2011年9月7日水曜日

「ネットは快楽原理で選ぶべきである」ことについての連続ツイート

ねか(1)自分のドメインをとってホームページを立ち上げたのが1998年。ブログ(最初は「日記」)を書き始めたのが1999年。ネットとの本格的な付き合いも10年以上。いろいろなメディアを使ってきた。続くものもあれば、自分の中ですたれてしまうものもある。

ねか(2)いろいろなメディアを、すべて自分で試してみて、結局は「脳の快楽原理」で選択している。メルマガ、メーリングリスト、掲示板、SNS、ツイッターなどいろいろ使ってきたが、ツイッターは今のところ一番気に入っている。そこに最良の快楽があるように感じるからだ。

ねか(3)ツイッターは、ミーム(文化的遺伝子)の熾烈な淘汰の場になっている。面白いアイデア、インパクトのある言葉があれば、あっという間に広がる。アンディ・ウォーホルの言った「15分間の名声」を誰でも持ちうる現場なのだ。

ねか(4)mixi, facebook, google+などのSNSは、現実世界の関係性との類似の上にあり、結びつきはよりウェットで、閉じていて、親しい。一方、twitterはより脈絡がなく、文化的遺伝子の内実だけが問題になる。そのドライな雰囲気が、ぼくがネットに求めるもの。

ねか(5)ツイッターの機能は、脳の前頭葉に似ている。何に注意を向けるか、その切り替えが高速に行われている。ネット・アスリートとしてその偶有性の海に身をさらすのが快感である。まったりとしたSNSの関係性よりも、疾走しているその感覚がむしろ心地よい。

ねか(6)もちろん、ツイッターは炎上したり、誤解、誤配達したり、曲解されたりもする。そのような「悪意の侵入」のリスクよりも、社会の通常の関係性を超えた発見、結びつきの快感の方が強い。SNSが防護服を着ているとすれば、ツイッターは、裸で空気を切って疾走するようなもの。

ねか(7)短い文章で何かを表現する。そこに、不思議なことに人物が現れる。ツイッター上で、文章だけを見て、この人は面白い、フォローしてみよう、と思うことが時々ある。そのような文脈を超えた出会いが、ツイッターというものの魅力である。

ねか(8)ツイッターは、マスメディアのような寡占を前提とした情報支配には、決して至らない。いつどの時間をとっても、さまざまな志向性を持ったテクストが飛び交っている。その多様性もまた、心地よい。なぜならその方が私たちの住むこの宇宙の実相に近いからだ。

ねか(9)ネットはどうせ現実とは異なるのだから、快楽原理を徹底的に追求してよい。容赦なくてよい。アスリートとして、切り結べばいい。安らぎは、ネットから離れて椅子で目を閉じれば得られるのだから。思い切り、偶有性の嵐の中に、自分を浸して始めて見えてくるものがある。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。