2012年4月30日月曜日

技術的にできることは、なんでもやりましょう!

ぎな(1)2011年の3月にロングビーチのTEDに参加したときのこと。Googleの人が出てきて、驚くべきプレゼンテーションをした。サンディエゴからロサンジェルスへだったか、車が自動運転で勝手に走っている。街の交差点ではちゃんと止まって、信号待ちしている。

ぎな(2)このGoogle car、人々を不安にさせないように、一応人が乗っているんだけれども、実際の運転は完全に自動。それで、通行人とかも察知して安全に運転する。街をいく人は、誰も、その車が自動運転だとは気づかない。そのプレゼンを見て、すごい時代が来たなあと思った。

ぎな(3)Google carはそのあとも進化を続けていて、最近では目の見えない人が生涯で初めて自分だけのドライヴを楽しんだ、みたいなニュースが流れていた。現在の技術を集めると、そこまでできてしまう。自動車は、まだまだ進化の途上である。

ぎな(4)Google carのような、自動運転の車の話をすると、必ず、「自分で運転する楽しみをうばれる」という意見が出て来る。人間がコントロールするという要素と、自動運転制御の要素をどのように有機的に結びつけて設計するか。技術的には興味深い分野であり、今後の研究が待たれる。

ぎな(5)昨日、高速バスの痛ましい事故があった。楽しみにしていた連休の旅が、悲劇に。運転手は、居眠りをしていたのだという。午前4時台は、魔の時間帯。運転手二人での交代運行の体制をとっていなかったなど、会社の責任は、逃れられまい。今後の安全対策を万全にしてほしい。

ぎな(6)ただ、「安全対策」の規制などは、問題の本質に対する間違ったアプローチである可能性がある。そもそも、自動車という「走る凶器」が、人間の制御だけに任せられているという現状が、問題だらけである。本質的な改善は、人間を責めることでなく、技術的に解決することなのかもしれない。

ぎな(7)なぜ、居眠りの兆候を検知して、アラームを出すシステムがないのか。道路の端からの距離が近すぎると運転をとって代わるようなシステム、車間距離を検知して減速するようなシステムができないのか。将来、そういう車が出来たとしたら、今の車は野蛮な存在に見えるだろう。

ぎな(8)人間は不完全な存在であり、誰でも間違いを起こす。そんな人間を信頼した安全システムは、根本的に設計が間違っている。年間数千人の死者を出す現行の自動車という商品は、いわば不完全な欠陥商品。その厳しい認識の下に、私たちは文明全体として取り組みをしなければならないのだろう。

ぎな(9)自動車会社のエンジニアたちは技術開発に最善を尽くしていると思う。社会として支援できることは一点。Google carは公道を普通に走っていたが、日本では未だにSegwayが走れない。過剰な規制はやめて、自動車の安全技術開発の社会実験ができるよう、バックアップしたい。

2012年4月29日日曜日

判断には専門知識は必須ではなく、専門家がよい判断をできるのでもない

はせ(1)ニコニコ超会議の「メディアの危機」のパネル・ディスカッションをしていたとき、池田信夫さんが専門知識の話をしていた。それでぼくは思ったことがあった。専門知識があれば、判断できるわけではないし、判断をするために、必ずしも専門知識が必要なのでもない。

はせ(2)専門知識は、必ず、ある文脈の中で成り立っている。だから、蛸壺化もする。ところが、判断というものは、文脈を超えた、生の現場全体の状況を反映したものでなければならない。だから、原発の問題にしても、専門家だから正しい判断ができるわけではない。むしろ専門家に任せるのはよくない。

はせ(3)原発をこれからどうするか、という問題は、だから、広く国民的議論をして、その中で、最終的には国民の負託を受けた政治家が判断しなければならない。その判断には、私も従う。その際、判断の質は、専門知識だけでは決して担保されない、ということを知っておく必要があると思う。

はせ(4)これは、悲劇的な結末をもたらしたプロジェクトではあるが、国家、いや文明の命運がかかったプロジェクトでもあった。ナチスが原爆を開発する可能性が恐れられる中、アメリカはマンハッタン・プロジェクトでウランを濃縮し、原爆をつくった。そこに、天才物理学者のファインマンもいた。

はせ(5)何しろ、史上初めてウランを濃縮するのだから、やり方がわからない。一方で、事態は緊迫している。そんな中、ファインマンをはじめとする科学者、技術者たちは昼夜をとわず奮闘していたが、そんな中で一つの問題が生じていた。

はせ(6)ウランを濃縮しているということは重大な機密だから、何を濃縮しているのか知らされないまま、技術者たちは仕事をしていた。それが、開発上の障害になっていると認識したファインマンは、責任者の将軍に、「技術者にウランを濃縮していると伝えていいか」と交渉に行く。

はせ(7)それは、難しい決断だった。何を濃縮しているのかわからなければ、技術者たちはよい仕事ができない。一方、何を濃縮しているのか、多くの人間が知ることは、それだけ漏洩の危険性に通じる。ナチスの脅威がリアルで、どちらが勝かわからなかった時期のことである。

はせ(8)ファインマンは証言している。将軍は、「ちょっと待ってくれ」と言って、一人で窓のところに行って、しばらく外を眺めていた。やがて、振り返ると、「技術者たちに、ウランを濃縮していることを伝えてくれ」と言った。マンハッタンプロジェクトを左右する、重大な決断だった。

はせ(9)原爆開発は、悲劇をもたらした。一方、このエピソードは、判断というものが必ずしも専門知識を必要とするものでも、専門家がよい判断ができるわけでもないことを示している。ファインマンは、将軍というのは判断をする訓練を受けている人だと、感動する。生死のぎりぎりの現場において。

2012年4月28日土曜日

バブルよ来い、早く来い!

ばは(1)昨日、Tokyo Designers Week. tv の収録をしていて、スプツニ子が、香港など中国圏の現代美術は、バブルだ! と言った。それを聞いてぼくは思った。バブルはバブルかもしれないが、そのバブルの間に、何をしているかということが、実に大事なのではないかと!

ばは(2)個人もそうだし、社会もそうだけれども、生命活動というのは浮き沈みがあるもので、一直線で安定な成長などできない。一瞬のひらめきは、神経活動の一種のバブル。そのときだけ、ある目的のためにリソースが総動員される。だから、バブルは成長の文法でもあるのだ。

ばは(3)何かに、突然熱狂的な興味を持つことがある。たとえば、小学校に上がる前の私。ちょうちょに猛烈な興味を持った。ちっこいのに、長い竿を持って、アカシジミやミドリシジミといったゼフィルス類を追いかけた。その過程で、自然についていろいろなことを学んだ。

ばは(4)今まで、いろいろなバブルがあったよね。たとえば、小学校5年生の時の、アインシュタイン・バブル! 同じ頃に始まり、中学校や高校まで続いた、赤毛のアン・バブル! 高校の時の、ニーチェ・バブル! 高校から大学への、ワグナー・バブル! ドイツ語バブル! 

ばは(5)言うまでもなく、恋愛は一つのバブルだし、とにかく、寝ても覚めても何かのことを考えているというのは一つのバブル現象なのであって、それを否定するのではなく、一つの生命脈動として受け入れ、波乗りしてしまって、その間に何かを学ぶ、ということが大切なのである。

ばは(6)バブルの波には大小があって、それは、対象の奥深さとおそらくは関係している。突然何かに興味を持って、しばらくやってみて、「あっ、もういいや」と離れる場合もあるし、何年経ってもバブルがやまず、気づいてみると生涯のテーマ、ライフワークになっている場合もある。

ばは(7)私の場合は、31歳のときに電車に乗っていて「がたん・ごとん」という音を聞いていて、その質感がフーリエ変換などの数理的解析では扱えないことに気づいておこった「クオリア・バブル」が生涯最大のバブルかもしれない。それは未だに続いているし、死ぬまでずっと続くであろう。

ばは(8)肝心なことは、世間の景気動向と、自分の個人的な心理動向はある程度独立だし、切り離せるということだ。世間が二十年、三十年デフレで停滞していたとしても、自分だけのバブルを起こしてよい! むしろ、バブルの熱狂が、ずっと続いていてよいのだ!

ばは(9)次から次へとバブルを起こして、波乗りすることだってできる!だから、バブルよ来い、早く来い! あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている。みんなみいちゃんだから、おんもへ出たいと 待っているんだよ。みんな、バブル起こそうぜ!

2012年4月27日金曜日

けんかにはばーっとさわやかなのと後出しネチネチがあるけど、さわやかな方がいいよね

けさ(1)先ほど、橋下徹さん(@t_ishin)のツイッターを拝読していて、おもわずほほえんでしまった。論敵に対して、ものすごい勢いで言葉を発している。ああ、この感じ、わかるなと思ったところから、過去へと連想がさかのぼり、思わずほほえんでしまって、今朝はこれで行こうと思った次第。

けさ(2)これから書くことは、政治的に正しいことでも、ましてや脳科学的に裏付けのあることでもなく、あくまでも私の感覚なので、そう思って読んでほしい。しかし、ツイッターの上での論争をする上では、大切なことだと個人的には思うのである。

けさ(3)みんなやられているらしいけど、ツイッター上では頼まれもしないのに人を罵倒したり、汚い言葉でののしったりするつぶやきが、時には@メンションで飛んでくる。私は基本的にじっとがまんしているけれども、心の中では、実はあることを思っていて、それが小さな復讐のつもりでいる。

けさ(4)それは、「ああ、この人、かわいそうに。もし、オレと実際に会って論争したら、こてんぱんにやられてしまうのになあ」ということ。小学校の頃から、論争でも口げんかでも、負けたことなし。論点を繰り出し、相手を攻撃するスピードは、ファンタジスタ。ツイッター上では、封印しているだけ。

けさ(5)橋下徹さん(@t_ishin)の今朝のツイートを読んでいて、なぜほほえんでしまったかと言うと、言葉を出すスピードや、その勢いが、おそらくぼくと同じ感覚の方で、橋下さんも生の論争ではおそらく負けないのだろうけど、それをツイッター上でやっているところに、さわやかさを感じた。

けさ(6)おそらく橋下さんもそうだと思うのだけれども、論争ファンタジスタの人は、だーっとその場では言うけど、あまり後を引かないというか、あとはケロリと仲直りできるんだよね。かえって、ねちねち後出しじゃんけんで言い続ける人の方がやっかいで、でもこういう人は論争では勝てない。

けさ(7)今朝の橋下さんのツイートに対しても、後出しじゃんけんで、「痛いところを突かれたからムキになったんだろう」みたいなことを書いている方がいたけど、あんがいネチネチしていて、生のリアルタイムの論争には向いていなかったりする。で、時代の気分は、橋下さんの方なのでしょう。

けさ(8)ぼくが、個々の政策においては意見を異にしても、橋下徹さん(@t_ishin)に一度首相をやっていただきたいと思うのは、その意志決定やコミュニケーションのスタイルに惹かれてのことだと思う。なんだか、フェアな感じがするんだよね。後出しじゃんけん系の人たちよりも。

けさ(9)だから、相変わらず@メンションでイミフな罵倒をあびさせてくる方々へ。もうしわけないけど、生で論争したら、絶対に負けません。口げんかになったとしても、こっちはファンタジスタだぜ。でも、ツイッター上でそれをやることはせず、じっと我慢しているだけなのです。

2012年4月26日木曜日

ぼうっとしていると、忘れかけていた自分の夢に出会うことができる

ぼわ(1)来週は大型連休である。私のように、休みがない! という人もいれば、まとめてとれる人もいるだろう。そこで、休み方のささやかなヒントのようなものを記して、本日の連続ツイートとしたい。みんな、ゴールデンウィーク、楽しみかっ!

