2012年2月29日水曜日

ただ、実質だけに全力を注ぐ。それだけのこと

たそ(1)TED2012が始まった。昨年に続いて、二度目の参加。キュレーターのクリス・アンダーソンがステージに上がって、次々とスピーカーが話す。面白かったのは、グリーンピースのおっちゃんが世界の未来は暗い、地球は有限だ、足りないと話したのに対して、

たそ(2)シンギュラリティ・ユニヴァーシティをやっているおっさんが、「そんなことはない、人類のテクノロジーの進化はすごくて、未来は無限だ」と正反対のスピーチをしたことで、そのあとクリス・アンダーソンが出てきた二人を対決させたけれども、とても面白かった。

たそ(3)TEDのDNAは全く変わっていない。一秒目からいきなり実質に入り、全力疾走で、最高のパフォーマンスをすること。内容について、わかりやすさは心がけるけれども、決してポピュリズムに走らない。すでによく知られているアイデアだったら、「広げるに値するアイデア」とはならない。

たそ(4)スピーカーは、それぞれ、かなりの準備をしてトークに望む。スピーカーが立つのは、赤い丸いステージで、その周囲のずらりと聴衆が並んでいるのだから、かなりのプレッシャーのはずである。まさに、すべての一秒が、ここでは意味を持つのだ。

たそ(5)しかし、TEDが特別なことをしているかと言えば、そうでもないと思う。ただ、実質だけに全力を注ぐ。それだけのこと。逆に言えば、そんな簡単なことができないのが、世の中というものなのだろう。だからこそ、TEDの会議がプレミアムの価値を持つ。

たそ(6)何も日本だけのことじゃなくて、アメリカにだって駄目な会議、スピーチの文化はある。アカデミー賞の授賞式の真ん中あたりで、アカデミーのお偉いさんが出てきて、スピーチをした後で、司会をしていたなんとかという人が、「聴衆をわかしてくれてありがとう」と皮肉を言ってみんなが笑った。

たそ(7)アメリカに限らず、どこでも悪いスピーチの文化はあるが、日本のそれはおそらくかなりひどい部類に属するのだろう。何しろ学校の式典で、胸に花をつけた「来賓」が次々と出て来て意味のないスピーチをするのだから、子どもたちが悪貨で洗脳されてしまう。これはほんとうにひどいね。

たそ(8)もっとひどいときには、「来賓の紹介」とか言って、次々と名前を呼んで、おじさんが立ち上がって「おはようございます」なんて言っている。あんな時間帯に、いったい何の意味があるというのだろう。子どもたちの感性に対する暴力だ。みんな、TEDの時間に対するコスト感覚をを見習おう。

たそ(9)ただ、実質だけに全力を注ぐ。それだけのことなんだけどね。そんな簡単なことが、日本の社会ではできない。だから、人々の感性が動脈硬化を起こして、もたもたじたじた、もったいぶる。そんな人たちが社会の中で偉くなって邪魔をしている。少なくとも、感性の領域においては革命が必要だ。

2012年2月28日火曜日

アカデミー賞は演出は確かに派手だけど、やるべきことはちゃんとしているね

あや(1)こう見えても、青春時代はアカデミー賞なんてクソクラエだった。タルコフスキーやヴィスコンティが好きで、アカデミー賞の作品賞なんて、くだらねえと思っていた。ハリウッド映画全体が、軽薄で薄っぺらだと思って、あんなものに騙されるなよと、息巻いていた。

あや(2)決定的な転機は、意外にもフロリダで訪れた。ユニヴァーサル・スタジオ(だったかな?)に行ったら、映画撮影の現場をそのまま見せるようなテーマパークだった。衣裳を縫っている工場の横を通っていったりした。なるほど、特殊効果というのはこうやって作っているのか! と思った。

あや(3)圧巻だったのは、インディアナ・ジョーンズの展示で、有名な大きな石がごろごろ出て来る場面から、あっという間に西部劇っぽいところに場面転換して撃ち合いが始まった。そうか、撮影の時もこうやっているんだなと思ったら、その努力に頭が下がる思いがした。

あや(4)ハリウッド映画がなかなかいいじゃないかと思い始めたのは、製作者側の苦労の視点から見るようになったかもしれない。月日が流れ、私は、昨日、ロングビーチのホテルの部屋でサミュエル・アダムズを飲みながら、ABCテレビが生中継しているアカデミー賞の式典を見ていた。

あや(5)レッド・カーペットをセレブが歩く、みたいなところが強調されがちなアカデミー賞だが、見ていて、これは映画が好きな人たちの一年に一回の祭典なのだな、と思った。役者や監督、技術者、そして作品に対する尊敬と愛情に満ち溢れている。いいものを見たように思った。

あや(6)アカデミー作品賞が米国映画を対象にしたものではないということは、スラム・ドッグ・ミリオネアで初めて知ったことである。つまり英語の映画だったら、どこで作れたものでもいい。それ以外が「外国語映画賞」になるのであって、日本映画でも、英語で作られていればチャンスがある。

あや(7)今年は、フランス制作の「アーティスト」という無声映画が作品賞や主演男優賞に輝いた。フランス語なまりの英語でスピーチする彼らと、それを見つめる観客たちの作り出す空気は感動的。ハリウッドを背景としつつも、映画という芸術の普遍性を志向していることを十分に示していた。

あや(8)ABCの番組の最後に、選考過程についての詳細な文章が提示された。アカデミー会員数千人が投票するが、その結果は、集計を専門に行う会社によって厳重に管理され、本番でプレゼンターのよって封筒が開かれるまで、会社関係者以外は本当に誰も知らないのであると。

あや(9)賞が有力者の合議でなく、数千人の会員の投票によって決まる。アメリカの「草の根民主主義」の理念が貫かれている。もちろん賞としての派手な演出はしているが、アカデミー賞としてちゃんとやるべきことをしている。そのことの真っ直ぐさと質実剛健が、かえって印象に残った夜だった。

2012年2月27日月曜日

根拠のない、前向きさがアメリカの強みだねえ

こま(1)さっき、TEDのレジストレーションに行こうと思ったら、まだバッジがないので通れなかった。そしたら、緑のオーガーナイザーの女性が、「私と来ればだいじょうぶよ!」と言って、会場内を近道して表通りに案内してくれた。テントの入り口では、カメラクルーが誰かの撮影をしている。

こま(2)レジストレーションの前にぼんやり立っていたら、小柄の女性が「あら、今年も会えてうれしいわ!」と声をかけてきた。ぼくはあまり覚えていないのだけど(汗)、ひょっとしたら、教育の話をした人かもしれない。そしたら、近くにいた黒っぽい女の人が、「私はスピーカーよ」とか言った。

こま(3)私に声をかけてきた小柄の女の人は、「私はTEDxインドでしゃべったわ」かなんか言っている。そして、黒い女の人に、「TEDのメインステージのエネルギーは信じられないわ。あれは、ものすごいことになるのよね」なんか言っている。そして、やたらとニコニコ笑っている。

こま(4)ああ、このヴァイブだったなあ、と一年ぶりに思いだした。思いきりアゲアゲというか、根拠のない前向きさ。アメリカの社会全体にそのような傾向があるとしても、このTEDでは、根拠のない前向きさが、高い知性と広い見識と結びついて暴走している。このヴァイブが、日本にはないのだ。

こま(5)エレベータの中でも、通りを歩いていても、赤いバッジを見ると「やあ」とファーストネームで声をかけて、何をやっているのかあっという間に情報交換し、そうかとか、すげーなとか、そんな感じで前向きに疾走する。この根拠のない前向きさが、アメリカの文明を支えてきたのだろう。

こま(6)気分に根拠などない。前向きだろうが、後ろ向きだろうが、それはいわば第一原因であって、冷静な分析の結果などではない。日本の国を覆っている全体としてなんだか沈んだ雰囲気が、国としての停滞の第一原因なのかもしれぬ。そうしたら、根拠のない前向きさをつかむしかない。

こま(7)普通の日本の感性で育ったら(それはそれで一つの美しい世界観だと思うけれど)アメリカの根拠のない前向きさは、うっとおしいとか、疲れると思えるかもしれない。一方、この前向きさがなかったら、インターネットもアップルもグーグルもフェイスブックもなかったのは確実である。

こま(8)TEDのレジストレーションに行った、そのたった数分の間に接した空気の圧力に呆然とし、「ああ、そうだ、オレは、この空気に接するためにここにわざわざ来たんだっけ」と思い出した。この空気の中で、オレは震災の話をして、託された大漁旗を振り回さなければならないのだ。

こま(9)ぽつりと一人のケン・モギとして、この中で何かの印象を与えるのはしんどいことだけど、楽しいんだよね。猛獣としての力を試される気がするから。ひるがえって、愛する祖国にも、こんな根拠のない前向きさと猛獣たちの丁々発止の雰囲気がほんの少しでもあったらいいなと、思う日曜の午後。

2012年2月26日日曜日

人生はいつも、初めてを求めて

じは(1)来る時はJALだったので、機内は日本の雰囲気だった。私たちがよく知っている、日本人らしい心の使い方。気配り。それが、飛行機が着いて、空港に一歩踏み入れた瞬間に空気が変わる。おお、アメリカに来たんだ! 一気にモードが変わる。これが、旅することの醍醐味。

