2011年9月5日月曜日

「天才という現象は、神の概念と深くかかわる」ことについての連続ツイート

てか(1)芸大の市ノ瀬くんががんばって天才論のシンポジウムをしたので行ってきた。何をしゃべるか全く考えていなかったけれども、大谷先生の話を聞いているうちに、そうだ、スピノザの話から行こう、と思った。

てか(2)「天才」は神の概念と大いにかかわる。ヴィトゲンシュタインは、「この世界が存在すること自体が驚異」と書いたが、その「世界」を「創造」した「神」が、「天才」のひな型である。ところが、その「世界」は完全ではなかった。

てか(3)神がつくった世界の因果的法則は精緻だが、そこには何か欠けたものがあって、それを補うのが人間の才能である。これがルネッサンスの天才概念。神の創造した世界に欠けているものを補うのが、芸術であり、科学である。つまり、隙間を用意してくれていた。

てか(4)その「神」だが、スピノザの『エチカ』の体系によれば絶対的な無限である。従って、「神」には「身体」はない。もし身体があれば有限だからである。また、「神」には「知性」もない。知性は、有限な世界の中でのオペレーションだからである。

てか(5)天才概念は、つまり、有限な存在である人間が、絶対的無限である「神」の領域に近づこうという飛躍のプロセスであって、常に幻想に導かれた挫折に終わらざるを得ない。それでも、その過程でさまざまな意義深い「作品」が生み出されもする。

てか(6)天才とは、一方、病理学の問題でもある。天才は、必ずバランスを崩している。バランスを崩しながら何ものかを生み出すという、奇跡のトリックを見せる。しかし、ここがやっかいなのだが、バランスを崩していれば天才、というわけではない。歩留まりが悪いのだ。

てか(7)天才を育む教育機関は、存在しない。天才は、本質的に逸脱であり、疾走だからだ。コントロール不能、ということこそ、天才のメルクマールである。東大であれ、芸大であれ、評判の高い教育機関に行くということと、その人の才能は関係ない。むしろそれは保険でしかないのだ。

てか(8)ヴィトゲンシュタインなんか、大学を出たあと数年間も山ごもりして、小学校の先生をして、教授になったのにやってられねえとやめてしまって、また籠もる。そんなへんなやつじゃないと、言語論的転回はできない。つまり、天才は制御不能である。だから、うまくいく保証もない。

てか(9)制御不能な天才をかろうじて特徴づけるものは、「愛」だろう。それは、自己顕示欲とは違う。「愛」は自分を離れないと成立し得ないからだ。無限の絶対者が受肉したというキリスト教のフィクションが、一つの天才論としてわれわれの前に立ちはだかる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。