2012年1月31日火曜日

電柱のかげから紙芝居を見る子どもがいるような、そんな社会が住みやすい

でか(1)うちの母親は唐津生まれの小倉育ち。よく、九州の話をしてくれた。その中に、「水飴やさん」の話がある。おじさんが自転車に乗って、水飴を売りにくる。当時は甘味など珍しいし貴重だから、子どもたちがわーっと集まってくる。

でか(2)それで、おじさんから、割り箸の先につけた水飴を売ってもらう。それで、よーいドンで、割り箸を両手でぐるぐる回して、水飴をこねる競争をするのだという。最初は透明だった水飴が、気泡が入って次第に白濁してくる。やがて、水飴は真っ白になる。

でか(3)水飴がいちばん最初に白くなった子どもは、おまけでもう一個もらえたのだという。それで、子どもたちは必死だから、一生懸命ぐるぐる回して、「おじさん、見て! 見て!」とアピールしたのだという。そんな風に水飴を回している母の様子を想像すると、なんだかおかしい。

でか(4)実際、母親は水飴を回すのがとてもうまくて、子どもの頃、自分のなつかしさもあったのか、よく大きな瓶に入った水飴を買ってくれた。そして、家の居間で、ほら、こうやってやるんだよとぐるぐる回してくれた。その手の回転の速いこと! 間違いなく、母は免許皆伝だった。

でか(5)水飴やさんは、実は一つのメディアだった。子どもたちが水飴をぐるぐる回す騒ぎが一段落すると、おじさんは紙芝居を始めてくれる。なんでも、黄金バットだったか、他の話だったか、何しろテレビがない時代。子どもたちにとって、紙芝居は貴重な、興奮すべき娯楽だった。

でか(6)おじさんとしても商売だから、水飴を買った子どもしか紙芝居を見てはいけない。それでも、おじさんが紙芝居を始めようとすると、お金がなくって水飴を買えなかった子どもも、何しろ見たいから、わらわらと自転車の回りに集まってくる。おじさんは、「水飴を買ってない子はダメだよ」と言う。

でか(7)仕方がないから自転車から離れて、近くの電信柱のうしろか何かに隠れている。そこからでも、遠いけど、紙芝居を見ることができる。おじさんは、そんな子どもを見て見ないふりをして、紙芝居を始める。水飴を買った子どもたちは、堂々と近くでかぶりつくように見学している。

でか(8)そんな話を子どもの頃から母親に聞かされて、この頃思い出すのは、現代のさまざまな問題に関係すると感じるからだろう。おじさんが、「水飴を買わないと見ちゃいけないよ」というのもわかる。一方で、電柱の後ろから、ひっそりと紙芝居を見る子どもだって、大切にしたい。

でか(9)ネットの上の著作権の問題とか、引用とか、あるいは大学の授業の「もぐり」のこととか、杓子定規にとらえると発展がとまるし、人間の活き活きとした精神が疎外される。一切ダメ、という無菌状態は恐ろしい。電柱のかげから紙芝居を見る子どもがいるような、そんな社会が住みやすい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月30日月曜日

本当に脳にいいこと

ほの(1)よく、「○○は脳にいいんですか?」と聞かれる。「勉強は一日のうちのいつやると脳にいいんですか?」「電子教科書は脳にいいんですか?」そういう質問をされると、私は天をあおぐ。質問の発想自体が、そもそも間違っている。(理由−>http://bit.ly/dmDgqq

ほの(2)確かに、テレビ関係者は「○○は脳に良い」という単純な発想を求めることが多い。視聴率競争の中で、そんなわかりやすい文法を求められているのだろう。そんな単純なことではない、と丁寧に説明するとわかってくださるが、問題はテレビではなく、それ以前の日本の教育にあると思う。

ほの(3)時々、小学校の講演会などに呼んでいただくが、子どもたちの笑顔や先生方の熱心さは別として、全体として古ぼけた印象がある。「来賓」が壇上に並んで、赤い花をつけて挨拶する。型どおりの、至極ごもっともだが無内容の挨拶。自分の肉声で話す人がいるとびっくりして感動するくらい。

ほの(4)つまり、文科省が「検定」をして「これが正しい」という内容を「小さく前にならえ」で教えてきたのが日本の教育なのだろう。だからこそ、グローバルな大競争の中で全く対応できず、たたずんでいる。「○○は脳にいいですか」という発想が出てくるのは、日本の教育の弊害である。

ほの(5)私自身もマインドコントロールの中にいた。中学校で蝶の生態の研究をしていた頃、突然、「そうか、正しいか正しくないかは、自分で仮説を立てて調べるしかないんだ、教科書に書いてあるからといって、正しいとは限らないんだ!」と気づいた。そんなこと、誰も教えてくれなかった。

ほの(6)私はiPhoneとガラケーの両刀使いだが、ガラケーの方に、時々「今日の1位 おうし座 2位 乙女座 ・・・」などという無意味な文字が流れてきてうんざりする。何の根拠もない占いをありがたがることと、「○○は脳にいいですか」と聞くマインドセットは一つにつながっている。

ほの(7)ある時期までの日本の経済にとっては、自分で疑問を持たず「正解」を鵜呑みにする人を大量に生み出すことが適応的だったのだろう。今は昔。疑い、自分で調べ、考え、開いていく人を育まないと、日本の復活はない。大学入試までが「正解」を求めるペーパーテストなんだから、救いがない。

ほの(8)「これが正解」と洗脳するテレビや文科省を信じちゃいけないよ。本当に脳にいいことは何か、教えてしんぜよう。まずは本物に出会って感動すること。ぼくは小学校の時にアインシュタインの伝記を読んで、科学者になろうと思った。その熱い思いは、今でも全く変わってはいない。

ほの(9)アインシュタインの人生は、徹頭徹尾ロックンロールでアナーキーだった。そんな感触は、小学生にも伝わってきたよ。校庭で小さく前にならえをしながら、無限の未来を夢見ていた。本当に脳にいいことの第一は、本物に出会う感動です。第二以下は、また機会があったらお話しましょう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月29日日曜日

(めずらしく)日本の政治についての分析

にせ(1)日本の政治情勢が緊迫している。衆議院の解散総選挙が近いのではないか、と議員さんたちがそわそわし始めている。焦点となっている「消費税」の問題だが、もともと自民党が10%案を出していたわけであり、民主党案に反対することには、根拠が乏しいと多くの人が感じている。

にせ(2)消費税率を上げるだけでは、ただでさえ冷え込んでいる経済、消費者マインドをさらに低下させる可能性がある。同時に、人々が未来に希望を持てるような、新たなヴィジョンを示すべきだと思うのだが、 現政権からはそのような声が聞こえて来ない。議員の定数削減などは小さな話である。

にせ(3)もともと、英国では消費税率は一定の上限の中で財務大臣が政策決定できると聞いている。上げるにせよ、下げるにせよ、いちいち国会の審議のリソースを喰ってしまうのはムダなことである。英国のように政策決定で変更できるようにして、あとは選挙で審判を受けるようにすればいい。

にせ(4)総選挙が近い情勢で、焦点となるのは橋下徹さんの率いる維新の会だろう。その準備が整う前に解散、という手もあるのではないかと考えたが、ある方によると、維新の会の準備はすぐにできる、どんなに早く解散しても、候補者を立ててくるはずだとの分析。

にせ(5)民主党の小沢一郎さんが橋下徹さんを高く評価しているのは、何と言っても選挙をして勝ったという実績においてだと聞く。民主主義においては、選挙に勝ってマンデートを得る以外に政策実行の道はない。次の総選挙の結果、政権を担うのは、民意のマンデートを得た勢力である。

にせ(6)小泉純一郎さん以来、民意が求めているのは実は行政組織、パブリック・セクターの非効率の改革だということが見えてくる。人々は、必ずしも「ばらまき」を求めているわけではない。野田政権の支持率が上がらないのは、消費税の話ばかりで、一向に行政改革の道筋が見えないからだろう。

にせ(7)橋下徹さんの手法に対する反発が時にあっても、民意がそれを支持しているのは、行政改革を目指しているから。これは一種の「生存本能」のようなもので、多くの日本人が、パブリック・セクターがこのままでは日本の将来は危ういと、ゆでガエルからの脱出を志向している。

にせ(8)問題は、大阪府、大阪市では民意の支持を得て成果を上げつつある橋下さんの手法が、果たして国政でも通用するかということだろう。「敵」をつくる方法は、支持率を上げても最終的にうまく行くとは限らない。誰もが(おそらく霞ヶ関の方々自身も)有効な行政改革への道を模索している。

にせ(9)ある方の予想では、自民党は総選挙となれば谷垣総裁を変えてくるのではないかという。小泉進次郎さんあたりにすれば、民意が沸騰するだろう。議員たちの「生存本能」を甘く見てはいけない。日本の政治は、総選挙に向けて、何が起こってもおかしくない局面に突入した。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月28日土曜日

脳の中の、カードを一枚一枚そろえていこう

のか(1)昨日、自由報道協会の一周年の賞の授与式でプレゼンターをした。上杉隆(@uesugitakashi)に頼まれて行った。それで、スピーチの時に、久しぶりに噴火してしまった。でも、その時一番言いたかったことは、「人間には、やりたくてもできないことがあるんだよ」ということ。

のか(2)心を入れかえて、明日から行いを改めれば変わるほど世の中は甘くない。悪意や怠慢でやらないんじゃなくて、要するにできないのだ。人間には自由意志はない。自然は飛躍しない。すべては連続して変わっていく。だからね、そういうことなんだよ。

のか(3)記者クラブというものは、誰がどう見たってそれが存続する合理的な根拠なんてありはしない。それでも廃止しないのは、つまり悪意や怠慢じゃなくて、(能力的に)できないのだと思う。それは記者さんたちだけの責任ではなく、日本の社会自体がそうなっている。

のか(4)できないというのは、もちろん自分にも向けられる。このところ、私は、自分が情けなくて、社会のことよりも自分を何とかしたい、変えたいという思いが強く、あまり社会のことは言わなくなっているけど、昨日は上杉隆もいたし、ひさびさの噴火だった。すまんことです。

のか(5)私は、二十歳くらいから英語でばんばん本を書くべきだと主張し続けているのに、未だにできていない。これも、単純にできなかったのだと思う。今、ものすごい勢いで必要な要素をそろえつつあるが、それをやってみて始めて、ああ、オレにはカードが揃っていなかったのだと思う。

のか(6)若いときはバカだから、こんちくしょう、明日から心を入れかえてやるぞ、今すぐすべてを! なんてドイツロマン派の疾風怒濤みたいなことを言っていたけど、冷静になって考えてみると、少しずつカードをそろえていくしかないんだよね。毎日、丹念に。

