2011年10月31日月曜日

「落語の中には、貧しくても生活を楽しむ智恵があふれている」の連続ツイート

らま(1)落語には、江戸時代の人の智恵が詰まっていて、なんとも言えない味わいがある。何もなくても、貧しくても、そんな生活を笑って、楽しんでしまう。したたかな庶民の智恵が、停滞している今の日本にぴったりだと思えるのだ。

らま(2)たとえば、「あくび指南」。いろいろな稽古があるけれども、今度、「あくび」のやり方教えます、という看板が出たので好奇心の強いやつが行ってみよう、と言う。もう一人は、ばからしいそんなの、あくびのやり方なんて習って何になるんだ、と取り合わない。

らま(3)それでも、その師匠のところに行く。「ばからしい」と言っていたやつもついてくる。「それじゃあ、春のあくびをやりましょう」とお師匠さん。花見の季節、船遊びをしいて、ぽかぽかと日差しがあたたかく、船のゆれもここちよい。

らま(4)「船頭さん、船を川上にやっておくれ。船遊びもいいが、こうしていると、たいくつで、たいくつで、あー、ならない」とな。と師匠があくびをやってみせる。好奇心の強いやつはおもしろい、と思うが、連れは「ばからしい」とずっと取り合わない。

らま(5)そのうちに、あくびの「稽古」を見ていた連れが、「ばからしい。あいつは好きでやっているからいいけど、こうやってついてきたオレは、たいくつ で、たいくつで、あ〜ならない」とあくびをすると、それを見た師匠が、「ああ、お連れさんの方がすじがよろしい」と下げる。

らま(6)「あくび指南」がすばらしいのは、本当に何もないところから、「あくび」をするということを一つの「芸」として、その設定や、そこに至る道筋やら、工夫をすることで、奥行きが生まれてしまって、楽しみの時間を持つことができることだろう。

らま(7)「長屋の花見」。貧しくて卵焼きやお酒が買えないから、たくわんを卵焼き、お茶をお酒だと思う。それで、酔っている振りをする。「おれはお酒を 飲んで酔っぱらっているんだぞ。お茶を飲んでよっぱらっているんじゃないぞ」「おいおい、そんなこといちいち言わなくていいよ。」

らま(8)「その卵焼きとっておくれ」「はいよ」「私はね、この卵焼きが好きでね。ごはんといっしょに、ぽりぽりかじる。お茶漬けにしてもおいしいね。 やっぱり、本場は練馬かい?」「おい、そんな卵焼きがあるかよ。」下げは、「この長屋にいいことがありますよ。酒柱が立ってる。」

らま(9)経済成長がないことを「停滞」というけれども、それじゃあ江戸時代はほぼ停滞していたわけで、その中でも生活を楽しむことができる、という「落語」に表れている智恵は、間違いなくこれからの日本人にとって参考になるのではないかと私は思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月30日日曜日

「開国は避けられないが、他国からのイニシアティヴにあたふたするのはもうやめよう」の連続ツイート

かた(1)TPPを巡る議論が白熱している。「平成の開国」という言葉があるように、今後の日本の国のあり方を決める、重大な局面。賛成、反対の立場からさまざまな議論が沸騰しているが、今朝は、私なりに感じていること、考えていることをまとめてみたい。

かた(2)まず、TPPに参加するか、交渉に加わるかどうかは別として、何らかの「開国」は避けられないということである。日本の社会のオペレーティン グ・システムが、グローバル化にそぐわなくなっている。TPPに参加するかどうかは、一つのオプションに過ぎず、問題はより一般的で深い。

かた(3)TPP参加によって、農業分野が大きな影響を受けると言われている。これは、ある意味ではフェアではない。本来、大学などの教育分野や、新卒一 括採用にこだわる企業の統治などが、国際的に見て大きく遅れを取っているけれども、これらはTPP参加によっても微温的な影響しか受けない。

かた(4)TPP参加によって、農業は間違いなく割を食う。賛成論者は、重大な影響を受けた際に、農業関係者がどのように適応出来るのか、どんな風に衝撃 を和らげ、農業関係者の生活を支えられるのか、その具体的なシナリオを示さなければならない。それなしに進めるのは 無責任である。

かた(5)現在、TPPを推進している人たちは、自分自身は割を食わず、関税の撤廃によって利益を得る人たちなのだから、そのことに自覚的でないと、議論 が説得力を失う。参加するにしてもしないにしても、国全体としての戦略、制度設計をしっかりしなければ、意味がないだろう。

かた(6)一番気になることは、TPP問題についても、ふたたび「黒船」のパターンが繰り返されていることである。自分たちが自律的に考え、立案した戦略 ではなく、外国から提示されたスキームを、飲むか飲まないかというかたちで未来を決める。きわめて愚かな態度だと 言わざるを得ない。

かた(7)日本が「ガラパゴス化」している事実をまずは認めた上で、その上で、自分たちでどのように「開国」すればいいのか、冷静かつ戦略的に計画を立案すればいいのに、そのような努力をしない。将来のオプションを外国に丸投げ。これでは、日本の将来はいずれにせよ暗い。

かた(8)TPPの問題について、日本の新聞記者の方々には、お得意の政局報道のパターンに持ち込まないで、ぜひ、公平で冷静な報道につとめていただきた い。誰がどのような利害に基づいて何を主張しているのか、日本全体の制度設計としては、何が望ましいのか。ジャーナリズムの出番である。

かた(9)TPPの問題は、氷山の一角に過ぎない。TPP参加問題を、single issue politicsにしてはいけない。本当に問題になっているのは、いかに日本がそのOSを進化させるかということで、TPPで無傷の大学や官公庁、企業こ そが、その鼎の軽重を問われている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月29日土曜日

「センス・オブ・ワンダーを大切にしていれば、人は怪奇話に満足せずに、進んでいくものである。」ことについての連続ツイート

せす(1)このところ、「何月何日に人類が滅亡する」という類のネタが、ツイッターを賑わせていた。それで、ああ、なつかしいなと思った。小学校の時、何度も、「おい、今度の木曜日に、地球が終わるらしいぞ」という類のうわさが流れたことを思い出す。

せす(2)実は、「人類滅亡」の類の話が、大好きだった。自分の知っている世界と全く異なる何かが起こるような、そんな予感がしたからである。同じように、子どもの頃、UFOの話とか、謎の巨大生物の話とか、心霊写真の話とか、大好きで、関連図書を大量に読んだ。

せす(3)今でも覚えているのは、牧場の柵から少年が飛び降りたら、地面に着く前に消えていた、というような話を集めた本。海にいる不思議な怪物とか。大好きで、背表紙がぼろぼろになるまで、繰り返し読んだように記憶している。

せす(4)今振り返ると、少年の私を魅了していたのは、「センス・オブ・ワンダー」だったのだろう。世界がどのように出来ているか、ということを知らない から、未知の可能性にわくわくする。UFOや、心霊写真や、地球滅亡の話は、日常にかかっているベールを、ほんの少し上げてくれた。

せす(5)迷信の類に眉をひそめる人がいるけれども、好奇心を持つことは健全だと思う。大切なのは、「センス・オブ・ワンダー」。センス・オブ・ワンダーを持っている人は、決して、そこに留まることはないから。

せす(6)そのうち、世界には、もっと深いセンス・オブ・ワンダーがあることに気づき、震撼する。たとえば、アインシュタインの相対性理論。そもそもの物理主義。自然現象が、精緻な数学的な形式で、記述されてしまうということ。時間が経過することの不思議。

せす(7)UFOや、心霊現象、海の怪物、人類滅亡といったことに最初は興味を持っても、「センス・オブ・ワンダー」に基準があれば、人は自然に別のとこ ろに行く。相対論や量子論、分子生物学、マンデルブロ集合の数学、連続体仮説。これらのセンス・オブ・ワンダーの方が、深いし、 良質だから。

せす(8)だから、陰謀史観や、人類が滅亡するという予言や、UFOや、心霊現象や、占いや、そういうものにこだわっているひとは、きっと、より大きなセ ンス・オブ・ワンダーを知らないか、あるいは、センス・オブ・ワンダー以外の何かを大切にしているのだろうと、私は考える。

せす(9)子どもの頃に、不思議な話に興味を持ったり、怪奇な物語に夢中になるのは、悪いことではない。センス・オブ・ワンダーの階段だから。今じゃあ、 牧場の柵から飛び降りた少年が消えるとはもちろん思っていないけど、そんな話を読んでわくわくしたことが、私を 育ててくれた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月28日金曜日

「一秒で集中することが、武士道の伝統的な感覚につながる」ことの連続ツイート

いぶ(1)本日のクオリア日記にもあるように、子どもの頃、私は、二階の自分の部屋にいても、母親が「やっているわよ!」と叫ぶと瞬時に駆け下りて、テレ ビの蝶の映像を見ていた。まさに、戦闘機のスクランブル発進。なつかしいとともに、生命の時間について、いろいろなことを思う。

いぶ(2)そもそも、蝶を追いかけていると、瞬時に反応しなくてはならない。蝶は、360度サラウンド、どこから飛んでくるかわからない。だから、その姿 が目に入ると、それこそコンマ何秒で反応し、走り出す。そんな子ども時代を送っていたから、今でも、瞬発力には自信がある。

いぶ(3)勉強法にも書いたけれど、1秒で集中してトップスピードに行けるようでなくてはならない。何とかの準備をして、段取りをしてとか、そんなことでは間に合わない。それは、たとえていえば、武術の心得のようなものである。

いぶ(5)あなたが坂本龍馬だとして、新撰組が突然襲撃してきた時に、「ちょっと待ってくれ、今準備するから」などとは言えない。瞬時に反応して、トップ スピードに行かなければ、間に合わない。そんなことは 日本人にとっては常識だったはずなのが、いつの間にかわすれてしまった。

いぶ(6)今、日本の講演会とか会議とかに行くと、肩書きかどうだとか、本日はお日柄もよくだとか、具にもつかないことをだらだら並べて、一向に本題に入 らない。あの弛緩した空気が、日本人の精神力を衰えさせている。段取りとか、根回しとか、そんなくだらないものは吹き飛ばしてしまえ。

いぶ(6)だいたい、日本人は自分たちを何だと思っているんだろう。段取りや根回し、肩書きや組織がなくては何もできないような、そんな下らない人間たち じゃ、オレ達はないよ。はっと思ったら、一秒で集中して、トップスピードで走り出す。それが、オレ達のやり方だったはずだ。

いぶ(7)最近では、むしろ外国の方が、一瞬にしてトップスピードに入るやり方を実践している。例えば、TEDのトーク。一秒目から飛ばして、伝えるべき もっとも熱いメッセージを送り出す。あれって、本当は、オレ達のやり方だったはずなのに、すっかり忘れてしまっているね。

いぶ(8)お役所の、あのまわりくどい、何を言っているかわからないあの弛緩した雰囲気は、一体何なのだろう。政策自体には賛否両論あれど、橋本徹さんの スピード感には学んだ方がいい。小学校の集会だって、来賓の挨拶とか、要らないだろう。来賓が坂本龍馬だったらいいけどさ。

いぶ(9)私の読みでは、日本はいよいよ売る者がなくなって没落していくから、ふたたび、一秒で集中してトップスピードに入る、そんなやり方が復活すると 思う。だって、そうじゃなくては生きていけないからね。そして、それは私たちの祖先のやり方でもあった。ただ、思い出せばいいんだよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月27日木曜日

「好奇心さえ忘れなければ、遠くに、本当に遠くに行くことができる。」ことについての連続ツイート

こと(1)昨日、池上高志と飲んでいたら、池上が、「お前、知っているか、ファインマンのレクチャー、ネットにたくさん上がっているんだぜ」と言った。それで、Feynmanでyoutubeで検索してみたら、本当にうわーって出てきた。やったね。お祭りだね!

