2012年5月31日木曜日

いきいきとした会話が、楽しかったね

いた(1)池上高志(@alltbl)が呼んでくれている駒場のオムニバス授業。毎年楽しみにしている。昨日は、裏門からふらふら歩いていたら、池上が後ろからどーんとやってきて驚いた。池上のTED オーディションの話を聞きながら、15号館の方に歩いていった。お腹が空いたから、弁当食べた。

いた(2)教室に入って、まず、東大とハーバードの入試の違いの話をした。ハーバードは、偏差値では予想できない入試をしている。市川海老蔵や五輪メダリストのような人材が、ハーバードだったら入れるけど、東大だと入れない。そのことをどう思うか、と問いかけた。

いた(3)そしたら、海城から来たという3年生の橋本くんが、人材の多様さよりも、東大は学問の最先端でいい、と言う。ぼくが、学問のあり方も変わっている、ネットも重要、ザッカーバーグみたいな人材が出るような大学は、多様性が大切と言ったら、橋本くんはザッカーバーグは要らない! と言った。

いた(4)ぼくは驚いて、「お前、同じ大学にザッカーバーグみたいなのがいない方がいいのか!」と言ったら、橋本くんは「そうだ」という。「ネット・ベンチャーとか、本物の学問に比べたらちゃらちゃらしている」と橋本が言う。ぼくは「へえ」と驚いた。グーグルとかこそ、今の学問なんじゃないの?

いた(5)大量のデータをどう滞留させないで処理するとか、効率よいアルゴリズムとか、グーグルとかフェイスブックとか、学問の塊だと思うよ、と言うと、橋本くんはまじめに聞いている。いいやつだ。授業が終わって、池上とかとファカルティ・クラブでしゃべると言ったら、橋本くんを始め何人かきた。

いた(6)ファカルティ・クラブでビール飲みながら話してたら、橋本くんが、「大学は象牙の塔でいい」という。お前、ザッカーバーグみたいなのが出て、大学にたくさん寄付してくれた方がよくないか、というと、橋本くんは、そういうのは東大以外でやればいい、なんて言っている。

いた(7)そこで、ぼくは言った。ハーバードにしても、ケンブリッジにしても、大学が独自の財源を持っているから、学問の自由を保てる。日本の大学は、金を出している文科省のいいなりじゃないか。ザッカーバーグが出て、自分で資金を得るということは、学問の自由につながるんだよ。

いた(8)チャールズ・ダーウィンは、一生学問しかしなかった人だけど、それができたのは財産があったから。だから、君の言う学問の自由と、お金という世俗的なものはつながっているだろう。そこまで言ったら、橋本くんにもわかってもらえたようだった。良かったヨカッタ。ビールで乾杯。

いた(9)そこに岡ノ谷一夫さんも来て、池上高志と「教授トーク」が始まった。大学の現場の感覚を、橋本くんをはじめとする学部生たちは「へえ」と聞いていたに違いない。いきいきとした会話ができて、ヨカッタ。現状にはいろいろ問題があるけれども、君たちが未来を開くんだよ。

2012年5月30日水曜日

古い文化と、新しい文化

ふあ(1)今森光彦さんと雑木林を歩く、という至高の時間のあと、新幹線に乗って品川駅にきた。途中の公園のベンチで原稿を書いて助川さんに送り、ホテル・オークラまで歩いた。Human Rights Watchのチャリティー・ディナーに出席するためである。

ふあ(2)土井香苗さん(@kanaedoi)に、「29日は空いているか」と聞かれたから、「空いてるよ、行くよ」と答えたんだけど、実は数日前まで何の会なのか、よくわかっていなかった。ホテル・オークラに着いたら、つまりfund raisingのためのチャリティ・ディナーだとわかった。

ふあ(3)ビデオでHuman Rights Watchの活動を紹介していたけども、本当に価値ある仕事をされていると思う。チュニジアや、エジプトなどで、当局による人権侵害を、客観的事実として確立し、それを世界に訴えかける。そのために、地道な調査を行っている。

ふあ(4)例えば、独裁国家がデモ参加者に発砲するなどして死者が出たとしても、当局の発表では死者数が小さい場合がある。そんな時、Human Rights Watchは死体置き場を回って、数をカウントし、発表する。そのことによって、国際社会が動くのである。

ふあ(5)Human Rights Watchによれば、現在の緊急課題はシリア情勢で、その対応、その他の活動をするための資金を得るためのチャリティ・ディナー。途中で現代アートのオークションがあったり、黄帝心仙人さんのダンスがあったりなど、いきいきとした内容だった。

ふあ(6)そして、そこには新しい文化があった。出席者の間に、old money(古いお金)は少なく、cloud fundingやってますとか、ベンチャー支援やってますとか、そんな若者がたくさん。経団連の企業の影は、きわめて薄かった。政治家の影も薄かった。

ふあ(7)土井香苗がスピーチしろ、というから、立って話しているうちに小噴火。「日本は経済規模に比して人権擁護に寄与していない。何か論争的なことを言うとお前は朝鮮人だろう、とか2ちゃんやツイッターでいうバカがいる。政治家の人権意識も低い」とやったら、大受けした。どうも、スミマセン。

ふあ(8)世界には、古い文化と新しい文化が歴然としてあって、それは欧米とかそういうこととは関係がない。孫泰蔵さんとか、夏野剛さんが近くの席だったけど、こういう新しい文化の人たちと吸う空気と、日本国内の古い文化の人たちが醸す空気は全く違う。だけど、時代はすでに変わりつつある。

ふあ(9)最近、ツイッター上の論争などを一回りして思うこと。古い文化のことはもう気にしなくて、新しい文化に専念すればいい。Human Rights Watch、これからも応援しています。立派な「文化人」が、「人権なんて」とほざく日本の「古い文化」は、どうせそのうち消えるでしょう。

2012年5月29日火曜日

健康で文化的な最低限度の生活って、なんだろう

けな(1)このところ、生活保護をめぐる報道があついでいる。国の経済が悪化して、生活保護費の総額が増大する中、何人かの有名人の親族の受給について、報道があいついだ。その中で、複数の国会議員や大臣が制度の見直しに言及するに至っている。いくつか感じたことがあるので、そのことを書く。

けな(2)まずは、報道に接して、だからあいつはこうだとか、決めつける人がツイッター上に見受けられたこと。親族のことは他者には容易にわからないし、いろいろな事情があるのかもしれない。決めつけるのはラクだが、それ以上に深まりもしない。想像力を欠いた断言は、魂の貧困である。

けな(3)ところが、現実に会って話してみると、そんなに決めつけている人は多いわけではない。ツイッター上では常に起こることだが、決めつけたり極論を吐く人の割合が、現実よりも多めに知覚されてしまう。実際の市民たちは、より健全で複合的な見方をしているというのが体感値である。

けな(4)ところで、そもそも生活保護とは何だろう。周知の通り、憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定める。小宮山大臣は支給額の引き下げに言及しているが、「健康で文化的な最低限度」が、変化したとでも言うのだろうか。ならばその根拠は?

けな(5)そもそも、「健康で文化的な最低限度の生活」とは何だろう? 報道をきっかけに起こっている議論は、支給の有無や支給額にだけ言及しているが、お金さえあれば「健康で文化的」と言えるわけではない。むしろ、もっと大切なことの一つは、人とのつながり、コミュニケーションである。

けな(6)ホームレスの方が販売する雑誌Big Issueを熱心に支持するのは、まさにそれがお金だけではない価値を生むから。路上で寝ていても、みんなまるで存在しないかのように通り過ぎる。雑誌を売ることで、会話が起こる。やりとりが生まれる。そのことが、どんなに支えになることか。

けな(7)北九州でホームレス支援の活動を続ける奥田知志さんは、「ベーシック・サポート」の大切さを訴える。一律にお金を支給する「ベーシック・インカム」を超えて、仕事や社会とのかかわりなどをケアするのが、本来のセイフティ・ネットだと。まさに、その通りだろう。

けな(8)生活保護をめぐる議論が、支給の有無や支給額にだけフォーカスされているのは、現代日本の精神的貧困と、知性の劣化の象徴だろう。ましてや、国会議員が、支給額うんぬんだけを問題にするのは、そもそも公人としての資格がない。期待しているのは、弱者に対する想像力です。

けな(9)「健康で文化的な最低限度の生活」は、お金だけの問題ではない。必要なのは、関心であり、つながり。今の議論は、自己責任論であり、関心やつながりと逆のベクトルを向いている。弱い立場の方が社会とつながるように複合的に図ることが、結果としては支給額の低下にもつながる。

2012年5月28日月曜日

すぐれた指導者が、自分たちの話を聞いていてくれたという事実

すじ(1)マイケル・サンデルさんにお目にかかるのは二度目である。NHKのスタジオに入って待っていると、サンデルさんが入ってきて、いきなりレクチャーが始まった。ハーバードの授業もそうだが、サンデルさんには、そのような劇場的能力がある。役者であることも、一つの素養なのだろう。

すじ(2)レクチャーの内容については、6月8日(金)23時からのBS1の番組を見ていただくことにして、スタジオの中で感じたことについて書きたい。サンデルさんが、私たちスタジオのゲスト、回線でつながっている東京、上海、ボストンの学生とやりとりしながら、話を進めていった。

すじ(3)周知の通り、サンデルさんの方法は、ソクラテスの問答法。一方的にある事実を伝えていくのではなく、学生たちに話しかける。しかし、その設問の仕方や、学生の発言を受けてのコメント、場合によっては途中で遮るなどのファシリテーションを通して、議論が進んでいく。

すじ(4)ソクラテスの方法の本質はどこにあるのだろう。情報を一方的に受け取る方法は、一見効率の良いやり方のように思われる。しかし、人は自ら何かを発する際に、多くを学ぶのである。そこで起こっていることを一言で表すとすれば、ある種の「危うさ」なのであろう。

すじ(5)議論の流れを受けて、自らが何かを発言する際には、まるで綱渡りをしているかのような危ういバランスが生じる。失敗するかもしれない、外すかもしれない。サンデルさんがどのように受け取るかわからない。そんなぎりぎりの心の動き自体に、大きな教育効果がある。

すじ(6)サンデルさんのJusticeの第一回で、サンデルさんが最後に言う非常に印象的な言葉がある。講義の目的は、restlessness of reason(理性の落ち着きのなさ)を受講者の中に引き起こすことであると。前提にしていることを揺るがす。そのプロセスに価値がある。

すじ(7)その、Justiceの第一回の授業で、サンデルさんは学生たちに散々議論をさせた後で、突然、格調の高い英語で魂を震撼させるようなことを言い出すのだった。最後にrestlessness of reasonという言葉が出てくる。議論した後でそのようなコーダで締める。

すじ(8)ソクラテスの方法は、参加者が議論するという意味で、指導者の役割が小さいようにも見える。しかし、そうではない。その気になれば、あれほどまでに高度で、緻密で、感動的な「演説」ができる指導者が、ただ聞き役に徹しているという事実の中に、凄みがあるのだ。

すじ(9)昨日のNHKの収録の際にも、サンデルさんは私たちを震撼させた。議論してきたテーマについて、あまりにも見事な「演説」を行ったのである。すぐれた指導者が、自分たちの話を聞いていてくれたという事実。ハーバードの教え子は、理性の落ち着きのなさの中に、成長していくのだろう。