のか(7)人生を、突然大変化する「火成論」と、徐々に変化していく「水成論」とでとらえてみると、もちろん、衝撃の出会い、自分を揺るがす革命も大事だけれども、ほとんどのことは水成論でできている。その水成論で微少な変化を積み上げて、地殻変動に持っていくしかない。

のか(8)今の日本の大学が世界の二流になりつつあることは事実だし、iPhoneのような、情報ネットワークと結びついた「ものづくり2.0」の体制がまったくできていないことも事実だけれども、改善するためには、冷静にカードを一つひとつそろえていくしか、他に方法がない。

のか(9)カードは、本当は5枚のうち4枚もう揃っているのかもしれない。あるいは、2枚から3枚に増やすプロセスなのかもしれない。記者クラブの廃止という国際的に見れば当然のことも、カードを2枚、3枚とそろえていくしかないのだろう。自由報道協会、がんばってください。応援します。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月27日金曜日

超えるとかえって、さわやかになるんだよ

こさ(1)1月、二度北海道に行った。一回目は釧路郊外の鶴居村。朝、宿の人に聞いたらマイナス22度だった。ひええ。二度目は、帯広。大樹町の人に聞いたら、最近マイナス30度だったという。ひええ。ところが、雪原の中を歩いていると、そんなに寒さに脅かされる気がしない。

こさ(2)脅かされるというのは、心理的にきつくないということである。飛行機で羽田に帰って、東京の曇り空を見たら、かえってその方が寒々としていた。うわあ、ぶるぶる。マイナスにもなっていないのに、これはいったいどういうことなのだろう。人生の至るところにそんなことがありそうだ。

こさ(3)中途半端が一番行けない。気分でも幸福度でも、下り坂の差し掛かり、あるいはそこに行く直前が一番こわい。ジェットコースターで、カタカタカタと上がっていって、いよいよ下る、というそのすぐ前が一番どきどきするのと同じことだ。急降下始めてしまえば、うわあと案外さわやかである。

こさ(4)不幸というのは、どん底に行くと案外その下に微かな甘みがあるものではないかと思う。イギリスのコメディは、そのあたりの消息を描いている。みじめさの中に栄光を見る。失恋をする人は、大切な人を失うんじゃないかと恐れている時に一番不幸である。失ってしまえば、もう仕方がない。

こさ(5)優等生が恐れる「バカだと思われるんじゃないか」という心理も、中途半端だからセコイんであって、突き抜けて大バカになっちゃえばかえってさわやかである。あんなに賢い人が、一方ではバカにもなれると、人間的魅力が増しさえする。こわがってブレーキ踏んでいるからいけないんだよ。

こさ(6)日本がこの20年ずっと不調なのも、落ちる、落ちると思って怖がっているからどう。そう、ぼくたちは落ちました。もうダメです。それで悪いか晩飯食うなと開き直れば、終戦後の焼け野原より悪いことはないんだから、かえってさわやかになる。下り坂で足を踏ん張っているからみっともない。

こさ(7)数字に細かいやつはセコイけど、私の畏友、田森佳秀(@Poyo_F)のように突き抜けてすべて数学になってしまえば、かえってさわやかである。周囲は困ることは多いけれども、本人に異様なまでの存在感が生まれる。この世に一人だけの人になる。中途半端が一番いけない。

こさ(8)貫くこと、突出することのさわやかさを私たちは思い出すべきなのだろう。すべてが微温的になっている。あの人はこういう人なのかもしれない、と不安にさせるよりも、こういう人なのだ、と確定した方がみんな安心する。マイナス一度だと中途半端。マイナス22度になっちまいな!

こさ(9)北海道の人たちが「東京の方が寒い」ということの意味を、極寒の鶴居村と帯広に行き、バカみたいに外を歩いて体感した。寒いから車に乗れ、というのを、寒いのがいいんだ、と断っててくてく歩いた。いや、いいんだよ、マイナス22度。人生のいろいろを、マイナス22度にしたいわな。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月26日木曜日

ツイッターはソーシャル・ネットワークではない

つそ(1)相変わらず、フェイスブックをやる気がしない。こんなことでは行けない、と時々行ってみて眺めてみるのだが、やはり意味がわからない。なぜそう感じるのか、私はツイッターが中心なのかということについて、今ふたたび考えてみたいと思う。

つそ(2)まず確認したいことは、自分が感じていることの総体は、すべて言語化されるわけではないということである。ツイッターにしろフェイスブックにしろ、そのメディアをどう感じるかというのは自分の無意識の総体であって、時々振り返ってみることで初めて不完全ながら言語化できる。

つそ(3)フェイスブックを眺めて感じるのは、ほとんどがirrelevant informationということだろう。何を食べているか、どこに行ったか、あまり知りたくない。そのようなまったりしたつながりの雰囲気は初期のmixiにあったが、ウェットなのがいやになって 止めてしまった。

つそ(4)大切な友人とは、どうせつながっている。というか、塩谷賢にしても、郡司ペギオ幸夫にしても、養老孟司さんにしても、大切な人はそもそもウェブ上にいない。自分のタイミングでメールをしたり電話をしたりすればいいから、いつも空気のようにふわふわしている必要を感じない。

つそ(5)フェイスブックのようなSNSについての本質的な懐疑は、そもそもsocial networkというのは可視化できるものではないということ。本当に大切なつながりは、決して可視化されず当事者たちにしかわからないことも多い。だから、データとしても参考にならない。

つそ(6)一方、なぜツイッターは使っていて気持ちがいいのだろう。つまり、その本質がソーシャル・ネットワーク・サービスではないからだろう。似たような見解は、1、2週間前に誰か(確かツイッターの経営幹部の一人)が述べていた。ツイッターはSNSではない。では、何か?

つそ(7)私は、ツイッターはミーム(文化的遺伝子)の流通、出会い、淘汰の場だと感じている。重要なのは「人」という単位ではなく、それを超えた内容である。だから、つながりを超えてお互いに行き来するし、そのドライなダイナミクスが心地よい。トレンドワードはその一つの表れである。

つそ(8)LinkedInにしても何にしても、私個人はSNSなど必要としていないと感じる。ツイッターの本質はSNSではないんだ、ということに気づいて、随分あたまの中がすっきりした。フォローは、TLにある傾向がキュレーションされるということと、DMができるということに過ぎぬ。

つそ(9)ネットという広大な海の中で、どこに向かい、何に時間を使うかということは、結局は直観の産物である。ネットアスリートとして、自分の責任で可処分時間を割り当てる。私はその点について案外厳しい基準を持っていて、フェイスブックはその基準を満たしていないということなのだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月25日水曜日

試験で測れる能力と、才能は別物だよ

しさ(1)しばしば、「試験の成績」が良いからと言って才能があるとは限らないと言われる。これは本当にそうであって、たとえば、私が卒業した東京大学は、みんな試験の成績は良かったのだろうけれども、才能があるやつがそんなにいたとは思えない。これはどういうことなのだろう?

しさ(2)才能とは、時に容赦ないものである。たとえば、明治の文豪夏目漱石。最近、私は心が折れてもう一度『こころ』を読み返したけれども、冒頭の、「先生」を追いかけて突然海に泳ぐシーンといい、「先生」の遺書を読んで親をほったらかして遁走するシーンといい、天才としかいいようがない。

しさ(3)小説を書くことについては、凄まじい天才のある漱石が、絵を描こうとするとからっきしダメなんだから、面白いじゃないか。ヘタもヘタ、凄まじいまでのヘタくそである。「吾輩ハ猫デアル」にもあるように、一時期真剣に絵に取り組んだようだが、どうにもこうにもモノにならなかった。

しさ(4)小説の天才が、絵の天才どころか及第もしないのだから、才能とは面白いではないか。みんな違ってみんないい。要するに才能とは個性のようなものであって、ここに、いわゆる「試験の成績」とは異なる側面があるように思われる。ものさしが一つじゃないのだ。

しさ(5)最近日本では「知能指数」をうんぬんするのは政治的に正しくないらしいが、1904年のSpearmanの論文において提出されたgeneral intelligenceの考え方は今でも有効である。「g factor」という、いわば「地頭の良さ」のようなものがある。

しさ(6)g factorが高い人は、さまざまな分野、教科の学力が高い。これが、いわゆる「東大的」な頭の良さの科学的裏付けであろう。脳の前頭葉の「司令塔」の回路が関与していることも示唆されており、IQという概念自体は、科学的な根拠がないわけではない。

しさ(7)問題は、IQが高いことと、才能があることは全く別だということだ。IQは、つまりは収束進化のようなもので、単一の基準における卓越に帰着できる。ところが、才能は基準が多様であり、収束進化しない。むしろ、多様なニッチを目指して拡散していくものである。

しさ(8)東京大学のような、ペーパーテストで好成績を収める受験生を入れてきた大学の構造的な問題点がここにある。それでは、IQで示されるような単一基準の優れた人はとれるかもしれないが、多様な才能を持つ人を取りこぼしている。結果として、才能の大競争をしている現代に合わない。

しさ(9)日本人は一つのものさしで思考停止してしまうのが好きだから、これだけ長い間ペーパーテストの優越が続いてきた。時代はそんなものよりも多様な才能を求めている。そして、才能を測る単一のものさしなどないという事実に、もうそろそろ気づくべきだ。その時私たちは大いに自由になる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月24日火曜日

自由意志はないけど、自由意志があったらいいね

じじ(1)福井大学に着いて、学生たちと喋っていて、そろそろだというから会場に行って、例によってトイレに隠れて、さて、何を話そうか、と考えた。今日は、今までやったことがないことだけど、「自由意志」の話からにしようかと思い立った。

じじ(2)現代の標準的見解によれば、「自由意志」はない。あったとしてもそれは幻想である。それなのに、私たちはしばしば自由意志があるかのように振る舞う。自分に対しても、他人に対しても。それが、大いなる問題なんじゃないかな、そんな話から、始めてみた。

じじ(3)たとえば、社会的事象について。ここ数年、私は、大学入試のあり方とか、新卒一括採用とか、記者クラブとか、いろいろ言ってきたけど、よく考えてみると「自由意志」はないんだから、はいわかりました、と明日から変わるはずがない。悪意でしないのではない。できないのである。

じじ(4)自分自身のことだってそう。この二十年くらい、「意識の問題を解く」ということと、「英語での表現するグローバルな知の巨人になる!」というようなことを言ってきたけど、できない。怠慢でしないのではない。何らかの条件がそろっていないから、できないのである。

