2011年8月31日水曜日

仏教の「無記」の思想から、「言葉にとらわれずに飛翔すること」についての連続ツイート

こひ(1)ある男が、いろいろ質問した。人間はどこから来たのか、死んだら魂はどうなるのか、天国や地獄はあるのか。世界はどうしてあるのか、それに対して、釈迦は、「私はそういう質問には答えない」と言った。いわゆる、「無記」の思想である。

こひ(2)釈迦は言った。目の前に毒矢に当たって苦しんでいる男がいたら、その苦しみを助けてあげるのが先決だろう。矢はどこから飛んできたのか、誰が放ったのか、毒は何なのかという問いは二の次であると。「無記」は実践倫理であると同時に、深い認知哲学を含んでいる。

こひ(3)大切なことは、やたらと言わない方がいい。言うことによって、生命運動がとらわれてしまう。言葉以前の、ぐにゃぐにゃとかたちにならない軟体動物こそが命である。それは全体として感知し、生きなければならないのであって、言葉で固定することには意味がない。

こひ(4)人間は、いかに簡単に言葉にとらわれてしまうことだろう。学歴、性別、国家、肩書き、概念、イデオロギー。言葉を、共有するつてとして使うので あればいい。そうではなくて、固執する糊としてしまっては、その人の命の輝きは半減する。曇った人の、いかに多いことだろう。

こひ(5)たとえば、日本の政局報道における「小沢」という符丁。本来は、経歴も、思想も、人柄も多様な議員たちが集っているのに、それを「小沢」に対する親反でとらえて思考停止する。釈迦の「無記」の思想は、言葉の持つ危険な固定化作用に対する、すぐれた解毒剤である。

こひ(6)ヴィトゲンシュタインの「言語論的展開」は、釈迦の「無記」によって先取りされている。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」まさに語り得ないからこそ、生命にとっては大切なこととなる。論理哲学論考は、生命哲学の書でもある。

こひ(7)「日本」という言葉も、人の言葉を釘付けにして生命を曇らせることがある。その言葉を固定化することによって、オープン・ダイナミカル・システ ムとしての命の本質が失われる。「日本」のやわらかで、ふくよかな本質が、ことさらに言挙げすることで失われてしまうのだ。

こひ(8)言葉にとらわれないということは、つまり、一つの保留の態度でもある。決めつけない。本質がどのようなものであるか、徒にこわばらない。「私は仮説をつくらない」とニュートンは言った。実際には、凡庸な日常は仮説だらけである。それで、一向に反省しない。

こひ(9)言葉にとらわれず、だからこそ飛翔すること。そこに私たちの生命の本来のふくよかさがある。特定の言葉にとらわれている人の精神は、すでに若々しさを失っている。硬直した認識は、「言葉」にすがろうとして、結局は「言葉」の海の中に自分を見失ってしまうのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月30日火曜日

「民間と政治」の関係についての連続ツイート

みせ(1)民主党の代表選挙を見て、印象に残ったこと二つ。一つは、演説にその人のそれまでの人生の全てが表れるということ。もう一つは、みんな、演説に基づいては投票しないのだということ。特に後者については、膝から崩れ落ちるような脱力感があった。


みせ(2)そもそも、なぜ選挙や投票があるのだろう。民間には、いろいろな考えの人がいい。世間という生態系は、十分に大きい。どんな極端な人も、ふしぎな人も、この世にいる権利がある。他人に迷惑をかけないかぎり。だから、民間のことは、自由競争で、放っておいていい。


みせ(3)国家としての政策、意思決定にかかわる人は、民間のように「どんな人でもいい」というわけにはいかない。政治のリソースは限られている。「首相」になれるのは一人だけである。だからこそ、その「首相」に誰がなるのか、真剣に考えて、ふさわしい人を選ばなければならない。


みせ(4)昨日の代表選もそうであるが、指導者の選挙において、この「限られたリソースを誰に割り振るか」という命題を、真剣に考える気質が日本では乏しい。だから、「顔がいいから」「頭がよさそうだから」などという、印象批評的なテレビ政談がまかり通る。厳しさがない。


みせ(5)本来、候補者がどのような政策をもっているのか、どれくらい深く考えているのか、その資質を徹底的に精査して、誰がもっとも指導者(=限られたリソースを使う人)にふさわしいか、厳選すべきだろう。人は何をしようと自由だが、政治に関する限り、厳しい選択が必要。


みせ(6)民主党の代表選の演説会で明らかになったことは、国を導く上でどのような政策が必要で、日本の未来につながるのか、普段から論戦をしている形跡があまり感じられないということだった。だからこそ、日本の政治には、厳しい淘汰を経たアイデアの煌めきがない。


みせ(7)美しくなるためには、削らなくてはならない。生存競争の愉悦にひたらなければならない。淘汰の快楽に目覚めなければならない。アイデアの進化は、生命原理と両立する。競争にさらされていない思想は、ぶよぶよとぜいにくがつき、醜い。日本の政治はそれである。


みせ(8)政治が限られたリソースをめぐる激しい淘汰であるという認識は、政党だけでなくメディアにも乏しい。メディア自身が、寡占状態で本当の競争にさらされていない。だから、日本全体が贅肉ぶよぶよの凡庸な文化状況に陥る。民主党代表選にその姿を見てしまった。


みせ(9)民間では、どんな人たちも並列して存在してよい。政治は、基本的にシングル・トラック。そこにいることは、他の人たちの機会を奪うことになる。だからこそ、激しい批判、淘汰にさらされるのは当然のことなのだと、もう一度関係の方々は考え直してみませんか。


※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。


2011年8月28日日曜日

日本の「政局」報道の「属人」的性格についての連続ツイート

ぞじ(1)本日、民主党の代表選挙が行われる。実質的に次の首相が決まる。どなたがなっても、日本のために全力を尽くしていただきたいと思う。この選挙の過程で、日本の新聞やテレビの報道の仕方は、相変わらずの「政局」報道で、その古くさい感性では21世紀のヴィジョンは見えない。

ぞじ(2)日本には「政局」記者はいても「政治」記者はいない。もうしわけないが、そんな印象を持たざるを得ない。経済政策にせよ、外交にしても、専門的知識に基づいて政策を分析、論評する記事の印象がきわめて薄い。新聞やテレビが活気づくのは、誰が誰とどうしたという「政局」だけだ。

ぞじ(3)「政局」報道の一番の罪は、それが「属人」的だということ。今回の代表選でも、すぐに「小沢」対「反小沢」と、「小沢一郎氏」という特定の個人に託して論評しようとする。代表の選択が、ある政策上の原理・原則に基づいてなされるという可能性を、記者たちは想定できないらしい。

ぞじ(4)日本の将来についてのヴィジョンがまずある。その「一般原則」の適用として、たまたま今この時点ではこの人に託すことに決する。そのようなプロセスがまともな政治判断というものであって、誰が誰と仲がいいとか、対立しているとか、属人的なことは二次的な問題に過ぎない。

ぞじ(5)アメリカの民主党の内部に対立があったとしても、それを「親オバマ」と「反オバマ」で分類するのはナンセンスだということは日本の「政局」記者たちもわかるだろう。ならば、なぜ、日本の政治も理念で分析しようとしないのか。日本人を低く見るのも、いい加減にしてほしい。

ぞじ(6)今回、小沢氏や鳩山氏が海江田氏を支持することに決めたのを「操作しやすいから」などと相変わらずの属人的視点から解析する「政局」評論家がいる。彼らは、政治理念やヴィジョンが選択の動機付けになり得るという可能性を、想像すらできないのだろう。

ぞじ(7)議員たちは、それぞれヴィジョンや理念があって行動している。その選択のプロセスを、まるで猿山のボス猿選挙であるかのように報じてきた日本の「政局」記者たちの罪は重い。結果として人々の政治に対する忌避、アパシーを助長している。猛省を促したい。

ぞじ(8)昨日の代表候補者たちに対する「記者クラブ」の「政局」記者たちの質問もひどかった。まともな政策論争ではなく、あくまでも「猿山のボス猿選挙」にしたいらしい。自分たちの政治に関する内部モデルの貧弱さを、誇り高き日本の政治過程にあてはめないでほしい。

ぞじ(9)日本の「政局」報道を一言で表せば、「ゲスの勘ぐり」。プライドのないところに、まともな発展はない。「政局」記者や、「政局」評論家たちは、もう退場していい。ヴィジョンや政策をこそ、全力で論ずるべき。日本には、「政局」報道について駄弁を労している贅沢はない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月27日土曜日

涙についての連続ツイート

なだ(1)人は、なぜ泣くのだろう。涙の生理的作用から離れて、泣くことには社会的な意味合いがある。子どもが転んで足をすりむく。一人でいる時にはだいじょうぶだったのに、母親の顔を見たとたんに泣き出す。大切な他者に見てもらって、初めて涙は完結するのである。

なだ(2)人は真実に触れた時に、涙を流すことがある。『トイ・ストーリー3』。大学生になった子どもが、他の子におもちゃをあげる。置き去りにされ、子どもに遊ばれるおもちゃたちが、無表情のまま身体をだらんとしている。その時に何かの真実にカチンと触れて、人は泣く。

なだ(3)涙は、つまり、自分が受け止められないくらい大きなものを受け止めている、というシグナル。処理しきれなくなって、あふれ出す。だから、そこには流れがある。今まで淀んで溜まっていたものが、さらさらと流れ出す。涙は、生命に至る潮流である。

なだ(4)涙には、準備がいる。『北の国』からで、純くんが父親が必死になって用意してくれた泥だけの一万円札を見て涙するためには、その前に、トラックの運転手の青年がつっけんどんで冷たく見えた、という伏線がなければならない。「オレは受け取れん」。純情のどんでんがえし。

なだ(5)すぐれた文学や映画に触れて流す涙も尊いが、一番価値があるのは、自分だけの涙。伏線が絡まり、展開が潜伏し、やがて、ジグソー・パズルの最後の一ピースがかちっとはまった瞬間のような涙。めったに来ないが、最も忘れがたい。自分だけの涙がいつか流れますように。

