2011年9月30日金曜日

「iPad 2は、今まで手にしたすべてのガジェットの中で、もっとも満足感の高いものである」ことについての連続ツイート

あま(1)Amazon Kindleが出たとき、私は真っ先に買った。大量の本を持ち運んで読む、ということについて実際的な需要があったからである。ソッコーで買って、大いに満足した。以前連続ツイートで触れたように、クラウドの威力を、実感したのである。

あま(2)紙の本には本質的な脆弱性があった。ぱっと読みたいときに、どこにあるかわからないと、ものすごくストレスが溜まる。Kindleならば、それさえどこかに行っちゃわなければ、「あっ、あれ読もう」と思った時にすぐ読める。読みたいときが脳が吸収しやすい時。うれしかった。

あま(3)ところが、iPadについては慎重だった。いつもMacBookを持ち歩いているし、電子書籍についてはKindleがあるし、要らないかな、と思っていたのである。私にしては珍しくすぐには飛びつかず、結局iPad 2の3Gをずいぶん後で買うことになる。

あま(4)iPadを買わずにいた頃、他人が使っているのを見て、気付いたことがある。iPadを使っているところを見ると、まるで遊んでいるように見える。編集者がゲラの校正をしたり、研究者が論文を読んでいても、となりから見ていると戯れているように楽しく見えるのだ。

あま(5)キーボードを叩くという動作に比べて、指で液晶表面をなぞり、タップし、開いてズームするといった操作が、まるで子どもが遊んでいるように見えたのだろう。逆に言えば、それが、computationの進化の方向なのだということを、iPadを買う前から確信していた。

あま(6)MS-DOSの頃、computerは「マジメ」なものだった。ラインコマンドでいかにも計算をしている気がする。それが、Macとそれの模倣であるWindowsが出たときに、遊びに近づいた。そのことに眉をひそめる計算至上主義派もいた。でも、結局遊び派が買った。

あま(7)まるで戯れているかのように情報を扱える。これこそが計算の進化の方向なのであろう。紙の書籍から電子書籍への変化も、読書をするという「遊び」の純度が高まることであると私は考える。紙は大切だが、それを重大視するのは、ラインコマンドに固執するようなものではないか。

あま(8)結果として、iPad 2を購入した。その上でも、Kindleが動いた。そしたら、もう二度と白黒のKindleには戻れなかった。iPad 2が提供する「遊び」の純度。今では、iPad 2で、本を読んだり、論文を読んだり、すっかりheavy userになっている。

あま(9)ガジェットには思いこみという障壁があって、長年のMac Userである私にも、iPadへの壁があったが、乗りこえたら、その遊びの純度に感染した。今では、キーボードのある従来型のコンピュータが、まるで粗暴な過去の遺物にさえ感じられることがある。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月29日木曜日

「ばかなことを身体を張ってやっているやつは、いいね」についての連続ツイート

ばい(1)世の中で信用しないやつ、っていうのはいろいろいるけれども、後出しジャンケンであれこれ言う奴、これ筆頭だね。日本の新聞の社説なんか、みんなそう。現場で身体張っているやつのぎりぎりな感じがまったくない。政治評論はみんなそうだね。自分で土俵に上がらず、つまらん。

ばい(2)一方、俄然評価が高いのは、自分で身体張ってばかなことをやっているやつ。東京芸大で教えていたときの杉原なんて典型で、あんなバカはいなかった。この前も、波頭亮さんが、話すと面白いのへ植田工だけど、エピソードが杉原がいちばんばかだな、と言ってたっけ。

ばか(3)下宿の二階から通りを見ていた杉原。下を、自分が好きな女が通り過ぎるのを見て、何を思ったのか、うりゃあと飛び降りた。それでかかとを粉砕骨折。その彼女に病院につれていってもらったんだから、まあ、本望だったと言えば本望だけど、ばかだね。ありゃあ。

ばい(4)切り株の近くの地面に、あたまだけ出して埋まる、という事件もあった。「杉原くん、君が、芸術活動としてやっている、ということはもうわかったら、そろそろ出てきなさい!」と助手の人に説得されて。あの時は内藤礼さんもいて、「杉原くん。。。」とやさしく見つめていたんだった。

ばい(5)いやさ、昨日さ、仕事の合間にぱーっとChim↑Pomの展覧会を見に行ったけど、相変わらずバカだな。@ellieilleがスクリーンに向かってバンバン撃ってやがるんだけどさ、火で何かしたり字を書いたりとかね。オレは、見ながら、こいつら本当にバカだなあと 思った。

ばい(6)バカにも二種類あって、第一種バカは、自分のことを棚に上げて、他人のことを「後出しじゃんけん」であれこれ言ってばかりいる。この「後出しじゃんけん」という点がポイントで、何しろ現場では未来はわからないんだから、後出しじゃんけんバカは現場を生きていない。

ばい(7)一方、第二種バカは、とにかく後先考えずにやっちまう。失敗するか成功するかなんて、あらかじめわかってはいなんだから、とにかくやっちまう。これが、日本の未来を開く救世主バカ。もっと、第二種バカが増えないとこの国はだめだね。

ばい(8)問題なのは、大新聞の天声人語や社説ばかりじゃなくて、ツイッター上でも、捨てアカウント使ったりして、匿名で自分を棚に上げて他人をあげつらう第一種バカが増殖していること。いかにも没落した日本らしい光景だよ。だけどね、オレの知っている日本は、ホントはそんな国じゃねえ。

ばい(9)アントニオ猪木対モハメド・アリ戦もそうだし、Chim Pomのやつらもそうだけど、ずーっと時間が経って、後からしみじみ記憶に残るのは、身体を張っている第二種バカだね。自分を棚に上げて他人をあれこれ言っている第一種バカは、みんな流れてはいさようなら。天道公平だねえ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月28日水曜日

「日本はコモディティ化した知性という罠にはまっている」ことについての連続ツイート

にこ(1)波頭亮さん(@ryohatoh)と昨日話していて、日本に決定的に欠けているのはインテリジェンスへの尊敬だと改めて感じた。そもそも教育費への支出がOECD諸国中低い。その支出の中身も、現代の文明で活躍する能力を育むものとへいえない。

にこ(2)東大の先生と話していると、「センター試験の監督気を使いますよ。」などという。「姜尚中さんが監督にいたりして、わーっとなりますよ」などとも聞くが、しかし、そのような業務が、本当に大学の先生がやるべきことなのだろうか。

にこ(3)駐車場の割り振りのような細かいことまで、教授会で決める。小中高もそうで、授業そのものよりも、書類書きや会議で忙しく、疲弊している。教育 費への支出を増やすとしたら、先生の「真水」の部分を充実させるために、余計な業務はそれをする人を雇うべきだろう。 雇用の創出にもなる。

にこ(4)では、小中高の教育は何をしているかといえば、結局、旧態依然たる大学入試の「実績」で世間が評価する。今の大学入試では、インターネット、グ ローバル化の中で創造的に生き抜く知性は、全く涵養できぬ。結局、日本の知性は、安価な、コモディティ化したものになっているのだ。

にこ(5)その「パイ」が減少していくとわかっていても、今までの惰性、ルーティーンで回せる業務に安住する。大学も新聞もテレビも、みんな同じ。本当に大変化を起こそうとしたら、本物の知性が必要になるが、今の日本はコモディティ化した小知恵を安価に大量生産している。

にこ(6)たとえば、日本のメーカーがGoogleと合弁、あるいは合併して情報機器を作るとすると、マッチングやすりあわせ、特許関連の処理など、本物で強靱な知性がいる。そんな知性を、日本の大学教育−>新卒一括採用のルートで育てられるはずもない。

にこ(7)日本の新聞も、もしマーケットを海外にも求めて、アジアのかけ算、シナジーを生み出すニュース部門を作ろうとすれば、本物の知性が要る。一方、 昨日の「天声人語」のように、手垢のついた従来の世界観で適当に回す「芸」のためには、コモディティ化した知性で足りる。

にこ(8)東大合格者数がしばしば高校の評価として挙げられるが、それはもはやコモディティ化した知性、規制のパイの中で回していく能力に過ぎないということを、もういい加減に悟るべきだろう。@Joi のような突出した知性は、日本の風土からはきわめて生まれにくい。

にこ(9)波頭さんによると、日本の一部の企業は危機感を持ち、グローバル化した世界で疾走し続けられるような人材を求め始めているのだという。だった ら、とっとと新卒一括採用を廃止。本物の知性は、大変化の時にこそ必要。ゆでガエルは、コモディティ化した知性で事足りる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月27日火曜日

参勤交代のような、人が混ざり合う仕掛けが欲しい」ことについての連続ツイート

さひ(1)先日、熊本に行った時に、お城の横にある資料館で、江戸時代の細川家の「参勤交代」についての展示を見た。大分の港まで歩いていって、そこから船で大阪に至り、さらに江戸まで向かう。一日40キロは歩いたらしい。それを見ていて、想像が大いに膨らんだ。

さひ(2)もともとは大名の財政を圧迫させ徳川家に反逆できないようにと導入された参勤交代だが、結果として文化を花開かせた。街道の宿場は本陣を初めとして賑わい、江戸と地方の文化が交じり合い、「移動」のためのさまざまな工夫、道具を生み出した。

さひ(3)細川の家来たちが、まずは九州内をてくてくと歩いて大分の港に至り、大阪からまたてくてくと歩いて江戸に至る。その時間の流れを想像してみると、今の世からは失われてしまった、のびやかな豊かさ、愉しさがそこにあるように感じられるのである。

さひ(4)養老孟司さんが、「脳化社会」を生きる都会の住民にも、自然の中で土に向き合うような生活をさせるためにも、現代において「参勤交代」を復活させてはどうかと提案されている。武家諸法度のように「強制」することは好ましくないとしても、人々の移動は面白い効果をもたらすと思う。

さひ(5)イギリス人があこがれる生活スタイルは、ロンドンにフラットを持ち、田舎にも家を持つということ。そんな余裕がある人は限られているが、地方にも豊かな文化が育ち、一方でロンドンにもさまざまな地方の消息がもたらされるという、「まざりあい」をもたらす上で効果があった。

さひ(6)現代の日本でも、地方と都市の人々、文化の「混ざり合い」をうながす工夫が求められているように思う。たとえば一年のうち一週間を特定の街で過ごす、くらいから初めても良い。「親戚」づきあいをするというのでもいい。そんな文化が生まれれば、日本の風景も変わるだろう。

さひ(7)現代の日本において、参勤交代にいちばん近い生活をしているのは、忘れがちだが地方選出の国会議員たちだろう。週日は東京で議会に出て、週末は選挙区に帰る。東京と地方の両方を見ている議員さんたちからの、日本をかき混ぜ、活性化するアイデアを期待したい。

さひ(8)参勤交代に限らず、「交通」こそが私たちの社会に文化をもたらすのだと思う。地方活性化の鍵として、よく「よそ者、若者、ばか者」ということが言われる。人が一カ所に淀まずに、動き、混ざり合うような、そんな工夫ができたらいい。

さひ(9)人間は、淀むと、余計なことを考えるようになる。動いて、風を受けて、異質な他者に出会い、ホーム&アウェイで闘い続ける人は、後ろ向きのルサンチマンに陥りにくい。日本人の足腰を鍛えるためにも、現代における「参勤交代」とは何か、真剣に考えてみてはどうだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月26日月曜日