ぼわ(2)学生の頃、お金などなかったから、懸賞論文にたくさん当選して、活動資金をかせいでいた。ある時、やっぱり当選して、バリ島へのバカンス旅行みたいなのに行くことになった。目的地は、地中海クラブ。フランスを拠点とする、世界各地にバカンス村がある組織である。

ぼわ(3)ぼくたちの日程は5泊6日とかだったけれど、フランス人などは二週間とか滞在するのだという。ひええ、と思いながら、プールに入ったり、卓球をしたりしていた。それからビールを飲んで、部屋でうとうと眠ったりして、怠惰な時間を過ごして、三日くらい経ったときのことである。

ぼわ(4)当時は学生だから、今ほど忙しいはずもないが、ぼくはがちゃがちゃしているから、あっちこっち動き回っていたのだろう。それが、バカンスということで、だらだらぐたぐたしていたら、三日目くらいに、ぼくの内面に驚くべき変化が起こり始めたのだ。

ぼわ(5)心の底の方が、なんだか、石炭でも燃やしているようにかっかしはじめた。それから、その活性が、じわじわと心の毛細管現象で上がってきた。そして、ぼくは、大切なことを思い出したのである。少年の頃から抱いていた、もっとも純粋な夢。命のようにかけがえのない夢が、蘇ってきたのだ。

ぼわ(6)思うに、当時のぼくはすでに世間にまみれ、日常に追われ、考え方が次第に実際的で、刹那的になっていたのだろう。夢と言っても、そんなものはどうせ実現できない、くらいに思い始めていたのではなかったか。それが、バリ島の地中海クラブで寝転がっていたら、蘇ってきて驚いた。

ぼわ(7)偶然の幸運に出会うセレンディピティは、外から来るとは限らない。自分の内側に、忘れかけているセレンディピティの種がある。それが日常の雑事の下に埋もれてしまっているのである。ゆったりとした時間を過ごして、自分自身の内面とやわらかく向き合って、初めてわかる。

ぼわ(8)プールサイドのチェアにだらしなくべたーっと寝転んで、水面にきらめく光を見つめながら、ぼくは、まだこの夢はオレの中で生きていたのか、とその事実に感動した。そして、ふだんの自分を反省した。生まれ変わったような気分だった。実際、その日を境に、ぼくは生まれ変わったと思う。

ぼわ(9)日常の忙しい時間から離れて、少しまとまった、ゆったりとした時間を過ごすことの効用。それがバカンスなのだな。バカンスは、忘れかけていた自分の夢と再会するためにある。このゴールデンウィークは、ぜひ自分との出会いを。ロマンティックな考え方かもしれないけど、ほんとうのことです。

2012年4月25日水曜日

音楽も、主要教科である

おし(1)小学校の頃から、国語、算数、理科、社会、中学からは英語を加えて「主要教科」と言っていた。どうしてそうなのかわからないけれども、そんなものなのだろうと思い込まされていた。音楽や美術、体育は主要教科ではないらしい、そんな風な理解であった。

おし(2)ところが、取材でライプツィッヒの聖トマス教会を訪れたとき、おもしろいことがあった。教会のとなりに付属の学校があって、そこで、かの偉大なヨハン・セバスチャン・バッハがかつて教えていた。その教会付属学校のカリキュラムが興味深かったのである。

おし(3)バッハが教えていた当時の毎日の教科が書いてあるのだけれども、「神学」、「古典」、そして「音楽」がそれぞれ1/3くらいの割合で学ばれていた。音楽は、主要教科の一つだったのである。musicという言葉の語源は、ミューズに捧げられたもの、宇宙の調和。神の栄光に至る道。

おし(4)近代化の下では、産業や経済の比重が高かったから、ついついそれと関連する教科が重視されたのであろうが、神の栄光や人間精神の栄誉を考えたら、当然音楽は主要教科になる。教会での儀式で演奏するということを考えても、音楽は必要にして欠くことのできない主要教科だった。

おし(5)教育課程におけるカリキュラムは、それが子どもたちに与える感化と便益を通して精査されるべき。その意味では、現行のカリキュラムは決して最適なものとは限らないと思う。中学校でダンスが必修化されるそうだが、将棋も必修にした方が集中力や考える力がつくのではないかと昨日思った。

おし(6)私立の学校では、文科省のカリキュラムとは別個の方針を立てているところも多いと聞く。ある自由な教育で知られる学校では、一年かけて演劇をつくり、上演するのだと聞いた。いわゆるペーパーテストの学力観にははまらないが、演劇上演を通して得られる経験、資質は確かにある。

おし(7)日本人は英語を話す力が相変わらずないが、英語による演劇を必修にすれば、ずいぶんと風景が変わる。考えてみると、私たちが「学校」にあてはめているカリキュラムは、知識偏重だった頃の思い込みに基づく、化石のような側面がないとも言えない。カリキュラムのビッグ・バンが必要だろう。

おし(8)コンピュータのプログラム能力は現代人に必須だが、それが十分に教育されているという話は聞かない。日本史や世界史の細かい人名や年号を聞く入試問題も、それに向けられた授業ももはや時代錯誤。日本の停滞は、化石化したカリキュラムがもたらしていると言ってもよい。

おし(9)重箱の隅をつつくような歴史教育、試験はナンセンスだが、歴史を知ること自体には価値がある。世界のさまざまな場所で、さまざまな年代にどのようなカリキュラムが存在したか。それを知ることで現代が相対化される。バッハの時代には、音楽はりっぱな主要教科だった。

2012年4月24日火曜日

不安なときは、笑って自分を守る

ふわ(1)Steve Jobsの伝記も書いたWalter IsaacsonのEinsteinの伝記を読んでいるが、今、佳境に入っている。ナチスが政権をとって、アインシュタインがアメリカに移住するあたりの緊張とドラマ。アインシュタインは勇気のある人である。

ふわ(2)アインシュタインは、よく笑う人だった。その笑いを注意深く見ていると、一つの防御機構(defense mechanism)であることがわかる。権威主義や、偏見に対して、笑いで防御する。それが、アインシュタインなりの、知的で生命を育むやり方であった。

ふわ(3)笑いの起源について有力な「偽の警告」(false alarm)仮説。危険が迫っていると仲間に知らせたが、あとで違うとわかった。そんなときに安心させるために笑う。笑いは、その背後に不安や恐怖がある。凝り固まらずに、生命をいきいきと育むためにこそ笑うのだ。

ふわ(4)笑いのプロも、一つの防御機構として笑いに従事し始めることがある。BBCのコメディシリーズLittle BritainのMatt Lucasは、東京で会ったときに、自分を守るために相手を笑わせるようになったと言っていた。笑われる前に、笑わせてしまえというのである。

ふわ(5)Little Britainのスケッチ内でも明らかになっているが、Mattはゲイ。そのことと、太っているということを、相手に笑われる前に自分から笑わせてしまう。そんな道化の精神を、私は素敵だと思った。笑うことで、自分も解放されるし、社会の流れもなめらかになる。

ふわ(6)ぼくにも、似たようなことがあったからよくわかる。いちばんキツかったのは中学時代で、荒れる学校で不良の友人たちと、優等生たちの狭間に立って、ぼくは道化を演ずるしかなかった。あの頃が生涯で一番ふざけていたけど、あれは明らかに防御機構だった。でもね、笑うと、救われるんだよね。

ふわ(7)北朝鮮の金正日の長男、金正男は、日本に来てディズニーランドに行ってたのがばれるなど「お騒がせ」の男だけれども、最近文藝春秋から出た本によれば、体制や世襲に反対の立場で、真剣に体制批判すると危ないから、「遊び人」の振る舞いは、自分を守るための見せかけだという。

ふわ(8)「遊び人の金さん」のふりをしながら、時がくるのを待つ、というような生き方もあるのかもしれない。金正男が実際にそういう人かどうかはわからないが。いずれにせよ、不安な時代、恐怖のしのびよる時にこそ、笑いの効用を忘れてはいけない。うまく笑えば、うまく守ることができる。

ふわ(9)不安や恐怖から、他者への攻撃へと転ずることもある。ナチスは、その最悪の事例だろう。不安や恐怖があったときに、アインシュタインのように、笑いで防御するか。ナチスのように、他者への攻撃に走るか。どちらが生命を育む道かということは、すでに歴史が繰り返し証明している。

2012年4月23日月曜日

トキが飛ぶ空、ほたるが舞う小川

とほ(1)渋谷のNHKの近くには、童謡「春の小川」のモデルとなった流れがある。渋谷の現状を考えれば、「春の小川は、さらさら行くよ。岸のすみれや、れんげの花に」という歌詞は、まるで夢物語のようだ。今は暗渠となっているその流れが、もし元の姿になったとしたら、どうだろう。

とほ(2)私たちが、「幸せ」と考えるための条件が、明らかに変化してきた。もし、渋谷の「春の小川」が元の姿になって、蛍まで飛ぶようになったなら、どれほどの価値を私たちは見いだすことだろう。都市の文明と自然との共生。そこには、まだまだ無限の可能性がある。

とほ(3)自然の再生は、「点」でなく、「線」や「面」の生態系で行わなければならない。そのことを教えてくれるのが、佐渡のトキである。数年前に放鳥の試みが始まり、昨日、ついに自然界でひなが誕生したとの朗報が届いた。実に36年ぶりの繁殖確認だという。関係者の努力をたたえたい。

とほ(4)トキという「点」を保護するためには、自然環境という「線」や「面」を保護せねばならぬ。トキは、食物連鎖の頂点に存在する生物である。トキが暮らし、エサをとり、ひなを育てることができる環境を整備するということは、すなわち、佐渡の豊かな自然を再生、維持することにつながる。

とほ(5)トキのひなの誕生のニュースが、一つの種の保護という意味を超えた響きを持つのは、このためである。トキがひなを育てることができるような環境が、佐渡に戻ってきた。生活する者にとっても、訪れる者にとっても、すばらしい価値がそこにある。トキは、豊かな生態系の一つの象徴となる。

とほ(6)ところで、数年前トキを放鳥したときに、おもしろいことがあった。放たれたトキのうち何羽かが、佐渡から本土の方に飛んでいってしまって、日本海側の各地で目撃されたというのである。このニュースは、私にとって、実に痛快で、意味深いものであった。

とほ(7)ゲーテが『ファウスト』の中で書いているように、「自然にとっては大宇宙でさえ十分ではないが、人工は閉ざされた空間を必要とする。」トキが一度放たれてしまえば、それは「自然」となり、あらかじめここまで、というゾーニングができなくなる。そこに、トキ保護の深みがある。

