2012年3月31日土曜日

もはやメジャーなんかない、みんなオタクでいいんだよ

もみ(1)あれは昨年の暮れの頃だったか、新聞を読んでいたら、「今年いちばん売れた」としてある本が紹介されていたのだけれども、タイトルも著者名も初見だった。へえ〜と思ったが、未だにどんな本なのか知らない。どうやらミステリーかサスペンスらしいんだけれども。

もみ(2)それで、昨日、ある大手出版社の編集者と打ち合わせしていて、「最近どうですか」と聞いたら、「いいんですよ!」と答えが返ってきた。それで、なんとかという本のタイトルを言って、「売れてます。ドラマにもなりましたから」と言うけれども、そのドラマの題名が初耳である。

もみ(3)私が怪訝な顔をしていると、編集者が、ちょっと不満そうに、「今クールで一番視聴率が高かったんですよ」と言ったが、知らないものは知らない。それで、話題は次に行ってしまったが、街を歩いているときに思いだして、ああ、世の中はもうそうなってしまっているんだなと思った。

もみ(4)かつては誰もが知っているヒット曲とか、ベストセラーがあったとはよく言われる話である。ところが、100万部とか売れても、もはやある「セグメント」の中のことでしかない。そのセグメントを外れると、誰も知らない。変化をもたらしたのは、インターネットと、グローバル化だろう。

もみ(5)ネットの発達によって、自分の志向に合った情報源に手軽に接することができるようになった。その結果、それぞれの小宇宙が発達した。逆に言えば、かつて「マスメディア」が時代の流行を作っていたときは、いかに「全体主義的」だったかということがわかる。

もみ(6)もともと、人間というものはそれぞれ見ている世界が異なる。同じ家族でも、食卓に座る場所によって光景は異なる。マスメディアの寡占がそもそも異常なことだったのであって、人類の文化史から見れば、ごく一時期の、特殊な状況だったということなのだろう。

もみ(7)100万部売れる「ミステリー」や、「今クールで一番視聴率の高いドラマ」だって、それに興味がない人はつきあう必要がない時代になった。逆に、インターネットは世界中の情報をもたらすから、日本のドラマよりもアメリカのドラマやイギリスのコメディに詳しい人が出て来る。

もみ(8)もともと、私の周囲ではトレンディ・ドラマに出ている俳優よりも、チューリングやゲーデルの方がよほどメジャーである。以前はそれでもマスメディアに付き合っていたが、困ったことにネットのお蔭で、自分の好きなチューリングやゲーデルの情報をいくらでも深掘りできるようになった。

もみ(9)アニメを深掘りする人も、趣味の植物を深掘りする人もいる。そして、その向こうに広がる小宇宙では、同好の士がおいでおいでをしている。比べるとマスメディアの最大公約数は薄味だ。結果として、メジャーだろうがそんなもの知らない、そんな時代になったのはおそらく歓迎すべきなのだろう。

2012年3月30日金曜日

日本で死刑廃絶の動きが弱いことについて

(1)昨日、小川敏夫法相の判断により、三人の死刑囚の死刑が執行された。これをきっかけに、ふたたび死刑についての議論が上がっている。この問題について、世間で議論されている論点とは少し異なる視点から、検討を加えてみたい。

(2)長年にわたって人権問題に取り組み、ノーベル平和賞も受けている団体アムネスティ・インターナショナルによれば、死刑制度を存続している国はむしろ少数派となりつつある。とりわけ、ヨーロッパ諸国では、死刑を行うこと自体が現代の人権原理にそぐわないという認識が定着している。

(3)死刑についての議論はむずかしい。被害者の方々の報復の感情は、人間として自然のものである。それを支持する世論もある。一方、一国の法制度が感情や世論だけで決まるわけではないことも事実である。実際、死刑を廃止した国でも、世論がそれを必ずしも支持していたわけではない。

(4)日本が死刑を存続させ、今や少数派になっても世論を含め廃絶への動きが鈍いことには、歴史的に見て注目すべき点がある。明治以来、日本はなんとか「文明国」の一員として認めてもらおうと努力してきた。不平等条約を撤廃し、対等に扱ってもらおうと、憲法をつくり近代国家のかたちを整えた。

(5)ヨーロッパを始めとする現代の「文明」の大勢が死刑廃止に動いている中、「文明化」をすることで世界の「一等国」の仲間入りをしたいというかつての日本の衝動からすれば、当然死刑廃止への動きが出てくるはずである。しかし、そうならないのはなぜか。おそらくな地政学的な要因がある。

(6)何よりも大きいのは、米国の存在である。「文明国」でありながら、米国の多くの州は死刑を存続させている。テキサス州など、確定・執行数が多い州も目立つ。日本にとって、米国は戦後よくもわるくも一つの「標準」であり、米国が死刑を存続させている限り、日本にとっての改変圧力は低い。

(7)さらに、アジア各国、とりわけ中国の存在がある。中国はアムネスティが指摘するように世界最大の死刑大国である。また、経済事犯や薬物犯にも死刑を適用する点において、米国に比べても特異な文化を持っている。薬物犯への死刑適用は、「先進国」であるはずのシンガポールにさえ存在する。

(8)「先進的」な人権思想を持つヨーロッパ諸国からすれば、「文明国」である日本が死刑を存続させているのは不思議に思えるだろう。しかし、日本の「同盟国」である「米国」が死刑を存続させ、中国を始めとするアジア諸国の刑法の特異性の中で、日本が死刑を廃絶させる地政学的圧力は弱い。

(9)ヨーロッパの人権思想を淵源とするアムネスティの活動が日本で広がらないのは、現代日本にとって「文明国」や「普遍的価値」といった符丁が、もはや抽象的、歴史的なものに過ぎないことを示す。そのことが日本という国の将来にとって何を意味するのか。近代は本当に終わりつつあるのだろう。

2012年3月29日木曜日

脳の学習は、オープンエンド=それが本物の知性

のお(1)この所、Kindle for iPadで英語の本を読むことに熱中している。ただ離着陸の時は読めないから、ワシントンでHarvard Business Reviewを買って読み始めたのだけど、日本のメディアの中で流通している情報の質が決定的に劣化していることを痛感した。

のお(2)いつから、日本人の「知性」は劣化し始めたのだろう。どうも、遠因はセンター試験が導入されて、ペーパーテスト支配が強まったあたりにあるよう に思う。アメリカでもSATはあるが、それはあくまでも面接やエッセイなどの総合評価の一部分に過ぎない。点数だけで人はわからないのだ。

