2012年4月3日火曜日

笑いの送り手は、いつも探っている

わい(1)アメリカで『となりのサインフェルド』(Seinfeld)という人気コメディ・ドラマの脚本、主演をしていたジェリー・サインフェルドは、スタンドアップ・コメディアン。彼が、笑いの新ネタを舞台にかけるときの心境について、次のような興味深い証言をしている。

わい(2)新しい笑いのネタを舞台にかけることは、外科医が練習をせずにいきなり手術をするようなものとサインフェルドは言う。果たして笑ってもらえるかどうか。その境界をぎりぎり探るのが、コメディアンの使命。それは微妙なバランスの行為。笑いはもともと不安や恐怖を起源とするからだ。

わい(3)笑いの進化的起源として有力な「偽の警告仮説」。危険が迫っている、と仲間に知らせたあとで、違っていたとわかったときに、笑って安心させる。男がバナナの皮にすべって転ぶという古典的な笑いの文法を見てもわかるように、あぶないところに突っ込んでいかないと、笑いは得られない。

わい(4)難しいのは、どのようなところまでは笑ってもらえて、どこからは笑ってもらえないのかという境界が、社会や文化、時代によって異なるということ。だから、笑いの送り手は、いつも危険な手探りをしなければならない。時には行き過ぎて傷を負うことがあっても、それは一つの勲章だ。

わい(5)イギリスの人気コメディ『リトル・ブリテン』の二人がきたとき、おもしろいことを言っていた。イギリスでは、伝統的に王室も笑いの対象とする。ところが、ダイアナ妃の事故死のあとは、しばらく、王室ネタの笑いが避けられる傾向があったという。何を笑ってもらえるかという境界は変動する。

わい(6)日本では、人種や国籍、宗教による差別や、格差の問題といった、社会の本当にきびしい側面についての笑いは避けられることが多い。これも、コメディアンの資質と同時に、「市場」の圧力を反映する。「笑ってもらえないんですよね。」あるテレビ関係者が、さびしそうに言っていた。

わい(7)そんな日本でも、笑いの天才、大御所たちはいつも「笑ってもらえる」と「笑ってもらえない」の境界をさぐっている。タモリさんやビートたけしさんと収録をご一緒すると、「これは放送では使えないだろう」というようなことを時々言われる。それが、スタジオが爆笑するほどおもしろい。

わい(8)たとえ、「最大公約数」という「市場」の圧力から見れば放送できないようなことでも、編集前の現場では、あえて話してみて反応を見る。そのような、ダイナミックな手探りをしないと、もともと「不安」や「恐怖」を起源とする「笑い」をいきいきと保つことはできない。

わい(9)「笑い」の効用は、ついつい凝り固まってしまう問題についての見方を柔軟にすることである。硬直した世界観を超えてやわらかな風が吹いてくるからこそ、笑いには恵みがある。だから、社会がついムキになったり、しびれてしまうようなネタこそを、笑いの対象にする価値がある。

わい(10)@nhk_pr さんのツイッター上での活動は、以前から注目、評価されていた。お堅いイメージのあるNHK。ユーモアをまじえたPRは、NHKの公共放送としての課題である「若者の接触率」向上に貢献していたという点において、「職務」の本分にそったものである。

わい(11)その@nhk_pr さんが、4月1日に送ったエイプリル・フールのツイートが、一部の人の苦情によって削除されたという。これは、残念なことである。まずは、笑いの本質から。見方が硬直化しがちなテーマについてこそ笑いの価値がある。@nhk_pr さんは、その境界を探ったのだ。

わい(12)苦情を寄せた方が、自分の良識や良心に沿って意見したことは信じる。しかし、笑いの本質として、必ず一部の人にはひんしゅくを買うような構造になっているということを、もっと社会の常識として共有したい。BBCで好評のコメディにも、イギリスの「良識派」から苦情は寄せられるのだ。

わい(13)いつもより長い連続ツイートを、そろそろまとめよう。笑いの起源は不安や恐怖である。そして、凝り固まった見方をほぐす点において、笑いは私たちの生命に資する。笑えるかどうかの境界はつねに探らなければならない。良識派の反発は、むしろ勲章だ。