とほ(8)トキに、佐渡以外には渡るな、とは言えない。トキにはトキの都合があって、思った方向に飛んで、拡散する。つまり、トキの保護を持続可能なかたちで図ろうと思ったら、豊かな環境を、佐渡という「点」から、「線」や「面」へと広げていかねばならぬ。そこにはなんと楽しい未来があることか。

とほ(9)自然に放たれたトキは、これからも、私たち人間の意図や線引きを超えていくだろう。そこに、飼育下ではなく檻の外にトキが息づいていることの意味がある。最初に放鳥されたとき、まっさきに佐渡から出てしまったのは新潟県知事の放した個体だったという。近頃、実に痛快な話だと私は思う。

2012年4月22日日曜日

人はそれぞれ違っていて、どうすることもできない

ひど(1)小学校の頃、アインシュタインの伝記を読んでいて、アインシュタインが、「誰かが何かを考えたり、行動したりすることの背後には、それなりの必然性がある」みたいなことを言っていた、と書いていて、それが奇妙に印象に残った。このところ、そのことを時々思い出している。

ひど(2)社会に出て、さまざまな人とかかわると、本当にひとそれぞれだなと実感する。一つの問題についても、いろいろな感性がある。そして、自分と立場や意見が異なっていると腹が立つこともあるだろうが、たいていの場合、議論しても相手の感性そのものは変えられないことの方が多い。

ひど(3)個性というものは、もちろん遺伝的な要素もあるだろうけれども、その人の一回限りの人生の中で培われてきたもの。脳の可塑性といってもホメオスタシスを前提にしており、人格の感性の法則は無視できない。結局、「この人はこういう人なんだ」と受け入れて、共存していくしかない。

ひど(4)たとえば、自身の存在意義についての不安が高くて、すぐに自分語りを始めたり、他人との会話でも自分へ興味や関心が来ないとがまんできない人がいる。みんな、その人がいると会話がそうなっちゃうと知っているけれども、仕方がないとあきらめて、共存するしかない。

ひど(5)脳科学をやっていると、他人に対して我慢強くなる。その人の性格の慣性の法則が、ありありとわかるからである。さらに重要なことに、我慢していて共生していると、案外面白いことになったりする。つまり、異なる要素のかけ算で、思わぬ強みを発揮したりするのである。

ひど(6)その政治手法を高く評価しながらも、橋下徹さんの教育基本条例に違和感があるのは、結局、国旗で起立しないヘンな人って、時々いるよね、その人がなぜそうなっちゃったかわからないけど、そうなっちゃっているんだよね、という認識を持って、共生するしかないと考えているからかもしれない。

ひど(7)一人の例外もなく何かのルールに従わないと困る、という組織の典型は軍隊である。どの国でも、軍紀違反は厳罰になる。それはそうだ。命令に従わない兵隊がいたら、そもそも軍隊自体が成り立たない。しかし、一般の社会では、へんな人とか変わった人がぽつぽついた方が、全体としては面白い。

ひど(7)ぼく自身は国旗で起立するし、国歌をうたうけれども、それを言うならアメリカ大リーグを観戦にいくと、なんとはなしに起立して、アメリカ国家をうたうふりをする(歌詞よく知らないけど)。ぼくはそういう人だけど、そうじゃない人がいても、「ああ、この人はそうなんだ」と思うだけだ。

ひど(8)国旗や国歌の問題にムキになる人たちがいるのは、それが「国家」や、「軍隊」とかかわっている。戦争では、ルールに従わない人がいると、確かに困る。しかし、戦争はない方がいいよね。それと、インターネット文明のイノベーションでは、むしろ反逆児を大切にしなくてはならない。

ひど(9)ツイッターでも、意見や認識が異なる人がいると、しつこく@メンションして、同じ意見になるように押しつける人がいる。ムダだと思う。人はそれぞれ違って、どうすることもできない。そういう認識からスタートする方が、日常生活でストレスがないし、強靱なコミュニティができると思う。

2012年4月21日土曜日

語も、ヒップホップも検定なんかいらねえよ

えひ(1)ゼミは研究発表と論文紹介をする。ゼミの前に、みんなでチェゴヤでごはんを食べる。昨日カキ入りキムチチゲを食べてたら、TOEICに「有効期限」があると聞いてのけぞった。スコアが、何年か経つと使えなくてまた受けなくてはいけないのだという。しつこいね。あこぎな商売だなあ。

えひ(2)何回も書いているように、TOEICはナンセンスだと思っている。ところが、ゼミ生のまみたこの証言によると、大学でも、英語教師がTOEICのスコアを要求され、ベテランが「初めてTOEIC受けるよ〜」と言っているらしい。世も末だね。TOEICでボーナスが変わる塾もあるとか。

えひ(3)TOEICって、結局、英語を使ったり、英語を生きたりしていない人たちが、自分たちで英語の力を判断する能力がないから、丸投げしているだけじゃん。問題作っているアメリカのETSと、日本のなんとか協会はうはうはだね。でも、日本人の英語の表現力が向上したという話は聞かないね。

えひ(4)あのさ、英語って、自由なのよ。生き方なのよ。表現なのよ。なんでこういうリズムになったかというとさ、ヒップホップってやつ? 先日、ヒップホップ検定なるものができる、っていうんでみんなの爆笑かってたでしょう。あれ、中学でダンスが必修になるから、先生対策なんだって?

えひ(5)でさー、ヒップホップを検定するって、明らかにおかしいってわかるよね。だって、ヒップホップって、ストリートじゃん、自由じゃん、検定って、ぷって笑っちゃうよね、文科省。で、本人たちがまっすぐ真剣だって思っているところも、笑っちゃうよね、さすが教科書検定。

えひ(6)それでね、チェゴヤでゼミ前のご飯を食べているときに、「あっ!」と思ったわけ。それで、まみたこに、「明日の連続ツイートのネタができた!」と言ったんだけど、その場では、一生懸命がまんして、それが何かを言わなかったんだけど、今からここで書きたいと思います。

えひ(7)つまりね、英語もヒップホップだと思ったら、TOEICのだささが一気にわかるでしょ、という話。言葉って、その人のリズムだからね。人生観だからね。文法とかボキャブラリじゃなくて、英語がヒップホップだと思って向き合うことで、初めて本質がわかる。そこなんだよ。

えひ(8)ヒップホップ検定がナンセンスなのと同じように、英語検定もナンセンスなんだよ。英語なんて使い倒せばいいんだよ。それなのに何だ、そのうんねんかん有効なTOEICスコアって。そんなの、生きることと全く関係ない、小さく前にならえの詐欺じゃん。つきあう必要まったくな〜し!

えひ(9)大学の教員まで、英語のTOEICスコア要求するなんて、世も末、日本はオワコンだね。就職面接で、「君は英文科なのに、TOEIC受けていないんだね」と聞くばかおやじもいるそうだけど、昔は、そんなおろかなやつらはヒップホップに相手にしない、というのが大人だったんだけどね。

2012年4月20日金曜日

新文明は隕石の落下よりは、新しい生命の登場ににている

しあ(1)「スティーヴ・ジョブズ」の電気を書いた人による、アインシュタインの伝記を読んでいるけれど(英文)面白い。相対性理論が、当時のひとたちにいかに大きな衝撃を与えたかということがわかる。日蝕の際に光が曲がることが確認されたときには、新聞に大きなニュースとして載った。

しあ(2)新しいことが出てくると、それによって私たちは旧来の世界観が揺るがされるように感じる。その時に見えるきらめく新宇宙は、おそらく私たちの最良のイリュージョンであって、実際の世界は、それほど根底から覆ってしまうわけではない。相対性理論も、そうであった。

しあ(3)アインシュタインの師であるミンコフスキーは相対論を4次元時空の数学としてまとめた。確かに私たちの住む宇宙は4次元として知覚されるようになった。しかし私たちは相変わらずぼんやりと生きていて、一般相対論はGPSの計算に使われている。革命はなったが、日常が続いた。

しあ(4)インターネットが登場した時に、革命的だと皆思ったし、また実際に革命的であったが、私たちはその時どうも幻想としての新宇宙を見てもいたのではなかったか。特に、しばしば使われたメタファーである「隕石」というイメージは、きっと適切ではなかったのではないかと思われる。

しあ(5)インターネットは隕石であり、その落下によってかつて恐竜が滅んだように、さまざまなものが滅びる。そんな風に予想された時期もあったが、実際には旧来のものも存続し、インターネットによって変質することはあっても、かえって進化、強靱化して存在し続けている。

しあ(6)新聞も、テレビも、インターネットという隕石の落下によって打撃を受けると予想されたが、案外しぶとく残っている。ソーシャル・メディアの役割についても、きらびやかな未来が夢見られたが、案外頃合いのところに落ち着いている。新文明の登場は、隕石の落下ではなかったのだろう。

しあ(7)インターネットという新文明の登場は、おそらくは隕石の落下による生態系全体の消滅、更新というよりは、新しい種の登場による生態系のバランスの変化、環境連鎖の推移の方に似ている。確かに新しい種は登場した。しかし、そのことで関係性が調整されて、かつてのものも存在し続けている。

しあ(8)生態系の歴史を冷静に考えれば、インターネットがどのような世界に私たちを誘うかは、より正確に予言できるのであろう。それでも、私たちは新しい世界の入り口できらびやかな刷新を夢見ることをやめない。その幻想は、おそらく私たちの精神生理の根幹に根付いている。

しあ(9)入学や入社、転職、引っ越しなどで環境が変わったときに、その向こうにきらびやかな新しい世界が待っているように思う。人間の愛らしい心性は文明の推移にも適用され、私たちはそれほどでもなかったという幻滅を味わうことになる。それこそが人の世の常であり、きっとそれでいいのだ。

2012年4月19日木曜日

そんなに検定が好きならば、自分でつくって勝手にやったら

そじ(1)先日、「クイズダービー」の収録のとき、解答を書こうとして、「記憶力」の「憶」が本当に「憶」というかたちなのか、何となく不安となった。い わゆるゲシュタルト崩壊というやつ。そういえば、最近手書きでものを書くことが、ほとんどない。コンピュータで変換してしまう。

そじ(2)これはまずいな、と思って、一週間前、コンビニでノートを一冊買った。今朝、思っていたことを初めて実行してみた。iPadで青空文庫から「我 輩は猫である」をダウンロードして、写し始めたのである。「しばらくすると非常な速力で運転し始めた」まで書いたところでページが一杯になった。

そじ(3)今朝、Hip Hopの検定をする団体が出来た、という天下の珍事のニュースを知ったから、その連想で前からやろうと思っていた『我が輩は猫である』の書写を始めたので ある。飽きなければ、最後までやってみようと思う。なにしろ名文であるし、漱石は実際に書いたのだから。

そじ(4)「漢字検定」というものがあることは知っているけど、全く関心がない。脳は目標を立てて、それを実行することで満足するものだが、目標は自分で 立てるのが良い。英検も一応一級まで受けたけど、あまり感激しなかった。当然TOEICなどは目もくれない。英語の基準は自分でたてるのが良い。