「ハードとソフトが一体となった経験の提供というGoogleの課題に、日本メーカーが生き残る道がある」ことについての連続ツイート

はに(1)Googleの社是に、「邪悪なことをしない」というものがある。その哲学の具現化の一つが、「ユーザーが求めるもの以外の情報はできるだけ提示しない」ということ。ユーザーが要求しない限り、特定の情報をGoogle側からプッシュすることはしない。

はに(2)Googleのトップページは、検索窓だけのシンプルな構成。もしここに広告をつけたら、莫大な価値があることは明らかだが、「邪悪なことをしない」という社是から、余計な情報は押しつけない。そこに、Googleの美学がある。

はに(3)私がMicrosoftのOSやアプリを耐えられないと思うのは、頼んでもいないのによけいなことをいろいろやるからである。ワードやパワポで、余計なフォーマット変換などをされて立腹した経験は誰でもあるだろう。Googleの「引き算」の哲学の対極にある。

はに(4)Googleの哲学は私にとって好ましいものであり、Appleと同様、私の好きなIT企業となった。ところが、一つ落とし穴があった。Googleの開発するAndroid、ChromeなどのOSは良いとして、それをハードに落とし込む際の「ローカライズ」についてである。

はに(5)ユーザーが最終的にあるガジェットから得るexperience(経験)。その作り込みには、ソフトとハードが一体となった開発が欠かせない。AppleのiPhoneやiPadはそれをやっている。ところが、Googleはハードを直接作らないために、コントロールが利かない。

はに(6)昨日私が使おうと試みたGalaxyは、まさにそのローカライズにおける惨憺たる失敗作だった。「ユーザーが要求したもの以外は提供しない」というgoogleの哲学とは真逆に、余計な、センスの悪いアプリを押しつけている。それをユーザーが消していくという余計な負担をかける。

はに(7)ここに、Googleの一つの脆弱性が明らかになる。AndroidやChromeがOSとしてすぐれていることは疑わないが、それを各ガジェットにインストールし、ローカライズしていく際に、Googleの哲学を貫くことができない。結果としてユーザーの経験が劣化する。

はに(8)Googleの取るべき道は、二つだろう。一つは、ハードへの落とし込みについて、指針を明示的に示して、各メーカーがローカライズするプロセスをコントロールすること。もう一つは、Appleのように、自らハードも作って、一体となった「経験」を提供することである。

はに(9)Googleの課題に、日本メーカーの生きる道もある。Googleと合弁、あるいは合併するくらいの勢いで、製品をつくる日本企業はないか? ネット回りの開発能力、世界市場への浸透力では、勝負はついている。独自のしょぼいソフトを作るより、Googleと組むべきだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月25日日曜日

「戦犯だとか、そういう粗暴な言葉を使ってはいけない」という連続ツイート

せそ(1)あれは大学院生の頃だったか、ある女性と話していた。その人はきわめてリベラルな人で、進歩的な考え方をしており、およそ保守的な見方とは無縁の、自由人であるように感じられていた。

せそ(2)何かがきっかけで、戦争の話になった。周知のように、首相をされていた東条英機さんを始め、何人かが「戦犯」として裁判にかけられている。突然、彼女が、「そんなの、戦争に負けたからでしょ」と言った。「うちの母親も言っているわよ。戦争に負けたから。それだけのこと。」

せそ(3)ぼくは、いつもリベラルで、およそ国家主義とか愛国主義とかそういうものとは無縁な彼女が、突然そんなことを言ったので驚いた。死ぬときには、排水溝でのたれ死にしていいと言っていた彼女の、激しい言葉に強い印象を受けて、それが今まで記憶に残っている。

せそ(4)戦犯だとか、戦争犯罪人だとか、そういう言葉はいやな響きがある。戦争に至った道筋や、その過程でのさまざまなことで、反省すべきことはあるとしても、少なくとも一国の指導者であった人たちが、「犯罪人」と断ぜられるとは、「戦争に負けたからでしょ」という彼女の言葉が真実だろう。

せそ(5)それを言うなら、こちらだって言いたいことがある。私の父親は東京大空襲の夜、東京の下町を逃げまどった。戦闘行為にかかわってもいない民間人を、一夜にして十万人も殺したのは、戦争犯罪ではないのか? 原爆を二度も落としたのは、戦争犯罪ではないのか?

せそ(6)アメリカはいい国だが、自分たちが正義だと信じて疑わないことは、あの国の深い病気であって、戦争犯罪人うんぬんも、彼らのそのような偏見に基づく世界観であり、そんなものに日本人が付き合う必要は、全くないと私は考える。

せそ(7)戦争はイヤだよ。小津安二郎が『秋刀魚の味』で看破したように、「ばかなやつらがいばりやがるしね。」二度と戦争なんてしたくないし、馬鹿なやつらにいばらせたくない。そのことと、戦争犯罪人がどうのこうのというのは、全く別の問題だ。

せそ(8)野田首相が、就任なさる直前だったか、「A級戦犯がどうのこうのとか、そういうことは意味がない」というような発言をされていたと思うけれども、まったく真っ当な見解だと思う。泥の中にいるどじょうにだって、そんなことはわかるんじゃないかな。

せそ(9)自分たちは正しいことを疑わないアメリカ的な正義感の方が、これからも戦争を引き起こしていく。実際アフガンでもイラクでもリビアでも、自分たちが正しい、と信じて戦争をしている。そんなものに、日本人が付き合う必要はない。戦犯なんて言葉を、オレたちが使う必要はない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月24日土曜日

「グローバライゼーションなんてふざけるなと思う瞬間がある」ことについての連続ツイート

ぐふ(1)ぼくの好きな芸人さんに、女楽という人がいた。頭がてかてかで、色艶がよく、曲芸をした。口調が洒脱で、いかにも道楽をした人、たくさんの女の人に好かれた人という気がする。「最後に、コマをしまうところをお見せします」と言うのが、オチだった。

ぐふ(2)女楽さんの高座をぼくが見始めたときには、女楽さんはすでに高齢で、若いときにはさぞや美男子だったに違いない、と思うけれども、その面影は色っぽくくっきり残っていた。そのお話をうかがったら、面白かったに違いないとは思うが、もはや果たすことはできない。

ぐふ(3)なぜ、そんなことを言うかといえば、最近、向島の「かど」を知っている人がいて、その「かど」のおじいちゃんが、女楽師匠に雰囲気が来ていることを思いだしたからだ。「かど」は、知る人ぞ知るジュース専門店。「活性生ジュース」が名物である。

ぐふ(4)今は、先代の息子さんが「かど」を継いでいるのではないかと思う。確か、大学を出たあとに、他の仕事をやるんだかやろうとしていた時に、「かど」を継ぐ決心をしたのではないかと思う。その先代ははとにかく色艶がよく、向島の色気をたくさん吸って生きてきた、という感じの人だった。

ぐふ(5)女楽師匠にしても、「かど」の先代にしても、あの色艶は日本の風土でないと決してできない。日本語を使い、日本語にひたり、日本語で色恋を交わして初めてできる光。泥団子がぴかぴか照り輝くように。

ぐふ(6)女楽師匠や、「かど」の先代のような男の老境のようなものは、たとえばやれヘッジファンドだ、ダボス会議だ、IMFだなどと飛び回っている人には絶対に生まれない。つまりは、徹底してローカル、日本だけのことである。それでも、そこに興行きと深みがあることを、ぼくは知っている。

ぐふ(7)結局、ぼくが主張していることは、決して英語圏の文化と同化することではない。英語は単なるツールである。それで、何を伝えるかと言えば、どちらかと言えば女楽師匠のあの色艶や、「かど」の先代の人生の機微を知り尽くした面持ちだ。それらの宝石を、贈り物として差し出したい。

ぐふ(8)グローバライゼーションなんて、ふざけるな、と思う瞬間がある。インサイダーにしかわからないこと。だからこそ英語で超新星爆発のように日本のことを表現すべきだと思う。それが「交通」というものであり、国際化時代における貿易というものであろう。

ぐふ(9)その人となりや、その場の気配や、「今、ここ」のきらめきのようなものは、言葉では伝えきれないし、しかしだからこそ伝えようとする価値がある。ゲイシャやフジヤマ、今じゃオタクのふざけたガイジンの日本理解をぶっとばす責任は、もちろんオレたち日本人にある。猛然と英語やれよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月23日金曜日

「サンプリングは、もしやるとしたら、まじめにやった方がいい。」ことについての連続ツイート

さま(1)そもそも、統計には限界がある。「5年後に生存している確率が30%」と言ったって、自分が実際に5年後に生きているかどうかは0%か100%のどちらかだ。それでも統計的真理を追うのはある程度は仕方がない。問題は、サンプリングをちゃんとやること。

さま(2)統計学を人間に当てはめるときには特に注意しなければならない。世の中には多種多様な人々がいる。その中から、きちんと「サンプリング」をしなければ、結果が偏ってしまう。「民意」が実は「文句モンスター」の平均に過ぎないということは、しばしば起こる。

さま(3)花火が中止になったり、送り火がダメになったり、震災関係で心が痛むニュースが多かった。このような時に、役所や主催者に抗議の電話をかけてくるような人は、サンプル的に偏っている可能性が高い。「本当に統計的に意味があるのか」と自省するリテラシーが必要である。

さま(4)新聞などの「世論調査」においても、昼間に固定電話を受ける人、という時点でサンプルとして偏っている可能性が高い。そのような偏りを排除できないから、そもそも「支持率」などという幻にあまり一喜一憂しない方がいいし、新聞社も伝家の宝刀のように振り回さない方がいい。

さま(5)「婚活」という言葉は好きではないが、もしやるとしたら、サンプリングに留意した方がいい。結婚紹介サービスや、合コンに来る人たちは、サンプル的に特定の傾向があるかもしれない。良い悪いではない。社会の人々の多様性を十分に反映していない可能性があるのである。

さま(6)もし出会いを求めているのならば、特定の目的のために集められた集団よりも、社会の中でランダムに出会うプロセスの方がサンプリングとして信頼できる。出会ってすぐに人間として打ち解ける技術を磨いた方が、結婚紹介サービスに登録するよりも統計的には良質である。

さま(7)時には、統計的な集団から外れた「outlier」こそが興味深いこともある。高校の時に出会った和仁陽、大学で出会った塩谷賢などはまさにそうだった。ぼくの親友は、みなoutlierばかりだ。ぼくが、世論調査で支持率が何パーセントとかいう数字を一向に尊敬しない理由である。

さま(8)サンプル数最大の選挙でさえ、あの程度のもの、統計なんて、しょせんそんなものである。ましてや、ネットにしろ、電話にしろ、向こうから能動的に何か意見を言ってくる時には、サンプルは偏っているというのが当然の前提なのだから、主催者はこれからびびらないで欲しい。

さま(9)何よりも世界に「私」は一人しかいない。私たちは、世論調査を構成する原子などではない。個性こそが輝き。新聞が世論調査をやたらと持ち出してくるのは、自分たちの凋落を自覚してのことだろう。首相が取材に応じないといってもぶら下がっているのが記者クラブじゃ語るに落ちる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月22日木曜日