2012年5月27日日曜日

答えではなく、プロセスを教えるのが真の教育

こぷ(1)朝起きてすぐに、iPadでSurely You're Joking, Mr. Feynmanを読み始めたら、面白くて時間が経つのを忘れてしまった。ブラジルで教えていたとき、学生たちが暗記ばっかりしていて科学的思考法を身につけていない、というエピソードのあたり。

こぷ(2)ファインマンが、ブラジルの学生たちに質問をするように促す。すると、学生たちが、「そんなことをしたら、授業の時間がムダになる!」と抗議する。ところが、暗記している内容が、目の前の現実とどのようにかかわるのか、一向に考えようとしない。

こぷ(3)クラスに二人、よくできる学生がいた。「だから、ブラジルの教育システムでも、育つ人は育つ」とファインマン。ところが、後で、二人ともブラジル以外で教育を受けたことが判明する。「100%例外なくダメ、というのはある意味凄いシステムだ!」とファイン万は驚く。

こぷ(4)これが笑い話だとは思えないのは、日本も似たようなものだからである。ある時、私は大学の授業で原書を紹介したら、次の週まで読んできた女の子がいた。驚いて、「君、どこの高校?」って聞いたら、スイスの寄宿舎学校を出た人だった。日本の教育では、一週間で原書を読む力はつかない。

こぷ(5)東大法学部に学士入学したときのこと。大教室で、数百人の学生を前に、教授が90分間、延々と話している。講演会などでマネをすると、大受けする。「この手形小切手法のですね。。。手形の裏書き行為。。。判例は、こうなっておりまして」学生たちが、カイコのようにひたすら筆記する。

こぷ(6)その東大法学部を出た、私の友人、「天才バカ弁」こと、宮野勉はハーバード・ロー・スクールに留学したが、日本人はみな驚くのだという。教授が学生と対話をしていて、「そういう考えもある」「これもある」時間が来ると「じゃあ、来週」。えっ、答えを教えてくれないの?!

こぷ(7)大教室で、教授がマイクを使ってずっとしゃべっていて、それを学生が筆記して、試験に臨む。日本の大学でおなじみのあの光景は、ファインマンが批判していた、ブラジルの暗記授業と本質的に変わらない。結局、日本の大学教育は、安上がりのマスプロ。本物の知性が育ちようがない。

こぷ(8)現代の多くの問題は、一つの答えなどない。答えに向かう、プロセスだけがある。そのプロセスを、ロジックを持って丹念に共有できるかどうか。民主主義の基本的な能力を、日本人は訓練されていない。文科省が進めてきた学力観は時代遅れ。根本的に変えなければならない理由がここにある。

こぷ(9)先日千葉大で講義したときも、一冊でも原書を読んだことがある人がせいぜい5%くらいで、寂しかったな。スイスの寄宿舎学校を出ると、授業でさっと紹介した本を次の週まで読んできちゃうような機動力ができる。これじゃあ、日本の教育システムから外れようという人が出てきても当然だ。

2012年5月26日土曜日

国会議員はそもそも、なぜ「偉い」のか

こな(1)子どもの頃は、国会議員は「偉い」のだと素直に思っていた。議員は「先生」と言われるらしいが、「偉い」から「先生」なのだろうと思っていた。社会科見学で国会議事堂に行ったときも、「ここが先生がいるところなんだ」と緊張して赤じゅうたんを踏んでいた。

こな(2)時は流れて、(まだ政権を担当していた当時の)自民党本部に行くような用事もできた。すると、受付の女の人が、議員の姿を認めて、「なんとか先生なんとかなんとか」とアナウンスしている。すると、すーっと配車されるのである。受付は神業だと思ったし、「先生」は空気だった。

こな(3)議員会館にも用事があって行くことが増えた。すると、議員が「普通の人」だということがだんだんわかってくる。個人差があるが、特に賢いわけでもないし、人格に優れていわけでもない。すると、一体議員のどこが「先生」なのか、よくわからなくなってきた。

こな(4)そもそも、国会議員の仕事は何だろう? 立法府だから、法律を作ったり審議することが仕事のはずだ。これは大変な作業である。政策に通じているだけではだめ。膨大な実定法の条文を調べ上げ、新たに制定、改正する法律との整合性をつけなければならぬ。気の遠くなる作業である。

こな(5)それぞれの人生があるだろうに、実定法の条文などという七面倒くさいものの勉強に精励しなければならぬ。自己犠牲の精神で、国のために奉仕する。なるほど、国会議員というのはお気の毒な商売である。それじゃあ、「先生」と呼ばれても仕方がない。ところが、実態はそうではないらしい。

こな(6)観察していると、世間で議員が「先生」と呼ばれている、その根源は、口利きをしてもらったり、斡旋してもらったり、その類いのことがむしろ起源のようである。頼む方も愚民ではあるが、頼りがいのある「先生」ほど選挙で勝ってきたから、それが日本の戦後の政治文化をつくってきた。

こな(7)ぼくなぞは、議員を前にしても、自分のために何かしてもらおうなどという気は毛頭なく、立法という面倒なことに携わっておられるのだから、むしろこちらから何かをして差し上げたいと思う方だが、戦後日本では議員は頼まれごとをたくさんしてきたから、結果として「先生」になったのだろう。

こな(8)昨今のニュースに接していると、一部議員が、社会で耳目を集める案件について、事実を調査し、「要請」し、「勧告」し、対する関係者の反応に対して論評、批判を加えている。なぜ違和感を覚えるのかと考えてみたが、つまりは立法とは関係のない、圧力、口利き、斡旋に近いからだろう。

こな(9)原理原則に立ち返れば、議員が、民間人の行動に対して調査したり圧力をかけることは本義に反する。それが通ってしまうのは、「先生」たちが実際に過去にそういうことをしてきたから。時代が変わろうとする時に、古い文化を目にして嫌な気持ちになる。議員は、立法の本義に邁進してほしい。

2012年5月25日金曜日

芸術か、娯楽かそれが問題だ

げご(1)小学校の頃から、毎月のように映画を見に行っていた。たいていがハリウッド映画のロードショーで、A級からB級、級外までいろいろ見たけれども、そんな中で、映画というのはこんなものであるという「相場観」ができあがっていった。一つのジャンルの性質は、いくつか見ないとわからない。

げご(2)それが、高校くらいからいわゆる名画系の映画を見るようになった。最初はタルコフスキーとか、ヴィスコンティあたりではなかったか。当時はビデオなんかないから、名画座に通って、せっせと見た。そうしたら、それまでのハリウッドの大作とは、明らかに異なる。

げご(3)タルコフスキーなんて、何の説明もない。詩的な映像が、延々と続く。ベルイマンのはっと息を呑むような美しい画面。一度これらの「芸術映画」を知ってしまうと、それまで見ていたハリウッド映画が、なんだかばからしく思えてしまって、「くだらねえよな」とか友達に言っていた。

げご(4)こうなると、ハリウッドが敵になる。映画好きの友達と、「スケアクロウ」や「ミッドナイトカウボーイ」などのアメリカン・ニュー・シネマの頃は良かったけど、最近のアカデミー賞なんてホントにくだらねえ、とよく怪気炎を上げていた。オレたちは、そんなもん見ないぜ、と吹かしてたのだ。

げご(5)ところが、世の中にはいろんな人がいることを思い知らされる。心から感動したエリセ監督の『ミツバチのささやき』。この名作を見て、「小さな女の子」(アンナ)をひどい目に遭わせる、と怒った人がいるというから驚いた。その人は、ミッキーやミニーが好きでTDL行きまくっているという。

げご(6)『ミツバチのささやき』を見て、「ああ、この映画は自分のことを描いてくれている」と思う人と、『プリティ・ウーマン』とか、ああいった商業大作命の人と、世の中はいろいろだなあ、と思って、やたらと映画の話をしていた青春時代があった。後藤聡くん、君は元気でどこにいますか?

げご(7)ハリウッドの大作も、まっ、いいかと思うきっかけは、フロリダのユニヴァーサル・スタジオに行ったこと。インディ・ジョーンズの舞台がマジ凄くて、それだけのエネルギーを費やしてエンタメを作るという志に感動した。ま、世の中いろいろあっていいんだよ。青春のオレは、暑苦しかったね。

げご(8)日本酒飲むようになると、いい酒は翌日残らない。あー、楽しかったと劇場を出て、そのあとすっきり何も残らないハリウッド大作は、極上の日本酒のようなものだろう。タルコフスキーとか心に刺さって、ずっと残る。芸術映画は、そうやって足跡残すけど、ハリウッドは違う道でいいよね。

げご(9)保坂和志さんと話していたとき、小津作品は、ロードショウ当時は普通の人が見に行って、「笠智衆がこんなばかなことを言ってたよ」と笑うような娯楽大作でもあったという。スゲーな、小津安二郎。今見たら神の業だけど、娯楽でもあり、芸術でもあるものを作ったのは、愛が深かったんだろう。

2012年5月24日木曜日

愛するものに向き合う時間の中で、育っていく

あそ(1)@KimuSuhanに送ってもらった南直哉さんの『恐山』をようやく見つけて、徳島の行き帰り読んでいた。面白い! 直哉さんに老師が、「お前、人は死んだらどこに行くかわかるか?」と聞く。「わかりません」と言うと、「そんなこともわからないのか。愛するもののところに行くんだよ」

あそ(2)なるほど、と思う。仕事を愛して、それに心血を注いだ人は、死んだらその作品の中に生き続ける。誰かを大切に育んだ人は、その誰かの中に生き続ける。いずれにせよ、人は愛するものの中に入る。愛するものがない人は、その点、不幸である。

あそ(3)それで、10年ぶりくらいにKindle for iPadでSurely You're Joking, Mr. Feynmanを読んでいて、あまりにも面白い。探求すること、熱狂的であること、好奇心のすばらしさがあふれていて、ぼくが好きなのはこの世界なのだなと確認できた。

あそ(4)先日の金環日食における熱狂で、日本の様々が一度克服され、生命力が増進したような気がした。同じように、ファインマンを読んでいると、ああ、こういうのが好きなんだよな、と思う。自分の好きなもの、愛するものに没入することには、魂を浄化する作用がある。

あそ(5)思い出したのが、高校の同じ学年だった高橋英太郞のこと。ピアノを上手に弾く、ダンディーなやつだった。ぼくがその頃からおっちょこちょいで、いろいろふかしていると、英太郞が冷静に正しい意見を吐くのだった。英太郞のひんやりとした理性が、ぼくは好きだった。

あそ(6)ぼくは、いつも、世の中の劣悪なものを見つけては、これがくだらない、あれが低俗だ、などと噴火していたら、英太郞は、ごく冷静に、「でも君ね、いつの時代も、悪いものなんて、たくさんあるじゃないか」と言う。「いちいち腹を立てていては、仕方がないよ。」

あそ(7)今も昔も、ムダにエネルギーを発散するのが私の癖のようなものだから、どうしても放っておけない性分があるのだが、英太郞の言うように、悪いものは昔からたくさんあるのは理屈だ。だから、本当は、愛するものに心を注いで、それを育て、自分も育つのがいいのだろう。

あそ(8)ツイッターはとても面白いツールだが、オープン・ダイナミカル・システムの宿命として、邪悪なもの、これはちょっとな、と思うもの、勘違い、その他もろもろがやってくる。それにいちいち腹を立てていてはもぐら叩き。切りがない。英太郞のように、冷静に割り切るのがよかろう。

