2011年8月23日火曜日

「混ざった状態が心地よい」ことに関しての連続ツイート

まこ(1)人と一緒にいる時の心地よさにはいろいろあって、例えば、気心の知れた人たちとの談笑は「ホーム」である。すべてを言う必要がない。みんなで笑顔に笑顔を返す。そんな時間の流れは素敵である。

まこ(2)シンガポールに来るたびに、一つの心地よさの文法に目が開かれる。それは、いろいろなバックグラウンドの人が「まざって」いること。通りを歩いていても、肌の色や顔かたち、様子が異なる人が混ざり合って歩いている。それぞれの人生の根っこを持ち寄っている。

まこ(3)例えば、英国のケンブリッジ大学は一つの心地よい空間ではあるが、一方で知的にも階層的にも均質な傾向がある(例外あり)。それに対して、シンガポール国立大学は、いろいろな人がいる。事務局長が、スリランカの小さな村から来た人だったりする。

まこ(4)日本における「心地よさ」の文法は、長らく「均質性」だった。網野さんの優れた仕事が示したように、必ずしもそれは事実ではないとしても、同じ、という「心地よさ」が、ながらく日本の良さであり、美質であった。

まこ(5)最近、私は、もう一つの心地よさを求め始めている。混ざっていることによって、心地よい。それは、単に国の問題だけではない。飲み会とかでも、同じような人ばかりいると落ち着かない。できるだけいろいろな空気を運んで来てくれる人がいると、うれしくなる。

まこ(6)だから、このところ、飲み会などでは、いろいろなバックグランドの人を混ぜることに勢力を注いでいる。研究室の飲み会でも、必ず誰か違う人を呼ぶ。先日の合宿でも、芸大のやつらや、地元の人たちや、関係ない人たち、混ざっているのが、とても心地よかった。

まこ(7)かつて、ザルツブルクの動物園の人たちと(なぜか!)飲んだとき、酔っぱらってきたら、みんな同じになった。イギリスの紳士たちも同じ。酔っぱ らってきたら、みんな同じになる。人間は、どの文化を背景に育ってきても、そんなに変わらない。混ざると、それが肌でわかる。

まこ(8)混ざっている状態にしか、リアリティを感じない。ぼくは、そういう気持ちになっている。もちろん、気心の知れた仲間たちとのホームもいい。しかし、混ざってみると、これはアウェーではなく一つのホームだな、ということに気付くのだ。

まこ(9)養老孟司さんが、よく、都市には直線が多すぎると言う。自然界は多様なかたちが存在する。均質性は、その意味では、養老さんの言われる「脳化社会」に近い。一方、混ざった状態は、自然に近い。そして、人は、自然な状態でこそ、本当にリラックスできるのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。