「こういう若者は、みどころがあるよ」についての連続ツイート

こみ(1)とにかく若いときはみんな未熟で、足りないことばかりなのだから、誰も完成品など求めてはいない。それでも、その発展途上の自己下克上の中で、将来の大物の兆しが見えることはある。いつも、そこに注目している。

こみ(2)将来が期待できるやつのまず第一条件は、「過剰」なことである。過剰なものを刈り込んで、形を整えることはできるが、こじんまりとしているのを無理矢理引き延ばすことは難しい。過剰なやつがいると、おっと注目する。もてあましているくらいがいい。

こみ(3)とにかく、野次馬根性たっぷりのやつがいい。遠くを見ている。自分には手が届かなくても、いろいろなことを知っていて、一生懸命背伸びをしている。そういうやつはいいね。たとえ、今は身体性が届かなくても、そのうち追いついていくさ。とにかく、無理することだ。

こみ(4)科学で言えば、学校で学ぶ物理や化学とか生物とかそういうことじゃなくて、とにかくスゲーやつのスゲー仕事について、それがいかにスゲーのかを、熱く語れるやつがいい。全部理解なんてする必要はない。要するに、遠くのものをかぎつける、嗅覚が必要なのさ。

こみ(5)とにかく生意気なやつがいい。自分がそれをできるかどうかは別として、今社会で活躍しているやつらなんて、吹き飛ばしてやるぜ、くらいの勢いがいい。オレがお前の年になる頃には、もう少しまともな大人になっていてやるぜ、くらいの勢いがいい。

こみ(6)情熱的で、ときにはぶつかるくらいのやつがいい。やたらとケンカをふっかける。口論する。爆発してマグマを吹くくらいの勢いがいいね。噴火したあとは、さわやかなやつがいい。けろりとして、そうかい、て感じで酒を飲んでいる。どんと吹いてにこにこしている。ドンニコがいい。

こみ(7)要するに、生意気で、勢いがあって、過剰で、けんかっ早くて、社会で活躍している先輩たちを「オレはもっとまともになるぜ」というような若者が、やがて自分の身体と向き合い、できないことはできないと悟り、次第に円熟して、自分の身の丈でがんばるようになるのがいい。

こみ(8)最近心配なのは、若いくせにすでに妙に現実的で、野次馬根性もなく、「そういうのは知りません」なんて感じのやつが多いことかな。知らなくても、知ったかぶりくらいしろよ。シマッタ、と帰ってから猛然と調べろよ。過剰から出発しないと、刈り込んだり円熟したりもできぬ。

こみ(9)どうせ社会には適応しなくちゃならない。しかし、最初から適応しているやつは、器が小さい。はみ出すくらいの勢いのやつが、少しシュンとして、身の丈になっていくのがいい。そういうやつとは、うまい酒が飲めるね。勇気だからね。愚かさが過剰として出るやつを、いつも待っている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月21日水曜日

「日本人が偶有性の新文明に不適応であること」についての連続ツイート

にぐ(1)新卒一括採用は、世界を覆う新しい文明への日本の不適応の象徴である。人はみな違って良い。キャリア形成は、それぞれのリズムでやっていい。非典型的な履歴の中にこそ、独創の芽がある。そんな簡単なことがわからないから、ていたらくとなる。失われた20年は当たり前。

にぐ(2)インターネットが、文明の文法を根底から変えてしまった。「偶有性」こそがその本質。youtubeのようなサービスを日本企業はつくれない。コンプライアンスがどうのこうのとできそこないの人工知能のようなことを言っているから。1年で2000億になる企業価値をつくれない。

にぐ(3)ある日本企業とユーザー参加のウェブサービスを作ったとき、心底呆れたことがある。ユーザーの投稿を、いちいち人手で「事前審査」してから公開するのだという。問題があるマテリアルがあれば、後から削除すればいいというyoutube流best effortを理解できない。

にぐ(4)日本の大学入試も、偶有性というものを根底から理解していない。相も変わらずのペーパーテストで、「うちは厳密にやっています」。点数主義の入試判定など、人工知能でもできる。ハーバードのように面接 重視すれば、偏差値的フィルターはかからないが、そもそも点数などその程度のこと。

にぐ(5)日本の法体系が、条文主義であるという愚も大きい。英米法的カモンローの精神を理解していれば、重箱の隅をつつくような思考に陥りにくい。著作権における「フェアユース」とは何か、時代に合わせて柔軟に適応できる。日本の法律家はできそこないの人工知能だ。

にぐ(6)この話題を書いていると、ついつい言葉がラップになるけど、それだけ日本の現状に対する不満、怒りがある。ネット・サービスではアメリカにやられっぱなし。国内でどうでもいい形式的なことをああだこうだ言っている。マスコミはネットを敵対視。自分たちの古ぼけた唄を歌っている。

にぐ(7)ホリエモンがメルマガで書いているけどね。古新聞が時々思いだしたように書き立てる「大学の不正経理」って、予算の単年度主義とか、カフカ的形式主義が本当の問題なのに、人工知能が生命を殺している。あんなのはジャーナリズムじゃなくて、自分の愚劣さの広告さ。

にぐ(8)悔しいね。日本人って、そんなにバカなのかな? そんなことないだろう。俺たちの祖先って、偉大なことをしてきたじゃないか。安土桃山の美術は素晴らしいし、明治維新だって。なんでバカな人工知能、ちんけな秀才どもが牛耳る国になったのかね。このまま国が沈んでいいのか?

にぐ(9)一年以内に、新卒一括採用廃止、著作権法根本改訂、連帯保証人制度廃止、大学秋入学、大学入試にTOEFL採用(TOEICじゃねえぜ)、電子教科書導入、教科書検定廃止、予算の単年度主義廃止。記者クラブ解散。それくらいのスピード感は、俺たちは本来持っているはずだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月20日火曜日

プライドとは、自分のありのままの姿を受け入れることである」ことについての連続ツイート

ぷじ(1)「プライドがないところに、成長はない」。近頃、つくづくそう思う。自負というものがなければ、自分を良くしようとも思わない。自分を認められず、愛せない人は、向上しようともしない。一つの国も同じことである。

ぷじ(2)もっとも、「プライド」は、いたずらに自己を肯定したり、他者を排斥したりすることではない。むしろ、変われること、成長できることにこそ「プライド」を持つ。その時自己はメタ概念となる。「今、ここ」の私ではなく、「未来」の私にこそ最大のプライドがあるのだ。

ぷじ(3)プライドとは、別の言い方をすれば、自分の現状を受け入れるということである。「出羽守」では、成長はできぬ。「アメリカでは」「イタリアでは」「フランスでは」。自分たちの現状を棚に上げて、隣りの芝生は青いと言い募っても、そこには、成長に不可欠な身体性がない。

ぷじ(4)自分の持って生まれたものは、受け入れるしかない。トム・クルーズやディカプリオがかっこいいとか言ったって、日本人の姿かたちは仕方がない。サムライの誇り。アメリカのセレブにわーきゃー言っている やつらがきもちわるいのは、自分を棚上げしているからだ。

ぷじ(5)自分が持って生まれたものは受け入れるしかない。小栗旬がそこに立っていると、それだけで「ベルサイユの薔薇」か! っとなる。オレだって、小栗旬みたいに生まれたかったけれども、青い服着るとドラエモンなんだから、それを受け入れることにオレのプライドがある。

ぷじ(6)革命なんて、ろくなもんではないと最近思う。フランス革命も、チュニジアも、エジプトも、カオスの中人々が勝手をやるという点ではロンドンの暴動と違いがない。原動力は理念と関係がない。唯一信じられる革命は、自己革命だと思うようになった。

ぷじ(7)オレは、いくら日本の霞ヶ関や大学がていたらくだからと言って、デモを組織して押しかけようとは現時点では思わない。それはカオスの物理的暴力だから。むしろ、自分たちで気付いて、変革してほしい。そのために理を説くことは、いくらでもしたいと思う。

ぷじ(8)その肝心の自己改革をするためには、自分のダメさ、弱さを見つめて、受け入れなければならない。鏡を見ることは、時につらい。自分がいかに愚かであるかを悟ることになるからだ。しかし、そこからプライドが始まる。自分がサイテーの存在だとわかった時に、プライドが生まれる。

ぷじ(9)人間にとって他者が最高の鏡である以上、プライドを持つには、異質な他者に向き合う必要がある。他者に向き合えない者に、プライドはない。プライドとは、オレは変わってやる、という決意表明でなければならない。隣りの芝生が青いのではない。自分の芝生を青くするのだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月19日月曜日

茶臼山ツーリング

茶臼山までツーリングに行ってきました。
東名阪から長久手を通り、猿投グリーンロードの終点からはひたすら下道です。
天気もよかったので多くのツーリング族に出会いました。
バイクでこの季節に茶臼山に行くのは初めてでしたが、ツーリングの人気スポットなんだと認識しました。
片道3時間くらいなのでちょうどよい距離です。また近いうちに行ってみよう!

牧場があったり、


意外と標高があるんだなと思ったり、


ゲレンデのレストランでメガチキン丼。食べきれなかった(・∀・)


帰りはビューンっと高速で帰りたいところなんだけど、ここは高速までのアクセスが非常に悪いので、来た道をそのまま帰るしかなかったのでした。
走行距離は216Kmでした。

