2012年2月6日月曜日

ナッシング・パーソナル

なぱ(1)こんなことを言うとかっこつけているようだが、私の怒りは多くが義憤であり、私憤はあまりない。「世の中がこうあるべき」なのに「そうなってい ない」というのが爆発の大元であって、自分自身がバカにされたり、ないがしろにされたりという場合は、むしろ悲しくなってしまう。

なぱ(2)でも、世の中には私憤で生きている人もいて、おじさん関係にそういう人が多い。そういう人がいると、私は酒場だったらにじにじと横に行って距離を置き、ぱっとドアを開けて後ろを振り返らずに逃げていく。あるいは、そよ風のようにニコニコしていて悟られない。

なぱ(3)自分自身が嬉しかったり得することは、それはあった方がいいけれども、それよりも世の中の矛盾や不条理の方が気になる。これはどうも子どもの頃からの性格のようなものであって、その意味では、「世渡り」という意味においては、随分損をしているように思う。

なぱ(4)あくまで義憤であって私憤ではない、という点に加えて、もう一つ大切にしていることがある。それは、私の怒りの対象は制度やシステムであって、 決して生身の人間ではないということ。これもかっこつけているようだが、実際そうであって、譲れない一線だと思っている。

なぱ(5)たとえば、私は記者クラブを批判するけれども、それは制度やシステムとしての記者クラブであって、そこで実際に働いている記者さんたちにはむし ろ温かい気持ちを持つと思う。それぞれ生活があり、人生がある。生きること自体は肯定するのであって、それが人間どうしだから。

なぱ(6)東京大学の入試のあり方が問題だ、国際化していないと批判はしても、一人ひとりの先生方を否定しているのではない。東大には大切な友人がたくさんいるし、母校でもある。批判は、あくまで、システム、制度に向かっているのだ。

なぱ(7)英語で、Nothing Personalという言い方がある。よく、議論が紛糾して、みんながきりきりし始めたときに、誰かがNothing Personalと言う。ナッシング・パーソナル。この精神を貫くことが大切だと思う。そうでないと、単なる私憤合戦、肉弾戦になってしまう。

なぱ(8)改革に必要なのは、Nothing Personalの精神ではないか。坂本龍馬だって、別に江戸幕府の人たちが憎くて走り回っていたわけではない。あくまでも、新しい日本へ向けての「オペ レーティング・システム」の書き換えを図っていたのだ。個人の問題にしてはいけない。

なぱ(9)今の日本を見ていて気になるのは、異を唱えるにしても、システムを変えようとするにしても、Nothing Personalどころか、むしろ個人攻撃や、敵対心が見えることだろう。それじゃあ、いい結果にはならない。何よりも、私事や私憤に囚われている人は、 端から見て美しくない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。