なだ(6)西武対巨人の日本シリーズ。あと一勝で西武が優勝。最終回、巨人の攻撃もツーアウト。その時、突然、アナウンサーが「清原が泣いています。」一塁の守備に立っていた清原選手が号泣している。あれこそ、「自分だけの涙」。人生のジグソーパズルがかちっとはまった。

なだ(7)巨人に入ることを熱望していた。ところが、PL学園の盟友、桑田選手が予想を覆して一位指名。清原は指名されなかった。西武に入り、その巨人との日本シリーズ。あと1アウトで勝つ、という時に、 感極まった。これこそが、自分の手でつかんだ、自分だけの涙。

なだ(8)「泣ける」映画や小説で涙を流すのもいいが、本当に価値があるのは、自分だけの涙。そのためには、あがいていなければならない。傷つくこともある。裏切りもある。失意もどん底も。しかし、いろいろな流れが一緒になって、最後にきれいな涙が人生を報いてくれることもある。

なだ(9)小津安二郎監督の『晩春』。結婚を前に、父親との最後の京都旅行で、せつせつと生きることを説かれて、娘役の原節子が最後にきらりと見せる涙。美しい顔に光った、ダイヤモンドの点。あの人の真情。人生の稲妻。本当に価値のある涙は、いつも不意打ち。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。



2011年8月26日金曜日

筋肉混乱(まっする・こんふーじょん、muscle confusion)理論についての連続ツイート

まこ(1)作家の椎名誠さんに似ているとときどき言われる。ある時、道を歩いていたら、通りすがりのおじさんがいきなり「あんた、椎名誠によく似ているね〜!」。そのあとおじさん、「もっとも、あんたはちょっと肥えとるけど。」一言余計なんだよ、おじさん! (TT)。

まこ(2)その椎名誠さんに、「男は一日一回床と勝負しろ」と教わった。腕立て、腹筋、スクワット各200回ずつ。夜やるのだという。酔っぱらって帰っても、必ずやるのだという。「歯を磨くようなもんだよ。」と椎名さん。椎名さんはそれを十代からやっているから、あの身体になる。

まこ(3)椎名誠の「男は床と勝負しろ」の教えに従って、何度も始めては挫折した腕立て腹筋スクワット。ところが、ある時思い立って、何と100日以上続いたことがある。いつも筋肉痛で、そうじゃないとものたりない気がして、なかなかオレもやるじゃないか、ふふふと思っていた。

まこ(4)私の怒濤の腕立て腹筋スクワット連続勝負を挫折させたのは、ある「理論」だった。muscle confusion理論。読んでしまったのだ。同じ運動を繰り返すよりも、負荷やモードを変えて、筋肉を混乱させるのがいい。私はなるほどと思って、連続腕立てをやめた。

まこ(5)結局、筋肉混乱理論は、私が連続腕立てをやめる口実になっただけだった。翌日から、筋肉は混乱するどころか、すっかり休んだ。元の木阿弥。でも、筋肉混乱理論自体は面白いな、と思って、時々思いだしたように自分の筋肉が予想できないような運動を自分に課している。

まこ(6)同じことの繰り返しではなく、混乱が起きるくらいの複雑さがいいのは、筋肉も脳も同じことだと思う。知性の本質は、混乱を抜け出て強靱になることである。つまり、筋肉混乱理論は、知性の向上にも応用できそうだ。

まこ(7)今日のコンピュータの理論的基礎を築いたアラン・チューリングは、ある時、教授の話にみんなが肯いているのに、一人だけ当惑していたという。He looked puzzled。私の好きなエピソード。知性は、混乱して 始めて鍛えることができる。混乱は一つの才能。

まこ(8)人間は繰り返しや予想可能を心地よいと思いがちだが、それは堕落への道筋でもある。筋肉や脳も、時には混乱させてやるのがいい。負荷×混乱の方程式。わかってはいるけれども、ついつい身体については怠けてしまうのだよ。筋肉混乱理論を怠けの言い訳につかってはいかん。

まこ(9)私が、「床との勝負」を筋肉混乱理論で止めてしまったのは、「勉強がすべてではない」という理論で子どもが勉強を止めてしまうのにどこか似ている。椎名誠さんは、浮き球ベースボールで筋肉を混乱させている。筋肉も頭も混乱するような、そんな現場を持つのが大切だね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月25日木曜日

「いいところをのばせばいい」ことについての連続ツイート

いの(1)自分を離れて自分を見ると、違ったところが見えるのが当然である。鏡を使えばそれが始まるし、ビデオで撮ったのを見ると、へえ、自分ってこうなんだ、と思う。他人の中に映る自分の姿は、いつも新鮮であり、驚きに満ちている。目が啓かれる。

いの(2)シンガポールに来て、いろいろな人と話していると、ああ、そうか、日本も捨てたもんじゃないんだなとしみじみ思う。鏡は、人々の眼差しの中にあるし、言葉のはしばしにあるし、街を歩いていて見かける日本的な文化の断片の中にある。日本って、いい国なんだ。

いの(3)もちろん、私たちは日本にいろいろな問題点があることを知っている。メディアや、時にはネットもそれに絡め取られている。しかし、外から見ると、そのような内部のゴタゴタは目に入らないで、かえってすっきりとした、まっすぐな日本の良さが人々の光に当たる。

いの(4)一つには、自分たちの良さには自分たちで気付きにくいということもあるのだろう。あまりにも当たり前過ぎて、それが外の目から見たら美質であるということに意識が当たらない。そしてもう一つ、グローバル化の中で大切な視点が、あるように感じる。

いの(5)どの国も日本と同じくらいの内部病気を抱えている。例えばアメリカ人と話すと、自分たちの国の政治や経済、学問のシステムがいかに堕落している かと延々と聞かされる。へえ、そうなんだ、と思う一方で、大変だね、だけど、そういうのにあまり興味はないんだよ、と思う。

いの(6)他の国、他の文化で興味があるのは、その良いところである。なぜなら、それは輸入できるから。貿易の対象になるから。アダム・スミスは、『国富論』で、国際分業論を唱えた。それぞれが得意なことをやればいい。不得意なこと、ダメなことは輸出する必要がない。

いの(7)結局、自分たちのいいところをのばせばいいんだよ。田森佳秀(@Poyo_F)がかつて言っていたように、他人は、自分のダメなところなんかに本当は興味がない。だって、それは交換の対象にはならないから。ダメどうして、共感して、なぐさめあうことはあるかもしれないけど。

いの(8)日本人は、ついつい自分たちの内部病理の探り合い、細かいところまでつついてしまいがちだけど、わかっているべきなのは、どの国にも同じようなことはあるということ。病気の総量は変わらない。そして、ダメなところは、国際交易の対象にならない。みんな興味ない。

いの(9)国と国の関係も、人と人との関係も変わらない。いいところをのばせばいい。ダメなところは、まあ、適当にやり過ごすことだね。ダメなことの総量 は、きっとどこでも変わらない。ほら、これ、って世界に向かって差し出すべきなのは、泥の中から咲いた、小さなきれいな花。

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2011年8月24日水曜日

「島田紳助さんの引退」についての連続ツイート

(1)島田紳助さんが芸能界の引退を表明された。「暴力団」関係者との「交際」の責任を問われたという。十分な情報があるわけでなく、この件について確かなことが言えるわけでもないが、報道等に表れているある種の思考の「型」には、疑問を持たざるを得ない。

(2)原理原則の問題として、ある個人、集団が過去に法律に触れる行為をした、あるいはこれからする可能性が高いとしても、その人たちと一切「交際しな い」ことが求められるとは、私は考えない。法律に触れれば、罰せられる。そうでないかぎり、ひとりの人間であり、生活者である。

(3)島田紳助さんのように、「テレビに出る人」が、パブリック・イメージ、広報的判断から「暴力団」関係者との交際を避けるべきだ、という議論は成り立 つ。しかし、不法行為との関係がない生活者としての領域でも、接触があることは一切許されない、という論理は成り立たない。

(4)報じられている範囲で推定すれば、「過去にトラブルがあった時に助けてもらった」という件において、何らかの不法行為があったのかどうか、という点 は、問題になるのだと思う。この点についての真相は、私にはわからない。しかし、接触を持つこと自体が許されないとは、私は思わない。

(5)「黒い交際」にはもっと奥がある、だから引退したのだ、と考える人たちがいる。島田紳助さんの場合がそれに相当するかどうか、私にはわからない。少 なくとも言えること。メールをやりとりしたことなどが挙げられているが、これは原理原則からして引退の理由にはなり得ない。

(6)「暴力団」と言われる人たちが、過去に、そして今も犯罪行為をしていることが事実であり、社会的にそのような活動を減らしていきたい、という意志が 正当なものだとしても、そのような「浄化」運動をする側が、人間としての原理、原則に反する考え方をとるのは間違っている。

(7)たとえば、公衆が利用する浴場などで、「刺青の方はお断りします」と書いてある場所があるが、目にする度に、そのような表示をする側の方が、違法で あり差別であると感じられることが多い。暴力行為を社会から減らしたいという動機付けは肯定できても、手段が間違っている。

(8)たとえ、過去の履歴から違法行為をする蓋然性が高い、と推定される個人、集団がいたとしても、実際に違法行為をする、あるいはしようとしていない限り、生活者として常識の範囲内で接触を持つこと自体が悪いことだとは、人としての原理原則に照らして私には思えない。

(9)「引退は当然」「一緒に写真に収まっていただけで問題になる時代ですから」などと、「識者」が「コメント」する現状に危惧を覚える。もちろん暴力は 違法行為はいけない。しかし、それを糾弾する側が人としての原理原則を考えないで、恣意的に行動するような社会は危うい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。




2011年8月23日火曜日

「混ざった状態が心地よい」ことに関しての連続ツイート

まこ(1)人と一緒にいる時の心地よさにはいろいろあって、例えば、気心の知れた人たちとの談笑は「ホーム」である。すべてを言う必要がない。みんなで笑顔に笑顔を返す。そんな時間の流れは素敵である。

まこ(2)シンガポールに来るたびに、一つの心地よさの文法に目が開かれる。それは、いろいろなバックグラウンドの人が「まざって」いること。通りを歩いていても、肌の色や顔かたち、様子が異なる人が混ざり合って歩いている。それぞれの人生の根っこを持ち寄っている。