のお(3)本物の知性は点数などでは測れないオープンエンドである。常に無限と向き合っているのだ。 東大で哲学を教えていた廣松渉先生が、ぼくのマブダチの塩谷賢に、「学者になるには、一日千頁読みなさい」と言ったそうだ。実行するのは至難の業だけど、 廣松先生の言われることはよくわかる。

のお(4)一日千頁古今の哲学書を乱読しないと見えてこない世界はある。そして、そんなものをペーパーテストで測れるはずもない。英語力も同じで、 TOEICの満点を何回取ったと自慢しているマニアがいるが、正気の沙汰ではないと思う。英語の宇宙は、そこから先にこそ広がっているのだ。

のお(5)脳の学習は、一生かかっても窮め尽くせないオープンエンドなもの。本物の知性とは、結局、そのことがわかっているということ。例えば、マイケ ル・サンデル教授の探究しているJusticeという問題にしても、いくら考えても答えはそのさらに向こうにある。本物の知性は、そこに向き合う。

のお(6)今朝の朝日新聞の社説にも、文科省の高校の理科の検定教科書にどんな記述があったかと書いていたが、そんなことは本当にどうでもいいことなんだ よ。学ぶべき範囲があるとか、標準的な内容があるとか、そういうことは、本物の知性を志向している人は一秒たりとも考えはしない。

のお(7)結局、日本人は標準的な学習の「範囲」があると思い込み、その範囲でできるだけ「満点」に近い成績を上げることが「アタマがいい」と勘違いし、 ちいちいぱっぱちいぱっぱ。先生の言うとおりやってきたんだろうけど、あらびっくり、世界は本当は硝子窓の向こうに広がる大海原だったんだね。

のお(8)ニュートンが、私は砂浜で美しい貝殻を拾ってよろこんでいる子どものようなものだった、真理の大海は目の前に未知のまま広がっているという言葉 を残したけど、これがわかっているのが本物の知性。文科省の検定教科書なんて、砂浜に落ちているプラスティックみたいなものでしょう。

のお(9)本物の知性を志向している人は、走り続けている。廣松さんの言うように、「一日千頁」を続けている。それで、偶有性の海に飛び込んで泳ぎ続けて いる。アップルのスティーヴ・ジョブスは、そういうHumanitiesの総合性とTechnologyを結びつけた人だった。

2012年3月28日水曜日

若冲は心で感じればええ。知識など要らない

じち(1)日本がアメリカに桜を送ってから100年。首都ワシントンのポトマック川沿いに、春になるとすばらしい光景が現出する。それを記念して、日本から特別な展覧会がやってきた。伊藤若冲の「動植綵絵」全30幅が、釈迦三尊像とともにナショナル・ギャラリーで展示されるのだ。

じち(2)若冲の数々の傑作の中でも、動植綵絵は、畢生の大作(magnum opus)とも言える作品である。そこに込められた想い、技量、努力、はからいの凄まじさ。「動植綵絵」があるからこそ、若冲の他の作品も生きてくる。やはり、表現者には、渾身のmagnum opusが必要だ。

じち(3)動植綵絵に描かれているのは、生きとし生けるものの美しい姿。やがては死ぬが、懸命に生きている。それが、釈迦の説教を聞こうと集ってくる。仏教は、人間と他の生きものを区別しない。命のかけがえのなさにおいて、また生きることの苦しみにおいて同じである。

じち(4)熱心な仏徒だった伊藤若冲。その「動植綵絵」は、生きもののありさまを精細に描いたという点においてもすばらしいが、それが釈迦三尊像とともにあるという点に、生命に対する祈りが表れている。全体として、神々しいばかりの、宗教的次元に達しているのである。

じち(5)枡目描きの「鳥獣花木図屏風」など、若冲作品のコレクションで有名なジョー・プライスさんとエツコ・プライスさんのご夫婦にお目にかかった。プライスさんの若冲との出会いが興味深い。建築家のフランク・ロイド・ライトの助手として訪れたニューヨークの画商で、一つの絵にとりこになった。

じち(6)葡萄を描いたその絵が忘れられなかったプライスさんは、店に戻ってそれを買う。やがて絵を集め始めたプライスさん。ただ直観だけで選んでいたが、ある時、「なぜ君は、江戸時代の、特定の画家の絵ばかり集めるのだ」と尋ねられて、はっとする。知らないうちに、若冲の作品を集めていたのだ。

じち(7)プライスさんは言う。「若冲は、生きものの本質を描いている。葡萄にしろ、おしどりにしろ、写真のように描くのではなく、その生の本質(essence)を見抜いて、それを描いている。だから、若冲を感じるのに、知識など要らない。むしろ、知識は邪魔にすらなるのだ。

じち(8)プライスさんのコレクションは日本の各地で展覧されたが、感動的な光景が繰り返された。東京では、竹下通りからやってきた若者たちが絵の前で泣いて、「展覧会をしてくれてありがとう」と感謝したという。九州では、漁師さんや農家の方が野菜や魚をくれた。それが、若冲の力である。

じち(9)若冲の絵には、生きることを肯定させるような、そんな力があると言うエツコ&ジョー・プライスさん。「鳥獣花木図屏風」などの逸品を、来年に仙台を始め東北で展示したいとのこと。何度も被災地を訪れているプライスさんたち。大変な思いをした人たちに、若冲の絵に触れてほしいというのだ。

2012年3月27日火曜日

若冲は心で感じればええ。知識など要らない

じち(1)日本がアメリカに桜を送ってから100年。首都ワシントンのポトマック川沿いに、春になるとすばらしい光景が現出する。それを記念して、日本か ら特別な展覧会がやってきた。伊藤若冲の「動植綵絵」全30幅が、釈迦三尊像とともにナショナル・ギャラリーで展示されるのだ。

じち(2)若冲の数々の傑作の中でも、動植綵絵は、畢生の大作(magnum opus)とも言える作品である。そこに込められた想い、技量、努力、はからいの凄まじさ。「動植綵絵」があるからこそ、若冲の他の作品も生きてくる。や はり、表現者には、渾身のmagnum opusが必要だ。

じち(3)動植綵絵に描かれているのは、生きとし生けるものの美しい姿。やがては死ぬが、懸命に生きている。それが、釈迦の説教を聞こうと集ってくる。仏教は、人間と他の生きものを区別しない。命のかけがえのなさにおいて、また生きることの苦しみにおいて同じである。

じち(4)熱心な仏徒だった伊藤若冲。その「動植綵絵」は、生きもののありさまを精細に描いたという点においてもすばらしいが、それが釈迦三尊像とともにあるという点に、生命に対する祈りが表れている。全体として、神々しいばかりの、宗教的次元に達しているのである。