じは(2)何か経験すると、脳の中で「報酬」を表す物質であるドーパミンが出る。そのことによって、直前にやっていた行動の回路が強化されるという「強化学習」が起こる。アメリカに来ると、何かうれしいことがあるから、またアメリカに来ようと思うのだろう。強化学習は、毎回起こっているはずだ。

じは(3)しかし、本当は、一発目の強化が一番深かったはず。思い出す。アメリカの地を踏んだのは、15歳の時の最初の海外旅行。ヴァンクーバーへのトランジットで、まさにこのロサンジェルズ国際空港に下りた。そしたら、いろいろな雰囲気の人がわーっといて、黒人の人が大きな荷物を動かしていた。

じは(4)15歳になるまで、ずっと日本にいたわけだから、その光景を見て衝撃を受けた。これが、「人種の坩堝」と呼ばれるアメリカか、と思った。以来、本格的なアメリカ体験は、二十歳すぎで訪れた日米学生会議まで待つことになる。その時、振り返れば面白いことがあった。

じは(5)日米学生会議には、私のような日本で育った人間と、帰国子女でほとんどアメリカにいたような人が混在していた。それで、ミシガンやシカゴをめぐりながら、感激していたのは私の方だったと思う。いろいろが初めてだったから。一方、アメリカ慣れしている人たちは、それほどでもなかった。

じは(6)何かに慣れてしまうことの怖ろしさが、ここにある。ドーパミンが出て、強化学習が起こる。その効果が最も大きいのは、いちばん最初の時。二度目以降、私たちは慣れてしまって、もちろんゼロにはならないけれども、脳の可塑性に対する効果は、次第に薄れていってしまう。

じは(7)ビールを飲むとドーパミンが出て強化学習が起こり、もっと飲みたくなる。でも、本当は、生涯で最初に飲んだビールが一番衝撃で、効果的だったはずだ。キスだって、ファーストキスがいちばんインパクトを持ったはずだ。私たちは、忘れて、すっかり慣れたような顔をして生きているけれど。

じは(8)子どもの頃は、何しろこの世に生まれ落ちてまだ日が短いんだから、昼夜の変化や、水がしたたることや、季節が変わることや、すべてが「初めて」で強烈なインパクトがあったはずなんだよね。だから子どもはきゃっきゃっ騒いで、この世に生きることに慣れて退屈している大人たちに怒られる。

じは(9)脳の可塑性に訴えるためには、何しろ、人生で初めてのことをやるのがいい。だんだんそれが難しくなってきても、それでも求め続けるのが人生の最大のポイント。挑戦し続けること。出会うこと。気付くこと。受け入れること。人生で初めてを求めて、ロングビーチに来たような気がする。

2012年2月25日土曜日

日本のエリートは、リスクをとらないんだから本当はエリートでもなんでもない

にり(1)あれは中学校の時。ぼくはたまたま勉強ができたけど、友だちは勉強が苦手でぐれているやつが多かった。親友のSは、いらいらしていて、眉毛を剃って、煙草をふかして枯れ草や紙に火をつけていた。卒業して数年後、Sはどうした、と聞いたら、消防士になったという。

にり(2)あの頃、同級生の女の子が真顔で言った。「茂木くん、女の子はね、少し悪い子くらいが好きなのよ」。今になるとその意味が本当によくわかる。勉強のできる子は、社会と自分の関係について悩まなくてすむ。勉強が苦手だと、14歳にして社会と一人で向き合わなくてはならなくなる。

にり(3)ここで、重大なことが起こっている。なぜ、勉強ができると社会と自分の関係について悩まなくて済むのか? つまりそれは、レールが敷かれているから。日本では、「エリート」とは、つまりは「リスク」をとらない人、とらなくて済む人のことである。それじゃあ、つまらなくなるのは当然だ。

にり(4)世界的にはそうではない。イギリスのウィリアム王子は救援ヘリコプターのパイロットで、今はフォークランド諸島にいる。アルゼンチンとの間で論争が起こっているが、いずれにせよ、エリートこそフロンティアでリスクをとれというノブレス・オブリージュを果たしている。

にり(5)考えてもみたまえ。子どもの頃から塾通い。有名進学校に行って、難関大学の入試を突破。そんな人生のどこにリスクがあるというのか。あげくの果てに官僚たちは天下りを計算する。リスクなしの人生。そんなエリートたちの生き方が、日本をここまで没落させた。もう変えようよ。

にり(6)昨日、津坂純さんとお話していて、ハーバード大学は全く異なる原理に基づいて運用されていることが痛感された。詳細は「プレジデント」に出るのでここでは書かないが、とにかく試験の点数さえよければあとはリスクがないという日本の「エリート」の生き方とは対極である。

にり(7)日本の子どもたちは、あるいはお父さんお母さんたちは、よくよく考えてほしい。ペーパーテストの点数がよければリスクのない人生を送れるという日本型の「幸せの方程式」はもはや持続不可能。何が起こるかわからない世の中で、偶有性の海に飛び込むしかない時代なんだよ。

にり(8)偶有性の海に飛び込め! 新卒一括採用しかしない恐竜のごとき日本企業は、もうこちらからお断りだ。 履歴書に穴が開く? 笑わせるねえ。そんな愚者の顔を、穴が開くほどこちらから見つめてやればいい。いずれにせよ、古い日本は退場するしかないんだから、レクイエムでも歌ってあげよう。

にり(9)津坂さんも言っていたけど、本当はものすごいチャンスなんだよ。自分の頭で考え、行動し、リスクをとり、偶有性の海で泳ぐ勇気のある人にとっては、無限の可能性が広がっている。エリートとは、リスクをとらない人のことではない。偶有性の海で泳ぐ人のことさ。

2012年2月24日金曜日

忘れるためには他のルートをつくることが大切だけど、時には、向き合うことも必要になる

わむ(1)脳についていろいろ質問されるが、聞かれることが多いことの一つが、「どうしたら忘れることができますか」という問い。つらい思い出や、ネガティヴな感情など、それにとらわれると生きるのが困難になることを、どうしたら忘れてそこから離れることができるのか?

わむ(2)基本的に、脳の中にいったんできあがった痕跡を消すことは難しい。それに注意を向けて思い出すと、かえってその回路を強めてしまう。だから、「忘れる」ためには、痕跡を消すというよりも、生きる上での重要度を低くしていけばよい。ほかのことに比べての相対的比重を小さくすればいいのだ。

わむ(3)あることを思いだして生きる上で邪魔になるということは、脳の中にいつもたどる「A」というルートができているということ。それ自体を消すことができなくても、「B」や「C」や他のルートをつくって、そちらの方をよく使うようになれば、「A」自体は消えなくても、次第に使わなくなる。

わむ(4)結局、「喜び」を基準にするのが良い。自分の脳が深い喜びを感じる新しいことに挑戦し続けること。そのことによって、脳の中にさまざまなルートができて、単一ルートにこだわらなくなる。生き方が、より柔軟でフレキシブルになっていくのである。それが「忘れる」力。

わむ(5)「忘れる」ことは、最高のアンチエイジングである。過去にどんなことがあったとしても、あたかも今朝生まれたような顔をしている。そんな人はいつまでも若いし、子どものような好奇心に満ちている。経験したことが消えるのではない。隙間や空白の方が大切になるのだ。

わむ(6)もっとも、ネガティヴな記憶の中には、忘れようとして抑圧すると、かえって無意識の中で復習をすることがある。押さえつけようとするとかえって、意識の中に甦ってきたり、その人の世界観を支配してダメにしてしまうのだ。そんなときは、敢えて向き合うことも大切。

わむ(7)向き合うことで、記憶そのものが消えるのではない。その脳内の文脈や意味が変わるのだ。たとえば、失恋の記憶。なぜ、その人が好きだったのか。関係性はどんな意味があったのか。そんなことを振り返ることによって、記憶の意味合いが変わってくる。脳がシステムとして安定する。

わむ(8)ある程度心の余裕ができたときに、敢えてネガティヴな記憶に向き合うこと。この、prolonged exposureと呼ばれる手法は、私たちが成長する上で時に必要となる。負の体験をも、敢えて自分が育つ上で滋養をあたえてくれる土壌へと変えることができるのだ。

わむ(9)ネガティヴな感情の作用のうち最悪なのは、「ルサンチマン」(恨みの感情)に転化してしまうことで、そうなるとその人はもはや成長しないし、子どもの太陽を失ってしまう。ルサンチマンにとらわれないためにも、以上に記述したことを参考に、負の記憶をうまく処理してください。

2012年2月23日木曜日

日本のいわゆるエリートは、ノブレス・オブリージュをきちんと果たせよ!

