録でNHKに行った時のこと(番組は好評で、BS1で、6月17(日)午前1時から2時49分(16日(土)の深夜) に再放送されるそうです!)。一つ、びっくりしたことがあった。サンデルさんが入ってきて、いきなり収録が始まったのだ。

いす(2)丸いセットにサンデルさんが歩み入ると、間髪を入れず、本題を切り出した。その様子を見ていて、ああ、サンデルさんは「役者」でもあるのだと思った。ハーバードの『ジャスティス』の授業は、一つの演劇でもある。そして、いきなりトップスピードに入るのだ。

いす(3)いきなりトップスピードに入る、というと思い出すのがタイガー・ジェット・シンである。猪木が花束贈呈を受けていると、サーベルで殴りかかる。段取りや根回しなしで瞬時に本題に入る。その生命のリズムが心地よくて、私は子どもの頃シンのファイトを見るのが大好きだった。

いす(4)橋下徹さんもいきなりトップスピードの人である。記者会見などを見ていると、会見場に入ってくるなり、いきなり本題に入る。あのスピード感が、従来の政治家のもたもたした感じから一線を画していて、好感を持てる。あのリズムでやらないと、疾走する現代においては適応できないと思う。

いす(5)そして、話題のTEDもまたいきなりトップスピードのスタイルであることは言うまでもない。もともと各スピーカーに割り当てられた時間が短いが、その時間を一秒もムダにしないように、すぐに本題に入る。日本のモタモタ、うだうだのスピーチを見慣れた人にとっては、剛速球に見えるだろう。

いす(6)パブリックな現場でいきなりトップスピードの人を見ると好感が持てるのは、ふだんもそうだと推論できるから。サンデルさんがハーバードの部屋で仕事をする時、おそらく座ってすぐに没頭するのだろう。他人の目に見えるところでいきなりトップスピードの人は、誰がいなくてもそうしている。

いす(7)逆に、パブリックでうだうだ、もたもた、根回し、段取りの人を見ていると、一人で仕事をしている時にも同じなのだろうと推論が働く。人が見ていないところで何をやるかが圧倒的に大きな意味を持つ。だからこそ、他人が見ている時くらい、うだうだもたもたしてはいけないのだ。

いす(8)いきなりトップスピード、というと、難しそうだが、要は脱抑制。抑制を外してあげれば、あとは蛇口から水が出るように簡単にできる。いきなりトップスピードができる人は、脱抑制の達人である。うだうだもたもたの人は、自分だけでなく他人も抑制する。だから迷惑である。

いす(9)日本人が脱抑制が比較的ヘタなのは、子どもの頃からちいちいぱっぱで抑制しておとなしくすることばかり学んでいるだろう。日本の世直しのために一番必要なことは、賢く脱抑制することを学ぶことかもしれぬ。いきなりトップスピードの練習を、誰も見ていない時からやるように心がけよう。

2012年6月13日水曜日

お金で、買えないものはありますか

おか(1)日本を改革することをべったおりで諦めたわけじゃなくて、徐々にやって行きたいと思う。一つの方法は同志を増やすことである。少しずつ、しかも できるだけ若い時(高校生くらい?)から現代のグローバルな文化に触れさせる。その一つの方法として、book clubはあると思った。

おか(2)そこで、Michael SandelのWhat money can't buyである。ツイートで興味を持ったら、是非、できれば原書で読んで欲しい。サンデル教授の、緻密なロジックを積み上げていく思考、その世界観が、日本 という文脈を超えた現代文明の息吹を運んでくるはず。

おか(3)サンデル氏がいきなり挙げる例が面白くて、アメリカのある州では、お金を払った囚人は、独房の「アップグレード」が出来て、他の囚人よりもきれ いで快適な部屋で過ごすことができるという。確か一泊85ドルとか書いてあったかな。ホリエモンだったら、そうするだろう。

おか(4)What money can't buyが挙げるアメリカの例は、なかなかに刺激的である。ある州では、決まった額を払うことで、一定の範囲内で「スピード違反」をする権利を与えることが 検討された。スピードガンで違反がわかっても、支払いをしている人は、警官が見逃すのだ。

おか(5)実際に行われている制度では、高速の優先レーンを走行する権利を、お金で買う。朝の渋滞時に、支払いをした優先レーン走行者と、一般レーン走行車では、平均速度が全く変わってしまう。そのような「市場メカニズム」の是非について、サンデル教授は検討を続ける。

おか(6)認知科学的に最も興味深いのは、あるお金が「罰金」なのか、それとも「利用料」なのかという視点だろう。ある託児所が、子どもを迎えに来るのに 遅刻した親に罰金を課したところ、むしろ遅刻が増えた。親は、罰金を、託児延長の「利用料」と考えるようになってしまったのである。

