2012年2月1日水曜日

英語を知るんじゃなくて、英語を生きようよ

ええ(1)TOEICをやっても意味がない、と書いたら、いろいろ反響があった。TOEICそのもの、あるいはその対策で「儲けて」いる方々もいるわけだから、人の商売の邪魔をしたくはないけれども、やはり、あのような語学試験には、根本的に邪悪な側面があると思う。

ええ(2)今読んでいるBabel no moreという本に面白いことが書いてあった。たくさんの言葉を喋るpolyglotのこと(とりわけ、伝説的なMezzofantiという人物)について書かれているのだが、外国語を習得するということがどういうことかについて考えさせられる。

ええ(3)ある言語学者の見解として、単にある言語を「知っている」だけでは、本当の話者とは言えない。本当の話者と言えるためには、その言語を「生きて」いなければならない。英語で言えば、英語を知っているのではなく、英語を生きていなければならないのだ。

ええ(4)英語を生きるとは何か? 私には忘れられぬ体験がある。普通に中学3年間で英語を学び始め、成績は実は抜群に良かった。高校1年の時に、カナダのヴァンクーバーに一ヶ月語学研修に行った。ホストファミリーのお母さんが、迎えにきた。どんな家だろうとどきどきした。

ええ(5)家についたら、いきなり二人の男の子がとびついてきた。ランディーとトレヴァー、当時それぞれ10歳と8歳。いきなり、「ケン、人生ゲームをして遊ぼう」という。あとで分かったのだけど、ホストファミリーとしては、子どもたちの遊び相手としても期待していたらしい。

ええ(6)それからの一時間ほどは、人生でもっとも大変な試練だった。子どもは、ぼくが英語がうまいとか、ヘタだとか、一切気にせずに、容赦なくいろいろ話してくる。しかも人生ゲーム。結婚とか就職とか、そんなことについて気の利いたことを言わなければならない。マックスがんばった。

ええ(7)振り返って思うのは、ランディー、トレヴァーと人生ゲームをするまで、私は「英語を生きる」ことがなかったということ。会話を重視する、という意味ではない。英語圏の文化や価値観に触れて、その中で生きて見なければ、英語なんてやっても仕方がないということである。

ええ(8)昨日アサカルに来た芸術系の学生が持っていた英語教材を見て、あまりのひどさに絶句した。ミスターイトーがどうしたとか、いかにも作った不味い文章。おれは怒って、ほら、flipboardで最新のニュース見ろよ、Moby DickだってAnneだって何でも読めるぞ、とけしかけた。

ええ(9)TOEIC対策なんかやっても、「英語を生きる」ということに全く寄与しない。オレだったら、一秒たりともそんなもんに費やす時間はない。だって、英語圏にしかない、面白い「生の素材」たくさんあるんだぜ。脂を抜いちゃった秋刀魚のような、二流の不味い英語読んでいると、マジ魂腐るよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。