にの(1)波頭亮さん @ryohatoh と最初に対談したとき、たしかノブレス・オブリージュの話が出たのだった。いわゆる「エリート」は、それだけの責任感を持って社会や国のためにがんばらなくてはならないということ。日本の国がますます沈没していく中、憤りをもってこの言葉を思い出す。

にの(2)今、日本の有名大学を出て官庁や大企業につとめているような「エスタブリッシュメント」に対して、二つの側面から不満がたまってきている。一つは、「定職」に就くことのできない若者たち。ぼくのまわりにもたくさんいて、そいつらの未来を一緒に考えている。

にの(3)「新卒一括採用」という、あきらかに国際的な人権原理に反した愚行を続ける日本の「大企業」たち。勝手に「クラブ」をつくって、お前達は入れな いよ、と言われたら、若者たちが「フェアじゃない」と怒るのは当然だろう。「新卒」でなければならない合理的な理由など、ゼロなのだから。

にの(4)もう一つ、日本のいわゆる「エスタブリッシュメント」に対しては不満が蓄積している。それは、世界的なレベルでの激烈な文明の競争の現場を肌で 感じている人たち。その人たちから見れば日本の「エリート」は「エリート」でも何でもない。高貴なる義務を果たしていないのだ。

にの(5)今は長野に転居されている堀江貴文さん(@takapon_jp)も書かれているように、東京大学が日本で「トップ」とかそういうことはどうでもいい。あの入試問題、あの教育課程で本当に世界レベルのエリートが養成できるのか。できない、というのが多くの人の結論である。

にの(6)日本の不調の理由ははっきりしている。批判的思考とシステム論の欠如。iPadのFlipboardで読むような世界のITの最先端の争いから 見れば、日本はかやの外。大学の入試、教育課程を見ていれば、追いつける感じは全くしない。日本のエリートは、実はエリートでも何でもない。

にの(7)最近つくづく思うのだけれども、日本の中で本当に国際競争力を持っていたのは、いわゆる「エリート」たちではなくて、サブカルだとバカにされて いた作り手たちじゃないか。「ウルトラセブン」なんて、今見てもほれぼれするほど素晴らしい。世界の人たちも正直で、海外に愛好家がたくさん。

にの(8)あんなくだらない入試を続けて、そのために小学校から塾通い。インターネットとグローバル化の時代に全く適応できない、蛸壺の学力をつけ、プログラムも書けない、システム思考もできない、そんな子どもたちをつくって何がエリート大学か。笑わせる。

にの(9)「ウルトラセブン」の作り手が、裸で勝負していたのと同じように、日本のいわゆる「エリート」たちもがんばってもらいたいが、「偏差値」や「新卒一括採用」の虚飾で守られている限り無理だろうね。そんな中、国はますます劣化し、残された時間が消えていく。

2012年2月22日水曜日

本番に強くなるためには、どうすればいいですか

ほど(1)ツイートで、これから受験だ、という人が目立つ。大学入試は本番を迎えている。そこで、今朝は、大学入試や就職試験などの「本番」において、どうやって強い人になるか、自分の実力をいかんなく発揮するかということについて考察してみたいと思う。

ほど(2)本番は、どうしてもプレッシャーがかかる。それに負けると、実力を発揮できないで終わってしまう。そうならないためには、普段から、本番以上の プレッシャーを自分にかけて練習しておくといい。そうすると、速い球ばかり見ていれば球が遅く見えるように、本番を乗り切ることができる。

ほど(3)過去問を解くのも、だらだらやってはいけない。本番と同じ制限時間で、あるいはもっと短いくらいの時間で、「これが本番で、これで入試が決ま る」くらいのプレッシャーをかけてやる。ふだんからそうしていれば、本番になっても、「なんだ、またあれかよ」と余裕になる。

ほど(4)一般に、プレッシャーは自分で自分にかけて、自分でコントロールするのが良い。他人や外部からかけられるプレッシャーは制御不能なので暴走しやすい。練習のときから、自分に良いプレッシャーをかけ、それを楽しむくらいでやれば、本番に強い人になれる。

ほど(5)本番で緊張するという人がいるけれども、緊張は一つの才能である。自分が何を求められているか、何をしなければならないか分かっているから緊張する。緊張する人が、それを乗りこえると、本番に本当につよい、素晴らしいパフォーマーになることも実際多い。

ほど(6)本番で最高のパフォーマンスを発揮するためには、「集中しているけどリラックスしている」フロー状態になるのが良い。緊張していることを集中し ていることと混同してはいけない。微笑みがうかぶくらいの余裕で、しかし最高の集中をしているときに人は最高の能力を発揮するのだ。

ほど(7)フロー状態になるためには、自分の実力とその時の課題が、高いところで一致していなければならない。つまり、普段の努力、修練はやはり怠っては ならない。その上で、本番では、集中しているけどリラックスしている、まるで空を雲が流れるような境地を目指せば良いのである。

ほど(8)なぜ、本番で緊張してはならないのか。脳が最高の力を発揮するためには、「脱抑制」する必要があるからである。脱抑制すれば、蛇口をひねれば水が出てくるように、実力が遺憾なく発揮できる。緊張すると、せっかくの回路のはたらきが阻害されてしまう。

ほど(9)一番必要なのは、「根拠のない自信」。これまでそれだけの準備をして来たのだから、必ずうまくいくという根拠のない自信が、本番における最高のパフォーマンスを導く。逆に言えば、本番までの日々においてそれだけの準備をするように、決して怠ってはならない。

2012年2月21日火曜日

近いものと、遠いもの

ちと(1)昨日の宮古島の講演会で、話そうと思ってつい忘れてしまったことについて書く。前から宮古島には来たかったんだけど、今回初めて来た。飛行機が空港に下りていくとき、美しい島の光景が見えた。家々がゆったりと佇んでいて、その間に木々がある。すべてを海が包んでいる。

ちと(2)それで、全く違う光景だけど、15歳のときに初めて外国に行ったときのことを思いだした。カナダのヴァンクーバーの国際空港に飛行機が下りていったときの光景。きれいな芝生とプールのある家々。その間の木々。ひと目見て、日本とは違う生活スタイルに魅せられた。

ちと(3)昨日、宮古島の空港に下りていったとき、ぼくは15歳の時にヴァンクーバーに行ったときと同じ衝撃を受けただろうか。ぼくの心は、まだ新鮮さを受け入れるのだろうか。近いものと遠いもの。あれこれと考えていたら、現代の私たちにとっての課題が見えてくる。

ちと(4)最初に沖縄のことを意識したのは、家庭教師で教えていた黒坂正紀が、沖縄に行った写真を見せてくれたときだったかな。あの頃、沖縄はまだ遠く感じられた。そして、当時小学生だった黒坂くんがにっこり笑っているその場所は、とても魅力的で、はるかな場所に見えた。

ちと(5)沖縄に来て、もう二十回とか三十回にもなるのだろうけど、次第に理解も愛も深まってくるし、友人もできてくる。そんな中で、あのとき写真の中にみた「あこがれ」も、忘れてはいけないように思う。遠くにあるものを見つめることでしか育まれない心があるから。

ちと(6)昨日も言ったけれども、もう「東京」を経由する必要などない。インターネットで、世界中が直接結ばれている。世界のさまざまが、「近く」のものとなった。ワンクリックでどこでも行ける。それは素晴らしいことだけれども、一方ではるかなものも忘れてはいけない。

ちと(7)昨日、宮古島の習慣である「おとーり」をやって、みんなで一人ひとりスピーチをして、泡盛を飲んだ。あのようなとき、目の前にいる人間の内面生活がはるか彼方の天体よりも遠い存在であることに、改めて驚く。ワンクリックで世界のどこでも行けるが、目の前の人の心はそういうわけにいかぬ。

ちと(8)とても近いものと、はるかに遠いものが、私たちの生活の中に共存し始めている。そんな中で、近いものの複雑ネットワークを疾走するセンスと、はるかなものにあこがれ、思いやる心と、その両方が求められている。現代における、一つの健康的程度として。

ちと(9)小川未明の「金の輪」。太郎が見ていたものは、なんだったのだろう。太郎は、どこに行ってしまったのだろう。ネットがすべてを近づけて、血のめぐりの悪い古い組織や習慣が消えてしまうのはちっとも惜しくないけれども、はるかなものだけは心の中に大切にしておきたい。

2012年2月20日月曜日

KRAFTWERK new song 2011 "Music international"

クラフトワークの新曲ですかね。クラフトワーク全開です(^_^)。多言語化されてます。「国際的に音楽ぅ〜♪」っていいっすね。しかもこれ結構音がいいです。

2012年2月19日日曜日

タイガージェットシンのようにいきなり、トップスピードで疾走しよう

たと(1)小学校5年生のとき、島村俊和に「プロレス見に行こうぜ」と誘われた。越谷市民体育館の前で待っていると、次々と選手が入ってくる。アントニオ猪木さんなどは、笑顔で握手してくれた。しかし、島村に事前に言われていた、ある恐ろしい「警告」があった。

たと(2)「他の選手は演技だけど、タイガージェットシンだけはマジだから、絶対に目を合わせるな。なぐられて、怪我をしたファンもいるのだから」。やがて、車が停まって、シンがやってきた。すでにサーベルを持って狂乱。(あれは、銃刀法上どうなっていのだろう)ぼくは必死に目を伏せた。

たと(3)いよいよ試合開始。タイガージェットシンが入ってくると、越谷市民体育館は熱狂の嵐になった。猪木が、和服を着た美人から花束贈呈をされていると、いきなりシンがサーベルを持って乱入して、花束を蹴散らし、猪木に襲いかかった! 二人は場外へ! 突然の場外乱闘!