そじ(5)振り返れば、私の人生の「英語」の検定は、15歳で初めてバンクーバーに行ったとき、ホストファミリーのトレバーとランディー(当時10歳と8 歳)にいきなり「人生ゲーム」をやらされたのがそうだろう。子どもだから手加減しない。結婚とか、卒業とか、そんな会話は大変だった。

そじ(6)バンクーバーではコミュニティ・カレッジに行ったが、最後に英語でコマーシャルを作らされた。ネイティブの前で、遊び人の大学生とスタンドアッ プ・コメディをやった。なんとか受けたが、15歳にして良質の英語検定だったと思う。赤毛のアンの原書を読み通したのも、一つの検定だ。

そじ(7)大学院の時に初めて英語で論文を書いたのも検定だったし、この前TED Long Beachでしゃべったのも検定だ。英語で学会発表するのも検定だ。検定機会なんて生きているなかでいくらでもあるのであって、何もTOEICのような無 味乾燥な試験に検定を丸投げする必要などない。

そじ(8)日本人は検定好きらしいが、結局人生を質入れしたり、丸投げしているのだろう。自分で基準を作って、そのためにがんばれば、人生なんて毎日が検 定だし、それについて他人にとやかく言われる必要はない。お仕着せの検定で得られるのは大勢迎合の安心感と、個性の喪失である。

そじ(9)ドイツ語を熱心にやっていたとき、マイスタージンガーを最初から最後まで訳したことがあったな。まだノートがどこかにあるはずだ。検定なんて、 そんなに好きならば、自分で基準を作ってさっさとやればいいんだよ。なんとか協会のおじさんたちに認めてもらう必要など、私の人生にはない。

2012年4月18日水曜日

ぼくが、徳川家康を好きになった理由

ぼと(1)小学校の頃、歴史を習ったとき、信長、秀吉、家康のうち誰が好きか、という話になった。果敢に大胆なことをやりつづけた信長や、貧しい生まれから天下人まで上り詰めた秀吉が好きだ、という人はいても、家康が好きだ、というやつはまずはいなかった。家康は人気がなかったのである。

ぼと(2)あるとき、「ぼくは家康がいちばん好きだ!」と言った変わったやつがいた。「なんといっても250年続く江戸幕府をつくったのが偉い!」と。そいつは、小学生のくせに、おっさんのような不思議なやつで、「ああ、こいつだからか〜」とみな納得をしたのだった。

ぼと(3)中学、高校と進む中で、日本の歴史についての見方、考え方は深まっていったが、「家康が好き!」という気持ちは、一向に起こらなかった。家康の中に、空気を読んで、根回しをして、じとじとやっていく、みたいな、日本的なものの起源を読んでいたのかもしれない。

ぼと(4)流れが変わったのは、大学の時に日光の東照宮に行った時のことである。「見ざる聞かざる言わざる」を通り越して、いよいよこの先に家康の墓がある、という場所に来たとき、門のところに小さな猫が彫ってあった。左甚五郎作と伝えられる「ねむり猫」である。
ぼと(5)ねむり猫のまわりには、小鳥が飛んでいる。鳥をとって食べるはずの猫の近くで、小鳥たちが安心して遊んでいる。墓所の入り口に、「平和」の象徴としてそんな彫り物がある。権力者がかわいい意匠を施す趣味の良さに感心するとともに、「家康って案外いいやつかもしれない!」と思い出した。
ぼと(6)戦国の世を終わらせ、天下人になったのだから、もっとおどろおどろしい、権力を象徴するような彫り物をすることもできたのに、ねむり猫は鳥たちと遊んでいる。家康はいいやつで、日本の国はいい国だと思った。それが、私の家康観の変化の始まりのきっかけだった。
ぼと(7)家康のことを最終的に好きになる、決定的なきっかけとなったのは、一枚の絵との出会いである。「しかみ像」と呼ばれる、家康の肖像画。http://bit.ly/I49rpr 武田信玄との戦いに負けて逃げてきたときの自分の絵を描かせて、一生戒めとして近くに置いたのだという。
ぼと(8)一説には、信玄との戦いにやぶれ、命からがら、ほうほうのていで逃げてきたときに、あまりにもびびってうんこをもらしてしまった。そのおもらしをした自分の最低にみっともない姿を、家康は描かせて「しかみ像」としたというのである。それを知って、ぼくは、「家康サイコー!」と思った。
ぼと(9)お墓に至る門のところに、ねむり猫と、周囲で遊ぶ小鳥たちを描く。合戦に負けて、びびってうんこをもらしながら逃げてきた自分の姿を戒めとする。そんな人間像を知って、私は家康をいいやつだと思うようになった。決めつけてはいけない。どんな人にも、人間の幅というものがあるのだ。


原子力は、日本人の理想主義とは相容れないものになってしまったが、果たしてそれでいいのか

げに(1)原発の再稼働をするかどうかが大きな争点となっている。政府や電力会社の、原発を稼働させないと電力需給がひっ迫するという説明に不信を抱く人たちも多い。計算上は、火力や水力、再生エネルギーなどの電力源を積み上げれば、なんとか夏の需要期も乗り越えられるのかもしれぬ。

げに(2)火力発電ではコスト高になるという議論には、原子力発電の「外部不経済」が考慮されているのかという疑問がある。直接の費用ではなく、廃炉や、核廃棄物処理、さらには今回の事故のような潜在的なコストを考慮してもなお火力発電が割高になるのか、客観的に試算すべきである。

げに(3)一方、国のエネルギー安全保障という観点から見たときに、できるだけ多くのエネルギー源を確保しておくべきだという主張もあり得る。現在の状況で入手できるエネルギー源を積み上げれば足りるというだけでは、エネルギー安全保障上十分であるという議論にはならない。

げに(4)政府が、原発の再稼働を進めようとする背景には、エネルギー安全保障上の考慮があるのではないかと推察する。たとえば、イラン情勢が緊迫し、ホルムズ海峡に支障が生じるようなことがあれば、原油の輸入が止まる。もしそのような懸念を抱いているのならば、正直にそういうべきだろう。

げに(5)第二次大戦後の日本人は、素朴な平和主義を美質としてきた。二つの原爆を落とされ、大空襲の被害を受ける中で、たとえ安全保障上の必要があったとしても、不必要なリスクをとるべきではないと考えてきた。事故をきっかけとした原発への拒否感には、そのような背景があると私は考える。

げに(6)第二次大戦の戦勝国であるイギリスやアメリカは、核兵器はもちろん、原子力発電を放棄する気配すら見せない。安全保障ということが、リスクをとるということと表裏一体であることを自然に受け入れる文化。善し悪しは別として、日本の理想主義との対象は著しい。

げに(7)脱原発を志向する人たちの理想主義には、共鳴する。一方、現実的な安全保障上の観点から、原発を全廃することが望ましいのか、そもそも可能なのかということについては、判断が難しい。政府は、もし安全保障上の観点から再稼働をしようとしているのならば、ストレートにそう言うべきだろう。

げに(8)経済からの、電力コストが上昇することを懸念しての原発再稼働への圧力は、相対的な意味しかないとも言えるかもしれない。しかし、日本のエネルギー安全保障という観点はより深刻であり、理想主義は、たとえそれがどれほど麗しいものであったとしても、持続可能なものであるとは限らない。

げに(9)再生可能エネルギーの開発は、全力で進めるべき。一方、原発がなくてもエネルギーは足りるという議論は、世界情勢の中で起きうる蓋然性を十分に考慮したものとは、私には思えない。イギリスやアメリカは、徹頭徹尾実際的である。より観念的なドイツの風潮は、おそらく参考にはならない。

2012年4月16日月曜日

橋下徹氏がもたらした、政治のイノベーションについて

はせ(1)橋下徹氏が、引き続き日本の政界の台風の目になろうとしている。メディアの関心も高い。昨日ツイートしたように、時代の「気分」としては、首相はすでに野田さんではなく橋下さんである。なぜか。これは、わが国の現状と、政治文化の停滞と関係しているように思う。

はせ(2)わが国の現状をみれば、長期低落傾向にある。国が劣化するときはこのようなものかと思う。大学はガラパゴス、産業はインターネット文明に適応できない。メディアは旧態依然、そして政治はほとんどコメディの世界となっている。外国の日本に対する関心も、アニメや漫画のみ。

はせ(3)誰もが変化の必要性を感じている時に、橋下徹氏が登場した。橋下氏の個々の政策については、賛否両論が渦巻く。私自身、消費税、教育条例、TPP、原発政策、参議院廃止のうち、橋下氏と見解が同じなのは二つだけである。しかし、橋下氏の存在意義は、個々の具体的政策と別の点にある。

はせ(4)橋下氏は、政治の世界にイノベーションをもたらした。まずはそのスピード感。橋下氏のスピード感は、記者会見の会場にさっと現れて話し始める、そのリズムに表れている。今までの日本の政治家の、もったいぶってのろのろしている、どんよりとしたリズム感と一線を画す。

はせ(5)スピード感は本質的である。インターネット文明の中、ドッグイヤー、マウスイヤーと言われる中で、日本の旧来の官僚的停滞が目立ってきた。ぐずぐずしていて何もやらない。世界が疾走しているときに、重箱の隅をつついてああだこうだ言っている。そんな文化に橋下氏は決別している。

はせ(6)橋下氏の意思決定の方法も、従来の政治文化と一線を画している。日本では、地位が上がるほど口が重くなり、大した意思決定をしないのが通例。橋下氏は、迅速に意思決定する。そしてぶれない。この、議論を呼ぶテーマについてもぶれないという点が、橋下氏のもたらしたイノベーションである。

はせ(7)どんな政策についても、必ず反対する人がいるもので、それに配慮していたら意思決定などできない。リーダーがぶれない、とわかったらあきらめて、そのことを前提に適応しようとする。社会変革はそのようにしてなされるものであろう。橋下氏はそのことを直覚的にわかっている。

はせ(8)橋下氏のイノベーションの、もっとも深い部分は「ナショナリズム」の文法にかかわるものかもしれない。公立校の教師といえども、国歌、国旗について強制することに私は反対であるが、橋下氏の「民主主義の下で決めたルール」という論点は斬新で、イデオロギーの対立を無効化する。

はせ(9)まとめよう。橋下徹氏の個々の政策については賛成、反対があったとしても、その政治的手法におけるイノベーションは、画期的なものであると評価できる。橋下氏の政策決定プロセスを見た後では、与党、野党にかかわらず、旧来の政治家たちが色あせて見えるのは時代の趨勢だろう。

2012年4月15日日曜日

英語について大切なことを、改めて確認する

えあ(1)英語は必須であるという判断に代わりはない。しかし、そのことの意味をきちんと明確にしないといけないと改めて感じた。まず、英語という言語自体に価値があるということでは必ずしもない。英語と日本語は、言語としては、対等である。後者は母語だから、英語よりも大切なのは当然だ。

えあ(2)英語をしゃべっている人たちが、それだけで偉いというわけでもない。英語主義者には、ときおり、英米の人たちの「クラブ」メンバーになること自体を目標にしたり誇りにしたりする人がいるが、ナンセンスである。日本人もアメリカ人もイギリス人もみな対等であることは言うまでもない。