じじ(5)してみると、何かを成し遂げるためには、「心を入れ替える」というような精神論ではなく、やりたいことに向けて、どんな要素が足りないのか、冷静に分析してそろえていくことが必要なのだろう。自分自身のことも、日本の社会のことも。私たちは精密な時計職人にならなくてはならないのだ。

じじ(6)一気にすべてを変えるというような精神論ではなく、自分の経験や知識、文脈、結びつきにおいて何が欠けているのか冷静に分析して補っていくこと。そんな態度が必要とされているのだと思う。自分自身のちっぽけな人生においても、日本の社会全体についても。

じじ(7)自由意志はないんだ、と思うと、いろいろなことに腹を立てなくなる。だって、それは、ないものねだりだから。一方、丹念に心を込めて取り組む心構えはできる。自然は飛躍しない。噴火しまくって、なんで変わらないんだ、と叫んでも仕方がない。目の前の時計の部品を丹念に組み立てること。

じじ(8)そんなことを、福井大学の学生の前で喋った。オレは言った。お前らに、人生の先輩として、エラソーに喋るような気分じゃないんだよ、オレも、お前たちと同じように、必死になってピッチの上を走っているんだ。意識の問題を解くことと、グローバルな知の巨人になること、必ずやるから。

じじ(9)学生がツイートくれて、「自由意志なんてないんだもん」って言いながら、話しかける茂木さんが印象的でした。茂木さんは自由意思があってほしいと思っているように、なぜか私には聞こえて。。」だって。そうなんだ。きっと、自由意志があってほしいと思っている。諸君、一緒にがんばろうよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月23日月曜日

観客なしでこそ、自分が顕れること

かじ(1)講演会で話したあとで、ああ終わった、とほっとしてトイレに隠れているときなどに、ふとグレン・グールドのことを思い出すことがある。カナダの伝説的ピアニスト。グールドの録音したバッハのゴルトベルク変奏曲を、私はいったい何度聴いて、魂を癒されてきたことだろう。

かじ(2)私は講演会はうまい方だと思う。いきなり本題に入る。これは、小林秀雄のやりかたへのオマージュ。あるいはタイガージェットシン方式。そして、聴衆の反応を見ながら、臨機応変に組み立てる。ときには、綾小路きみまろになることもある。

かじ(3)自らのダメなことを切る自虐ジョークや、ちょっとほろりとする話、ハードな科学の話、日本のこと、世界のこと。講演が終わったあと、主催者に、「とても良かったです!」と言っていただくとうれしいし、何か大切なアイデアが伝わるとそれもまた心強い。

かじ(4)講演は、ライブのコンサートに似ているなと思うことがある。このように、ツイッターで情報が発信される時代になっても、やはりその場で臨場感と肉体性をともなって展開されるたった一回のことは違う。だからこそ、講演会は消えないし、私もまた出かけていくのだろう。

かじ(5)きっと、講演会という場が、私は好きなのだと思う。自分が試される。そして、心を開けば、きっと聴衆にも伝わる。そして、終わってしまえば、ほとんどのことは忘れられてしまうかもしれないけれども、きっと何かが残っていると信じたい。いつかは小林秀雄のように話せるようになりたい。

かじ(6)それでも、ときどき思うのだ。講演を終えて、トイレに隠れて、ふと我に還るとき、グレン・グールドのことを思い出す。なぜ、グールドは、その華々しいキャリアの途中でライヴ・コンサートをやめてしまって、スタジオ録音だけをするようになってしまったのだろう。

かじ(7)グールドは言う。コンサートは、まるでスポーツのようになってしまった。観客をいかに熱狂させ、喜ばせるかということが競われる。その時、演奏者は異常なプレッシャーの中にある。何よりも深刻なことに、音楽そのものの性質が変貌してしまう。

かじ(8)だから、グールドはスタジオに引きこもって、自分の内面の音楽を彫刻することを選んだ。講演を終えてトイレに隠れているとき、私は、話にも同じようなことがあるのではないかと思う。たとえば、キャンプファイヤーの焚き火を前に、ぽつりぽつりと語られる魂の言葉のようなものが。

かじ(9)人が前にいるとどうしても無理をしたり、誇張したりする。そんなことは私たちに常にあるんじゃないかな。本当のことは、他者の目から離れて引きこもってみないとわからない。グレン・グールドがスタジオでピアノを弾いたように、いつか聴衆のいない講演会をしてみたい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月22日日曜日

次にやることを確保し続けることで、人生の景気を保つことができる

つじ(1)子どもの頃は案外「熱中」の嵐が継続してずっと何かをやっていたが、思春期になると、いろいろなことが起こり始めた。要するによけいなことを考えて、ぐだぐだ、うだうだする時間も増え始めたのである。景気循環で言えば、好景気、不景気のような気分ができはじめた。

つじ(2)気分が「不景気」になると、何もやりたくなくなる。いかに生きるべきか、何をなすべきか、そもそも何ができるのかとうだうだ考えて、それ以上前に進まなくなってしまう。時には心の「大不況」や「バブル崩壊」も何度か経験した。

つじ(3)経済学者たちが、たとえばケインズ学派における財政出動によって経済を安定させることを試みるように、私も、あれこれ考えて「心の景気」を保とうと試みた。そんなことをしているうちに、次第に、それほど落ち込まなくなってきた。ずっと、「心の好景気」を保てるようになってきたのである。

つじ(4)「心の好景気」を保つコツは、いくつかある。まず、落ち込んだときに、「この気分はずっと続くわけではない」と知ること、言い聞かせることである。実際そうなのだから。人間はすぐ「線型」に現在の下降曲線を外挿しがちだが、気分はころころ変わる。心の氷河期は、簡単には来ない。

つじ(5)行き詰まったら、即座に気分転換をすること。人生には、どうせやらなくてはならないことがある。それを、句読点のように入れる。トイレをしたり、コンビニに行ったり、シャワーを浴びるといったことでも良い。さっと切り替えて実行することで、それ以上落ち込むことが避けられる。

つじ(6)最悪なのは、どんどん落ち込んで、際限なくいろいろなことを考えて、何もしなくなってしまうこと。ふしぎなことに、落ちていく喜びというようなものがあって、うだうだ、ぐだぐだの中に人は存在論的感触を得たりしてしまうものだが、その「罠」にはまってしまってはいけない。

つじ(7)「次にやること」をいつも考えていること。ここに、人生の「可能無限」を確保する秘訣がある。無限そのもの(「実無限」)を手にすることは、人間には不可能である。ただ、「次にやること」さえ自分のものにしていれば、「可能無限」は手にすることができる。

つじ(8)朝起きたときから、夜眠るときまで、「次にやること」を工夫し、連続させて実行させていくこと。「次にやること」の明るい熱狂の中に、自らを置いて、できれば我を忘れること。そのような心がけができるようになってからは、「心の景気」が安定し、「心の好景気」が続くようになった。

つじ(9)以上述べたような「心の景気」を保つ方法は、おそらくチクセントミハイの「フロー理論」と関係している。自分のスキルと課題を高いレベルで一致させる。そのために、スキルの向上を怠らないこと。生きることは時につらいが、「次にやること」の連鎖だけが、命を支えてくれる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月21日土曜日

東大の秋入学への移行を全面的に支持する。新しいことに挑み続けなければならない

とあ(1)東京大学が、秋入学への全面的移行を検討し始めた。全面的に支持する。もはや「国内のナンバーワン」の地位に安住していても仕方がない時代であり、国際的な大競争の中に自らを投げ込まないと陳腐化する。そもそも学問とはそういうものだからだ。

とあ(2)そのことによって、半年ほどの「ギャップ・ターム」が発生する。大歓迎である。この間、何をするかということを考えるだけでも、今まで日本の18歳が経験したことのない自律的人生の組み立てを迫られるだろう。そのことが、人的資源を高め、ひいては社会に還元される。

とあ(3)元来、たとえばイギリスなどでは高校から大学に進学する際に一年程度の「ギャップ・イヤー」をとる人が多く、その間に世界を旅行したり、ボランティア活動をしたりといったかたちで経験の幅を広げる。グローバル化した社会において、そのような経験は重要である。

とあ(4)秋入学にすることによって、東大の大きな課題であった、(特に学部学生の)多様化がやっと図られるようになるだろう。元来、日本の大学は学生の構成において均質に過ぎた。そのことで、学生のコミュニケーション能力を醸成する機会が失われていた。

とあ(5)「お前、どこの出身?」「開成だよ、お前は?」「いや、おれは麻布だけどね。あいつは、筑駒らしいよ」というような会話と、「あいつはアメリカから来たらしい、そのとなりのやつは、中国からだよね。そういえば、あいつはインドネシアらしいよ」という会話の、どっちがいいか。

とあ(6)赤塚不二夫の「天才バカボン」で、野良犬が飼い犬がご馳走をたべているのを見てうらやましがる回がある。飼い犬が「オレだって首輪がなければ自由に生きる」と言う。ところが、首輪がとれてしまったのえ、あわてて飼い犬がその首輪を拾ってつけ直すのだ。

とあ(7)ギャップ・タームの発生は、「履歴書に穴が開く」という、日本独特の不思議な切迫感を無効化することだろう。新卒一括採用にも当然破壊的作用をもたらす。すばらしい! 「履歴書に穴が開く?」バカじゃないんですか、あんた。そんな国際的常識がやっとこの国に根付くか。

とあ(8)東大の秋入学移行は、もう一つの点からも支持される。それはつまり、「新しいことに挑戦し続ける」ということ。移行の苦労はあるだろうが、今までないことに取り組み続けることが、社会を活性化させる。このところの日本は、惰眠をむさぼりつづけ過ぎた。

とあ(9)一人ひとりの人生も同じこと。ひゅうひゅうと風が吹いてくるような新しいことに挑み続けることで、局面が展開していく。ぬるま湯の、よどんだ空気よサヨウナラ。どうなるかわからないからこそ、挑戦する価値があるのだ。それは論理的な必然である。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月20日金曜日

オレが言うまでもなく、抵抗してもムダだよ

おて(1)このところ、日本の現状がガラパゴスであることを殊更言う気分にならないのは、私がいうまでもなくもう大競争が始まっている、という思いが強いからかもしれない。人は、面白く、未来につながる方に惹き付けられるに決まっている。それが生存本能なのだから。

おて(2)AppleがiBooks 2を発表した。教科書が再発明される。電子教科書への移行は、時代の必然である。紙の手触りが大切だとか、書き込みができないとか、「イデオロギー」で反対する人たちがいるが、議論をするまでもなく、電子化していくに決まっている。

おて(3)文部科学省の「教科書検定」については従来いろいろなことが言われてきたが、電子教科書化によって、そもそも意味がなくなる。リンクが張られた先のネットの情報を「検定」するわけにもいかない。すでに、私立学校の多くはそもそも文科省検定の教科書を使っていない。