くまのプーさん 小さなしあわせに気づく言葉

小学4年生の娘に読ませようと嫁が買ってきた本なのですが、ちょっと見せてもらったらいきなり涙が…。
この本は「菜根譚(さいこんたん)」という中国の古典をとてもわかりやすく書かれたものです。
原書は大人でもとても理解できない難解なものですが、大人向けにも同様の指南書が多く出版されています。
それでもわざわざ大人向けのものを買わなくても、このプーさんで十分でしょう。
ひとつひとつの言葉には細かく解説がされていて、何を言わんとするかがわかるでしょう。
またプーさんの挿絵もかわいいので難しい顔をしながら読む必要もないし、パラパラと読めば数十分もあれば読めてしまいます。
しかし内容は濃いのです。当たり前のようなことが書かれてますが、これを実践できる人はなかなかいないでしょう。
つらいとき、苦しいとき、悲しいとき、そんなときにこの本をちらっと見てみるといいかもしれません。
  • ありのままでいこう
  • 自己主張はひかえめに
  • 忠告はうれしいもの
  • いつもこころにお日さまを
  • いちばんふつうが、いちばんすごい
  • 夜、自分と向き合ってみる
  • どんなときでも、あきらめない
  • よくばらないほうがいい
  • おいしいものは、わけあおう
  • こころがけよう、4つのこと
  • なにかした、そのあとが大事
  • 拍手されたら、仲間にも
  • パワーは大事なときのために
  • ちょうどいい伝え方をしよう
  • ニセモノの気持ちに迷わない
  • いまのままでじゅうぶん
  • がんばるバランス、たいせつに
  • うまくいったら、そのさきを
  • わからないことはきこう
  • 自分の気持ちに勝とう
  • 強い気持ちは、なににも負けない
  • いまは「これ」と決めてやる
  • どんなところにも、たのしみはある
  • 悪い人は、笑っていてもこわい
  • みえないところでも、きちんと
  • なんでもないって、しあわせ
  • してもらったことは、忘れない
  • 相手に感謝をもとめない
  • 自分の「いい」を押しつけない
  • 勉強はきれいなこころで
  • こころのなかの音楽をきこう
  • つらさのなかに、よろこびがある
  • 大きな花は、みんなの力で
  • ときには春風のようにあたたかく
  • おなかいっぱい、動けない
  • わるものをこころに入れない
  • よくない気持ちの芽に気づく
  • 引き寄せたいものは、なに?
  • しあわせは、あたたかいこころに
  • 考えて、考えて、考えたなら、信じよう
  • きれいななものだけがいいわけじゃない
  • 足りないところはやる気でカバー
  • 役に立たない悩みはゴミ箱へ
  • ほんの小さな前ぶれに気づく
  • まちがっても、見守るのが家族
  • ぜんぶこころの持ち方しだい
  • たのしみはほどほどに
  • 思いやりって、大切だ
  • むかしからの友だちを大切にしよう
  • 自分の信じたことを大切に
  • 友だちのまちがいは注意してあげよう
  • 「ほんのちょっと」の思いやり
  • 迷ったときは、もうひとりの自分にきいてみる
  • ガンコにガンコじゃうまくいかない
  • こころのバランスを保つ
  • いつも同じ青空にもどる
  • こころのなかの怪物を退治
  • 怒りのこころはあらわさないで
  • 家族にはあまえてもいいよ
  • ひとつのことばで、人を救える
  • 決めた態度はまっすぐ守ろう
  • 反省すれば、どんどんよくなる
  • まぁるくまぁるく
  • ムリをしなくても、大丈夫
  • 自然の流れにまかせてみる
  • まず、信じてみよう
  • なんでも包むあたたかいこころを
  • まわりの反応は、関係ないこと
  • ふつうがいちばん
  • 落ち着きは練習で生まれる
  • いいときに、悪いときを思う
  • 大切なことは時間をかけて
  • しかられるのは、思われているから
  • 広いこころが人を引き寄せる
  • うわさをまるごと信じない
  • ないものを補う努力を
  • ぐずぐず病に効くクスリ
  • 浮かれすぎには要注意
  • ひとつになれば見えてくる
  • 口と意識をコントロール
  • 「できる」よりも「できない」がいい
  • 大きな世界で、ゆったり生きよう
  • もとめるものは、すぐ近くにある
  • 気づいたときが、そうするとき
  • なんにもないってすばらしい
  • 雲や月のように、自分の道を
  • おなかがすいたらゴハンにしよう
  • ビクビクしてると、こわいものだらけ
  • 生きている音を感じよう
  • 自然のものは、自然のなかに
  • いいことあればわるいこともあるさ
  • ほかのものにとらわれないように
  • なにが起こっても、さらさらり
  • あるがまま、そのままがいい
  • 力をためれば、かならず飛べる
  • はかないものと、ほんとうのもの
  • 「いま」のことだけを見つめて
  • 「ぼくはだれ?」と思うくらいに
  • すべてのものは、同じこと
  • こころは枯れない、枯らさない
  • 自然とこころはいつでもいっしょ
  • 自分の人生は自分のもの
  • 「そうなる前からわかる」のが知恵
  • 終わらせるタイミングが大事
  • 自然を愛し、愛されるしあわせ
  • がんばり続けて、ときを待つ
  • 冬のあとにはかならず春が
  • こころをすっきり、リフレッシュ
  • ものは使っても、使われない
  • 世界はきれいに見えるかな?
  • 花を見るなら5分咲きで
  • 他人のまなざしで自分をみてみる
  • こんな生き方っていいんじゃない
  • 満ち足りた気持ちをもって

即興性が脳を鍛える」ことについての連続ツイート

その(1)この連続ツイートは、その場で文字を組み立てて書いている。自分なりのもくろみはあって、それは、「即興」が脳を鍛えると考えているからである。日常生活においても、即興は大切である。その強度と精度を上げることが道筋だと信じている。

その(2)生命の本質は、即興にある。文脈は、出会いや突発事項によって変わる。その時に、すぐに適応できるかどうか。もちろん長期の計画や、諦めない夢も必要であるが、ぱっと受けてぱっと変われなければ、生きることの可能性を全うできない。

その(3)即興の天才たちもいる。凡人には足元も及ばないが、バッハやモーツァルトの多くの曲は即興である。でまかせに出したものが、そのまま古典になるんだから、こりゃあたまったもんじゃないが、即興の訓練線上にはそんな世界が待っていると思えば、わくわくするね。

その(4)夏目漱石が『坊っちゃん』を書いたときも、ほとんど即興だった。帝大と一高で教えて、忙しい時期だったからね。二週間くらいであれを書いてしまったらしいけれど、きよや山嵐は無意識のの中からぴょんぴょん跳ね出てきたのだろう。

その(5)即興を支える脳機構は、実はまだよくわかっていない。神経細胞の活動の本質は「自発性」で、これはコネクショニスト・モデルが共通して持つ性質であるが、そこに何らかの拘束条件が加わるものと思われる。美意識や意味のダイナミクスといってもいい。

その(6)日常で即興性を鍛えようとおもったら、ぱっと思いつきを実行すること。「あっ、そうだ」と思ったら、もうその瞬間に全速力で走っている。そんなのが、即興性を鍛える道だね。「あっ、そうだ」の0.1秒を大切に拾うこと。兆しを、自ら見逃してはいけない。

その(7)もちろん、即興は無からは生まれない。側頭連合野に豊かな体験が蓄積されていてこそ、自由で脈絡ある結びつきの素材が提供される。だから、いろいろと本物に接し、感動を受け止め、情報空間を疾走していくしかない。

その(8)即興は、「集中」にも通じる。あっと思ったら、ぱっと集中して、いきなりトップ・スピードになること。反省や後悔などしている暇はない。「私ダメ」って、落ちていく喜びに浸るくらいなら、「あっ」と思って、そこから改めればいい。瞬きしている間に世界は変わるんだから。

その(9)子どもたちの脳は即興に満ちているからね。だから、落ち着きがないと大人には見えるのだろう。大人の落ち着きは、即興性の低下でもある。もっと「あっ」を大切にしたいね。そして、後ろを振り返らずに走り始める。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。



2011年9月18日日曜日

社会を変えようとするものは、慣性の法則に向き合わなければならない」ことについての連続ツイート

しか(1)今、私は、すっかり敗戦気分の中にある。このところ、日本の社会がヤバイと思って、いろいろ発言してきた。たとえば、新卒一括採用。旧態依然たる大学入試。記者クラブ。しかし、現実は重く、何も変わりはしない。非力さがひりひりと皮膚の中に染みこんでいく。

しか(2)「新卒一括採用」については、その経営から見た非合理性、非典型的なキャリアの人を排除するという反人道性、さまざまな点から見てもはや維持不可能だと思うのに、企業の側はがんこジジイのようにいつまでも同じことをしている。道理を説いても何も通じない。

しか(3)そんな中、私は次第に、トホホな現実を変えようとしないのは、悪意や怠慢からではなくて、能力的にできないのだということに気づき始めた。例えば、「記者クラブ」で言えば、そのような保護のないガチンコの自由競争に巻き込まれたら、多くの記者はやっていけない。

しか(4)大学入試もそうで、旧態依然たるペーパーテストの愚をいくら説いても、それ以外の総合的な判定方法をとるには、日本の大学教員は経験も知識も資質もない、ということに遅ればせながら気付いていったのである。

しか(5)日本が変われないのは、悪意や怠慢ではなく、無能力のせいである。そのように気付いたとき、限りない寂しさが私を襲った。そして、翻って自分はどうなのか、と問い始めた。自分もまた無能力ではないか。できないことがたくさんあるのではないか。

しか(6)だから、私は大乗から小乗になった。自分だって、できないことがたくさんあるじゃないか。社会の前に自分を改革せよ。アスリートになれ。星飛雄馬のように、変貌して、大リーグボールを投げろ。社会の変革の方は、諦めた。だって、みんな無能力なんだから。

しか(7)無能力とは、つまりは「慣性の法則」ということ。社会を変えようとするものは、全ては今までの方向に惰性で進むという基本原則を見つめなければならない。自分にだって、慣性の法則がある。相も変わらずやっていたら、そりゃあ楽だよ。変えるためにはよほどの覚悟がいる。

しか(8)日本の社会が、偶有性に満ちたインターネットの文明に不適応なことは事実である。特に既得権益の人たち。しかし、その頑なさが悪意や怠慢ではなく無能力、慣性の法則によるんだと見えた瞬間、感じ方が変わるよね。俺たち、慣性の法則をみな共有している。

しか(9)だからね、自分の身を削るような努力をまず一人ひとりがしなければ、このクソッタレな現状はきっと変わらないのだと思う。自分を棚に上げて他人をあれこれ言うのは、もういい、って感じかな。ツイッターで活動家を気取っていても、社会は何も変わらない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月17日土曜日

「自分の欠点を乗りこえることで大リーグボールをあみ出す」ことについての連続ツイート

じだ(1)「これからは星飛雄馬になる」と宣言してしまったから、『巨人の星』をなつかしく振り返る気持ちになった。飛雄馬は一徹と猛訓練する。目標は巨人の星になり、大リーグに通用する選手になること。そのために、大リーグ養成ギブスをつけ続ける。

じだ(2)飛雄馬は、剛速球投手だった。しかし、体重が軽いという致命的な欠点があった。そのことに気付いた花形たちに打ち崩される。自分の存在自体を否定されたような奈落。飛雄馬は悩み、苦しみ、座禅をして救いを求める。

じだ(3)「球が軽い」という自分の特性=致命的欠点を逆に活かすというかたちでひらめいたのが、大リーグボール1号。相手のバットの動きを予測し、そこに当てて凡打に打ち取る。自分の弱点を長所とする、逆転の発想であった。

じだ(4)飛雄馬には、父一徹の残した呪縛があった。一徹が負傷を補おうとして編みだした「魔送球」。邪道だと巨人を追われた。大リーグボール一号が打ち崩され、ふたたびどん底に陥った飛雄馬を救ったのは、まさに、その邪道の魔送球であった。

じだ(5)縦に変化する魔送球が、砂を巻き込んで球を隠してしまう「消える魔球」。自分の父親を名門巨人軍から追い出したはずの呪いの球が、飛雄馬復活のきっかけとなった。完成した「大リーグボール2号」は、一大旋風を巻き起こす。

じだ(6)自分の欠点を直視し、受け入れ、乗りこえることで飛躍が生まれる。これが、作者の梶原一騎が一貫して追及したテーマであった。スポーツが「道」となる、日本独特の求道精神がそこにある。

じだ(7)余談だが、星飛雄馬の本当の父ちゃんは星一徹ではない。「えっ、父ちゃん、おいらの本当の父ちゃんは誰なんだい?」「飛雄馬よ、お前の、本当の父ちゃんはな。。。梶原。。一騎だ。」「それイッキ、イッキ、イッキ」というのが学生の時吉原が教えてくれた体育会系のジョークだ。

じだ(8)もう一つある。「今年も米がとれなかった。お代官さまは、それでも年貢をとりたててくる。生活は苦しい。もうこうなったら・・・百姓・・・一揆だ。」「それイッキ、イッキ、イッキ」。よい子はイッキをしてはいけません。

