2012年5月12日土曜日

村はどこにありますか、村民はどこにいますか

むそ(1)意外だと言われるけど、ぼくはゲームを案外やっている。リンクがオカリナ吹いたり、少年が少女と手をつないで黒い影から逃げたり、草むらでスライムと出会ったり、ひっこぬいて投げて宇宙船つくったりしている。それで、たぬきちがいる「動物村」にも、いったことがあるんだ。

むそ(2)ちがった、「どうぶつの森」だってね。それで、確か、電車か何かに乗っていて、こっちが村だよ、なんて教えてくれるんじゃなかったか。それで、ああ、そっちに村があるんだ、とわかって行くと、たぬきちとかいて、たぬきちはスーパーか何か経営しているんじゃなかったっけ?(うろおぼえ)

むそ(3)「どうぶつの森」だと、村はどこにあるかわかっているし、村民がだれがいるかもわかっている。それでね、このところふしぎで仕方がないのが、 日本にもたくさん村があるらしい、ということ。特に、「原子力村」というのがあるらしくて、多くの人が言及する。ぼくが村民にされることもある。

むそ(4)「村」がある、ということを聞くと、当然「へえ、その村、どこにあるの?」「村民は、誰?」「村の条例って、あるの?」「村民憲章ってあるの?」と疑問がわいてくる。それで、「原子力村」とやらにも同じような疑問を抱くけれども、誰もわかっていなくて、あいまいに使っているみたいだ。

むそ(5)「原子力村」というのは、「原子力利権」に群がる腹黒い人たちの集まりで、お互いの利益を図るために、世間をだましている、というような意味で使われているようだけど、その村の定義は? どんな行動規範があるの? どこかに、密約が書いてあるの、とつめていくと、実態が消えていく。

むそ(6)「原子力村」ということの操作的定義がよくわからないから、ぼくは自分からはこの言葉を使わない。使って何かわかったようなことを言っている人は、あまりものを考えていないのだと思ってきた。それと、「原子力村」ということをいうときの、発言者の体重の乗り方が、いつもふしぎだった。

むそ(7)今朝、二度寝して起きた瞬間に、「ああ、そうか」と思った。ぼくは世間ずれしているから、おそらくどんな「村」の住民にもなっていない。学会でも一匹狼だし、特定の機関との密着もないし、互助組織もない。「村」の感情というものを、異なる惑星から来た人のように眺めているところがある。

むそ(8)「原子力村」と口をきわめて非難する人は、本人がどこかの村の住人か、あるいは村民のメンタリティを身近に感じているんだろう。ぼくにはそう思えてならない。ちょうど、日本人の中には韓国が好きな人も嫌いな人もいるけれど、ヨーロッパの人はそれほど関心自体がないのと同じように。

むそ(9)今朝、TOEFLを受験する人には「世界への道がここから開ける」、TOEICを受験する人には「日本村への道がここから開ける」とツイートした。案外そのあたりに本質があるのかもしれない。ぼくはどの村にも属さないで損をしているけど、ほんたうは日本には村がいっぱいあるんだろう。