あそ(9)「英太郞の教え」は重々わかっていても、血気盛んでついつい噴火してしまう。愛するものは深くて、それに費やす時間は必ずさらさらと生命を潤してくれる。だから、愛するものに向き合う時間を耕そうと思う。ツイッターのようなSNS全盛の時代だからこそ、「英太郞の教え」が大切だ。

2012年5月23日水曜日

笑いの文化は、いろいろだよね

わい(1)大塚国際美術館の取材のために、徳島に来ている。昨日、初めて『リンカーン』という番組を見た。以前、『プロフェッショナル 仕事の流儀』が火 曜日放送だった頃は、「裏番組」として認識していた番組である。そしたら、着ぐるみの人たちがいろいろな競技をしていた。

わい(2)「ビーチフラッグ」とか何とか言って、着ぐるみの人たちがうつぶせに倒れて、それからでこぼこの砂地を走ってフラッグを取りに行く。その様子がおかしくて、ボコッ・バシッなどという効果音も面白く、なんだかソファーの上で笑ってしまった。

わい(3)話は飛ぶが、イギリスに留学していた時のこと。ケンブリッジからヒースロー空港に行くのに、最初は電車から地下鉄を乗り継いでいたが、タクシー を予約すると2時間くらいで、そんなに高くなく行けることがわかった。それからは、Missleton Court5番の自宅に来てもらった。

わい(4)ケンブリッジからヒースローまでの道は、M25に当たるまでは田舎でのんびりしている。ある時のこと、タクシーの運転手さんといろいろ話していて、コメディーの話題になった。私はイギリスのコメディが大好きだから、そのことを話すと、大いに盛り上がった。

わい(5)モンティ・パイソンとか、フォルティ・タワーズとか、私の好きなコメディの話をしていると、運転手さんが、「そういえば、私が今まで見た中で一 番面白かったコメディは、日本のやつだった」と言い出した。「もう、面白くておもしろくて、腹を抱えてわらったよ。止まらなかった。」

わい(6)「へえ〜どんなやつですか?」と聞くと、「なんだか、若いやつが、裸で、泥の中を走ったり、何かにぶつかったり、よけたり、熱いお湯に入ってあ ちちちち、とか出てくるやつだった」というから、ああ、それは、ビートたけしさんが若手芸人とやっていたような番組だな、と思った。

わい(7)笑いの文化は多様である。イギリスのコメディは、政治や社会のネタが多く、しかも差別や偏見の問題など、「一番やばいところ」につっこんで行 く。日本では、「スネークマン・ショウ」の桑原茂一さんがパイオニア。ブリティッシュな笑いは、ちょっとブラックなテーストがある。

わい(8)一方、日本の笑いの強いところは、身体を張ったフィジカルな笑いだろう。「風雲たけし城」が未だにヨーロッパやアメリカで放送されて人気を博し ているように、身体を張って、いろいろなことに耐える、という様子から笑いを引き出すのが、日本の笑いの文化の一つの金脈である。

わい(9)「へ〜、そうなんだ、ああいう笑いが好きなんだ」。私は、ケンブリッジからヒースローに向かうタクシーの中で、運転手さんにそう言った。笑いの 文化はいろいろで、国や地域、時代によって異なる。私は日本の笑いの文化の中で育ったけれども、イギリスの笑いの文法も知ってよかったと思う。

2012年5月22日火曜日

ようこそ、偏差値のない世界へ

よへ(1)「ようこそ、偏差値のない世界へ!」これは、ある芸術大学の学長さんが入学式の時に言った、という言葉である。確かに、芸術にはもともと「偏差値」という概念が成り立ちにくい。難関と言われる東京芸大でも、センター試験の点数は低くて入ってくる人もたくさんいるという。

よへ(2)デッサン力などを採点する基準があるにせよ、それはペーパーテストのような明確な点数、偏差値に変えるのが難しい。ましてや芸術そのものは、もちろん偏差値とは関係ない。「ようこそ、偏差値のない世界へ」。学長のこの言葉は、それまでの学校生活から解放するパワーがあるだろう。

よへ(3)そこで言いたかったのが、「偏差値のない世界」は本来芸術のことだけではない、ということ。日本の大学入試は、「偏差値」に支配されている。だから、大学の「ランク」が偏差値で決まると、なんとなくみんな思っている。しかし、これは特殊な条件の下での「幻想」に過ぎぬ。

よへ(4)そもそも、なぜ「偏差値」が登場したか。入試の結果をあらかじめ予想しようとしたからである。受けても、受かるかどうかわからないのでは気の毒だ。受験生全体の分布のうちどのあたりに位置するかという「偏差値」で、入試結果を予想しようという、都立高校の先生の発案だったと聞く。

よへ(5)つまり、日本の大学入試は、「偏差値」で入試結果が予想できるようなものだったということ。東大の浜田総長が言われたように、ペーパーテストで「一点でも高い方を入れる」ことが公正な入試だと長らく信じてこられたからこそ、偏差値というものさしが通用した。

よへ(6)ところが、アメリカの大学入試では、「偏差値」なんて言葉は聞かない。なぜか。「偏差値」では予想ができないような入試をしているからである。ハーバードの募集要項を見ると、SATなどのスコアは「参考」にするが、他の要素も配慮するという。入試が、多様なのである。

よへ(7)「アカデミックに優秀な学生」を基本的には求めるが、「ある分野で卓越した結果を残した人」「突き抜けた人」も求めるとはっきりと書いてある。だから、オリンピックの金メダリストや、映画女優も、ハーバードに入る。ペーパーテストの点数という単一のものさしでは入試が予測できないのだ。

よへ(8)つまり、アメリカの大学は、プライベートなクラブに似ている。魅力的な組織にするために、多様な人材を、多彩な基準で採用するのである。どんな基準で採っているかは、組織のdiscretion(熟慮)に属すること。その結果、組織がどのように発展するかは、自由競争に任される。

よへ(9)ようこそ、偏差値のない世界へ。日本の入試で偏差値が支配してきたのは、入試が偏差値で予想できるようなものだった、ことを反映しているに過ぎない。市川海老蔵さんは、ハーバード大学には入れるかもしれないが、東大には入らないだろう。多様な人材を集めない組織は、結局弱体化する。

2012年5月21日月曜日

日食は不意打ちが一番だが、それだと見逃してしまうこともある

にそ(1)浅井愼平さんと対談した時のこと。浅井さんは、ビートルズ来日公演の際の写真で有名だが、ビートルズとの出会いは、「不意打ち」だったという。 ある日、ラジオから流れてきたその楽曲に、「これは何だ」という衝撃を受けた。全ての出会いの中で最良のものは「不意打ち」だと浅井さんは言う。

にそ(2)不意打ちには、独特の切なさがある。たとえば、誰かが自分のことを褒めていたと、第三者から聞くのは価値がある。ひょっとしたら、伝言ゲームが 成立していなかったもしれないというはかなさ。本人から直接言われるよりも、途切れていたかもしれないという偶有性にざわざわするのだ。

にそ(3)日食との最良の出会い方は、「不意打ち」だろう。皆既日食、金環日食それぞれに、もし知らないでそれに出会ったとしたら、私たちはどんな印象を 受けるか。昔の人は、そうだった。今日も、ひょっとしたら、日本に数百人くらいは、金環日食にそれと知らずに出会った人がいるかもしれぬ。

にそ(4)途中から公園の森の中に身を置いて、金環日食を見ていた。もし、今日日食が起こるということを知らないとしたら、どのように感じるだろうとそれ ばかり考えていた。木漏れ日を見たとき、三日月がたくさんあって驚いた。もし、事前に知らなかったら、それで気づくだろうか。

にそ(5)関心があったのは、どれくらい暗くなるのか、ということである。食分が約0.96.4%の光は地球に届くのだから、それほど暗くはならないだろう、とは考えていた。もう一つは風。温度差が生じることによって、日食の際には、強い風が吹くことがあるという。

にそ(6)それは、気配として始まった。食分が増えていくにつれて、次第に、太陽の光に陰りがあるように思えた。鳥たちも反応して、空を行き交っている。 やがて、あたりは夕暮れのようになってきたが、それでも、肉眼で太陽のあたりをさっと見ると、いつもと変わった気はしない。

にそ(7)いよいよ金環日食になった瞬間の驚き。ちょうど雲が薄くかかっていたこともあって、太陽の中に、月の影がはっきり見えた。その時だけ、いつもの 太陽と明らかに様子が違っていた。もし、事前に日食を知らずに空を見上げた人がいたとしたら、太陽に瞳が出来たかと、びっくりするだろう。

にそ(8)もし、金環日食を事前に知らず、日食眼鏡も持っていない人がいたとしたら、こんな経験だったろう。太陽に力がない気がする。三日月形でも光が出 ている間は、まぶしくてそれとわからない。ところが、金環日食になった瞬間、太陽の真ん中に瞳が出来る。瞳は、こっちをじっと見ている。

にそ(9)科学文明全盛の私たちは、いつ日食が起こるのか、どのように起こるのかを知ってしまっている。最良の日食は、不意打ちで経験するもの。しかし、 それでは見逃してしまう可能性もある。日食に相当する配列の奇跡は、生活の様々な側面で起こる。不意打ちの「日食」に、いつも身構えていること。

2012年5月20日日曜日

嫌いは無関心より、好きに近い

きす(1)子どもの頃、大人たちがビールを飲んでいるのを見て、顔をしかめていた。祭りのときなど、「ちょっとなめてみるか?!」と言われて、口にして、「うぇー、苦い」。「こんな苦いもの、よく大人は飲むなあ」と逃げ出した。そんなぼくを見て、大人たちは笑っていた。

きす(2)それが、確かに20歳を過ぎた頃であって、大学に入った直後では決してないと思うが(飲酒の成人年齢は18歳にした方がいいよね)、ビールが好きになった。あの苦い味が、たまらないねえ、になったのである。暑い夏の夜など、枝豆とビール、早くはやく。ぐびぐび。ぷはー。

きす(3)扁桃体など、「好き」「嫌い」を司る脳の回路網のダイナミクスとしては、確かに「嫌い」は「好き」に近い。「無関心」よりも、「好き」に近い。だから、線形領域への待避か、あるいはオセロで白黒が逆転するような過程を通して、「嫌い」が「好き」に逆転することがあるのである。

きす(4)フジテレビの韓流ドラマ騒動のときにぼくも巻き込まれたので誤解があると思うが、ぼくは韓国の文化にとりたて激烈な感情を抱いていない。旅をして、いい国だとは思っているけれども、熱狂的な韓国好きや、逆に激しい嫌韓派ほどの、駆り立てられるような気持ちを、僕は持たない。

きす(5)そんなぼくが興味深いと思っているのが、韓国が嫌いだ、という人たちの感情に、勢いがあることである。それだけ関心があるのだろうと思う。その意味では、嫌韓派は、韓流ドラマ好きにむしろ近い。ぼくのような中立的な立場から見ると、そんなに関心があるんだな、と思えてしまう。

きす(6)遠いアフリカの国の文化に、韓流ドラマ好きvs 嫌韓派ほどの、強い関心を持つことはそんなにないだろう。やはり、歴史的にも文化的にも関心の高い隣国であるから、それだけ強い感情を抱く。好きにしても嫌いにしても、無関心でいることが難しい、ということなのだろう。

きす(7)以前、飛行機の中で、フランス人とベルギー人の感情的対立を描いた、Nothing to declare(確か)という映画を見たことがあった。日本人からしたら、フランスでもベルギーでもどっちでもいいよ、と思えるけど、ベルギーの人にとっては大いなる差があるらしい。