こと(2)それで、ファインマンの話、例えば、http://bit.ly/scGDj5 を見ていると、話の内容が面白いことはもちろんのこと、その顔の表情がいきいきしていることに驚く。自分の話していることに本当に興味を持っていて、愛している、ということが伝わってくるのだ。

こと(3)「熱いとか、冷たいとかいうのは、原子がこうやってわーって動き回って、ぶつかっている、その違いなんだ。想像することが大切だよ」とファイン マンが言う。その感じが、池上が、「お前、知っているか。ファインマンのビデオが、すげー数あるんだぜ」と言っている感じに似ていた。

こと(4)好奇心は、誰にでも平等に与えられている。ところが、それが教育の中で殺されてしまう。点数とか偏差値とか、そういうくだらないもののために、子どもたちの目の輝きが奪われる。結果として、好奇心という、一番の宝ものが失われる。

こと(5)私の友人で、国際的に活躍している現代アートのキュレーターが、この前話していたとき、「オレ、実は高校の時偏差値40だったんですよ」と言った。逆に偉いじゃないか、と思った。アメリカに行って勉強して、今はベルリンで活動。そんな彼は、好奇心のかたまりだ。

こと(6)この国の教育の、最大の問題点は、学習が単なる「人数の限られたクラブ」に入る道筋に過ぎなくなっていることだろう。その結果、入試がやさしい 大学の学生たちは、そもそも意欲をなくしているとも聞く。もったいない話で、人の能力をくだらねえ点数などで選別してはいけない。

こと(7)そもそも、いわゆる一流大学を出て大企業に入るといっても、日本の没落とともにその「パイ」自体が小さくなっている。偏差値なんて関係なく、好奇心にかられて動き回るおっちょこちょいが求められている。せこい秀才なんて、日本の未来を救ってくれはしないよ。

こと(8)物理のことを語っている時の、ファインマンの顔の輝きにこそ注目すべきだ。ぼくは、結局、友人たちと、そういうピュアな心を持っているかどうか ということでつながっているような気がする。なんだか、せこくて、ちまちましているんだよね、日本の社会に満ちている空気が。

こと(9)教育が子どもたちの好奇心を殺しているとしたら、大いに反省すべきだし、別の道を勝手に見つけて疾走するしかない。日本は本当に行き詰まっているから、生命の本能としても、良質な好奇心には必ず道が開けると思う。そうでないと、国全体が助からないからね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月26日水曜日

「いたずらは、好むと好まずとにかかわらず、創造性と深く結びついている」ことについての連続ツイート

いそ(1)Steve Jobsを読んでいる。物凄く面白いが、まず最初の山は、ジョブズが高校の時にやったたくさんのprank (practical joke, いたずら)だった。ネタバレになるから詳細は書かないが、ジョブズは何回もやらかして、停学をくらっている。

いそ(2)イタズラに当たる英語「practical joke」は、なかなか日本語の語感に直しにくい。何かと言えば「悪質な」という枕詞をつけたがる日本の学級委員な人たちが考える「イタズラ」とは異な る、自由闊達な生命の躍動のようなものが、practical jokeにはある。

いそ(3)「そんなイタズラをするなんて」と眉をひそめる人は、アメリカにもいるのだろう。何しろジョブズは何回も停学をくらうんだから。しかし、経験的に言えることは、イタズラに寛容な人は創造性に富み、不寛容な人は創造性とは無縁だということである。

いそ(3)別に、創造性を持つことが人生の唯一の目的ではないし、社会状況によっては、創造的でない方が適応的だということもあるのだから(昨今の日本の ように)、イタズラに寛容であれ、と強制するつもりはないけれども、イタズラと創造性の関係については、もっと考えていいと思う。

いそ(4)Steve Jobsは、伝記としてはおそらく出色の出来で、読み味が、ちょっと「ご冗談でしょうファインマンさん」に似ている。そのファインマンも、いろいろとイタ ズラをしていることは読者なら知っている通り。量子電磁気学や経路積分の独創性と、イタズラの愉快な関係。

いそ(5)ある時、ファインマンは重大な軍事研究をしていたロス・アラモス研究所を囲むフェンスに穴を見つける。それを管理者に報告するかわりに、イタズラを思いつく。穴から出て、正門を通り、また穴から出て、正門を通るということを何回もくりかえしたのだ。

いそ(6)最初はぼんやりと見ていた門番も、やがておかしいと気付く。あれ、こいつ、さっきから正門から入って来ているけど、一度も出てないぞ。入るばかりで、出てないぞ! どういうことなんだ? やがて「何かがおかしい!」と気付く。これぞ、アハ体験!

いそ(7)その他にも、ファインマンは数限りないイタズラをする。その自由でジャズな雰囲気が、創造性とつながる。深刻ぶったり、マジメぶったりすることが、いかに創造性を殺すか。そのことは、失われた20年を生きる日本人は、とっくに気付いていいはずだ。

いそ(8)Steve Jobsには、高校時代にジョブズがアップルの共同創業者とやった最大の「イタズラ」が書かれている。それなしでは、アップルの創業はなかっただろう、と いうイタズラ。日本の「学級委員」たちが、「違法だ」「補導しろ」とわあわあ叫ぶような、とてつもないイタズラ。

いそ(9)Steve Jobsを読んでわかるのは、Think Differentの、権威に従わず、反逆者であり、現状に尊敬を払わない、というナレーションは、まさにジョブズ自身のことだということ。どの社会にも 抑圧的な空気はあるけど、創造者は「イタズラ」でそれに対抗する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月25日火曜日

「祈りは強い者に向けられるのではない。弱い者にこそ向けられる」の連続ツイート

いよ(1)金沢の東茶屋街には、なんどか来ていた。格子が並ぶ、美しい両側の建物の中を、静かに歩いていくと魂が癒されていく。それでも知らないところがあったのは、それだけ奥行きがあるということなのだろう。

いよ(2)奥まで行って、そこを曲がったところにあるお店に連れていってもらった。カウンターに座って、お酒を飲んでいると、なんだかふらふらしたくなって、トイレにいくふりをして、そのまま戸を開けて、夜の静寂の中に出た。

いよ(3)お茶屋さんが並ぶ通りは、しんみりと静まり返っていて。時折、どこからか、人の話し声のようなものが聞こえる。ふらふらと歩いていたら、鳥居が見えた。「宇多須神社」とある。何でも、お城からみると鬼門の方角にあたるので、それで創建されたらしい。

いよ(4)境内の木には、もう雪釣りがしてあった。枝の一つひとつを、ひもで結んで、雪がつもっても負けないようにする。その細やかでやさしい心遣い。どうやら、そのあたりの光景が、そのあとのできごとを準備していたように、翌朝の今になって振り返ると思えてくる。

いよ(5)社があったので、お参りしようと思った。階段のところに、木札がある。「靴のままお上がりください。 Shoes OK」。階段を上がって、もう戸が閉まっていたので、それごしに、中を拝見してお参りした。二礼二拍手一礼。踵を返して戻ろうとしたとき、はっと思った。

いよ(6)神社で、祈るとはどういうことなのだろう。日本の神様は西洋のそれとは違うけれども、それでも、全知全能の神様に「お願い」をするということではない、と以前から感じていた。むしろ、自分で自分に誓うということの方が、しっくりと来るように感じていた。

いよ(7)それが、宇多須神社で、はっきりとわかった。祈りは、強い者に対して行われるのではない。祈りは、弱い者に対して、くじけた者に対して行われるのだと。そのことが、さーっと光の幕のように心の中でかたちをとって、確信となって感じられた。

いよ(8)いろいろ、おいしいものをいただいていたからかな。食卓に上るために、殺されていった魚たち。死んだら神様になるというのも、亡くなった方は、もっとも弱き存在だから、だって、もう何もできないから。弱き者、無力な存在の前にこそ、私たちは頭を垂れる。

いよ(9)だから、本当は、祈りの対象というのは、一木一草、至るところにあるんだね。ちょっと遠回りして店に戻ったら、田森がおもしろ話をしていた。雪の上で腹ばいになって難をのがれた話。ぼくはうふふと思って、焼酎を飲んだ。金沢の夜はふけていく。田森が、おしぼりで顔を拭いた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月24日月曜日

「宗教的なモティーフは生きる上での糧となり得るが、党派性の下、他者を排除する必要はもはやない」ことについての連続ツイート

しと(1)「魂」や「死後の世界」は、「脳内現象」であって、その切実さを科学主義から否定すべきではないと書いた。では、そのような表象の体系としての「宗教」をどのように考えるべきかと言えば、宗教感情自体と、宗教組織、団体とは区別しなければならないと思う。

しと(2)それぞれの宗教に、切実なモティーフがある。たとえば、キリスト教における、絶対者たる神が、死すべき者である人間の苦しみを「共苦」するため に、受肉したという考え方。イスラム教における、偶像崇拝否定の思想。ムハンマドの肖像は、たとえ描かれる場合でも顔に覆いがある。

しと(3)日本の神道における、自然との共生の概念は、21世紀の地球において重要である。仏教における、すべての生きとし生けるものを慈しむ考えは、今 日のエコロジーの思想につながる。それぞれの宗教において、私たちがこの地上で生きる上で助けになる、さまざまな叡智がある。

しと(4)本来、これらの表象としてのモティーフは、特定の体系性に属するものではなく、また、お互いに排他的なものでもない。ところが、従来の宗教組織は、あたかも帰依が同時に排他的従属を意味するかのような、そんな擬制を行ってきた。

しと(5)リチャード・ドーキンスが、その著書「神は妄想である」で批判したのも、宗教「団体」の排他性だった。21世紀のグローバル社会において、異なる文化背景の持ち主が混ざり合う時、従来の意味での絶対的帰依、排他性は、もはや維持する必要がないと私は考える。

しと(6)すべての宗教的モティーフを「脳内現象」としてとらえた時、そこに排他的体系性がある必然性はない。たとえば、キリスト教の受肉の思想と、仏教のエコロジー思想が結びついてよい。さまざまな宗教のモティーフに、自由に共感し、自分の生きる糧としてよい。

しと(7)日本人は、元旦には初詣をして、クリスマスを祝い、キリスト教式の結婚をして、仏教で葬られるなど、宗教的に節操がないと言われてきた。しかし、宗教的モティーフを「脳内現象」としてとらえるという立場からみれば、それでいいのだ、とも言える。

しと(8)私自身は、特定の宗教団体に所属していないけれども、さまざまな宗教において提示されているモティーフには、関心がある。その切実さに触れ、自 らの生きる糧にすることは、大いにあっていいと思う。ただし、従来の宗教団体の、排他的体系性だけは、もうそろそろ廃してもいいのではないか。