おて(4)日本では、一部の作家の方々の間に電子書籍に対する抵抗感が強い。「自炊」代行業者を訴える動きもその表れである。しかし、時代の流れを見れば、むしろ問題とされるのは日本の電子出版の遅れの方だろう。へんなことを自分でしなくても、ちゃんと供給されていればそっちを使う。

おて(5)東京大学が秋入学への移行をほぼ決めた。歓迎すべき動きだが、すでに高等教育機関の国際大競争においては、遅れをとっている。まだ、受験生の大多数は日本の大学入試の文脈に適応しようとするのだろうが、目端の利く奴は外を見るに決まっている。そっちの方が面白いんだから。

おて(6)書籍にせよ、大学にせよ、まだ需要がありますよ、やっていけますよという議論と、時代のエッジを切り開く面白い動きがどこにあるかという問題は全く別である。大学にせよ、書籍にせよ、面白さの坩堝は日本のエスタブリッシュメントの中にない。そんなことは、わかるやつはわかっている。

おて(7)だからね、新卒一括採用だとか、大学入試だとか、書籍だとか、ぼくが殊更言挙げしたり、指摘したりするまでもなく、もう勝負はついているんだよ。だったら、その面白い世界で自分がどう活躍できるか、そっちの方に資源を投入した方が楽しいに決まっているよね。

おて(8)そんなこともあって、ぼくは「ガラパゴス化」ということを殊更言わなくなった。ぼくが言わなくても、勝手に変わっていくと思うから。それでさ、若いやつらさ、日本の面白くない「エスタブリッシュメント」のメンバーになろうときゅうきゅうするよりも、本当に面白い方に行っちゃわないか?

おて(9)日本に生まれ育ち、日本を愛するオレとしては、この国の現状は非常に悲しいけど、世界の動きを見ればtoo little too lateだよね。動こうとせず、ああだこうだ言って抵抗するエスタブリッシュメントの方々は放っておいて、自分たちで勝手に坩堝の中に飛び込みませんか。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月19日木曜日

デビューするときはいろいろあるよ

でい(1)20代の頃、「本を書く人になりたいなあ」と思いながら、なかなか果たせなかった。そしたら、親友の竹内薫(@7takeuchi7)が、あっさり「壁」を超えていった。日経サイエンスに企画を持ち込んで、『アインシュタインと猿』というパズル本を書くことになったというのである!

でい(2)ぼくは、竹内薫の行動力を凄い! と思いながらも、なかなか本を書くことができなかった。そしたら、竹内が徳間書店でも本を出すようになってきて、「茂木も、一緒に書かないか」とさそってくれた! ぼくはうれしかった!

でい(3)竹内が誘ってくれて、共著ながら、やっと初めての本を出すことになった。科学の限界についての本になるという。ぼくは張り切って、当時熱を上げていた心脳問題について、メーターが振り切れた原稿を書いた。書いていて、これはいいぞ、と自分でも思った。

でい(4)その頃のぼくは、出版界のシステムがよくわかっていなかった。たとえば、本のタイトルは著者が決めるとは限らないということ。出版社の編集者や営業が、市場の動向をにらみながら、売れそうなタイトルをつける。そんな事情が、ぼくはわかっていなかった。

でい(5)ぼくが渾身の力を込めて書いた「心脳問題」についての原稿。竹内の科学論についての原稿もそろって、いよいよ出版が近づいてきた。生まれて初めての本! ぼくは、だんだん興奮してきた。何でも、初めて、というのはいいものだなあ。

でい(6)忘れもしない。ある冬の夜。ぼくは、東京の下町で友人たちと飲んでいた。そこに竹内から連絡がきた。新しい本のタイトルが決まったというのだ。わくわく一体何なのだろう? 竹内は、自信ありげに宣言した。「トンデモ科学の世界」さ!

でい(7)「トンデモ科学の世界!」ぼくは、膝から崩れ落ちそうになった。なんじゃ、そりゃあ!(松田優作風に)。ぼくが、心を込めて書いた、心脳問題についての原稿が収められる本のタイトルが、「トンデモ科学の世界!」。ぼくは、受け入れられない現実を前に荒れて、その夜は酒を随分飲んだ。

でい(8)当時、「と学会」とかが流行っていて、「トンデモ」は一つの流行語だった。それで、編集者が工夫してつけたのだろう。竹内もにこにこ賛同を表していた。ぼくのデビューは「トンデモ科学」となった。お笑いの「出落ち」みたいなもので、そのトラウマは数年続いた。

でい(9)その後、月日は流れ、今思い出せばなつかしくも面白い、青春の一頁である。教訓は、「デビューするときはいろいろあるよ」ということ。それと、人を見かけで判断してはいけません。市場の暴力で、素とは異なるパッケージを押しつけられることはいくらでもあるんだから。アイドルとかもね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月18日水曜日

クール・ジャパンもいいけど、まずはエスタブリッシュメントがクールじゃない自分たちを変えなくちゃね

くじ(1)村上隆さんの「クール・ジャパン」についての朝日新聞上の苦言( http://bit.ly/zUmg5L)が話題を呼んでいる。私自身も、経産省のクール・ジャパンのシンポジウムに登壇したこともあり、少しその実情を知るものとして、村上さんとは少し別の角度から論じてみたい。

くじ(2)経産省としては、グローバル経済がソフト化し、ものづくり2.0で情報ネットワークとのつながりが必須化する中で、コンテンツ産業を「日本が食う」ための有力な手段と位置づけ、そのためにインフラ整備をしようとしているのだろう。その点については共感できる。

くじ(3)クール・ジャパンのシンポジウムを見る限り、問題なのは、「本気」じゃないことである。村上隆さんを始めとするクリエーターが身体を削る思いで作品をつくり、苛烈な世界市場で競争する中で、日本の政府主導のプロジェクトに共通する、ぬるま湯、なあなあ主義の陰が見える。

くじ(4)村上さんが指摘されるように、致命的な欠点は批評性の欠如であろう。日本には、イギリスの「ターナー賞」のような論争的な評価のシステムがない。政府の役割は、民間がやったことを、追認するに過ぎないことが多い。ゆるいことではダメだというのは作者の側からすれば当然のことだろう。

くじ(5)ある時、私はトキワ荘の横を偶然通って、日本のアニメやマンガの文化が草の根から勝手に生まれてきたことを思い、感激を新たにした。政府の庇護など受けずに、エスタブリッシュメントからバカにされる中でサブカルは花開いた。政府の役割があるとしたら、まずは邪魔をしないことだろう。

くじ(6)先日、スプツニ子さん(@5putniko)が、ロンドン留学中、イギリスのオタクたちに、「お願い、パンを口にくわえて、(日本語で)たいへん、学校に遅れちゃう、って言って走って」と言われたと話していた。日本のサブカルに力があることは確か。しかし、それは政府の手柄ではない。

くじ(7)経産省の方々の話をうかがうと、「クール・ジャパン」のねらいは、まさに村上隆(@takashipom)さんが指摘しているような著作権関係の制度の整備、プラットフォームなど、個々のクリエーターでは届かない問題領域だという。だとすれば、そこでこそ本気になってもらいたい。

くじ(8)日本の現状を公平に見れば、だらしがないのは大学や官公庁などのエスタブリッシュメントである。サブカルはがんばってきた。本当に「クール・ジャパン」というのなら、クールじゃない自分たちを根底から変えるくらいの、覚悟を持って職務に邁進して欲しい。

くじ(9)iPad上のFlipboard経由のニュースでは、しばらく前からSOPAの話で持ちきりだった。日本は蚊帳の外でウィキが止まるとなってやっと報じる。それくらい日本は遅れている。その責任はサブカルの人たちにあるのではない。大学や官公庁などのエスタブリッシュメントにこそある。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月17日火曜日

生きて死ぬ私を書いたころ、青春だった

いせ(1)今はちくま文庫になっている『生きて死ぬ私』を書いたとき、私は35歳だった。まだ1、2冊しか本を出していなかった。徳間書店(当時)の石井健資さん(現ヒカルランド)が、「臨死体験」についての本を書いてくださいというから、わかりましたと私は引き受けた。

いせ(2)当時、私は臨死体験に興味を持っていて、いろいろ文献を読んでいた。それで、書き始めたのだが、なぜか、人生論エッセイみたいになっていってしまった。脳科学を始めてすぐの頃に、心を扱うということの重みについて考えたり、子どもの頃蝶の採集をしていたときのことを書いたり。

いせ(3)書いているうちに、どんどんのめり込んでいって、二週間くらいで書き終えてしまった。それを石井さんに持っていったら、困ったような顔をしている。あれ、注文の臨死体験についてのエッセイも入っているんだけどな、と思っていると、石井さんが重い口を開いた。

いせ(4)「茂木さんが、五木寛之さんだったら、良かったんですけどねえ」ぼくは、意味がわからなくて考えていたが、やがてはっとした。それまで、本というのは文章さえ良ければそれで勝負、と思っていたのだが、どうやらそうではない、ということなのだ。

いせ(5)無名の若い著者が書いた人生論の本など、よほどのことがない限り読者は手に取らない。「脳」や「臨死体験」など、一般的に関心を呼ぶタグがついていないと、市場に出ない。その後、私の本には多く「脳」という文字がタイトルにつくことになるが、それも同じ理屈である。

いせ(6)石井健資さんに、『生きて死ぬ私』の原稿を持っていって、「うーん。五木寛之さんだったら良かったんですけどねえ」と困られてしまった、あの瞬間に、私は出版界のこと、世間のこと、市場というもの、そのあたりのことを学んだように思う。思えば私は未熟だった(今でも幼いけど)。

いせ(7)石井さんが偉かったのは、それでも『生きて死ぬ私』を出版してくださったことである。幸い、本は読まれて、増刷もした。そして、たけちゃんまんセブンこと、増田健史さんのご厚意でちくま文庫にもなった。今でも読んでくださる方がいて、大切な本なのでうれしい。

いせ(8)なぜ、今朝はこんな昔話をしようと思ったのか、シャワーを浴びているときの無意識のせいでよくわからないけども、ひょっとしたらこれから本を書こう、と思っている人たちの少しでも参考になればという思いがあったのかもしれない。誰でも青春はほろ苦いんだよ。

いせ(9)技術的に言うと、『生きて死ぬ私』の特徴の一つは一つひとつの文章の長さがまちまちであることで、連載ではなく書き下ろしだったからである。もう一度そんな文章に挑戦しようと思って、メルマガ『樹下の微睡み』で「続・生きて死ぬ私」を書いている。あれから15年が経ってしまった。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月16日月曜日

