2012年2月16日木曜日

いわゆる一つのおやじギャグについて

いお(1)私が子どもの頃は、「おやじギャグ」という言葉はなくて、「だじゃれ」と言っていた。そして、「だじゃれ」は主に「おやじ」が言うものという認 識もなかった。むしろ、元気いっぱいの子どもたち(オレ達のことね)がわーわー飛び回りながら言いまくっていたように思う。

いお(2)「へたなしゃれはやめなしゃれ」とか、「これ、村田くんにむらった」とか、小学校の教室でそんなことばかり言ってわあわあ騒いでいたのを覚えて いる。最悪だったのは、給食の牛乳を飲むときにだじゃれを言うのが流行ったときで、あの頃は苦しかった。へたすると、鼻からぷっと吹き出すのだ。

いお(3)しかもその頃は牛乳瓶だったから、吹き出したときの勢いも半端なく、みんな、給食が始まるとだじゃれで笑わされる前に牛乳を飲んでしまおうと、 必死になって抜け駆けした。「だじゃれ戦争」のピークは小学校2年生のとき。3年になったらテトラパック。ほっとする一方でさみしかった。

いお(4)振り返って思うのは、子どもの頃の「だじゃれ」は元気いっぱいの現れで、決して「寒い」ものではなかったということ。それが、いつの間にか世間 では「おやじギャグ」と言って迫害されるようになったのだから、世の栄枯盛衰は時に私たちの魂を真綿のようにしめてくるよね。

いお(5)ぼくは、子どもの頃の「だじゃれ」のイメージだったから、「おやじギャグ」と迫害される理由が長い間わからなかった。それが、フジテレビの番組 の収録中にタモリさんと話していて、やっとわかった。「おやじギャグ」が忌避されるのは、そこに日本社会独特の権力構造があるかららしい

いお(6)どうも、日本の社会では、おやじが「ギャグ」を言うと、周囲がそれに追従して笑わなければならない、というようなことがあるらしい。つまり、だ じゃれを言うのは権力者であり、空気を支配しようとする。その流れがどうも嫌われているらしいのだ。だったら、だじゃれには罪はないよん。

いお(7)笑いが権力関係と深く結びついているのは本当。だけど、ぼくはむしろ下克上だと思っているけどな。つらいこと、苦しいことがある時に、それを笑 いの力でプラスに変える。笑いを一番必要としているのは、権力者ではなく、虐げられた人たちだ。これは国際的にそうじゃないかな。

いお(8)「おやじギャグ」がうんぬんされるのは、日本の社会での笑いの堕落を背景としているんだろうね。そう思って注意して見ると、確かに「おやじ」が場を支配する傾向がこの国ではあるけど、それは、子どもたちの元気いっぱいのだじゃれとは、全く関係ないよね。

いお(9)だじゃれに当たるのは英語ではpunだろうけど、日本みたいに迫害されているという話は聞かない。「おやじギャグ」がいやだ、というのは日本の 社会の文脈。別にそんなに迫害しなくてもいいんじゃない? かえって囚われているように思う。だじゃれを、「おやじギャグ」史観から解放しよう!