まこ(3)例えば、英国のケンブリッジ大学は一つの心地よい空間ではあるが、一方で知的にも階層的にも均質な傾向がある(例外あり)。それに対して、シンガポール国立大学は、いろいろな人がいる。事務局長が、スリランカの小さな村から来た人だったりする。

まこ(4)日本における「心地よさ」の文法は、長らく「均質性」だった。網野さんの優れた仕事が示したように、必ずしもそれは事実ではないとしても、同じ、という「心地よさ」が、ながらく日本の良さであり、美質であった。

まこ(5)最近、私は、もう一つの心地よさを求め始めている。混ざっていることによって、心地よい。それは、単に国の問題だけではない。飲み会とかでも、同じような人ばかりいると落ち着かない。できるだけいろいろな空気を運んで来てくれる人がいると、うれしくなる。

まこ(6)だから、このところ、飲み会などでは、いろいろなバックグランドの人を混ぜることに勢力を注いでいる。研究室の飲み会でも、必ず誰か違う人を呼ぶ。先日の合宿でも、芸大のやつらや、地元の人たちや、関係ない人たち、混ざっているのが、とても心地よかった。

まこ(7)かつて、ザルツブルクの動物園の人たちと(なぜか!)飲んだとき、酔っぱらってきたら、みんな同じになった。イギリスの紳士たちも同じ。酔っぱ らってきたら、みんな同じになる。人間は、どの文化を背景に育ってきても、そんなに変わらない。混ざると、それが肌でわかる。

まこ(8)混ざっている状態にしか、リアリティを感じない。ぼくは、そういう気持ちになっている。もちろん、気心の知れた仲間たちとのホームもいい。しかし、混ざってみると、これはアウェーではなく一つのホームだな、ということに気付くのだ。

まこ(9)養老孟司さんが、よく、都市には直線が多すぎると言う。自然界は多様なかたちが存在する。均質性は、その意味では、養老さんの言われる「脳化社会」に近い。一方、混ざった状態は、自然に近い。そして、人は、自然な状態でこそ、本当にリラックスできるのだ。

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2011年8月22日月曜日

「笑いの政治学」についての連続ツイート

わせ(1)「笑い」については、これまでも何度か議論してきたが、今朝は「笑いの政治学」について考えてみたいと思う。BBCで「リトル・ブリテン」をつくったルーカスとウォリアムズが日本に来た時のこと。彼らと話していて、面白いことがいくつかあった。

わせ(2)ルーカスは巨体で、はげていて、ゲイだが、子どもの頃から、笑われるくらいならば、その前にこちらから先手をとって笑わせてしまおう、と思って いたのだという。いつ笑われるか、とびくびくしている状態から、積極的に笑わせる姿勢へ。オセロゲームのように人生が逆転する。

わせ(3)さまざまな笑いのうち、至上のものは、自分の欠点や至らぬところを笑いにするものだが、そこには人間関係の政治力学が働いている。弱者や、虐げられているものが、逆に強者となり、支配者となる。笑いは、流血なき認識革命であり、社会変革なのだ。

わせ(4)誰が誰を笑わせるか。そこには、笑いのポリティックスがある。子どもが純真にやる分にはもともと何の罪もない「おやじギャク」が白眼視されるに至った背景には、政治力学がある。そのことを、かつて『エチカの鏡』のスタジオでタモリさんたちと話した。

わせ(5)なぜ、おやじギャグは白眼視されるのか。だじゃれをいうのは、大抵その場での年上、上役である。もともと権力を持っている人間が、その場の「笑い」を支配する。その生のエネルギー分配の偽善性に、人々が反応する。一方でお追従笑いの波も、日本中に広がる。

わせ(6)ある調査によれば、男性が何かを言って、女性が笑っている時には好意を持っている確率が高いが、逆は必ずしも真ではない。ここに女性のお笑い芸人の苦しさの真因がある。そして、男女というジェンダーの間の政治力学がある。

わせ(7)リトル・ブリテンのルーカスとウォリアムズの話に戻る。伝統的に王室をも笑いの対象にする英国だが、ダイアナ妃の事故死の後は、しばらく王室ネ タがやりにくかったという。文化の辺境を探る笑いのアスリートは、社会の政治的状況の微妙な変化の上で波乗りしなければならない。

わせ(8)「ぼくたちは笑いを目指しているのであって、社会批評をしているのではない。」『リトル・ブリテン』のルーカスとウォリアムズはそう言った。タ ブーに挑戦し、あぶないところに突っ込んでいくのは最上の笑いだが、それも、笑いという綱渡りの生産物があってこそである。

わせ(9)世の中に政治闘争はつきものだが、笑いは、人を幸せにし、何よりも自らの欠点をメタ認知し、社会のタブーを解きほぐす点において良質のバトル・ フィールド。ベルクソンが「笑い」を哲学し、ニーチェが「喜劇の時代」の到来を予言したのも、慧眼だったと言えるだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月21日日曜日

「個人の歴史」についての連続ツイート

これ(1)佐藤賢一さんと、『小説フランス革命』について対談させていただいた時に受けたインスピレーションについて、今日はお話したい。歴史というと、個人が大きな渦に巻き込まれる印象がある。一人の力は無力。大きな力が、押し流していくという諦念。

これ(2)ヘーゲル的に、「精神」が自己実現すると考えても、あるいはマルクス的に、形而下の冷徹な法則で決まると考えても、いずれにせよ歴史に個人が登 場する余地はなさそうだ。しかし、佐藤賢一さんとフランス革命についてお話していて感じたのは、むしろ、個人の大きな力だった。

これ(3)一人ひとりの性格が大きな意味合いを持つ。もし、ルイ16世があのように優柔不断でなかったら。もし、ロベスピエールが女性を寄せ付けないよう な潔癖症でなかったら。多くの人がギロチンの露と消えたフランス革命の暗部の展開は、違ったものになっていたかもしれない。

これ(4)歴史は複雑系であり、中国で蝶が羽ばたくとメキシコ湾でハリケーンが発生する「バタフライ効果」に満ちている。誰もが、起点のバラフライとなり得る。歴史は統計的な法則で動くのではない。一人ひとりの性格が、関与し、左右し、そしてフィードバックされるのだ。

これ(5)いきなり国や世界を考えると、難しいかもしれない。自分ひとりの歴史を考えたらどうだろう。あるいは家族の、友人との歴史。確かに、自分の性格、資質が、その大河ドラマの行く末に大いなる影響を与えていることを見いだすだろう。歴史は、自分が作るのだ。

これ(6)科学が歴史の前に立ち止まるのは、科学が、畢竟、統計的真理に過ぎないからである。一人ひとりの歴史は、N=1である点において、統計の侵入を拒む。統計の俯瞰的視点は、一人ひとりの歴史の一回性の前に、無力である。引き受ける覚悟は、統計の冷徹を砕く。

これ(7)あたかも、歴史に統計的法則があるかのような態度は、一人ひとりの熱き血潮を冷ます。学問は、自然科学へと収束するから、統計性を誤って用いる。歴史の一回性に迫ろうとしたら、結局は文学的アプローチしかない。自分の歴史を、文学として眺めてみるしかないのだ。

これ(8)自分の人生を振り返ってみる。分岐点となる場面において、どのように決断し、何を選択したのか。そこには、自分の性格が確かに表れてはいないか。自分というちっぽけな存在の、しかし波瀾万丈の大河ドラマ。そのように自分の歴史を考えると、香ばしい愉しさがある。

これ(9)フランス革命は、経済社会法則の歴史的必然でもたらされたのではない。ルイ16世、ロベスピエール、マリーアントワネットの個性の煌めき、よど みがあの進行を生んだ。私たち一人ひとりの人生の中に、フランス革命がある。個人の歴史こそが、私たちの生きた証しである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月20日土曜日

忘れることを通してのアンチエイジング、とりわけ、無意識の「コンプレックス」を意識化して、かえって自由になるための手法についての連続ツイート

こぷ(1)記憶は脳のもっとも大切な機能の一つであるが、一方で若さを失う原因にもなる。すでに学んだことでなんとか回していけるから、向上心を失う。また、ネガティヴな体験にいつまでもとらわれていると、新鮮なチャレンジ精神がなくなってしまう。

こぷ(2)忘れることが、最高のアンチエイジングになる。これまでどのようなことがあったとしても、まるで今朝生まれたばかりのように、新鮮な気持ちで世界に向き合うこと。脳は記憶するのが仕事だが、逆説的に、忘れることが若々しいエネルギーの源泉ともなるのである。

こぷ(3)記憶には、意識的に思い出せるものと、思い出せないものがある。忘れることによるアンチエイジング。重要なのは、思い出せない記憶から自由になることである。自分の無意識に蓄積された記憶のコンプレックスから、解放されなければ若くはなれない。

こぷ(4)無意識の中にあるものにこそ、人はとらわれる。劣等感。挫折の記憶。コミュニケーションの断絶。そのような記憶が、ネガティブなものであるほどに、私たちは向き合おうとしない。無意識の中に閉じ込めて、見えないようにする。そのためにかえって囚われる。支配されてしまう。

こぷ(5)たとえば、ある存在に対して攻撃的になったり、やたらと否定的になったりしている時には、無意識の中のコンプレックスに支配されている場合が多い。気力が湧かない、やる気が起きないというような場合にも、無意識の中に蓄積された体験に縛られていることがある。

こぷ(6)無意識の中の記憶から自由になるためには、逆説的だが、一度それを思いだして意識の中に呼び戻さなければならない。意識化することで、凝り固まっているコンプレックスを解きほぐす。思いだすことで、ようやくのこと、安心して忘れることができるのである。

こぷ(7)どのようにして、無意識を意識化するか。一つの手法として「フォーカシング」がある。自分の心の状態をメタ認知して、そこに何か感じられるもの(felt sense)を探りあてる。関連して思い出すこと、気になることを、無意識の暗闇に光を当てるように見つめていく。

こぷ(8)ニーチェは、「ルサンチマン」(恨みの感情)こそが、人を堕落させるものだと看破した。ルサンチマンと、それに基づく攻撃性は、精神を急速に老齢化させる。無意識の中に凝り固まったルサンチマンから自由になるためには、一度思いだして、それから忘れることだ。

