2012年1月25日水曜日

試験で測れる能力と、才能は別物だよ

しさ(1)しばしば、「試験の成績」が良いからと言って才能があるとは限らないと言われる。これは本当にそうであって、たとえば、私が卒業した東京大学は、みんな試験の成績は良かったのだろうけれども、才能があるやつがそんなにいたとは思えない。これはどういうことなのだろう?

しさ(2)才能とは、時に容赦ないものである。たとえば、明治の文豪夏目漱石。最近、私は心が折れてもう一度『こころ』を読み返したけれども、冒頭の、「先生」を追いかけて突然海に泳ぐシーンといい、「先生」の遺書を読んで親をほったらかして遁走するシーンといい、天才としかいいようがない。

しさ(3)小説を書くことについては、凄まじい天才のある漱石が、絵を描こうとするとからっきしダメなんだから、面白いじゃないか。ヘタもヘタ、凄まじいまでのヘタくそである。「吾輩ハ猫デアル」にもあるように、一時期真剣に絵に取り組んだようだが、どうにもこうにもモノにならなかった。

しさ(4)小説の天才が、絵の天才どころか及第もしないのだから、才能とは面白いではないか。みんな違ってみんないい。要するに才能とは個性のようなものであって、ここに、いわゆる「試験の成績」とは異なる側面があるように思われる。ものさしが一つじゃないのだ。

しさ(5)最近日本では「知能指数」をうんぬんするのは政治的に正しくないらしいが、1904年のSpearmanの論文において提出されたgeneral intelligenceの考え方は今でも有効である。「g factor」という、いわば「地頭の良さ」のようなものがある。

しさ(6)g factorが高い人は、さまざまな分野、教科の学力が高い。これが、いわゆる「東大的」な頭の良さの科学的裏付けであろう。脳の前頭葉の「司令塔」の回路が関与していることも示唆されており、IQという概念自体は、科学的な根拠がないわけではない。

しさ(7)問題は、IQが高いことと、才能があることは全く別だということだ。IQは、つまりは収束進化のようなもので、単一の基準における卓越に帰着できる。ところが、才能は基準が多様であり、収束進化しない。むしろ、多様なニッチを目指して拡散していくものである。

しさ(8)東京大学のような、ペーパーテストで好成績を収める受験生を入れてきた大学の構造的な問題点がここにある。それでは、IQで示されるような単一基準の優れた人はとれるかもしれないが、多様な才能を持つ人を取りこぼしている。結果として、才能の大競争をしている現代に合わない。

しさ(9)日本人は一つのものさしで思考停止してしまうのが好きだから、これだけ長い間ペーパーテストの優越が続いてきた。時代はそんなものよりも多様な才能を求めている。そして、才能を測る単一のものさしなどないという事実に、もうそろそろ気づくべきだ。その時私たちは大いに自由になる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。