じち(5)枡目描きの「鳥獣花木図屏風」など、若冲作品のコレクションで有名なジョー・プライスさん とエツコ・プライスさんのご夫婦にお目にかかった。プライスさんの若冲との出会いが興味深い。建築家のフランク・ロイド・ライトの助手として訪れたニュー ヨークの画商で、一つの絵にとりこになった。

じち(6)葡萄を描いたその絵が忘れられなかったプライスさんは、店に戻ってそれを買う。やがて絵を集め始めたプライスさん。ただ直観だけで選んでいた が、ある時、「なぜ君は、江戸時代の、特定の画家の絵ばかり集めるのだ」と尋ねられて、はっとする。知らないうちに、若冲の作品を集めていたのだ。

じち(7)プライスさんは言う。「若冲は、生きものの本質を描いている。葡萄にしろ、おしどりにしろ、写真のように描くのではなく、その生の本質 (essence)を見抜いて、それを描いている。だから、若冲を感じるのに、知識など要らない。むしろ、知識は邪魔にすらなるのだ。

じち(8)プライスさんのコレクションは日本の各地で展覧されたが、感動的な光景が繰り返された。東京では、竹下通りからやってきた若者たちが絵の前で泣 いて、「展覧会をしてくれてありがとう」と感謝したという。九州では、漁師さんや農家の方が野菜や魚をくれた。それが、若冲の力である。

じち(9)若冲の絵には、生きることを肯定させるような、そんな力があると言うエツコ&ジョー・プライスさん。「鳥獣花木図屏風」などの逸品を、来年に仙 台を始め東北で展示したいとのこと。何度も被災地を訪れているプライスさんたち。大変な思いをした人たちに、若冲の絵に触れてほしいというのだ。


2012年3月26日月曜日

もっと翻訳をするとええ

もほ(1)このところ、Kindle for iPad で英語の本を濫読している。完全に火がついたようで、もうどうにも止まらない。読んでいるジャンルは、科学や技術、文明にかかわるものがどうしても多いが、そんな中で、すっかり考え込んでしまったことがあった。


もほ(2)繰り返し書いているように、日本のオペレーティング・システムは完全に賞味期限が切れている。大学入試も、新卒一括採用も、記者クラブも。一方で、アメリカを中心とする英語の本を読んでいると、インターネットに象徴される新しい文明の「波」が、いかに世界をつくりかえているかがわかる。


もほ(3)ネットを中心とする情報革命は、本当に興奮すべきもので、その中で新しい産業も生まれ、人々のライフスタイルも変わってきている。ところが、日本は佇んで、微熱的な受益者に留まっている。これはどうしてだろうとしみじみ考えているうちに、これまで考えなかった点に思い至った。


もほ(4)世界で最も興味深い動きと、自国の状態がずれているという認識は、明治時代にもあったはずだ。漱石の小説を読むと、当時のヨーロッパに対する「あこがれ」のようなものが伝わってくる。そして、繰り返し書いているように、大学は外国の文化を翻訳して輸入する文明の配電盤だった。


もほ(5)英語で直接やりとりする「直接性」の時代だとは言え、誰もが最初から高度な英語の運用力をもつわけではない。また、母語である日本語の文化は大切に育てていかなくてはならない。特に、英語を学習する前の子どもたちにとっては、日本語で流通している情報が重要だ。


もほ(6)そのように考えると、今の日本の問題の一つは、「翻訳」の情熱を失ってしまっている点にあるとも考えられる。かつて、明治の人たちがヨーロッパの文明にあこがれ、「和製漢語」の創造性を持って熱心に輸入した、そんな気持ちを、そもそも日本人が失っているように思われる。


もほ(7)国全体として、異質の文化に対する好奇心を失っているのだろう。国のあり方や文化は時代によって変わる。伝統を重視することは大切だが、昨今のいわゆる「若者の保守化」は、外の世界に目を閉ざし、居心地のよい現状にとどまろうとする怠惰だと見ることができないわけでもない。


もほ(8)英語でパス回しをし、ピッチの上を必死になって走るといった生き方が大切な一方で、日本語の世界の中に時代の最先端、今で言えばインターネット文明のうねりを移入し、文化の質を高め、日本の「時価総額」を増大させることが必要。しかし、最近では「伝統芸」の翻訳に力がないようだ。


もほ(9)今の日本に是非とも必要なのは、明治に学問のあり方や文明開化の機微を説いた福澤諭吉のような人物だろう。インターネットの偶有性の文明のうねりから、日本はすっかり取り残されている。ネットと連動して、社会が変わっていかなくてはならない。日本語を2.0にするくらいの勢いが必要だ。

2012年3月25日日曜日

速くやりなよ。もたもたするな

はも(1)コスタリカに行ったとき、ガソリンスタンドの近くの高い木を、あれを見てみろと現地の人が言うから、見上げてみたら、そこにナマケモノがいた。ナマケモノと言っても、上るときは上って、はるか上の方でまったりとくつろいでいる。へえ、すごいな、と思いながら見上げていた。


はも(2)それで、ナマケモノは、ふだんはゆったり動いているのだけれども、何かをするときだけは速く動くのだという。ヒントは、速く動かないと、気持ちが良くないのだという。へえ、と考えていたら、答えを教えてくれた。かゆくて自分をかくときには、速く手を動かすというのだ。


はも(3)ナマケモノじゃなくても、ある程度のスピードがないと気持ちがよくない、ということはある。それで、日本全体がナマケモノになっている今、スピード感は大切だと思う。いろいろな意見があってもいい、立場が異なっていてもいい、ただ、スピード感は最低限ないと、今の時代に合わない。


はも(4)もともと、ITの発展によって、ドッグイヤーだとかマウスイヤーだと言われていたのだった。それが、日本だけは、沈滞していてこれじゃあスロスイヤー(ナマケモノの年月)だ。ばっかみたいだよね。何もせずに、模様眺めで。批判されても黙っていて。ナマケモノで卑怯者の集まりだ。


はも(5)それで、橋下徹さん(@t_ishin)のことだけど、その政策について賛成、反対があるのは民主主義なんだから当然として、間違いなく賞賛されるべきことは、そのスピード感。ニュースの画像で橋下さんがぱっと歩いてきていきなりしゃべり出すのを見て、この人はわかっていると思った。


はも(6)日本はもたもたし過ぎである。まさにナマケモノの国。たとえば、消費税の問題にしてもね、英国では、いちいち議会で議論しなくて、ある幅の中では財務大臣が政策として税率を決定できるんだよ。あんなものはね、国会で法案として議論すべきものじゃないんだ。


