2012年4月19日木曜日

そんなに検定が好きならば、自分でつくって勝手にやったら

そじ(1)先日、「クイズダービー」の収録のとき、解答を書こうとして、「記憶力」の「憶」が本当に「憶」というかたちなのか、何となく不安となった。い わゆるゲシュタルト崩壊というやつ。そういえば、最近手書きでものを書くことが、ほとんどない。コンピュータで変換してしまう。

そじ(2)これはまずいな、と思って、一週間前、コンビニでノートを一冊買った。今朝、思っていたことを初めて実行してみた。iPadで青空文庫から「我 輩は猫である」をダウンロードして、写し始めたのである。「しばらくすると非常な速力で運転し始めた」まで書いたところでページが一杯になった。

そじ(3)今朝、Hip Hopの検定をする団体が出来た、という天下の珍事のニュースを知ったから、その連想で前からやろうと思っていた『我が輩は猫である』の書写を始めたので ある。飽きなければ、最後までやってみようと思う。なにしろ名文であるし、漱石は実際に書いたのだから。

そじ(4)「漢字検定」というものがあることは知っているけど、全く関心がない。脳は目標を立てて、それを実行することで満足するものだが、目標は自分で 立てるのが良い。英検も一応一級まで受けたけど、あまり感激しなかった。当然TOEICなどは目もくれない。英語の基準は自分でたてるのが良い。

そじ(5)振り返れば、私の人生の「英語」の検定は、15歳で初めてバンクーバーに行ったとき、ホストファミリーのトレバーとランディー(当時10歳と8 歳)にいきなり「人生ゲーム」をやらされたのがそうだろう。子どもだから手加減しない。結婚とか、卒業とか、そんな会話は大変だった。

そじ(6)バンクーバーではコミュニティ・カレッジに行ったが、最後に英語でコマーシャルを作らされた。ネイティブの前で、遊び人の大学生とスタンドアッ プ・コメディをやった。なんとか受けたが、15歳にして良質の英語検定だったと思う。赤毛のアンの原書を読み通したのも、一つの検定だ。

そじ(7)大学院の時に初めて英語で論文を書いたのも検定だったし、この前TED Long Beachでしゃべったのも検定だ。英語で学会発表するのも検定だ。検定機会なんて生きているなかでいくらでもあるのであって、何もTOEICのような無 味乾燥な試験に検定を丸投げする必要などない。

そじ(8)日本人は検定好きらしいが、結局人生を質入れしたり、丸投げしているのだろう。自分で基準を作って、そのためにがんばれば、人生なんて毎日が検 定だし、それについて他人にとやかく言われる必要はない。お仕着せの検定で得られるのは大勢迎合の安心感と、個性の喪失である。

そじ(9)ドイツ語を熱心にやっていたとき、マイスタージンガーを最初から最後まで訳したことがあったな。まだノートがどこかにあるはずだ。検定なんて、 そんなに好きならば、自分で基準を作ってさっさとやればいいんだよ。なんとか協会のおじさんたちに認めてもらう必要など、私の人生にはない。