2012年5月22日火曜日

ようこそ、偏差値のない世界へ

よへ(1)「ようこそ、偏差値のない世界へ!」これは、ある芸術大学の学長さんが入学式の時に言った、という言葉である。確かに、芸術にはもともと「偏差値」という概念が成り立ちにくい。難関と言われる東京芸大でも、センター試験の点数は低くて入ってくる人もたくさんいるという。

よへ(2)デッサン力などを採点する基準があるにせよ、それはペーパーテストのような明確な点数、偏差値に変えるのが難しい。ましてや芸術そのものは、もちろん偏差値とは関係ない。「ようこそ、偏差値のない世界へ」。学長のこの言葉は、それまでの学校生活から解放するパワーがあるだろう。

よへ(3)そこで言いたかったのが、「偏差値のない世界」は本来芸術のことだけではない、ということ。日本の大学入試は、「偏差値」に支配されている。だから、大学の「ランク」が偏差値で決まると、なんとなくみんな思っている。しかし、これは特殊な条件の下での「幻想」に過ぎぬ。

よへ(4)そもそも、なぜ「偏差値」が登場したか。入試の結果をあらかじめ予想しようとしたからである。受けても、受かるかどうかわからないのでは気の毒だ。受験生全体の分布のうちどのあたりに位置するかという「偏差値」で、入試結果を予想しようという、都立高校の先生の発案だったと聞く。

よへ(5)つまり、日本の大学入試は、「偏差値」で入試結果が予想できるようなものだったということ。東大の浜田総長が言われたように、ペーパーテストで「一点でも高い方を入れる」ことが公正な入試だと長らく信じてこられたからこそ、偏差値というものさしが通用した。

よへ(6)ところが、アメリカの大学入試では、「偏差値」なんて言葉は聞かない。なぜか。「偏差値」では予想ができないような入試をしているからである。ハーバードの募集要項を見ると、SATなどのスコアは「参考」にするが、他の要素も配慮するという。入試が、多様なのである。

よへ(7)「アカデミックに優秀な学生」を基本的には求めるが、「ある分野で卓越した結果を残した人」「突き抜けた人」も求めるとはっきりと書いてある。だから、オリンピックの金メダリストや、映画女優も、ハーバードに入る。ペーパーテストの点数という単一のものさしでは入試が予測できないのだ。

よへ(8)つまり、アメリカの大学は、プライベートなクラブに似ている。魅力的な組織にするために、多様な人材を、多彩な基準で採用するのである。どんな基準で採っているかは、組織のdiscretion(熟慮)に属すること。その結果、組織がどのように発展するかは、自由競争に任される。

よへ(9)ようこそ、偏差値のない世界へ。日本の入試で偏差値が支配してきたのは、入試が偏差値で予想できるようなものだった、ことを反映しているに過ぎない。市川海老蔵さんは、ハーバード大学には入れるかもしれないが、東大には入らないだろう。多様な人材を集めない組織は、結局弱体化する。