じだ(9)途中でフォースが乱れたが、自分の欠点を乗りこえて飛躍するというのは普遍的なテーマ。『巨人の星』はファンタジーだが、梶原一騎は人間の本質をとらえていた。くそくらえな日本を変えるためには、自分自身がまずは変貌することが必要だと、星飛雄馬になる今日この頃である。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月16日金曜日

「いたずらに対する態度に、生命観が顕れる」ことについての連続ツイート

いせ(1)東大キャンパスで、自転車のサドルがブロッコリに変えられていた、という「事件」があった。大学職員が通報し、警察が調べたけれども、処分しないことに決したのだという。全体として妥当な結論だと思うが、感じるところがさまざまある。

いせ(2)サドルを外した、といっても、前のカゴに入れていたわけで、戻そうと思えばちょっと手間がかかるけど戻せる。そういったさまざま「配慮」のあるいたずら、ということはわかる。サドルのところにブロッコリが刺さっている写真をみると、ある種のアートのようでもあった。

いせ(3)大学キャンパスにはいたずらはつきものだと認識している。だから、今回の「事件」はいかにも大学らしいな、と思う。サドルをブロッコリにするという、常識の枠を外してみる認知の働きは、学問や研究につながらないこともない。だから、学生たちには温かい気持ちを抱く。

いせ(4)「通報」した大学職員の方も、職務としてやったのだろうし、調査して、不処分とした警察の方も、律儀に調べたのだろう。いたずらというのは、そのような社会の秩序との緊張があって初めて輝くのであって、役者がそろった、という感じがする。

いせ(5)問題は、その後である。学生たちの行為に対して、どんな感情をいだくか。職務上通報したり調べたりする義務もないのに、くさしたり否定したりする人たちの発言は、あまり面白くないなあ、と思う。にやりと笑って、お前らばかだなあ、と済ませるくらいが大人というものだろう。

いせ(6)日本の社会はやれコンプライアンスだと、息苦しくなり過ぎている。職務上学生のしわざに対して何かをしなければならない役回りの人は仕方がないとして、第三者が「子どもっぽい」とか、「大学生にもなって」と言うほどつまらないことはない。 自分たちが身体を張っているわけでもない。

いせ(6)こういういたずらを英語では「プラクティカル・ジョーク」というが、この「プラクティカル」という語感には、「憲法」をConstitutionではなく「条文」のことだと思っている、くらいの世界観の差がある。なぜ、「プラクティカル」なのか、考えてみればいい。

いせ(7)秩序を体現している場所には、息抜き、風穴としての「道化」が必要である。宮廷には道化がいて、王様をからかったりする、シェークスピアにも出てくる。それがまともな生命の作用というもので、「 最高学府」などともっともらしい大学には、サドルとブロッコリの交換がふさわしい。

いせ(8)つまり、いたずらに対するある人の評価というものは、その人の生命感覚の反映なのだろう。風を好むか、それとも密閉された空間がいいと思うか。息苦しさこそが社会だと思っている人たちがいる。自分たちで勝手に息苦しくしているだけなのに。

いせ(9)秩序とか、もっともらしさがある時に、それに浸ることが心地よいと思う人と、ブロッコリに走ってしまう人がいる。インターネットをつくっているのは、後者の人たち。もっと東大にブロッコリが現れると、スタンフォードになれるかもしれないのにな。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月15日木曜日

「やらかしてしまうことの価値」についての連続ツイート

やか(1)水戸第一高校の生徒の前で話した。水戸市内の会場が震災で使えないので、小山だという。始まる前、リュックの中にくしゃくしゃに丸められたシャツとジャケットに着替えようと、トイレにいった。「トイレに隠れている」とツイートした。

うか(2)ちょっと一服するか、とiPhoneで将棋ソフトをやっていたら、どたばたどたばたと廊下をすごい足音がする。あれっ、と思ったら、トイレの外がざわざわする。「おれ、どきどきするわ」とか、「握手してもらうか」とか、そういう声もする。思わず銀をへんなところにおいてしまった。

やか(3)水戸第一高校のやつらに違いない、ということまではわかった。新撰組に捜索されている、坂本龍馬のような気持ちになった。気配で、「この個室にいるな」と見当をつけたのもなんとなくわかった。仕方がない。観念をして、水を流すふりをして、さりげなく出た。口笛は吹かなかったけれど。

やか(4)出たら、案の定いたよ。元気のいいのが4人。みんな、てかてか笑っている。「あれ、水戸第一って、制服じゃないのか?」「ええ、私服なんで」「じゃあ、なんでお前は着ているんだ?」「いやあ、面倒くさいんで。」「ああ、そうか。」

やか(5)しばらく、そいつらとしゃべった。「おい、副校長あの部屋にいるから、気付かないようにしろよ。」みんなで写メを撮った。握手した。「お前ら、どこ受けるんだ? ああ、そうか!」三年生だった。元気いっぱいである。

やか(6)「いやあ、客席で、先生のツイート読んで、こりゃあいくしかないって、走り出して、それであっちのトイレにはいなかったから、こっちかな、と思って。」一番元気のいいやつがてかてか笑いながら話している。おれは、お前らはとてもイイネ! と思った。

やか(7)副校長先生には、「お待たせしました」みたいな感じで、涼しい顔を見せる。会場に行く。わーっと生徒たちが座っている。さっき来たやつらは、ばらばらだ。ということは、わーっと駆けて、連れだってきたんだな。ますます偉い。心が熱くなった。

やか(8)やらかすことの価値がある。言葉だけでなく、実際に自分の身体を動かして、身体を張って、何かをする。そういうことができるやつは、伸びる。いや、そうしないと、絶対に伸びない。オレのツイートを読んで、ばっと駆けだしたあいつらは、きっとこれから伸びるさ。

やか(9)批評とか評論とかしているやつらの共通点は、自分では何もしないことである。自分でやってみれば、難しさがわかる。水戸第一高校のあいつらは、批評・評論の対極にあった。新撰組に追いかけられてかくれている坂本龍馬の気持ちを味わえて良かったよ。ありがとうまた会おう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月14日水曜日

「クラウドとはこういうことである」ということについての連続ツイート

くこ(1)昨日、研究所の合宿で、大和田茂が「IT関連」と書かれたTシャツを着ていたから、というわけではないけど、今日はそっちの方に行こうと思う。アマゾンのeBookはすさまじく、まさに日本にとっては「雲の上」の存在になっている。そのことを書こうと思う。

くこ(2)Kindleの初代機を買ったとき、箱から開けたら、すでに自分のアカウントが登録されて、いきなりワンクリックでアマゾンストアに行けた。箱を開けて、一分後には最初の一冊を買っていた。それに、どういうわけか3G回線ですでにつながっているのである。

くこ(3)アマゾンのサイトで買ったから、自分のクレジットカードアカウントが登録される、というカスタマイズくらいでは驚かないが、3Gに勝手につながったのはのけぞった。ヨーロッパやアメリカにKindleを持っていっても、それぞれの現地で、勝手につながっている。

くこ(4)つまり、アマゾンが各国の3Gキャリアと契約して、たとえば私が一冊本を買うと、そのうちの何パーセントかが行くようになっているのだろう。イノベーションは、組み合わせで起こるということの好例である。

くこ(5)その後、MacBookやiPhone、iPad上でもkindleのアプリを入れた。そしたら、クラウドの凄まじさに改めて気付く。一つの機器で読むと、別の機器ではその続きから読める。自分が線を引いた場所も、当然機器間で共有されている。クラウドとは、つまりそういうこと。

くこ(6)クラウドの可能性はまだまだある。他の多くの人が「ここは大切だ」と線を引いた箇所が、「○○人がここに線を引きました」と表示される。そのことで、一種の集団知となる。自分が引いた線も、その集団知の海へと投げ込まれていく。

くこ(7)さまざまな機器上のkindleアプリからは、ワンクリックでアマゾン・ストアに行って本が買える。これは便利だな、と思っていたら、アップルが姑息なことをした。すべてiTunesを経由せよと、ボタンの設置を禁止したのである。

くこ(8)ところが、アマゾンの対応は早かった。「クラウド・リーダー」という新しいアプリを提供して、事実上アップルの意地悪を無効化したのである。「甘美なる復讐」という見出しが踊った。いずれにせよ、キンドルをめぐるクラウド環境は、水際立っていて、見事の一言。

くこ(9)日本の電子ブックがうんぬんとか、言う気力も起こらないあまりにも差が付きすぎていて、もう対抗するのが無駄だ。日本の社会自体が、ネット向きにできていない。大学入試や新卒一括採用。時代遅れの法体系。自分たちが決定的にイケてないと悟って、雲を見上げるのがいい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月13日火曜日

IIJモバイルのSIMをスマホで使う

IIJモバイルはDocomoのMVNOです。
今回は120FUという端末のSIMをL-04Cに入れてみました。

L-04CのAPN設定を以下のようにします。

・名前は適当に
・APN: iijmobile.jp
・ユーザー名: hogehoge@iijmobile.jp
・パスワード: hogehoge
・MCC: 440
・MNC: 10
・認証タイプ: chap

後の項目は空欄かデフォルトでよいでしょう。

ここまで設定してモバイルが有効になっていないようなら一度再起動してみましょう。

「かけ流しの温泉のように、未編集の体験に自分を浸すこと」についての連続ツイート

かみ(1)温泉が好きだ。特に「かけながし」という言葉に弱い。源泉が、加水も加熱もされず、ただそのまま、地の底からわき出してきたパワーそのままに、湯船からあふれて流れていく様子を見ていると、それだけでうっとりしてしまう。湯船につかると、ほっとため息がでる。

かみ(2)生命のいちばんの贅沢は「かけながし」。なんの加工もせず、小細工もしなくて、ただ単に意識の時間が、そのまま流れていく。すべてをつかめるわけではないけれども、あふれていることだけはわかっていて。そんな中に浸っている、自分という存在がいる。

かみ(3)かけ流しの源泉に入ると生命が更新されるように、あふれて全てをつかむことができない生の体験の流れの中に自分を浸すことは、私たちの生命をい きいきさせる。そして、温泉と違って、それは至るところにある。起きてから眠るまで、ありふれた日常の至るところにある。

かみ(4)人の生命が衰え始めるのは、加工され、編集された情報をうのみにして、それを超えなくなる時である。ニュースをうのみにする。ネットをそのまま信じる。自分の生命をそれに託して、他人にさえ押しつける。壊れたレコードになる。かけ流しの源泉が遠くなる。

かみ(5)編集というのは一つの原罪である。ぼくが毎朝書く「クオリア日記」だって、朝から夜までの意識の流れのうち、水面を飛ぶカワセミのきらめきのような鮮烈な印象を、なんとか定着しようとする。それは生命そのものに比べれば極小だし、不完全な部分に過ぎない。

かみ(6)「編集後」の「人工的世界」に立て籠もるのはラクだから、人は往々にしてそうしようとする。ニュースは、膨大な生の現実のうち一部を編集してくる。そんなことはわかっているのに、自分の命の外套を、壁に打ち付けられたさびた釘にひっかけてしまう人が続出する。

