2012年2月21日火曜日

近いものと、遠いもの

ちと(1)昨日の宮古島の講演会で、話そうと思ってつい忘れてしまったことについて書く。前から宮古島には来たかったんだけど、今回初めて来た。飛行機が空港に下りていくとき、美しい島の光景が見えた。家々がゆったりと佇んでいて、その間に木々がある。すべてを海が包んでいる。

ちと(2)それで、全く違う光景だけど、15歳のときに初めて外国に行ったときのことを思いだした。カナダのヴァンクーバーの国際空港に飛行機が下りていったときの光景。きれいな芝生とプールのある家々。その間の木々。ひと目見て、日本とは違う生活スタイルに魅せられた。

ちと(3)昨日、宮古島の空港に下りていったとき、ぼくは15歳の時にヴァンクーバーに行ったときと同じ衝撃を受けただろうか。ぼくの心は、まだ新鮮さを受け入れるのだろうか。近いものと遠いもの。あれこれと考えていたら、現代の私たちにとっての課題が見えてくる。

ちと(4)最初に沖縄のことを意識したのは、家庭教師で教えていた黒坂正紀が、沖縄に行った写真を見せてくれたときだったかな。あの頃、沖縄はまだ遠く感じられた。そして、当時小学生だった黒坂くんがにっこり笑っているその場所は、とても魅力的で、はるかな場所に見えた。

ちと(5)沖縄に来て、もう二十回とか三十回にもなるのだろうけど、次第に理解も愛も深まってくるし、友人もできてくる。そんな中で、あのとき写真の中にみた「あこがれ」も、忘れてはいけないように思う。遠くにあるものを見つめることでしか育まれない心があるから。

ちと(6)昨日も言ったけれども、もう「東京」を経由する必要などない。インターネットで、世界中が直接結ばれている。世界のさまざまが、「近く」のものとなった。ワンクリックでどこでも行ける。それは素晴らしいことだけれども、一方ではるかなものも忘れてはいけない。

ちと(7)昨日、宮古島の習慣である「おとーり」をやって、みんなで一人ひとりスピーチをして、泡盛を飲んだ。あのようなとき、目の前にいる人間の内面生活がはるか彼方の天体よりも遠い存在であることに、改めて驚く。ワンクリックで世界のどこでも行けるが、目の前の人の心はそういうわけにいかぬ。

ちと(8)とても近いものと、はるかに遠いものが、私たちの生活の中に共存し始めている。そんな中で、近いものの複雑ネットワークを疾走するセンスと、はるかなものにあこがれ、思いやる心と、その両方が求められている。現代における、一つの健康的程度として。

ちと(9)小川未明の「金の輪」。太郎が見ていたものは、なんだったのだろう。太郎は、どこに行ってしまったのだろう。ネットがすべてを近づけて、血のめぐりの悪い古い組織や習慣が消えてしまうのはちっとも惜しくないけれども、はるかなものだけは心の中に大切にしておきたい。