えあ(3)英語を、文法的に正確に、あるいは流ちょうにしゃべること自体に価値があるのではない。日本人には、時折、英語を正確にしゃべっているか、書いているか、神経症的に気にする人たちがいるが、これぞ植民地根性というものである。大切なのは中身で、英語表現は手段に過ぎない。

えあ(4)いわゆる「ネイティブ」が偉いわけでも、一枚岩でもあるわけではない。英語は急速にグローバル化している。いわゆる「グロービッシュ」はナンセンスだと思うが、それぞれが微妙に違う表現で英語をしゃべっている。英語と米語はすでにボキャブラリーなど、かなり異なる言語になっている。

えあ(5)では、なぜ英語をやらなくてはならないのか? まずは地球文明を推進している最良の「コンテンツ」への「アクセス」の手段としてである。科学や、技術、文明をめぐる知の集積が英語を中心に行われており、英語ができないと最良の内容に接することができない。日本語だけでは井の中の蛙だ。

えあ(6)別の言い方をすれば、ビジネス英語だとか、旅行会話とかは、できるには超したことはないが「オプショナル」な内容だということになる。英語の主戦場は、人類の知の最先端としての現場であって、TOEICで試験されているような実用的な内容は、はっきり言ってどうでもいいのである。

えあ(7)英語ができることのもう一つの意味は、日本人の感性、思想、主張を外に向かって表現する時がきたということである。レストランにおける「おまかせ」や、里山における自然と人間の共生など、世界中の人にプレゼントとして差し出すべき良質のコンテンツを、私たちは持っている。

えあ(8)京都大学の入試が「和文英訳」「英文和訳」に終始していることに象徴されるように、日本人の英語学習は、いまだに「日本語」というはしごをかけた翻訳言語になっている。これでは、英語というボールを直接やりとりしてピッチを走り回る現代の要請に全く適応できない。

えあ(9)結論。緊急の課題は、科学、技術、文明の最先端の思想内容を英語で直接吸収すること。これが、英語学習の意義9割くらいだと私は考える。残りの1割は自己表現。国家建設という意味においては、ビジネス英語などの実用は、まあできればいいという程度のこと。そんなに難しくないし。

2012年4月14日土曜日

田森義佳(@Poyo_F)について、私が知っているいくつかの驚くべきこと

たわ(1)田森佳秀(@Poyo_F)のことをよく知らない人もいるかもしれない。私の畏友で、一緒にサンクトペテルブルクに行ったりした(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/photos/qualiadiary/mogitamoridancesmall20060821.jpg)田森は、今、金沢で大学の先生をやっている。忙しいはずなのだが、その日常は驚くべきものである。

たわ(2)世の中には、こんな人間もいるのだ、ということを知るだけでも読者諸賢の参考になるだろう。もう二十年以上つきあっている私も、未だに驚くことがあるのだ。ツーソンに来て、一緒にご飯を食べているとき、田森は、突然、「オレ、モールス信号の資格持っていたんだった」と言った。

たわ(3)自分でモールス信号を生成して、それを文字に直す。それをコンピュータに入れて、正しいかどうか自動判定するソフトを試験前日に作って、一夜漬けで勉強して資格をとったという。こういう「大ネタ」を無数に持っているのが、田森佳秀(@Poyo_F)という男なのである。

たわ(4)ガイガーカウンターを作っているらしい、ということは知っていたが、先日会ったら、「あれから十種類試作した」という。そのうち一番いいのはなんとかという塩を使うやつで、ガンマ線が通ると光が出て、素子でカウントするんだそうだ。「最初は学生に数えさせようとしたんだけど」と田森。

たわ(5)ツーソンに来て、エクセルのデータを解析するのにUIが悪くてぶさくさ言ってたら、田森が妙に詳しい。どうしてだ、と問い詰めたら、大学の試験は、エクセルで入れて、数字と文字列を判定して自動採点するのだという。試験のやり方を聞いて私はのけぞった。田森は底知れず恐ろしいやつだ。

たわ(6)となりの学生の回答を覗いているやつがあるというクレームが来たので、田森は、すべての学生の問題用紙をオーダーメイドにしたのだという。「学籍番号から、ランダムに問題を並べるんだ」「え?」「問題用紙にそれぞれの名前が印刷されているから、自分のを見つけて回答しろと指示する」

たわ(7)「お前なあ、お前のまわりで、そんな面倒なことしているやついるのか?」「いない」orz 。アルゴリズムを緻密に実装する、その工数を全くいとわないところに、田森佳秀(@Poyo_F)の恐ろしさがある。週に10コマも授業をして、会議にも出て、なんでそんなにいろいろできるのか?

たわ(8)「お前、サヴァンだろう」というと、田森は、「そんなことはない」という。しかし、私は知っている。理化学研究所にいるとき、ある高名な脳の研究者が、「ああいう人の脳はね・・・」と田森のことを言っていた。田森佳秀の脳は、私が出会った中でもいちばんユニークなものの一つである。

たわ(9)いくらでも大ネタが隠れているから、学会に来て、田森とずっと話していても全く飽きない。鹿島神宮にある、地面から出ている部分は小さいけれども、どんどん掘っていくと大きくなって際限がない。そんな男が、わが畏友田森佳秀(@Poyo_F)である。その全貌は、未だにわからない。

2012年4月13日金曜日

東アジア情勢を見ると、アメリカを大切にするしかない

ひあ(1)昨日、ミサイル発射の警戒の中、仕事をしながら情報を手に入れようと滞在中のアリゾナ州ツーソンのホテルから、ニコ生につないだ。朝鮮中央テレ ビの放送をそのまま流していた。かつて、小学校の頃、モスクワ放送を聞いていたのを思い出して、独特の懐かしさがあった。

ひあ(2)朝鮮中央テレビというと、絶叫調のアナウンサーのニュースがすぐに思い浮かぶが、その他の番組は実は全く知らなかった。それが、ニコ生が流して くれたおかげで、軍人たちが出てくる妙なドラマを見ることができた。言葉はまったくワカラナイニダだけど、雰囲気は伝わってきた。

ひあ(3)それが、妙に惹きつけられる画面で、解析をしながら見入ってしまった。弾幕のコメントも盛り上がる。俳優から、なんとも言えない人間味がしみ出 してくる。思うに、イデオロギーが支配する独裁国家においても、生身の人間というものは、必ず肉体性を持ってしまうものなのだろう。

ひあ(4)北朝鮮の政体については同情の余地は全くないが、そこに住む生身の人間たちには、同情を禁じ得ない。この度のミサイル失敗でも、責任をとらされ る人たちがいるのだろう。ミサイル技術は難しいし、抑圧は決してよい結果をもたらさないが、そんなことが通じる相手だったら独裁などしていない。

ひあ(5)朝鮮中央テレビの妙に生々しいドラマを見たあと、眠ろうと横になっていたら、北朝鮮の政体 移行でどんなシナリオがあり得るのかと気になった。核兵器を持った国の政体移行には、独特の難しさ、リスクがある。そのあたりを、アメリカのインテリジェ ンスはどう考えているのか。

ひあ(6)核保有国が政体移行した例としてソ連からロシアがあるが、あの時もさまざまなリスクがあったはずだ。北朝鮮の崩壊に伴うリスクは、それと比べも のにならないくらい大きい。だから、イラクなどでは強制的な政体崩壊を迫ったアメリカも、北朝鮮に対しては慎重にならざるを得ない。

ひあ(7)それにしても、東アジアは、冷戦時代の「化石」のような北朝鮮がそのまま残り、中国は経済発展にもかかわらず特殊な政体を保ったままである。これからはアジアの時代だとは言われながら、地政学的なリスク要因は大きい。そんな地域に、私たちの国、日本はある。

ひあ(8)アジアにおいて、経済発展と民主化を遂げた国と言えば、日本、韓国、台湾がある。この三国がアジアの未来における希望である。そして、考えてみ ると、これらのどの国の歴史においても、アメリカの影響が決定的に重要であった。離れてアメリカからアジアを見ると、そのことが、実感される。

ひあ(9)第二次大戦中、戦後のさまざまがあっても、東アジア情勢を冷静に見れば、日本はアメリカを大切にするしかない。今回のミサイル発射も、独自の情 報網、技術では対応できなかった。アメリカとの同盟関係を軸に、東アジア情勢に向き合うしかない。とりあえず私はアメリカのビールを飲む。

2012年4月12日木曜日

砂漠よりも、熱帯雨林がいいね

さね(1)しばしば言われることだが、環境は人の思考を左右する。アリゾナ州ツーソンは砂漠だが、有名な「手を広げた」サワロ・サボテンを始め、豊かな植物相がある。ちょっと歩くとハチドリがぶんぶん飛んでいるし、チョウチョもいるし、バッタもいる。あまり会いたくないけど、ガラガラヘビも。

さね(2)イェルサレムのまわりに行くと、本当に砂漠で、しばしば言われることだが、こういうところでこそ一神教は誕生したのだなと思う。一神教は進化して、ニュートンの力学にまで結実した。『ふしぎなキリスト教』でも指摘されていたように、理神論がなければ、「奇跡」の概念もない。

さね(3)日本の自然風土は概ね温帯のおだやかなもので、八百万の神がいて統一など一切とれていない。しかし、明治以降、西洋式の理念が入ってきたから、インテリほど、一神教的イデオロギーを振り回すようになった。そのことの効用も弊害もあるけれども、現代日本においてはどうなのだろう。

さね(4)しばしば誤解されるが、現代の支配的パラダイムと言える「ダーウィニズム」は、決してモノカルチャーをもたらすのではない。熱帯のジャングルの豊かな生態系もまた、ダーウィンの進化論の結果である。すぐれた種、卓越したアイデアが支配的になるというモノカルチャーは、例外でしかない。

さね(5)ニュートンの機械論的宇宙観も、ダーウィニズムも、それが広々とした空間に適用された時には、画一性ではなく多様性をもたらす。二つの卓越した科学理論でさえそうなのだから、人間の考える思想やイデオロギーごときが、画一性を強制できるはずがない。

さね(6)現代においては、理念的であろうとする人ほど、社会の生態系を砂漠とのアナロジーで考える傾向がある。しかし、本当に目指すべきは熱帯雨林だろう。背後に単一の法則が隠れているかもしれないが、生物学的には多様である。インターネットがもたらす新文明もそうあるべきだ。

さね(7)昨日、不思議な夢を見た。なぜか、私は大阪市役所にいるのである。そして、大阪市の職員が、ずっと案内してくれている。その人が、とてもやわらかで、暖かい笑顔でいるので、私は思わず叫んだ。そうか、大阪市の改革が成功するための、条件がわかったぞ!