おか(7)スピード違反の罰金を、道路を高速で利用する「利用料」と考える運転者を排除するため、北欧のある国では収入に応じた「罰金」を課すことによって、懲罰的な意味合いを維持しているという。お金だけでは解決しない人間心理の問題である。

おか(8)サンデル教授は問う。友情はお金で買えるか。「利用料」で得た友情は、本当の友情とは言えないだろう。ノーベル賞委員会が、毎年一個の賞をオー クションしたらどうか。購入したノーベル賞は、もはや意味が違うだろう。マーケット原理では説明できない事象に、人間の本質が現れる。

おか(9)What money can't buyのような本を読むことの喜びは、サンデル教授のすぐれた考察に触れることと同時に、カテゴリーとして日本の文脈の中では存在しない思考のパターンを 知ること。だからこそ、できれば英語で読んだ方がいい。相対化することで、より日本が見えてくる。

2012年6月12日火曜日

あらためて、レディについて

あれ(1)昨日、紳士とレディの条件についてツイートしたら、多くの反響があった。どんな理不尽なことでも黙って受け入れる忍耐強さが紳士の条件である。一方、相手がある女性をレディとして扱った瞬間にレディとなるのだとツイートしたら、特に後者について、数々の疑問が寄せられた。

あれ(2)それでは、レディになるのは他人任せで、自発的なものではないかという疑問である。もっともな疑問であるし、そんなはずがないので、今朝は、「レディ」の条件について、改めて補足(clarification)をしてみたいと思う。

あれ(3)まず、レディは紳士と同じ資質を持つことは、男女とも人間なのだから当然である。その典型は、BBCの『サンダーバード』に出て来るレディ・ペネロープ。どんなに困難な状況下でも、決してその朝の湖のような静けさを失わない。淡々と物事に当たっている。

あれ(4)レディには、プリンシプルがある。日本で言えば白洲正子さんがそうだろう。韋駄天お正と言われながらも、凛と筋を貫く。レディ・ペネロープも、白洲正子さんも、ジェントルマンに通じる芯の確からしさがある。本質においては、男と女の区別はない。若干のスタイルの違いがあるだけだ。

あれ(5)綺麗な格好はレディの条件ではない。私が大学院生の時、隣の研究室で実験補助をしていた女性は、当時60歳くらい。正真正銘のレディだった。いつも長靴を履いて、ショウジョウバエの実験に使う試験管を洗っていた。その一方で、彼女はホームレスの方への炊き出しをされていたのである。

あれ(6)結局、レディは、内面の美しさがにじみ出るのだと思う。ショウジョウバエの試験管を大量に洗いながら、にこやかに今度の日曜の公園での炊き出しの話をされるその方は、神々しいまでのレディだった。そのありさまは、一つの神話的光景として、私の心に焼き付いている。

あれ(7)「女性にレディとして接した瞬間に、その女性はレディとなる」というのは、世の男性諸君に対する戒めであり、自らへの戒めでもある。レディとして接したときに、その女性の最も美しい内面が引き出されるのだ。そのことを、世の男性諸君は肝に銘じていなければならない。

あれ(8)最後に、おとぎ話を一つ。取材でアイラ島に行った時に会ったフィオナ・ミドルトンは、アザラシの前でヴァイオリンを弾くという不思議な女性だったが、西風の中に立っているようなレディーだった。私が脳科学者だと知ると、「私のこと、おかしいと思う?」とフィオナは言って笑った。

あれ(9)これは、個々人で見解の異なるところかもしれないが、レディには、森の中から出てきたような不思議さがあると、より好ましい。最近の「森ガール」という言葉は、レディの本質をとらえた言葉であると、私は考える。アザラシの前でヴァイオリンを構えたフィオナは、レディの典型だった。



2012年6月11日月曜日

紳士たれ、レディーとなれ

しれ(1)イギリスは「紳士」の国だという。そのことの意味が、ぼくにはよくわからなかった。お金持ちだからと言って、品性が高いとは限らない。ばりっと仕立てた服に、ステッキか何か持っていれば紳士かと言えば、そうでもないような気がする。結局、「紳士」って何なのだろう。

しれ(2)イギリスに留学していたとき、ぼくのボスのホラス・バーローは、間違いなく紳士だったけれども、紳士の格好はしていなかった。いつもよれよれのズボンと服で、ポケットに小銭を入れてじゃらじゃらしていた。それでも、ホラスは正真正銘の紳士だった。

しれ(3)紳士の資質の一つに、おおらかさがあると思う。世界や人間について、多くのことを知っているのである。だから、奇妙な振る舞いや、エキセントリックな感情に接しても、眉をちょっと動かすくらいで驚かない。そして、やり過ごすか、やんわりと無視する。本質的なことだけを見つめている。