いわゆる一つの脳科学的に正しい温泉の入り方

いお(1)温泉の入り方について考察してみよう。まず、効能書きを読まずにいきなり入ること。泉質や源泉の温度、加熱、消毒の有無などを書いてある紙が脱衣場に張ってあるけれども、そんなものを見ないで、いきなり入る。そして、自分の感覚を通して、直接お湯を知覚する。

いお(2)まずは、室内のお湯に入る。そして、できるだけガラスの近くにいく。お湯に入って外を観察しながら、同時に露天の様子を見る。あんまり混んでいないようだったら、おもむろにお湯を出て、露天に向かって 歩いていく。そして、できるだけ端っこの方につかって、空を眺める。

いお(3)露天風呂で楽しむべきことの一つは、お湯の熱さと外気の冷たさのコントラストである。雪がちらついているとなおさら良い。ぼんやりと頭の中をからっぽにすると、Default Mode Networkが活動してくる。脳のメンテナンスという意味では、露天がハイライトである。

いお(4)露天から出たら、屋内に戻って、身体を洗うんだったら洗う。ただし、髪の毛は夜洗ってはいけない(私の場合)。翌朝、爆発していることになる(私の場合)。室内の温泉につかって、身体を温めてから、着衣場に向かう。同じ空間でも、脱衣場から着衣場に名前が変わっていることに注意。

いお(5)着衣場に入ったら、さっさとパンツだけははいてしまう。これは、ファイティングポーズをとれるためである。パンツだけはいたら、あとは余裕で、綿棒で耳をほじほじしてもいいし、体重計に乗って「ぎゃっ」と言ってもかまわない。腰に手を当てて、冷水を飲むのも一興である。

いお(6)ここで、温泉体験の一つのハイライトがやってくる。壁に貼ってある分析表、効能書きをじっくりと眺める。そうして、「そうか、自分の入った温泉は、こういうものだったのか!」という新鮮な驚きを持つ。「アルカリ単純泉だったのか!」「源泉は52℃なのか!」などなど。

いお(7)素の心で温泉を堪能してから、分析表、効能書きを見て、「ああ、そうだったのか」となる。ここに、人生と同じ一つの機微がある。人生においては、生の体験をしたそのずっと後で、ようやくのことその意味がわかるということがしばしばあるからだ。最初から見てこざかしくなってはいけない。

いお(8)友人と来ているとき、つねにタオルを一本持っている。そうして、「ちょっとトイレ」とかいいながら、素早く温泉に入ってしまう。そうして、涼しい顔で宴会場に戻る。飲み会の途中でも、さっと出て、さっと入って、さっと戻る。これが、温泉の達人の、ディップ・アンド・アウェイ法である。

いお(9)ところで、「脳科学的に正しい温泉の入り方」があるわけではない。あったとしても「いわゆる一つの」が接頭詞としてつく。それは、評価関数が一意に定まらないからで、将棋の修業をしている人が、お茶を持ってきたお嬢さんと恋に陥ることもあるでしょう。どうです。わかりましたか?

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月14日土曜日

創造することだけが、生きることだよ

そい(1)朝日カルチャーが終わって、飲み会があって、解散になったとき、誰かがきたからそっちに行こうと思ったら、ガードレールですってんころりんした。植田工が見ていて、「茂木さん敏捷!」とか言ってたけど、そういう問題じゃなくてすりむいて血も出るんだよ!

そい(2)怪我をすることもあれば、心の交通事故もある。先日はイヤなことがあって、突然2時間歩いたな。生きていればいろいろある。それでも仕事は来るし、移動もしなければならない。今日は、釧路に行くわけなんだけれどもね。ツルさん、待っていてください。

そい(3)昨日、大林宣彦監督の『この空の花』の初号試写会で、となりに伊勢正三さんがいてびっくりした。本当に楽曲を尊敬している。それで、アサカルの 時に『22才の別れ』をみんなで聞いた。いい曲だよね。 芸術って、みんなを本当に深いところで癒すためにあるんじゃないかな。

そい(4)人間が意識を持って、いつかは死ぬということも認識してしまって、そしたら辛いから、この世界にないもの(「芸術」)を創った。それだけではな い。一般に、「創造」することの中には、生きることを根底から癒す側面がある。だからこそ、大林監督だって映画を作り続けるわけだし。

そい(5)日本人が元気がないのはね、新しいことに挑戦していないからじゃないかな、と思う。チャレンジ精神を失ったとかそういうことじゃなくて、事実において挑戦を続けていない。だから、閉塞しちゃうんだよね。朝から晩まで、新しいことに向き合っていけばいいのにね。

そい(6)ぼくは、40歳になったとき、突然フルマラソンに出た。2010年に48歳になったとき、これからの12年間は、生まれてから小学校卒業までみたいな感じで生きてやろう、と思った。ああいうのは、バネなんだろうね。生命の危機が来たときに、生きるためのバネ。

そい(7)20歳くらいのときに、悲しいことがあったとき、『トリスタンとイゾルデ』ばかり聴いていたわけだけど、深いところで癒されるんだよね。本物の 芸術には、人を根底から救うことがある。それも、現実から逃避するんじゃなくて、むしろリアリティそのものの中に突っ込んでいくんだ。

そい(8)子どもだまし、なんて言うけどね、子どもは本当はこの世のありさまをよく知っているんじゃないかな。何しろ生きているということが驚異だと言うことを良くわかっているし。この世界に生まれたびっくりの記憶が新しいわけだから、死だって本当は近しい。

そい(9)すってんころりんで怪我をした翌日、創造することだけが生きることだと改めて思うわけです。こんな朝早くから、睡眠不足の頭を抱えて、釧路に飛 ぶために羽田に向かっている。すってんころりんしようがしなかろうが、仕事は向こうからやってくるよ。逃げるわけにはいかない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。 

2012年1月13日金曜日

「これはどうみても、ビョーキだよ」といいたくなることがあったら、その前提を疑った方がいい。

こび(1)iPhoneのSiriはすごいけれども、会話のTuring testに合格するほどではない。雑談は大切。友人との何気ない会話の中に、いろんなヒントがある。昨日も、親友の某と酒場で雑談していて、いろいろ楽しかったなあ。

こび(2)親友は大学に勤めていて、いろいろ面白いことを教えてくれる。一度、彼の授業に潜り込んだら、学生の一人が何やらメールで不出来をしでかしたら しく、大学のメールアドレスが全部停止になったと言って怒っていた。「いいですか、みなさん、こんなことを許したらいけないんですよ」

こび(3)「たとえば、松山市から来た郵便で犯罪が行われたからと言って、松山の住所を使用停止にしますか? それくらい、これはナンセンスなことなんですよ。」ぼくは、あいつらしい修辞だなあ、と思って聞いていたが、昨日は授業の「シラバス」のことであった。

こび(4)「シラバス」について文句を言う大学教員は多い。ぼくが学生の時に受けた西洋史の木村尚三郎さんの講義はずっと雑談で、それが滅法面白かった。 それで何の不具合もなかったし、シラバスの「シ」の字も当時はなかった。それがアメリカでやっているからとマネし始めたのが、間違いの始まり。

こび(5)だいたい、日本は自分で考えたことじゃないことを輸入して失敗することが多い。企業のコンプライアンスも同様。要するに元々の精神がわかってい ないで形式だけ輸入するから、とんちんかんで出来損ないの人工知能のようなことになる。大学のシラバスも同じ危険がある。

こび(6)親友はMITにいたことがあるが、そのシラバスは、要するに提供されている授業がものすごく沢山あるから、「面白いよ」という宣伝のようなもの だという。なるほど、競争の中で学生を呼び込む文だったら意味があるし、MITの教授は、「シラバス通りなんてやらないよ」と言っていたという。

こび(7)「シラバスは、要するにこういう風に授業をするというモデルのようなもので、実際にやってみて、学生の反応その他で、内容が変わることは当然あ る」。MITの教授の言葉は、実にまっとうで、当たり前のことだけれど、親友によると日本の大学では往々にしてそうならない。

こび(8)シラバスを、まるで、生産過程における品質管理、チェックリストのようなとらえ方で教員を縛り付けようとする。具体的にどのようなことをするの かと書くと、「あっ、それはいい」とマネをする負のスパイラルになるから書かないが、親友の話を聞いていて、笑ってしまうと同時にこわくなった。

こび(9)日本の社会の中で、「管理」をしようとすると大体失敗している。「コンプライアンス」も「シラバス」も、あるいは「憲法」も、元々の精神を理解 しないで輸入するからとんちんかんになる。「これはどうみても、ビョーキだよ」といいたくなることがあったら、その前提を疑った方がいい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月12日木曜日

誰にだって劣等感はあるわな

だれ(1)そもそも人間というものは、最大の欠点の近くに最大の長所があるもの。私で言えば、落ち着きがないという欠点があるからこそ、すぐにぱっと切り 替えていろいろなことができるという長所もある。ところが、人間は、自分の欠点(だと思い込んでいるもの)に劣等感をいだきがちである。

だれ(2)驚くのは、誰が見てもきれいなモデルさんが、自分の顔の特徴の一部を気に入らない、恥ずかしいと思っていたりする。他人から見ればうらやましい 人でも、劣等感を抱く。デカルトは、良識は万人に与えられていると書いたが、劣等感は、万人に平等に与えられているというのが世の真実。

だれ(3)誰がどうみても大成功を収めた天才的な役者さんが、「私は学歴がないので」と謙遜したりする。一方で、いい大学を出ても、「あの大学を出てこの程度か」と思われることが劣等感になったりする。学歴は、持っていても、持っていなくても、劣等感の元になりうる。

だれ(4)普通の家に生まれた人は、家柄がいい人を、「さすがだ、かなわない」と思ったりする。一方で、代々続く家柄に生まれついた人は、何をしても七光 りと思われるのではないかと考えてしまう。本当は自分の才覚でも、「あの人は何代目だから」と思われるのではないかと感じてしまう。

だれ(5)美人を見ると、「ああ、きれいでいいな」と劣等感を抱く。ところが、美人は美人で、「私の中身を見てくれない。私の外見だけが目当てで近づいてくるんだ」と考えてしまう。お金持ちはうらやましいが、逆にお金持ちは、「金が目当てなんじゃないか」と考えてしまう。

だれ(6)つまり、劣等感というものは、何かを持っていたとしても、あるいは持っていなかったとしても生じてしまうものである。だからこそ、万人に平等に 与えられている。だとすれば、そういうものだと諦めて、開き直ってしまうのが一番良い。劣等感は、むしろ、個性の認識である。