こぷ(9)人間にとって、自由になるのは「今、ここ」から先の「未来」だけである。心がけ次第で、今この瞬間に「革命」を起こすことはできる。しかし、そのためには、「忘れる」ことが必要である。忘却の新鮮作用こそが、私たち人間を若々しく保つ、単純で深遠な手法なのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月19日金曜日

「風」についての連続ツイート

かぜ(1)60年代、70年代の日本のフォークが好きで、カラオケではなかなか恥ずかしいから歌わないが、密かに時々聞いている。そして、これらの曲に共通しているのは、「風」が吹いていることだと思う。あの頃、人の心の中には「風」が吹いていた。

かぜ(2)もともと、アメリカのフォークソングに風が吹いていた。ボブ・ディランの「ブロウィン・イン・ザ・ウィンド」。ウディー・ガスリーに代表される、各地を放浪する「ホーボー」の遺伝子。あの頃のアメリカは、「変化」への信仰があった。

かぜ(3)クリントン大統領が当選した時、みなで手をとって『勝利を我等に』を歌いながらホワイトハウスに入っていったという。しかし、あの頃にはおそら くもはや風は止んでいた。明日を変えることができるという信仰、人々の善意に託すという気持ちは、時を得ずしては燃え上がらない。

かぜ(4)風が止まったあとのかくも長き時間をどうやり過ごすか。それが、私たちにとっての共通の課題。忌野清志郎はその命題を天才的芸術センスでこなし ていた。同じプロテストソングでも、聞いていて息苦しくなるものは、風が吹いていない。風は爽やかで、どこかにいきたくなる。

かぜ(5)風が吹いていない時、自分が動く、というのも一つの考え方である。よどんだ空気の中でも、自ら移動すれば、体感する風は増える。猛スピードで走 れば、それだけ風も強くなる。サッカー選手は、ピッチの中で風を受けている。自らつくり出した風に、全身をさらしている。

かぜ(6)海岸の山。松がしっかりと根を生やしている。ある人が言った。私は世間の逆風を好む。なぜならば、逆風に耐えてしっかりと立つことで、より強いフィジカルになるから。しっかりと根を生やすことができるから。

かぜ(7)脳の中に「風」を探すとすれば、それはdefault mode network (DMN)ということになろう。脳がアイドリングした時に活動する。どこに行くかわからない。何を思いつくか、わからぬ。そして、DMNは、脳の若さの象徴である。

かぜ(8)私の青春の絶頂は、大学生の時、塩谷賢と隅田川のほとりで缶ビールを飲みながらくだを巻いていた時だった。夕暮れ時。カップルたちが、汚いものでも避けるように、半径10メートルくらいの円を描いて通り過ぎていった。風が吹いていた!

かぜ(9)風を吹かせることは、人間としての清潔さを保ち、若さを保ち、そして何よりも、変化への「心の準備」を高めるために不可欠なことだと考える。坂本龍馬は、桂浜に立って風を受けていたことだろう。沈滞する日本に必要なのは、風である。みんなで風を起こせ!

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2011年8月18日木曜日

「創造性の秘密は、起源を隠すことにある」ということについての連続ツイート

かく(1)宮沢和史さんの『島唄』は名曲である。「でいごの花が咲き 風を呼び 嵐がきた」「くりかえす悲しみは 島渡る波のよう」「ウージの森で歌った友よ ウージの下で八千代の別れ」。美しい言葉と音楽が、島渡る波のように私たちを包む。

かく(2)「ウージの森」とは、さとうきび畑のことであり、『島唄』は沖縄戦のことをうたった歌であること。そのことを知らなくても、「海よ 宇宙よ 神よ 命よ このまま永遠に夕凪を」という平和への祈りは届く。これが、名作の一つの共通事項。起源が隠されているのだ。

かく(3)子どもの頃、ドリフの「教室コント」を爆笑しながら見ていた。加藤茶や志村けんが、いかりや長介の先生にたてついて悪ふざけをする。このコント が、勉強ができずに黙っている子どもたちにとって大いなる「救い」になっていたことに気付いたのは、ずっと後のことだった。

かく(4)手錠をかけられて箱に閉じ込められる。このような「脱出マジック」をハリー・フーディーニーが思いついたのは、精神病院に行って、閉鎖病棟で拘束されている患者を見たときだったという。そのような起源を知らないままに、エンタティンメントは私たちを楽しませる。

かく(5)『ウルトラQ』や『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』などの初期のウルトラシリーズを企画し、脚本を書いた金城哲夫さんは、沖縄戦を経験して いた。敗戦という経験がなかったら、日本からウルトラマンは生まれなかった。子どもたちはそれを知らずに楽しむそれでいい。

かく(6)アインシュタインは、. "Creativity is knowing how to hide your sources" (創造性とは、その起源を隠すことである)という言葉を残した。その起源を知らずに楽しめるような作品。それが、最高の創造物である。

かく(7)「魔術」には二種類ある。自分の欲望を満たしたり、相手を貶めるための「黒魔術」と、美しいものや愛を成就させるための「白魔術」。これらの二つの魔術が、目的は違っていても「方法」は同じなのかどうか、古来論争があったというのである。

かく(8)たとえ、その起源に悲しみや苦しみ、怒りといった「起源」があったとしても、それを復讐の「黒魔術」とするのではなく、愛や美しさをこの世にもたらすために用いる「白魔術」とすること。これが、創造性の本質である。白魔術を享受する人は起源を知る必要がない。

かく(9)この世には、歴史の起源から巧みに隠されている秘密がある。輝くような笑顔、美しい薔薇の花。私たちの周囲に、白魔術として存在しているものの背後には、おそらくは起源としての黒魔術がある。そして、私たちは必ずしもそのことを知る必要はない。

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2011年8月17日水曜日

民主党代表選は、誰でもいいよ」についての連続ツイート

だい(1)菅直人首相が退任を表明して以来、民主党の代表選が話題になっている。しかし、私個人としては、「誰でもいいよ」という気持ちである。政治的アパシーということではない。あの人か、この人か、という問題の立て方自体が、そもそも間違っていると感じるからである。

だい(2)今の日本に必要なのは「国はこちらの方に行くべき」というヴィジョンであり、政策に関するアイデアである。また、国政についてこう考えるべきというプリンシプルである。これらのものは、皆で出し合い、議論すべきものである。誰かに属するものではない。

だい(3)誰が代表になり、首相になるかということよりも、国をどの方向に導くか、という政策論争の方がよほど重要である。代表選は、政策論争でなければならない。新聞やテレビが得意なのは相も変わらず「政局報道」であるが、その古ぼけた文化に我々が付き合う必要はない。

だい(4)オバマ氏の登場が新鮮な意味を持ったのは、彼が明確なヴィジョンを持ち、それを伝える力があったからである。(http://t.co/2MwYg0S)。今の日本の政治に必要なのは、どの顔がどうか、という属人的な議論よりも、国を導く勇気あるヴィジョンであろう。

だい(5)政治を「属人的」なものと考えることが、日本の風土病である。だから、親から子に「地盤」を引き継ぐなどという滑稽なことが起こる。アメリカ憲政史上、親子で大統領をやったのはブッシュ以外には一組しかないはず。日本では、枚挙に暇がないだろう。

だい(6)小泉ジュニアが地盤を引き継いだ時話題になったが、本来、ジュニアであろうと何だろうと、その選挙区で堂々と政策論争を行い、その質において候補者を選べばいい。そんな簡単なことさえできないから、日本の政治はいつまで経ってもアイデア勝負にならない。

だい(7)代表が誰になろうと、首相が誰になろうと、ご本人にとっては大問題だろうが、国から見ればどうでもいい。そんなことにエネルギーを注ぐのは無駄だから、国を導くコンセプトづくりにこそ、全精力を注ぎ込むべきであろう。

だい(8)むろん、純然たる政策だけでなく、その人格、判断力など総合的な人間力も重要である。しかし、今の年功序列の代表選挙では、本当に自由な競争に はなっていない。AKBの「総選挙」の方が、よほどフェアな競争をしている。そもそもアイデアの優劣に年功序列は関係ない。

だい(9)代表に誰がいいか。またぞろ得意の「政局報道」をしているマスコミに対して、心ある人たちは白けている。勝手にやっていればいいだろう、俺たち は政策、ヴィジョン作りをするからというパッションのマグマ。タヌキやキツネの化かし合いではなく、理性の光こそが必要。

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2011年8月16日火曜日

「受験の罠」についての連続ツイート

じゅわ(1)受験についていろいろ言う人がいるが、その最大の特徴の一つはそれが「個人競技」だということだろう。一人ひとりが何点とるか、それがすべ て。他の人と協力しあったり、長所を出し合い、弱点を補い合ったりといった協調する能力は、まったく評価されることがない。

じゅわ(2)受験で評価される能力が、人間の多彩な力のごく一部であること。その点を除いても、受験には、それが「個人技」だという罠がある。受験で成功 体験を持つ者は、往々にして、自分の弱点を見つめ、それを他の人との個性の持ち合いで補うというすばらしい技を知らずに生きるのだ。

じゅわ(3)マイクロソフトはビル・ゲイツとポール・アレン、アップルはスティーヴ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアック。グーグルは、ラリー・ペイジ とセルゲイ・ブリン。そして、ソニーは、井深大と盛田昭夫。二人が個性を持ち合って創業したからこそ、大発展する基礎ができた。

じゅわ(4)受験では、上位校ほど、オールラウンドな学力が問われる。しかし、協力を前提にした世界観の基では、一人はその「とんがり」をのばせばいい。 加えて、他人との協力を受け入れる度量があればいい。そんな当たり前のことが、受験の個人競技に慣らされた人間はできぬ。

じゅわ(5)わが母校ながら、東大生に共通した欠点は、自分の至らぬ点を認められないことだろう。ぜんぶ自分がやろうと思っている時点で、現代社会に適応的ではない。かえって、自分のダメなところを知っている劣等生の方が、コラボレーションにすんなり入る。

じゅわ(6)受験のわなは、それだけではない。そもそも、受験の成績と、「才能」はまったく関係ない。才能とはすさまじいもので、小説家として成功する人 が音楽家としてもうまくいくとは限らない。受験とは、才能がない場合でもだいじょうぶなように、保険を打つようなものである。