はも(7)消費税の税率を、財務大臣が政策として上げ下げする。その評価、審判は次の総選挙で有権者がやればいいんであって、国会でもたもた議論するような性質の問題ではない。国会で審議したら、野党(自民党)は、反対のスタンスをとるに決まっているじゃないか。ムダなんだよ。


はも(7)電子書籍への移行にしても、電子教科書にしても、大学改革にしても、とにかく日本はもたもたし過ぎ。ゆっくり考えるべき問題はあるよ。しかしね、ぐずぐずしていても仕方がない問題もある。そんなことにもぐずぐずして、何もしないことの言い訳に使っている。まさに、ナマケモノの国だ。


はも(8)日本は、身体のあちこちがかゆいんでしょ。ナマケモノだって、身体をかいかいするときは、速く手を動かすんだ。だって、そうじゃないと、気持ちがよくないから。気持ちがいいスピードというものを、日本のエスタブリッシュメントと言われている人たちは忘れている。ナマケモノだからね。


はも(9)大学入試なんて、とっとと変えればいいんだよ。新卒一括採用も、とっとと廃止すればいい。何をぐずぐずしているんだろうね。ナマケモノの論理は、じっとしていることこそが善。エネルギー節約ってやつかい。でもね、自分の身体をかいかいするときは、速く手を動かした方が気持ちいいよ。

2012年3月24日土曜日

東大、オワコン

とお(1)日本の大学入試や、大学はもうダメだ。そう私は確信しているが、逆に、「いや、受験勉強は大切なのだ」「大学に入ることを目指すのがいい」と言う人たちがいる。ところが、よくよく聞いていると、がまんして努力する性格ができる/凡人でも目標が定まるなど、「皮肉のスタンス」ばかり。


とお(2)それで、いわゆる「東大」の問題である。母校であるし、そこに知人も多く、何よりも日本の大学全般がよくなって欲しいから、決してにくいわけではないが、もう東大はダメだと思う。「秋入学」は必然だが、それでパンドラの箱が開く可能性が高い。戦慄してその準備をせよ。


とお(3)東大のダメなところの本質はペーパーテストの点数で上からとっていくというその入試で、これが、「悪の産業」予備校による偏差値、それによる格差付けという日本の珍習を招いている。受かるにしろ落ちるにせよ、人間は単なる数字になるのである。面接もせずに合否を決めるのである。


とお(4)何度も書いていることだが、キャンパスを歩いていて、「お前どこ? 筑駒か。いや、おれは開成だけどね。あいつは、灘らしいよ」という金太郎飴と、「あいつは中国。オレは韓国。あいつはフランスかららしいよ」という学生構成と、この時代にどちらがいいと思っているのか。


とお(5)東大があの「こむずかしい」入試を続けている限り、日本語を母語とする人しか基本的に受けられない。つまり東大は日本人による日本人のための大学。もっと言えば,官僚による官僚のための大学となってしまっている。これじゃあ、今の世の中で地盤沈下するのは当然だよね。


とお(6)東大の法学部は、一応文系で最難関と言われているらしい。じゃあ、そこで本当にエリート教育が行われているか? 現代に必要なのは、文脈に依存せず、オープンに批判的思考ができるということ。東大法学部がやっているのは実定法まわりの「パンのための学問」に過ぎない。


とお(7)たとえば憲法学一つとっても、現行憲法がGHQの英語の憲法案を翻訳したというのが本質だとわかっているのに、条文の細かい解釈学を延々とやって、それが学問だと思っている。裸の王様だよね。根性ないよね。そんなもん、本当に学問じゃないよね。文脈に安住し、裸の知性を鍛えない。


とお(8)東大の文系の学問は、日本語で学問するというのろいにかかっているため、国際的な文脈での活動がしにくい。言語政策はとても難しくて、そう簡単には解決できないが、しかしもっと真摯に悩んで検討した形跡があってもいいのではないか。東京ガラパゴス大学に安住してそれでいいと思っている。


とお(9)結局、東大は明治に西洋の学問、文化を輸入するという壮大な「配電盤」として設計され、そんなアプローチの賞味期限がとっくに切れたあともぬくぬくと既存の文脈の中での裸の王様。秋入学は、外との直接競争をもたらすだろう。厳しい道かもしれないが、人はようやく本気で生き始めるのだ。

2012年3月23日金曜日

ツイッターの、つかいかた

つつ(1)私は今までありとあらゆるネット上のツールを試してきたが、ツイッターが続いているのはやはり性に合っているのだろう。メーリングリスト、掲示板、ブログなど、さまざまなサービスがある中で、ツイッターのさまざまがどうも生理的にぴったりくるような気がする。

つつ(2)ツイッターについて常々思うことは、それは決してSNSではないということである。ツイッ ターにおいて最も大切なのは人と人とのつながりではなく、むしろ内容ベースの拡散、響き合い、つながりである。その意味で、ツイッターの主役は、人ではな く、文化的遺伝子(ミーム)なのだ。

つつ(3)もちろん、自分の知人や尊敬する人の「つぶやき」は気になる。その一方で、自分の知らない人や、フォローしていない人の「つぶやき」も、それが もし力のあるものであるならば、私のところに「届いて」くることもある。人的関係を超えたそのような脈絡が、ツイッターの魅力である。

つつ(4)ツイッターは人的関係を反映したウェットなメディアではなく、むしろ人的関係を超えたドライなメディアである。逆に言えば容赦なく淘汰が行われ るとも言える。そのような厳しい感じが、私は好きなのだろう。それにくらべるとmixiはもちろんfacebookも温いように感じる。

つつ(5)つまり、ツイッターを使う上で一番大切なことは、TEDと同じように、Ideas Worth Spreading (広げるに値するアイデア)ということであって、そのことを、短い文章で凝縮して表現する修業の場としてとらえれば、ツイッターは大いにあなたを磨いてく れることだろう。

つつ(6)一方、ツイッターには向いていないこともある。例えば論争。対立的な意見があったときに、そのことについて充実した論争をすることには、ツイッ ターは向いていない。文字数が足りないこともあるし、水掛け論になりやすい。どちらかと言えば、ある特定の立場を「言い切る」ことに向いている。

つつ(7)特定の人に対して、あるいは特定の論点に対しての対論をつぶやきつづける人がいるが、あまりツイッターに適した振る舞いとは言えない。むしろ、 ツイッターは、自分のある論点について、積極的な主張をして、それに賛同する人はRTしたり、あるいはコメントしたりする方が向いている。