だれ(7)劣等感のやっかいなところは、それを意識し過ぎるとコミュニケーションがうまく行かないところ。しかし、抑圧しようとすればするほどダメになる。だから、思い切って認めて、カミングアウトしてしまうのがいい。ユーモアで語れれば、もっと素晴らしい。

だれ(8)コミュニケーションは、対称的なときにうまく行く。誰だって劣等感を持っているんだから、お互い人間だ、そういうことくらいあらあね、とおおら かに認め合うことで、腹を割って話し合うことができる。だからこそ、「持っている」人にも劣等感があることを認識することが大切。

だれ(9)日本人は、欧米に対してずっと劣等感を持ってきた。だからコミュニケーションが非対称になってうまく行かない。あっちだって同じくらい劣等感を 持っているんだ、と気づいたときにトモダチになれる。人間、どんな文化の人だって、そんなに変わりはしないわな。だって、人間だもの。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月11日水曜日

ニュースソースを選ぶことは、重要です

にじ(1)このところ忙しくて、地上波テレビを見る暇があまりなかったのだけれども、先日、飲食店でかかっていたので久しぶりに眺めていたら、改めて 「間」がないことに驚いた。編集で短くどんどんつないでいって、テロップも多用する。まるで真空恐怖症のよう。これはやばいな、と実感した。

にじ(2)バラエティならまだしも、ニュースでこれをやると致命的である。移動しながら時々駅やターミナルでかかっていると、いつも平田容疑者の顔があっ たり、小沢一郎さんの表情がある。大量の情報を、間断なくばーっと流していく。結果として、地上波テレビは洗脳に近い効果を持つ。

にじ(3)旧メディアの人たちは、ネットを玉石混交だと敵視しがちだけれども、メディア・リテラシーという視点からより危険なのは依然として地上波テレビや新聞の方だと思う。金太郎飴のように、同じ情報を大量に送りつける。見ている人は簡単に洗脳されてしまう。

にじ(4)それに、ネットが玉石混交だというのは、チャンネルを選べばそうでもない。最近のニュースはiPad上のflipboardで得る機会が多い が、重要な情報が見事にキュレーションされている。この流れで、時代の最先端を見ていると、日本の旧メディアの遅れぶりが目立つ。

にじ(5)たとえば、小沢氏の裁判のこと。あれほど繰り返し、あたかもそれが重要なことのように報じる意味があるのか。世の中にはもっと重要で、未来につ ながるニュースがたくさんあって、そちらの方がよほど知るべきだと思うのだけれども、そのあたりのバランスは、むしろネットの方が良い。

にじ(6)昨年、私は大学入試のことや、新卒一括採用、記者クラブのことなどについて随分発言したけれども、最近発言の回数が減っているのは、要するに世 界の流れや時代の先端から見れば日本のこのようなことはどうしょうもなく遅れていることで、まあいいや、勝手にしなさいという気分が大きい。

にじ(7)ニュースソースを選ぶことは、重要である。そうでないと、時代の流れに取り残される。別に脅迫するわけではないけれども、本当に面白いことを知 らずに、箱庭の中でちまちましたことを垂れ流しするメディアに付き合うのは、適当にした方がいい。一切見るな、というわけではないけど。

にじ(8)ダメなものは放っておいて、自分にとって面白いこと、チャレンジングなことに向き合う時間を増やしたい。そんな思いが年初からあるが、たまに地 上波のニュース番組を見ると、まるで時代に取り残された缶詰のようで、びっくりすると同時に、それだけ見ている人は本当に危険だなと思う。

にじ(9)たとえば、政策課題について一切論じないで、政局があると元気になる新聞の政治部(政局部)の人たちとか、本当に残念で、ごめん、もうどうでも いいんだよね。言及しなくなったのは、自分をデタッチしてしまったから。きっと、同じ思いの人は、世の中にたくさんいると思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月10日火曜日

何歳になっても同じだよ。新しいことに感動する限り

なあ(1)昨日、歩いていてふと思ったこと。ぼくは、相手が何歳だろうと、あまり違った人間だと考えていないなあと、逆に言えば、年齢差ということをほと んど人間関係を考える上での参照にしていないことになる。なんでだろう、と思いながらコンビニに入って、ああそうかと思った。

なあ(2)つまり、それは新しいことに向き合うという点において。何歳になっても、自分が知らないこと、経験していないことに向き合っている時に、人は同じ雰囲気をかもし出す。その新鮮なる断面において、あまり何歳だからどうのということは関係ないんだなと思う。

なあ(3)思うに、性別にせよ、年齢にせよ、あるいは「世代論」というやつにせよ、人が人をこうだと決めつけたり、あるいは区別したりするのは、その人が「出来上がった」人だと思うからだろう。しかし、変化という差分において人をとらえれば、みんな同じ人のはずだ。

なあ(4)たとえば、社会的地位が高くて偉い人の前に立つと緊張するけれども、それはその人が出来上がった人だと思うからで、一緒にいちごパフェを食べた りして(なぜいちごパフェなのかわからないけど)「ああ、これはおいしいね」と新鮮な感動を共有する時には同じ人になっている。

なあ(5)一緒に旅行するともうその通りで、どんな年齢の人でも、境遇の人でも、初めてのびっくりに接すると、「全くねえ」などと目を白黒させて驚いている。その新鮮な命の流れにおいては、年齢も性別も年代も地位も名誉もなにもかも関係がないんだなあと思う。

なあ(6)逆に言えば、人間を、もう出来上がった固定したものとして考えるときに、区別も別扱いも何もかも始まるのだろう。もともと血液型人間学には科学 的根拠は何にもないが、O型はこうだ、と決めつけて、変化の躍動に注目しないことで、人は別々のホルダーに入れられていく。

なあ(7)ぼくがケンブリッジ大学でお世話になったホラス・バーロー教授は偉い人だけど、一度面白いことがあった。京都で、たまたま一緒にパチンコ屋に 入ったら、大当たりしてしまった。「ケン、こんなに玉どうするんだ!」と大喜びするホラスの顔。あのとき、同じだなあ、と思ったな。

なあ(8)変化において、みんな平等。ただ、自分はこうだと決めつけたりするのはもったいないし、あるいは、他人がこうだと決めつける人ももったいない。いるよね。決めつけて、説教する人。本当は、一番損をしているのは自分の可能性なんだけどね。

なあ(9)コンビニで買い物を済ませて出る頃には、ぼくの心は決まっていた。そうだよ。新しいことに出会って感動して、変化するということについては、人 間みんな平等。だから、年齢も、性別も、国籍も、年代も、地位も、名誉も関係なく、これからも人間はみな同じと思うことにしよう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。


2012年1月9日月曜日

テレビの未来

てみ(1)機会があって、昔のテレビ番組(『クイズタイムショック』、『ぴったしカン・カン』)を見ていたら、本当に懐かしく、あの頃はテレビが面白かったし、好きだったんだなあと改めて思った。司会の久米宏さんや、田宮二郎さんが輝いている。もう、神話の世界である。

てみ(2)テレビが、テロップを多用したり、SEやキャプションを詰め込む傾向になったのは、編集技術の進化や、いつチャンネルを変えられるかわからない という視聴環境の影響もあるのだろうけれども、改めて昔のテレビを見ると、のんびりと落ち着いていて、そのリズムがかえって心地よい。

てみ(3)もう一つ重大な違いがある。それは、一般視聴者(素人)の参加が目立つこと。クイズ・タイムショックの回答者は一般の人たちが中心だし、ぴったしカン・カンは、萩本欽一さんと坂上二郎さんが、それぞれ芸能人と一般人のチームを率いるというフォーマットだった。

てみ(4)いわゆる「素人参加番組」がほとんど見られなくなったというのが、最近の日本のテレビの顕著な特徴である。アメリカやヨーロッパでは、むしろ一 般の人が参加するreality tvが中心なのに、日本ではほとんどない。結果として、画面の中はタレントの人の順列組み合わせになる。

てみ(5)制作者の話を聞くと、素人参加番組が減った理由は、権利処理などの難しさにも一因があるのだという。タレントだと、事務所もあるし、さまざまな 処理が簡単なのだという。結果として、テレビが「身内」のものになってしまっている。タレントどうしの内輪トークがその典型だろう。

てみ(6)テレビを見ているのは一般の人たちなのに、そこに一般の人たちが出ないのは、どう考えてもおかしい。制作者側も、いろいろ難しさはあるのだろう けれど、一般視聴者も参加できる番組を、もっと作っていくのがいいのではないか。フォーマットの可能性はまだまだあるはずだ。

てみ(7)ネットの登場によって、テレビの地位低下が指摘されている。一方で、ツイッターのトレンドワードの多くがテレビ由来であることを見ても、未だ影 響力は続いている。先日の『ラピュタ』の際の「バルス!」祭りを見ても、皆で同時に見るというテレビの強みは、決してなくなっていない。

てみ(8)サッカーの日本代表戦などは、生で見ないと意味がないし、ニコニコ生放送でも、映画の放映を増やしていくという。みなで一緒に見て、「弾幕」で盛り上がるという新しい「テレビ」の体験が出現する。YouTubeも、独自の番組を製作し始めると聞く。

てみ(9)今の日本の地上波テレビは、確かに独特の「雰囲気」(タレントの内輪空間)が支配しているが、歴史的に見ればそれがすべてではなく、未来におい てもそれが続くとは限らない。テレビが重要なメディアであることはおそらく変わらないから、少しでも面白い番組が登場することを期待したい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月8日日曜日

素晴らしき将棋の世界

すし(1)女流3冠の里見香奈さんが、男性棋士と同じ条件で闘う「奨励会」において、現規定で女性としては初めて昇進条件(12勝4敗)を満たし、初段になった。この先、4段まで昇進すれば、奨励会経由の、初めての女性のプロ棋士ということになる。おめでとうございます!