しれ(4)紳士のもっとも本質的な態度は、他人の理不尽な要求や議論に対して現れる。だまって、奇妙な話を受け入れるのである。相手が言うことが支離滅裂でも、顔色を変えずにそれを通す。その忍耐強さの中に、紳士たるものの資質があるように思う。だから、ボロを着ていてもいいのだ。

しれ(5)一方、レディーとは何か。高い服を着ていれば、レディーであるわけではない。美しくないと、レディーになれないわけではない。イギリスでいろいろなことを観察しているうちに、ははあとわかった。レディーは、自分だけにおいてなるのではなく、他人との関係においてなるのである。

しれ(6)どんな女性でも、相手の男性が彼女をレディーとして扱った瞬間に、レディーとなる。若くなくても、美しくなくても、きれいな服を着ていなくても、その女性に対して男性がレディーとして接したときに、彼女はレディーになるのである。

しれ(7)映画『マイ・フェア・レディ』の印象的なシーン。ヒギンズ教授が、貧しい花売り娘のイライザを雑巾のように扱う。ところが、ピカリング大佐が、「どうぞ、腰掛けませんか、イライザ」と言った瞬間に、彼女はレディーになる。ボロを着ていても、レディーとして扱えば、レディーになるのだ。

しれ(8)つまり、紳士とレディーは、合わせ鏡のように、共生する存在である。紳士は、経験や余裕に裏打ちされた忍耐強さを持っている。そんな紳士が、ある女性に対してレディーとして接すれば、その女性はレディーとなる。そこには、お金や服装、社会的地位に関する要件があるわけではないのだ。

しれ(9)以上の紳士とレディーに関する考察は、現代の日本においてはおとぎ話だろう。心がぎすぎすしている。汚い言葉が飛び交う。怒号が支配する、そんな日本。しかし、だからこそ、紳士とレディーに関するフェアリー・テイルが必要だと感じる。諸君、紳士たれ。そして、レディーとなれ。


2012年6月10日日曜日

改革は、私やあなたが負けることから始まる

かわ(1)明治維新は、世界史でもまれに見る改革の成功例であったから、日本人が繰り返し振り返るのは当然だろう。その担い手になったのが、薩摩と長州の志士たち。なぜ、彼らが改革を進めることになったのか、ということについて、私なりの仮説がある。

かわ(2)それは、薩摩も長州も、「負け組」だったということ。闘いを挑んで、完膚無きまでに粉砕された。何も、国内の権力争いにおいてではない。当時の世界で、植民地獲得競争を繰り広げていた、西洋列強との闘いを経験し、その実力を痛感したのである。そのような意味での「負け組」だった。

かわ(3)薩摩は、薩英戦争によって、英国のアームストロング砲などの最新の科学技術の威力を思い知った。砲撃によって、鹿児島市内が火の海になり、大きな被害を受けた。その後、薩摩は、西洋列強の最新技術から学ばなければ危うい、と危機感を強めるようになる。

かわ(4)長州藩も、イギリス、フランス、オランダ、アメリカとの間に「下関戦争」を経験して、大きな被害を受けた。長州藩は、それまで「攘夷」に傾いていたが、列強の実力を知り、一転して西洋の技術に学んで、近代化へと走ることになる。完膚無きまでに負けたからこそ、方針を転換できたのである。

かわ(5)薩摩も長州も、当時の最先端の文明や技術に触れ、我彼の実力差を肌で知ることによって、近代化へと疾走することになった。一方、江戸幕府の動きは鈍かった。危機は共有しつつも、二百数十年間積み上げた権力機構の中に安住して、本当にお尻に火がついていなかったのである。

かわ(6)現代の日本も、同じことであろう。大企業、大学、官庁、メディアなど、戦後の日本で数十年にわたって積み上げられた成功体験と権力機構の中にいる人たちが、観念としては「危機」を理解できても、本当に自ら動くはずがない。明日の自分たちの生存が危うい、と思わない限り、人間は動かぬ。

かわ(7)ここ二十年を見れば、日本の「負け」は明らかである。グローバリズムと、インターネットという二つの文明の波に、日本のメディアも、統治機構も、教育も、産業も適応出来ていない。しかし、その危機をどれくらい肌で感じているかは、人によって違うだろう。

かわ(8)アップルやグーグルといった企業の成功の本質を理解している者、偶有性に基づくネット文化の破壊力を感じている者、世界的な能力の大競争を目の当たりにしている者、シンガポールや上海、香港の沸き立つ空気を知っている者、そのような「負け組」の中から、改革者が出てくるしかない。

かわ(9)現代日本の文脈に守られた「幕府」に改革が担えるはずがない。現代文明の最先端に果敢に勝負を挑んで、完膚無きまでに打ちのめされた負け組だけが、日本を変えることができる。だからこそ、志ある者は、果敢に勝負を挑んで欲しい。そして徹底的に負けるがいい。そこから、疾走は始まる。

