2012年1月17日火曜日

生きて死ぬ私を書いたころ、青春だった

いせ(1)今はちくま文庫になっている『生きて死ぬ私』を書いたとき、私は35歳だった。まだ1、2冊しか本を出していなかった。徳間書店(当時)の石井健資さん(現ヒカルランド)が、「臨死体験」についての本を書いてくださいというから、わかりましたと私は引き受けた。

いせ(2)当時、私は臨死体験に興味を持っていて、いろいろ文献を読んでいた。それで、書き始めたのだが、なぜか、人生論エッセイみたいになっていってしまった。脳科学を始めてすぐの頃に、心を扱うということの重みについて考えたり、子どもの頃蝶の採集をしていたときのことを書いたり。

いせ(3)書いているうちに、どんどんのめり込んでいって、二週間くらいで書き終えてしまった。それを石井さんに持っていったら、困ったような顔をしている。あれ、注文の臨死体験についてのエッセイも入っているんだけどな、と思っていると、石井さんが重い口を開いた。

いせ(4)「茂木さんが、五木寛之さんだったら、良かったんですけどねえ」ぼくは、意味がわからなくて考えていたが、やがてはっとした。それまで、本というのは文章さえ良ければそれで勝負、と思っていたのだが、どうやらそうではない、ということなのだ。

いせ(5)無名の若い著者が書いた人生論の本など、よほどのことがない限り読者は手に取らない。「脳」や「臨死体験」など、一般的に関心を呼ぶタグがついていないと、市場に出ない。その後、私の本には多く「脳」という文字がタイトルにつくことになるが、それも同じ理屈である。

いせ(6)石井健資さんに、『生きて死ぬ私』の原稿を持っていって、「うーん。五木寛之さんだったら良かったんですけどねえ」と困られてしまった、あの瞬間に、私は出版界のこと、世間のこと、市場というもの、そのあたりのことを学んだように思う。思えば私は未熟だった(今でも幼いけど)。

いせ(7)石井さんが偉かったのは、それでも『生きて死ぬ私』を出版してくださったことである。幸い、本は読まれて、増刷もした。そして、たけちゃんまんセブンこと、増田健史さんのご厚意でちくま文庫にもなった。今でも読んでくださる方がいて、大切な本なのでうれしい。

いせ(8)なぜ、今朝はこんな昔話をしようと思ったのか、シャワーを浴びているときの無意識のせいでよくわからないけども、ひょっとしたらこれから本を書こう、と思っている人たちの少しでも参考になればという思いがあったのかもしれない。誰でも青春はほろ苦いんだよ。

いせ(9)技術的に言うと、『生きて死ぬ私』の特徴の一つは一つひとつの文章の長さがまちまちであることで、連載ではなく書き下ろしだったからである。もう一度そんな文章に挑戦しようと思って、メルマガ『樹下の微睡み』で「続・生きて死ぬ私」を書いている。あれから15年が経ってしまった。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。