しと(9)宗教に限らず、すべての「団体」は、それが排他的でない限りにおいて、人類社会に恵みをもたらす。ソーシャルネットワーク時代における「組織」の概念自体が見直されるべきときが来ている。「宗教」は、その典型であり、極致であろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月23日日曜日

「魂はそとをふわふわと飛んでいるのではない、脳内現象として、表象されているのである」ことについての連続ツイート

たの(1)「科学的世界観」というものを狭くとらえる人がいて、魂とか、「あの世」とか、「神」とか、そのような概念を、一切認めない人がいる。そのような狭量主義は、存在論的/認識論的誤解に基づいていると私は思う。

たの(2)小林秀雄も言っているように、「魂」は、別にふわふわと外を飛んでいるわけではない。「魂」は、私たちの心の中にある。亡くなったおばあちゃんのことを思い出すと、その魂が心の中に脳内現象として生まれるのである。

たの(3)クオリアや志向性に満ちた脳内現象が、どのように生まれるのかは、誰にもまだわかっていない。いずれにせよ、そのような色とりどりのものたちの 中に、「魂」や「死後の世界」という仮想が存在する。それらのリアリティを否定することは、「科学的態度」では断じてない。

たの(4)そもそも、目の前のコップの表象でさえ、脳の活動が生み出した得体の知れないものであり、それと「コップ自体」の関係は、たまたま進化論的に拘束されたに過ぎぬ。同じように、「魂」の表象と、「魂自体」の関係についても、ふかしぎな暗闇が存在する。

たの(5)「コップ」の表象に対して、「コップ自体」があるのとは同じ意味では、「魂」や「死後の世界」の表象に対して、「魂自体」や「死後の世界自体」 がない、という議論はありうる。私自身もそう考えているが、 人間の意識に対する切実さという意味においては、本質ではない。

たの(6)この世に生まれて、なぜか意識というものを持ってしまい、自分の死を認識し、悩み、苦しむ。そんな中で、「魂」や「死後の世界」といった表象を生み出したからと言って、それは恥ずべきことではなく、むしろ生きることの切実さに寄り添っている。

たの(7)狭量な科学主義者が、「魂」や「死後の世界」を口にする人を笑うのは、つまりそこに「魂自体」や「死後の世界自体」が含意されていると解釈する からだろう。しかし、本当に大切なのは表象の切実さの方で、魂がふわふわと飛んでいるわけではないことなどわかっている。

たの(8)昨日、私が「人は死んだら神様になる」とツイートしたのも、むろん、本当に神様がふわふわと飛んでいて、「神様自体」がいらっしゃると考えているだからではない。神様という、表象を生み出した人間の切実さ。それに寄り添うことでしか、見えてこないことがある。

たの(9)以上申し上げたことは、私にとっては、現代を生きる上では必要不可欠な素養の一つだと思う。このことさえわかっていれば、合理主義から外れることもないし、狭量に陥ることもない。いずれにせよ、意識の中に実際に感じられることを否定するのは、愚かなことだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月22日土曜日

ひとは、この地上の生を懸命に全うし、亡くなったときに、かみさまになる」ことについての連続ツイート

ひか(1)ぼくには一つの癖のようなものがあって、説明を聞いたり読んだりしても、アタマの中で「カチッ」と当てはまらないと、入って来ない。日本の神道についての説明もそうで、いろいろな話を聞いても、一向にしっくりとした感じになっていなかった。

ひか(2)宮崎県、高千穂の天岩戸神社に行った時のこと。若い宮司さんが、天照大神の話をして下さっていた。「徳川家康さんは、お亡くなりになって、東照大権現という神様におなりになりました。菅原道真さんは、天満天神さまにおなりになりました・・・」

ひか(3)「同じように、天照大神さまも、生きていらっしゃるときは人間のお名前をお持ちになっていたと思われますが、そのお名前を、私たちは存じ上げておりません。」若い宮司さんがそのようにおっしゃった時、私は、アタマの中で、稲妻が走ったような思いがした。

ひか(4)徳川家康が亡くなって東照大権現になり、菅原道真が天満天神になるように、どなたか、古に大切な仕事をして、一生懸命生きていらした女性が、亡 くなって天照大神になられた。そう考えたとき、それまで腑に落ちなかった日本の神話が、急に親しく、大切な存在になったのである。

ひか(5)小林秀雄は、『無常といふ事』の中で、川端康成に向かって、「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例があったのか」と言ったと書いている。

ひか(6)小林は続ける。「其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形を しているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」。だから、人間は、亡くなったときに、神様になる。

ひか(7)亡くなった人は、もう戻って来ない。しかし、その生前の姿、生き方は、縁のあった人たちの心の中にいきいきとあり続けている。つらいことや、苦 しいことがあっても、この地上での生を全うされた。その亡くなった方が、「神様」に感じられるというのは、ごく自然な心の働きなのだろう。

ひか(8)天照大神などのかみさまが、最初から存在すると思っているからわからなかった。地上の人が、懸命に生きたあとで、神様になられると考えたら、八百万の神々がいらっしゃることは、当然のことだし、私もあなたも、いつかは神様になる。

ひか(9)徳川家康さんは、まさに東を照らしたのだから、「東照大権現」という名前がふさわしい。自分の亡くなったおじいちゃんは、何という神様になられているのかな、と想像すると心温かい。神様の名前は、その人の生き方、ありありとした日常を映し、照らすのだから。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月21日金曜日

「里山の景観が、日本人にとってのふるさとの心象風景になること」についての連続ツイート

さふ(1)宮崎県の高千穂の、高天原や、天岩戸は、実見する前から人にいろいろ話を聞いていて、わくわくしていた。天岩戸は、近づくことはできなくて、対岸から見るしかない、とも聞いていた。そのあたりが、とても神秘的に思えた。

さふ(2)私の心の中では、なんとはなしに、峻厳な岩山があり、そこに天上から光が差しているような、そんなイメージが出来上がっていた。「高天原」というその名前が、「降臨」の印象として、そんな光景を心の中につくっていたのだろう。

さふ(3)数年前、高千穂を訪れた。遠くて、ひたすら車に乗った。ようやく到着したとき、私は、ちょっと拍子抜けした気がした。ここが、高天原や天岩戸が ある場所なのか。そのあとで、じんわりと感動が込み上げてきた。日本人のふるさとは、やはりこういう場所でなくてはならない。

さふ(4)ごく普通の、里山の光景が広がっていたのである。「高天原遙拝所」も、田舎にいけばどこにでもあるような、ごく普通の神社への道を歩いてついた。慣れ親しんだ、日本の雑木林の中で。そこから遙拝するにしても、峻厳な岩山としての「高天原」などどこにもない。

さふ(5)天岩戸は、素晴らしかった。対岸から眺める。天照大神がお隠れになったという岩戸。美しかった。写真も、スケッチもできないから、心に留めるしかない。その一回性がかえって、体験の質と強度を高めていた。

さふ(6)天岩戸神社で、若い宮司さんがふともらした一言が、私の「神道」に対する考え方や、そもそも日本の「神様」とは何なのかということについての概念を根底から変えることになるのだが、そのことについては別の機会に改めて論じたいと思う。

さふ(7)ある外国の日本文学研究者が、大和の「天香具山」にあこがれて、実際に見たら、それが小さいのでがっかりした、という話を聞いたことがある。その気持ちも分かるけれども、日本人のふるさとは、その小さい、ささやかな、しかし豊かな里山の中にあるのだ。

さふ(8)「天孫降臨」といっても、砂漠の宗教が構想するどこか乾いた、虚無からの創造ではない。私たちの慣れ親しんだ日本の風土は、もっと小さくて、か わいらしくて、生命の豊かな営みにあふれている。それが、日本の「神学」であり、「世界観」。天香具山が、小さくったって、それでいいのだ。

さふ(9)二十一世紀になり、人間と自然の調和が求められるようになった時に、日本の風土が育んできた、人の営みと自然のいのちが響き合う景観は、きっと 一つのモデルケースになる。私たちは、体験から肌で 知っている。大和や高千穂の「里山」をめぐる神話が、それを示している。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月20日木曜日

「この情報は本当かな、と批判的に考えることが、脳の機能を高度化する」ことについての連続ツイート

この(1)ニュージーランドの心理学者、ジェームズ・フリンが発見した「フリン効果」というものがある。先進工業諸国の人々の平均知能指数が、上昇し続けているという現象。生活条件の改善など、いろいろな要因があると考えられるが、大きな要素は「メディア」の変化だろう。

この(2)新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、携帯電話。新しいメディアが登場する度に、人々はより多くの情報に接し、それを高速で処理するように なってきた。その結果、脳の機能が高度化しているものと考えられる。知能指数(IQ)は環境要因によって影響を受けるのである。

この(3)私たちは、今ごく普通に街中でスマートフォンを使ってメールをチェックしたり、地図で検索したり、文字を打ったりしているが、これはたとえば 50年前の人たちから見れば驚異であろう。時代とともに進化するメディアを、空気のように吸っているだけで、脳は「賢く」なっている。

この(4)フリン効果は、「ムーアの法則」と同様、今後も続くかもしれない。その際に鍵になることの一つが「批判的思考」(critical thinking)であろう。情報を鵜呑みにしない。本当にそうなのかと、裏をとる。さまざまな情報源に接して、最後は自分で判断する。

この(5)マスメディアは、人々から思考能力を奪い、情報を鵜呑みにさせるというかたちで発展してきた。古典的な事例は、オーソン・ウェルズがラジオで 「火星人襲来」のドラマを流し、人々が本気にしてパニックになった事件だろう。このようなマスメディアの悪弊は、時代が変わっても続いている。

この(6)テレビをたまに見ていると、特に民放は、「沈黙」や「空白」を嫌うメディアになっていることに気付く。よく言えば情報のかけ流しだが、悪く言え ば、視聴者に、受け身でだらだら見て、ものを考えない態度を植え付ける。「一億総白痴化」と大宅壮一が断じたころと変わらぬ。

この(7)一方、ネットは、多種多様な情報源に自分で能動的に接し、認識し、判断するという点において、マスメディアとは異なる態度を醸成する。よく、 ネットの情報は信頼できないというが、そんなことは当たり前で、マスメディアの情報だって鵜呑みにしてはいけないことでは 変わりがない。

この(8)ネットが情報流通の中心になるにつれて、脳はより総合的で批判的な思考をするように促される。ここに、「フリン効果」の次のステージが現れる。 ネットの玉石混淆の情報に接して、自らの論理と感性で選別することは、自分の脳の機能を高度化する絶好のチャンスなのだ。

この(9)ネット上でも、一部の情報を鵜呑みにして拡散したり、論を立てたりしている人を見かけるが、従来のマスメディアに対する接し方のモデルを、その ままネットに当てはめてしまっているのだろう。私たちはもっと能動的で、選別的になって良い。変化はそのうちマスメディアにも 必ず波及する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月19日水曜日

「沖縄には未来への光があったなあと、風に吹かれながら考える」連続ツイート

おか(1)沖縄で過ごした二日間、いろいろなものを吸収した。何度も訪れている沖縄だけど、そこには未来があると感じた。行き詰まっている日本の進路を照らす光がある、大げさに言えば、そんなことまで思った。

おか(2)石垣島で会った学生は、台北の教育大学に留学しているというから、中国語わかるのか、と聞いたら、30%しかわからない、でも来年は台湾大学を受け直すという。どうして受かったんだ、と聞くと、石垣市と提携しているから〜と答えるから、お前、そういう問題じゃないだろうと笑った。

おか(3)「内地」の学生たちは、すっかり慎重になっていて、留学なんてできないと尻込みしているけど、「てーげー」に、中国語がわかってもわらなくてもとにかく行ってしまう、そんな石垣の学生に、「お前、それいいじゃないか!」と私は思わずオリオンを飲み干してしまった。

おか(4)聞くと、沖縄の人は若いときからほいほい外国に行っているらしい。吹奏楽やマーチとかの世界大会で、アメリカ行ったりしているらしい。外国に親戚がいるという人も、かなりの確率でいると見聞きする。最初から、島が外とつながっているのだ。

おか(5)「世界のウチナーンチュ大会」というのが5年に一回あって、世界中からウチュナーンチュ(沖縄出身の人)が里帰りするんだという。みんな感激して泣くらしいが、いいよね、このネーミングのセンス! だって、世界のウチナーンチュ大会だぜ。世界の都民大会とか、成立せん!