2012年6月9日土曜日

日本は、居心地がいい

にい(1)というわけで、私は、大学入試のことも、新卒一括採用のことも、記者クラブのことも、あるいは連帯保証のことも、この数年間ずっと論じてきたことについて何かを言うのが疲れてしまって、日本はもうこのままでもいいんじゃない、というある種投げやりな気分の中にいるのだった。

にい(2)いくら、理を尽くしても、今まで通りの大学や、新卒一括採用でいい、と当事者たちが思っているんだったら、もうそれ以上言うことはない。「余計なお世話」である。だから、ぼくは、プロフィールにもあるように、自分自身を変えることに専念することにした。その方が報われる。

にい(3)自分自身に関わることで、できていないことが幾つかある。一つは、クオリアの問題。マッハの原理や相互作用同時性からの、本質的な進展を図ること。もう一つは、英語で本を書きまくること。東京発で、世界の文明に一石を投じるような仕事を続けたい。ヘタレから脱却したい。

にい(4)幾つかのことが重なって、「日本、もういいや」と思うようになったわけだが、なぜこの国が変わらないのか、変わろうとしないのかということについては理論的、実践的な興味がある。そして、一つの根本的な理由として、「居心地の良さ」ということがあるように思う。

にい(5)「偏差値」で予想できるような大学入試は、そのシステムの中に入ってしまうと、いかにも居心地が良い。それ以外の方法で、自分の価値をアピールする必要もない。一種の談合のようなものだが、談合は、中に入っていればこれほど居心地の良いものはない。当事者たちが自ら変えるはずがない。

にい(6)新卒一括採用も、「あいつとオレは同期だ」「あいつは一期下だ」なんて会話をしていると、居心地がいい。「同じ釜の飯を食った中だから」なんて手をつないでいれば、お友達問題は解決。そんな居心地のよい制度を、自分たちで変えようとするはずがない。

にい(7)「記者クラブ」が、居心地の良い制度であることは言うまでもない。「俺たちは、ちゃんとしたメディアだから。フリーのやつらとは違うから」。仲間同士で、役所の中にスペースを持って、酒なんかも一緒に飲んでいる。そんな居心地の良いシステムを、自ら変える必要はない。

にい(8)居心地の良いスペースで、ゆったりとくつろいでいる。つまり、それはおじさんのメンタリティである。日本は、大学入試も、記者クラブも、新卒一括採用も、すべておじさん化している。青年は荒野を目指すが、この国では、もはや青年の居場所はない。おじさんがまったりするための国なのだ。

にい(9)自らも戒めなければ。日本の中で、「文化人」としてテレビに出たり、講演をしたり、本を書いていれば、それなりに居心地がいい。しかし、ぼくは居心地の悪い場所に行きたい。ロングビーチのTEDで大漁旗を振り回したとき、本当に必死だった。残りの人生を、できるだけ居心地悪くしたい。

2012年6月8日金曜日

電車で靴を脱いで窓に向かって座る、子どもたちがいた風景

でこ(1)子どもの頃、電車に乗ると、必ずといって良いほど自分でもやっていたし、他の子もやっているのを見た景色があった。窓際の座席に、外を向いて座るのである。夢中で座っていると、大人が、靴を脱ぎなさい、そうでないと座席がよごれるでしょう、とたしなめる。

でこ(2)時には、兄弟で座っている子どもたちもいた。座席の前にちょこんと靴が並んで置かれている。子どもたちは外を見るのに夢中で、靴下をはいた足が、ぴょんぴょんとはねるようにならんでいる。そんな光景の中に私自身もいたし、他の子どもたちもいたように思う。

でこ(3)子どもは、「好奇心」に満ちた存在である。なにしろ世界のさまざまが物珍しいので、目を輝かせて見ている。好奇心を満足させるためには、なりふりなどかまってはいられない。他人の存在など関係なく、とにかくキラキラと外を眺めている。好奇心には、生を浄化させる作用がある。

でこ(4)好奇心が充たされないと、退屈になる。だから、子どもの退屈の強度はそれだけ強い。「あ〜つまらないな」「なにかおもしろいことないかな」とつぶやいた経験は誰にでもあるはずだ。退屈は、それだけ好奇心を満たす対象を求めることが強いということであり、欲望の強度の表れである。

でこ(5)大人になると、さまざまなことを知ってしまうから、次第に好奇心を失っていく。退屈する能力も失い、退屈にすら気づかないこともある。新しいものに目をキラキラすることを忘れた大人は、いわば、慢性退屈症にかかっている。退屈が空気のようなものになって、当たり前だと思ってしまうのだ。