つつ(8)ツイッターを神経系にたとえれば、特定のツイートに共鳴してRTしたり、コメントしたりという「興奮性」の結合には向いているが、何かを否定し たり揶揄したりという「抑制性」の結合には向いていない。批判する場合でも、独立した立論として表現する方が適している。

つつ(9)批判を、特定のツイートや個人に乗っかるかたちで立てるのではなく、独立した論点として立てること。その批判自体が、「広げるに値するアイデ ア」となるかどうか、審判を受けること。この一点だけを気に留めていれば、ツイッターはとても使い勝手の良いメディアとなる。

2012年3月22日木曜日

こころの押さえがたき必然を描いているからこそ、漱石の『こころ』は名作である

こそ(1)夏目漱石の『こころ』は、漱石の小説の中でも最も読まれ、また売れ続けているときく。私も子どもの頃から繰り返し読んでいるけれども、本当にその意味がしみてきたのは、ずっと後になってからのことかもしれない。名作は、容易にその正体を現さないのだろう。


こそ(2)表題の『こころ』は、まさに小説全体のテーマを表している。もっとも、それについて直接の言及があったり、詳細な記述があるわけではない。物語の進捗を通して、人間の「こころ」というもののどうすることもできないいわば機微のようなものを、漱石は描いているのである。


こそ(3)『こころ』は、いろいろと奇妙な点のある小説である。まず、主人公の青年と「先生」の出会い方がおかしい。海岸で見かけて、なぜか「先生」のことが気になって、先生が沖に泳ぐときにあとから泳いでついていってしまう。今で言えば、「ストーカー」のようなものである。


こそ(4)先生の「遺書」を受け取った主人公の青年は、自分の実の父親が死の床に伏せっているのに、それを放り出して矢も盾もたまらず先生の下へとかけつけてしまう。肉親よりも近しい人がこの世にはいる。このあたりの漱石の認識は、読む者をひんやりとさせる作用がある。


こそ(5)なぜかわからないけれども、泳ぐ先生を追いかけてしまったり、遺書を受け取ってすぐに電車に乗ったり。つまりは「こころ」というもののどうしょうもなさ。理性で押さえられない。押さえようとしても、必ずあとでしっぺ返しがある。『こころ』の主人公は、人間の「こころ」である。


こそ(6)そして、小説『こころ』の最もどうすることもできない衝動と言えば、先生と、「お嬢さん」と、友人のKの間の関係だろう。その事がずっと後々までひっかかって、先生は幸せになれず、ついには死を選ぶ。『こころ』の物語を駆動しているのは、人間の意識ではない。無意識の「こころ」なのだ。


こそ(7)先生とKとお嬢さんの関係については、万が一未読の人には「ネタバレ」となるので書かないが、進化論的に言えば先生は「勝者」だったはず。その勝者が、自らの「こころ」のどうしょうもない力動に苛まされて、ついには「敗者」となる。ここには、震撼すべき哲学がある。


こそ(8)先生は、明治天皇の崩御をきっかけに、自らも殉ずることに思い至る。明治の大帝の死、一つの時代の終わりという大状況と、近代の個人の生活の必然が絡みあうところに、『こころ』のもう一つの不思議な読み味がある。そこには、近代の心理小説の文法を超えた脈絡があるのだ。


こそ(9)これはどこかで読んだのだが、『こころ』の先生の遺書があれほど長いのは、漱石の次に新聞連載を書くはずだった弟子が不始末で書けなくなり、やむをえず延ばして場をつないだとも。創造を導く偶然の事情と、漱石の言い訳をしない深い愛が感じられて、印象的なエピソードである。

2012年3月21日水曜日

ダメなものを排除するのではなく、良いものに光を当てた方が場外ホームランを飛ばすオーバーアチーブ出るよ

だよ(1)昨日、内田樹さんの 「教育の危機と再生」 http://bit.ly/GBvzV1 を読んで、重要なことが書かれていると感じた。そのことについて言及したい。教育において大切なのは、ダメなひとをなくすことではなくて、「オーバーアチーブ」する人を出すこと。これ、本質です。


だよ(2)そもそも、標準化された「学力テスト」の数値自体には、あまり意味がありません。それは現代社会におけるコモディティ化した能力であって、学力テストで好成績を収める生徒が出ても、その人は現代社会に適応しないし、日本も救われない。大切なのはイニシアティヴ。


だよ(3)技術界におけるスティーヴ・ジョブズ、文化の世界のビートルズ、科学におけるアインシュタイン。このような「オーバーアチーブ」する人を出すためには、標準的な学力テストは何の意味も持たない。なぜならば、突出する方向は、人によって違う。わかりやすい数値化などできないのです。


だよ(4)日本の教育の再生にとって必要なのは、学力テストの成績を上げたり、そのために競争させたりすることではなく、フルスイングで場外ホームランを飛ばすような生徒を見つけ出し、奨励すること。すごいことをやった生徒に、大阪市長賞を出せばいいのです。そのことが全体を引き上げる。


だよ(5)同じことは、教員の資質向上についても当てはまります。あるルールを民主的な手続きで決める。これはいい。しかし、それを遵守することが教員の評価の最大のテーマだったり、「不良教員」を見つけ出し排除するロジックは、フルスイングで場外ホームランを打つような教師を生まない。


だよ(6)むしろ話は逆で、すばらしい活動、教育をしている先生を見つけ出し、その人に大阪市長賞をあげればいいのでしょう。みんなの前で大いに褒めたらいい。君の教育法は画期的だ。すばらしい。教育界のオスカーをあげよう。場外ホームランを飛ばす教師を見いだすことが、全体を引き上げる。


だよ(7)落ちこぼれをなくしたり、ダメ教師を排除したりするのは、実は、日本が従来得意としてきた「ものづくり」の発想に似ている。不良品を出してはいけない。そのために徹底した品質管理を行う。歌っているかどうか口元を見つめる。しかし、世界はすでに「ものづくり2.0」に移行しています。


だよ(8)iPhoneやiPadに代表される「ものづくり2.0」の世界では、品質管理自体は市場における優越を決定する要因ではない。むしろ、フルスイングの場外ホームランのような新しい発想が必要。そのような「オーバーアチーブ」のプレイヤーを、息苦しい標準化の空気は決して生み出さない。


だよ(9)「教育改革」の結果が、標準的な学力テストで好成績を収める子どもたちの群だとしたら、陳腐でコモディティ化した人的資源にしかならない。ダメなところに神経症的にこだわるのではなく、よい人たちに劇的なスポットライトをあてる。大阪市長賞を、教育界のアカデミー賞にすればいいのです。