おか(6)「内地」でも、最近は新卒一括採用のアタマの古い企業に就職するのはイヤだと、世間的にはいわゆる「フリーター」になる学生が増えてきているけど、沖縄ではもともと就職しなくても支え合う文化がある。のんびりしているとか、怠けているとかじゃなくて、そっちに未来があるんじゃないの?

おか(7)沖縄で街づくりに取り組んでいる建築家の関原さんによると、世田谷でやっていた頃の何倍ものスピードで物事が進むそうだ。グローバル化やネットの新文明の下に必要なダイナミズムは、一定数の「リベロ」の人間がいないと実現できないが、沖縄にはすでにそれがある。

おか(8)それともう一つ。「内地」の人たちも、ようやく「原発」という、今そこにある現実の重さに目覚めたけれど、沖縄の人たちはずっと「基地」と向き合ってきた。今すぐにはなくせない存在にどう向き合っていくか、その態度や哲学における先進性が沖縄にある。

おか(9)グローバリズムやインターネットの新文明の下で必要な「風」が、沖縄ではすでに吹いていた。学歴だとか、新卒一括採用とか、記者クラブとか、そんなの一切関係ねえ、「てーげー」のパワー。日本沖縄化計画。適応できない古いエスタブリッシュメントから、周縁への民族大移動!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月18日火曜日

「中心と周縁は、いつの時代にもあるけれども、どちらに飛び込むか、それが問題だ」についての連続ツイート

ちど(1)昨日、沖縄の人たちと話していて、もう、日本の「中枢」はダメなんだなあ、大学にしても、役所にしても、メディアにしても、古くさくて、身動き できなくて、ダメなんだなあ、としみじみ思って、その一方で「周縁」はなかなかいいぞと思った。みんな勝手にやっている。

ちど(2)それでふと思ったんだけど、「中心」は古くさくて、「周縁」は元気、というのは、どの時代も、洋の東西を問わず真実なのではないか。アメリカに行くと、「ワシントン」というのは悪名だし、公務員のムダ、形式主義に対する文句は、同じように聞こえてくる。

ちど(3)つまり、社会というのは、古くて融通の利かない「中心」と、小回りが利いて柔軟な「周縁」というもので常にできていて、その両方のダイナミクス でバランスをとっているものなんだろうね。だから、中心がださい、と文句を言っても、きっと仕方がないんだよ。そういうものなんだから。

ちど(4)問題は、エネルギーの配分だと思う。古くて硬い「中心」と、まだ不安定だけど柔軟で面白い「周縁」があった時に、どちらに身を投じようと思うか? 才能があって、意欲のある若者が、どこに行こうとするか。そのエネルギー配分で、社会は動いていくのだと思う。

ちど(5)従来の日本の問題は、若者たちが、みなこぞって安定した「中心」のメンバーになろうとしてきたことだろう。東大法学部から霞ヶ関へのルートな ど、典型である。そういう「硬い」人たちはもちろんいてもいいが、それは、周縁ががちゃがちゃと元気で、初めて社会のためになる。

ちど(6)すべてはバランスの問題で、日本に、もしスタンフォード大学のような学生が在学中からぎらぎらと起業を考えているような組織があったら、日本の ガチガな「中心」ももっと生きてくるのだろう。ダメな「中心」がダサイのは、「中心」のせいじゃない。周縁の元気のなさのせいだ。

ちど(7)アニメにしても、漫画にしても、コンピュータ・ゲームにしても、日本を元気にしてきた新産業は、すべて「周縁」から生まれてきた。「中心」から バカにされ、見下されても、上等だと跳ね返すそのエネルギーこそが誇りであり、活力であった。それでいいんじゃないか、これからも。

ちど(8)大学に行くとき、あるいは大学を出るときに、どんな将来を思い描くか。不確実だから、どうなるかわからないからこそある分野に行く、という若者が増えてくれば、社会のバランスは自然によくなるさ。縮んでいくパイを奪い合っても、そんなの意味はない。

ちど(9)社会のあり方は、それほど変わるわけではない。問題は、個々の人間が、どんな選択をするか。日本がこのままでも、周縁に飛び込む勇気を持つ人がもっと増えてくれば、確実に日はまた昇る。だって、おひさまって、いつも地の果て、周縁から昇ってくるでしょう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月17日月曜日

一人ひとりがメディア・カンパニーになる」ことについての連続ツイート

ひめ(1)昨日、フリーランスという働き方を論ずる中で、「グーグル時価総額」という話をした。別の言い方をすれば、これからの時代は、「一人ひとりがメディア・カンパニーになる」ということだと思う。今朝はそのことについて考えたい。

ひめ(2)今年の2月、ロング・ビーチでのTEDの会議に参加していた時に耳にしたのが、「TEDはメディア・カンパニーである」という一言。あれだけの高度な内容のトークを、ネット上で無料で公開する。そのあり方に、ぼくは未来への大いなる希望とヴィジョンを見る思いがした。

ひめ(3)テクストや写真、絵、動画をネット上で公開することが、簡単に、ローコストでできる時代。それぞれの興味が持っているものについて、ネット上で表現をして、世界中の人と交流することができる時代。決断さえすれば、一日目から、メディア・カンパニーとしての活動を開始できるのだ。

ひめ(4)例えば、「雑草ガーデニング」。鉢植えをベランダで放っておいて、どんな草が生えてくるか観察する。ぼくは時間がないのでやってないけど、雑草ガーデニングの専門家が、ブログで草の種類や性質を説明してくれたら、ぼくは絶対に読むし、話も聞きたいと思う。

ひめ(5)ネット上のコンテンツというと、すぐにマネタイズの話をする人がいるけど、必ずしも直接やる必要はないと思う。アフィリエートで稼ぐ人がいてもいいけど、それをしなくてもいい。ブログの書き手を著者にしたという話は、出版界の人たちからしばしば聞く。

ひめ(6)問題は、その人の思いとか、内容。ぼくが今クオリア日記でやっている「勉強法」シリーズは、経済格差とかで教育内容に差がつく、という世相に反発して始めたことだった。全部無料で読めるから、みんな、それを参考にして勉強をしてくれ、という願いが込められている。

ひめ(7)マスメディアは、従来のスタイルにとらわれたり、商業主義の呪縛で、思い切った実験ができなくなっている。今植田工とかと話しているのは、ぼくが脚本を書いて、自分で喋る科学番組をつくってyoutubeで流しちゃおう、とかいうアイデア。そういうこと考えると、元気がでるよ。

ひめ(8)ネットが今すぐここにあるのに、どうしても発想が、「メジャー」なメディアでの活動に囚われすぎている。商業主義は、不自由と同義語。勝手に自分で表現して、即座に公開すればいいんだ。そうすれば、一人ひとりがメディア・カンパニーになる。

ひめ(9)TEDのスローガンは、「広げるに値するアイデア」。ここが一番肝心。自分から発して、「広げるに値するアイデア」は何か。そこを一生懸命考えて、作り込むこと。publishすること自体は、きわめて簡単な時代になった。今すぐ始めないか、あなたのメディア・カンパニー。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月16日日曜日

「フリーランスは素晴らしい」の連続ツイート

ふす(1)人間の感性とか、価値観はいろいろだと思う。ぼくにとっては、部屋を借りるのに「連帯保証人」を求めるというのは倫理的に絶対に許せない行為だけど、そうじゃないと大家が安心しないとかうんぬん言う人たちもこの世にいることも、もちろん知っている。

ふす(2)世の中には「フリーランス」に対する差別がある。ここで言う「世の中」とは、もちろん島国日本のことだけど。「大きな会社」に「所属」している 人には部屋を貸すけれども、「フリーランス」の人に対してはああだこうだ言うというのは、ぼくにとっては許し難い偏見に思われる。

ふす(3)友人の竹内薫が、あんなに本を書いてテレビやラジオでも活躍しているのに、家を借りるとき「フリーランス」だからと信用されずに、家賃を1年とか2年とか前払いさせられたそうだ。アホか? そんなに前払いできる人を「信用」しないって、一体どういうこと?

ふす(4)ぼくは、自分の「所属」はどこそこですとか、他人に「所属」はどこですか? などと聞くひとを、根本的に信用しない。そういう人が世の中にいてもいいけれども、ぼくは共感しない。フリーランスは最高の生き方だと思う。それで、何か問題でもあるというのだろうか。

ふす(5)ダニエル・ピンクは、2001年の『Free Agent Nation』の中で、「独立した働き手」たちが、いかにアメリカの社会を変えているかということを論じている。社会の中の「点」と「点」を結ぶのはその ような 人たち。フリーランスこそが、社会の流動性を担う。

ふす(6)坂本龍馬風に言えば、組織の論理から離れて「脱藩」しなければならぬ。もちろん、形式的には「社員」であっても良い。精神において「脱藩」していれば、その人は自由闊達さを手に入れられるし、何よりも吸っている空気が気持ち良い。

ふす(7)もっとも、「脱藩」しても、前にいた組織関係の仕事が多かったり、特定の取引先にぶら下がっていると、本当の意味での「フリーランス」とは言えない。フリーランスのポイントは、多様性。多くの人たちとかかわり、いろいろなことをすることが、フリーランスの特権。

ふす(8)フリーランスの活動を支えるツールの一つが、インターネット。自分の名前でグーグル検索した時に、どんな情報が出てくるか。その「グーグル時価 総額」こそが、その人のフリーランス活動を支える。そして、表現や発信自体は、誰にでもlow costでできる時代である。

ふす(9)時代の温度も変わってきていて、フリーランスに対する差別は、以前ほど意味がなくなってきているように感じる。不動産賃貸における「連帯保証 人」に関する愚かな習慣も、そのうち消えるだろう。より流動的で、しなやかな日本へ。それ以外の道はないから、抵抗するだけ無駄だよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月15日土曜日

「ノウハウなんて意味がない、心を整えることこそが大切さ」ということについての連続ツイート

のこ(1)松下村塾には二回行ったことがある。二度目の訪問の際、吉田松陰が教えていたのが「陽明学」であることが気になり始めた。心を整えること。時代 の情勢がどんなものであれ、自分の心のあり方を真っ直ぐで清明なものにすること。ぼくはそのことに撃たれて、その感覚がずっと 消えない。

