2011年9月13日火曜日

「かけ流しの温泉のように、未編集の体験に自分を浸すこと」についての連続ツイート

かみ(1)温泉が好きだ。特に「かけながし」という言葉に弱い。源泉が、加水も加熱もされず、ただそのまま、地の底からわき出してきたパワーそのままに、湯船からあふれて流れていく様子を見ていると、それだけでうっとりしてしまう。湯船につかると、ほっとため息がでる。

かみ(2)生命のいちばんの贅沢は「かけながし」。なんの加工もせず、小細工もしなくて、ただ単に意識の時間が、そのまま流れていく。すべてをつかめるわけではないけれども、あふれていることだけはわかっていて。そんな中に浸っている、自分という存在がいる。

かみ(3)かけ流しの源泉に入ると生命が更新されるように、あふれて全てをつかむことができない生の体験の流れの中に自分を浸すことは、私たちの生命をい きいきさせる。そして、温泉と違って、それは至るところにある。起きてから眠るまで、ありふれた日常の至るところにある。

かみ(4)人の生命が衰え始めるのは、加工され、編集された情報をうのみにして、それを超えなくなる時である。ニュースをうのみにする。ネットをそのまま信じる。自分の生命をそれに託して、他人にさえ押しつける。壊れたレコードになる。かけ流しの源泉が遠くなる。

かみ(5)編集というのは一つの原罪である。ぼくが毎朝書く「クオリア日記」だって、朝から夜までの意識の流れのうち、水面を飛ぶカワセミのきらめきのような鮮烈な印象を、なんとか定着しようとする。それは生命そのものに比べれば極小だし、不完全な部分に過ぎない。

かみ(6)「編集後」の「人工的世界」に立て籠もるのはラクだから、人は往々にしてそうしようとする。ニュースは、膨大な生の現実のうち一部を編集してくる。そんなことはわかっているのに、自分の命の外套を、壁に打ち付けられたさびた釘にひっかけてしまう人が続出する。

かみ(7)かけ流しの源泉の方へ。未編集の、意識の流れの方へ。そこには、言葉にしようもない、不思議な魚たちが泳いでいる。印象という色とりどりの鳥たちが飛んでいる。耳を澄ませば、黄金の時を切り裂いて、見たこともない昆虫たちの羽音さえ聞こえる。

かみ(8)肝心なのは、編集を押しつけてくる人に対して、編集で返す必要はないということだ。沈黙は最大の防御である。ネットでも、新聞でも、編集を押し つけてくる人は、生命のありのままの源泉かけ流しの中までには、たどり着けはしない。だから、ただ湯船につかって空を見上げればいい。

かみ(9)子どもの頃、ぼくたちはすべてわかっていたんじゃないかな。ただ、一瞬の鋭い印象の中にこそ、生命の真実のすべてがあるということを。大人にな ると、意味という編集工具であたまをいっぱいにしてしまう人がいる。ただ、子どもにかえって、湯船につかってしまえば、それでいいのに。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。