2012年3月20日火曜日

いわゆる一つの、知能指数について

いち(1)といわけで、先日、名古屋で行われたMENSAの会で話してきた。MENSAは、唯一の入会資格が「知能指数が130以上」という会で、これは全人口の上位2パーセントにあたる。私は、高校のときに試験を受けて入ったのだが、その後幽霊会員となっていた。


いち(2)それが、会長さんが名簿に私の名前を見つけて、「復活して会員にならないか」「名古屋で話さないか」というので、「わかった」と行ってきた。そもそも高校の時になぜMENSAの会員になったかというと、当時日本語版が発行されていた「リーダーズ・ダイジェスト」の記事がきっかけである。


いち(3)その記事には、「MENSAは知能指数がある一定値以上であることを唯一の基準としていて、会員にはいろいろな職業の人がいる。弁護士や医者、大学教授もいれば、ダンサーやウェイトレスもいる」と書いてあった。この、「ダンサーやウェイトレスもいる」という点に興味を惹かれた。


いち(4)というのも、当時の私は、学校のペーパーテストで進路先が「選別」されていくシステムがどうにも嫌いで、MENSAが、「ダンサーやウェイトレスもいる」という多様で自由な会ならば、そこで思う存分話してみたい、という気持ちが強かったのである。それで入会したのだった。大昔にね。


いち(5)名古屋のMENSAの会に行ったとき、実は興味津々だった。どんな人たちが来ているのだろうと思って。そうしたら、日本の会員は600人で、アメリカやイギリスに比べると圧倒的に少ないんだけど、ある特徴があってそのことがとても面白かった。そのことを書きたいと思う。


いち(6)一番興味があったのは、知能指数が高かったとして、わざわざMENSAの入会試験を受けようとする人にはどんな傾向があるか、ということである。私は先述のような理由で入ったが、会員を見ていると、むしろ社会への不適応があり、一つの拠り所を求めて入っているということがわかった。


いち(7)知能が高い人が、かえって社会に不適応になるというのは面白い現象である。というのも、知性とは、環境に適応するためにこそ発達してきたものであるはずだからだ。いずれにせよ、引きこもりやフリーターをやっているという人が案外多くて、ぼくはその点をとても面白いと思った。


いち(8)GladwellのOutliersによると、知能指数というのはある程度よければ、それ以上よくても意味がなくて、たとえば130の人と170の人が、社会的に成功するかどうかがそんなに違うわけではない。やたらと身長の高いバスケットボール選手が必ずしも成功しないのと同じこと。


いち(9)知能指数と才能もあまり関係がない。GladwellのOutliersで面白いのは、アメリカの近年のノーベル賞受賞者の出身大学を見ると、ハーバードとかもあるけど、地方の無名大学もまんべんなくある。やっぱり、文一とか理三がアタマがいいという発言は、意味なし芳一だなあ。

2012年3月19日月曜日

江ノ島のエスカーから、ダイヤモンドおじさんへの黄金のリレー

えだ(1)江ノ島には、子どもの頃から行っているが、「あれ」には最初びっくりしたねえ。「エスカー乗り場」って書いてあるから、おっ、これはいいね、とチケットを買う。すると、エスカレーターがあるから、これで乗り場に上がっていくのかな、と乗るとすいすい上がっていく。


えだ(2)最初のエスカレーターがあると、またエスカレーターがある。ううむ。「エスカー」乗り場までは、ずいぶんあるんだなと思ってエスカレーターにまた乗る。すると、またエスカレーターがある。このあたりで、まてよ少しおかしいぞと考え始める。


えだ(3)ひょっとして、「エスカー乗り場」の「エスカー」って、「エスカレーター」のことだったのか、という気づきと、「まさかそんなことが」という疑いがせめぎ合い始めるが、4つめのエスカレーターが現れる頃には、「やっぱりそうだったのだ!」と疑いが確信に変わっていく。


えだ(4)結論としては、「エスカー」はまさかの有料エスカレーターであるわけだが、確かに階段を上っていくよりもすいすいとラクで楽しい。4連目には、チョコレートとかのお菓子の絵が描いてあって、魔法の国にいくような雰囲気もある。大いに大満足、江ノ島エスカー。文化遺産認定です!


えだ(5)エスカーを乗り継いで江ノ島の上に出ると、なぜか目がぱちぱちするような気持ちになる。ここに、かつて、とても魅惑的なトラップが待ち構えていた。アタマをポマードでてかてかにしたおじさんがいて、「さあ、こっち、さあ、こっち」と手招きするのである。


えだ(6)別に「こっち」に行く義理はないのだけど、つい行ってみると、ひしゃくを渡して、壺の中の砂をすくってみろという。その通りにすると、トレーの中に砂を開けて、おじさんがさささと調べている。「おお、ありましたっ!」と大げさに驚くおじさん。カランカランカランと鐘を鳴らす。


えだ(7)おじさんが見つけたのは、小さなダイヤモンドのかけら。「おめでとうございます。これは差し上げます」というからなんと太っ腹。しかし、「当選した人は、さらに、お得なねだんでダイヤモンドの指輪が買えるのです!」とおじさんはにこにこして言うのだった。


えだ(8)ぼくは外れたのに、妹は「当たって」、ダイヤモンドの指輪が欲しいという。母親は冷静に「やめておきなさい」と言うが、妹は聞かない。ダイヤモンドおじさんは、今考えれば、実に見事な商売をしていた。エスカーを乗り継いで気分が高揚しているところに待ち構えているんだから、たまらない。


えだ(9)壺の中の砂をしゃくって射幸心をあおり、からんからんと当選の鐘を鳴らして指輪を売るというのは、見事な流れだったと思う。いつの間にか、ダイヤモンドおじさんは消えてしまったが、江ノ島のエスカーに乗ると、今でも上がったところにおじさんが手招きしているような気がする。

2012年3月18日日曜日

あやしいおじさんは。どこに行った

あど(1)あれはぼくが中学生の頃だったか。家に一人でいたら、ヘンな男の人が玄関に来た。「あのさ、ぼくさ、お母さんお父さんいないの? おじさんさ、時計の会社で働いているんだけどさ、ちょっと持ってきちゃったんだ。ぼくさ、おこずかいない? 1000円でもいいんだよ。」


あど(2)「おじさんの持っているのは、高級時計で本当は何万円もするんだけどさ、会社が倒産しちゃいそうだから、ぼくだったら1000円でいいや」とひそひそ声で見せたその時計の文字盤に、「Long Times」と書いてあったのを、今でも鮮明に覚えている。