さね(8)かかわる人たちが、笑顔で、自らの主体性を持って、心の余裕を持って事に臨まなければ、改革など成功しない。そんなはっきりとした感触を夢の中で持った。そうしたら、夢の中で、大阪市の別の部屋に行ったら、おじさんが三人ふてくされてテレビを見て、さぼっているのだった。

さね(9)人間は、強制することなどおそらくはできないんだと思う。強制しようとしても、本当にその人の力や魅力を引き出すことなどできない。グローバリズムへの適応にしても、こっちの方が楽しいよ、とやるべきなので、その場合でも、砂漠ではなく熱帯雨林でなければならないのだろう。

2012年4月11日水曜日

最悪、二百五十年間鎖国が続いてもいいや、と覚悟を決めておけば腹も立たないんだよ

さに(1)アメリカに来て、いろいろ見たり聞いたりしていると、当然のことだが、英語ができるからと言って賢いわけでもセンスが良いわけでもないということがわかる。グローバル化の中、英語は必須だが、英語バカよりも実質賢い方がいいとは、急進的な私でも思うことである。

さに(2)会議が始まって、最初のスピーカーがいろいろしゃべっているけれども、必ずしもレベルの高いことや、深い洞察がそこにあるわけではない。もちろん、平均的な歩留まりはいいけれども、英語がうまいからと言って、聴衆をびっくりさせるような斬新なことが言えるわけでもない。

さに(3)英語学習においては、「実質」を重視するべきだと考える。明治以来、一生懸命日本語圏に輸入してきたから、英語をやる意味は、主に「差分」の中にある。インターネットや科学などの新発展、さまざまな分野を統合する新しい思想の中には、英語でないとアクセスできないものも多い。

さに(4)実用的な英語ができることは便利だが、別に大したことでもない。英語という言語そのものではなく、英語という言語の中でしか流通していない、実質的に興味を持てるものにフォーカスすることが、個人としても、国家としても、正しい戦略。英語バカをいくら量産しても仕方がないのである。

さに(5)海外における日本のプレゼンスは低下するばかり。国内の議論を見ていても、内向きのものが多い。しかし、危機管理の鉄則は、最悪の事態を想定してその準備をしておくことだから、「あるべき論」を振り回しても仕方がない。このまま日本がダメになったらどうなるか、心を決めておくべきだ。

さに(6)日本の弱点は、国内市場が十分に大きいことにある。メディアも大学も企業も、国内市場だけを相手にしていれば十分に「食える」から、外を見るという動機付けがない。一部の人は「貿易」や「翻訳」に携わるが、それは国内の全活動から見たら、ごく一部の例外に過ぎない。

さに(7)単純な経済規模のメカニズムから言って、日本人の中で、グローバルな舞台で丁々発止の戦いをする人は、これからも小さな割合にとどまるだろう。現状ではそんな人が少なすぎるから、すそ野を含めて拡大しようとしている。一方、一種の「鎖国」状態が続く事態も、想定しなければならぬ。

さに(8)国内市場ばかり見て動かない大学やメディアを見ていると腹も立つが、危機管理上も、精神衛生上も、最悪の事態を想定して覚悟を決め、対策を立てておいた方がよい。これからも、日本の大部分は鎖国メンタリティの中にあり続ける。それでもいいや、と思っていればまず間違いないだろう。

さに(9)早い話が、明治までは(一部の通路を除いて)日本は250年間鎖国を続けた。それでも、高度な独自の文化を築くことができた。十分大きな経済規模があることのメリット。最悪、鎖国が続いても仕方がないとあきらめて、有志で勝手に動けばいい。日本の将来は、まあ、そんなところでしょう。

2012年4月10日火曜日

美人とはなにか

びな(1)学会でアリゾナ州にいる。今朝ABCを見ていたら、何でもミスワールドか何かの大会で、ブロンドの参加者が実は生まれつきのブロンドではなかっ た、と失格になった、という話題をやっていた。大会委員長か何かが不動産王のドナルド・トランプとかで、「トランプふざけるな」とか言っている。

びな(2)西欧では、「ブロンド」こそが最高という美意識があるようだが、そのブロンド美人の象徴である、マリリン・モンロー(本名ノーマ・ジーン)は実 は染めたブロンドだということはあまり喧伝されない。いずれにせよ、美の基準というものは多分に政治的なものなのだろう。

びな(3)科学的には、美人は「平均顔」だと言われている。目の間の幅が、顔の幅の46%、目と口の間の距離が、顔の長さの36%だともっとも「魅力的」だと認識されるが、これは、全女性の平均値であることが知られている。

びな(4)また、男性が自分の容姿を棚に上げて美人を好む傾向があるのは、社会的な動物である人間にとって、多くの人が望む美人をパートナーとすること が、一つのステータス・シンボルだからと言われている。英語で、「trophy wife」(トロフィー妻)という言葉があるほどである。

びな(5)このように、美人の基準が社会性を背景にしているということは、当然そこに政治的強弱が絡むことになる。力を持つ男たちが、美人の基準を作る。 ミス・ユニバースの日本代表のメイクが日本人にとっては違和感があるとはよく言われることだが、そうしないと「世界標準」では勝てないのである。

びな(6)先日聞いた話では、ミスの世界大会の有力なスポンサーである中東の美意識を反映して、優勝者が選ばれる傾向があるという。要するに金を出す人たち(政治的に力を持つ人たち)が美の基準を決める。これは、美が社会的に構築される以上、仕方がないことなのだろう。

びな(7)このように、美というものは政治的なものであるが、一方、もっとも政治から自由なものでも ある。政治的権力というものは、自分以外の弱者を必要とする。独裁者は、従う国民がいなければ、無力である。ところが、美は、それ自体で完結している。美 を持つ者自体は弱いもので良い。

びな(8)政治権力や、お金持ちは、権力を行使したり、お金を使ったりする相手がいなければゼロに等しいが、美は、それ自体で完結している。ここに、美の 基準を作るものは権力であるのに、美自体は権力から独立しているというパラドックスが生じる。そのずれこそが、人々を魅了するのだろう。

びな(9)今朝見たABCの番組に戻る。ミス候補のブロンドが、生まれつきのブロンドではなかったと失格にするのは、美は無垢なものであるべきだという権 力者側の思い込みに由来している。一方、ミスを選ぶ不動産王トランプ氏は、お金の力で他者を従えて自分の価値を生む。なんと皮肉なことだろう。

2012年4月9日月曜日

公平とは何かということは、どの水準で考えるかで変わってくる

こど(1)アリゾナ州ツーソンのホテルにチェックインしてネットにつないだら、「IAEAは不公平」=鳩山氏発言として紹介-イランTV - 時事通信 http://bit.ly/HVQUL9 というニュースが入ってきた。鳩山氏が本当にこの趣旨の発言をされたのか不明だが、考えさせられる。

こど(2)公平という概念はきわめて難しいもので、既存の秩序を前提にしたときの「公平」と、より根源的な立場から考えたときの「公平」は異なる。そして、後者の「公平」を唱える者は、自然に革命家にならざるを得ないのであって、政治的には危険な道を歩むことになる。

こど(3)日本では、東日本大震災をきっかけに、原発をめぐる議論が盛ん。議論を深めることは大いに結構なこととして、日本の文脈で論じられないのは、世界的に見れば核の「平和利用」は、核兵器の存在と切り離せないという事実である。核兵器は「公平」でなく、非対称の関係が固定化されている。

こど(4)アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、インド、パキスタン、イスラエルという「核兵器クラブ」と、それ以外の国の間の非対称性は、国際政治を考える際の厳然たる与件である。この与件を前提に「公平」を考えるのか、それとも外して「公平」を考えるのかで、見え方は変わってくる。

こど(5)核兵器がこれ以上拡散することは人類の生存を脅かすから、IAEAの査察などを通して監視すべきだ。その趣旨はわかる。しかし、その際に前提になっているのは、「核兵器クラブ」の既得権は、そのままにしておくということである。その構造自体を問うということは、タブーとされてきた。

こど(6)核兵器所有国=常任理事国が作ってきた戦後の国際秩序。原発をめぐる議論にも影響を与える。脱原発に走るドイツ、日本、イタリアといった国の共通点は、第二次大戦の敗戦国で、核兵器を所有していないこと。一方、英国や米国では、原発が核兵器と密接なサイクルに組み込まれてしまっている。

こど(7)私自身は、「核兵器」は廃絶できるものならばするべきだと考えるし、その際は、現保有国も例外とすべきではないと考える。「公平」は、すでに核兵器を持ってしまっている国の「既得権」を認めるかどうかによって大きく変わってくる。そして、これは国際政治における虎の尾である。

こど(8)IAEAを初めとする、核の不拡散のための国際的な努力は、もちろん多とすべきである。政治的理由で核兵器を開発するのは、おろかだと悟らなければならない。その一方で、現保有国がそのまま保有し続けることを黙認するという不道義を放置することは、長い目で見て人類のためにならない。

こど(9)政治は可能性の芸術であり、現実的妥協は常に図られなければならない。現状から見て穏当な路線を追求することは、影響力のある人の責務であろう。一方で、原理原則、根源的な立場から見て何が「公平」なのか考察しておかないと、表面的に「平和」と言っても、底が浅くなる。

2012年4月8日日曜日

えいやっと決めてしまって、官僚機構が整合性をつける

えか(1)しばらく前に、シンガポールに行って、国会議員の人と話していた。電子教科書の話になって、「日本ではいろいろ議論があるんだけど」と言ったら、その人は「えっ!」と驚いた顔をしている。「シンガポールでは、とっくの昔に導入しています」。日本は今や後進国の認識である。

えか(2)韓国でも、年限を区切って、電子教科書への移行を完了することが決まっているという。それに比べて、日本の動きはあまりにも遅い。「紙の教科書の情緒が失われる」などといった、根拠の薄弱な守旧派の戯言につきあっているうちに、次世代のリテラシーを養う機会が失われていく。

えか(3)中村伊知哉さん(@ichiyanakamura)は、教科書の電子化への動きの中心にいらっしゃる方。慶応大学の教授をされているが、以前は官僚だったこともあって、実務的な知識とセンスに長けている。その中村さんが指摘されるように、電子教科書への移行にはさまざまな準備がいる。

えか(4)特に私が注目するのは、検定制度との絡みで、電子教科書になって、ネットへも接続することになった時に、今の一字一句まで揚げ足をとるような検定制度は、維持できない。教育の「標準化」という考え方が、オープンなネット環境になじまない。電子教科書が、日本の教育が変わる起爆剤となる。

えか(5)電子教科書化にはその他にもさまざま制度改正、準備がいるという中村さんの指摘はまっとうなものだろう。それに対する、@May_Roma さんの、「なんでそんな議論が必要なんだろう…狂った国だ」という反応も、至極まっとうなもの。だからこそ、このやりとりをおもしろいと思った。

えか(6)日本では、実務的な準備の大変さが、何もしないことのいいわけに使われることが多い。東大の秋入学への移行にしても、「こんなに準備が大変だ」といいわけをする人がいることは容易に想像できる。しかし、さまざまな制度の間の「整合性」をとることは、やろうと思えば案外できるんだよね。

えか(7)逆に言えば、霞ヶ関の官僚機構はさまざまな制度の間の整合性をとることは得意である。だから、電子教科書の導入は、たとえば「2015年までに完了する」と宣言して、決めてしまえばいい。それは、政治の役割。整合性をとる仕事は、優秀な官僚機構に任せればいいんだ。皮肉じゃないよ。