すし(2)将棋は男女別にも行われているが、必ずしも男女の脳差を反映しているわけではない。男性と女性、どちらが将棋が得意かということが、そう簡単に 科学的にわかるわけではない。挑戦してみなければ、どこまでいけるかわからない。里見香奈さんの今後のご活躍に期待したい。

すし(3)将棋は、すばらしい文化である。まずは、その集中と持続。インターネットや携帯が普及した現代においては、時間は断片化しがち。プロ棋士のように、一日8時間も同じことについてずっと考えるのが日常というような職業はなかなかない。それだけでも価値がある。

すし(4)羽生善治さんとお話したとき、いろいろ面白かった。羽生さんは、将棋のことを考えると、将棋盤が目の前に出てしまうので、車の運転をするのをやめたのだという。本当は、対局するのに将棋盤は要らない。将棋盤を置いているのは、他人にわかりやすくするためである。

すし(5)将棋に強くなるためには、感想戦が大切である。一局を指し終わったあと、もう一度振り返って並べて見て、どこがどのように適切な手だったか、あ るいは不適切だったかを検討する。そうすることで、だんだん将棋が強くなっていく。奨励会では、対局と同じくらいの時間を感想戦に費やすらしい。

すし(6)そこが、素人将棋との違いである。素人将棋は、ぱっぱっぱっと指して、勝負がつくと、あっという間に崩してしまって、「もう一丁!」となる。感想戦をして、自分の指し手を振り返ることがないから、なかなか強くなれない。人生も同じことであろう。

すし(7)前頭葉の眼窩前頭皮質(orbitofrontal cortex)は、「後悔」(regret)にかかわる。自分が実際に行ったこと(現実)と、行うことができたこと(反現実)を比較する。さらには、その 前提となった判断基準をも再検討する。感想戦は、眼窩前頭皮質の鍛錬でもある。

すし(8)感想戦では、自分や相手の指し手を覚えていることが前提となる。プロ棋士の方に伺うと、素人の指し手はかえって覚えにくいのだという。指し手の後ろに、ロジックがないからである。ランダムな配列を記憶するのではない。背景には、緻密なロジックと読みがある。

すし(9)一つのことで鍛えた脳回路は、他のことにも応用できる。脳内の資源の管理に関係する前頭葉の背外側前頭前皮質(Dorsolateral Prefrontal Cortex)。子どもの頃から、将棋を指して、一つのことに集中する回路を鍛えるといいね。素晴らしき将棋の世界。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月7日土曜日

リア充もいいけど、仮想もね

りか(1)「リア充」という言葉を最初に知ったのは、斎藤環さんとの往復書簡のときで、「どういう意味か」と知り合いに聞いたら、リアルが充実しているということだった。それ以来、徐々に頻繁に目にするようになって、今ではすっかり定着しているようである。

りか(2)これは、ある講演会での質疑応答で言ったことかもしれないけれども、たとえば恋愛でも、リア充の人よりも、充実していない人の方が、案外その本質を知っているようなところがある。これは、もちろん、リアルに充実することの意味を否定するものではない。

りか(3)何年か前の歳末、朝羽田空港に帰ってきて、カレーライスを食べていて、となりの小さな女の子が妹に、「ねえ、サンタさんていると思う? 私はこ う思うんだ」と話しているのを耳にしたことが、『脳と仮想』という本を書くきっかけとなった。未だに読んでくださる方も多く、うれしく思う。

りか(4)実際に異性と付き合う前の思春期のときに、男の子ってこんな感じなのか、女の子ってこんな感じなのかとあれこれと思い巡らしている。そんな「仮 想」の中に、私たちが思い描く理想の恋人像というのは案外潜んでいるもので、「リア充」ではないからこそ育まれるものもある。

りか(5)もちろん、いい歳して理想の異性像はこうだ、などといつまでもこだわっていると、周囲からあいつは何だ、と言われかねない。そのあたりはバランスの問題だけれども、リア充であればいいというものでもなく、乏しいからこそ想像力が育まれるということもある。

りか(6)遠藤周作が『沈黙』を書いた、その舞台の海を訪れたことがある。神が人間の呼びかけに対して「沈黙」を守っているからこそ、人間は神とはこんな存在なのではないかとあれこれ想像する。神の本質は不在であり、目の前に顕われてしまっては、神ではない。

りか(7)理想のご馳走とか、夢のような旅行とか、飛び上がるような栄達とか、そういうものは全て「仮想」の領域に属するのであって、実際にそうなってし まったら案外つまらないものだろう。人間精神の健康のためには、「リア充」と「仮想」のバランスがとれていなければならない。

りか(8)インターネット全盛の時代になって、すべての情報が顕在的になっている今こそ、「仮想」の大切さが増大している。どんな表現も、脈絡も可能ではないような「仮想」の領域を育んでこそ、人間の精神としてはちょうどバランスがとれる。

りか(9)日本に元気がなくなったのも、「仮想」の領域がやせ衰えたから、という気もする。かつて、外国は最大の「仮想」だったが、今では当たり前の現実 で、わくわくしなくなった。リアルの増大に比例して、仮想も膨らませなければ。ネットの膨大に対抗できるくらいの、大いなる仮想を抱け。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月6日金曜日

ネットの世界は下克上の戦国時代だけど、日本はカヤの外だね

ねに(1)時代の流れを空気のように感じていることは大切だと思う。一ヶ月ほど前だったか、Flipboard for iPadを手に入れて以来、ニュースをそれ経由で読むことが圧倒的に多くなった。指でめくる感覚が心地よいアプリで、良いニュースを動的にキュレーション してくれる。

ねに(2)FlipboardがキュレーションするTechのニュースを見ていると、ネットの世界は今がまさに戦国時代、群雄割拠で下克上の状況になって いるということがよくわかる。何しろ、得られる報酬は青天井。グーグルやフェイスブックの成功を見て、血をたぎらせている若ものの群れ。

ねに(3)スタートアップが、IPOまでにどれくらいの資金を得て、その結果どれくらいのリーターンがあって、平均どれくらいの利益になるか(確か 600%以上だったかな?)とか、アプリを探索するのが大変だから、その生態系の検索システムが求められているとか、いろいろな話題。

ねに(4)ネットの話題の面白いところは、それが潜在的にただちにグローバルな意味合いを持つことだろう。システムやアプリの世界に国境線はない。だか ら、ネットの上で、新しい帝国主義の時代が来ている。もっともプレイヤーは国家ではなく、自宅の二階にいる一人の若者かも知れぬ。

ねに(5)Flipboardは、Techの分野だけでなく、一般Newsのキュレーションも面白い。やや米国中心の傾向があるのは仕方がないこととし て、各地域のニュースも拾っていて、グローバルな関心事項(地球温暖化や、エネルギー問題など)にかかわることをチェックするのに便利。

ねに(6)ところで、世界には依然としてドメスティックな関心事項もあって、フランスに行ったときフランス人と話すと今年行われる大統領選についていろいろ言う。サルコジがどうの、ルペンの娘がどうのという。なるほど、と思うが、実はそんなに聞く方の力は入っていない。

ねに(7)それぞれの国内のニュースは大切だが、今日においては、よりグローバルな視点への注意の分配が求められる。そうでないと、現代をいきいきと生きることにはならない。ツイッターのトレンド語を見ていても、日本では依然として国内ニュースの比重が大きすぎるようだ。

ねに(8)日本から、世界規模のネット・ベンチャーが出にくい、という指摘があって久しい。もちろん、がんばっている挑戦者たちもいるから応援しているけれども、社会全体として、ドメスティックなことにばかり関心が向いているという状況も足を引っ張っているのではないか。

ねに(9)文明にはその時々の坩堝のようなものがある。今はネット。アメリカの若者たちが、世界を見据えて下克上の闘いに挑んでいるときに、日本の大学制 度とか、就職活動のこととかは、確かに国内問題としては大切だが、どうでもいいこと。逆にそんな感覚で国内制度を見直す必要があるのだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月5日木曜日

日本のサブカル力は最強だ

にさ(1)前回パリを訪れたとき、植物園の近くに遊戯王カードを売っている店があって、そこにいい年したパリの若者たちが群がっていた。一人は、コンピュータでカードのレア度を調べていた。みな、普通にオタク風の雰囲気だった。女子度は低かった。

にさ(2)今回、リールからシャルル・ド・ゴールに帰る時に、オート・グリルで食事をした。横に売店があって、そこが日本のキャラクターの独壇場だった。 ハローキティだとか、ピカチュウだとか。レストランにフランスのキャラクターらしい、ロビンフッドみたいなのが描いてあったが、可愛くなかった。

にさ(3)シャルルドゴール空港で、フランス人と中国人らしいカップルがいた。3歳くらいの女の子が、キティちゃんのリュックを背負っていた。かわいかっ た。フランス人は金持ちっぽくって、中国人らしい女の子もファッショナブルな格好をしていた。ブランド名はわからないけど。

にさ(4)このところ海外に行って思うのは、日本のサブカル(マンガ、アニメ)力は最強だということである。こわいものなし。だって、圧倒的に質が高い。そこには文化的かつ歴史的な必然があるのだなあ、ということを、帰りの飛行機の中で見た映画でふたたび思った。

にさ(5)見た映画は、メル・ギブソンやジョディ・フォスターが出ている『マヴェリック』と、クリント・イーストウッドとジーン・ハックマンが出ている 「許されざる者」。たまたま両方とも西部劇だったけど、勉強だと思って見た。後者は傑作の誉れ高く、実際にすばらしかった。

にさ(6)『許されざる者』は、いわゆる西部劇の文法に批評的にアプローチしていて、ちゃんと作家も出てくる。最後に、クリントがぶっ放す、西部劇に必須 のカタルシスの場面もあるのだけれども、批評性が貫かれているので、ほろ苦い。映像もすばらしく、傑作の名にふさわしかった。

にさ(7)それでも、僕は思った。台本としての面白さは、やはり『用心棒』や『椿三十郎』、あるいは『七人の侍』の方が上じゃないかな。なぜそうなるのか というと、結局、人間というものの振れ幅なんだと思う。マッチョを肯定するという世界観から、アメリカはなかなか抜けられない。

にさ(8)日本でサブカルが隆盛したのは、歴史的必然がある。正統派のカルチャーでは、どうせ適わない(日本の知識人で世界的ブランドになった人は皆 無)。大空襲や原爆。大地震。さんざんひどい目にあってきて、マッチョだとか、前向きだとか、それだけでは世界がうまく行かないのは知っている。

にさ(9)沖縄戦を経験した金城さんがウルトラマンを立ち上げたのが象徴的。日本のサブカル力には、それだけ元手がかかっている。ハリウッド映画は、どん どん日本から学べばいい。ぼくたち日本人も、そのあたりについては、もう少し自負を持っていいんじゃないかな。日本のサブカル力は最強だ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月4日水曜日

幸せとはバランスのことであるが、そんなことを考えないのが一番幸せである

しそ(1)昨日、リールのレストランでクルーたちとご飯を食べていたら、パリ在住の江口さんが、突然「幸せってなんだと思いますか?」と聞いた。ディレク ター=監督の牛山さんが言ったことがひどくて出鼻をくじかれたけれども、カメラのアパッチ青木さんの答えは、ぼくもそう思えるものだった。

しそ(2)アパッチ青木さんは、「自分のところには来るまい、と思っていたものが来たとき」と言った。本当にそうだな、と思う。そしてそれは幸せの一つの かたちであって、全てではない。福音以外にも、日々の命の調和の中に幸せがある。幸せとは、一つのバランスのことである。