きす(8)日本は、明治維新で近代化をいち早く成し遂げたから、自分たちはアジアの中で特別だと長い間思ってきた。韓国や中国も経済成長を経験した今、日本がアジアの一国であるという認識に問題はないだろう。そして、アメリカから見れば、日本と韓国が、文化的に近く見えることも。

きす(9)「嫌い」という感情を抱くことは、もちろん自由。ただ、その「嫌い」の背景に強い関心があることをメタ認知すると、より強靱な立場を確保できる。嫌いは、無関心よりも、好きに近い。だからこそ、ぼくは、ツイッター上で執拗にぼくを批判する人を大切にし、時にはフォローまでする。

2012年5月19日土曜日

どうでもよいことは流行に従い、芸術のことは自分に従う

すあ(1)小津安二郎の『東京物語』をさいしょに見たのは大学院生の頃。正月休みにバイトをしていた予備校の近くのレンタルビデオ屋で借りた。そのときは、実はあまりよくわからなかった。3月中旬になって、何となく気になってもう一度借りてみた。そしたら、熱病にかかってしまった。

すあ(2)とりわけ、『東京物語』の冒頭と最後に出てくる尾道の風景に惹かれた。とりつかれたようになって、ついに、新幹線に一人乗って旅をした。季節は春。千光寺公園には、桜が満開だった。尾道水道を見下ろし、坂の街を歩きながら、映画のシーンの面影を探し求めた。

すあ(3)『東京物語』は、映画と言えば欧米のものばかり見ていた私が、日本映画の良さに目覚めるきっかけとなる作品となった。イギリス留学中、ロンドンで『東京物語』を見たときは、なんだか途中で涙があふれてしまった。映画の温かさ、なつかしさに日本のことを思い出したのだろう。

すあ(4)『東京物語』は、世界の映画史上のトップ10にしばしば登場する名作となり、『晩春』、『麦秋』、『秋刀魚の味』といった作品も、世界中の映画人が愛し、学び、繰り返し立ち返っていく古典となった。そんな小津安二郎が生きていた時代に思いをはせると、はっとあることに気づく。

すあ(5)『晩春』の公開は1949年。『麦秋』は1951年。『東京物語』は1953年。終戦後、ほんとうに間もない頃である。未だ、日本社会が混乱のまっただ中にあったその頃に、これらの作品が撮影されたと考えると、ちょっと信じられないような想いがある。

すあ(6)原節子の、精神的な美しさ。笠智衆の、諦念をはらんだ微笑み。繰り返される、取り立てて大きなことも起こらない、家族の物語。どこにでもありふれているような日常が、底光りしている。そんな小津の映画が、戦後の混乱期に撮られているということに、凄みを感じる。

すあ(7)当時、日本では左翼思想が盛んで、冷戦を背景に、激しいイデオロギー論争が繰り広げられていた。そんな嵐のような世相の中で、小津安二郎が、穏やかで小市民的な世界を描き続けたことに対して、当然批判はあったらしい。小津は古い、骨董のようだと揶揄されたとも聞く。

すあ(8)今や、世界の映画史に残り、敬愛される巨匠である小津安二郎が、汚く厳しい言葉でバッシングされていた。そんな批判に走った当時の血気盛んな若者たちの気持ちがわからないわけでもない。しかし、時代が流れ、残っているのは、小津映画の神々しい温かさだけ。批判は、全部消えてしまった。

すあ(9)同時代を生きていると、批判やバッシングのような事象が、あたかも重大事のように思える。しかし、時が流れれば、それらは全て消えてしまう。もちろん、人や作品自体も消えてしまうことも多いが、愛があれば、多くの場合それは残る。叩くよりも、叩かれて愛を貫いた方が徳である。

2012年5月18日金曜日

中学から高校に行くとき、成績で学校を分けているんじゃねえよ、タコ!

ちせ(1)そもそも、ぼくは学力で人を見る、という発想を持ったことがなかったらしい。覚えているのは、小学校2年くらいのときに、そうか、勉強が得意な 子と、苦手な子がいるんだ、と砂場で気づいたことで、なんだか重苦しい気分になった。苦手な子の体験を、想像してみたのだ。

ちせ(2)小学校6年の時、アライテツヤに鉄棒のところに呼び出されて、けんちゃん、中学に行くと勉強大変だぞ、クラスで一番だと、○○高校、学年で一番 だと、○○高校だ、と言われた。ぼくはそんなことを初めて聞いたから、へえーと思った。そして、ものすごい息苦しさを感じた。

ちせ(3)そして始まった中学は、人生で一番息苦しさを感じていた時代だったかもしれない。公立だったけど、先生たちは成績で学校が決まる、勉強しろみたいなことを言い続けた。それで、仲間たちが分断されていった、ぐれるやつとか、勉強という私利私欲に走るやつとか。

ちせ(4)習熟度別に授業をするというのは合理的かもしれない。しかし、成績で高校自体が分かれていく、というのはよく考えたらおかしい。「偏差値」によ る選別は、高校から始まっていくが、なぜそのようにしなければならないのか、原理原則に返って考えれば、合理性がないように思う。

ちせ(5)同じ高校に、成績がいいやつも、軽音に走っているやつも、サッカー夢中なやつも、ぐれころーまんすたいるなやつも、みんながいて、それでいいん じゃないかと思う。ぼくは自分が行った東京学芸大学付属高校が大好きだったけど、中学の仲間たちと一緒に勉学する高校生活でも、良かったと思う。

ちせ(6)体育館の裏で、煙草を吸って紙くずや枯れ草に火をつけていた関根が、どういう高校生活を送るのか見たかった。身体がでかくて番長、実はやさしい 山崎と話をしたかった。同じ高校にあいつらがいた過去というものを、ぼくは容易に想像できる。勉強の方も、別に困らなかったんじゃないかな。

ちせ(7)いわゆる「エリート高校」というものが、あってもいいと思うけど、なくてもいいんじゃないかと思う。微積分ハンパないやつと、分数ができないや つが、同じ高校に習熟度別にいたって、いいんじゃないか。それで困るとは、思わない。たかが、大学入試程度の勉強である。エリートもくそもない。

ちせ(8)一番肝心なこと。高校や大学は別でも、出ていく社会は同じ社会。勉強が得意なやつも、苦手なやつも、同じ社会に出ていくんだから、中学から高校 に行くときに別々にしなくたっていいじゃないか。どうせ、高校の勉強なんて、大したもんじゃないんだ。なんで偏差値で脅して分けようとするかね。

ちせ(9)ぼくの言うことは、おそらく極論なのでしょう。極論でもいいです。「成績」で学校を選別する今の社会のあり方が極論だと思うから。なんでこんなことを書いたかというと、『プロフェッショナル』OBの細田美和子さん(@miwahoso )のツイートがあったから。中学生に幸あれ。

2012年5月17日木曜日

自分を守るために、道化になるということもあるよね

じど(1)過去は、育てることができる。自分が今までに経験していたことをふりかえると、「ああ、そうか」というメタ認知が生まれることがある。これから 書くことは、私の個人的な体験ではあるけれども、読者のみなさんにも同じような「種」があるのではないかと思い、参考までに記すのである。

じど(2)昨日、NHKの415スタジオで『ドラクロワ』の収録があった。小山さんやすどちんなど、『プロフェッショナル』のOBが参加している。フロアもさっちん。それで、終わったあと、すどちんが、「いやあ、茂木さん、よかったすよ。がんばってましたねえ」と言った。

じど(3)いろいろ笑わせたり、振ったりしていたことをすどちんは言ったのだと思う。ぼくに芸人っぽい資質があるとすれば、それは最近のことじゃなくて根 が深い。話は、中学校時代にまでさかのぼるのだ。中学の三年間は、一番苦しい時期だった。今思い出しても、過酷な日々だったと思う。

じど(4)小学校は勉強したり運動したり蝶を追いかけたり、「まっすぐ真剣」で良かったのが、中学になると大切な仲間たちがぐれ始めた。関根が体育館の裏 で煙草を吸い、紙や枯れ草に押しつけて火をつけていた。関根は、卒業したあと消防士になった。山崎は身体が大きくて番長だった。

じど(5)ぼくはなぜか成績が抜群で、ずっと学年1位だった。でも、仲間はソリコミで鞄はぺちゃんこ。あいつらの苦しさ、悔しさもよくわかって、ぼくは狭 間で絶壁の縁に立っているような気がした。成績で学校が振り分けられていく世の中というものを、感情の部分で受け入れられなかった。

じど(6)それで、ぼくは道化になった。いつも学校で一番の自分という存在を、笑ってやった。いろいろな権威や、ルールみたいなやつを笑ってやった。関根 や山崎は煙草やソリコミで抵抗していたんだろうけど、ぼくは、いつも冗談ばかり言って、結局あれは自分を守っていたんだと思う。

じど(7)高校に行ったらだいぶラクになって、その後、大学、社会人と中学のようなきつさはなかったけれども、テレビに出るようになった頃から、また苦し くなったな。世間は、人の気も知らないで、いろいろなことを言う。痛くもない腹を探られたり、ある時、ああ、中学の頃とそっくりだな、と思った。

じど(8)関根は、この前再会したけれども、消防局の「主幹」になっていたなあ。立派になって、胸にたくさんバッジみたいなのをつけて。おお、関根! っ て言って笑ったけど、中学の頃を思い出すと、万感の思い胸に迫るだよね。過去は、育てることができるんだよな。振り返って戻る度に。

じど(9)ぼくが、お笑いの人たちを好きなのは、苦しいから道化になる、という感覚がわかるからだと思う。苦しくて、人を攻撃する人もいるけど、笑いにし た方がみんなの命が充実する。ぼくに芸人根性のようなものがあるとしたら、その起源は中学のときなんだ、と気づいた時には、救われた気がしたね。

2012年5月16日水曜日

自分や他人に対する、期待水準を上げよう

じき(1)数日前、ちょっと面白いことがあった。ある方が、私に「先生はジョルジュ バタイユは知っていますか?読んだことがないなら ぜひ、読んでくださいませ」とツイートしてきたのに対して、@May_Romaさんが、「学者になんつー質問してるのだ」と返していたのだ。

じき(2)このやりとりには、二つの異なる哲学が表れていると思った。ある人に向き合ったときに、「バタイユを読んでいるだろう」という仮定から始まる人と、「バタイユを読んでいないだろう」という仮定から始まる人。ここには、人生の重大な分かれ道があるように思う。あなたはどちらですか?