えか(8)改革というものは、細かい制度を変えて、整合性をとるという「積み上げ」では決してうまく行かない。えいやっと、大きな結論を最初に出してしまえばいいのである。その上で、後始末は淡々と実務的にやる。そのとうな時系列でやらないと、今やアジアの後進国である日本の現状は変わらない。

えか(9)先日Tokyo International Schoolに行った時、幼稚園の段階から、一人一台iBookを持っていて、ネットを調べながら授業を受けているのを見て、ああこれはダメだ、日本はもう絶対に勝てないと思った。一字一句まで検定する紙の教科書は、現代の恐竜である。

2012年4月7日土曜日

自分の意見に疑いを持たない人は、あやうい

じあ(1)この一年の日本の変化を見ていて、一番歓迎すべきことは、発言する人たちが次第に増えてきたことだろう。政治的な課題について、自分の意見を表明する人たちが表れてきた。ツイッター上でも、私がフォローしている人、そのRTだけを見ても、さまざまな意見が飛び交っている。

じあ(2)特に、英語で言うところのstrong opinionを持つ人たちが増えてきた。現状のここが問題で、未来はこうでなければならないと明快に主張する。橋下徹さんはその代表格だが、社会のさまざまな分野から、strong opinionの担い手が出てきた。

じあ(3)このような状況の変化は、ツイッターのようなソーシャル・メディアの登場に促されたことも事実だが、一方で日本という国がどうすることもできない状態になっていることとも関連する。最近は、「国が没落する時とはこういうものか」という思いを抱くことが多くなった。

じあ(4)「座して死を待つ」よりは、意見を表明した方がいい。そう思う日本人が増えてきたのだろう。これは歓迎すべき画期的な変化であり、日本の社会が、発展から没落のフェイズに入って、皮肉にも成熟してきた一つの証拠だろう。みんな大いに百家争鳴した方がいい。

じあ(5)ただ、気になることが一つある。それは、日本人独特の「空気を読む」感じが、意見の表明にも表れているように感じることである。たとえば、脱原発がトレンドになると、原発に反対する意見は書きやすいし言いやすい。橋下改革がトレンドになると、それに乗る意見は書きやすいし言いやすい。

じあ(6)死刑制度についても、国民の多数が存続に賛成の状況で、「被害者のことを考えろ」などという意見は、書きやすいし言いやすい。2ちゃんなどのローカルな文脈では、近隣諸国の悪口は、書きやすいし言いやすい。ソーシャル・メディアを飛び交う意見は、案外空気を読んだものだったりする。

じあ(7)タイムラインを見ていて、本当に価値があると感じるのは、「トレンド」に抗した反対意見を言っている人である。たとえば、橋下徹さんの力に私は期待をこめた注目をしているけれども、それに反対する内田樹さんの意見こそが、現在の日本では価値があるとどれくらいの人が気づいているだろう。

じあ(8)日本人が、strong opinionを言ったり書いたりするようになったのはよいことで、ただ、まだ練習、学習期間にあるのだろうと思う。時流に沿っていないことこそを、自分の判断で主張し続けられるようになったとき、日本の社会の成熟はほんものになったということになるのだろう。

じあ(9)自分の意見に疑いを持たない人は、あやうい。危うさは、「こうあるべき」というイデオロギー的決めつけが、時流と合ってしまったときに最大になる。強い意見を言うのはいいけれども、トレンドに乗ってかさにかかるのは価値の小さいことと、発言者は自覚した方がいい。

2012年4月6日金曜日

偶然の一致で、リアリティが立ち上がる

ぐり(1)あれは何年か前のこと。国際線の飛行機のトイレに入って、ふと考えた。もし、飛行中に急病人が出て、一刻を争う事態になったら、どうするのだろう? やっぱり、近くの空港に緊急着陸するのだろうか? そんなことを思いながら手を洗って、ドアを開けて外に出た。

ぐり(2)すると、飛行機の通路に中年の女性が仰向けに倒れている。ロシアか東欧の人の印象。フライトアテンダントが慌てて走っている。酸素吸入器のようなものを見つけて持ってきている。私は、まさに今トイレの中で急病人が出たらどうなるのだろうと考えていたばかりだったから、驚いた。

ぐり(3)幸い、その女性はしばらくすると立ち上がって、家族らしい人に支えられて座席に戻った。飛行機はそのまま運航を続けて、予定通り目的地に着いた。しかし、この一連の体験で、私はユングの言う「シンクロニシティ」(共時性)について改めて考えざるを得なかった。

ぐり(4)意味のある偶然の一致。ユングは、それを因果性を超えた何者かだとした。物理学の因果性の理解に基づけば、ユングの説は容れる余地はない。飛行機の中で急病人のことを考えて、実際に床に倒れている人がいた。現代科学に基づけばあくまでも偶然であって、因果性を超えているわけではない。

ぐり(5)小林秀雄が引用している話がある。ある時、女性が戦場で夫が倒れる夢を見た。実際にその時刻に夫が死んでいた。それを聞いたある人が言った。夫が死ぬ夢を見た人は何万人といるだろう。たまたま、その婦人が一致しただけで、一致しなかったケースは無数にあったはずだと。

ぐり(6)小林秀雄は、続けて言う。ある体験が正しいかどうか、の問題にしてはいけない。たとえ偶然だとしても、その婦人は夫が死ぬ夢を実際に見て、その通りになったのである。偶然だとしても、その主観的な体験の質こそが、問題なのだと。つまり、シンクロニシティを認知的にとらえること。

ぐり(7)たとえ、因果的に見れば偶然だとしても、実際に一致が起こったときに、私たちの世界観は揺らぐ。その揺らぎの中にこそ、祝福をもたらす何ものかがあるのであって、その体験が「正しい」とか「正しくない」とか論ずるのは、ナンセンスである。小林秀雄のこの考え方に、私も賛成する。

ぐり(8)リアリティが立ち上がるのである。机の上にコップがある。見るだけでなく、触れてみる。爪ではじいて、音を聞く。視覚、触覚、聴覚という異なるモダリティからの情報が一致して、コップのリアリティが立ち上がる。シンクロニシティも同じ。何ものかのリアリティが立ち上がり、動揺する。

ぐり(9)偶然の一致がたまたま起こったときに、今まで知らなかった、目に見えない世界のリアリティを感じる。それは、あくまでも私たちの脳内現象の中にある。河合隼雄さんは、共時性を大切にすると何倍も豊かな人生を送れると言っていた。目に見えない世界のリアリティは無限だからだろう。

2012年4月5日木曜日

猫ひろしさんの挑戦は現代アートなんだけど、そのことを言わないのが一番いい

ねそ(1)新聞を読んでいたら、猫ひろしさんがカンボジア代表としてロンドン五輪に出場するというニュースについて、共同通信が配信した「核心評論」という記事が載っていた。そのことをきっかけに、猫さんの挑戦について考えたことがあるので、そのことを今朝は書きたい。

ねそ(2)共同通信記事は、基本的に猫ひろしさんの挑戦に対して批判的である。「五輪憲章」は、「選手による自身の競技パフォーマンスの宣伝目的使用を明 確に禁止している」とする。そして、猫さんが芸人としてのパフォーマンスの一環として五輪に出場するならば、五輪憲章違反だとするのである。

ねそ(3)また、共同通信記事は、猫さんの国籍変更についても「違和感をぬぐえない」とする。この点については、他でも批判されているの見た。国籍には歴 史的、文化的な「重み」があり、五輪出場のために「便宜的に変更する」のは軽率であるという意見を表明する論者が、あちらこちらにいる。

ねそ(4)私は、猫ひろしさんの「カンボジア代表として五輪に参加」という挑戦を否定的にとらえる論 調に出会う度に、「いちいちごもっとも」と思いながら、結論としては猫さんを応援したいと思う。「良識派」が唱える違和感の中にこそ、まさに、猫さんの挑 戦の意義があると考えるからである。

ねそ(5)本質は、そもそも論の中にある。そもそも、なぜ五輪は国別の代表、というかたちをとっているのか? なぜ、国別にメダル獲得数を競ったりするの か? 現代の意識とはずれていないか? 100メートルの日本代表も応援したいけれども、ボルト選手の走りも見たいだろう。

ねそ(6)「国籍」とは何か。進化論的には群淘汰で説明されるのだろう。文化的、遺伝的につながった集団。国と国との戦争では、相手をあやめても自分たち の利益を図ろうとする。絶対的な自由や平等とは真逆の、やっかいで現実に存在する「国」というもの。「国」って、そもそも何なのか?

ねそ(7)国というものの成り立ちが冷徹な現実として存在するとして、五輪がそのような国家概念の上に乗っかったものだとして、猫ひろしさんの挑戦を批判 する人は現状を肯定し、にゃあにゃあ走る猫さんを否定する。だけどね、たとえ2時間30分でも、体を張って走るの、大変なんだよ。

ねそ(8)猫ひろしさんの挑戦は、まさに、国とは何か、五輪とは何かという既成概念を揺るがし、もう一度考えさせるからこそ価値がある。揺るがないと、生 命はすぐに陳腐化する。猫さんの挑戦で、五輪に対する、そして何よりもカンボジアという国に対する関心が高まったのはよいことではないか。

ねそ(9)国や五輪の成り立ちについて考えさせる。猫ひろしさんの挑戦は、一つの「現代アート」と言える。そのことを言わずに、あくまでもまじめにマラソ ンに挑戦することが、一番価値があるだろう。「正論」を唱えて反対する人たちも、実際に猫さんが走っているのを見れば、心が動くと思うよ。

2012年4月4日水曜日

立ち止まるためのこだわりから、進むためのこだわりへ

たす(1)先日、4月2日に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、久しぶりに番組に参加させていただいた。@nhk_proffのスタッフの、相変わらずの濃密な仕事ぶりに感銘を受けた。番組のテーマは、「プロのこだわり」。番組の準備をしている中で、あることに気づいた。

たす(2)「こだわり」というと、世間では、なんとはなしに「頑固」だとか「融通が利かない」というような意味でとらえられることが多い。たとえば、「がんこ親父がかたくなに自分のやり方を守る」というような。しかし、『プロフェッショナル』が焦点を当てた「こだわり」は、少し違っていた。

たす(3)たとえば、すでにおいしいパンができているのに、さらにあるはずだ、もっとあるはずだと工夫を重ねる。レシピを、誰でも、どんな状況でも実行できるものへと「ヴァージョン・アップ」させていく。現状に満足せず、さらに先を目指す動機付けとしての「こだわり」があるのである。

たす(4)テレビのグルメ番組などで、「開店以来同じやりかたを貫いている」と紹介されるような時の「こだわり」は、いわば立ち止まり、踏みしめて、変わらないための「こだわり」である。それはそれで価値があることかもしれないが、進むための「こだわり」は、より現代的で、普遍的だ。

たす(5)今のやり方でも、よい成果が上がっている。周囲からも評価され、自分なりの充実感もある。それでも、「これではまだダメだ」という「根拠のない不満足」を持って、さらによいものを追求すること。そのような休むことのない魂のよりどころとしての「こだわり」が、番組では描かれた。

