2011年9月16日金曜日

「いたずらに対する態度に、生命観が顕れる」ことについての連続ツイート

いせ(1)東大キャンパスで、自転車のサドルがブロッコリに変えられていた、という「事件」があった。大学職員が通報し、警察が調べたけれども、処分しないことに決したのだという。全体として妥当な結論だと思うが、感じるところがさまざまある。

いせ(2)サドルを外した、といっても、前のカゴに入れていたわけで、戻そうと思えばちょっと手間がかかるけど戻せる。そういったさまざま「配慮」のあるいたずら、ということはわかる。サドルのところにブロッコリが刺さっている写真をみると、ある種のアートのようでもあった。

いせ(3)大学キャンパスにはいたずらはつきものだと認識している。だから、今回の「事件」はいかにも大学らしいな、と思う。サドルをブロッコリにするという、常識の枠を外してみる認知の働きは、学問や研究につながらないこともない。だから、学生たちには温かい気持ちを抱く。

いせ(4)「通報」した大学職員の方も、職務としてやったのだろうし、調査して、不処分とした警察の方も、律儀に調べたのだろう。いたずらというのは、そのような社会の秩序との緊張があって初めて輝くのであって、役者がそろった、という感じがする。

いせ(5)問題は、その後である。学生たちの行為に対して、どんな感情をいだくか。職務上通報したり調べたりする義務もないのに、くさしたり否定したりする人たちの発言は、あまり面白くないなあ、と思う。にやりと笑って、お前らばかだなあ、と済ませるくらいが大人というものだろう。

いせ(6)日本の社会はやれコンプライアンスだと、息苦しくなり過ぎている。職務上学生のしわざに対して何かをしなければならない役回りの人は仕方がないとして、第三者が「子どもっぽい」とか、「大学生にもなって」と言うほどつまらないことはない。 自分たちが身体を張っているわけでもない。

いせ(6)こういういたずらを英語では「プラクティカル・ジョーク」というが、この「プラクティカル」という語感には、「憲法」をConstitutionではなく「条文」のことだと思っている、くらいの世界観の差がある。なぜ、「プラクティカル」なのか、考えてみればいい。

いせ(7)秩序を体現している場所には、息抜き、風穴としての「道化」が必要である。宮廷には道化がいて、王様をからかったりする、シェークスピアにも出てくる。それがまともな生命の作用というもので、「 最高学府」などともっともらしい大学には、サドルとブロッコリの交換がふさわしい。

いせ(8)つまり、いたずらに対するある人の評価というものは、その人の生命感覚の反映なのだろう。風を好むか、それとも密閉された空間がいいと思うか。息苦しさこそが社会だと思っている人たちがいる。自分たちで勝手に息苦しくしているだけなのに。

いせ(9)秩序とか、もっともらしさがある時に、それに浸ることが心地よいと思う人と、ブロッコリに走ってしまう人がいる。インターネットをつくっているのは、後者の人たち。もっと東大にブロッコリが現れると、スタンフォードになれるかもしれないのにな。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。