2011年8月10日水曜日

「受け身」についての連続ツイート

ころ(1)高校2年の時、柔道の授業があった。遠藤先生がいらして、畳の部屋で向き合った。それまで武道をやったことがなかったから、真新しい柔道着をまとって、腹の底が冷えるような緊張感があった。心構えが伝えられた後、いよいよ実技が始まった。

ころ(2)柔道の授業のいちばん最初にやったこと。それは、投げられ、転ばされた時にやる「受け身」の練習だった。投げられて身体が畳に着く瞬間に、「パン!」と手で床を叩いて、衝撃を和らげる。パン! パン! パン! 何度もなんどもやらされた。そのうち、転ぶのがうまくなった。

ころ(3)柔道の授業だというから、相手に技をかけて投げる練習をするのだとばかり思っていた。ところが、最初に、「投げられた時のため」の練習をする。受け身の練習から入るのは、一年間、ずっと変わらなかった。毎回、まずは投げられたときのために、パン! パン! と畳を叩く。

ころ(4)誰だって、柔道では相手に投げ技をかけて勝ちたい。しかし、投げられてしまうこともある。その時のために、「受け身」の練習をする。逆に言えば、投げられ、転がされた時に「パン!」と受け身さえできれば、積極果敢に攻めることができる。勝つために、転ぶ練習をする。

ころ(5)恩師の有り難さは、ずっと後でわかる。社会に出て、しばらく経った頃、遠藤先生の柔道の授業を思いだした。そして、まずは転ばされた時の「受け身」の練習をするという哲学の深さをしみじみと感じた。本当に大切なことの意味は、ゆっくりと身体にしみわたってこそわかる。
ころ(6)人と向き合うのが怖いという人がいる。傷つくかもしれない。思いが伝わらないかもしれない。確かに、人と人とはすれ違うことも多い。そんな時でも、転んだ時の受け身の練習さえしていれば、安心して他人と向き合うことができる。自分という存在を、さらけ出すことができる。

ころ(7)柔道では、身体をかたくして組み合っていても、なかなか技がかからない。自分の身体をやわらかくして、誘い込んでこそ技がかかる。人間関係も同じこと。自分をさらけ出して初めて始まる。恐れてはいけない。いざとなったら、受け身をとればいいのだから。

ころ(8)身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。柔道が下手くそでどうしょうもない私だったが、一度だけ、目が覚めるような「一本」が決まったことがある。巴投げ。自分が後ろに倒れて、その勢いで相手を投げる。巴投げは、いわば「受け身」の延長線上にあった。

ころ(9)人間関係がうまく行くことにこしたことはないが、時にはうまくいかないこともある。もっとも重要なことに、必ずうまくいくと保証することはできない。受け身は、保証のない世界での積極性という生命哲学。みんなで、畳をパン! パン! と叩く練習をしよう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。