たす(6)スティーヴ・ジョブズは、たくさんのボタンがついていたスマートフォンの現状に満足しなかった。ボタンは一つ。そして、立ち上がるアプリに応じて、柔軟にボタンが配置されるような、そんな新しいかたちがあるはずだという「こだわり」が、iPhoneに結実した。

たす(7)メディアのありかた、大学のあり方、働きかた。生き方。日本の社会の中で、本当は変えた方がいいはずのものはたくさんあるはずだ。今までのやり方に固執する「こだわり」ではなく、よりよいやり方をあくまでも模索する「こだわり」を、みんながもっと持った方がよい。

たす(8)ジョブズさんもそうだったが、現状に満足しない、進むための「こだわり」を持つ人は、必ず現状と摩擦を起こす。それでも、安易に妥協せずに、自分のヴィジョンを信じて突き進むこと。現代社会に求められている「こだわり」は、そのようなダイナミックで熱き心だろう。

たす(9)進むための「こだわり」を持つためには、まずは自分のヴィジョンと、現実との「差分」に敏感であること。日本はそれなりに豊かな国になったが、まだまだ満足してはダメだ。「根拠のない不満足」を持ち続けて、突き進もう。「こだわり」を、立ち止まるためのいいわけにしてはいけない。

2012年4月3日火曜日

笑いの送り手は、いつも探っている

わい(1)アメリカで『となりのサインフェルド』(Seinfeld)という人気コメディ・ドラマの脚本、主演をしていたジェリー・サインフェルドは、スタンドアップ・コメディアン。彼が、笑いの新ネタを舞台にかけるときの心境について、次のような興味深い証言をしている。

わい(2)新しい笑いのネタを舞台にかけることは、外科医が練習をせずにいきなり手術をするようなものとサインフェルドは言う。果たして笑ってもらえるかどうか。その境界をぎりぎり探るのが、コメディアンの使命。それは微妙なバランスの行為。笑いはもともと不安や恐怖を起源とするからだ。

わい(3)笑いの進化的起源として有力な「偽の警告仮説」。危険が迫っている、と仲間に知らせたあとで、違っていたとわかったときに、笑って安心させる。男がバナナの皮にすべって転ぶという古典的な笑いの文法を見てもわかるように、あぶないところに突っ込んでいかないと、笑いは得られない。

わい(4)難しいのは、どのようなところまでは笑ってもらえて、どこからは笑ってもらえないのかという境界が、社会や文化、時代によって異なるということ。だから、笑いの送り手は、いつも危険な手探りをしなければならない。時には行き過ぎて傷を負うことがあっても、それは一つの勲章だ。

わい(5)イギリスの人気コメディ『リトル・ブリテン』の二人がきたとき、おもしろいことを言っていた。イギリスでは、伝統的に王室も笑いの対象とする。ところが、ダイアナ妃の事故死のあとは、しばらく、王室ネタの笑いが避けられる傾向があったという。何を笑ってもらえるかという境界は変動する。

わい(6)日本では、人種や国籍、宗教による差別や、格差の問題といった、社会の本当にきびしい側面についての笑いは避けられることが多い。これも、コメディアンの資質と同時に、「市場」の圧力を反映する。「笑ってもらえないんですよね。」あるテレビ関係者が、さびしそうに言っていた。

わい(7)そんな日本でも、笑いの天才、大御所たちはいつも「笑ってもらえる」と「笑ってもらえない」の境界をさぐっている。タモリさんやビートたけしさんと収録をご一緒すると、「これは放送では使えないだろう」というようなことを時々言われる。それが、スタジオが爆笑するほどおもしろい。

わい(8)たとえ、「最大公約数」という「市場」の圧力から見れば放送できないようなことでも、編集前の現場では、あえて話してみて反応を見る。そのような、ダイナミックな手探りをしないと、もともと「不安」や「恐怖」を起源とする「笑い」をいきいきと保つことはできない。

わい(9)「笑い」の効用は、ついつい凝り固まってしまう問題についての見方を柔軟にすることである。硬直した世界観を超えてやわらかな風が吹いてくるからこそ、笑いには恵みがある。だから、社会がついムキになったり、しびれてしまうようなネタこそを、笑いの対象にする価値がある。

わい(10)@nhk_pr さんのツイッター上での活動は、以前から注目、評価されていた。お堅いイメージのあるNHK。ユーモアをまじえたPRは、NHKの公共放送としての課題である「若者の接触率」向上に貢献していたという点において、「職務」の本分にそったものである。

わい(11)その@nhk_pr さんが、4月1日に送ったエイプリル・フールのツイートが、一部の人の苦情によって削除されたという。これは、残念なことである。まずは、笑いの本質から。見方が硬直化しがちなテーマについてこそ笑いの価値がある。@nhk_pr さんは、その境界を探ったのだ。

わい(12)苦情を寄せた方が、自分の良識や良心に沿って意見したことは信じる。しかし、笑いの本質として、必ず一部の人にはひんしゅくを買うような構造になっているということを、もっと社会の常識として共有したい。BBCで好評のコメディにも、イギリスの「良識派」から苦情は寄せられるのだ。

わい(13)いつもより長い連続ツイートを、そろそろまとめよう。笑いの起源は不安や恐怖である。そして、凝り固まった見方をほぐす点において、笑いは私たちの生命に資する。笑えるかどうかの境界はつねに探らなければならない。良識派の反発は、むしろ勲章だ。

2012年4月2日月曜日

ひとはひとりで生きるにあらず、国家も一国で生きるにあらず

ひこ(1)北朝鮮が「人工衛星」を打ち上げると予告している。国際社会との先の「合意」に違反する重大な挑発行為だと韓国、日本、米国などの関係国が反発している。懸念される事態なのはもちろんだが、私は例によって少し違う視点から気になることがあったので、今朝はそのことを考えてみたい。

ひこ(2)地球は小さな村になったが、未だに私たちはそれぞれの主権国家の中に住んでいる。ヨーロッパのように国家統合への試みを始めた先進的地域もあるが、世界のリアリティにおいては未だ「国家」が基本をなす。アメリカとカナダのようにほとんど同じじゃないかという場合も「国家」の壁がある。

ひこ(3)「主権国家」は、英語のsovereigntyという単語のニュアンスからもわかるように、ある地域においては絶対的な権限を持つ。たとえば、北朝鮮の政府にどんなに大きな問題点があるとしても、その「領土」の中では、とりあえずは他国の干渉を許さぬ、不可侵の権利を持つことになる。

ひこ(4)「主権国家」はどんな意志決定をしてもいいということになっている。実際、アメリカもロシアも中国も過去に核兵器を開発してきたし、それを地球上どこにでも「届ける」「運搬手段」たる長距離ミサイルも開発してきた。人類の平和を脅かす行為であるが、「主権国家」なのだから仕方がない。

ひこ(5)もし、地球上の主権国家が規模の大小、経済力、統治機構の性質にかかわらず「平等」ならば、アメリカやロシアが核兵器やミサイルを開発、保持するのが「自由」なように、北朝鮮がミサイルを開発、保持するのも「自由」なはずである。しかし、それでは困ると私たちは思っている。なぜか。

ひこ(6)関連する事情や、前提となる世界観は複雑で、中学校あたりでぜひ討論の材料にするべきだと思うが、ロシアやアメリカが核兵器やミサイルを保持することは許されるのに、北朝鮮がそうすることは許されない、という私たちの認識は、私たちの国際政治観を振り返る上で非常に興味深い。

ひこ(7)本質は、主権国家といえども国際的な関係性にあるということ。その国土の中では何をしてもいい、という「主権」の概念自体が、もう時代遅れなのだろう。人権原則に基づく働きかけは「内政干渉」ではないし、非民主的な政府の存在は、その国だけでなく地球全体にとっての脅威である。

ひこ(8)伝統的な意味での「主権」概念に基づく国内政治に比べて、国と国との関係を司る「国際政治」の比重が増している。この点から懸念されるのは、「回転ドア」と揶揄されるように、日本の首相の在任期間が短すぎること。官僚機構が継続性を支えるとは言っても、それは国内だけのことである。

ひこ(9)主権国家といえども、他国と継続的で実務的な交渉ができない場合は地球的「禁治産者」と同様である。北朝鮮政府がその禁治産者に近い扱いを受けることは仕方がないとして、気をつけないと日本政府も危ない。国内で、コップの中の嵐に右往左往している場合ではないだろう。

2012年4月1日日曜日

他の人と、違うことをすると活性化する脳回路の発見について

ほち(1)周知のように、前頭葉にはミラーニューロンがある。自分がある動作をしていても、他人が同じ動作をするのを見ていても活動する。以前から、他人の心を読み取る「心の理論」を支えることはわかっていたが、最近になって、感情と結びついた新しい機能を果たしていることが報告された。

ほち(2)すなわち、ミラーニューロンが、「安心」の感情と深く結びついていることがわかったのである。他人と自分が同じ行動をとっていると安心する。鏡に映したように、世間と自分の価値観が一致していると安心する。そんな働きを、ミラーニューロンが果たしていることがわかった。

ほち(3)ミラーニューロンの「安心」作用を国際的に比較した研究によると、日本人はとくに自他一致の際の活動が高いことがわかった。赤信号は通常「警告ニューロン」の活動を引き出すが、みんなで渡っていると、この警告ニューロンの活動が、ミラーニューロンによって抑制されることもわかった。

ほち(4)自分と他人が同じことをしているとほっとするミラーニューロンの「安心作用」には、個人差が大きい。一部の被験者では、違うことをやっていると発火する「警告ニューロン」の活動が低い。それどころか、むしろ他人と違うことをやっていないと不安になるという、希なケースもある。

ほち(5)米国の裁判所で、審判員の評決において11対1で反対し、昼食に他の人がみなチーズバーガーを頼んだのに一人だけフィレオフィシュを頼んだ被験者の脳を調べたところ、他人と違う行動をとった時にだけ、活動する神経細胞が見つかった。この被験者は、違う行動をとらないと満足しないのだ。

ほち(6)最近の研究によると、相対性理論を発表した当時のアルベルト・アインシュタインの行動には、「逆転ミラーニューロン」で説明できる点が多い。時間や空間について、世間と同じ認識をしているとむしろ安心できず、わざと違うことを考える、天の邪鬼な特性の記録が残っているのである。

ほち(7)アインシュタインは、高校をドロップアウトして、無国籍となってヨーロッパを放浪していた。教授を敬称で呼ばずに恨まれて、同級生の中で唯一職をもらえず干された。他人と違う行動をとることが報酬となる「逆転ミラーニューロン」の活動の結果と推定される。

ほち(8)文部科学省は、このような研究を受けて、「他の人と違うことをする」ことを評価する新教育指導要領の作成に着手した。評価する教員の側の基準もまちまちであり、文科省の指導に従うと、降格される。また、教科書検定において、指導要領外の内容があると花まるをつける運用を始めた。

ほち(9)他人と同じだと安心する脳と、違うことを報酬と感じる脳の差は、背外側前頭前皮質の近傍にある「逆転回路」の作用によってもたらされる。文科省は、今年度から、逆転回路を刺激する装置を各学校に配置することを決め、文部科学大臣室と、東京都教育委員会にはすでに配置を完了した。