でこ(6)何人かの大人が、それでも、好奇心を持ち続ける。「奇跡のりんご」の木村秋則さんでびっくりしたことがある。木村さんの地元、弘前で会があった。壇上に私がいて、目の前で有志がマジックをやってくださった。木村さんは客席の最前列にいて、私と、そのマジックを見ていた。

でこ(7)そしたら、本当に驚いた。マジシャンの手元を見る木村秋則さんは、口をあんぐりと開けて、目を輝かせて、もう夢中になってしまっている。木村さんは歯が一本もないが、その表情は5歳児そのもので、大人でこんな顔をする人は見たことがないと、震撼し、そして感動したのだった。

でこ(8)「奇跡のりんご」が誕生するに当たっては、好奇心がどうしても必要だったろう。りんごに着く虫はどんなものか、土はどんなものがいいのか。一度は死を覚悟するところまで追い詰められた木村秋則さん。前に進むエネルギー源の一部は、好奇心から来ていたのだろう。

でこ(9)大人になると、電車に乗っても、外を見ずに仕事をしたり、眠ってしまうことも多い。靴を脱いで、窓に向かって座っていたあの子どもの頃の灼熱の好奇心。自分がその風景の中にいるのも、誰かがその風景の中にあるのを見るのも、すがすがしく、人生の停滞を吹き飛ばすさわやかな風となる。

2012年6月7日木曜日

AKB48に、学べ

Aま(1)AKBの総選挙の特番にいらしてください、とフジテレビでずっとお世話になっている朝倉千代子さんからお誘いいただいて、スケジュールが空いているので、だいじょうぶですとお返事した。朝倉さんからのお誘いは、時間が空いている限り、必ずお受けすることにしている。

Aま(2)そしたら、他の事とは全く違う反響があった。「すごい!」と素直な反応と、「AKBまで行くんですか」というような反応。後者については、「アイドルのことまで関わるなんて」という偏見のようなものを感じる。でも、ぼくには、AKBについて、素直に受け止める素地があった。

Aま(3)秋元康さんから、AKBが秋葉原の劇場で細々とやっている頃からお話を伺っていた。「秋葉原でやっているんですよ」「なかなかお客さん来なくて苦労しているけど、がんばってますよ」と秋元さんから聞いていて、その原点を知っているだけに、今日の大成功は夢のような感じがする。

Aま(4)武道館で行われた「じゃんけん大会」にやはりテレビの仕事でおじゃました時、じゃんけんという偶然に賭ける彼女たちの真剣さ、まっすぐさに打たれた。この一瞬、に向かった表情が、太陽そのもののような輝きを見せていたのである。「アイドル」と油断している人は、その光を見ているか。

Aま(5)ぼくは、AKBの顔と名前が一致しないおじさんだが、彼女たちが日本人の心を惹きつける理由はわかる。「総選挙」にも現れる、「ガチの勝負」のすさまじさ。言い訳は利かない。その人の吸引力のようなものが、ストレートに現れてしまう。今の日本に、そんな勝負がどこにあるか。

A8(6)Freakonomicsという本に書いてあるが、アメリカの選挙の結果は、どれだけお金を使ったかということとは関係のない、候補者の絶対的魅力のようなものがあるのだという。AKB総選挙も同じこと。努力は大切だが、どんなに積み重ねても、ダメな人はダメ。その「残酷なリアル」。

A8(7)「アイドル」のことと偏見を持っているような日本の社会の「まとも」の方が、よほどガチな努力をしていない。受験だって、家庭の経済力で塾や家庭教師の差がついて、本当はガチな勝負ではないと、みんなわかっている。既得権益のおじさんたちは、ふんぞり返ってサボっている。それが日本。

A8(8)AKB48から、学んだらいいんじゃないか。全力でぶつかって、ありったけを込めて、それでも、結果は残酷に現れる。そんな「ひたむきさの元素」のようなものを、彼女たちの総選挙や、じゃんけん大会から学んだらいいと思う。そろそろ、本気を出してもいいんじゃないか、日本。

Aま(9)生放送が始まる前、フジテレビの小松純也さんと話していた。NHKで『プロフェッショナル』を創った有吉伸人さん(@nobip14)と、京都大学の劇団そとばこまち時代の盟友。短い時間だったけど、プロが考えていることは凄いとしびれた。油断してはいけない。何よりも、生命の前では。

2012年6月5日火曜日

ワンのばか、エメリヤンのタイコ

いえ(1)人間は、なんかのときにふっと我に還って、人生のバランスをとろうとするのではないだろうか。このところ、いろいろ揺れ動いていて、それで昨日は有吉伸人さんに会って、昨夜へんな夢を見て、それで、ふっと思い出したいくつかのことがある。

いえ(2)子どもの頃、家にトルストイの童話がいくつかあった。そのうち鮮明の覚えているのが、まずは『イワンのばか』。イワンがばか正直で、悪魔が出てきてもだまされない。それで、そこに、確か悪魔がばけたか何かの紳士がやってきて、「まじめに働く必要はない。あたまを仕え」か何か言う。