かみ(7)かけ流しの源泉の方へ。未編集の、意識の流れの方へ。そこには、言葉にしようもない、不思議な魚たちが泳いでいる。印象という色とりどりの鳥たちが飛んでいる。耳を澄ませば、黄金の時を切り裂いて、見たこともない昆虫たちの羽音さえ聞こえる。

かみ(8)肝心なのは、編集を押しつけてくる人に対して、編集で返す必要はないということだ。沈黙は最大の防御である。ネットでも、新聞でも、編集を押し つけてくる人は、生命のありのままの源泉かけ流しの中までには、たどり着けはしない。だから、ただ湯船につかって空を見上げればいい。

かみ(9)子どもの頃、ぼくたちはすべてわかっていたんじゃないかな。ただ、一瞬の鋭い印象の中にこそ、生命の真実のすべてがあるということを。大人にな ると、意味という編集工具であたまをいっぱいにしてしまう人がいる。ただ、子どもにかえって、湯船につかってしまえば、それでいいのに。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月12日月曜日

プリンシプルなき者が、匿名性の裏に隠れる」ことについての連続ツイート

ぷと(1)日本の中に、ざわざわとした雰囲気が立ちこめ始めている。このままでは行けない、変わらなければならないと思う人たちが増えてきている中で、なかなか変化しない実態もある。そんな中で、明らかになってきている一つの傾向があるように思う。

ぷと(2)現状を維持しようとする人たちが、匿名性の裏に隠れて何の反応、言挙げもしないこと。ここに、変化がなかなか進まない日本の実情がある。現状を批判し、変化させようとする人たちにとっての、つまづきの石がある。

ぷと(3)例えば、「記者クラブ」の問題。廃止せよ、解放せよという側の論理は明確である。ところが、「記者クラブ」という既得権益に守られている側は、何の主張もしない。こういう理由で必要なのだと、説明もしない。ただ、だんまりを決め込んでいる。

ぷと(4)あるいは、「新卒一括採用」の問題。改善せよ、と主張する側の論理は明確である。それに対して日本の企業は、暖簾に腕押し。現状のシステムがいいのだと、明確な論理で主張する例は皆無。ただ、黙って今までのやり方を続けるだけである。

ぷと(4)メディアや官僚機構など、その旧弊を批判されている側は、ただだんまりを決め込んでいる。まさに「金持ちケンカせず」。自分たちの現状を、ロゴスを尽くして説明しようとするよりは、黙って嵐が過ぎ去るのを待っているようにも見える。つまりはずるい。

ぷと(5)プリンシプルなき者たちが、匿名性の裏に隠れる。これが日本の現状である。言挙げすれば対等に議論できるのに、何も言わずに黙っているから、話の進めようがない。結果として、日本の停滞が長期化する。しかし、そのような現状にも、だいぶ飽きてきた。

ぷと(6)なぜ、そもそも「プリンシプル」は必要なのか。それは、人を離れるためである。白洲次郎がプリンシプルの人だったということは、つまり、その 依って立つ基盤が彼のカリスマに依存しないということだ。人を離れなければ、民主主義は成り立たない。思想は取引されなければならぬ。

ぷと(7)先の民主党代表選で、馬淵さんの演説がいちばん立派だったのに、票が伸びない。ここに、プリンシプルではなく匿名性の裏で生きのびようとする日 本の精神性が表れていた。言挙げして、市場の中で淘汰されるということがないから、いつまでもねちねちうだうだやっている。

ぷと(8)プリンシプルがなく、匿名性の裏に隠れている人たちはみな同じ顔をしている。新聞が数紙あるのに、どれも同じことを書いている。プリンシプルなきところに競争はなく、丁々発止もない。何よりも黙ってこそこそしている人たちの生命がよどみ、腐っていく。

ぷと(9)既得権益に守られている人たちが、「金持ちけんかせず」とばかりにだんまりを決め込んでいる。ずるい。そのずるさに対する人々の忍耐力にも、限 度がある。ずるい人たちは、まずは自分たちの姿を鏡で見るのがいい。変化するためには、自分の姿を直視するところから始めるしかない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月11日日曜日

「これくらいのことは、これからも繰り返しあるさ」と思っていたら、「もう二度となかった。」ことについての連続ツイート

こも(1)中学校のとき、秋にみんなで学校ちかくの河川敷に遠足にいった。赤いジャージを着て、それは今からおもえばかなりみっともないことだったのだけど、当時は気付かなかった。川のほとり、すすきが生えて、 太陽に照らされていた。トンボたちが空を舞った。

こも(2)ぼくが好きな女の子も赤いジャージを着て、その子がどこにいるのか、いつも気になって。でも、ぼくは、表面は、自分の仲間たちとばかな遊びをしてさわいでいた。ひっつき虫を見つけて、きむらに投げたりした。

こも(3)そのうち、勇気をふるって、ぼくの好きな女の子にひっつき虫をなげようとしたが、うまくいかなかった。かわりに、ポケットに入れておいた。何かの記念に、とでも思ったのだけれども、学校に着く頃には、すっかりとげとげがひしゃげてだめになっていた。

こも(4)その秋の一日は、ほんとうに素朴で心から込み上げる喜びに満ちていて、それは、主に空間の配置に関することだった。ぼくがここにいて、あの子があそこにいて、すすきの穂が揺れていて、蝶が飛んでいて、太陽が上にあって、そして、風がふいていて。

こも(5)肝心なことは、その時のぼくが、その河川敷への遠足を、特別なことだとは思っていなかったということだ。ぐれてた関根とか、身体の大きな山崎とか、そいつらがいっしょに歩いていく、みっともない赤いジャージを着たその学校遠足は、日常の延長くらいに思っていた。

こも(6)「こんなことは、これからも繰り返し起こるさ」。中学生のぼくは、それくらいに考えていたのだろう。学校とか遠足とかは、それくらい慣れ親しんだ体験だった。毎年やるんだよ、こんなの、とくらいにたかをくくっていた。

こも(7)それからすぐに、受験の季節になった。ぐれていた関根や、身体の大きな山崎も、なんとはなしにぴりぴりし始めて。好きなあの子が、どこを受けるとか、そんなうわさも聞こえてきて。やがて、教室の中の配置に気を配る、そんな心の余裕も、みんななくしていた。

こも(8)あっという間に、卒業式。生徒会長をやっていたぼくの第二ボタンを、後輩がもらいにきたりして、はずかしかった一日が終わってみると、関根も、山崎も、好きだったあの子も、みんな消えていた。それで、ほんとうにおしまいだった。

こも(9)「これくらいのことは、これからも繰り返しあるさ」と思っていたら、「もう二度となかった。」それが、あの秋の日の、みんなで学校から歩いていった遠足。すすきの穂が揺れていて、トンボがとんでいて、関根がいて、山崎がいて、あの子がいつも心の片隅にいた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月10日土曜日

「高校生クイズ」についての連続ツイート

こく(1)昨日、「高校生クイズ」が放送された。優勝した開成高校、おめでとう! そして、灘高校、よくがんばった! 参加したすべての高校生を、「知のアスリート」として讃えたい。収録の時に感じたこと、考えたことについて、書きたいとおもいます。

こく(2)高校生クイズに出てくる「クイズ研究会」の高校生たちの普段の鍛錬で重要なのは、コミュニケーション。クイズは、誰かが問題を出してくれないと始まらない。そこで、お互いに問題を考え、出題しあうという文化が定着している。

こく(3)問題を解くことも大切だが、考えることはさらに深く脳を鍛える。クイズ研究会の高校生たちが、お互いに出題するに当たって問題を考えることで、世界についての無限の知識の中からどこを切り取ってくるかというメタ認知が育まれる。

こく(4)「なぜこんな問題を」と驚くほどの知識量。高校生たちに聞くと、「それは、読んでいた本のここにあった」「授業で先生が説明した」などと、鮮明に覚えていることが多い。つまり、知識とは「出会い」であるということが、彼らとの対話から見えてくる。

こく(5)世の中には、たくさんの知がある。生きている中で、いつかどこかでその知と出会う。その一期一会の出会いを大切にする、ということが、高校生クイズに出場する彼らの人生哲学となる。人生は限りあり、二度と繰り返さない。だから、出会ったものは必死でつかめ!

こく(6)回答するということは、側頭連合野から前頭葉に情報を引き出すということ。「知っている」というfeeling of knowingが成立し、時間内に引き出せるかどうか。ところが、彼らは、feeling of knowingがない、あるいは曖昧な時も勝負をかける。

こく(7)「一分間」の制限時間で回答する問題が面白かった。feeling of knowingがないのに、必死になって考えているうちに、思わぬところに糸口が見えてくる。自分が知っていると自覚していないことがよみがえる。記憶の「蜘蛛の糸」のたぐり寄せが次第に精緻化する。

こく(8)テレビ番組としての「高校生クイズ」は、現代日本においては希有な存在。「わかりやすい」「やさしい」ものが氾濫している中で、記憶想起の超絶技巧を、目の前で見るというその生理的奇跡自体を、エンタティンメントとして成立させている。

こく(9)イギリスにはBBCのUniversity Challengeという名物クイズ番組があり、容赦ない点では高校生クイズと同じ。ぜひ、「大学生クイズ」も見てみたい。大学の偏差値やブランドを吹き飛ばす知の下克上を、エンタティンメントとして成立させてみたい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月9日金曜日

「プライドとは、メタな概念である」ということについての連続ツイート

ぷめ(1)「プライドのないところに成長はない」。このところ、つくづくそう思う。日本は停滞しているし、グローバル化に適応できていない。しかし、日本としてのプライドなしでは成長することはできない。ひともまた同じ。自負するところがなければ、高みを目指すことはできぬ。

ぷめ(2)ところが、「プライド」をしばしば「現状肯定」としてとらえてしまうことがある。今のままでいいんだ、変わる必要はないんだ。そのような偏狭さと、ぼくが「成長のためにはプライドが必要」という時の「プライド」は、違うものだと感じる。どう整理すればよいか。

ぷめ(3)そこで思い出されるのが「科学」である。「科学」は変わることでこそ自らを定義づける。どんな理論や仮説も、絶対的ではない。「反証可能性」、つまり、それが間違っていると証明できる仮説でなければ、科学的仮説ではない。結果として、科学はどんどん変わっていく!