あど(3)Long Timesというのが、Longinesのパクリだと気付いたのは、ずっと大人になってからのことだった。いずれにせよ、ぼくは、「お小遣いありません」と言って断ったら、おじさんは案外あっさり引っ込んで帰っていった。きっと、お金になりそうもないと思ったのだろう。


あど(4)今思うと、あのおじさんの必死な感じとか、ひそひそ話している感じとか、なんとも言えず味わい深かった。記念に、Long Timesの時計、千円で買っておけば良かったと大人の後智恵では思う。遠い昔、日本がまだ高度成長をして、社会に活気があった頃の話である。


あど(5)あの頃は、あやしいおじさんが時々出没した。ちびまる子ちゃんにもあるけど、校門の前にいんちきおじさんが登場して、パタパタやると男の子が女の子に変わる板のやつとか、赤や青に染めたひよこを売っていたりした。祭りでは、「型抜き」で子どもたちの射幸心をあおるおじさんがいた。


あど(6)「型抜き」は、ピンでかたちに抜くと、その難易度に応じて「賞金」をくれるというのである。わるがきたちがわーっと群がってピンでつついていたが、途中でこわれてなかなか完成しない。できた、と思っても、おじさんは「ここがダメだ」となんくせをつけて、お金をくれなかった。


あど(7)今思えば、型抜きとか、最初からおじさんにのせられていたのだろうけれど、そこには丁々発止のやり取りがあって、コミュニケーション自体が楽しかった。どきどきしながらピンで型をつついていたあの時間。今から思えば貴重なエンターティンメントで、お金には換えられない。


あど(8)今や、小学生が歩きながら「ねえねえ、知っている? うちのパパって、昭和時代生まれなんだよ。やばくない?」と言う時代らしい。その昭和時代に出没したあやしいおじさんたちには、それぞれ生活の匂いがあり、切迫した状況があり、騙す、と言ってもそこはかとない温もりがあった。


あど(9)電話一本で何百万も振り込ませる、殺伐としてなんの人間性もない今の悪者たちに比べて、昭和はのんびりして人間味があふれていた。あやしいおじさんたちが街角から消えてしまうと、空き地も消え、空でさえずるヒバリも消え、社会は強迫のように安心、安全と言うようになった。

2012年3月17日土曜日

ニュートリノは、光速を超えないよ

にこ(1)「常識」(common sense)というものは面白いもので、それは、さまざまな小さな「パーツ」となる知識の組み合わせである。その分野における「常識」を持つためには、それなりの経験の積み重ねが必要である。逆に言えば、「常識」を持つくらいになることが勉強の目的であろう。


にこ(2)ニュートリノの速度について、CERNが再実験をした結果、光速を超えなかったと発表した。物理について「常識」を持っている人は、「まあ、そうだろうな」と思ったに違いない。ニュートリノが光速を超えたというニュースが流れて以来の「騒動」が、一応決着した。


にこ(3)ニュートリノの光速超えのニュースが流れたとき、ツイッター上では「アインシュタインの相対論が破れた」とか、「タイムマシンが可能」とか、さまざまな反応があった。科学ネタがそれだけの関心を惹くことに対して新鮮な驚きがあったと同時に、一般の人はその程度の感覚なのだと思った。


にこ(4)アインシュタインの相対性理論は、そもそもこの世界の事物がどのように変化していくかという因果性についてのきわめて精緻な体系であり、ニュートリノが光速を超えるということの意味が、まったくわからない。だからこそ、物理の常識を持つ人ほど、「そんなわけないだろう」と考えた。


にこ(5)極めつけは、益川敏英さんで、私はTokyo FMの番組のキャスターとして益川さんのお話をうかがっていたのだけれども、質問を受けて、一言「ガセネタです」と言い切った。ニュートリノが光速を超えるなんて、ガセネタです、と言い切れるところに、物理学の素養というものがある。


ニコ(6)もちろん、常識は永遠ではない。そもそも相対性理論を導いたマイケルソン・モーリーの実験は、光の速度が一定であることを示したわけだから、当時の「常識」には反していた。しかし、その結果生まれたアインシュタインの相対性理論は、あまりにも美しいものだった。


にこ(7)1905年のアインシュタインの論文以前に、ローレンツやポアンカレが、現象を説明するための奇妙な変換公式を導いていたが、その意味は誰もわからなかった。アインシュタインは、そもそも二つの事象が「同時」であるとはどういうことかという根本に立ち返って、相対論を構築したのである。


にこ(8)結果として生まれた相対性理論は、そもそも二つの物体が時空の中で相互作用をするとはどういうことか、その際の「時間」のパラメータはどのように構築されるかということについて、深い洞察を伴っていた。ニュートリノが光速を超えたからといって、揺らぐような体系ではないのである。


にこ(9)「常識」を破る結果といっても、「スジ」がいいものと、悪いものがある。そんなセンスを身につけるためにも、もっと科学を勉強した方がいいと思う。ニュートリノは、光速を超えない。世の中はそんなものだよ。でも、もっと他のサプライズだったら、いくらでも待っているかもしれないね。

2012年3月16日金曜日

本音と建て前は、普段から一致させておいた方がいいよ

ほふ(1)昨日、朝日新聞が一面トップで巨人が6選手に球界の「申し合わせ」を超える契約金を支払っていたという報道を行い、今朝もその後追いをしている。それに対して読売が反論しているようだが、この騒動が、全体としてその趣旨、意義が私には一向にわからない。

ほふ(2)読売が「申し合わせ」に反して高額な契約金を支払っていたことが、朝日が匂わせるように「悪い」ことなのだというロジックがよくわからない。そ もそも、「申し合わせ」には法的拘束力があるのかないのか、そもそも、そのような「申し合わせ」をすること自体が妥当なのか、伝わってこない。

ほふ(3)日本の新聞社(特に朝日新聞)は、ある形式的な「ルール」があって、そのルールに形式的に違反している、という報道をするのが好きである。とこ ろが、そのルール自体が、プリンシプルに照らして妥当なのかどうか、という真摯なる検討をする習慣がほとんどない。今回も同様。

ほふ(4)議論されるべきは、そもそも、契約金の上限について、球界で「申し合わせ」をすること自体が妥当なのかどうか、そのことは、私的な権利や自由競 争を阻害しないのかどうかという点であろう。その検討なしに形式的違反を鬼の首をとったように報じても、出来損ないの学級委員のようである。