いえ(3)でも、イワンはばかだから、紳士の「頭を使え」という意味がわからない。紳士は「頭を使って働く」方法をずっと演説しているけど、そのうち疲れてふらふらしはじめる。それで、頭がかなづちになったように柱に打ち付ける。イワンや村の人はいう「おっ、頭を使って働きはじめたぞ。」

いえ(4)あと、なんとかのタイコというのもあった。今検索したら、「エメリヤンのタイコ」らしい。エメリヤンが、一夜にして城をつくれとか、むちゃくちゃなことを言われる。その度に、妻か何かが、「だいじょうぶ。わきめをふらずにやっていれば、朝になればできていますよ」とか言う。

いえ(5)それで、一晩中一心不乱に働いていると、ふしぎなことに朝までにお堀に水ができて、お城ができてしまう。それで、王様がくやしがって、また無理難題をふっかける。たしかそんなストーリーだったように記憶する。子どもの頃読んで、そのふしぎな「クオリア」がずっと残っている。

いえ(6)トルストイが言いたかったのは、何が裏切らないか、ということだと思う。わきめをふらずに集中した時間は、自分を裏切らない。それは一つの倫理観でもあるし、実践哲学でもある。それで、今朝そんなことを思い出したのは、人生の潮目の中でバランスをとろうとしているんじゃないか。

いえ(7)どうも、時代が落ち着かなさすぎる。社会的なことについて何か提言したり、批判したり、オルタナティヴを提示したりということは大切だとは思うが、一方で裏切られることも多い。社会は巨大な岩で、うんうん押してもなかなか動かない。ならば、自分にかかわることに専念する道もあるはずだ。

いえ(8)私のプロフィールに、「脳科学者。クオリアを研究。アンチからオルターナティヴへ。社会の前に自分を革命せよ。」とあるのは、ほんたうの気持ちで。社会を変える前に、自分自身に関わることでいくつか変えたいことがあるから、そちらに専念したい、というような思いである。

いえ(9)人はらせんを上るように変わっていくものだと思う。誰の中にも、イワンやエメリヤンがいると思う。予想ができず、落ち着かない世の中だが、時にバランスをとる精神の働きは大切。なんだか、ちょっと引きこもってみたい気分に、今朝はなっている。わきめをふらずにやるっていいね。

2012年6月4日月曜日

どんな人か、よく見ないとわからないよ

どよ(1)フジテレビで『エチカの鏡』という番組に出ていた頃。ある日、スタジオで清原和博さんがご一緒だった。清原さんと言えば、豪快な印象で、スター性があり、注目も浴びていただけに、「番長、夜のバットは絶好調」みたいな、おもしろおかしい週刊誌報道も多くあったように記憶する。

どよ(2)収録の合間に、横に座っていた清原さんに、「週刊誌でいろいろ書かれるのはどうでしたか?」とうかがったら、「ぼくはまだいいけれども、親がそんな記事を読むと思うと、つらかったです」と言われた。その時、私は、清原さんの魂の声を聞いたような気がした。

どよ(3)マスコミの中の「清原和博」というイメージと、ご本人が違う。注目される人ほど、集中豪雨的な報道の中であるイメージがつくられ、それが一人歩きする。メディアの中で造られたあるイメージと、本当のその人は違うかもしれない、というのは、リテラシーの大切な一部分であろう。

どよ(4)昨日、野田佳彦首相が小沢一郎氏と会談した。消費税をめぐって、「ものわかれ」に終わったと報じられる。しかし、新聞やテレビの報道の仕方を見ても、私がこの点について「本質的」と感じるテーゼは一向に触れられていないように思う。これは一種の「風評被害」であろう。

どよ(5)小沢一郎氏というと、豪腕というイメージが定着している。「悪代官顔」のせいもあって、ダーティーだと思っている人も多いかもしれない。しかし、実際の小沢さんは、「プリンシプル」の人である。そのことは、実際にお目にかかってお話すればわかるし、間接情報でも注意深くよめばわかる。

どよ(6)今回の件も、小沢一郎さんが言われているのは、前回の総選挙で民主党が立てた「マニフェスト」と、今回の消費税率の上げは一致しないではないか、というプリンシプルの問題。財政再建の必要はある。しかし、税率を上げる前にやるべきことがある。霞ヶ関改革が必要。その通りではないか。

どよ(7)この国の不幸の一つは、メディアの中で「政治報道」はなく、「政局報道」だけがあることで、今回の事態も、野田首相が「政治生命」を賭けた法案に豪腕の小沢が反対、自民との歩み寄りか、民主分裂か、とおもしろおかしく報じるだけ。マニフェストによる付託に本質があるとはどこも報じぬ。