たと(4)猪木も反撃し、体育館のパイプ椅子を持ち上げて、タイガージェットシンに殴りかかる。シンが逃げて、椅子をなぎ倒す。それをスポットライトが追って、お客さんが逃げ出す。「お〜きをつけください! お〜きをつけください!」と、煽るような場内アナウンスがある。

たと(5)シンと猪木があっちへ行き、こっちに行くたびに、パイプ椅子がなぎ倒されて、観客がわーっと逃げ惑う。スポットライトが追い、場内アナウンスがいやが上にも興奮をかきたてる。もうそれがスリリングでたまらなくて、あんなにわくわくしたことは、生涯でその前にも後にもない。

たと(6)やがて、「よきところで」ゴングがカーンとなって、場内アナウンスが何ごともなかったかのように「ただ今試合が始まりました」と言った。猪木もシンも、普通にリングで試合をしている。私は、それじゃあ、今までのシンの乱暴狼藉は良いことになったのか、反則負けじゃないのかと思った。

たと(7)振り返ってみると、そこにかけがえのない宝ものがあったことに気付く。和服美人が花束贈呈は、根回しや段取りにがんじがらめになっている現代日本。それを、タイガージェットシンがいきなりトップスピードで乱入して、蹴散らしていく快感。だからこそ、シンは日本で人気があったのだろう。

たと(8)「いきなりトップスピード」というのは、日本の武術の伝統だったはず。坂本龍馬がおりょうと鴨鍋を食べてリラックスしているときに新撰組が襲ってきたら、「あと10分でぞうすいまで終わるから待っててくれ」とは言わない。いきなりトップスピードにならなくては、命があぶない。

たと(9)だから、タイガージェットシンの「いきなりトップスピード」は、日本の伝統を教えてくれていたんだね。平成日本には、組織や肩書きや言い訳に守られているおじさんがどれほど多いことだろう。裸で瞬時に疾走し始める。そんなタイガージェットシンの教えを、もっと大切にしたい。

2012年2月18日土曜日

透明性と哲学

とて(1) 江川紹子(@amneris84)さんと、『新・週刊フジテレビ批評』でごいっしょした。スタッフの方々は、前日からネタの仕込みなどでずっと起きたまま朝を迎えたそうです。みなさん、本当にお疲れ様でした!

とて(2)マスメディアの報道が信頼されなくなったと言われて久しい。とりわけ、原発を巡る報道については、事実の歪曲や、恣意的な選択が行われているというような意見を見る。「陰謀史観」は避けなければならないとしても、マスメディア側に反省する点も多くあるだろう。

とて(3)東京電力のような企業の広報も見直しを迫られている。従来、広報(public relations)とは、自分たちに都合の良い情報を流す、操作的な色彩が強かったが、それでは信頼を得られなくなった。今の広報に求められているのは、徹底的な透明性の確保である。

とて(4)インターネットが発達し、ソーシャル・メディアが浸透するに従って、人々は情報操作の舞台裏を知るようになった。情報がどのように選択され、外に出るのかという点を含め、すべてのプロセスを可能な限り透明化するということが、信頼性の回復のために求められる。

とて(4)もっとも、番組中で 江川紹子(@amneris84)さんが指摘されたように、人権への配慮や、情報ソースの問題など、すべてを透明にできないケースも。だからこそ、マスメディアには、自分たちはこのようなプリンシプル(原理原則)で報道しているのだという哲学の開示が求められる。

とて(5)そもそも、「客観報道」ということはあり得ない。必ず事実の取捨選択、編集がある。従来は、無味無臭の「客観報道」があるというフィクションの下でメディアは報じてきたが、それは維持不可能である。むしろ、自分たちはこういう見識を持って報道しているのだという哲学こそが求められる。

とて(6)私がしばしば読んでいるイギリスの新聞、The Economistの報道には、一貫した哲学が感じられる。それは、市場の競争への信頼であり、自由の標榜であり、何よりも「カモン・センス」に基づく判断の積み重ねである。その報道の原理が伝わってくるからこそ、信頼される。

とて(7)哲学から離れた「客観」や「公平」があると思い込んでいるのは、「リスクのない世界」があると思い込むのと同じ、ここのところの日本人の精神病理の一つであろう。それを生み出している一因は、「小さく前にならえ」の初等中等教育かもしれない。だからこそリテラシーが問われる。

とて(8)人間の脳は、不安や恐怖などの感情が先に立って、論理的であるはずの判断が左右されることがしばしばある。特に、自分の生命が脅かされるようなmortality salienceの状況においては、特定の情報を選択して、それを拡大解釈しようとしてしまう。

とて(9)だからこそ、マスメディアは、人々の不安や恐怖といった感情を、自らが信頼に足りる存在となることで少しでもやわらげる責任がある。その際に大切になるのが、徹底した「透明性」と、自らの報道の「哲学」の開示であるということを、今朝の『新・週刊フジテレビ批評』で申し上げたのである。

2012年2月17日金曜日

やけぎょう焼経とスティーヴ・ジョブズ

やす(1)橋本麻里さん(@hashimoto_tokyo)と話していたとき、やけぎょう(焼経)の話になった。麻里さんの、こういう知識は深くて、広い。奈良時代などの貴重なお経が火事で焼けてしまったものを、たいせつに軸装したものが「やけぎょう(焼経)」である。

やす(2)やけぎょうに限らず、日本人はこわれたものを大切にする。金継ぎなどもそうで、割れてしまった焼き物を丁寧に金で継いで、使い続ける。そのことによって新しい「景色」が見えてきたりするし、場合によっては価値が増すこともある。受け継いでいきたい感性であろう。

やす(3)それで、橋本麻里さんが「やけぎょう」の話をしていたときに、実はぼくの頭の中でよぎった考えがあるのだけれども、何しろその時は談笑が弾んでいたし、話の流れを途切れさせなかったし、何も言わなかったので、かわりに今朝の連続ツイートで世界に向かってさしだそうと思うのである。

やす(4)やけぎょうには、独特の風合いがある。しかし、あまり人気が出すぎると、困った現象が生じるだろう。そんなに求められるのならば、わざわざお経を焼いて、いい感じの焦げ目や欠落をつくってから軸装しようという輩も出てくるかもしれない。そうなると、やけぎょうの大切な何かが失われる。

やす(5)ぼくが橋本麻里さんに問いかけたかったのは、果たして、意図せずして焼けてしまったやけぎょうと、作為的に焼いたやけぎょうは美術品として、あるいは現象学的に違うのかということだったが、それについては今度機会があったら話してみたい。いつになるかわからないけれども。

やす(6)もう一つ連想したことがある。それは、スティーヴ・ジョブズのこと。周知のように、ジョブズの生みの親はジョブズが生まれてすぐに里子に出した。「ジョブズ」は養父母の名字である。そのことで、ジョブズは自分は求められなかったのだというトラウマを抱えることになる。

やす(7)発達心理学上の常識から言えば、親の「安全基地」があった方が子どもの成長にはいい。ジョブズにはそれがなかった。もっとも、養父母がとてもいい人で、かわりに「安全基地」を提供してくれた。しかし、生みの親に関するジョブズの心の傷は、一生彼を支配し続けることになる。

やす(8)つまり、スティーヴ・ジョブズの人生は、意図せずしてできた「やけぎょう」のようなものであった。そのことと、彼の天才はむろん関係していることだろう。欠落があっても、それを補う能力が、人間にはある。そのことで才能が開花することもある。だから、決めつけてはいけない。

やす(9)愛情はやはりあった方がいい。環境も整っていた方がいい。それでも、たまたま何かが欠落したとしても、素晴らしいやけぎょうになれるかもしれない。わざとお経を焼いてつくるのでは、やけぎょうはできぬ。整えようと懸命に生きてこそ、初めてやけぎょうへの道が開ける。

2012年2月16日木曜日

いわゆる一つのおやじギャグについて

いお(1)私が子どもの頃は、「おやじギャグ」という言葉はなくて、「だじゃれ」と言っていた。そして、「だじゃれ」は主に「おやじ」が言うものという認 識もなかった。むしろ、元気いっぱいの子どもたち(オレ達のことね)がわーわー飛び回りながら言いまくっていたように思う。

いお(2)「へたなしゃれはやめなしゃれ」とか、「これ、村田くんにむらった」とか、小学校の教室でそんなことばかり言ってわあわあ騒いでいたのを覚えて いる。最悪だったのは、給食の牛乳を飲むときにだじゃれを言うのが流行ったときで、あの頃は苦しかった。へたすると、鼻からぷっと吹き出すのだ。

いお(3)しかもその頃は牛乳瓶だったから、吹き出したときの勢いも半端なく、みんな、給食が始まるとだじゃれで笑わされる前に牛乳を飲んでしまおうと、 必死になって抜け駆けした。「だじゃれ戦争」のピークは小学校2年生のとき。3年になったらテトラパック。ほっとする一方でさみしかった。

いお(4)振り返って思うのは、子どもの頃の「だじゃれ」は元気いっぱいの現れで、決して「寒い」ものではなかったということ。それが、いつの間にか世間 では「おやじギャグ」と言って迫害されるようになったのだから、世の栄枯盛衰は時に私たちの魂を真綿のようにしめてくるよね。

いお(5)ぼくは、子どもの頃の「だじゃれ」のイメージだったから、「おやじギャグ」と迫害される理由が長い間わからなかった。それが、フジテレビの番組 の収録中にタモリさんと話していて、やっとわかった。「おやじギャグ」が忌避されるのは、そこに日本社会独特の権力構造があるかららしい

いお(6)どうも、日本の社会では、おやじが「ギャグ」を言うと、周囲がそれに追従して笑わなければならない、というようなことがあるらしい。つまり、だ じゃれを言うのは権力者であり、空気を支配しようとする。その流れがどうも嫌われているらしいのだ。だったら、だじゃれには罪はないよん。

いお(7)笑いが権力関係と深く結びついているのは本当。だけど、ぼくはむしろ下克上だと思っているけどな。つらいこと、苦しいことがある時に、それを笑 いの力でプラスに変える。笑いを一番必要としているのは、権力者ではなく、虐げられた人たちだ。これは国際的にそうじゃないかな。

いお(8)「おやじギャグ」がうんぬんされるのは、日本の社会での笑いの堕落を背景としているんだろうね。そう思って注意して見ると、確かに「おやじ」が場を支配する傾向がこの国ではあるけど、それは、子どもたちの元気いっぱいのだじゃれとは、全く関係ないよね。

いお(9)だじゃれに当たるのは英語ではpunだろうけど、日本みたいに迫害されているという話は聞かない。「おやじギャグ」がいやだ、というのは日本の 社会の文脈。別にそんなに迫害しなくてもいいんじゃない? かえって囚われているように思う。だじゃれを、「おやじギャグ」史観から解放しよう!