じき(3)本質は、自分や他人に対する期待水準、にあるのだと思う。人の知識や経験は、本来低いものだと思うか、あるいは高いものだと思うか。@May_Roma さんも、TOEICに批判的だが、TOEICを肯定する人は期待水準が低く、TOEICを否定する人は期待水準が高いのだろう。

じき(4)TOEICなんてくだらない、という人は、英語というのは、本来もっとファンタジスタで、高度なものだと思っている。一方、TOEIC礼賛の人は、英語はThis is a penから始まる、積み上げのものと思っている。どっちの立場をとるかで、伸びしろは変わってくると思う。

じき(5)バタイユを読むか読まないか、ということは実は大したことではない。現代の知の地図全体から言えば、小さな点である。問題は、自分や他人に、どの程度のパフォーマンスを期待するかというところであって、日本人は、低い期待水準にならされている。だから、場外ホームランが出ない。

じき(6)私が、大学入試を批判しても一向に通じない人がいるのは、この期待水準の問題とかかわる。東大文一や理三が「すごい」と思うか、あるいは「その程度」と思うか。現在の大学入試を肯定する人は、本来人間がはばたきうる知の空間を、低くとらえているように思う。そこに問題の本質がある。

じき(7)そして、今朝の虚構新聞のニュースのリツイート。「ああ、これは虚構新聞のネタだと知っていて、あえて素にRTしているんだ」と思うか、「ははあ、虚構新聞だと知らずにだまされてRTしているな、教えてやろう」と思うか。他人に対する期待水準は、結局、自分に対する期待水準につながる。

じき(8)「虚構新聞」は本当に良い仕事をしているが、「虚構」と断らなくてはならない点に、日本人の期待水準に関するリアルな判断があると思う。英国では、エイプリルフールネタは、いちいちそう断らずに一般記事の中に混じっている。何がネタかということは、読者が認知、判断してにやりと笑う。

じき(8)英語にしても、学問にしても、あるいは就職にしても、日本人の期待水準の低さが、飛躍をはばんでいる。文科省による教科書検定や大学の授業日数の指定も同じこと。人間を本来賢いものと期待しない人たちが、よけいなことをして社会を沈滞させる。自分や他人に対する期待水準を上げよう。

2012年5月15日火曜日

龍や、UFOを見るからこそ木村秋則さんはすごい人になった

りU(1)昨日に続いて、木村秋則さんのことを書く。『奇跡のリンゴ』(幻冬舎)がベストセラーになった後、木村さんは、『すべては宇宙の采配』( 東邦出版 )を出された。ゲラを読んだときに、そのあまりのすごい内容に、私は驚いてしまった。そして、異様な感動を覚えたのである。

りU(2)『すべては宇宙の采配』の中で、木村秋則さんは、こんなことを書いている。少年の頃、自転車に乗っているおじさんが、突然、止まった。ペダルも、ペダルをこぐ足も止まっている。おかしいな、と思ったら、周囲の時間がすべて止まっていて、目の前の木に、一匹の龍がいた。

りU(3)龍は、一つの玉を持っていて、木村さんに、あることばを言ったのだという。それが何なのか、木村さんは、誰にも絶対に言っていないのだという。市川海老蔵さんとの鼎談のときに、海老蔵さんが、それは何だったのですかと木村さんに聞いても、木村さんはにこにこして首を横に振るだけだった。

りU(4)木村さんは、さらに、UFOのことを書いている。リンゴ畑を宇宙人が猛スピードで飛んだ。ある時はUFOに乗って、そこで、白人の女の人に出会った。それから年月が経って、ある時テレビを見ていると、その時の女の人が出ていて、「眼鏡をかけた東洋人がいた」などと言っている。

りU(5)木村さんは急いで奥さんを呼んで「ほら、いつも言っている、UFOに乗った時にいた白人の女の人はこの人だよ」と伝えた。そんな話が、『すべては宇宙の采配』には書いてある。ゲラを読みながら、私は、地面の上に小さな石があって、その周囲を掘ったら巨石につながったような思いがした。

りU(6)科学的な立場からすれば、木村秋則さんが見た龍やUFOは、一つの「脳内現象」である。しかし、幻覚だからといって、その人にとってのリアリティがないわけではない。むしろ、そんなものを見るほど追い詰められる人、厳しい道を行く人だからこそ、偉大な業績を残せるとさえ言える。

りU(7)木村さんは、厳しい状況に置かれていたのである。その存在自体が、脅かされるような。そんな時、人はvisionを見る。何でもないことで、キリストもおそらくそうだったろう。visionaryが、手元のことをきちんとやる時(木村さんで言えば、リンゴ栽培)「奇跡」が起こる。

りU(8)『すべては宇宙の采配』の推薦と解説文を頼まれたとき、知り合いの編集者が「だいじょうぶですか」と言った。もちろん、と答えた。ある人のことを愛することはその全てを受け入れることであって、リンゴの木村さんはいいけど、龍やUFOの木村さんはちょっと、というのはおかしい。

りU(9)『プロフェッショナル』の取材班は、木村秋則さんが龍やUFOの話をしていることを把握していた。番組で触れなかったのは、正しい編集判断だと思う。同時に、人間の脳は、非常識なvisionを見ることで創造性を発揮することもあるということを忘れないために、今朝は記す。

2012年5月14日月曜日

困難の暗闇をくぐり抜けると、太陽のような明るい人になる

こた(1)昨日、那覇のとまりんで行われた沖縄タイムスの講演会で、質疑応答のときに、「プロフェッショナルのゲストで印象に残った人は?」と聞かれた。『ローマの休日』のアン王女のように、「どの方も」と言う手もあったけれども、言葉が自然にわいてきた。「リンゴ栽培の、木村秋則さんです」

こた(2)木村秋則さんは、不可能と言われたりんごの無肥料、無農薬栽培を思い立つ。しかし、うまく行かない。畑から、虫たちが葉を食べる音が聞こえてくる。季節外れに花芽が出る。どうしてもうまく行かなくて、極貧の生活となり、子どもたちは一つの消しゴムを切り分けて使った。

こた(3)7年経ってもダメで、もう死ぬしかないと、木村さんは思い詰めた。祭りの夜、家族たちを先に家に帰して、首をくくるロープを持って一人山に入っていく。この木にしよう、とロープを投げ上げたら、落ちた、それを拾おうと斜面で転がったら、目の前に、リンゴの木があった。

こた(4)なぜ、こんな山の中にリンゴの木が? いぶかる木村さん。よく見たら、どんぐりの木だった。いつもリンゴのことばかり考えていたから、そう見えてしまったのだろう。そこで、木村さんははっと気づく。なぜ、山の中では誰も肥料や農薬を使っていないのに、こんなに青々と茂っているのか。

こた(5)木村さんは、夢中になって根元の土を確かめた。ふわふわとして、やわらかい。自分のリンゴ畑の土とは、全く違う。これだ! 死にに来たことなど忘れて、夢中で山を転がり下りた。鍵は、「土」だということに気づいたのである。木村さんは土作りに奔走した。そして、ついに「その時」が来た。

こた(6)ある日、木村さんが家にいると、「大変だ、畑に行ってみろ」という。怖くて見れなくて、小屋の陰からそっとのぞいた。リンゴの花が、満開に咲いている。涙が出た。日本酒の一升瓶を持って、一本ごとにお疲れさま、とかけてあげた。ほとんどは、自分で飲んだ。

こた(7)木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」が出来るまでの物語。今度映画化されるそうだが、そこには本物のドラマがある。「真実」を求めて、それこそ自分の人生をすべて賭けて木村さんは探求した。その過程で、地獄を見た。地獄の中で、自分の命を絶とうとさえ思った。

こた(8)今日、木村秋則さんに会うと、まるで太陽のようである。その表情から、生命の光が輝いて見えるのだ。私は、木村さんほど、屈託なく、心から笑う人を知らない。その原初の日差しのような明るさは、言い尽くせない地獄をくぐり抜けたゆえ。夜明けの前の暗闇が一番深いという。

こた(9)木村秋則さんは口の中も「自然農法」で、歯が一本もない。収録の日、ディレクター(当時)の柴田さんが「歯入れてくるかな」と言っていたけど、結局歯無しできた。それでも滑舌がよくて、メロンも器用に食べる。木村さんのことを想うと、生きていてよかったと想う。困難が怖くなくなるのだ。

2012年5月13日日曜日

大学入試や、TOEICの耐えられないセコさについて

だと(1)昨日夜、寝る前にモーリー・ロバートソンさん(@gjmorley)のツイートを見たら、とてもふくよかな気持ちになった。知性というものは森のような作用があるのだと思う。それで、昼間、アルクの藤多智子さん(@8ya)と話していたことと合わせて、いろいろなことを考えた。

だと(2)昨日はアサカルの英語の講座で、いろいろな話をしたが、その中で、「じゃあ、TOEICの問題解いてみようか」ってなことになって、その場で初見でやってみた。もちろん全部正解したけど、the concernとconcernsとか、ひっかけがあって、やってて楽しくなかった。

だと(3)一方、「じゃあ、即興でやってみるね」と、みんなの前でお題をもらって即興で英語でスピーチしたり、エッセイを書いたりするのは楽しかった。英語アスリートは、こっちを鍛えましょう。その先には、TEDでのtalk や、Joseph Conradのような小説を書くという道がある。

だと(4)藤多さんと話していて「へえ」と思ったんだけど、TOEICって、大学生だと400点台くらいの平均から始まるんだって? ベストハウスで一緒に出ていた菊池さんみたいに、満点990点23回とかは、オタク、趣味みたいなもので、あまり意味がないらしい。800点台あれば十分とか。

だと(5)で、藤多さんは英語教育の専門家なわけだけど、TOEICは、400点台の人が800点になる道筋、みたいな意味ではそれなりの目安になる、というから、ああ、それはそうかもしれないと僕は思った。というか、僕には、最初から場外ホームランを基準にバントを語る癖がある。

だと(6)面白かったのは、みんなの前で即興で英文を書いて見せていたら、藤多さんや他の人が驚いたことで、ぼくは辞書も何も使わないでだーっと書くから、そんなの見たことないらしく、普通は辞書をひきひきえっちらこっちらやるらしい。その後に、表現をより磨いていくとことか、新鮮だったらしい。

だと(7)ちまちましている点において、TOEICと大学入試はにている。どちらも、本物の知性と関係がない。大学に受かることが最終目的の人と、連続体仮説や経済成長の謎の究明を目指す人がいたら、後者の方がいい。ところが、誰も場外ホームランのことは語らず、バントのやり方ばかり見てる。

だと(8)日本の不幸は、英語を語るにはTOEIC何点という内野安打の視点しかなく、学問を語るには大学入試という小さく前にならえ、の話しかないことだろう。それで、ぼくは一貫して場外ホームランの話しかしていないから、世界には内野しかない、と考えている人たちとは当然話が合わない。

だと(9)facebookやtwitter見てればわかるけど、場外ホームランを打つ人が出ないと、経済も国も活性化しない。目指しませんか、場外ホームラン。TOEICの点数や大学入試じゃない基準や目標について、日本人が熱く語るようになったとき、この国は本当に変わったのだと思う。

2012年5月12日土曜日

村はどこにありますか、村民はどこにいますか

むそ(1)意外だと言われるけど、ぼくはゲームを案外やっている。リンクがオカリナ吹いたり、少年が少女と手をつないで黒い影から逃げたり、草むらでスライムと出会ったり、ひっこぬいて投げて宇宙船つくったりしている。それで、たぬきちがいる「動物村」にも、いったことがあるんだ。

むそ(2)ちがった、「どうぶつの森」だってね。それで、確か、電車か何かに乗っていて、こっちが村だよ、なんて教えてくれるんじゃなかったか。それで、ああ、そっちに村があるんだ、とわかって行くと、たぬきちとかいて、たぬきちはスーパーか何か経営しているんじゃなかったっけ?(うろおぼえ)

むそ(3)「どうぶつの森」だと、村はどこにあるかわかっているし、村民がだれがいるかもわかっている。それでね、このところふしぎで仕方がないのが、 日本にもたくさん村があるらしい、ということ。特に、「原子力村」というのがあるらしくて、多くの人が言及する。ぼくが村民にされることもある。

