2012年1月23日月曜日

観客なしでこそ、自分が顕れること

かじ(1)講演会で話したあとで、ああ終わった、とほっとしてトイレに隠れているときなどに、ふとグレン・グールドのことを思い出すことがある。カナダの伝説的ピアニスト。グールドの録音したバッハのゴルトベルク変奏曲を、私はいったい何度聴いて、魂を癒されてきたことだろう。

かじ(2)私は講演会はうまい方だと思う。いきなり本題に入る。これは、小林秀雄のやりかたへのオマージュ。あるいはタイガージェットシン方式。そして、聴衆の反応を見ながら、臨機応変に組み立てる。ときには、綾小路きみまろになることもある。

かじ(3)自らのダメなことを切る自虐ジョークや、ちょっとほろりとする話、ハードな科学の話、日本のこと、世界のこと。講演が終わったあと、主催者に、「とても良かったです!」と言っていただくとうれしいし、何か大切なアイデアが伝わるとそれもまた心強い。

かじ(4)講演は、ライブのコンサートに似ているなと思うことがある。このように、ツイッターで情報が発信される時代になっても、やはりその場で臨場感と肉体性をともなって展開されるたった一回のことは違う。だからこそ、講演会は消えないし、私もまた出かけていくのだろう。

かじ(5)きっと、講演会という場が、私は好きなのだと思う。自分が試される。そして、心を開けば、きっと聴衆にも伝わる。そして、終わってしまえば、ほとんどのことは忘れられてしまうかもしれないけれども、きっと何かが残っていると信じたい。いつかは小林秀雄のように話せるようになりたい。

かじ(6)それでも、ときどき思うのだ。講演を終えて、トイレに隠れて、ふと我に還るとき、グレン・グールドのことを思い出す。なぜ、グールドは、その華々しいキャリアの途中でライヴ・コンサートをやめてしまって、スタジオ録音だけをするようになってしまったのだろう。

かじ(7)グールドは言う。コンサートは、まるでスポーツのようになってしまった。観客をいかに熱狂させ、喜ばせるかということが競われる。その時、演奏者は異常なプレッシャーの中にある。何よりも深刻なことに、音楽そのものの性質が変貌してしまう。

かじ(8)だから、グールドはスタジオに引きこもって、自分の内面の音楽を彫刻することを選んだ。講演を終えてトイレに隠れているとき、私は、話にも同じようなことがあるのではないかと思う。たとえば、キャンプファイヤーの焚き火を前に、ぽつりぽつりと語られる魂の言葉のようなものが。

かじ(9)人が前にいるとどうしても無理をしたり、誇張したりする。そんなことは私たちに常にあるんじゃないかな。本当のことは、他者の目から離れて引きこもってみないとわからない。グレン・グールドがスタジオでピアノを弾いたように、いつか聴衆のいない講演会をしてみたい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。