2012年5月24日木曜日

愛するものに向き合う時間の中で、育っていく

あそ(1)@KimuSuhanに送ってもらった南直哉さんの『恐山』をようやく見つけて、徳島の行き帰り読んでいた。面白い! 直哉さんに老師が、「お前、人は死んだらどこに行くかわかるか?」と聞く。「わかりません」と言うと、「そんなこともわからないのか。愛するもののところに行くんだよ」

あそ(2)なるほど、と思う。仕事を愛して、それに心血を注いだ人は、死んだらその作品の中に生き続ける。誰かを大切に育んだ人は、その誰かの中に生き続ける。いずれにせよ、人は愛するものの中に入る。愛するものがない人は、その点、不幸である。

あそ(3)それで、10年ぶりくらいにKindle for iPadでSurely You're Joking, Mr. Feynmanを読んでいて、あまりにも面白い。探求すること、熱狂的であること、好奇心のすばらしさがあふれていて、ぼくが好きなのはこの世界なのだなと確認できた。

あそ(4)先日の金環日食における熱狂で、日本の様々が一度克服され、生命力が増進したような気がした。同じように、ファインマンを読んでいると、ああ、こういうのが好きなんだよな、と思う。自分の好きなもの、愛するものに没入することには、魂を浄化する作用がある。

あそ(5)思い出したのが、高校の同じ学年だった高橋英太郞のこと。ピアノを上手に弾く、ダンディーなやつだった。ぼくがその頃からおっちょこちょいで、いろいろふかしていると、英太郞が冷静に正しい意見を吐くのだった。英太郞のひんやりとした理性が、ぼくは好きだった。

あそ(6)ぼくは、いつも、世の中の劣悪なものを見つけては、これがくだらない、あれが低俗だ、などと噴火していたら、英太郞は、ごく冷静に、「でも君ね、いつの時代も、悪いものなんて、たくさんあるじゃないか」と言う。「いちいち腹を立てていては、仕方がないよ。」

あそ(7)今も昔も、ムダにエネルギーを発散するのが私の癖のようなものだから、どうしても放っておけない性分があるのだが、英太郞の言うように、悪いものは昔からたくさんあるのは理屈だ。だから、本当は、愛するものに心を注いで、それを育て、自分も育つのがいいのだろう。

あそ(8)ツイッターはとても面白いツールだが、オープン・ダイナミカル・システムの宿命として、邪悪なもの、これはちょっとな、と思うもの、勘違い、その他もろもろがやってくる。それにいちいち腹を立てていてはもぐら叩き。切りがない。英太郞のように、冷静に割り切るのがよかろう。

あそ(9)「英太郞の教え」は重々わかっていても、血気盛んでついつい噴火してしまう。愛するものは深くて、それに費やす時間は必ずさらさらと生命を潤してくれる。だから、愛するものに向き合う時間を耕そうと思う。ツイッターのようなSNS全盛の時代だからこそ、「英太郞の教え」が大切だ。