むそ(4)「村」がある、ということを聞くと、当然「へえ、その村、どこにあるの?」「村民は、誰?」「村の条例って、あるの?」「村民憲章ってあるの?」と疑問がわいてくる。それで、「原子力村」とやらにも同じような疑問を抱くけれども、誰もわかっていなくて、あいまいに使っているみたいだ。

むそ(5)「原子力村」というのは、「原子力利権」に群がる腹黒い人たちの集まりで、お互いの利益を図るために、世間をだましている、というような意味で使われているようだけど、その村の定義は? どんな行動規範があるの? どこかに、密約が書いてあるの、とつめていくと、実態が消えていく。

むそ(6)「原子力村」ということの操作的定義がよくわからないから、ぼくは自分からはこの言葉を使わない。使って何かわかったようなことを言っている人は、あまりものを考えていないのだと思ってきた。それと、「原子力村」ということをいうときの、発言者の体重の乗り方が、いつもふしぎだった。

むそ(7)今朝、二度寝して起きた瞬間に、「ああ、そうか」と思った。ぼくは世間ずれしているから、おそらくどんな「村」の住民にもなっていない。学会でも一匹狼だし、特定の機関との密着もないし、互助組織もない。「村」の感情というものを、異なる惑星から来た人のように眺めているところがある。

むそ(8)「原子力村」と口をきわめて非難する人は、本人がどこかの村の住人か、あるいは村民のメンタリティを身近に感じているんだろう。ぼくにはそう思えてならない。ちょうど、日本人の中には韓国が好きな人も嫌いな人もいるけれど、ヨーロッパの人はそれほど関心自体がないのと同じように。

むそ(9)今朝、TOEFLを受験する人には「世界への道がここから開ける」、TOEICを受験する人には「日本村への道がここから開ける」とツイートした。案外そのあたりに本質があるのかもしれない。ぼくはどの村にも属さないで損をしているけど、ほんたうは日本には村がいっぱいあるんだろう。

2012年5月11日金曜日

間が悪いということが、世の中にはあるよね

まよ(1)さっき、コンビニに歩きながら、突然あることを思い出した。記憶というのは、不思議なもので、今生きている中で何らかの連想が働いたのかもしれないし、生きる中で、そのことを思い出すことが、バランスをとる上で必要だという無意識のダイナミクスがあったのかもしれない。

まよ(2)私が小学校の頃から、『刑事コロンボ』がものすごくはやりだした。「うちのカミさんがね」というぼさぼさの姿が、一世を風靡。ピーター・フォーク主演のこのドラマを、私は熱心に見た。ノベライズした本も十冊くらい持っていたから、よほど熱心なファンだったのだろう。

まよ(3)『刑事コロンボ』は、倒叙推理もので、最初に犯人がわかっていて、それをコロンボが推理して追い詰めていく。だから、犯人目線の映像がふんだんにあって、犯行をする、という立場に半分寄り添って物語が展開していくという、今考えれば斬新なスタイルでドラマが進行していた。

まよ(4)あれは大学生の頃。『刑事コロンボ』の放送があって、そのトリックが印象的だった。犯人が、エレベーターの中で証拠隠滅する。傘でエレベーターの天井を持ち上げて、その上に、ピストルを隠して、何事もなかったかのように出ていく。その映像が面白くて、鮮明な記憶に残った。

まよ(5)ある日、小学校の時からの親友の井上智陽(@eunoi)と、日本橋の高島屋に行った。スペースシャトル展か何かをやっていて見に行ったのではないかと思う。エレベーターに乗っているときに、刑事コロンボのことを思い出して、「そういえば、智陽さ、この前の見た?」と切り出した。

まよ(6)エレベーターの中には、私たち二人だけ。私が、『刑事コロンボ』のトリックの話をすると、井上もそれを見ていて、「こうやるんだよな」とよせばいいのに天井を傘で押した。そうしたら、信じられないことに、透明なプラスティックでできたその天井が、どさっと落ちてきた。

まよ(7)天井が落ちた瞬間、エレベーターの扉が開いた。やばい! と思って出ようとすると、乗ろうとしたおじさんが、「お前たち、直していけ!」と怒鳴った。そうしたら、高島屋のひとが、今考えてもやさしい声で、「あっ、直しておきますから、いいですよ」と声をかけてくださった。

まよ(8)顔から火が出るんじゃないかというくらい恥ずかしい思いで、ぼくたちは逃げるように立ち去った。よりによって、井上が傘で天井を押して、落ちた瞬間にエレベーターの扉があいて、おじさんがいて、店員さんがいるとは、間が悪いということが、世の中には確かにあるのだ。

まよ(9)今考えても不思議なのは、天井が落ちたのを見たとき、高島屋のひとが即座に「だいじょうぶですよ」と言ったこと。『刑事コロンボ』のトリックのせいだとは、わからなかったはずなのに。それにしても、あの時の高島屋の人は親切で、できることなら過去にトリップして説明し、あやまりたい。

2012年5月10日木曜日

ぼくはぼろぼろで、ふくは買いません

ぼふ(1)ぼくは、リュック以外つかったことがない。正確に言えば、学生の頃や、卒業したあとで、ビジネスマンの人が使うような鞄を試してみたことがあるが、どうにも身体感覚に合わなくてやめた。それで、リュック一つで、国内でも国外でも、どこでも出かけていく。

ぼふ(2)リュック一つでどこでもいっちゃうというのは、立派な紳士のセンスからすると、おかしいらしい。理化学研究所にいたとき、伊藤正男先生は、ぼくがリュックで建物を出ていくのを見る度に、「あれ、茂木くん、今日はこれから山に行くのかい?」と尋ねられていた。

ぼふ(3)いつもダンディな伊藤正男先生。「これから山に行くのかい?」という言葉は、ジョークや皮肉で言っていたわけではなく、素朴にそう思われておっしゃっていたのだろう。その度に、私は、なんだか申し訳なく、身体が縮こまるような気分になって、「いいえ、違います」と小さな声で答えていた。

ぼふ(4)それで、白洲信哉(@ssbasara)の件であるが、なにしろ彼は白洲次郎、白洲正子、小林秀雄の孫であるから、ダンディーな血統は申し分なく、ぼくのよれよれの服とみすぼらしいリュックを見ると、「君は何をしているのかね」と思わず言ってしまいたくなるのだろう。

ぼふ(5)有吉弘行さん(@ariyoshihiroiki)はあだ名をつけるのがうまい。スタジオでご一緒したときに、ぼくは、「賢いホームレス」というあだ名をつけられた。みんな爆笑して、ぼくは顔が真っ赤になった。「賢い」かどうかは別として、格好は、昔で言えば「ルンペン」である。

ぼふ(6)私が師匠と仰ぐ椎名誠さんに親近感を抱いてしまうのは、椎名さんもなんだかよれよれの格好をしているからだ。それで、椎名さんは、よくホームレスの方に間違えられるらしい。空港で人を待っていたら、警備員の人に、「ここは君のような人が来てはいけないところだ」とか言われるらしい。

ぼふ(7)ぼくは、服についてはほんとうにひどくて、ズボンは基本的に一着しかない。それで、家につくと床に脱いで、翌日、そのままはいてしまう。もちろん、一週間に一回くらい洗うけど。基本的に、ずっと同じ格好をしている。服を買うことも、ほとんどない。

ぼふ(8)自身の精神史を分析してみると、ぼくがこうなってしまったのはケンブリッジのせいだろう。かの地では、学者たちがみんなぼろぼろの格好をしていたから、ああ、これでいいんだ、と思ってしまった。それがいけなかったんだね。ほんとうにひどいよ。ずっと同じ格好だもんね。

ぼふ(9)でも、白洲信哉(@ssbasara)のおじいちゃんの白洲次郎さんも同じケンブリッジに行ったのに、なぜ向こうはダンディーになって、ぼくはよれよれぼろぼろになったんだろう。環境だけでは人は決まらないといういい実例だね。今年になって、服はまだ一着も買ってません。ずーっと同じ。

2012年5月9日水曜日

君たちはタコとばかにするけどね、ほんとうはいろいろ考えているんだよ

きほ(1)世の中にはいろいろ予想外のことがあるもので、このビデオ−> http://bit.ly/Jp0us1 を見たときには、本当にびっくりした。タコが、岩の上で、周囲の海草に合わせて擬態している。人が近づいたので、慌てて逃げ出すのだが、どこにタコがいるのか、全くわからない。

きほ(2)この見事な擬態ぶりは、一つの「知性」だということができるだろう。眼球で周囲の視覚的特徴をとらえて、それに合わせて身体表面の色素の分布を調整する。まるで、身体全体が立体ディスプレイになっているようなもので、人間とは全く異なる方向に進化した知性である。

きほ(3)この驚くべきビデオを見て、2週間くらい経ったときのこと。ふと、あのタコくんはどんな種類なんだろう、と思って、調べてみた。そうしたら、Octopus vulgarisだと書いてある。そうか、いずれにせよ、そんな特殊能力を持ったタコがこの世にいるんだなあ、と思っていた。

きほ(4)そしたら、よく見たらOctopus vulgarisは、Common Octopusだとある。それって、いわゆるマダコじゃないか! ということは、あの、ごく普通のタコが、周囲に合わせて擬態する驚くべき能力を持っている、ということになる。そのことを知り、私は動揺したね。

きほ(5)フラッシュバックのように蘇った光景がある。私は、大阪に行くと道頓堀を歩くのが好きで、食い倒れ人形をちょっと行ったところに、たこ焼きの屋台があった。その前を通るときに、ああ、たこ焼きだ、と思い、ふわふわの小麦粉の中に大粒のタコが入っている様子を思い描いていた。

きほ(6)そんなとき、たこ焼きのタコくんというのはゆでてぶつぶつ包丁で切っちゃうけど、くねくねしているやつだし、まあ、いいか、みたいに思っていたように思う。タコくんにそれほど敬意を払っていないというか、お前はどうせタコだろう、と高をくくっていたところがある。

きほ(7)タコなんて、たこ焼きに入ってればいいんだ! と思っていた。そのマダコくんが、あんなに高度な擬態能力を持っていたなんて。ぼくは、これは普遍的な現象で、相手をバカだとか、アホだとか思っていても、実は相手はいろいろ考えている、ということはいつもあると思うんだよね。

きほ(8)ネット上のやりとりを見ていると、最初から相手を決めつけていて、お前なんかタコだ、みたいな感じの人が多い。でも、他者って本当は想像し尽くすことなんてできないし、そもそも他者を理解する、というテーマ自体が不良設定問題だ。そのことの重みを、もっと感じた方がいいんじゃないか。

きほ(9)次にふかふかのたこ焼きを食べるとき、うまい、うまい、と思いながらも、君は今はこんなにぷりぷりになっているけど、本当は周囲の海草に合わせて擬態する、すごい能力を持っているんだよね、ごめんね、ありがとう、タコくん、と言ってあげたい。タコとばかにされる、すべての人のために。

2012年5月8日火曜日

なかかな人には言えない、ぼくについての恥ずかしい事実

なぼ(1)あれは数年前のことだったか。東大の駒場キャンパスかどこかで、池上高志(@alltbl)と話していて、池上が、「三島由紀夫の豊饒の海は、いいよな! あれを読んでいないやつは、信じられないよな!」と叫んだので、ぼくも、「そうだそうだ!」と同意した。

