2012年5月20日日曜日

嫌いは無関心より、好きに近い

きす(1)子どもの頃、大人たちがビールを飲んでいるのを見て、顔をしかめていた。祭りのときなど、「ちょっとなめてみるか?!」と言われて、口にして、「うぇー、苦い」。「こんな苦いもの、よく大人は飲むなあ」と逃げ出した。そんなぼくを見て、大人たちは笑っていた。

きす(2)それが、確かに20歳を過ぎた頃であって、大学に入った直後では決してないと思うが(飲酒の成人年齢は18歳にした方がいいよね)、ビールが好きになった。あの苦い味が、たまらないねえ、になったのである。暑い夏の夜など、枝豆とビール、早くはやく。ぐびぐび。ぷはー。

きす(3)扁桃体など、「好き」「嫌い」を司る脳の回路網のダイナミクスとしては、確かに「嫌い」は「好き」に近い。「無関心」よりも、「好き」に近い。だから、線形領域への待避か、あるいはオセロで白黒が逆転するような過程を通して、「嫌い」が「好き」に逆転することがあるのである。

きす(4)フジテレビの韓流ドラマ騒動のときにぼくも巻き込まれたので誤解があると思うが、ぼくは韓国の文化にとりたて激烈な感情を抱いていない。旅をして、いい国だとは思っているけれども、熱狂的な韓国好きや、逆に激しい嫌韓派ほどの、駆り立てられるような気持ちを、僕は持たない。

きす(5)そんなぼくが興味深いと思っているのが、韓国が嫌いだ、という人たちの感情に、勢いがあることである。それだけ関心があるのだろうと思う。その意味では、嫌韓派は、韓流ドラマ好きにむしろ近い。ぼくのような中立的な立場から見ると、そんなに関心があるんだな、と思えてしまう。

きす(6)遠いアフリカの国の文化に、韓流ドラマ好きvs 嫌韓派ほどの、強い関心を持つことはそんなにないだろう。やはり、歴史的にも文化的にも関心の高い隣国であるから、それだけ強い感情を抱く。好きにしても嫌いにしても、無関心でいることが難しい、ということなのだろう。

きす(7)以前、飛行機の中で、フランス人とベルギー人の感情的対立を描いた、Nothing to declare(確か)という映画を見たことがあった。日本人からしたら、フランスでもベルギーでもどっちでもいいよ、と思えるけど、ベルギーの人にとっては大いなる差があるらしい。

きす(8)日本は、明治維新で近代化をいち早く成し遂げたから、自分たちはアジアの中で特別だと長い間思ってきた。韓国や中国も経済成長を経験した今、日本がアジアの一国であるという認識に問題はないだろう。そして、アメリカから見れば、日本と韓国が、文化的に近く見えることも。

きす(9)「嫌い」という感情を抱くことは、もちろん自由。ただ、その「嫌い」の背景に強い関心があることをメタ認知すると、より強靱な立場を確保できる。嫌いは、無関心よりも、好きに近い。だからこそ、ぼくは、ツイッター上で執拗にぼくを批判する人を大切にし、時にはフォローまでする。