じゅわ(7)「キャッチ=22」は、ジョーゼフ・ヘラーが1961年に発表した小説。戦争の不条理から抜けだそうとしても、矛盾に陥って抜け出せない 「罠」を描く。受験にも、同様の「キャッチ=22」がある。受験で成功する人ほど、現代の文明をつくり出している原理に不適応となる。

じゅわ(8)たとえば、東京大学の受験を通して培われる人格と、アップルやグーグルの創業のために必要な人格の間に齟齬があること。これが、日本の停滞の 本質。受験を終えたら、「個人競技」のマインドセットをさっさと卒業して、コラボレーションの自由に飛び込まなければならぬ。

じゅわ(9)現実的には日本の受験文化はそう簡単には変わらないだろう。だとすれば、18でクリアしたら、全速力でunlearn(忘れ去る)すること。現代は、コラボしてナンボ。そんな明白な原理もわからなくさせている受験の愚は深いが、人間は愚行を簡単には改めない。

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2011年8月15日月曜日

「空白」についての連続ツイート

くは(1)インターネットが、大量の情報を運んでくる現代。心理学者ジェームズ・フリンが報告した知能指数が上昇する「フリン効果」は行き渡っている。その一方で、不足しているものもある。ずばり、それは「空白」である。

くは(2)日本の自然は豊かである。少しでも空き地ができると、そこにいろいろな植物が生えてくる。土の中に埋もれていた種もある。風で吹かれてきた種もある。鳥が、木の種を運んでくる。あっという間に雑草が生え、時が経てば、そこに林が出現する。

くは(3)脳も、自然と同じこと。空白ができると、そこを埋めようとさまざまな活動が起こる。創造性とは、つまり、空白を設計することである。情報に追われ、フリン効果によって知能指数が上昇している現代人にとっての最大のリスクは、脳の空白が不足することである。

くは(4)目の前の課題に集中することも必要である。一方で、思い切って空白をつくる時間帯も必要である。心の中をからっぽにすると、忘れかけていたさま ざまなものがよみがえってくる。夢、希望、大いなる意志。仕事に追われて忙しくしていると、人間は空白欠乏症になってしまう。

くは(5)脳の回路の動作は、基本的に強制できない。ニューロンがお互いに結合したネットワークの本質は、「自発性」にある。自発性をうながすためには、脱抑制をすればよい。抑制を外しさえすれば、あとは勝手に活動してくれる。そして、空白こそが、脱抑制をうながす。

くは(6)創造性は、強制して押し出すものではない。空き地ができた時にそこに雑草や木が勝手に生え茂るように、脳の中に空白ができた時に、そこをさまざ まなふしぎなかたちやいろが埋め尽くすのである。試験の秀才は、脳の中の空白を埋め尽くそうとするから、独創性から遠ざかる。

くは(7)人間関係においても、「空白」が呼び水となる。「私は何でも完璧にできる」と自己完結している人は、友人や恋人を呼び込みにくい。どこか抜けて いる、他人が補完する余地があることが、他人を惹き付ける一つの「オーラ」となる。空白があってこそ、人と結びつくのだ。

くは(8)空白を信じるということは、つまり、機械的な制御ではなくて、生命の自発性に託すということである。空白を信じるということは、つまりは一つの 生命哲学である。空白に対してどのような態度をとっているかで、その人の生命の香ばしさがわかる。友人になれるかどうかわかる。

くは(9)空白がある限り、人間は成長することができる。まだ何も書かれていない紙ほど、脳を興奮させるものはない。空白をできるだけなくそうというのが 「管理」の思想だとすれば、これほど生命を窒息させるものはない。人生の少なくとも20%は空白にしておくのがちょうどよい。

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2011年8月14日日曜日

「夢」についての連続ツイート

ゆめ(1)夢は不思議である。自分でも、なぜこんなことを思いつくのだろう、というようなことが展開する。目が覚めて、あんな夢を見たのはなぜなのだろう と、いろいろ思い巡らす。古来、人類が夢に興味を持ってきたのも、当然のことだと言えよう。人は、夢においては、誰でも天才。

ゆめ(2)脳は、眠っている間も休んでいない。昼間目覚めている時とは違ったモードで、側頭連合野の回路において、記憶を整理していると考えられている。この記憶の編集作業の過程で、夢を見ることがあるらしい。夢は、脳のメンテナンスの一つの副産物なのだ。

ゆめ(3)夢においては、経験が時間を超えて結びつけられる。過去一週間の出来事の関連事項の出現頻度は、前日が最大であり、二日前、三日前と減って行って、四日前、五日前、六日前とふたたび増えていく。記憶が海馬から連合野に移っていくことと関連しているらしい。

ゆめ(4)ユング心理学者の河合隼雄さんによれば、夢の意味は、本人にはわかりにくい。夢は、認知上の一つの「盲点」だからである。訓練を受けた分析家に は、かえってその盲点がわかる。ところが、クライアントと親しくなって盲点を共有するようになると、だんだんわからなくなる。

ゆめ(5)現代においては、夢の中に誰かが現れたら、それは夢を見た本人の無意識がその人を気にしているのだ、と解釈する。ところが、平安時代には、夢の中に出たその人が、自分を思っているのだと考えたのだという。

ゆめ(6)夢のストーリーをある自分でコントロールできる「明晰夢」という状態がある。明晰夢を見るためのトレーニングでは、昼間、覚醒している時に今自 分が見ているのは本当に現実なのか、それとも幻想なのかと、繰り返し自問する。そのようにして、夢と現実の境界を揺るがしていく。

ゆめ(7)夢から目覚めたあと、その内容を記録する「夢日記」をつけていると、次第に夢の中でも覚醒レベルが上がり、その内容を詳細に把握できるようになってくる。前日の(目覚めていた時の)出来事を翌日日記に書くのも、どこか「夢日記」に似ている。

ゆめ(8)フロイトが看破したように、誰もが無意識の中では人には言えない欲望を持ち、嫉妬や怒り、哀しみなどの感情を持つ。それが夢において現れる。精神の無菌主義は禁物である。無意識の海に浮かんで、その上で他人に善意を向けねばならぬ。

ゆめ(9)夢は、無意識への入り口。自分の無意識に注意を払うことで、人はバランスを回復し、何倍にも豊かな人生を送ることができる。意識の光が当たっ た、覚醒世界だけがすべてなのではない。意識は氷山の一角である。そして、私たちは夢のはじまりも終わりも本当は知らない。

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2011年8月13日土曜日

「アウェー」についての連続ツイート

あう(1)脳は何歳になっても学ぶ潜在能力を持っているが、どれくらい若々しいかは、ずいぶんと個人差が出てくる。そして、その差異は、脳の生理学的な特徴というよりは、その人の「生き方」にかかわる部分が多い。

あう(2)人間は、ある程度の年齢になると、それなりの経験を積んでいるから、それだけでも人生を「回して」いくことができる。自分のよく知った世界に立て籠もって、他の広大な宇宙に目をつむることもできるのだ。こうなると、成長は止まってしまう。本当は可能性があるのに。

あう(3)成長を続けるためには、自分が良く知った「ホーム」だけでなく、よく分からない、未知のことも多い「アウェー」の闘いをしなければならない。何をどうしたらいいかよくわからない、そのような状況下でこそ、自分の脳の潜在的本能が目覚めていくのである。

あう(4)アウェーでは、決まり切ったプロトコルに従っていてもダメ。今まで蓄積してきた「道具箱の中の道具」を、必死になって繰り出す総力戦。レヴィ=ストロースの言う「ブリコラージュ」を動員する。それでも当たるかわからない。アウェーでは、人は千手観音となるのだ。

あう(5)振り返ってみれば、子どもにとってはこの世界はすべて「アウェー」である。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。その中でも、なんとかやっていかねばならぬ。子どもはいきいきしている。何ごとも初めてだからね。「初めて」を取り戻すには、アウェーに行け!

あう(6)日本は停滞している。過去の成功体験に固執しようとしても、そもそも「ホーム」自体がどんどん縮小している。今まで自分たちが経験したことのない「アウェー」にこそ、新しい成長の土台がある。しかもアンチエイジングになるんだから、こんなに良いことはないだろう。

あう(7)むろん、自分の習熟していることをさらに掘り下げることも必要である。ホームを掘っていけば、思わぬ鉱脈に当たるかもしれない。「ホーム」と「アウェー」を交互に生きる、「ホーム&アウェー」方式。吸って吐くようなそのリズムが、人生を波乗り状態にする。

あう(8)「アウェー」に向かうために必要なのは、「できる」という「根拠のない自信」。向こう見ずでなければならない。子どもはみな向こう見ずだ。たとえ失敗して転んでも、自分の潜在能力が総動員されたその時点で、その人の表情は若々しく輝いている。転んでも笑えばいいのだ。

あう(9)「アウェー」への挑戦を支えるのは、好奇心である。一体、ここはどうなっているのか。この人は、どういう人なのか。今まで自分が見知った世界に留まらず、アウェーへの疾走を続ける。好奇心という燃料を燃やし続ける。子どもであり続けるという、強烈なる意志を祝福。

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2011年8月12日金曜日

「ネット・アスリート」についての連続ツイート

ねあ(1)インターネットが本格的に登場して10年程度。ますます加速している。そして、この新しいメディアは、従来とはまったく違う課題を、私たちに突きつけている。すなわち、いかに「ネット・アスリート」になれるかということである。

ねあ(2)ネットに向き合った時の脳活動は、本来、選択肢の限られているテレビとは全く違う。テレビは映画館に近い。ゆったりと座って、「ゆだねる」喜び。ネットは、能動的に選択しなければならない。そして、可能性は、無限大である。私たちは無限に向き合っているのだ。

ねあ(3)もちろん、ネットの中でも居心地のよい狭い場所にたむろすることもできる。友人のつぶやきを見たり、知り合いのブログを読んだり、自分の趣味の情報を集めたり。しかし、本来は、ネットはものすごいスピードであらゆる情報に出会い、結びつける可能性を持っているのだ。

ねあ(4)SNS関連業界の最新動向を知ることもできる。量子力学の基礎を学ぶこともできる。論文をダウンロードしたり、TEDのtalkを聴いたり、大学のopen course wareを見ることもできる。ネット上の一分をどう使うか。ネット・アスリートは飛翔する!