なぼ(2)池上に同意したことはいいのだが、実は二つだけ問題があった。一つは、ぼくは実はその時点で『豊饒の海』を読んだことがなかったこと。もう一つは、タイトルを、10%くらいの確率で、なんとなく、「ほうぎょうのうみ」と読むんじゃないか、という気がしていたということ。

なぼ(3)池上がそう言っていたので、ぼくはあわてて読んだ。「春の雪」「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」。一ヶ月くらい経ったとき、池上に会って、『豊饒の海』、いいよな。と会話を続けたが、内心ひやひやだった。もちろん、その後すぐにばらしたけど。性格的に隠しておけないんだよね。

なぼ(4)誰もが読んでおくべき、見ておくべき名作でありながら、自分はまだ、という事実は、なかなか人には言えない恥ずかしい事実なのではないか。何を隠そう、ぼくはまだ「失われた時を求めて」の、マドレーヌから先を読んでいない。「100年の孤独」は、2、3ページしか読んでいない。

なぼ(5)トルストイの『戦争と平和』は、「よし、読むぞ!」と気合いを入れて買ったものの、途中で挫折している。『アンナ・カレーニナ』は、ずっと『アンナ・カレニーナ』だと思っていた。数年前読んだら、感動的にすばらしい話だった。『戦争と平和』も本当は読まなくちゃいけないんだけど。

なぼ(6)途中で挫折した名作は数限りな。学生時代、『旅芸人の記録』をビデオ屋で借りてきて、途中で落ちた。なぜか、『天井桟敷の人々』も途中で落ちて、それ以来こわくて見れないでいる。面白いらしいんだけど。あと、黒沢だと、実は『どですかでん』を見ていないなんて、口が裂けても言えない。

なぼ(7)ぼくは24の時だったか、実はドストエフスキーをまだ一冊も読んでいない、ってガールフレンドに言ったらそれはよくないと言われて、『罪と罰』を読んだらすごく良くって、『悪霊』とか『白痴』とか、『カラマーゾフの兄弟』とか次々読んだ。24歳前の自分を振り返ると、恥ずかしいのだ。

なぼ(8)いろいろ、恥ずかしいことはあるんだよね。たとえば、ジェームズ・ジョイスは、実は『ダブリン市民』しか読み通したことないし(英文)、グレート・ギャッツビーを初めて読んだのは5年くらい前だし(英文)、『赤ずきんちゃん気をつけて』は、いやらしい小説だとずっと誤解していたし。

なぼ(9)まあさ、人間、長く生きていると、今さら、「実は読んでいません」「実は見ていません」と言えないようなことって、たくさんあるよね。そういうのって、しまっちゃうおじさんがしまっておいてくれないかなあ、と思うけど、ときどきわらわら出てくるので、今朝は太陽に当ててみました。

2012年5月7日月曜日

学校は本来、プライベートなクラブである

がぷ(1)昨日、受験の「偏差値」が、日本の教育をゆがめているというツイートをしたら、多くの反響があった。それらのご意見を拝読しているうちに、思い出したこと、考えが整理できたことがあったので、改めて今朝そのことを書きたいと思います。ツイートをお寄せくださった方々、ありがとう!

がぷ”(2)偏差値が統計的な数値である、ということはもちろん知っている。50+(得点ー平均点)/標準偏差x10である。なぜこのような数値が出てきたか、と言えば、受験指導で、ある学校に受かるかどうかを予測する目安として使われてきた、ということも承知している。

がぷ(3)「偏差値」という数値が意味があるのは、各受験生にある数字を割り振るのが可能な場合だけである。そして、日本の場合、その数値は「ペーパーテスト」となっている。つまり、偏差値による「受験指導」が可能になるためには、入試が、ペーパーテストを基準にしているものでなければならない。

がぷ(4)日本の受験指導において偏差値が幅を利かせているということは、すなわち、入試がペーパーテスト重視、言葉を換えれば偏重であるということを意味する。しかし、諸外国を見れば、入試はペーパーテストを唯一あるいは主要な基準として行われているわけではない。

がぷ(4)アメリカの大学入試が、SATやTOEFLのスコアだけでなく、エッセイや、インタビューなど多様な基準で行われることは周知の通り。イギリスのケンブリッジやオックスフォードも面接重視。そのような入試では、そもそも、「偏差値」という概念が、入試結果の予測を与えない。

がぷ(6)昨日ツイートしたように、ハーバードに合格した人の70%しか入学しない。もし、日本のように「偏差値」という基準があって、少しでも偏差値の上の大学、と考えたら、このような結果にはならないはず。基準が、ペーパーテストのような単一の数値には落とせない。ここに問題の本質がある。

がぷ(7)日本でペーパーテスト重視の入試が行われるのは、それが、日本人の考える「公正さ」に適合しているからだろう。一方、アメリカやイギリスの大学は、別の基準で運営されている。それを一言で表せば、「プライベート・クラブ」。私的なクラブだから、自分たちの基準でメンバーを選ぶ。

がぷ(8)パーティーを開くとき、どんなメンバーを集めるかを、ペーパーテストで決める人はいない。あるいは結婚相手をセンター試験で決める人もいない。学校というものは、本来、プライベートなもので、誰を入学させるかは、その機関の裁量(discretion)による、というのが英米の考え方。

がぷ(9)日本式にもメリットはあるが、弊害の最たるものが「偏差値」、それと学校側がものを考えなくなること。私的なクラブとして裁量でメンバーを選ぶのは真剣。クラブの発展がそこにかかっているのだから。ペーパーテストだけで選抜してきた日本の学校は、未来の形成を放棄してきたに等しい。

2012年5月6日日曜日

体制間競争は終わっていないけれども、私たちがきっと勝つ

たわ(1)ぼくは、気づいたときには爆発している。堀義人さんにお誘いいただいてG1サミットに行ったとき、北京在住のある方が、中国では今はこうだ、だから、日本も中国を見習って、、、というようなことを言われたとき、ぼくは瞬間的に着火して、立ち上がって発言しちまっただ。

たわ(2)ぼくは、中国賛美のその人に言った。「あんな、一党独裁の、自由もないような国が、なぜ日本の見本になると言うんですか? 逆でしょう。日本は民主主義国なんですよ。なんで、中国なんかのマネをしなくちゃいけないんだ!」 G1サミットの会場は、「あ〜」っていう雰囲気が流れた。

たわ(3)フランシス・フクヤマが冷戦終結を受けて「歴史の終わり」を書いた。その後も、「体制間競争」は続いている。中国のような国家資本主義と、自由主義経済のどっちが勝つか。中国のやり方は効率が良いようでいて、果たして最後にどちらに軍配が上がるか、まだ歴史の審判はついていない。

たわ(4)数年前北京に行ったとき、大きな立派な道路を走っていた。そしたら、同行の人がぽつりと、「ここ、数ヶ月前までは、古い家がたくさんあったんですよね」という。政府が道路をつくる、と決めたら、住民を強制的に退去させてしまって、あっという間に平らにしちゃうというのだ。

たわ(5)政府がこう、と決めたら、勝手にそうできてしまう。そんな中国のやり方は、短期的には効率がいい。人権や自由など無視した方が、あっという間にインフラができるかもしれない。しかし、その後の経済発展が維持できるかどうかといえば、怪しいと私は思う。

たわ(6)読んでいる途中で本がどこかに行ってしまって困っているのだけれども、津田大介さんの「動員の革命」に面白いことが書いてあった。中国はtwitter禁止だが、VPNを通せば使える。そいて、100万人程度の人が、実際にソーシャル・メディアを使っているというのだ。

たわ(7)中国からVPNを通してtwitterを使うというのは、ぼくも上海に行ったときできると確認している。それで、津田さんによれば、なぜそんな「抜け穴」を用意しているかというと、そうでないと国際的なビジネスが展開できない、というのだ。だから「ダブル・スタンダード」にしている。

たわ(8)盲目の人権活動家、陳光誠氏の処遇をめぐって、中国政府がまた醜い一面を見せている。なんの法的根拠もなく、陳氏を病院に幽閉し、家族を迫害する。そういうことを平気でやる国家社会主義と、私たちの自由主義と、最後にどちらが勝つのか。私は、自由が最後には勝つと、信じるものである。

たわ(9)今朝retweetした英国Guardian紙の記事は、「日本が復活し、中国は停滞するだろう」と予測していた。プリンシプルに従って考えれば、そうなるのではないか。日本には、明治から民主主義が存在した。体制間競争はまだ終わっていないが、必ず最後に自由は勝つと私は予測する。

2012年5月5日土曜日

不信で片付けるような、大人にはならないようにしよう

ふお(1)今日は「子どもの日」である。「子どもの日だ、子どもの日だ、うれしいな」という歌が確かあったような気がする。子どもの頃を振り返ると、親や、先生、周囲の大人がが、まるで何でも知っている万能の人で、何でもできる「魔術師」のように思えた時期があった。

ふお(2)だからこそ、子どもは、大人を「信頼」する。大人が言うことは、とりあえず正しいことだという仮説から始まる。子どもはまだ世界のことを知らず、無力だから、大人にすがるしかない。親や先生の言うことを、とりあえずは信じてかからないと、この複雑怪奇な世界で生きていくことができない。

ふお(3)それが、成長して、大人になっていくと、かつては全知で万能だと信じていた大人たちが、全知でも万能でもない、ということがわかってくる。その過程で、大人不信になったり、反抗期になったりすることもある。やたらと親に反発したり、先生にはむかったり。成長の一つのほろ苦さなのだろう。

ふお(4)やがて、自分で働くようになり、社会の中で責任ある立場になってきたりすると、実際に物事を動かしたり、回したりすることの難しさがわかってくる。そんな中で、かつて大人たちを全知、全能だと信じていた頃の自分が、なつかしくもあり、みっともなくもあったと感じるようになる。

ふお(5)社会人の大人どうしの関係性は、だから、「お互い大変ですね」というのが、基本的感情であるべきなのだと思う。それぞれの職責を果たすのが、完全にはできないことなどわかっている。お互いベストを尽くしましょう。それでも、思うようにいきませんね。そんな共感から、大人たちは始まる。

ふお(6)もっとも、子どもたちに対しては、大人たちは、時に全知、全能の存在であるふりをしなくてはならないこともある。世界はどうなっているのですか? 生きることの意味はなんですか? そんな時、言い切ってしまうというのは子どもに対する大人の思いやり。ちょっと照れくさいけどね。

ふお(7)最近気になる傾向の一つは、大人どうしの間で、「不信」という言葉がしばしばに使われることだろう。現状に対する批判や提言はあったとしても、「不信」という言葉は、安易に使うべき表現ではない。その裏には、相手が全知全能であるべきという誤った「期待」があるのだから。

ふお(8)現場に立って、実際に自分が仕切ることを想像したら、「不信」という言葉は安易には使えない。事態を改善するにも、一つひとつ積み上げていくしかない。「不信」という言葉は、便利なようでいて、実際にはその言葉を吐いている人の現場経験の欠如、未熟さを反映していることが多い。

ふお(9)大人って、どんな厳しい現場でも、そう簡単には逃げられないし、結果はすべて自分に返ってくるし。だからこそ、大人どうしのコミュニケーションの基本は、「大変ですね」という共感であるべき。「不信」という言葉が幅を利かすのは、子どもから大人になる青春の一時期だけだと思う。

2012年5月4日金曜日

組織は、邪魔をするな!