のこ(2)この世をいかに生きるか、ということを考えた時に、外形的なノウハウやチェックリストから行くやり方がある。何分これをしろとか、一日の時間帯 の中ではいつやれとか、道具はこれを使えとか、そのような話が現代の日本人は大好きで、私もそんなことばかり質問される。

のこ(3)しかし、昔の日本の学問は、そうじゃなかったんだよね。心を整えること。心のあり方を見つめること。それは、いわば「心の彫刻」。その心のあり方さえきちんとすれば、あとのことはついてくる。昔の人はそう考えていたように思う。もちろん吉田松陰もそうだった。

のこ(4)具体的なノウハウは、わかりやすいようだけど、つまりそれは出来損ないの人工知能のようなもので、状況に応じて臨機応変にやり方を変えるという ことができない。一日何分やるとか言って、じゃあ、他のことが忙しくてできない日はどうする? 例外が多すぎて、意味がない。

のこ(5)勉強をやらない子どもがいるとする。一日何分やりなさい、という外形的なノウハウから入るやり方は、心に届かない。それよりも、なぜ学びたいの か、何を学ぶのか、心に火をつけることの方が長持ちするし、どんな状況でも効果を発する。だけど、心は目に見えないから、わからないんだよね。

のこ(6)スティーヴ・ジョブズのプレゼンが凄いという人がいる。私もそう思う。しかし、そのプレゼン術を、ノウハウに落としたところで何の意味もない。 自分のパッションを伝えること。人々を驚かせ、喜ばせること。そのような心の「かたち」が最初にあって、個々のプレゼンが生まれる。

のこ(7)昨日、朝日カルチャーセンターの後の飲み会で、ぼくはスイッチがオフになったように意気消沈して、「日本は変わらないよ」「日本には飽きたよ」 とクダを巻いていたらしいが、日本が変われないのも、ノウハウの問題じゃなくて、つまりは変わるという気持ちが整っていないだけの話さ。

のこ(8)どんなに状況が困難でも、障害があっても、「変わろう」と本気で思ったら、そんなことは大したことじゃない。自分の内面を見つめて、心を整える。あとのことはついてくる。ジョブズも、スピーチで、「あとのことはディテールに過ぎない」と言っているじゃないか。

のこ(9)スティーブ・ジョブズは、日本の僧侶に教えを受けたんだよね。自分を見つめ、心を整える「心の彫刻」。あとのことは大したことじゃない。日本人 は、もともとそういうことを知っていたのに、ノウハウ野郎どもに乗っ取られた。朱子学なんてぶっつぶせよ。時代は陽明学だよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月14日金曜日

「フォローワーの反応のしなやかさと迅速さが、リーダーを作り上げる」ことについての連続ツイート

ふり(1)TEDにおけるDerek Siversの講演「How to start a movement」(http://bit.ly/gmJ4Xp 、日本語字幕もあり)は、リーダーを作る上でのフォロワーの大切さを話したものだけれど、反射神経は大切だと思う。

ふり(2)裸で踊っているやつがいる。それを見て、オレもやろう、と思って参加するやつがいる。誰もフォローしなければ、単なるバカ者。フォローワーが現れて、初めて意味がある。問題は、フォロワーの反射神経の速さとしなやかさだ。

ふり(3)日本病の本質は、人が肩書きや組織で判断して、自分の感性を信じないし磨かないことだろう。ああそうですか、って名刺を見ていて、相手の人間を見ていない。裸のその人を見て感じる能力がなかったら、迅速フォローなんてできるかよ!

ふり(4)誰がどの大学出ているとかそんなことで人を判断しない。実際に話して、どれくらいのヴィジョンがあるか、見識があるか、そういう判断を即座にしなやかにできる人たちの集まっている社会はイイネ! そういう楽器は、大きな音を奏でるぜ。ばんばんばん! ぽんぽんぽん!

ふり(5)白洲正子さんは今やカリスマになっているが、白洲さんは自分の目で全て確かめ、自分の感性で良い悪いを判断した。至宝『日月山水図屏風』は白洲さんによって「再発見」されたものだが、そんな風に自分の感性を磨かないで、人生に何の意味があるんだろう。

ふり(6)お墨付きが好きな人たちがいる。ノーベル賞、世界遺産、国宝、うんちゃらなんちゃら。そんなものがなくても、自分で価値を判断できる人たちが集まっていないと、なかなか新しいことをやるリーダーは出てこないわね。だって、誰もついてきてくれないんだから。

ふり(7)メディアもさ、権威とかお墨付きで活字の大きさ決めたりしなければいいのにね。きっと、裸になるのがこわいんだろうね。生まれたときは、みんな裸なのに。すべての子どもは、しなやかな感性を持っている。そして、自分で好きなものを選んでいる。一生そうだったらいいね。

ふり(8)大河ドラマに恨みはないけどさ、「今年はこれをやってます!」っていうような感じで、観光地の宣伝をしているのを見ていると、絶望するよね。コマーシャリズムは世の常ながら、どこがいいか悪いかくらい、自分で判断しろよ!

ふり(9)日本病の本質は、人々が自分で感じ、判断しなくなっているところにあるのでしょう。でも、治すのは簡単だよ。子どもの時に戻ればいいんだから。手始めにDerek Siversのビデオを見ればいい。何の保証もない裸踊りに参加するその勇気さえあれば、リーダーはきっと現れる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月13日木曜日

「ごくありふれたものが、すごく不思議」であることについての連続ツイート

ごす(1)というわけで、科学はいろいろなことを明らかにしてきて、物理学は「万物の理論」さえ夢見ているんだけど、ちょっと待てよ、何かおかしくないかい。結局、今までの科学って、時空の中でどんなパターンで 万物があるかということを記述するだけで、時間の経過は扱えないんだよね。

ごす(2)時間が経ってしまうことの不思議さ。小学校のとき、みんなで潮干狩りに行った、あの時のオレはどこにいってしまうんだろう。分子生物学か何かしらないけど、凄いけどさ、でもさ、身体がこううーわって分子の動きでできている、この驚異って一体何?

ごす(3)脳の機能を、統計的に記述して、ああだこうだいうのはいうけど、それは進歩だけど、で、朝起きたらどうしてこんなクオリアとかあるわけ? 進歩っていうけど、それはどんな進歩なわけ? 科学にはできなことがあるっていうけど、それじゃあ、科学って何?

ごす(4)なんだか知らないけど、オレが生まれる前からずっと宇宙はあったらしいね。誰でも死の恐怖は持つのに、自分がその間ずっと存在しなかった、という恐怖は持たないよね。時間は非対称なわけだ。なんでそうなっているの?

ごす(5)そもそも、普段、われわれは地上の生活にばかり気をとられているわけだけどさ、この宇宙には、絶対に関係のない、光円錐のそとがわで、かかわりようのない世界だって、たくさんあるわけじゃないか。それらの世界と、我々の関係は、一体どうなっているの?

ごす(6)ものがあるって、どういうこと? 目の前にコップがあって、そのイメージが心の中にできるよね。でも、コップって何? ケイ素のかたまりっていうけど、そのケイ素がそこにある、ということ自体には、どうしたら届くの?

ごす(7)人格をもった神様がこの宇宙を創ったわけではない、というけど、じゃあ、なんで宇宙ってあるの? 「なんで」という質問には科学は答えないというけど、じゃあ、科学って何なの? おれたちが生まれるずっと前の、なんにも意識を持つものなんていなかった、時間の経過はどうなるの?

ごす(8)ぼくは、特定の宗教を信じてはいないし、これからもそうなることはないと思うけど、ごくありふれたものが、すごく不思議だ、という感覚はいつも持っている。それで、科学はすばらしい営みだけど、それでわかった気になって、不思議の感覚がマヒすることは、恐ろしいことだと思う。

ごす(9)ごくありふれたものが、すごく不思議だという感覚は、いろいろなことを知りすぎた人よりも、たまたま見つけた綿毛をつまんで見つめている、小さな子どもの方が、ごく当たり前に持っていると思う。そして、科学は、その「ふしぎ」を深めてくれる。初心さえ忘れなければ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月12日水曜日

「スティーヴ・ジョブズ氏は素晴らしい。スタンディング・オベーションで応える聴衆も、素晴らしい。」ことについての連続ツイート

すす(1)森の中で魅力的な花に出会ったとき、私たちはまずは花の美しさを讃え、それから花を育んだ森の生態系へと思いをはせる。スティーヴ・ジョブズ氏はすばらしい人だったが、そのスティーヴを育んだ、アメリカのカリフォルニアの風土も、また忘れてはなるまい。

すす(2)1984年、スティーヴ・ジョブズが初代マッキントッシュを披露した時(http://bit.ly/ozYx7V)、聴衆がいかに素直に、その素晴らしさに反応しているか。最後はスタンディング・オベーションで讃えるその熱狂。その気持ちが、「慈雨」となって、人を育てる。

すす(3)肩書きや組織とか、すでに定まった評価とか、そういうものではなく、自分の感性を信じること。それを素直に表現すること。そのような文化がある から、ガレージの裏でコンピュータを作った若者が、大きな夢を実現できる。スティーヴも素晴らしいが、聴衆も素晴らしい。

すす(4)時は流れ、スティーヴ・ジョブズが、iPhoneを発表する。熱気を帯びた聴衆。ジョブズ氏のプレゼンは有名だが、この発表でも、ある仕掛けをする(http://bit.ly/oarMiW )。それに対する聴衆の素直な反応。その反射神経のしなやかさが素晴らしい。

すす(5)同じくカリフォルニアで行われているTEDもそうだが、良いものには熱狂的に反応し、それほどでもないものには儀礼的に拍手を送る。そのダイナ ミック・レンジがあるからこそ、社会の流動性が生まれる。そのためには、常に、自分の中で、感性を磨いていなければならない。

すす(6)ジャングルの中を独り歩く、しなやかなジャガーであること。良いものがあったら、わーっと心も身体も動く。そんな人たちがいる社会だから、若者が良質の夢を描き、それを説得力のある形で示したら、実績があろうが、肩書きがあろうが関係なく、資源が支援される。

すす(7)社会は楽器である。一つの共鳴装置である。それがしなやかであれば、企業家という演奏家も、自由に音楽を奏でることができる。スティーヴ・ジョブズ氏の素晴らしさを見つめるとともに、それを育んだ環境は何かということも、考えてみなければなるまい。

すす(8)失敗に対する許容も、見逃せない文化である。シリコンバレーで聞いた話。ある人が、ベンチャーを三度起こして、三回失敗した。その度に、住んで いる家が大きくなった。連帯保証で何もかもむしり取られてしまう日本との違い。失敗が成長へのきかっけになる文化の輝き。

すす(9)ジョブズ氏は、アップルを追い出された後も、NEXTを創業し、ピクサーで『トイ・ストーリー』を作り、別のかたちの夢を追い続けることができ た。それがあってのアップル回帰。一人のヴィジョナリーの夢を支援し続けたカリフォルニアの人たちに、スタンディング・オベーション。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月11日火曜日