ねあ(5)私たちは大抵、ネットが本来持っている可能性のほんの少しだけしか使っていない。自分の想像力、連想力が限界を画す。つまり、ネットに向き合っている一分は、いかにこれまでの自分から解放されるか、という試練の場でもある。ひろげよ。横に歩め。つながれ。

ねあ(6)インターネット上では、自分の良く知った狭い世界で居心地よく過ごす人から、今日の世界のさまざまな事象に出会い、学ぶ人まで、ダイナミック・レンジの大きい人口が同居している。その点が、テレビや新聞などの従来の「ゆだねる」メディアとは根本的に異なる。

ねあ(7)ニュージーランドの心理学者、ジェームズ・フリンは、平均知能指数が上昇し続けているという「フリン効果」を見いだした。情報環境の変化が大きな要因と推測される。ネットにどう向き合うかで、一般知能の発達が大きく左右されるだろう。ネットは、学習意欲の鏡である。

ねあ(8)ネットの素晴らしいところは、それをうまく使えば、大学に行く必要はもはやないということ。むしろ、大学の「ゆるい」「ゆだねる」カリキュラムよりも有益な時間を過ごせるかもしれない。しかし、同時に、果てしなく怠け、だらけることもできるのだけれども。

ねあ(9)ネットには、堕落する自由もある。一方で、自分の知性を鍛え、筋肉質にする自由もある。こんな自由を人類が手にしたことはかつてなかった。「ネットは自由にする。」その自由の空気の中で、たくさんのネット・アスリートが誕生し、飛翔を始めている。そして、あなたは。

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2011年8月11日木曜日

「ぐん!」と伸びる成長曲線の生理についての連続ツイート

ぐん!(1)小学校5年生の夏の初めに、水泳の記録会があった。ぼくの記録は平凡だったけれども、小林忠盛先生は、なぜか学校選抜に誘ってくれた。その頃のぼくのモットーは「根性」。苦手な種目にぶつかっていく、その猪のようなガッツをくんでくださったのだろう。

ぐん!(2)夏休み。水泳の練習は、午前と午後、毎日続いた。クロールの足の使い方が、どうしてもダメなようだった。「もっとやわらかくのばして!」と小林先生。「水をつかめ!」ところが、その水が、なかなかつかめない。理屈やイメージでわかっても、身体がうごかない。

ぐん!(3)午前の練習を終えたお昼休みはばてて、みんなで体育館の床にごろごろした。誰かがふざけて振ったファンタの缶がいきおいよくぷしゅっと吹き出して、床の上でくるくる回った。午後の練習の時まで、ひたすら寝転がって、体力の回復につとめた。

ぐん!(4)やがて、毎日の練習で疲れがたまって、手足の協調どころではなくなってきた。記録の方も、むしろ遅くなってきた。そんなぼくの様子を見て、小林先生は「だいじょうぶ!」と言った。「疲れてきているな。でも、だいじょうぶ。そのうち、絶対にぐん! と伸びるから。」

ぐん!(5)「練習をしていると、疲労がたまってきて記録が落ちることがある。そこを我慢して続けていると、そのうち、すっと抜けたようにぐん! と記録が伸びる。今までの経験で、絶対にそうだから、あきらめずに続けろよ、茂木君!」と小林先生が言った、あの夏のプールサイド。

ぐん!(6)小林先生の言葉を信じて、練習を続けた。開始して二週間くらい経ったある日のこと。プールに入った時から、なぜか身体が違っていた。「あしをのばしてやわらかく」という感覚が、すっとつかめた。泳いでいて、身体が軽く感じた。小林先生が、「それだ!」と叫んだ。

ぐん!(7)記録を大幅更新。「フォームがぜんぜん違っていたぞ!」と小林先生がいった。疲労がたまって、もうダメだと思ったその先に、ぐん! と伸びるフェーズが待っていた。ぼくは、「このことだったのか!」と感動した。

ぐん!(8)ぐんぐん伸びる、というと、何の苦労もなしに成長するように思いがちである。しかし、実際には、苦しい時期がある。身体も頭もぐるぐるまわり、重く、進歩が感じられない。しかし、その暗闇の先にこそ、「ぐん!」と伸びて別世界をつかむ、真の悦びが待っているのだ。

ぐん!(9)勉強でも、仕事でも、スポーツでも、今までと違った感覚をつかむこと。それは、言葉にはできない。そのぐん! の飛躍の前には、長くて苦しい暗闇がある。真に凄いのは、そのような成長曲線が経験則として予想できるということ。人生、決して諦めずに続けていくのがよい。

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2011年8月10日水曜日

「受け身」についての連続ツイート

ころ(1)高校2年の時、柔道の授業があった。遠藤先生がいらして、畳の部屋で向き合った。それまで武道をやったことがなかったから、真新しい柔道着をまとって、腹の底が冷えるような緊張感があった。心構えが伝えられた後、いよいよ実技が始まった。

ころ(2)柔道の授業のいちばん最初にやったこと。それは、投げられ、転ばされた時にやる「受け身」の練習だった。投げられて身体が畳に着く瞬間に、「パン!」と手で床を叩いて、衝撃を和らげる。パン! パン! パン! 何度もなんどもやらされた。そのうち、転ぶのがうまくなった。

ころ(3)柔道の授業だというから、相手に技をかけて投げる練習をするのだとばかり思っていた。ところが、最初に、「投げられた時のため」の練習をする。受け身の練習から入るのは、一年間、ずっと変わらなかった。毎回、まずは投げられたときのために、パン! パン! と畳を叩く。

ころ(4)誰だって、柔道では相手に投げ技をかけて勝ちたい。しかし、投げられてしまうこともある。その時のために、「受け身」の練習をする。逆に言えば、投げられ、転がされた時に「パン!」と受け身さえできれば、積極果敢に攻めることができる。勝つために、転ぶ練習をする。

ころ(5)恩師の有り難さは、ずっと後でわかる。社会に出て、しばらく経った頃、遠藤先生の柔道の授業を思いだした。そして、まずは転ばされた時の「受け身」の練習をするという哲学の深さをしみじみと感じた。本当に大切なことの意味は、ゆっくりと身体にしみわたってこそわかる。
ころ(6)人と向き合うのが怖いという人がいる。傷つくかもしれない。思いが伝わらないかもしれない。確かに、人と人とはすれ違うことも多い。そんな時でも、転んだ時の受け身の練習さえしていれば、安心して他人と向き合うことができる。自分という存在を、さらけ出すことができる。

ころ(7)柔道では、身体をかたくして組み合っていても、なかなか技がかからない。自分の身体をやわらかくして、誘い込んでこそ技がかかる。人間関係も同じこと。自分をさらけ出して初めて始まる。恐れてはいけない。いざとなったら、受け身をとればいいのだから。

ころ(8)身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。柔道が下手くそでどうしょうもない私だったが、一度だけ、目が覚めるような「一本」が決まったことがある。巴投げ。自分が後ろに倒れて、その勢いで相手を投げる。巴投げは、いわば「受け身」の延長線上にあった。

ころ(9)人間関係がうまく行くことにこしたことはないが、時にはうまくいかないこともある。もっとも重要なことに、必ずうまくいくと保証することはできない。受け身は、保証のない世界での積極性という生命哲学。みんなで、畳をパン! パン! と叩く練習をしよう。

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2011年8月9日火曜日

「キャリア・パス」についての連続ツイート

キャパ(1)ある人生の道筋(キャリア・パス)を設定すること自体は、大切なことである。たとえば、小学校の時から塾通いして、「有名」大学を目指す。そのようなキャリア・パス自体は、良いこともあるだろうし、否定すべきものではない。ある目的のために努力することは貴い。

キャパ(2)あるキャリア・パスに適応できるのは、文脈を引き受けて機能する脳の大切な働きである。眼窩前頭皮質を含む回路が、求められていることを察知し、それに合わせた行動を生み出す。そのようなことができるのが「優等生」である。

キャパ(3)自分自身が、あるいは自分の子どもが社会の中で認められたキャリア・パスに適応できる「優等生」になる。それはそれで良い。問題は、外れてしまった時のこと。すべてのシステムは、それに適応できる人だけでなく、適応できない人のことも考えて設計しなければ、意味がない。

キャパ(4)物理学者のアルベルト・アインシュタインは、ドイツのギムナジウムの教育を受けた。厳格な、典型的な詰め込み教育。アインシュタインはドロップ・アウトして、ヨーロッパ中を放浪した。独自の思想に基づく「相対性理論」建設への道筋が始まったのである。

キャパ(5)厳格なギムナジウム教育からドロップアウトしたアインシュタインが、人類の歴史を変える相対性理論をつくる。独創の天才を生み出すには、詰め込み教育のシステムをつくり、そこから逸脱する学生が出るのを待てばいい、という論も成り立つのである。

キャパ(6)どんなキャリア・パスでも、完全ということはない。理想とされるキャリア・パスに適応し、「優等生」として幸せに暮らすのも一つの人生。一方、ドロップ・アウトしたからといって、人生が終わるわけではない。逸脱する人のことも含めて、制度を設計しなければならない。

キャパ(7)日本の塾通い−>進学校−>有名大学−>大企業というキャリア・パスは、すでに問題を噴出させているが、それ以前に、すべての制度は、そこから逸脱する自由を許容するし、また人生は制度よりも広いということを認識しておく必要がある。

キャパ(8)入試に落ちたら、どうするか。会社に入れなかったら、どうするか。その時の覚悟、工夫さえしておけば、人生は大丈夫である。システムから逸脱する時に、初めて真価が問われる。システムはどんなものでもどうせ横暴なのだから、そこへの適応を、マジメに考えない方が良い。

キャパ(9)ギムナジウムからドロップ・アウトしてヨーロッパ中を放浪したアインシュタインの理論は、世界を変えた。一方、当時のエリート教育に適応した秀才たちのことは、誰も知らない。システムへの埋没は、人を無個性にする。そのことは、世界のあらゆる文化、時代に変わらない。

