2012年4月6日金曜日

偶然の一致で、リアリティが立ち上がる

ぐり(1)あれは何年か前のこと。国際線の飛行機のトイレに入って、ふと考えた。もし、飛行中に急病人が出て、一刻を争う事態になったら、どうするのだろう? やっぱり、近くの空港に緊急着陸するのだろうか? そんなことを思いながら手を洗って、ドアを開けて外に出た。

ぐり(2)すると、飛行機の通路に中年の女性が仰向けに倒れている。ロシアか東欧の人の印象。フライトアテンダントが慌てて走っている。酸素吸入器のようなものを見つけて持ってきている。私は、まさに今トイレの中で急病人が出たらどうなるのだろうと考えていたばかりだったから、驚いた。

ぐり(3)幸い、その女性はしばらくすると立ち上がって、家族らしい人に支えられて座席に戻った。飛行機はそのまま運航を続けて、予定通り目的地に着いた。しかし、この一連の体験で、私はユングの言う「シンクロニシティ」(共時性)について改めて考えざるを得なかった。

ぐり(4)意味のある偶然の一致。ユングは、それを因果性を超えた何者かだとした。物理学の因果性の理解に基づけば、ユングの説は容れる余地はない。飛行機の中で急病人のことを考えて、実際に床に倒れている人がいた。現代科学に基づけばあくまでも偶然であって、因果性を超えているわけではない。

ぐり(5)小林秀雄が引用している話がある。ある時、女性が戦場で夫が倒れる夢を見た。実際にその時刻に夫が死んでいた。それを聞いたある人が言った。夫が死ぬ夢を見た人は何万人といるだろう。たまたま、その婦人が一致しただけで、一致しなかったケースは無数にあったはずだと。

ぐり(6)小林秀雄は、続けて言う。ある体験が正しいかどうか、の問題にしてはいけない。たとえ偶然だとしても、その婦人は夫が死ぬ夢を実際に見て、その通りになったのである。偶然だとしても、その主観的な体験の質こそが、問題なのだと。つまり、シンクロニシティを認知的にとらえること。

ぐり(7)たとえ、因果的に見れば偶然だとしても、実際に一致が起こったときに、私たちの世界観は揺らぐ。その揺らぎの中にこそ、祝福をもたらす何ものかがあるのであって、その体験が「正しい」とか「正しくない」とか論ずるのは、ナンセンスである。小林秀雄のこの考え方に、私も賛成する。

ぐり(8)リアリティが立ち上がるのである。机の上にコップがある。見るだけでなく、触れてみる。爪ではじいて、音を聞く。視覚、触覚、聴覚という異なるモダリティからの情報が一致して、コップのリアリティが立ち上がる。シンクロニシティも同じ。何ものかのリアリティが立ち上がり、動揺する。

ぐり(9)偶然の一致がたまたま起こったときに、今まで知らなかった、目に見えない世界のリアリティを感じる。それは、あくまでも私たちの脳内現象の中にある。河合隼雄さんは、共時性を大切にすると何倍も豊かな人生を送れると言っていた。目に見えない世界のリアリティは無限だからだろう。