どよ(8)このような一連のツイートをすると、必ず「茂木は小沢派か」「小沢信者か」というような輩が出て来る。本来、政治のプリンシプルに関することを、属人的にしかとらえられない精神的貧困。ところが、新聞やテレビの「政局部」の報道も、にたり寄ったりだから、この国は不幸だ。

どよ(9)「政局部」の報道のやり方が急に変わるとは思えない。小沢一郎さんが、メディアの中でつくられた「豪腕」「ダーティー」のイメージを払拭してその真の姿を伝えるためには、ニコ生や、ツイッターなどを活用するのが一番。ご本人はツイッターをやらないだろうから、周囲が工夫してはどうか。

2012年6月3日日曜日

さまざまな、声を聞くこと

さこ(1)「風の旅人」の佐伯剛さんには、いろいろとお世話になった。雑誌で「今、ここからすべての場所へ」を連載させていただき、それが筑摩書房から本になって、桑原武夫学芸賞をいただいた。その佐伯さんが、今朝、興味深いツイートをされていた。中学校に東電の人が来て授業したというのである。

さこ(2)「あれだけの事故」の後で、東電の人が来て、「原発がないと日本の経済がたち行かなくなる」と子どもに思わせるような授業をする。そのことを、佐伯さんは批判されているわけだけれども、ここには、とても重要な論点があるように思うので、今朝はそのことについてツイートしたい。

さこ(3)昨日、飛行機に乗るときに何か読もうと思って、ニューズウィーク日本版を買ったら、フェイスブック批判の記事オンパレードでびっくりした。ザッカーバーグの行状など、さまざまな視点から批判している。ところが、最後に、ちゃんと「反論」の記事もある。SNSの未来を称揚しているのだ。

さこ(4)これが、上杉隆さん(@uesugitakashi)の言われるop-edというやつで、ニューズウィークの主張(フェイスブック批判)とは異なる意見を、ちゃんと載せて、公刊する。そうすることでバランスがとれるし、多様な意見を聞くことができる。

さこ(5)そこで、佐伯さんの書かれていた授業の件である。問題の本質は、授業に東電の人が来て、その見解を述べること自体にあるのではない。授業の中で、その見解への反対意見、異なる立場からの見解が提示されているかどうかである。そのような立体的な視点があって、初めて授業に意味がある。

さこ(6)日本の社会は「空気」を読み、同化圧力が強いから、「あれだけの事故」があった後では、当事者は意見を表明することは慎むべきだ、という考え方も根強い。しかし、それでは民主主義が成立しない。意見はそれぞれあっていい。それぞれの立場で、意見をフルスロットルで主張していい。

さこ(7)それぞれが意見を言い切って、あとはお互いに響き合わせて、考えればいい。「自粛」したり、意見を言うこと自体を非難するのはおろかである。それでは全体主義と同じだ。問題は、異なる声が、どれくらい響き合っているか、そのことにかかっている。

さこ(8)昨日の東京大学でのシンポジウムで、ぼくは自分の意見を「フルスィング」で言った。後で、岡ノ谷和夫さんからメールをいただいた。岡ノ谷さんの見解は、ぼくとは違った角度からのものだったが、それももっともだと思った。こうして、異なる意見が響き合うことで、何かが生まれていく。

さこ(9)「あれだけの事故」があったから、東電の人は一切見解を言うべきでない、と言うのは最悪の選択である。どんどん意見を言っていただいていい。その上で、反対意見と闘わせる。そのような立体的な言論空間だけが、困難な状況を切り開く強靱な精神をつくる。自粛の強制は、愚かである。

2012年6月2日土曜日

大飯原発再稼働の問題が大詰めを迎える中、「感情」の問題について、今感じていること

(1)私は都内はできるだけ歩いて移動することにしている。ここのところ、霞ヶ関の経産省前を通ると、原発に反対する方々がテントをもうけて訴えている。その様子を、肌で感じながら、外務省横を抜けて、国会前を抜けて、半蔵門へとたどることが多い。

(2)経産省の前のテントのあたりにいらっしゃる方々からは、独特の雰囲気が伝わってきて、その現場の感覚を受け取るのがぼくにとっての一つの勉強になっている。文字情報だけでなく、そのような空気のようなものに向き合っていないと、おそらく時代を感じることはできない。

(3)先日の日曜は、経産省の原発テントの前はとても忙しそうだった。その方々の横に、なぜか街宣車の方々も乗り付けて、大きな声で何か言ってらした。音が割れてしまって、内容がよく聞き取れなかったのが残念だったけれども、その気持ちの圧力、のようなものは、こちらに伝わってきた。

(4)先日は、大手町を歩いていたら、大きな音量で訴えかけている方々がいらした。ビルにこだましてよく聞き取れない。近づくと、経団連ビルの前で、原発に反対する方々が訴えていた。「福島の子どもたちは、・・・なり」と、「なり」で終わるセンテンスを、重ねていた。全部で十名くらいいらした。