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2011年8月8日月曜日

金言の連続ツイート

きん(1)根拠のない自信を持て。それを裏付ける努力をせよ。

きん(2) 自分の最大の欠点のすぐそばに最大の長所がある。

きん(3) 天才とは超人的な努力をする人のことである。秀才とは中途半端な努力をする人のことである。

きん(4) 知性の最高のかたちは、他人の心がわかることである。

きん(5) 自分のためだと思うと一人分のエネルギーしかでない。他人のためだと思えば百人力、千人力。

きん(6) 創造することは思い出すことに似ている。

きん(7) 魂の危機は自己創造の最大のチャンスである。

きん(8) 美しさは弱きものの最大の防御である。

きん(9) 忘れることが最高のアンチエイジング。

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2011年8月7日日曜日

「変化率」についての連続ツイート

へり(1)人生の夢は、大きなものほど遠い。そこにどうやってたどり着いたらいいのか、途方にくれる。とても、届かないと思う。そんな時には、「変化率」に注目する。自分が、日々、どれくらい進んでいるか。気づきを重ねているのか。

へり(2)子どもは、どこに行くのか知らない。将来の夢をたずねる時、その通りになると思うひとはいない。ただ、子どもは、驚くべき変化率を見せている。毎日が新しい。発見がある。だから、一学期が長い。ある種の時間の知覚は、どれくらい変化しているかに依存するのだ。

へり(3)オスカー・ワイルドは、「自分自身になろうとする人は、どこに行くか知らない」と言う。自己実現は、もともと、特定のゴールがあるわけではない。ただ、自分が変わりつつあるという、無意識のうねりだけが頼りである。自分の経験を、常に、小学校の教室の静寂と比較せよ!

へり(4)変化し続けてさえいれば良い。それが生命の顕れであり、どこかに向かっている証しである。小林秀雄は、常々、絶対に壊れない舟のエンジンの話をしていたという。どんなにゆっくりでも、前に進んでいさえすれば、必ず「変化」という生命のもっとも大切な価値が担保される。

へり(5)今日、私は、昨日に比べてどれくらい変わっているか。昨日一日、どれだけの発見があったか。出会いがあったか。価値観を変えるような衝撃はあったか。そっちへ行こうという感動はあったか。そのような「変化率」だけが、私たちの生命体としての勢いを証言する。

へり(6)人生は、揺れ動いてナンボである。これまでの人生のあり方をリセットして新しい方向に行こうとでもいうような、そんな感動と熱狂が、生命固有の慣性(モメンタム)と拮抗して、火花散る生命のダイナミクスを生み出す。変わっていいんだよ。変わっちまえ!

へり(7)もし、人生の大目標があるならば、それは北極星のように不動の輝きとして見上げていればいい。生命は、遠い怜悧な輝きとは異なる、地上のゆらめきの中にある。命の揺れを担保するのは、「今、ここ」の私が現に変化しつつあるという、その実感の中にしかない。

へり(8)ある時、あなたは、自分の周囲を見回す。その状況、その場にいる人、あなたの役割、人々のまなざし。その時、あなたが、「一年前には、こんな光景は想像できなかったな」と思うことができれば、あなたの人生の変化率はきっと勢いを失っていない。

へり(9)創造性の最高のかたちは、自分自身が変化することである。子どもの日常が、水の上をきらめいて飛ぶカワセミのような突き上げるような変化に満ちているように、あなたの人生よ、たとえ、それがどのようなものであるとも、揺れ動く変化率の編成列車であれ!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月6日土曜日

「カードが揃うこと」についての連続ツイート

かそ(1)何かをしたくて一生懸命やっていても、なかなかできないことがある。努力してもダメだと、自分には能力がないのではないかとか、無駄なのではないかと思ってしまう。しかし、待って欲しい。あなたの脳の中では、着実に変化が進行しているのかもしれない。

かそ(2)ある課題を遂行するのに、脳回路の要素が「5つ」そろわないといけないとする。できない、という時には、本当は5つのうち3つは揃っているのかもしれない。一年前は2つしか揃っていなかったのに、1つ増えたのかもしれない。ところが、それが見えない。

かそ(3)不導体の中に導体を混ぜていくと、ある密度のところで「相転移」が起こって突然電気が通るように(パーコレーション転移)、何かを成し遂げようとして努力している時に、うまくいかない時にも脳の中では徐々に必要なことが揃い始めているかもしれないのだ。

かそ(4)たとえば、良い小説を書く、というタスクは、ボキャブラリだけでなく、人生経験、文章をつむぐ音楽的リズム、共感能力など、さまざまな要素に依存している。だから、小説を書こうとしている人の脳の中では、必要なカードがなかなか揃わない。

かそ(5)芸事で、突然「化ける」ということがある。それまでヘタだった人が、急にうまくなる。外から見ていると予告なしに一皮むけたように見えるけれども、実際には、準備は徐々に進んでいた。カードが少しずつ揃ってきていたのだ。

かそ(6)子どもは、ずっと大人たちの会話を聞いている。大人は、「この子は2歳だから、今日は300単語だけで話そう」などと気を使ってはくれない。聴いているうちに、徐々にカードが揃ってくる。そして、ある時突然、子どもはひらめいたように流暢に話し始めるのだ。

かそ(7)一人の人間にせよ、国家にせよ、なかなかうまくいかない時に、私たちは「もうダメだ」などと絶望してしまいがちである。しかし、実際には、努力を続けている限り、少しずつカードは揃い始めている。やがて、ある日、カードが揃って「ロイヤルストレートフラッシュ」になる。

かそ(8)時には、「最後のカード」が、偶然の幸運(セレンディピティ)を通して、他者からもたらされることもある。自分の中に4枚のカードをそろえていさえすれば、あとの1枚は思わぬ出会いを通して補われるかもしれないのだ。

かそ(9)大切なこと。カードが揃わない、長い年月を、それでも我慢して、信じて、努力し続けること。表面的な結果がでなくても、投げ出したり、絶望するのはもったいない。もうだめだ、とやめてしまった時、脳内では5枚のうち4枚のカードが揃っていたかもしれないのだから。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。




2011年8月5日金曜日

「透明ランナー」に象徴される、子どもたちの遊びの創意工夫についての連続ツイート

とら(1)子どもたちは、ごくわずかなものがあれば、遊びを工夫することを知っている。その時、楽しいように、ルールを自分たちで考える。前頭葉のメタ認知のすばらしいはたらき。最初からルールがあるのではなく、楽しくなるように、ルールをみんなで考えるのだ。

とら(2)子どもの頃の草野球は、自分たちで考えた自主ルールのかたまりだった。三角ベース。一塁は電灯の下、二塁はベンチの横の石、ブランコを超えると、ホームラン。ファウルかどうかも、自分たちで判断した。大人の審判など、いなかったし、いらなかった。

とら(3)カウントありなし、振り逃げありなし、盗塁ありなし、みんな、自分たちで決めた。そして、その時の基準は、「結果として楽しい遊びになるか」ということだった。無意識のうちに、偶有性を調節していた。弱い者と強い者が、同じくらい勝てるように、という配慮もあった。

とら(4)幼い子が入っていたら、カウントなしにしてあげる。女の子がいたら、上投げじゃなくて下投げにしてあげる。いつも、勝つ側が決まっているゲームは、面白くない。誰が勝つかわからないから面白い。そのためのハンディ・キャップ。誰に言われるまでもなく、みんなで工夫した。

とら(5)子どもの頃の草野球の自主ルールのきわめつけは、「透明ランナー」。対戦していて人数が足りなくて、塁上のランナーがバッターに立たなくてはならないとき、たとえば「透明ランナー一塁!」と宣言する。そして、次の打者がヒットを打ったら、透明ランナーも進塁する。

とら(6)透明ランナーは見えないのに、みんなで見えることにしていた。透明ランナーにタッチするとか、投げて当てるとか、そんなことを言っているやつもいた。透明ランナーは、限られた道具、環境の中で最大限に楽しもうという、子どもたちの創意工夫。透明ランナーばんざい!

とら(7)与えられたルールの中で得点を競うのではなく、自分たちで工夫し、決めて楽しむ。このような子どもの遊びの中には、後に、社会に入り、力を合わせる時に必要な叡智が隠れている。自分たちの置かれた状況を客観視する、「メタ認知」が機能し、そして「場」を生み出すのだ。

とら(8)インターネットなどの新しいメディアの最大の特徴は、相互作用のあり方、その時の形式を自分たちで工夫して楽しめること。カリフォルニア発のベンチャー精神の中には、「透明ランナー」と同じものがある。子どもの時のいきいきした気持ちを、忘れないだけでいいのだ。

とら(9)「楽しさ」を基準にすること。それで、人間は大抵間違うことがない。インターネットが切り開いた新しい文明の中を、たくさんの「透明ランナー」が走っている。私たちは、日々、楽しく出会い、向き合うためのルールを工夫している。仲間たちと、夢中で走り回り続けている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月4日木曜日

「男の子パワー」についての連続ツイート

おぱ(1)幼稚園のとき、なかま二人とふざけて遊んでいた。そうしたら、一人が、ぷっと笑ったその拍子に、鼻水がうわーって出て、もう一人の服にかかった。きたねーとみんなで逃げた。鼻水が出たやつも、笑いながら追いかけてきた。恐るべし、男の子パワー。

おぱ(2)小学校2年の時、何でも575で俳句を作るのがはやった。冬だった。お腹が空いていた。くるすが、遠くを見るような眼をした後で、ぽつりと、「いもくって、おならでるでる ぱんつやぶける ばかぢから」と言った。すげー、天才! と思った。恐るべし、男の子パワー。

おぱ(3)だいたい、女の子は、同じ年頃の男の子を、幼いと感じるものである。男の子たちは、女の子たちの落ち着きや静かさにあこがれつつも、ついついアホなことをやってしまう。下らないギャグに笑う。エネルギーを発散させること自体が生き甲斐。おそるべし、男の子パワー。

おぱ(4)缶蹴りもひどかった。シャツを代えてしまって、ものかげから出して、「間違えた、間違えた!」と出ていく。5人くらいで一斉に走っていって、缶を踏む暇がない。イモムシみたいにつながって出ていって、「顔みえないとダメだよ」などという。恐るべし、男の子ぱわー。