2012年2月15日水曜日

ベーシック・インカムは、安全基地となり人々の自由競争を支える

べあ(1) 橋下徹さん @t_ishin が、今朝、「ベーシック・インカム」についてツイートされている。その趣旨に賛成である。私は、以前からベーシック・インカムの導入を真剣に検討すべきだと考えてきた。国の成り立ちを根本から変えようと思ったら、それくらいのことをした方がいい。

べあ(2)日本国憲法は生存権を保証する。ところが、「生活保護」の認定の現場ではさまざまな齟齬が生じていることは周知の事実である。「ベーシック・インカム」というかたちで経済状況に関係なく一律に給付を行うことで、生活保護認定にかかわる恣意的な行政運用のコストが削減できる。

べあ(3)もっとも、ベーシック・インカムにしても行政コストがゼロになるわけではない。これについては論文があって、つまり、権利があっても行使しない、あるいはできないような状態にある人(独居の人や、精神的な問題を抱えている人)を見つけ出し手当するコストがかかるというのである。

べあ(4)ベーシック・インカムが、経済システムとしてどのように成立するのかという理論的解析は興味深い。「ゼロ点」を再定義する、いわば「くりこみ」(renormalization)のようなものなのだろう。税率がどれくらいだと成り立つのか、定量的なモデルの構築が必要。

べあ(5)ベーシック・インカムは、人々が自由に競争すべきだというリバタリアンの思想と相性がいい。ある程度失敗しても、最低限度の生活はできるという安心感があるから、人はチャレンジできる。ベーシック・インカムが、発達心理学における「安全基地」(secure base)になる。

べあ(6)自由な競争が行われるためには「安全基地」を与えるセーフティ・ネットが必要。教育においてもそうで、経済格差が受けられる教育の格差につながっては、自由な競争が担保できない。「自己責任」は、実は市場の競争の自由を保証しない。基礎としての助け合いがあって、初めて大競争は起こる。

べあ(7)小泉純一郎さんの政権の頃から、国民が一貫して求めているのは、非効率とぬるま湯の行政の改革であり、それをきちんと唱えた政治家は必ず高い支持率を得ている。これは一種の生存本能のようなものであって、民間に比べて行政がぬるいというのは、多くの国民の偽らざる実感であろう。

べあ(8)公務員をされている一人ひとりの能力が低いわけではない。問題は、個人がその能力を十分に発揮できないシステムそのものの中にある。だからシステムを変えなくてはならない。ベーシック・インカムのような基本的なサポート体制の上の自由競争。日本再生の一つのひな型であろう。

べあ(9) 橋下徹さん @t_ishin に賛成する人も反対する人も、どうして氏が支持されているのかよく考えた方がいい。クロック数の高さと、自由への志向性。逆に言えば、公務員はクロック数が低いし、自由がない。地方にいくほど公務員がもっとも望ましい職業になる。そんな国はおかしい。

2012年2月14日火曜日

テレビの未来(もしそれがあるとするならば)

てみ(1)佐藤可士和さんとお話したら、『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演されたことが変化のきっかけとなったと。世界的に注目されるユニクロとのコラボも、そこから始まったと。 それを聞いて、本当にうれしかった。
てみ(2)『プロフェッショナル 仕事の流儀』は、凄まじいまでの情熱と手間をかけてつくられている番組で、2010年春までかかわることができたのは幸せなことだった。りんごの木村秋則さんの回()、本当に今でも忘れがたい。
てみ(3)今年は、インターネットとテレビの融合が本格的に始まる年。アップルやグーグルが、間違いなくウェブと連動したテレビを出してくる。そんな中、テレビのあり方も変わってくるだろう。特に、番組の製作の仕方や内容が、従来とは異なるものに「進化」していくと私は考える。
てみ(4)地上波テレビが危機を迎えていることは事実である。一切見ない、という人も周囲で増えてきたし、ネットで十分、という人もいる。テレビ関係者は、相変わらず各局の相対的視聴率の優位を気にしがちだが、テレビの本当の、そして最大のライバルはインターネットである。
てみ(5)最大のライバルのネットの特質をよく考えれば、テレビの未来(もしそれがあるならば)が見えてくる。地上波テレビは、刹那的でありすぎた。製作者はいつも忙しく、オンエアするとすぐに次の番組にかかる。よく言えば後を振り返らずに潔いが、別の言い方をすれば場当たり主義である。
てみ(6)しばしば批判される「金太郎飴」的なタレントの多用や、CMまたぎなどの手法も、瞬間最大風速的な視聴率をねらっていくからで、結果として出来上がるものは、5年後、10年後に視聴されるには耐えられない質のものになっている。いわゆる、テレビの「劣化」である。
てみ(7)インターネット上の淘汰圧は、少し違う。youtubeが典型だが、きちんとした内容のものをつくれば、それが次第に広がっていって、やがてたくさんの人に見てもらえる。「CMまたぎ」などの刹那的な手法は通用しない。淘汰に耐える内容の番組がないから、地上波離れが起こる。
てみ(8)今の地上波テレビの病理は、瞬間的な視聴率を最大化しようとするあまり、長期にわたる観賞に耐える内容のものを作れていない点にある。タレントの内輪話などその典型である。しかし、テレビとネットの融合が始まることで、番組の質は必ず向上する方向に淘汰圧が加わるだろう。
てみ(8)かつて自分が関わっていたから言うわけではないが、『プロフェッショナル 仕事の流儀』 は、長い間にわたって繰り返し視聴するに耐える内容のものになっている。テレビ関係者は、次第に、長期の内容淘汰圧を考慮して、番組つくりをするようになっていくのではないか。
てみ(9)テレビに未来なんかない、という人もいる。もう興味がない、という人も多い。しかし、ネットが提供するテレビの進化の可能性は、必ず良い方向へと働くはずだ。刹那主義との決別。「視聴率」ではなく、「累積視聴数」が番組評価の基準になった時、テレビ番組の印象は一変していることだろう。

2012年2月13日月曜日

典型的な知性よさようなら、非典型的な知性よこんにちは

てひ(1)「頭がいい」とはどういうことだろう。まず、しばしばある誤解をとけば、秀才は努力してできるようになるが、天才は努力しなくてもできるというのは嘘である。むしろ、天才は超人的な努力をする人。秀才は、中途半端な努力しかしない人。

てひ(2)脳の回路は、ある動作をしなければ可塑性も何もないのだから、天才は、それだけの履歴を通っている。だから遊び人の金さんのように、ぶらぶらと何もしないのに脳回路が形成されるということはあり得ない。もっとも、天才は努力を苦としないというのは本当だろう。

てひ(3)それで、いわゆる「IQ」で測れるような知性は、「典型的な知性」と言える。Spearmanの研究によれば、いわゆる学力には共通の因子、g factorがあり、このg factorに富む人が、勉強のできる人になるのである。日本で言えば、東京大学に行くような人となるのだろう。

てひ(4)私は別に東京大学が嫌いでも何でもないが(母校だから)、ふりかえってみると、才能のあるやつはそんなにいなかったな、と思う。勉強はできるが才能はない。これはつまり、勉強ができるのは典型的な知性に属することであり、才能や天才とは、非典型的な知性だということだと思う。

てひ(5)天才とは、どうやら脳回路の一回性の結びつきによるらしい。IQのような知性は、前頭葉の背外側前頭前皮質のような、脳の資源管理にかかわるいくつかの回路の動作である程度説明できそうである。実際、それを裏付ける研究もある。ところが、天才は、単一の因子では説明しにくい。

てひ(6)IQ的な頭の良さは収束進化するが、天才とは、生態学的なニッチがたくさんあって、しかもそこに至る道筋が死屍累々なのだろう。IQならば、上がればそれと同時に適応度も増すが、天才の適応度の山の周囲には、おそらくは深い谷がある。それもあって単一のモデルが当てはまらない。

てひ(7)インターネットに象徴されるグローバルな大競争の中では、典型的な知性はどんどんコモディティ化し、非典型的な知性こそが求められている。ここに東大や日本の没落の根本原因がある。だったら、どうやって非典型的な知性を発見し、育めばよいかを必死に考えた方がいい。