そじ(1)アメリカの大学の、オープンコースウェアは、便利である。よく、かけながら仕事をしている。先日も、MITのをかけながら作業をしていて、突然、おや。まてよ、何かがおかしいぞ、とおもった。それで、いろいろなことを考えはじめてまった。

そじ(2)なにがおかしいぞ、とおもったかと言えば、そのMITの授業が、つまらない、と言うか、ごく普通だったからである。自分が大学時代に、受けた授業とくらべても、別にたいしたことないし、ぼくの友人の、池上高志の熱力学の授業にもぐりこんだことあるけど、あっちのほうが、面白かった。

そじ(3)アメリカには、リチャード ファインマンという、驚くべき授業の達人がいて、ついつい、みんなファインマンみたいな授業をしているんじゃないかと思ってしまうけど、実際には、そんなことはない。MITと言えども、普通の教授はむしろ凡庸で、授業も、つまらん。あたりまえのことだよね。

そじ(4)それで、ぼくはいろいろ考えはじめてしまった。ぼくは、東京大学の悪口をいろいろ言っているけど、日本の大学が悪くなってほしいと思っているわけではない。ひとりひとりの能力を見ると、別に、MITも、東大も変わらないように思う。では、なぜ、組織全体としてみると、差がつくのか。

そじ(5)思うに、日本の組織は、個人の邪魔をするんだと思う。池上高志が先日ツイートしていたけれとも、やたらと報告書を書かせたり、会議があったりする。そういう時間が、大学の先生たちが、自由にものを考えたり、まとめたりする時間を、奪ってしまっているのだ。

そじ(6)アインシュタインなんかを見ていると、その独創性が育まれた条件は、要するに放っておかれた、ということに尽きるということがわかる。特許局の仕事は、器用だからすぐ終えて、あとは物理の計算とかをしていたらしい。放っておかれた時間に比例して、独創性は花を咲かせる。

そじ(7)湯川秀樹さん、朝永振一郎さんの生誕100年のシンポジウムで京都大学に行ったとき、面白いことがあった。当時の京大の学長さんが、京大が湯川さん、朝永さんにしてあげたことは、たったひとつ、放っておいて、邪魔をしなかったことですと。ぼくは、京大はすばらしいと思った。

そじ(8)大学の事務の人とか、文部科学省の人が、ついつい、余計な気を使ったり、心配して、先生たちに干渉したり、書類を書かせたりしたくなる気持ちは、わかる。事務屋、役人の本能のようなものでしょう。しかし、そこをぐっとこらえて、できれば邪魔をしないでほしい。

そじ(9)時間があるかたは、MITの、オープンコースウェアを一度見てみることをおすすめする。一人ひとりの先生の能力はさほど変わらないのに、なぜ、組織全体としては、大きな差がついてしまうのか。日本の組織は、きっと、至る所で個人の邪魔をしている。大学だけのことではない。

2012年5月3日木曜日

連帯保証制度は、どうあるべきか

れど(1)昨日、連帯保証制度についてツイートしたところ、いくつかの有益なフィードバックをいただいた。特に @hiromichimizunoさんの 冷静かつ論理的な反応に深謝。おかげで、私が問題と感じている点がよりクリアになったと思うので、そのことについてさらにツイートしたい。

れど(2)まず、「連帯保証」という概念、および制度<自体>に罪があるわけではない。夫婦で共有の家を購入する際の借金や、共同で経営する事業に関する債務については、社会的実態として連帯して債務を保証する実質的な意味があり、そのような場合には連帯保証人制度は有効である。

れど(3)問題は、日本社会においては、連帯保証制度が乱用されていること。たとえば、外国留学生がアパートを借りるときに、大学の先生が「連帯保証」するようなことがあると、この連帯債務には社会的な実態が伴っていない。大学の先生は学問の指導をするのであって、生計は共にしていないのである。

れど(3)入社する際に、親族が「連帯保証」の書面に署名を求められる事例がしばしばあるが、これも社会的実態を欠く。親族といえども、大の大人が入社後の日常の業務について、指導監督する責任も能力もあるわけではない。このような場合の連帯保証人契約は、明らかに形骸化している。

れど(4)入社する際に、親族が「連帯保証」の書面に署名を求められる事例がしばしばあるが、これも社会的実態を欠く。親族といえども、大の大人が入社後の日常の業務について、指導監督する責任も能力もあるわけではない。このような場合の連帯保証人契約は、明らかに形骸化している。

れど(5)借金する際に、知人や親戚が「義理」で連帯保証人の書面にサインすることがあるが、社会的実態を欠き、不当な場合が多い。たとえば、会社が借金する際に、その会社の経営にかかわっていない人が連帯保証することは、そもそもstake holderではないのだから、妥当性がない。

ど(6)借家、借金などにおける受益者ではない者、あるいは経営への関与がない者までもが「連帯保証」というかたちで債務者本人と同等の義務を負うことは、社会的実態、経済的合理性を欠き、法律の規定の乱用である。そして、そのような乱用が、日本の社会ではまかり通っている。

れど(7)問題の本質は、民法の連帯保証に関する規定が、本連続ツイートの(2)で言及したような社会的実態を伴わない事例に対してまで、個別の契約として適用されてしまうということの中にある。その結果、日本の社会全体が人的保証に頼り、より近代的なリスクへの対応の発達が妨げられている。

れど(8)社会的実態、経済的合理性を欠く「人的保証」に重点をおくことで、社会の流動性が失われる。外国人が家を借りる時の心理的障壁、起業する際の周囲への「迷惑」など、日本的なウェットな風土が温存され、結果として、連帯保証制度が、日本の後進性を象徴する存在となってしまっている。

れど(9)common lawの体系においては、以上でその一部に触れたような連帯保証に関する社会的に妥当な「法理」が「発見」されやすいのだろうが、日本では立法によって是正していくのが一番の近道。法体系は、すなわち、社会の「OS」。連帯保証の乱用をただすことが急務である。

2012年5月2日水曜日

権威って、なんだっけ?

けな(1)昨日、新聞を読んでいたら、東浩紀さんが憲法改正案をつくった、という話が出ていた。一方、別の面に、ツイッターの使用についての社内審議会のようなものがあって、そこに、憲法学の代表的な研究者の先生が出ていらした。その両紙面を比較して読んだときに、私はうーむと思ってしまった。

けな(2)これは、筑摩書房の増田健史と会ったときにいつも激論になるところなんだけど、そもそも、日本の憲法学って何なのだろう? 戦後、9条がどうしたとかいろいろやってきたわけだけど、結局、GHQの圧倒的な影響力の下につくられた憲法であることは否定できない。

けな(3)現実の世界は狭い意味での学問になんかは従わないし、むき出しのリヴァイアサンが暴れることもある。それで、敗戦して占領されて新しい憲法ができてしまうこともある、ということを引き受けた学問と、あたかも最初から憲法が金科玉条としてある、という学問は違うと思う。

けな(4)日本の法学界の「りっぱな」先生方の感覚から言えば、東浩紀さんのように自分で新憲法案をつくってしまうというのは「トンデモ」なんだろう。それで、現行の日本国憲法の条文の細かい解釈論かなにかやっている方が、「まともな」学問なんだろう。しかし、ほんとうにそうなのかね。

けな(5)どんな学問にも、適用限界というものがある。そして、戦後の法学界の適用限界は、きわめて狭いという印象を否めない。早い話、多くの自殺者を出す原因となっている民法の連帯保証規定をこんなに長い間放置している学者たちが、まともな学問をやっているとはぼくには思えない。

けな(6)結局、日本の法学のような学問における「権威」の構造は、明治以降の輸入学問の形式を本質的なところで踏襲しているのだと思う。その学者が、この世界のリアルな問題について、どれくらい真剣に深く考えたか、ということよりも、輸入の総代理店がここ、ということに、権威が由来する。

けな(7)東大法学部が法学界における「権威」であるというあの業界の妙な思い込みも、結局、明治維新で東大が「文明の配電盤」の総代理店だった、という事実に由来するに過ぎぬ。実際に画期的な学問がそこで行われた、というメリトクラシーに基づくものでは必ずしもないのだ。

けな(8)先日、日本の文系学部の「偏差値」というやつを見ていたら、相変わらず東大文一がトップだった。いみわからないよね。日本の実定法しか知らない人たちが、なぜグローバル化の時代のエリートなのか。東大文一の偏差値が暴落したとき、初めて日本は本当に変わった、と言えるのではないか。

けな(9)権威の暴落、つまらなさは、もう尋常ではなくなっていて、裸の王様が裸だとみんな気づいてしまっている時代。本気で本質を考え、適用限界を自ら設定せず、野生の猛獣のように自由に考え、疾走する。そんな本物の知性こそが賞賛される国に日本はなるのだと私は案外真剣に考えています。

2012年5月1日火曜日

その人を好きになるのに、肩書きはいらないよね

そか(1)この前、ニコニコ超会議からの帰りに、弟子の植田工(@onototo)と話していた。そうしたら、夏野剛さん(@tnatsu)の話になって、「オレ、夏野さんがどういうことをしてきた人か、今何をしているのか、よくわかっていないんだよね」と言ったら、植田に受けていた。

そか(2)「えっ、そうなんですか? あんなにやりとりしているのに、夏野さんのことわかっていないんですか?」「うん。肩書きとか、経歴とか、よくわかっていない。さっきのシンポジウムでも、あっ、そうか、この人、ニコニコにかかわっているんだ、とびっくりしたもん。」

そか(3)話のポイントはこうである。ぼくは、夏野剛さんとどこかのシンポジウムか何かでお会いして、その話しぶりを聞いて、一発で、この人はすばらしい人だと思った。それで、さまざまな場所で再会したり、ツイッター上でやりとりする時に、無限の好意を抱いてきた。夏野さんイイネ、って感じで。

そか(4)夏野剛さんが「イイ!」と思うのに、その肩書きとか、かかわっている組織とか、出身大学とか、一切知る必要はなかった。そういえば、いわゆる「名刺交換」みたいなものも、しなかったんじゃないかな。ぼくは名詞を切らしていることが多いから、そもそも交換にならないのだけれども。

そか(5)ある人に向き合う時に、その人の表情とか、お話になることとか、その内容とか、リズムとか、そういうもので判断する、というのはもう私の癖のようなものになっていて、最近はますますその傾向が純化している。ところが、世間を見ると、どうもそうではないらしい。

そか(6)初対面のときに、まずは名刺を渡さないと、なんとなく収まりがつかないように思っている。相手の肩書きとか、組織とかがわからないと、どのように話していいのかわからないと思っているのだろう。でもね、肩書きとか組織とかで人を見ると、かえってその人そのものが見えなくなるんだよね。

そか(7)日本社会が、肩書きや組織こそをその人の重要な属性だと思っていることは、いわゆる「責任」の取り方にも表れている。辞任することが背金の取り方だと思っているということは、その人にとって、肩書きが最大の資産だと思っているということ。でも、岡本太郎は辞任できないよね。

そか(8)結局、肩書きとか組織がもっとも価値のあるものだと思っていると、他人を見るときにもそのフィルターで見てしまうから、ほんとうのその人の姿が見えない。フェアじゃないし、もったいないよね。だから、ぼくは、できるだけはだかの気持ちで、誰かに向き合いたいと思っています。

そか(9)夏野剛さん(@tnatsu)の話に戻るけれども、ぼくは、夏のさんがどんなことをやってきた人か、今どこにいる人か、依然としてよくわかっていないのだけれども、とにかくいい人だと思う。はだかの眼で人に向き合うことが、流動化する現代においては、最高の出会いの方法論だと思います。