おぱ(5)意味がわからない、男の子パワー。友達の家で、枝豆が出る。ものすごくうまい。仲間に負けまいと、両手で食べる。カニさんのように、出しては食べ、出しては食べ。「オレ、食べる機械になった!」食べる機械と食べる機械が競争する。おそるべし、男の子パワー。

おぱ(6)男の子パワーのポイントは、まだ異性を意識したふるまいがあまりないということと、勉強や仕事といった、後の社会的計算もないということである。ただ、意味もなく生命力が弾けている。なんの利益にもつながらない。しかし、だからこそ、今、この時が輝いている。

おぱ(7)ベーゴマやメンコに夢中になった時代もあった。けずったり、ささくれを立てたりしていろいろ工夫して、ムキになって競争した。負けることが本当に悔しくて、勝つと天にも昇る気持ちがした。戦争や経済とまったく関係のない、無性で尽きることのない男の子パワー。

おぱ(8)大人になっても、少しは男の子パワーが残っている。芸大の杉原は、好きな女が下宿の前を通りかかって、おりゃあと飛び降りて骨折した。キャンパスに松葉杖をついて現れた。どうしたの、杉ちゃん、バカだねえ、杉ちゃん。みんな笑って、それでも男の子パワーに感動している。

おば(9)どうやら、私たちは男の子パワーをもう少し必要としているらしい。ポイントは、合目的ではないこと。無防備なこと。エネルギーを、とにかく発散させること。熱狂があること。仲間との友情があること。友情、努力、勝利。そうか、少年ジャンプは男の子パワーだったのか!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月3日水曜日

「爆発的なははは」についての連続ツイート

ばは(1)昨日、新潟に本拠を置くお笑い集団NAMARAの江口歩さんと話していて、爆発的な笑いの持つパワーを思いだした。もう腹を抱えて、苦しいほど笑っている時、私たちは何かから開放されている。もっと自由になっている。空気を読むのではなく、空気をつくっている。

ばは(2)川柳川柳師匠の「ガーコン」を末広亭で最初に見た時の衝撃は忘れられない。軍歌を大声でがなりたてる。日本が勝っていた時は明るいが、負け始めると暗くなる。そして終戦とともにジャズの洪水。爆発的に笑ったのは、それで何かから開放されたからだろう。

ばは(3)「軍歌」が悪いものだ、とでもいうような一時の風潮。そんな中、川柳師匠の「ガーコン」は、戦前から戦後への流れの実感を、歌に託して表現していた。だから、タブーから開放されて、笑う、そして、そのあとでほろりとして、生きていることそれ自体へと回帰していける。

ばは(4)忌野清志郎さんの「あこがれの北朝鮮」もまた、タブーから解放してくれる。「キムイルソン、キムジョンイル、キムヒョンヒ、キムヘギョン、おーいキムって呼ぶと、みんなが振り向く」最後は「いつかきっとみんな仲良くなれる差別も偏見も国境も無くなるさ」イイネ!

ばは(5)爆発的な笑いには、生命の解放がある。小学校2年の頃、給食の牛乳を飲んでいる時に笑わせるのが流行った。元気いっぱいのオレたち男の子。牛乳を飲もうとすると、笑うようなことを言って、ぱっと牛乳が吹き出る。口からも鼻からも吹き出る。あれにはマイッタ。

ばは(6)だからもう、給食が始まると、みんな必死に牛乳を一気飲みして、なんとか笑わされないようにした。オレたち本当にバカだったけど、あんなに命があふれていたこともないな。腹を抱えて笑えるってことは、生きているということさ。牛乳飲んでもおかしい年頃ってあるんだな。

ばは(7)ニーチェは、「悦ばしき知識」の中で、「悲劇の時代が終わり、喜劇の時代が来る」と予言した。笑うことで、私たちは重力の魔に抗することができる。ぐいぐいと追い詰めるような存在の重さを、笑って吹き飛ばすことができる。爆発的なははは。それで、何でも、オッケー!

ばは(8)ドリフの教室コントは、勉強が苦手で、教室にいる時間が苦痛な子どもたちを解放していた。「はい、この地図の記号は?」「ノース、イースト、ウェスト、ヒップ」。実際の教室ではできない、茶化しやフザケを見せることで、悪ガキたちは「生きるって楽しいかも!」と思えた。

ばは(9)この世には、私たちの命を窒息させるものがたくさんある。そんな時に、笑いを工夫すればいい。爆発的なははは。この世は、感じるものにとっては悲劇であるが、考えるものにとっては喜劇である。コメディアンは考えている。この世を解放するために、必死になって考えている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月2日火曜日

「新しき村」から「忠七めし」に至る、私のおすすめの小旅行についての連続ツイート

にんげん(1)武者小路実篤の「新しき村」が、まだ存在していると知ったのは、学生の頃だった。埼玉にあるという。ある日、私は東武線に乗ってでかけてみた。小さな駅で降りて、てくてく歩いていく、やがて、細い道をめぐって、田んぼに出た。

にんげん(2)たんぼの向こうに、「ひょっこりひょうたん島」のような緑の塊がある。そこが、新しき村だった。あぜ道を近づいていくと、次第に、桃源郷に至っているような感覚になってきた。村の道に入るとすぐに、養鶏場があって、たくさんのニワトリたちがこっここっこと言っていた。

にんげん(3)進んでいくと、やがて、「新しき村」の中心に来た。広場のようなものがあって、その横に「食堂」と書いてあった。「食堂」には、野菜や卵が置いてあって、代金を置いてもちかえってよいようになっていた。野菜や卵の横には、板きれに書かれたメッセージがあった。

にんげん(4)「新しき村」の食堂に置かれた板きれには、「にんげん」がたくさんあった。「下の畑に行っています。 にんげん」「代金は箱の中に入れておいてください にんげん」呼びかけられている私も、またにんげんなのだろう。武者小路実篤の理想郷には、にんげんがたくさんいた。

にんげん(5)「新しき村」は、晴耕雨読を目指している。「村人」たちは、畑仕事のかたわら、芸術活動をする。村の中には、武者小路実篤の画賛や、「村人」たちの作品が置かれた美術館があって、中に入ってながめてみると「にんげん」として、心豊かな気持ちになるのだった。

にんげん(6)私は、「新しき村」がすっかり気に入ってしまって、何度も通った。そのうちに、周辺の地理にも詳しくなった。村を散策した後、歩いて、毛呂山に出る。そこから八高線で小川町に移動するという「必殺ルート」を開拓した。小川町には、大いなる喜びが待っていたのだ。

にんげん(7)小川町のよろこびと言えば、「忠七めし」で有名な「二葉」。山岡鉄舟が、当時の主人の忠七に、「調理に禅味を盛れ」と言ったのがきっかけで生まれたという、「日本三大名飯」の一つ。この忠七めしが、すさまじい旨さなんだよ、これが、さあお立ち会い。

にんげん(8)「二葉」の料理は、本当に技術水準が高くて、おいしい。最後に出る「忠七めし」は、あれこれ腹一杯食べたあとでも何杯もおかわりしてしまうという、信じられない旨さ。女性でもおかわりしてしまう。ある種のお茶漬けなんだけど、ただのお茶漬けじゃないんだなあ。

にんげん(9)にんげんとして、ゆったりと田園を歩いて「新しき村」に出て、「にんげん」の看板を見て、そこから毛呂山まで歩いて、八高線で小川町に出て、「忠七めし」を食べて帰ってくる。この必殺わざの楽しみを、最近やっていない。いろいろ大変な日々の中で、なつかしく思い出す。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年8月1日月曜日

「友人」についての連続ツイート

とも(1)友人は、人生における大切な宝物である。男にとって、同性の友人は、かけがえのない絆になる。尊敬し、バカを一緒にできて、そして時にはライバルとなる。友がいることで、どんなに人生は豊かになることだろう。楽しみが増すことだろう。

とも(2)友人は、利害関係とは関係ない。ただ、一緒にいることに意味がある。一言にはっとしたり、共に笑ったり、同じことに怒りを感じたり、ふたりで走ったり。友といる時のその時間の流れは、交響曲のひびきのようだ。

とも(3)ともは、一番苦しいとき、つらいときにさっと手をさしのべてくれる。まっさきに連絡をくれる。しかも、そこで発する一言が、事態の本質と、それに対する自分の性質のあれこれをつかんでいる。友は、自分の鏡である。難事において、自分の姿を見ることで心が落ち着くのだ。

とも(4)友は、自分の本質を見抜いてくれる。いつも自分が大切だと密かに思っている価値観、こう行動すべきという倫理基準を、友は酒を飲むそのひとときの中で言い当てる。時には、自分が気付かなかったことも、さらりと言ってくれる。そのことで、より絆が深まる。

とも(5)深く結びついた友には、そう頻繁に会う必要はない。もうわかっているから。半年くらい会わなくても、平気である。しかし、だんだん会いたくなってくる。会うと、「よう!」とまるで昨日の続きのように、すぐに深い話に入れる。あるいは、ただたわむれているだけでいい。

とも(6)ある人の友がどのような人かを見ると、その人がどんな人がだんだん見えてくることがある。何を大切にしているか、どのように世の中を見ているか。友の選択が、その人の社会に対しての一つの価値観、感覚のステートメントとなっている。

とも(7)他人の成功に対して嫉妬する心が人間にはある。ところが、友の喜びは、本当にうれしい。どんなに苦労しているか、知っているから。風に向かって立っていたことをわかっているから。そして、友の喜びは、自分の喜びにもなる。なぜなら私たちはある種の運命共同体だから。

とも(8)私は昨日信哉と飲んでいて、真の友とは何か、もう一度思いだしたような気がした。「こんな純粋な人はいないからな」「でも、お前は誤解されやすいから気をつけろ」。酒を飲みながら、信哉が肩をつついてくる。おまけに、よっぱらってツイートしやがって。ありがとう、信哉。

とも(9)信哉だけじゃない。大切な友人がいて、本当に恵まれて、幸せだと思う。お前ら、分かっているよね? 尊敬しています。困った時は、助けます。助けてくれて、ありがとう。星の友情は、人生の最高の宝ものだと思う。これからも、よろしくね。オレもがんばるぜい!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。