てひ(8)一つ確実なのは、ペーパーテスト偏重は全く無意味ということ。日本の大学は、いったい何時まで、試験で点数が一点でも高い方から採るのが「公平」だという欺瞞を続けるのだろう。典型的な知性にとってはぬるま湯かもしれぬが、それでは非典型的な知性に全く不公正である。

てひ(9)結局、非典型性ゆえに誰が天才になるのかわからないのだから、「場」として、差異を賞賛し、拡大する空気をつくるのが良い。誰が天才を開花させるか予測できないが、誰かは開花する。日本の発展を阻害している最大の要因は、みんな同じになれという同質化圧力。大学入試はその典型である。

2012年2月11日土曜日

みんなで話すと楽しいね

みた(1)G1サミットに行く、と言ったらみんな「えっ」と驚いているので、それで、そんなに有名な会議なのか、と思った。掘義人さんがさそってくださったから、それじゃあ行くか、と何も考えずに来たのである。

みた(2)堀義人さんとは、「エコノミスト」のフォーラムで討論したのがちゃんとお目にかかった最初で、そのときずいぶんと丁々発止やりあったので、東京支局長が「あれは一年間で一番おもしろいセッションだった」とあとでメールをよこした。

みた(3)その時、堀さんの率直なものいいとか、自分の意見をきちんと表現するお人柄に惹かれていたので堀さんがやっている会議だったら面白いだろうと、何も考えずに八戸から三沢に向かっていたら、会場についた。古牧温泉というのがあって、今は星野リゾートになっているという。

みた(4)会場に着いて、参加者名簿の入ったプログラムをもらったら、なるほど、有名な人とか力がある人がたくさんいる。堀さんは「日本のダボス」を目指してG1を立ち上げたのだそうだ。とりあえず、友人のウィリアム斎藤がやっているセッションに行こうと思った。そこでやらかしてしまった。

みた(5)セッションの議論の行き方が、どうにも納得がいかず、マグマがふつふつとたまっていたところに、ある参加者の方の中国の語り方にもう我慢ができなくなって、「おりゃあ」とちゃぶ台返しをしてしまった。ウィリアム、すまん。でも、噴火して、G1と仲良くなれた気がする。

みた(6)そのあとのクラウドとソーシャルのセッションでも実は噴火のマグマがたまっていたのだけれども、手元でやっていたある内職に気をとられて、つい発言するの忘れてしまった。だから、ここにかわりに書いて置こうと思います。

みた(7)どうも、日本のネット・ベンチャーはアメリカに比べるとスケール感が問題あると思う。ネットだというだけで、やっていることは案外チマチマしている。これはみんな感じていることだよね。サブカル的なコンテンツ生成力を、スケール劣等から質の優越へと転化するきっかけにできるかどうか。

みた(8)セッションで爆発したかったことは、日本のネット・ビジネスは確かにサブカル的吸引力においては優れているけど、大学や政府といった「エスタブリッシュメント」が無傷で残って国の競争力を下げていることについて。サブカル立派、エスタブリッシュメント無残。これが今の日本。

みた(9)夜の食事会でも、さすがにメンバーがそろっていて、楽しい議論ができました。堀義人さんは「面白い人が集まるだけで、そこから何かが始まる」と考えているらしいけど、確かにそうかもしれない。みんなで話すと楽しいね。今日も爆発をしないように気をつけよう。

2012年2月10日金曜日

ある日突然始めて、ずっと続けていく

あず(1)あれは、私が小学校5年生の頃だったか。ある日突然、私は「絵の教室に行きたい!」と言い出した。近くで絵画を教えている先生がいたのである。その週から通い始めて、結局大学生までずっと、週一回その教室に行って油絵を描いていた。今でも、なぜ始めたのかわからない。

あず(2)ただ、その日の、胸の中にもやもやとした気持ちはよく覚えていて、とにかく絵の教室に行こうと思った。美大を受けようとしていたわけでも、何か成算があったわけでもないし、ただ、絵を描いてみたいと思ったのである。それが、まさか10年以上続くとは思わなかった。

あず(3)私のアート好きは、どうもその頃に兆していて、後に東京芸大で教えたときに初めて「ああ、そうか」と思ったのだけれども、今ではアートは一つの大切な仕事の分野になっている。わけもわからず油絵を描いていた時代がなつかしい。芸大の教え子たちには、絶対に作品見せないけど。

あす(4)小学校に上がる前に蝶の採集を始めたときも、32歳でクオリアの問題に目覚めたときも、昨年、長い距離を歩き始めたときも、ある日突然始まるのであって、その時に別に理由や計画や目算があるわけではない。ただ、自分の内側の「波」のようなものに、ひょいと乗る感じなのである。

あす(5)つまり、人生とは波乗りのようなものではないかと思う。自分の無意識のうちにどんな波があるのか、いつも測っている。そして、これは大きな波だ、と思ったら、ひょいと乗ってしまう。波はすぐに消えてしまうものもあるけれども、遠くまで運んでいってくれるものもある。

あず(6)ある日突然初めて、消えてしまうこともある。私の人生でも、忘れていて、やりかけたことはたくさんあるはずだ。しかし、ある波が続くものか、勢いがあるかどうかは、とりあえず乗ってみないとわからない。一番もったいないのは、波が足下を浸しているのに、呆然と佇んでいることであろう。

あず(7)ツイッターでこの「連続ツイート」を始めたときも、何も考えていなくて、一瞬の思いつきだった。ただ、その時、「ふわっ」と身体が浮上する感じだったことは覚えている。今日、この連続ツイートは500回を迎えたが、まさかこんなに長くやるとは思わなかった。

あず(8)ある日突然始めて、ずっと続けていく。どうやら、人生を変えるための方程式は、そこにあるようだ。いつ、何が始まるのか、それは意識には把握できない。無意識のうちで、他の人や世界とつながりつつ、ある日足元をひたひたと浸す波が準備されている。

あず(9)クオリアの問題に遭遇したのは1994年の二月だったから、そろそろ18年になる。私の性格からして、決して諦めないで考え続けるのではないかと思う。ある日突然始めて、ずっと続けていく。この連続ツイートもまた、そんな波乗り人生の一つのかたちになりそうだ。

2012年2月9日木曜日

根拠のない自信を持つ人は、努力でそれを裏付けようとする

こど(1)この世を生きる上で一番大切なものの一つ、それは「根拠のない自信」だと思う。これがなければ、そもそも努力しようという気持ちにならない。また、難しいことにチャレンジしようという気にもならない。根拠のない自信を維持することが、何よりも大切である。

こど(2)人間は、生まれたときには誰でも根拠のない自信をもっている。そもそも、この世の中の多くのことが、まったくわからない。はいはいしたり、伝い歩きをするときだって、自分がそれをどのようにしたらいいのか、実はわかっていないのに平気でチャレンジする。

こど(3)思いだしてほしい。初めてはいはいする時、「やっぱりやめておこう」と思ったり、初めて伝い歩きする時、「今日は調子が悪いから、来週の日曜に延期しよう」などと思っただろうか? 根拠のない自信があるからこそ、私たちは人生の課題に挑んでいくことができるのだ。
こど(4)つまり、ここで言う「根拠のない自信」とは、生きるという意欲のようなものであって、それがあって初めて私たちは発展することができる。逆に、「根拠のない自信」が失われてしまえば、私たちの発展はとまってしまう。
こど(5)根拠のない自信を奪うものは、この世にたくさんある。たとえば、学校における行
きすぎた点数主義、偏差値主義。ユニークな「才能」とそのような「標準的な」学力は関係がないのに、多くの人が根拠のない自信を奪われて、「私はこの程度だ」と思わされる。これは社会的損失である。
こど(6)日本人は、このところ、「根拠のない自信」を失っているように思われる。だから、モーレツになれない。目が輝いていない。日本が再生するために何よりも必要なこと。それは、「明日は今日よりもよくなる」という「根拠のない自信」以外の何ものでもないだろう。
こど(7)もっとも、「根拠のない自信」だけあっても意味がない。時々、若者で「茂木さん、オレ、そのうちビッグになりますから」と言うやつがいるが、そういうやつに限って努力をしていない。それはつまり、自分の夢を、本気では信じていないということだ。本当は、自信などないのだ。
こど(8)「根拠のない自信」を持つということは、大言壮語していい気持ちになる、ということではない。むしろ不安なのである。駆り立てられるのである。自分が持っている夢の大きさからして、本当にそれを実現するとしたら、どれほど大きな努力をしなければいけないかということを知っている。
こど(9)だから、「根拠のない自信」を持っている人は、努力でそれを裏付けようとする。天才とは凄まじいまでの努力をする人のことで、秀才とは中途半端な努力をする人のことである。その意味で、「根拠のない自信」を持ち続けることは、本当に難しい。もしできたら、その人の人生はすばらしい。

2012年2月8日水曜日

落語は、落伍者に温かい

らら(1)体験というものは、種となって、育っていく。だから、幼少期から、なるべくいろいろなことを体験した方がいい。世の中を生きていると、いろいろな課題があり、壁があるけれども、そんなとき、案外自分の中にすでにそれを乗りこえるための種があることが多いのだ。

らら(2)全校集会などでしゃべることはよくあったと思うけど、記憶に残っているのは小学校5年生のとき。学生科学展の蝶の研究が良い賞に入り、まずは大人たちの前でプレゼンした。OHPを使って、生まれて初めての「学会発表」だった。

