2011年10月25日火曜日

「祈りは強い者に向けられるのではない。弱い者にこそ向けられる」の連続ツイート

いよ(1)金沢の東茶屋街には、なんどか来ていた。格子が並ぶ、美しい両側の建物の中を、静かに歩いていくと魂が癒されていく。それでも知らないところがあったのは、それだけ奥行きがあるということなのだろう。

いよ(2)奥まで行って、そこを曲がったところにあるお店に連れていってもらった。カウンターに座って、お酒を飲んでいると、なんだかふらふらしたくなって、トイレにいくふりをして、そのまま戸を開けて、夜の静寂の中に出た。

いよ(3)お茶屋さんが並ぶ通りは、しんみりと静まり返っていて。時折、どこからか、人の話し声のようなものが聞こえる。ふらふらと歩いていたら、鳥居が見えた。「宇多須神社」とある。何でも、お城からみると鬼門の方角にあたるので、それで創建されたらしい。

いよ(4)境内の木には、もう雪釣りがしてあった。枝の一つひとつを、ひもで結んで、雪がつもっても負けないようにする。その細やかでやさしい心遣い。どうやら、そのあたりの光景が、そのあとのできごとを準備していたように、翌朝の今になって振り返ると思えてくる。

いよ(5)社があったので、お参りしようと思った。階段のところに、木札がある。「靴のままお上がりください。 Shoes OK」。階段を上がって、もう戸が閉まっていたので、それごしに、中を拝見してお参りした。二礼二拍手一礼。踵を返して戻ろうとしたとき、はっと思った。

いよ(6)神社で、祈るとはどういうことなのだろう。日本の神様は西洋のそれとは違うけれども、それでも、全知全能の神様に「お願い」をするということではない、と以前から感じていた。むしろ、自分で自分に誓うということの方が、しっくりと来るように感じていた。

いよ(7)それが、宇多須神社で、はっきりとわかった。祈りは、強い者に対して行われるのではない。祈りは、弱い者に対して、くじけた者に対して行われるのだと。そのことが、さーっと光の幕のように心の中でかたちをとって、確信となって感じられた。

いよ(8)いろいろ、おいしいものをいただいていたからかな。食卓に上るために、殺されていった魚たち。死んだら神様になるというのも、亡くなった方は、もっとも弱き存在だから、だって、もう何もできないから。弱き者、無力な存在の前にこそ、私たちは頭を垂れる。

いよ(9)だから、本当は、祈りの対象というのは、一木一草、至るところにあるんだね。ちょっと遠回りして店に戻ったら、田森がおもしろ話をしていた。雪の上で腹ばいになって難をのがれた話。ぼくはうふふと思って、焼酎を飲んだ。金沢の夜はふけていく。田森が、おしぼりで顔を拭いた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。