2012年5月19日土曜日

どうでもよいことは流行に従い、芸術のことは自分に従う

すあ(1)小津安二郎の『東京物語』をさいしょに見たのは大学院生の頃。正月休みにバイトをしていた予備校の近くのレンタルビデオ屋で借りた。そのときは、実はあまりよくわからなかった。3月中旬になって、何となく気になってもう一度借りてみた。そしたら、熱病にかかってしまった。

すあ(2)とりわけ、『東京物語』の冒頭と最後に出てくる尾道の風景に惹かれた。とりつかれたようになって、ついに、新幹線に一人乗って旅をした。季節は春。千光寺公園には、桜が満開だった。尾道水道を見下ろし、坂の街を歩きながら、映画のシーンの面影を探し求めた。

すあ(3)『東京物語』は、映画と言えば欧米のものばかり見ていた私が、日本映画の良さに目覚めるきっかけとなる作品となった。イギリス留学中、ロンドンで『東京物語』を見たときは、なんだか途中で涙があふれてしまった。映画の温かさ、なつかしさに日本のことを思い出したのだろう。

すあ(4)『東京物語』は、世界の映画史上のトップ10にしばしば登場する名作となり、『晩春』、『麦秋』、『秋刀魚の味』といった作品も、世界中の映画人が愛し、学び、繰り返し立ち返っていく古典となった。そんな小津安二郎が生きていた時代に思いをはせると、はっとあることに気づく。

すあ(5)『晩春』の公開は1949年。『麦秋』は1951年。『東京物語』は1953年。終戦後、ほんとうに間もない頃である。未だ、日本社会が混乱のまっただ中にあったその頃に、これらの作品が撮影されたと考えると、ちょっと信じられないような想いがある。

すあ(6)原節子の、精神的な美しさ。笠智衆の、諦念をはらんだ微笑み。繰り返される、取り立てて大きなことも起こらない、家族の物語。どこにでもありふれているような日常が、底光りしている。そんな小津の映画が、戦後の混乱期に撮られているということに、凄みを感じる。

すあ(7)当時、日本では左翼思想が盛んで、冷戦を背景に、激しいイデオロギー論争が繰り広げられていた。そんな嵐のような世相の中で、小津安二郎が、穏やかで小市民的な世界を描き続けたことに対して、当然批判はあったらしい。小津は古い、骨董のようだと揶揄されたとも聞く。

すあ(8)今や、世界の映画史に残り、敬愛される巨匠である小津安二郎が、汚く厳しい言葉でバッシングされていた。そんな批判に走った当時の血気盛んな若者たちの気持ちがわからないわけでもない。しかし、時代が流れ、残っているのは、小津映画の神々しい温かさだけ。批判は、全部消えてしまった。

すあ(9)同時代を生きていると、批判やバッシングのような事象が、あたかも重大事のように思える。しかし、時が流れれば、それらは全て消えてしまう。もちろん、人や作品自体も消えてしまうことも多いが、愛があれば、多くの場合それは残る。叩くよりも、叩かれて愛を貫いた方が徳である。