らら(3)それで、私がいたのは新設の小学校で、校歌ができたのというのでその制定発表会でみんなの前で蝶の研究の話をした。その時の写真も残っている。半ズボンで話しているけれども、実は、がちがちに緊張して、 声がうわずっていたのではないかと思う。

らら(4)今では人まえで話すのは簡単で、それこそ聴衆を見て、クオリアの難しい話をするのも、綾小路きみまろさんのように漫談をするのも自由自在、くらいに思っているけれども、最初に人前で話し始めたときは、上がっていた。そのことを振り返ると、緊張には意味があると思う。

らら(5)緊張するということは、つまり、自分の脳が何をするべきかわかっているということである。だから、「緊張するということは、才能があるということなんですよ、それを乗りこえればだいじょうぶですよ」と、緊張するんだと相談してくる方には言うことにしている。

らら(6)人前で喋るのが、フロー状態になったあとで、ある時ふとわかったことがある。幼少期、寄席好きの祖父や父に連れられて、数限りなく上野や浅草、新宿に通った。あの経験が、間違いなく自分の糧となり、支えになってくれているということを。高座での話の振り方や間の取り方。

らら(7)寄席の空気を、知らずしらずのうちに体得していたのだろう。ああ、そうか、と思った。そして、人生、ムダなことなど一つもなくて、思わぬ経験が、いざというときに役に立ってくれるんだな、と思った。だから、何でも経験しておかなくてはならない。寄席もその一つ。

らら(8)もう一つ。英語の世界で日本代表でがんばるというのが私のミッションだけど、時々疲れると落語を聞く。すると本当にいやされる。先日も柳家小さん(五代目)の「道具屋」を聞いて、深くいやされた。与太郎が出てくるのだけれど、向けられる視線が本当に温かいのだ。

らら(9)与太郎は、ももひきを「しょんべんできませんよ」と言ったり、おじさんの商売は「ど」がつく、じゃあ「どろぼうだ」と言ったり、とにかく使えないし役に立たない。そんな人にも温かい目で居場所を与える落語。グローバルな競争で闘うことと、誰にでも温かい目を向けることの両立。

2012年2月7日火曜日

連続ツイートについての、連続ツイート

れれ(1)私は何かを始めるときは実は何も考えていないで突然始めることが多いのだけれども、この「連続ツイート」もそうだった。http://twilog.org/kenichiromogi/month-1004を見ると、2010年4月の時点ではまだやっていないようだ。いつから始めたんだっけ?

れれ(2)何も考えることなく、突然なんとなく始めた「連続ツイート」。いつの間にか習慣として定着して、ぼくも楽しみにしている。以前は、「・・で見ています!」とテレビ番組を挙げる方が多かったが、最近は「連続ツイート読んでいます!」と言ってくださる方が、本当に増えた。

れれ(3)本当は、今日の連続ツイートが通算何回目なのか、twitlogなどで調べてみたいのだが、なかなかできない。もし、どなたか、数えてくださる方がいらっしゃったら、心から感謝します! 毎回、「連続ツイート第*回をお届けします」と書きたいのだ。

れれ(4)何を書くかは事前には本当に考えていなくて、朝起きてトイレに行って、コーヒーを入れながら、「そうだなあ、アレにするか」なんて決めている。それで、コンピュータの前に座って、おもむろに書き始める。どんな文字列が出てくるか、自分でもわからないのだ。

れれ(5)時々、「茂木さんの連続ツイートのまねをして書いてみました」というツイートを見かけて、ありがたいことだと思う。大切なのは、「脱抑制」。脳というのは不思議なもので、うまく抑制を外すと、あとは泉がこんこんとわくように、言葉が出てくるものなのである。

れれ(6)最初の二文字のタイトルは何なのですか、というご質問がある。最後に「・・・・」の連続ツイートをお届けしましたというまとめの文章の、文節のかしらもじのひらがなである。連続ツイートをライブで読みながら、二文字タイトルが何なのか推理する方もいて、一種のゲームになっている。

れれ(7)なぜ(9)までなのか、という質問も時々ある。初期は、数が定まっていなくて(15)くらいまであったこともあると記憶する。桁がふえると一文字分スペースを喰ってしまうので、統一性が失われるから(9)までにそろえた。フォーマットを決めてしまった方がリズムが出る。

れれ(8)連続ツイートは、私がツイッターをやっている限り(つまり、生きている限りということになりそうだけれども)、ずっと続けていきたいと思っている。「私塾」というほどの大げさなものではないけれども、私が大切だと感じることについて、毎朝お届けしていきたい。

れれ(9)そうそう、肝心なこと。なぜ、ブログなどでまとめて書かないで連続ツイートなのかと聞かれることがあるけれど、項目毎にRTしたりコメントできるというツイッターの機能を活かしたいから。ある日突然生まれた「連続ツイート」ですが、私にとってはツイッターの可能性の中心にあります。

2012年2月6日月曜日

ナッシング・パーソナル

なぱ(1)こんなことを言うとかっこつけているようだが、私の怒りは多くが義憤であり、私憤はあまりない。「世の中がこうあるべき」なのに「そうなってい ない」というのが爆発の大元であって、自分自身がバカにされたり、ないがしろにされたりという場合は、むしろ悲しくなってしまう。

なぱ(2)でも、世の中には私憤で生きている人もいて、おじさん関係にそういう人が多い。そういう人がいると、私は酒場だったらにじにじと横に行って距離を置き、ぱっとドアを開けて後ろを振り返らずに逃げていく。あるいは、そよ風のようにニコニコしていて悟られない。

なぱ(3)自分自身が嬉しかったり得することは、それはあった方がいいけれども、それよりも世の中の矛盾や不条理の方が気になる。これはどうも子どもの頃からの性格のようなものであって、その意味では、「世渡り」という意味においては、随分損をしているように思う。

なぱ(4)あくまで義憤であって私憤ではない、という点に加えて、もう一つ大切にしていることがある。それは、私の怒りの対象は制度やシステムであって、 決して生身の人間ではないということ。これもかっこつけているようだが、実際そうであって、譲れない一線だと思っている。

なぱ(5)たとえば、私は記者クラブを批判するけれども、それは制度やシステムとしての記者クラブであって、そこで実際に働いている記者さんたちにはむし ろ温かい気持ちを持つと思う。それぞれ生活があり、人生がある。生きること自体は肯定するのであって、それが人間どうしだから。

なぱ(6)東京大学の入試のあり方が問題だ、国際化していないと批判はしても、一人ひとりの先生方を否定しているのではない。東大には大切な友人がたくさんいるし、母校でもある。批判は、あくまで、システム、制度に向かっているのだ。

なぱ(7)英語で、Nothing Personalという言い方がある。よく、議論が紛糾して、みんながきりきりし始めたときに、誰かがNothing Personalと言う。ナッシング・パーソナル。この精神を貫くことが大切だと思う。そうでないと、単なる私憤合戦、肉弾戦になってしまう。

なぱ(8)改革に必要なのは、Nothing Personalの精神ではないか。坂本龍馬だって、別に江戸幕府の人たちが憎くて走り回っていたわけではない。あくまでも、新しい日本へ向けての「オペ レーティング・システム」の書き換えを図っていたのだ。個人の問題にしてはいけない。

なぱ(9)今の日本を見ていて気になるのは、異を唱えるにしても、システムを変えようとするにしても、Nothing Personalどころか、むしろ個人攻撃や、敵対心が見えることだろう。それじゃあ、いい結果にはならない。何よりも、私事や私憤に囚われている人は、 端から見て美しくない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年2月5日日曜日

一人ひとりがメディア・カンパニーになる

ひめ(1)津田大介さんとツイッターの話をして、面白かった。メーリングリスト、掲示板、メルマガ、・・・さまざまなメディアを使ってきた中で、ツイッターに個人的な時間、注意の資源を投入し続けているのは、それだけツイッターを使っている時間が充実しているからだろう。なぜか。

ひめ(2)以前にも書いたように、ツイッターは実はSNSではなく、ミーム(文化的遺伝子)を単位としたネットワーク・ダイナミクスだからである。思わぬセレンディピティがあり、つながりができる。そのことによって、自分のネットワークが動的に拡大していくよろこびがある。

ひめ(3)ところで、みなさんには、フォロワー数をある程度増やす努力をすることをお薦めしたいと思う。ツイッターのフォロワー数は、たとえば新聞やテレビといったメディアに比べれば無視できるほど小さいけれども、あなたが発信している情報に特化した、実質的な人たちが集まる可能性がある。

ひめ(4)アメリカのある会社が、元従業員が公式アカウントのフォロワー(約1万人)を退社後も引き継いでしまったと民事訴訟をした。その時の損害賠償請求額が、フォロワー一人あたり一ヶ月2.5ドルだったという。その算定の根拠は明らかではないが、ある程度のフォロワー数は、社会的資本になる。

ひめ(5)@tsuda さんも言っていたが、ツイッターは、「正直者」が報われる場だと思う。どんなことでもいい。あるテーマについて情報を発信し続けたり、あるいは自分の人柄がにじみ出るようなつぶやきを続け、お互いにフォローすることで、「フォロワー生態系」ができる。

ひめ(6)@tsuda さんは、御自身のメルマガや著書についてつぶやいている人はフォローするというポリシーなのだという(「ワンクリック営業」だと言っていた)。私はつぶやきの内容重視で、すばらしいつぶやきだったら、一発で「即フォロー」することもある。