「狂っているという言葉が、ほめ言葉になるような、そんな世界が素晴らしい」ことについての連続ツイート

くほ(1)イギリスに留学中、たまたま手にした一冊の本。それが、Steven LevyのInsanely Greatだった。Steve Jobsと仲間たちが、Macintoshをどのようにして作ったかという話。この一冊で、ぼくのコンピュータに関する概念が変わった。

くほ(2)Insanely Great(狂っているほど凄い)というのは、 Macintosh開発中に、ジョブズ氏が口癖のように言っていたこと。少々良い、というのではない。ワーって狂っているほど凄い、そんなものを作ろうぜ とジョブズ氏は周囲にハッパをかけていたのである。

くほ(3)天才と狂気は紙一重である。なぜなら、創造とは、つまりは脳の動的バランスを崩しつつ運動する行為であるから。既成観念を踏み破るということは、「ルール」や「正解」を無視するということ。常識人から見れば、「狂っている」ということになりかねない。

くほ(4)ライト兄弟が初飛行に成功する数年前、ある物理学者は、人力飛行が不可能であることを「証明」する論文を書いたという。実際に飛んでも、誰も信じず、しばらくして「本当に飛んでいるらしい」という噂が広がって、ようやく地元紙が記事にした。

くほ(5)ファラデーは、電磁気の実験をしている時に、見学者の貴族に、「おもしろいね。でも、これが何の役に立つのかね?」と言われた。今の家電製品の全盛を見たら貴族は何と言うだろう。ヴィジョナリーは、常識から見れば、狂っているように見えるものである。

くほ(6)That's insane! お前、それ、狂っているよ。それがほめ言葉になるような社会、ないしはコミュニティ。創造性を育むのは、そんな環境。常識から外れるとバッシングされたり、冷たい目で見られるような環境では、なかな天才の芽は育たない。

くほ(7)ジョブズ氏が、Macintoshを仲間たちと作っていた、その現場に身を置いてみよう。美しいフォントがのり、GUIで直観的な操作が可能 で、コンピュータが喋り、文字と図形が一つにつながるような、そんなコンピュータ。「狂っているほど凄い」、未来のコンピュータ。

くほ(8)「狂っているほど凄い」ものだけが、世界を変えてきた。これからも、「狂っているほど凄い」ものが、私たちの世界を変えていくだろう。常識人か ら、「お前は狂っている」と言われることは、一つの勲章だ。自分の中に揺るぎないロジックがあれば、気にすることなどない。

くほ(9)1984年。ジョブズ氏が、ついに完成したMacintoshを立ち上げる。画面に、Insanely Great! (狂っているほど凄い!)という文字が現れる。ヴィジョンが現実化した瞬間。その時、すべての苦労は何百万倍の喜びとなって帰ってくる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月10日月曜日

「結ぶべき点と点は後からしかわからないのだから、とにかく好奇心に従っていろいろやってみるのが良い」ことについての連続ツイート

てと(1)スティーヴ・ジョブズ氏の、今や伝説となったスタンフォード大学卒業式のスピーチにおいて、ジョブズ氏は創造性の秘密について、重大なことを言われている。すなわち、「点と点を結ぶこと」(connecting the dots)について。

てと(2)ジョブズ氏は、養父母が豊かではなかったがために、学費の高かった大学を中退した。そのあともふらふらして、授業をいくつか取っていた。そのうちの一つに、「カリグラフィー」(西洋で、書道に当たるもの。ただし、ペンを使う)があった。

てと(3)文字を美しく書くことが、コンピュータの開発と結びつくとは、普通は思わない。しかし、ジョブズ氏がカリグラフィーを履修したことが、後に、 マッキントッシュにおいて、さまざまな美しいフォントを整備したり、文字の間のスペースを調整できたりといった特長へとつながっていった。

てと(5)「ハングリーであれ、愚かであれ」(Stay hungry stay foolish)という言葉で結ばれたスタンフォード大学スピーチ。「愚かであれ」は、結ばれるべき「点」と「点」は、後でしかわからないのだから、好奇 心に従ってさまざまなことを経験しよう、ということ。

てと(6)普通、一人のひとが経験しないような「点」と「点」を持っている人が、常識では思いつかない「創造性」を発揮できる。そのためには、好奇心にあ ふれていて、おっちょこちょいで、やたらと動き回る、そんな人になるしかない。世界の中に散らばっている「点」の間を疾走するのだ。

てと(7)「点」と「点」を結びつけることは、別の言い方をすれば、「過去」を育てること。自分がかつて経験したことの中には、今の自分に役に立つ原石、道具がきっとある。だから、時々人生を振り返って、過去に栄養を与え、育てていくことが創造性へとつながっていく。

てと(8)私に関して言えば、小さなことだけど、講演などの時、子どもの頃祖父や父に連れられて寄席に通った経験がとても役に立っている。落語家の方の間の取り方や、漫才師の方の場の掴み方とか。役に立つなんて、思ってなかった。気付いたのは、ずっとあとのことだった。

てと(9)教育が、即戦力だとか、社会への適応など、短絡的な効用で語られがちな昨今、ジョブズ氏の「点と点を結ぶ」は大切なメッセージ。何の役に立つか わからないからこそ、教育は意味がある。すぐに役立つ教育は、創造性から遠い。結びつけるべき「点」と「点」がそこにはないから。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月9日日曜日

「本当の芸術家は、出荷する」ことについての連続ツイート

ほし(1)1984年の、初代Macintoshの発表会場のビデオを見ていると、スティーヴ・ジョブズがいかに魅力的な人だったかということが改めて伝 わってくる。Macintoshが、「ぼくの父親、ステーヴ・ジョブズを紹介します」としゃべった時の、彼の笑顔。たまらない。

ほし(2)スティーヴ・ジョブズの人間的磁力を伝える言葉として、「現実変容空間」(reality distortion zone)がある。その周囲にいると、現実が変容して見える。それくらいの人間的な魅力が、ジョブズ氏にはあったということ。その人柄自体が一つの作品 だった。

ほし(3)しかし、私たちの圧倒的多数にとっては、「ジョブズ氏」の存在を感じるきっかけは、数々のアップル製品だった。Macintosh, Macbook, iMac, iPhone, iPad。これらの製品は、ステーヴ・ジョブズという人の世界観、感性、美意識を反映していた。

ほし(4)Appleで、初代Macintoshの開発が進んでいた頃、ジョブズ氏が社内でしきりに言っていたと伝えられる言葉がある。「Real Artists Ship」(本当の芸術家は、出荷する)。ついつい開発が遅れ、予定日がずれそうになった時、ジョブズ氏はそう言って励ました。

ほし(5)「Real Artists Ship」(本当の芸術家は、出荷する)。どんなに素晴らしい考えがあっても、感性がすぐれていても、美意識が深くても、それが形になって世の中に出てい かなければ、伝わらない。だから、何としても、ブツを作って、出荷しなければならない。

ほし(6)夢や野望に満ちた若者が、自分自身に言い聞かすべき言葉は、たった一つ。「Real Artists Ship」(本当の芸術家は、出荷する)。いいわけは要らない。説明も要らない。ただ、ブツを出せばいい。そうすれば、その中に、必ずその人の人格は込め られている。

ほし(7)出荷するということは、夢が自分から離れて一人歩きをするということ。いちいち、人々の間を回って、「これはこういう意味なのです」と説明することはできない。自分が出荷した「ブツ」自体にしゃべらせるしかない。それが、本当の芸術家。

ほし(8)出荷することで、自分自身も自由になれる。その作品から、離れることができる。抱え込んでいると、いつまでも囚われてしまう。だから、出荷して、自由になって、また次の場所に行けばいい。出荷することで自分もまた旅を続けることができるのだ。

ほし(9)「Real Artists Ship」(本当の芸術家は、出荷する)。スティーヴ・ジョブズが、初代マッキントッシュの開発の段階で、この言葉を口にしていた。アップルが成功した秘 密、大切な鍵。抱え込んではいけない。言い訳をしてはいけない。本当の芸術家は、出荷する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月8日土曜日

「信念をつらぬくことが、結果として、その時の常識と異なる生き方につながることがある」ことについての連続ツイート

しこ(1)ジョブズがアップルに復帰した直後の1997年に放映されたThink Differentのコマーシャルは、1984年のコーマーシャルに匹敵する、衝撃と感動を与えた。その後のアップルの復活、躍進を象徴する映像だった。

しこ(2)アインシュタイン、エジソン、ジョン・レノン、ピカソなど、「既成の枠に当てはまらない」人物たちをとりあげ、彼ら反逆児こそが、世界を変えるのだと強く歌いあげたCMは、アップルという会社、そしてジョブズがどんな存在なのかを雄弁に語っていた。

しこ(3)ここで肝心なのは、Think Differentということの意味である。「私は他人と違う」と言う人が時々いるが、その人の響きが、取りたてた印象を与えないこともある。個性があるのだから、違うのは当たり前。Think Differentには、それ以上のメッセージがある。

しこ(4)違っていることに意味があるのではない。自分のヴィジョン、信念があることに意味があるのである。それが、たまたま、その時々の世間の常識や、 既成観念と一致しない。結果として、Think differentになる。「異なる」ことは目的ではなく、結果なのだ。

しこ(5)Think Differentのコマーシャルに登場した人には、すべて強い信念があった。彼たち/彼女たちにとっては、それが真実だったのである。「陽明学」の精神 で幕末を貫いた吉田松陰のように、成功が保証されてなくても自分を貫くだけの、熱いパッションがあったのだ。

しこ(6)「多様性」が称揚される現代。人と違うことはもちろん結構だけれども、「違う」こと自体が目的なのではなく、世間とたとえ違っていても、それに寄り添い、貫き、時には心中できるくらいのかけがえのないヴィジョンに出会うこと、そのことが一番大切なのである。

しこ(7)自分が出会ったヴィジョンがたまたま世間の現状と異なったものであった場合、行動すれば当然風当たりが強くなる。その時にやめてしまったら、 Think Differentにならない。同調圧力に屈するのは楽だが、それでは、自分を貫くことも、世界を変えることもできない。

しこ(8)Apple、そしてSteve Jobsが、1997年の段階で、Think Differentのようなコマーシャルを放映することができたこと。その時の客観的な状況がどうであれ、彼らには、幕末の志士のように、決して揺るぐこ とのない信念があった。だから、実際に世界を変えた。

しこ(9)ジョブズには、その時々の環境が何であれ、自分が見たヴィジョンを貫く強さがあった。残された私たちは、それぞれのThink Differentを生きればいい。異なることが目的なのではない。自分の信じるヴィジョンに寄り添って、逆風の中に立って進み続けることが大切なのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月7日金曜日

「コンピュータ・オタクたちよ、経験も計算の一部分なんだよ」、もしくは「マック信者たちは、ずっと<こけ>にされてきた」ことについての連続ツイート

こけ(1)最初はMS-DOSのラインコマンドだった。How many files? から始まって。それが、最初にマックを見たときに、衝撃が走った。今までのコンピュータは、何だったんだろう? 以来、ずっと一つのことが 気になっている。「計算とは何か」ということ。

こけ(2)チューリング・マシンのモデルができて、フォン・ノイマンが原型を作って、コンピュータがスタートする。それは、アルゴリズムのこと。しかし、 現実はアルゴリズムとイコールではない。この簡単な真実が、案外、世間では理解されない。だから、マックは少数派に留まった。

こけ(3)GUIだって、ラインコマンドだって、やれることは同じでしょ。後者の方が、何をやっているか見えていいでしょ。コンピュータ・オタクたちはよ く言っていた。確かに、マッピングはできる。しかし、計算的には等価ではない。なぜなら、それは、時空の中で展開されるものだから。

こけ(4)「計算」という概念が、狭すぎるのである。コンピュータという存在が、どのように私たちの脳の感覚、認知の回路に働きかけるか。感覚と運動の連 関を通して、さまざまなクオリア、情動を引き起こすか。それは、「気のせい」や「趣味」のことなんかじゃなくって、「計算」なんだってば!