ぷめ(4)同じ「科学」と言っても、ニュートンの頃の力学と、量子力学、相対性理論を経た現代の科学は、まったく違ったものである。それが、経験主義とか、論理的整合性などの「手続き」によって結びつけられている。変わることこそが、「科学」の「プライド」なのだ。

ぷめ(5)「宗教」は、変わらないことを価値とするというところがある。一度教義が決まってしまうと、それがずっと固定化される傾向がある。変わらないことが、宗教のプライド。一方、科学は、パラダイム変化こそを 誇りとする。変わることこそが、科学のプライド。

ぷめ(6)「プライド」という時に、変わらないことを誇るのか、変わることを誇るのか。ぼくは後者に託したいと思う。自分でも驚くほど、変わって見せる。今の自分から、這いつくばって、未来の自分を見上げて見せる。それが、ぼくのプライド。明日は今日とは異なるというのが、誇り。

ぷめ(7)つまり、「プライド」の下での「自己」の概念は、「メタ」である。ある特定の状態を「自己」と言っているのではなく、変わりつつある、変わりうる「自己」の虹のスペクトラムを、「自分」と呼んでいるのだ。虹のように移ろいつつ、貫くプリンシプルこそが「自分」なのだ。

ぷめ(8)生きる上でいちばん楽しいのは、変化しつつ、流れつつ、そこにずっとつながっている「自分」を見いだすことだろう。5歳の時に、子ども会で潮干狩りに行った時の「自分」と、「今、ここ」の自分はこんなにも違う。その違うことを思い出せるということが、私の「プライド」。

ぷめ(9)日本を愛するというと、守旧派がそうだと言われがちだが、本当は明治維新の志士たちが最高の愛国者だったはずだ。そして、志士たちは、完膚無きまでに変わることを目指した。変わることが、私たちの「プライド」。「一身にして二世を経る」ことが、私たちの「誇り」。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月8日木曜日

「身体の限界よりも脳の限界が先に来る」ことについての連続ツイート

かの(1)「アスリート」という生き方が私たちを惹き付けるのは、自分自身の身体で引き受けて、逃げもしない、言い訳もしないその潔さであろう。何を言っても、結局なにをなすかが全て。他人のことに口を出す人ばかりの現代社会で、その生き方はまぶしい。

かの(2)アスリートたちは、自分の限界に挑戦し続ける。その中で、黄金の言葉をつかむ。たとえば、「身体の限界よりも、脳の限界の方が先にくる」ということ。私たちは、もてる力の100%を発揮していない。70%くらいでお茶を濁して、これがぎりぎりだなどと自分を騙している。

かの(3)なぜ、自分の100%を発揮しないのか。それは、一つの安全装置だろう。身体能力だけではない。認知においても、あえて全力を出さないことで、バランスを保つ。自分の全力を出すことをおそれる働きが、 私たちの心の中にはある。知らないうちにリミッターに支配されている。

かの(4)課題になるのは、いかに「リミッター」を外すかということ。自分にはここまでしかできないという思い込みから自由になるか。そのためのさまざまな方法論を、アスリートたちは編みだしている。その求道精神は、世界記録やメダルを追うわけではない私たちにも、参考になろう。

かの(5)リミッターを外して自分の能力を発揮するための方法論の一つは、自分で自分を追い込むこと。他人がプレッシャーをかけるのではない。自分で自分にかけるのである。あぶない、と思ったら、そこでやめればいい。加圧を自己制御することで、徐々にリミッターを外していく。

かの(6)リミッターを外すもう一つの方法は、筋肉や認知を混乱に陥れること。容易に「今日はこの程度」と予想などさせてはいけない。「えっ、まだやるのか」「この時間内に、こんなことをやるのか!」という新鮮な衝撃と驚きが、私たちの潜在能力を本気にさせるのだ。

かの(7)どんなことも、自分の身に置き換えて、自分がもしそうだったら、と考えれば、そう簡単には批判したり、切り捨てたりできないはずだ。他人をあげつらって自分は棚上げの人たちは、結局成長しない。アスリートの生き方と、評論家の間の距離は星と星くらい遠い。

かの(8)一人ひとりが、自分の限界を見つめること。できることと、できないことを見きわめること。目標に対して、自分の現状がいかに低いかを認識すること。無力感にとらわれること。それでも諦めないこと。そんなアスリートな生き方を身につける人が増えれば、この国もましになる。

かの(9)アスリートな生き方の秘訣は、「リミッター」を上手に外すことである。誰もが、自分はこんな程度だと決めつけている。他人よりも社会よりも、誰よりも自分が決めつけている。自分って、そんなもんじゃないと思うよ。リミッター外しは、まずは、自分の身体を引き受けるところから始まる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月7日水曜日

「ネットは快楽原理で選ぶべきである」ことについての連続ツイート

ねか(1)自分のドメインをとってホームページを立ち上げたのが1998年。ブログ(最初は「日記」)を書き始めたのが1999年。ネットとの本格的な付き合いも10年以上。いろいろなメディアを使ってきた。続くものもあれば、自分の中ですたれてしまうものもある。

ねか(2)いろいろなメディアを、すべて自分で試してみて、結局は「脳の快楽原理」で選択している。メルマガ、メーリングリスト、掲示板、SNS、ツイッターなどいろいろ使ってきたが、ツイッターは今のところ一番気に入っている。そこに最良の快楽があるように感じるからだ。

ねか(3)ツイッターは、ミーム(文化的遺伝子)の熾烈な淘汰の場になっている。面白いアイデア、インパクトのある言葉があれば、あっという間に広がる。アンディ・ウォーホルの言った「15分間の名声」を誰でも持ちうる現場なのだ。

ねか(4)mixi, facebook, google+などのSNSは、現実世界の関係性との類似の上にあり、結びつきはよりウェットで、閉じていて、親しい。一方、twitterはより脈絡がなく、文化的遺伝子の内実だけが問題になる。そのドライな雰囲気が、ぼくがネットに求めるもの。

ねか(5)ツイッターの機能は、脳の前頭葉に似ている。何に注意を向けるか、その切り替えが高速に行われている。ネット・アスリートとしてその偶有性の海に身をさらすのが快感である。まったりとしたSNSの関係性よりも、疾走しているその感覚がむしろ心地よい。

ねか(6)もちろん、ツイッターは炎上したり、誤解、誤配達したり、曲解されたりもする。そのような「悪意の侵入」のリスクよりも、社会の通常の関係性を超えた発見、結びつきの快感の方が強い。SNSが防護服を着ているとすれば、ツイッターは、裸で空気を切って疾走するようなもの。

ねか(7)短い文章で何かを表現する。そこに、不思議なことに人物が現れる。ツイッター上で、文章だけを見て、この人は面白い、フォローしてみよう、と思うことが時々ある。そのような文脈を超えた出会いが、ツイッターというものの魅力である。

ねか(8)ツイッターは、マスメディアのような寡占を前提とした情報支配には、決して至らない。いつどの時間をとっても、さまざまな志向性を持ったテクストが飛び交っている。その多様性もまた、心地よい。なぜならその方が私たちの住むこの宇宙の実相に近いからだ。

ねか(9)ネットはどうせ現実とは異なるのだから、快楽原理を徹底的に追求してよい。容赦なくてよい。アスリートとして、切り結べばいい。安らぎは、ネットから離れて椅子で目を閉じれば得られるのだから。思い切り、偶有性の嵐の中に、自分を浸して始めて見えてくるものがある。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月6日火曜日

「続けることで、変わってくる」ことについての連続ツイート

つか(1)ぼくは、一度何かを始めるとずっとしつこくやることがある。例えば「走る」こと。小学校に入った頃、突然思いついて校庭をぐるぐる回って以来、ずっと走り続けている。ジョギングしていて見かける人の数から推定すると、世の中の人がみな走っているわけではないらしい。

つか(2)走るときは、絶対にかたちから入らない。Tシャツはふだんのそのままだし、短パンも靴もぼろっちい。靴に至ってはぼろきれのようである。そんな格好で、突然走る。「たまたま走っています!」という感じで走る。リュックを背負っている時も、電車に間に合いそうもなかったら走る!

つか(3)黛まどかには、「走っているのに、よくその体型が維持できるわね」と皮肉られる。たしかに腹の上のぽにょではあるが、内的な身体のつくりは違っていると思う。そんなによく働けますね、と言われるが、ずっと走り続けていることで、基本的な身体の勢いが定着しているのだろう。

つか(4)身体も、脳も、一つの自然であり、「手入れ」をつづけることでじっくりと形づくられていく。たとえば、「英語脳」は一日にしてはできない。毎日しつこく接していることで、次第にフラクタル的持続可能な成長が実現できる。愚直にあきらめないことが、一つの才能になる。

つか(5)小学校から中学校にかけて蝶の研究で学生科学展に出し続けた。「またあの子出ているよ」と呆れられた。続けていると、だんだん違う研究課題も見えてくる。十五年前にたどり着いた「クオリア」も同じで、「まだやっているよ」と言われても、しつこく考え続ける。

つか(6)「クオリア」については、ライフ・ワークと考えており、「あいつまだやっているよ」と呆れられても、考えていればそれなりに新しい展開もある。頭がクオリア脳になっていくのだろう。「最近言わないな」と思われても、自分の中では絶対にやめない。小学校の蝶の研究と同じだ。

つか(7)「不易流行」といって、確かに人生には「流行」もある。一時的に盛り上がって、消えていってしまうもの。肝心なのは「不易」をいかに設計するかであって、それは出会いでもあるし、ある程度は自分の選択、決断でもある。これと決めたら、ずっと続けていくんだよ。

つか(8)長年にわたり小林秀雄さんの担当編集者だった池田雅延さん。池田さんに、小林さんは常々「池田くん、ゆっくりなんだけどね、絶対に止まらない船のエンジンというのがあるんだよ」と話されていたという。絶対に止まらなければ、時間がかかっても、いつかは目的地の港につく。

つか(9)「犀の角の如く独り歩め。」と言ったのは、仏陀だった。続けていることで、変わってくる。まわりから「まだやっているよ」と言われても、ずっと続けていることで、年経た樫のようになってくる。人生という、old fashioned love song。死ぬまで変わりはしない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月5日月曜日

「天才という現象は、神の概念と深くかかわる」ことについての連続ツイート

てか(1)芸大の市ノ瀬くんががんばって天才論のシンポジウムをしたので行ってきた。何をしゃべるか全く考えていなかったけれども、大谷先生の話を聞いているうちに、そうだ、スピノザの話から行こう、と思った。

てか(2)「天才」は神の概念と大いにかかわる。ヴィトゲンシュタインは、「この世界が存在すること自体が驚異」と書いたが、その「世界」を「創造」した「神」が、「天才」のひな型である。ところが、その「世界」は完全ではなかった。

てか(3)神がつくった世界の因果的法則は精緻だが、そこには何か欠けたものがあって、それを補うのが人間の才能である。これがルネッサンスの天才概念。神の創造した世界に欠けているものを補うのが、芸術であり、科学である。つまり、隙間を用意してくれていた。

てか(4)その「神」だが、スピノザの『エチカ』の体系によれば絶対的な無限である。従って、「神」には「身体」はない。もし身体があれば有限だからである。また、「神」には「知性」もない。知性は、有限な世界の中でのオペレーションだからである。

てか(5)天才概念は、つまり、有限な存在である人間が、絶対的無限である「神」の領域に近づこうという飛躍のプロセスであって、常に幻想に導かれた挫折に終わらざるを得ない。それでも、その過程でさまざまな意義深い「作品」が生み出されもする。

てか(6)天才とは、一方、病理学の問題でもある。天才は、必ずバランスを崩している。バランスを崩しながら何ものかを生み出すという、奇跡のトリックを見せる。しかし、ここがやっかいなのだが、バランスを崩していれば天才、というわけではない。歩留まりが悪いのだ。

てか(7)天才を育む教育機関は、存在しない。天才は、本質的に逸脱であり、疾走だからだ。コントロール不能、ということこそ、天才のメルクマールである。東大であれ、芸大であれ、評判の高い教育機関に行くということと、その人の才能は関係ない。むしろそれは保険でしかないのだ。

てか(8)ヴィトゲンシュタインなんか、大学を出たあと数年間も山ごもりして、小学校の先生をして、教授になったのにやってられねえとやめてしまって、また籠もる。そんなへんなやつじゃないと、言語論的転回はできない。つまり、天才は制御不能である。だから、うまくいく保証もない。