(5)大飯原発の再稼働について、野田政権の「決断」が近いとも言われている。橋下徹さんを初めとする関西の首長の方々も、事実上の「容認」に転じた。私はもともと再稼働に賛成の立場だったから、我が意を得たりという思いかというと、そうでもない。理由は、以上書いた時代の「空気」と関係する。

(6)あるテーマについて議論をしている時に、相手が感情的になったとする。まず、その感情自体が「いい」とか「悪い」とか、あるいは「正しい」か「正しくないか」などとは言えない。感情を抱くに至ったのは、それなりの必然性があるはずであり、正しくない感情だから持つな、とは誰にも言えない。

(7)また、議論に感情を持ち込むのはやめて、あくまでも論理的に考えるのが「望ましい」とは言えない。現にある感情を抱いている方がいらして、その生が影響を受けている以上、そんな感情を議論に持ち込むのはやめろとか言っても、生の現場における問題の本質は解決しない。

(8)原発をめぐる議論を、ツイッター上でしばらくやった後、私がそれをやめてしまったのも、問題の本質が「感情」だと気づいたからかもしれない。福島の事故をきかっけに、本当に恐れ、不安になり、駆り立てられてしまっている方々がいる。科学的、技術的論点とは別に、そうなってしまっている。

(9)その感情に向き合うことからしか、原発の問題の本質的な進捗はないように思う。だから、私は経産省のテントの前を通る。経団連の前で訴えかけている方がいれば、その声の調子に耳を傾ける。その主張が「正しい」かどうかということよりも、そこにある心の叫びをまずは受け止めたいと思う。

2012年6月1日金曜日

男の子の時間、おじさんの時間

おお(1)昨日書いたように、駒場の裏門から入ろうとしていたら、池上高志が後ろからばーんとぶつかってきて、驚いた。うひゃひゃ、っていうその感じが、何かに似ているなあ、と思っていろいろ考えていたら、思い出したよ、「男の子の時間」。そのスピリットを忘れないことが大切だよな。

おお(2)男の子には、いっしょにわるふざけする、聖なる時間があるのだ。小学校に上がったばかりの頃、みんなで缶蹴りをやっていて、ひどいトリックをいろいろ工夫した。鬼が缶の近くにいるとき、全員でわーっと走っていって、名前を言えないうちに缶を蹴ってしまう。

おお(3)あと、仲間とシャツを交換して、壁の陰から上半身だけ出す。鬼が「何とか君!」ていうと、ぱっと飛び出して、「まーちがえた、まちがえた!」とやる。5、6人で芋虫のようにつながって、顔が見えないようにして、缶に近づいて蹴ってしまう、というようなこともやった。

おお(4)そんないたずらをやっている最中のぼくたちは、笑っていた。缶の近くにいる鬼に向かって、全員でわーっと走っていくときなど、もうおかしくておかしくて、ケタケタ笑いながら殺到していった。あの時に発散されていたエネルギーって、いったいなんだったのだろう。

おお(5)思いついたこと、不謹慎なことをやるときに、男の子は笑い出す。極上の笑い。加藤茶が、タブーに合わせて「ちょっとだけよ」とやるのが流行ったときも、林間学校でそれをやった。キャンプファイヤーのまわりで「ちょっとだけよ」とやったとき、もうおかしくて、ずっと笑っていた。

おお(6)男の子が悪ふざけをするのは、つまりエネルギーが有り余っているからで、発散の一つの儀式なんだろう。池上高志が、いっしょに悪ふざけできる相手だというのは、奇跡だと思う。だって、東京大学教授のいい年したおっさんなんだぜ。普通、もっともっともらしくしていてもいいじゃないか。

おお(7)おじさんになると、だんだん「もっともらしく」なってきてしまう。学士会館に行くと、「もっともらしい」おじさんがたくさんいる。そんなおじさんたちも、昔はケタケタ笑う男の子だったんだろう、と考えると、何だか楽しい。人生の滋味がそこにあるというか、しみじみするね。

おお(8)新橋の飲み屋なんていくと、「サラリーマンのコスプレ」をしているんじゃないかというくらい、もっともらしいおじさんがあふれている。でも、昔は缶蹴りをしたり、ちょっとだけよをしてケタケタ笑う男の子だったはず。おじさんのどこかに、そんな時代の名残はあるんじゃないかな。

おお(9)いかにもなおじさんの中に、少年の心が隠れているのを見つけると、おお、とダイヤモンドの原石を発見した気持ちになるね。そうだ、今週のメルマガ連載の「続生きて死ぬ私」は、そのことを書くようにしよう。みなさん今日は、もっともらしいおじさんの中に、少年の心を見つけてください!