こけ(5)マック・ユーザーを、「こけ」にするコンピュータ・オタクたちがずっといた。いいよ、Linux使っても何やってても。でも、そういうチューリ ング・マシンの枠内で理解できる「計算」と、異なる「計算」が、この世界にはあるんだって。なんでそのことが理解できないかな!

こけ(6)iPadが出てとき、まるで遊んでいるように情報を扱えるようになった。3歳の子どもでも遊べる。キーボードからラインコマンドを打つコンピュータと、それは、アルゴリズムでは等価かもしれない。しかし、「経験の質」という「計算」においては、全く違うんだ!

こけ(7)OSで、アイコンをどのように配置するか。ハードウェアの曲線や、手触り、立ち上がりの時の音楽。ジョブズがやってきたことは、「趣味」の問題 じゃなくて、人間の感性における、ハードコアな「計算」なんだ。それを、「マック信者」だとか言って、「こけ」にしてきたんだよね。

こけ(8)Googleは、ユーザーが要求した情報以外には提示しない、という哲学で一つの「経験」を提供した。一方、世間には、要求もしないのに余計なことをするソフトがあふれている。それは、「経験」という「計算」の領域において、やってはいけないことなんだよ!

こけ(9)結局、ジョブズは、単なるアルゴリズムの箱という意味合いを超えた「計算」の領域を、コンピュータにずっと見て来た人だった。趣味や感性の問題 じゃないんだ。そこには、緻密な計算のロジックがあるんだ。そのことを感じた人がアップルを支持した。ジョブズは、計算の未来だった。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月6日木曜日

Steve Jobs forever

日本時間10月6日、Appleの創業者であるSteve Jobsが亡くなった。
10月4日にはiPhone 4Sが発表されたばかりである。

昨晩、何となくiPhone 4SのSは何を意味するのだろうかと考えていた。
そして今日の訃報と同時に4SはiPhone for Steveの意味ではないかとツイートがあった。
それが本当かどうは定かではないが、きっとそうだろうと思えた。
それでもう胸はいっぱいになった。
涙が出そうになったが、仕事場だったのでぐっと我慢した。

AppleはiPhone 5をあえて出さなかったのではないかという噂も流れたが、それも事実ではないかと思った。
iPhone 4Sは事実上iPhone 5だったのではないだろうか。
それをマイナーバージョンアップと見られたとしても、市場が、そしてユーザががっかりしてもJobsのために4Sとしてリリースしたのではないだろうか。

もしそれが事実だとしたら、Appleという会社は本当にすばらしい。
日本でそのようなことができる会社はあるだろうか?おそらくないだろう。
そもそも会社という組織でこれだけ愛されるCEOなんてまずいない。
株価がどうだとか、売上がどうだとか、そんなことだけしか考えられない人はJobsのように愛されることなどないだろう。
彼はコンピューティングの未来を創造し続け、人々の生活スタイルをも変えた。

彼は偉大な人だった。
しかし我々は彼がいなくなったことを悲しんでいるだけではいけない。
未来を創造し続けなければならないからだ。

「えらい先生なんかじゃない、変人だよ」の連続ツイート

えへ(1)昨日のノーベル化学賞の発表をネットで生で見ていて、面白いな、と思った。スウェーデンの選考委員の先生が、シュヒトマンの「5回対称性」を持つ準結晶の発見が科学界から「なわけないだろ」といかに無視されていたかを強調していたからである。

えへ(2)日本のメディアのノーベル賞報道の特徴は、受賞者が最初から偉い先生みたいに報じていることで、実際にはそんなことはない。ATP合成の化学浸透圧仮説で受賞したミッチェルは、当時の学会からまったく無視されて、田舎の家を改造して自分で勝手に実験していた。

えへ(3)アナーキーなはぐれ馬が受賞することがしばしばあるのだけれども、日本のメディアは、あたかも最初から大先生だったかのように報じる。日本の中 のくそったれなヒエラルキー社会のマインドセットを、無意識のうちに投射しているのだろう。だから、ノーベル賞委員会の真意が伝わらない。

えへ(4)昨日のウェブの生中継を見ていたとき、チルアウトな音楽がかかっていて、おかしいな、ノーベル賞のサイトが、こんな音楽流すはずがないと思った ら、やっぱり流していた。クラブでかけるようなミュージックを流す。現代に向き合っている感じがノーベル賞の本質で、日本の事大主義とは無縁。

えへ(5)そもそも、日本のメディアは科学者がいかに変人であるかを報道しない。「進化論」のチャールズ・ダーウィンなんて、田舎の家に引き込んで、生 涯、職業なし。肩書なし。そういう人が偉大な仕事をするんだということを、組織や肩書き大好きな日本のメディアは報じない。

えへ(6)ダーウィンは、ある時期フジツボの研究に熱中していて、子どもは、大人というものは、みんなそんなもので、生活のどこかでフジツボをいじるものだとばかり思って育ったのだという。近所の友人に、「君のパパはいつフジツボをやるの?」と聞いたという。

えへ(7)ダーウィンが長年住んだダウンハウスの回りには散歩道があって、そこを周回しながら考え事をした。何周する、ということは健康のためもあって決 めていたのだけれども、一周、二周と数えると、それが思考を中断して邪魔になる。そこで、ダーウィンは一つ計画を立てた。

えへ(8)ダーウィンは、散歩道の真ん中に小石を置いて、そこを通る度に石を一つわきの方に蹴ったのである。こうすれば、何周と数えなくても、小石がなく なれば規定の周回を終えたとわかる。用意周到のようでいて、どこかぼけている。それが、進化論をつくったダーウィンという人。

えへ(9)相変わらず日本人が受賞したかどうかばかり報じたり、ノーベル賞委員会が選考にこめた一番大切なメッセージ(当時の学会の大勢と全く独立した発 見を、独りで、粘り強く浸透させたこと)を伝えない日本のメディアは、科学がロックンロールだということをわかっていないんだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月5日水曜日

「魔法使いはもういない。ありがとう、スティーヴ・ジョブズ」の連続ツイート

まあ(1)iPhone5は出なかった。朝起きて、すぐにウェブを見たら、「iPhone4S」「失望で株価下落」という文字。マイナーチェンジのみだったというのは残念だが、コーヒーを飲んでいたら、もっと別の大きな変化が起きていることに気付いた。

まあ(2)スティーヴ・ジョブズがいない。健康問題から、ついにアップルのCEOを退任した、スティーヴ・ジョブズがいない。もちろん、後任のティム・ クックも優秀な人だろうし、これから頑張るだろうと思うけれども、スティーヴ・ジョブズがいないという喪失感を埋めることはできなかった。

まあ(3)スティーヴの基調講演は、「現実がその周囲だけ変化」するのだった。「one more thing!」と言って、ステージに戻ってくるその瞬間を、クリスマス・プレゼントを待つ子どものようにわくわくしながら待った。あの時間は、もう戻って 来ない。時代は過ぎた。

まあ(4)映画配信を発表した時、一枚目のスライドでは、聞いたことのないマイナーな会社ばかり並んで、「しょうがないな」とがっかりさせた。「ところ で、この会社も参加するんだけどね」と見せた二枚目に、すべてのメジャーな会社。満場の拍手。スティーヴはそういう人だった。

まあ(5)「one more thing」。ここに、人々をびっくりさせようというスティーヴのいたずら心があったのだろう。確かに、アップルの発表を世間は固唾を呑んで待った。他の どんなプレス・イベントよりも、期待度が高い。それはすべて、スティーヴのおかげだった。

まあ(6)一度、幕張でスティーヴ・ジョブズの基調講演を生で聞いたことがある。ステージに出てくる前から、まるでロックスターを待つような期待感と雰囲 気。出てきた瞬間に、会場の温度が明らかに上がる。熱狂と興奮が頂点に達する。そんなスティーヴは、もう舞台にはいない。

まあ(7)今や伝説となったスタンフォード大学卒業式でのスティーヴのスピーチ。「愚かであれ、ハングリーであれ」。自身は大学を中退し、自宅裏のガレージでマッキントッシュを組み立てるところからアップルを創業したジョブズ。その情熱の強度が、今見ても胸に迫る。

まあ(8)子どもの頃、親がまるで魔法使いのように見える瞬間がある。お父さんだったら、たいていのことができちゃうんじゃないかな。プレゼント、何くれるんだろう。どこに連れていってくれるんだろう。そんな魔法使いの残像を、ぼくたちはスティーヴ・ジョブズに見ていた。

まあ(9)スティーヴ・ジョブズだったら、あっと驚く新商品で世間を驚かせてくれるに違いない。「1984」が「1984」でない理由だけでなく、 「2011」が「2011」でない理由も教えてくれるに違いない。そんな夢の時間は終わった。魔法使いは、もう舞台の上にいない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月4日火曜日

「何がおこるかわからないからこそ、希望をもって明日にのぞむ」ことについての連続ツイート

なき(1)あなたの脳は健康な状態にあるかどうか。一つの質問で、その様子がわかる。「あなたの人生に、いろいろ不確実なことがあると思いますが、これから何が起きるか、それが楽しみですか? それとも不安ですか?」この質問に、「楽しみ」と答えられる人は脳が健康である。

なき(2)人生には、不確実性が原理的に避けられない。どんなに賢くて、どんなに綿密に計画を立てても、必ず予想もできないことが起こる。だから、不確実性をいかに抱きしめるかということが、脳にとっての一番の課題になる。それを希望をもってすることが、人生のイロハのイだ。

なき(3)ある企業で講演した時、「あなたは不確実性が楽しみですか、それとも不安ですか?」と聞いたとき、ほとんどの人が「不安」だと答えて、私の方が不安になった。日本人は全体的に不確実性を忌避しようとしている。そのことによって、ネットとグローバル化の新文明に不適応になっている。

なき(4)グーグルやフェイスブックが10年後どうなっているか、予想が付かない。だからこそ、両社で働いている人々は希望を持ち、明日を楽しみにがんばっている。成長と、不確実性に希望を持つことは同じである。その感情が日本から失われたからこそ、日本の成長も止まってしまった。

なき(5)子どもの頃から塾通いをして、「確実に」有名大学に入れるようにする。三年の10月から新卒一括採用の就職活動をして、「食いっぱぐれのない」大企業に入ろうとする。このような振る舞いが「賢い」とされる社会では、不確実性にこそ希望を抱く、成長のエンジンは失われる。

なき(6)最初の質問に戻って、「何が起こるかわからない不確実な状況」が「楽しみ」であるよりはむしろ「不安」であるというのが日本人の今の姿だとすれば、日本人の脳は、平均的に言って、大変不健康であると 断ぜざるを得ない。現状がそうだとして、どうすればいいか?