ひめ(7)ツイッターという表現の場が志向している未来は、「一人ひとりがメディア・カンパニーになる」ということ。マスメディアのように数を追うだけでなく、あるイッシューについて実質的に興味を持つ人たちの「志の共同体」をつくること。継続して発信し続けて、初めてそれは可能になる。

ひめ(8)ネットワーク上の影響力を計量するKloutのようなサービスも登場してきた。近い将来、テレビなどのマスメディアと一人ひとりの発信者が、同じプラットフォームの上で比較される時代が来る。つまり、あなたとフジテレビが、定量的に比べられる時代が来るのだ。

ひめ(9)ツイッターは、何か表現したいことがあったり、目的としていることがある人にとっては、「実験」と「実践」の場だということができる。フォロワー数なんてどうでもいいと「皮肉のスタンス」をとらずに、メディア・カンパニーとしてある程度のフォロワー数を実現してみてはどうか。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年2月4日土曜日

ものづくり2.0のために必要なこと

もひ(1)数年前だったか、WEDGE(http://wedge.ismedia.jp/category/wedge)を読んでいると、よく日本の家電メーカーのことが書かれていた。なんでこんなに取り上げられるんだろうと思ったが、経済の中でのプレゼンスも高いし、一般の関心強かったのだろう。

もひ(2)それが、最近あまり家電メーカーの記事を見なくなった。いろいろ不調が続いているし、時代の流れが変わってしまったのだろう。そして、大手家電メーカーの三月期の赤字が報道された。円高の影響もあるとは言え、日本のものづくりの危機が今、ここにあることは誰もが認識する。

もひ(3)なぜ、日本の家電メーカーは不調になったのか。情報ネットワークと結びついた「ものづくり2.0」に適応できていないからである。そして、問題はソニーやシャープ、パナソニックだけにあるのではない。日本の社会全体として、「ものづくり2.0」に適応できる体制になっていない。

もひ(4)アップルのiPhoneやiPadのハードそのものはアメリカで作っているわけではない。それを、iOSや、ネットワークサービス、アプリのストア、iTunesでのコンテンツ販売といった情報ネットワークと結びつけたソリューションを設計している点に、最大の付加価値がある。

もひ(5)日本のメーカーは、ものづくり自体においては依然として優秀である。実際、スマートフォンに使われる撮像素子などでは、日本メーカーの存在感が大きく、利益も上がっている。圧倒的に苦手なのは、情報ネットワークと結びついた付加価値の生み出し方。これは、国難である。

もひ(6)インターネットという新しい文明の波の本質は、「偶有性」。規則性とランダム性が入り交じった新しいものづくりがなければならない。ところが、日本人は特定の文脈に適応するのは優秀でも、何が起こるかわからないインターネットの世界でプラットフォームをつくるのが、徹頭徹尾苦手。

もひ(7)偶有性が苦手な日本人のメンタリティは、至るところに表れている。たとえば大学入試。未だに、ペーパーテストで点数の高い方からとるのが公正で有効だと思っている。あるいは新卒一括採用。非典型的な人材、キャリアを評価できない。なぜならそれは偶有性のかたまりだから。

もひ(8)ものづくり2.0への道筋は、実は論理的には明確である。ペーパーテスト偏重の大学入試を変えること。たとえば、スーパーハッカーは率先して東大に入れてしまう。就活の根本的改革。新卒一括採用では、iPhoneを生み出す人材は生まれない。日本人のマインドセットを変えねばならぬ。

もひ(9)日本が不調になり、国難を迎えていることには、インターネット、グローバル化の下での偶有性への不適応という、明確な理由がある。とるべき対応策も、実は明確である。そのことは新潮45連載「日本八策」でも議論する予定だが、みなさんも一人ひとり、考えて見ませんか。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年2月2日木曜日

原理を貫くことと、融通無碍であること

げゆ(1)禅僧の南直哉さん(@jikisai_minami)とは、対談して『人は死ぬから生きられる』という本をつくった。今は恐山の院代をされている直哉さん。大変深い思想をもった方で、お目にかかる度にいろいろなことを示唆され、考えるきっかけをいただいている。

げゆ(2)仏教は宗教であると同時に思想である。「無記」の思想に特に心を惹かれる。魂があるか、死後の世界があるか、どうして私たちはここにいるのか、そのような問いに「私は答えない」と仏陀は言った。そのような問いを立てるよりも、今、ここの生きる苦しみを救うことが先決であると。

げゆ(3)直哉さんの話で印象に残っているのが、世間では、生きるということや、前向きということを肯定的な価値としてとらえがちだが、宗教者は、生も死も、本当は区別はないかもしれないというところまで一度は 降りていって、その上で、生きることを語り、支えるということ。振れ幅が広いのだ。

げゆ(4)厳しい修行をして、考えている人には独特のオーラがある。直哉さんが修業のため永平寺に入ったら、突然女性にもて始めたというのもわかる気がする。永平寺を歩いていると、すれ違う禅僧たちが、同じ空間にいながら我々俗のものとは異なる空気をまとっていることに心打たれる。

げゆ(5)その直哉さんが言われたことで、特に心に刺さったのが、融通無碍の問題である。ある時、東北で住職をしている時に、おばあさんが直哉さんに聞いた。お坊さん、私は死んだら極楽に行けますかね? 目の前に、見上げるおばあさんの瞳がある。

げゆ(6)そんな時に、「いいかい、おばあちゃん、仏教ではそもそも無記と言ってね、魂があるかどうか、死んだら極楽があるのかどうか、そういう問いについては、答えない、ということになっているんだよ」と言えば原理を貫くことになるのだろうが、直哉さんはそうはしなかった。

げゆ(7)「それはそうだよ。おばあちゃんのように苦労した人が、極楽に行けなかったら、誰が行けるというの。おばあちゃんは、まだまだ元気で死なないけど、死んだから必ず極楽に行けるから」と直哉さんは答えたというのである。

げゆ(8)私たちの生きる現場はふしぎなやわらかさに包まれている。人と人が向き合うときに、私たちは相手の心の奥にある消息を聞く。そのとき、必ずしも「原理」を貫かなかったとしても、それは決して妥協でも優柔不断でもなく、一つの命の理のようなものではないのだろうか。

げゆ(9)原理を貫くことと、融通無碍であること。その間のバランスは難しい。イデオロギーは時に人を殺す。もちろん、一切の原理がなくていいというのではない。「無記」の思想に深く感じながらも、目の前のおばあちゃんに「極楽に行けるよ」と言う。その時、きっと人間の顔をしている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年2月1日水曜日

英語を知るんじゃなくて、英語を生きようよ

ええ(1)TOEICをやっても意味がない、と書いたら、いろいろ反響があった。TOEICそのもの、あるいはその対策で「儲けて」いる方々もいるわけだから、人の商売の邪魔をしたくはないけれども、やはり、あのような語学試験には、根本的に邪悪な側面があると思う。

ええ(2)今読んでいるBabel no moreという本に面白いことが書いてあった。たくさんの言葉を喋るpolyglotのこと(とりわけ、伝説的なMezzofantiという人物)について書かれているのだが、外国語を習得するということがどういうことかについて考えさせられる。

ええ(3)ある言語学者の見解として、単にある言語を「知っている」だけでは、本当の話者とは言えない。本当の話者と言えるためには、その言語を「生きて」いなければならない。英語で言えば、英語を知っているのではなく、英語を生きていなければならないのだ。

ええ(4)英語を生きるとは何か? 私には忘れられぬ体験がある。普通に中学3年間で英語を学び始め、成績は実は抜群に良かった。高校1年の時に、カナダのヴァンクーバーに一ヶ月語学研修に行った。ホストファミリーのお母さんが、迎えにきた。どんな家だろうとどきどきした。

ええ(5)家についたら、いきなり二人の男の子がとびついてきた。ランディーとトレヴァー、当時それぞれ10歳と8歳。いきなり、「ケン、人生ゲームをして遊ぼう」という。あとで分かったのだけど、ホストファミリーとしては、子どもたちの遊び相手としても期待していたらしい。

ええ(6)それからの一時間ほどは、人生でもっとも大変な試練だった。子どもは、ぼくが英語がうまいとか、ヘタだとか、一切気にせずに、容赦なくいろいろ話してくる。しかも人生ゲーム。結婚とか就職とか、そんなことについて気の利いたことを言わなければならない。マックスがんばった。

ええ(7)振り返って思うのは、ランディー、トレヴァーと人生ゲームをするまで、私は「英語を生きる」ことがなかったということ。会話を重視する、という意味ではない。英語圏の文化や価値観に触れて、その中で生きて見なければ、英語なんてやっても仕方がないということである。

ええ(8)昨日アサカルに来た芸術系の学生が持っていた英語教材を見て、あまりのひどさに絶句した。ミスターイトーがどうしたとか、いかにも作った不味い文章。おれは怒って、ほら、flipboardで最新のニュース見ろよ、Moby DickだってAnneだって何でも読めるぞ、とけしかけた。

ええ(9)TOEIC対策なんかやっても、「英語を生きる」ということに全く寄与しない。オレだったら、一秒たりともそんなもんに費やす時間はない。だって、英語圏にしかない、面白い「生の素材」たくさんあるんだぜ。脂を抜いちゃった秋刀魚のような、二流の不味い英語読んでいると、マジ魂腐るよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。