てか(9)制御不能な天才をかろうじて特徴づけるものは、「愛」だろう。それは、自己顕示欲とは違う。「愛」は自分を離れないと成立し得ないからだ。無限の絶対者が受肉したというキリスト教のフィクションが、一つの天才論としてわれわれの前に立ちはだかる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月4日日曜日

「民衆の側にも求められる透明性」についての連続ツイート

みと(1)野田内閣の支持率が、各社の世論調査で比較的高めに出た。「らしさ出た!? 地味に高い62.8%」(スポーツニッポン)との評もある。自分のことを「どじょう」にたとえた庶民派宰相への、とりあえずの期待感を反映しているのだろう。

みと(2)ところで、時代に求められているのは透明性である。以前ならば、情報を都合のいいように操作して、人々の印象を形成する、ということが当たり前の広報戦略として行われていた。ネットが浸透し、情報が流出する現代においては、このようなアプローチは成立しない。

みと(3)たとえば原子力発電所の安全性や経済性について、情報操作であるイメージを作ったとしても、必ずそれに反する情報も出てくる。情報操作をした分、信頼は失われる。ネット時代には、透明性だけが、人々の信頼を勝ち取る道となるのである。

みと(4)ウィキリークスは、たとえ民主主義国家であろうとも、さまざまな秘密、暗部を抱えていることを明らかにした。透明性こそが信頼を獲得する道である、という現代の原理・原則に照らして考えれば、国家の 統治機構もまた、可能な範囲において透明なものにならなくてはならない。

みと(5)情報操作の時代から、透明性の時代へ。この変化は、人々の側にも情報リテラシーの向上を要求する。「安心です」「安全です」といった、操作された情報に安住するのではなく、正、負両方ないまぜになった情報のポルトフォリオを、自分で判断する必要に迫られるのである。

みと(6)時代に必要な「透明性」の認識はまだ不十分で、一昔前の「情報操作」のマインドセットに浸っている組織も多い。一方、今後、組織に透明性が浸透していった時に、返す刀のように「私たち」に求められるものものも出てくる。それは、私たち自身の「透明性」である。

みと(7)民衆自体が、不透明な存在になりつつある。私たち自身が、果たしてどのようなプロセスで自分たちの意見を選択し、感性を形成しているのか? 「世論調査」の数字の背後にあるものは何なのか? それを自己探求する努力がなければ、結局、民衆が一番不透明ということになる。

みと(8)世論調査の数字とは、一体何か? なぜ、政党別の支持率がある特定の数字になるのか。民衆の意見だからと言って、無条件で容認されていいのか? 組織に求められるのと同じような透明性が、私たち一人ひとりに求められる時代になる。つまりは、自省の精神である。

みと(9)実際には、支持率の数字をつくっているのは私たちの中のあいまいな印象であろう。そこに、いいかげんさやハザードはないのか。組織が透明になり、筋肉質になるにつれて、民衆の側も進化しなければ、きっと時代に取り残される。それは民主主義の危機ともなろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。



2011年9月3日土曜日

「台風が来る前にわくわくする」ことについての連続ツイート

たわ(1)東京駅に向かいながら、この連続ツイートを書いている。台風が西日本に近づいているため、果たして新幹線が動いているかどうかわからない。乗っても、途中で止まるかもしれない。内田樹先生との生ラジオ、たどりつけるかどうかわからない。

たわ(2)台風は、時に大きな災害をもたらすことのある自然現象である。今回の台風が、被害をもたらさないことを願いたいと思う。そして、私が、無事、大阪に着いて内田樹先生と西靖アナウンサーのアナウンサーに会えることを、かみさまがいるならばお祈りしたい。

たわ(3)ところで、台風については子どもの頃から気付いていることがある。ニュースで近づいてきている、と聞くと、なぜかわくわくする。いよいよ来るのか、と軽い興奮状態になる。ほんとうは怖いもののはずなのに、楽しみにして身構えるのである。

たわ(4)台風が近づいて、自分がわくわくしている、ということを親や教師に悟られるのはまずい、と思うから言わないけど、どうやら仲間たちもそうらしい。そして、天気予報で、台風が弱まって、熱帯低気圧になったりすると、だらしないなと、ほっとする一方でがっかりする。

たわ(5)なぜ、私たちは台風が近づくとわくわくするのだろうか。それは一つの適応であると考えられる。何が起こるかわからないという「偶有性」に向き合い、柔軟に対応するためには、いたずらに怖がっていたり、不安を感じていてはならない。「フリーズ」しては、臨機応変に動けない。

たわ(6)台風はもちろん危険なものであるが、だからこそ、わくわくすることで、脳はその潜在能力を最大限に発揮できる。わくわくは、偶有性への適応戦略である。子どもの頃、「大型で強い台風」と聞いて胸がわくわくしていたのは、そんな理由があったのである。

たわ(7)戦国武将が自分が死ぬかもしれない合戦に向き合ったとき、もちろん不安や恐怖もあったろうが、それを上回る「わくわく」もあったろう。とりわけ、織田信長のようなすぐれた武将はわくわくしていただろう。わくわくは、明るい狂気であり、私たちはそれゆえに生きることができる。

たわ(8)どんな生き方をしていても、「どうなるかわからない」という偶有性は避けられない。安全に、確実に、と思っていても、その前提事態が崩れることがある。だから、むしろ、私たちはふりかえって、開き直って「どうなるかわからない」に立ち向かっていくべきなのだ。

たわ(9)台風はなるべく来ない方がいいが、日本には、今、グローバリズムという「台風」が来ている。大型で強く、「熱帯低気圧」には変わりそうもない。誰でも経験があるだろう、子どもの時の「台風が来る前にわくわくする」という心の働きを、大人になった今こそ思いだそう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年9月2日金曜日

「まばたきする瞬間にせかいが変わっている」ことについての連続ツイート

ませ(1)「アハ体験」とは、脳が瞬間的にあることに気づく現象である。ニュートンがリンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見したり、アルキメデスがお風呂で「アルキメデスの原理」を見いだしたりするなど、まばたきする瞬間に世界が変わっている、そんな現象である。

ませ(2)「アハ体験」の特徴は、そのコントロールができないということである。ひらめきがいつ訪れるかわからない。たくさんの人をりんご畑に連れていっても、万有引力の法則を発見するとは限らない。ひらめきの瞬間は、本人にとっても突然の、青天の霹靂として訪れる。

ませ(3)「アハ体験」は、また、一回性を本質としており、二度と繰り返さない。その瞬間の後では、脳の回路網が不可逆的に変わっている。シナプス結合のパターンが変わるという意味で一つの「学習」であり、「一発学習」(one-shot learning)とも呼ばれる。

ませ(4)ヴァレラたちの研究により、「アハ体験」の瞬間に、脳の神経細胞が広範囲にわたって0.1秒程度の短い間いっせいに同期して活動することがわかっている。この「脳のまばたき」の間に、何かが発見され、その結果がシナプス結合のパターンとして定着されるのである。

ませ(5)「アハ体験」を研究しようとすると、いつ訪れるかわからないひらめきの瞬間を、ある程度制御可能なものにしなければならない。そのために、aha sentenceやhidden figureなど、さまざまな手法が開発されてきた。

ませ(6)「アハ・センテンス」は、ある文章が単独では意味をなさないが、「ヒント」を出した瞬間に意味が了解される刺激である。たとえば、「太陽が出て来たので、家は小さくなった」という文章は、単独ではその意味がとらえにくい。いろいろ解釈しても、どうもしっくり来ない。

ませ(7)そこに、「イグルー」(イヌイットたちのつくる、氷雪でできた家)というヒントを出した瞬間に、文章の意味が一気に明らかになる。このようにして、「ひらめき」の瞬間を、ある程度コントロールできるものにすることで、初めて「アハ体験」を研究の対象とすることができる。

ませ(8)創造性の生理学としての「アハ体験」は、いつ訪れるかわからないもので、意識的にそこに自己を向かわせることはできない。ただ、一つの問題についてふだんから徹底して考えているという「準備」が、その実現に必要なこともまた事実である。緊張の後の弛緩が、ひらめきの種。

ませ(9)日本テレビで「アハ体験」を紹介するようになったのは偶然の出来事で、いろいろ説明している中で、スタッフの方が「それ面白いですね!」とピックアップ。おかげで、街を歩いていて小学生に会うと、「アハのおじさん」と言われる。「アホのおじさん」にちょっと似ている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。


2011年9月1日木曜日

「他者という鏡」についての連続ツイート

たか(1)人間は、鏡を見て化粧をする唯一の動物である。他者が自分をどう見るか。そのことを、あらかじめ取り入れてシミュレーションし、自己イメージの中に取り入れる。女性は絵描きである。自分の顔という素材をキャンバスして、だんだん上手に絵を描いていく。

たか(2)女性は他者の視線を取り入れて自分のイメージをつくることに長けているが、男性は苦手である。椎名誠さんは、「男子トイレで鏡を見て髪を直しているやつを見ると殴りたくなる」と言った。よくなでつけている男いるけど、前と後で何も変わっていないんだよね。 不思議。

たか(3)物理的な「鏡」以上に大切なのは、「他者」という「鏡」である。自分という存在が、他人の心の中にどう映るか。そのことによって、「私」を認識する。他者という鏡がなければ、私たちは自分を見いだすことができないのである。

たか(4)何か大切なものを共感できる他者は、大切な増幅装置となる。夢は、単独で持っているだけでなくて、共有することで言語化され、「現実」に一歩近づくのだ。共感する他者は、自己の範囲を拡大させる。その鏡の中に、大写しになった自分がいる。その時、自分とやっと出会う。

たか(5)すれ違う他者も、また大切である。自分にとっては興味を持てないものに熱中する人。自分の大切な思いを伝えたのに、曲解されたり、揶揄されたりする時、傷つくと同時に、「ああ、そうか自分はこういう人間なんだ」と認識する。心がひりひりしなければ、自己認識はできない。

たか(6)共感する鏡と、すれ違う鏡と。曲がったのや、歪んだのや、曇ったやつ。そんなさまざまな他者がいるからこそ、私たちは多様な「自分」を見いだすことができる。たくさんの、多様な鏡と出会うだけ、「私」が豊かに膨らんでいく。いろいろな角度から、さまざまな調子で。

たか(7)脳の前頭葉には、ミラーニューロン、ミラーシステムが存在すると示唆する実験がある。機能は未だ十分には解明されていないが、「鏡」なしに私たちが他人の心を読み取り、コミュニケーションすることができないことはおそらく事実である。「鏡」は、自我と他者の裏通り。

たか(8)他人がこう考えている、こう感じていると思うのは、自分がそう考え、そう感じているからである。逆に他人の未知の感情が自分の中に入ってくることがある。成熟や高貴や、野蛮や弛緩や。他者という鏡に出会うことで、自分の中の感情のレパートリーを広げていけるのだ。

たか(9)理想的なパートナーとは、自分の最も純でやわな核をそのまま映し出してくれる人だろう。「ベターハーフ」には二義ある。つまりはパートナーがベターなのであり、パートナーという鏡に映る自分自身も、またベターなのである。それは分離を前提にした概念ではない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。