なき(7)生まれ落ちた子どもにとって、世界は不確実なことばかりであるが、その時に助けになるのが「安全基地」である。保護者が「確実性」という「安全基地」を提供してくれるから、子どもは安心して不確実な世界を探検できる。未来に希望を持つために必要なのは、「安全基地」だ。

なき(8)大人にとっての安全基地とは何か。自分の脳の中に蓄積された知識であり、経験であり、技術であろう。ところが、日本の場合、それが「組織」とか「肩書き」とかいった、実質を伴わない外形的なものであるために、「挑戦のための安全基地」とはならず「自己保身の盾」になっている。

なき(9)自分の脳を診断してみよう。果たして、明日何が起こるかわからないという不確実性を、楽しみと感じているか。安全基地を点検しよう。組織や肩書きじゃなくて、むしろそれを失って放り出された時にそれでも生きのびる知識や技量があるか。包装紙をひっぺがせ。「真水」を増やせ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月3日月曜日

ネットがその可能性を全うするためには、コンテンツを一人ひとりが作り続けるしかない」ことについての連続ツイート

ねこ(1)インターネットが登場した時に、新聞やテレビは、影響力がなくなるとか、あるいは将来消滅するという論調すらあった。実際にはそうなってはいないのは、日本に限ったことではない構造問題がある。

ねこ(2)ネットは、本来、誰もがコンテンツの発信者になれる場である。その可能性はまだ進化し続けているが、一方でそれは「多様性」の場でもある。多様性は、モノカルチャーに負ける。日本で最もフォロワーの多い孫さんでさえ、視聴率にすれば1%でしかない。

ねこ(3)皮肉なことに、ネットの素晴らしさである能動性、多様性ゆえに、従来型のモノカルチャー・メディアに負けている。その傾向はツイッターのトレンドを見ればわかる。その情報の一次ソースは、新聞やテレビなどの旧来メディアであり、この傾向は日本でも、アメリカでも変わらない。

ねこ(4)ネット上「アバター」の概念を提唱した一人として知られるJaron Lanierの著書You Are Not a Gadgetの中で、Jaronはネットが旧来型コンテンツの流通の場になっていることを憂えている。「こんなはずではなかった」と嘆いているのだ。

ねこ(5)「あなた自身を放送せよ」(broadcast youself)がスローガンのyoutubeも、多くのコンテンツが従来のドラマ、映画、ミュージック・クリップで占められている。ユーザーによって 作られたコンテンツもあるが、ここでも多様性がモノカルチャーに負けている。

ねこ(6)ネットの特徴である多様性は素晴らしいことだが、それをもって、いかにモノカルチャーに対抗するか。私たちは、いかにして「蟷螂の斧」から脱することができるのか。ネットの可能性とともに脆弱性を見つめなければ、結局世界は変わらないだろう。

ねこ(7)鍵は、長い時間がかかろうとも、自分自身で情報発信を続けること。Jaronが言っているように、ネットが初期に見た夢はもっと大きかった。単なる、従来型メディアを補完する存在では、小さすぎる。ミームの進化の現場に、自分の意見を投じること。

ねこ(8)どんなにエッジが立った意見、情報を投じても、ネットの多様性の森の中で、それはすぐには広がらないかもしれない。従来型メディアのモノカルチャーに、すぐには対抗できないかもしれない。しかし、良貨はいつか悪貨をすり抜けると信じたい。人間は、結局、よりよく生きたいのだから。

ねこ(9)いつか、新聞やテレビなどの旧来型メディアが、インターネットという「多様性」の森の、一つの住人に過ぎないように見える日が来るかもしれない。あれっ、ここに、不思議なキノコがある、みたいな。そのためには、「もう一つの」コンテンツを、一人ひとりが作り続けるしかない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月2日日曜日

「黒幕などいない、あるのは空気だけさ」についての連続ツイート

くき(1)3月11日以降、我が国ではやっているものの一つが「陰謀史観」であろう。原発を維持しようと、画策し、暗躍している人たちがいる。記者クラブ を守るために、それに反する人たちを追い落とそうといろいろはかりごとをする。ツイッターのTLを見ていると、そんな書き込みが多い。

くき(2)人間は、陰謀史観が大好きである。そのような話は、人の心を刺激し、惹き付ける。子どもの頃、「UFOの真実を隠蔽する秘密結社」だとか、「金 融を通して世界支配をたくらむユダヤ人集団」みたいな陰謀史観を読むと、なぜか興奮した。大人になって、それがすべてウソだと気付いた。

くき(3)この世界を創造し、人間を信賞必罰する「人格神」の概念と同様、「陰謀史観」がわかりやすいのは、それが、人格、志向性、意図など、人間主義の 要素から成り立っているからであろう。しかし、ある仮説が分かりやすいということは、それが真実であることを保証しない。

くき(4)原発問題は深刻であり、black swan理論から言えばなくした方がいい。しかし、「原子力村」の陰謀があるとか、意図的な情報操作をしているといった「陰謀史観」は、真実への到達を妨 げるし、論者の主張を劣化させる。分かりやすいからといって飛びついてはいけない。

くき(5)原子力、記者クラブ、検察、霞ヶ関。この半年くらい、「陰謀史観」が語られてきた事柄についての真実は、「黒幕」など実はいないということだろ う。本当の怖ろしさは、誰も全てをはかりごとしている悪いやつなどいないのに、なぜか構成員があるかたちで振る舞うという点にある。

くき(6)アリの群れを見ればわかるように、個体レベルではそれほどの認知、理解、知性がないのに、集団としては高度の知性を示すという事例がある。「陰 謀史観」の正体はこれであって、本当の敵を見誤ってはいけない。本当の敵は、「場」というものの持つ不思議な作用にあるのだ。

くき(7)誰も計画立案などしていないし、綿密な戦略も立てていないのに、なぜか全体としては組織防衛をしたり、ある目的を達するように動いている。その ような現象が、日本の至るところに見られる。もともと同化圧力の高い国。アリの群れが出現するには、適した文化的風土なのだろう。

くき(8)日本の現状は憂うべきだし、できれば改革をした方がいい。その時の敵は、密室でうごめいている黒幕などではなく、むしろ一人ひとりは善良で、ご く平凡な人たちを「同化圧力」でアリの群れにする「空気」の方である。いかに空気を変化させるか。ここに変革への処方箋がある。

くき(9)一人ひとりがプリンシプルに基づいて自律的に行動すれば、空気などには負けない。だから、日本への処方箋として最も有効なのは、福澤諭吉の「独 立自尊」だと考える。「やらせメール」の指示が来ても、社員が自分の良心に照らして、正しいと思った行動をとればいいのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月1日土曜日

DOWNTOWN BOY - 松任谷由実

ユーミンですよ!!
以前、何かのフェスでバックに教授と幸宏が参加してこのダウンタウンボーイをやった音源を探してるのですが見つかりません。
ラジオだったはずでエアチェックしたテープを持ってたのですがどこかにいってしまいました。
音源を持っているという方、ぜひYouTubeにアップしてください!お願いします!


悲しみのラッキースター - Haruomi Hosono

アルバム「HoSoNoVa」から「悲しみのラッキースター」です。
細野さんの歌声は癒やされるんですよねー。


Smile - Nat King Cole

Nat King ColeのSmileです。
作曲はCharlie Chaplin。
この曲はいろんな人がカバーしていますが、どれもいいですね。
楽曲もいいのですが、歌詞がまたいいのです。

日本語訳の歌詞を載せておきますね。

スマイル
胸が苦しくても微笑もう
たとえ傷ついても微笑もう
空に雲が立ち込めても
君ならきっと切り抜けられるから
怖い時にも悲しい時にも微笑むことを忘れず
微笑み続けたなら 明日には
お日さまが君のために輝いてくれる
喜びに顔を輝かせて
悲しみの影をみじんも見せずにいよう
たとえ今すぐにも涙がこぼれそうだとしても
そんな時にこそがんばり続けて
微笑むんだ 泣いたってどうにもならない
もしも微笑んだなら
人生には生きるだけの価値がまだあることを君は知るはず
微笑もう

どうですか?泣けちゃうでしょ?でも元気になるでしょ?


You Do Me - Ryuichi Sakamoto

 Jill Jonesとのコラボですね。
ポップなサウンドと琉球のコーラスがすばらしい逸品です。
このPVの黄色のシャツがかっこよくて自分も黄色のシャツを買ったのを覚えてます。


 


「日本はそのうち売るものがなくなる」ことについての連続ツイート

にう(1)小学校で、日本は加工貿易だと習った気がする。外国から材料を輸入して、それを加工して外貨をかせぐ。明治以来、そんな生き方だった。最初は繊維から始まって。戦後は、家電製品や自動車を輸出して、日本は食糧やエネルギーを買うお金をかせいできた。

にう(2)だからね、バブルの頃、私たちトレンディー、なんて感じでチャラチャラ外国に出かけている女たちを見ていて、お前らいいか、お前らの遊ぶ金は、真面目なメーカーのおじさんたちが稼いでいるんじゃ、と大滝秀治風に心の中でつぶやいていたものである。

にう(3)ところが、最近、日本は売るものがなくなってきた。本当に、外国に輸出するものがなくなってきた。ここに、私は国家的危機を察知する。これから も、食糧やエネルギーを買うお金を稼ぎ続けられるのかどうか、父ちゃんは給料を持ってくるのか、国の「家計」の危機が 迫っている。

にう(4)変調は、インターネットやグローバル化が始まった頃に兆した。日本のメーカーは、情報ネットワークと結びついてこそ付加価値が生まれるという新しい文明を、理解しなかった。あるいは、理解しても適応する能力がなかった。話題になる新製品はほとんど米国発。

にう(5)半導体などのディヴァイスをつくり、売る能力はあるかもしれない。ところが、それを組み立て、システムとして付加価値をつける能力がない。 iPadやKindleなど、クラウド環境と結びついて人々を惹き付ける商品をつくるソフト技術者の層がなく、文化もそれに適応していない。

にう(6)新卒一括採用や、年功序列の人事体系、不動産の賃貸に「連帯保証人」を要求する愚など、日本の社会のマインドセットが、外国人を含む優秀なIT 技術者を流動的に受け入れる体制になっていない。iPadやKindleを支える、クラウドの情報環境など、日本から出ようがない。

にう(7)優秀なコンテンツを生み出す人たちはいる。漫画やアニメがその象徴。ところが、これらのコンテンツをグローバルに流通させるプラットフォームを つくる能力がない。もたもたしている電子書籍も、アマゾンやアップル、グーグルに間違いなく全部持っていかれてしまうだろう。

にう(8)今のところ安泰に見える自動車産業も、電気自動車になり、自動車のIT化が進み、グーグルが研究しているような自動運転や、ITSシステムの構築が進むと、日本の企業が世界標準のプラットフォームを生み出す能力は、まず期待できないということになるだろう。

にう(9)つまり、日本はそのうち売るものがなくなる。外貨を稼ぐ手段を奪われる。最大の原因は、ネットとグローバル化の本質である「偶有性」を理解しな い、日本社会の遅れたマインドセットにある。新聞やテレビは既存のパイを守るのに必死だが、そのパイ自体が消滅しようとしているのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。