しそ(3)そしたら、江口さんが、パウロ・コエーリョの小説『アルケミスト』のことを話し始めた。城主が少年に、スプーンをもたせて、オリーヴオイルを満 たす。そして、スプーンを持って、城の中を一周してきなさいと言う。少年は、オリーヴオイルをこぼさないようにしながら、一周してくる。

しそ(4)少年がもどってきた時、城主が「すばらしい絵をみたか」「庭師と話したか」と聞くと、少年は、「いいえ、スプーンの中のオリーヴオイルをこぼさないのに精一杯で見ませんでした」と答える。城主が、「それはもったいない、もう一周してきなさい」と少年に言う。

しそ(5)少年は今度は部屋にかかっているすばらしい絵を見たり、美しく整えられた庭に感嘆する。戻ってきて城主に、「すばらしいものを見ました」と報告 する。城主が、「スプーンの中のオリーヴオイルはどうした?」と聞くと、少年は夢中になっていたから、すべてこぼれてしまっていた。

しそ(6)物語の結論は、人生とは、スプーンの中のオリーヴオイルをこぼさないようにしながら、すばらしい絵や美しい庭を見ることが幸せ、だということ。 つまり、人生の目的(=ライフワーク)を忘れない一方で、日々出会う思いもかけぬものをきちんと見て、楽しむことなのだろう。

しそ(7)ちょうど、パリの蕎麦屋さん、円(YEN)で、中山美穂さんと「アルケミスト」の話をしたばかりだった。その時のドキュメンタリーのディレク ター(監督)が牛山さん。江口さんはさらにUFOの話をはじめて、半分に割ったらU2が出てきたとか、他愛もない話をした夕べは楽しかった。

しそ(8)幸せとは、workとlifeの間とか、失敗と成功とか、努力と弛緩とか、予想と意外とか、さまざまなものの間のダイナミックなバランスのことなのだろう。それこそが、生命の本質。一つのことのみにこだわる原理主義は、その性質からして、もっとも幸せから遠い。

しそ(9)そして、幸せの原風景が子どもの時代にあるように、本当は、「幸せってなんだっけ?」と取りたてて問わない、無自覚な日常が幸せなんだろうと思 う。江口さんの問いかけで、ぼくたちは幸せについて考えた。そして、談笑の中に没入して我を忘れたとき、本当に幸せになっていた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月3日火曜日

言語のすべてに対応するのは無理だから、諦めよう

げあ(1)昨日の夕飯は、ローランと一緒だった。あいつだったら、きっといい店を知っているだろうと思ったら、案の定すばらしかった。各テーブルにクレヨンが置いてあって、敷いてある紙にイタズラ書きできる。気に入ったら、持って帰るお客さんも多いのだという。

げあ(2)注文のときなど、片言のフランス語を話す。聞いていても、ある程度はわかる。でも、ローランのように流暢には喋れない。牛山さんが、フランス語は喋らないのですか、と聞くから、ぼくは英語に集中して投資をする決断をしています、昔、ドイツ語はやっていたことがありますがと答えた。

げあ(3)はっきり言って、キリがない。世界には数千の言語があるという。中南米の多くの国ではスペイン語だし、ブラジルはポルトガル語。アフリカの多くの国はスワヒリ語だし、アラビア語ももちろん無視できない。お隣の韓国語だって、話せたり読めたりできればそれにこしたことはない。

げあ(4)実際的な意味で重要になりつつある北京語や広東語もあるし、台湾の繁体字の体系もある。ベトナム語もあるし、タイ語もある。インドは多言語国家で、ヒンディー語だけじゃなくて、ベンガル語も詩的な言語として忘れてはいけない。詩的な言語と言えばペルシャ語もある。ロシア語もお忘れなく。

げあ(5)もう十分だろう。フランス語やドイツ語は目立つし歴史的な経緯で重要とされたが、それぞれの国の言語の中に、固有の愉しみと煌めきがある。すべてに対応することは不可能。だったら、有限な人生の時間で、言語への個別対応とは異なる形での水平的普遍性を持つことを図るしかない。

げあ(6)そもそも、言語は自然言語だけとは限らない。コンピュータのプログラム言語も重要だし、数学や音楽だって一つの言語。もちろん絵画も。だから、どこかで見切って、自分の手持ちの言語を選択と集中で磨いていくしかない。普遍性は、網羅的な言語対応以外の何かで担保しなければならない。

げあ(7)英語は、lingua francaとして重要であり、特に科学や技術を記述する言語として主要な地位を占めている。インターネット文明がアメリカ起源だったことで、より重要性が高まった。言語としての学習曲線も奥深い。だから、英語に絞って資源を投入するのが、私の判断である。

げあ(8)もちろん、どこかに旅行すれば、その国の言語を少しでも学ぼうと思うけど、それ以上自分の資源を投入しようとは思わない。フランス語やスペイン語を流暢に喋っている人がいたら、一抹の寂しさは感じるけれども、まあ、それは仕方がない。人生には他にやるべきことが沢山あるから。

げあ(9)今後は自動翻訳の技術が格段に向上するし、多言語間のNxNの流通も増していく。lingua francaとしての英語の実力を金剛なものにすると同時に、他のかたちでの普遍性を目指す。これが私が自分の人生で選択した言語政策。それぞれの言語学習を考える時のご参考までに!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月2日月曜日

世界的な文脈で考えよう。できるだけ

せで(1)成田から飛行機に乗って、パリに着いた。シャルルドゴール空港でスタッフの方々と待ち合わせて、ホテルに向かった。さっそくiPhoneや iPadでメールやニュース、twitterをチェックする。時折mapで自分の位置を確認する。ホテルに着いて、すぐにネットに接続した。

せで(2)インターネットの発達によって、生活したり仕事をしたりする環境が、世界のどこでも同じになってきた。ネット上のアプリやサービスも、地球共通 の生きる上での関心を反映し始めている。アプリの「生態系」は進化の緒についたばかりであり、これからカンブリア爆発を迎えるだろう。

せで(3)ジョブズの伝記の中に、スティーヴが「はっ」と気づく瞬間が出てくる。確かトルコにいる時だったと思うが、現代の流行、特に技術的流行というも のは、もはやグローバルで、トルコ風の、日本風の、あるいはアメリカ風の技術というものは徐々に意味を失ってきているということ。

せで(4)世界的な規模の関心事について考え、行動することが適応的な時代になってきた。たとえば、貧困の問題。教育の問題。エネルギーのこと。水資源の 問題。食糧問題。平和。メディア。世界中のどんな国のどんな人たちにとっても共通の課題についてパス回しをすることで、人は成長していく。

せで(5)世界的な規模でのことを考えるかどうかは、実は言語とは相関しない。日本語でも、世界的な視野で考えることはできるし、英語でも、ドメスティッ クな関心事について語ることはできる。要するに、どんな意識を持つかであって、そのことによって、生み出されるものの質が決まってくる。

せで(6)パリに来る飛行機の中で、日本を代表する週刊誌二誌を読んだ。一つには私が伊勢神宮に行った記事が出ていて、「ひゃあ」と思ったが。どちらも、ドメスティックな話題がたくさん載っている。日本に住み、日本語を母語とする人しか興味を持たないようなことの数々。

せで(7)ドメスティックな話題に意味がないわけではない。身内の関心事があるし、仲間としての結束があり、固有の伝統や文化もある。その一方で、世界的 な規模の関心事を反映する記事も、両誌(週刊新潮と週刊文春だけど)にはあちらこちらに掲載されていて、その変化の兆しに関心を持った。

せで(8)ここまで相互依存関係が密になると、たとえば経済の課題を解くにしても、一国の内部パラメータばかりいじっていてもらちが明かない。世界規模でのイノベーションと強靱性に取り組むことによって、結果としては日本の経済もよくなっていく。

せで(9)国内の話題やテーマはついつい面白いから目が向くけれども(政治が典型)、世界的な文脈での課題に取り組む時間を、少しでも増やそう。そうする ことが、個人としても、組織としても、国としても、結局は適応的である。世界のあちらこちらでみんなが何に困り、何を夢見ているか想像すること。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2012年1月1日日曜日

ある日突然、思い立つ

あお(1)年が明けて2012年になった。年が改まるというのは人為的な約束だが、それでも気持ちが引き締まり、新たな思いや希望がわいてくる。正月の本質はコミュニティ。周囲の人もシンクロしてそのような感慨を抱くことで、共感の質が高まっていく。

あお(2)人生には、カレンダー上の節目があると同時に、ある日突然やってくるきっかけもある。その時に、人生は改まる。気づき、出会い、断念。その突然の節目を大切にして、逃さないようにしなければならない。

あお(3)忘れもしない、去年の正月。私は突然2時間40分歩いた。年末に多忙でちょっと体調を崩して、これではいけないと思ったのだろう。自分でも不思議だったが、あの日から、自分の中で確実に何かが変わった。今でも、長距離歩くということを続けている。

あお(4)小学校5年生のある日、私は、突然、「絵画教室に行きたい!」と言い出した。その週から行って、大学生の頃まで油絵の教室に通っていた。最初に描いたのは、「アジの開き」だった。あの日の突然の思いつきは何だったのだろう?

あお(5)そして、私の人生の最大の転機と言えば、31歳の春に電車に乗っていて、突然「ガタンゴトン」という音の生々しい質感に気づいて、「クオリア」に目覚めたことである。物理主義の限界を悟った。その後の人生の方向を決定付ける、もっとも本質的な転機だった。

あお(6)暦の上での画期は普通に生きていれば向こうからやってくる。しかし、自分の内面での画期は、心に耳を澄ませていないと気づかないことも多い。年 代が改まる、大きな変化は、いつどこでやってくるかわからない。そして、思い立ったら、その勢いに乗って、自分が変わるところまで行ってしまえ!

あお(7)気づきのうちもっとも貴重なものは、その瞬間から何か新しいことを始める、というものであろう。自分の行動のあり方が変わる。新たな挑戦を始め る。そこには緊張と不安がある。自分がそんなことをするとは思っていなかった行動する時間に、事も無げに飛び込んでいく。そんな年にしたい。

あお(8)というのも、人間には、前からやろうやろうと思ってやっていなかったり、あるいは自分には無理だと思っていたり、縁がないと考えていることが沢山あるからである。その「壁」をいかに乗りこえていくか。自分の邪魔をしているのは、結局は自分自身なのだ。

あお(9)ある日、突然思い立つ。新しい年の始まりは、本当はそこにある。その瞬間はいつやってくるかわからない。カレンダー上の新年は、みんながその気 持ちになるから共感の輪が広がるが、自分だけの新年は、孤独の中にやってくる。自分や他人の中の、季節外れの新年の気配に耳を澄ませていこう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。