ほふ(5)別の観点からも、今回の報道は意味がわからない。おそらく、このような契約金の支払いの実態は、(日本の社会の慣例からして)球界関係者はみな (うすうす)「知って」いたはずだ。その上で、申し合わせを守るというう「建て前」と、「本音」を使い分けていたのだろう。

ほふ(6)もともと「建て前」と「本音」がずれているときに、本来課題になるのはいかにそれらを「一致」させるかということだろう。「本音」は、その社会 の実態を反映していることが多い。「建て前」のルールを「本音」の方に一致させることで透明性を高めるというのが筋のはずである。

ほふ(7)今回の朝日新聞の報道のように、「本音」が「建て前」と形式的に一致していないからといって、その「本音」があたかも悪いことのように報じるこ とが、どのようにプロ野球界の発展に資するのか、全くわからない。結局、報道の背後にある「正義感」のプリンシプルが脆弱なものなのだろう。

ほふ(8)現代の文明の発展は、「本音」と「建て前」をできるだけ一致させる方向に運用することを求めている。それが「透明性」であり、公正な競争につな がる。その点を論ずるならばまだわかるが、今回のように本来実態を反映している「本音」を圧殺するような報道は、百害あって一利なしである。

ほふ(9)形式的なルールが妥当なものかどうかを問わずに、それとの齟齬を学級委員的に叩く。そんな貧弱な精神が、いきいきとした活動を地下に潜らせてき たのだろう。あげくの果てに、「ファンの不信」などといった常套句で記事を締める。そんな伝統の「腹芸」こそ、もうごめんこうむりたい。

2012年3月15日木曜日

批判はいいけれど、自分の身体を張った現場感覚も必要だよね

ひじ(1)最近の日本を見ていて、気になることがいくつかある。一つは、科学や技術に対する無関心や無理解、反発のような気分が広がっていること。前から そうだったが、原発事故の影響によって、ますますその傾向が強く感じられるようになった。資源のない日本の立国は、科学技術しかない。

ひじ(2)ぼくは、子どもの頃蝶を追いかけていて、フィールドとしていた森や野原がブルドーザーで崩 されていく痛みを知っているから、環境を大切にしたいという思いは大きい。だからと言って、環境原理主義が正しいとも思わない。特にそれが科学技術に対す る不信として表れると、あちゃーと思う。

ひじ(3)米国では、エコの「緑」は新たな「赤」(共産主義のようなイデオロギー)だという議論もあ るくらい。道を誤ってしまう。文明の未来について、いろいろな立場から議論するのはよいことだけど、エコならばすべて良し、というような自己陶酔型の思考 停止は、正直ごめんこうむりたい。

ひじ(4)もう一つ気になること。それは、政治過程や指導者の資質について、批判をするのはいいとして、それが、自らの身体を張った現場からの感覚という よりは、父権主義の裏返しとしての過剰な期待や、どこかに「正解」があるはずだという甘い目論見のように感じられることが多いこと。

ひじ(5)あの時、指導者がどうふるまったとか、ああすべきだったとか、後付けで批判するのは簡単で ある。しかし、たとえば首相といったって、われわれと同じ凡人。全知全能のスーパーマンであるべきだという期待は、非現実的であるだけでなく、国の統治機 構に対する私たちの理解を劣化させる。

ひじ(6)首相と言ったって、別にそのあたりを歩いている女子高生やあなたの会社の部長よりも賢いわけでも、見識があるわけでもない。そういう人が現場で 何ができるのか、ということについての現実的な期待値を持ち、リーダーが凡庸であるという前提の下に国の当時機構をつくる方がよほど現実的。

ひじ(7)いちばんいいのは、町内会でも、NPOでも、趣味のサークルでもいいから、自らがリーダーとなって運動なり改革なりやってみることである。そう すれば、いかに難しいか、何が問題点かわかる。身体を張った道具的学習を伴わない無責任な批評家ほど、この世に害をもたらすものはない。

ひじ(8)ぼくは中学生のときに生徒会長をやったけど、一年間でできたことは、学校にかけあって、靴下が一本ラインまでしかダメだったのを3本ラインまで OKなように校則を変えたことだけだった。この前その話をフォーラムでしてゲラゲラ笑われたのだけど、リーダーって実際にやってみると難しい。

ひじ(9)ツイッターのTLを見ていると、舌鋒鋭く批判している人がたくさんいるけれども、自分たちはどうかと振り返ってみることはあるのかな。批評家で 済むのは日本の風土で、アメリカだったら、「お前やってみろよ」と言われる。日本のかくも長き停滞は、そのあたりに原因があるのかもしれません。


2012年3月14日水曜日

日本の国会は、本当に国政のことを議論しているの?

こほ(1)先日、国会中継を見ていて、その質疑応答の内容や口調についての違和感を抱いた、というツイートをした。与党と野党がそれぞれの立場から、国政について最適な解を探りあてるという「共同作業」というよりは、あら探し、糾弾の場に堕しているということ。意味のある議論には思えなかった。


こほ(2)そもそも、委員会で、発言する議員が決まっていて、その人が延々と質問をし続けるというフォーマット自体の意味がわからない、とも思った。委員会に出席している他の議員たちは、ただ聴いているだけである。ときどきヤジを飛ばす以外に、彼らの存在意義は何なのか?


こほ(3)私自身に置き換えて考えてみると、委員会に出席していて、たとえ自分たちの政党の代表だとは言いながら、発言する人が決まっていてその質疑を延々と聴かされるのは苦痛であり、退屈でたまらないだろう。聴いているうちに、自分なりの角度を思いつくかもしれない。しかし、それを表現できぬ。


こほ(4)グーグルのCEOをしていた時代のエリック・シュミット氏に聞いたけれども、意思決定の前にはできるだけ多くの人の意見を聞くという。多様な角度からの検討ができるからである。国会審議とは、本来そのような場ではないか。多くの声が聞こえないのならば、そもそも審議の意味がない。


こほ(5)日本というのは不思議な国で、一度フォーマットができると、実質的な意味を考えずに、延々と続ける傾向がある。それで残る古い文化もあるが、国会審議の形式については、完全に形骸化していると思う。政党の代表が一人出て糾弾質問を繰り返すだけでは、複雑な現代に適応できぬ。


こほ(6)それで、イギリスの国会の審議は確か違っていたはずだ、と思って調べてみたら、house of commonsのこんな審議風景があった。http://bit.ly/Ay95kJ 与党、野党に分かれて座って、発言したい議員は立ち上がって、Speakerが指名する。


こほ(7)様子を見ていて、この方が議論の実質に即しているし、よほど人間の生理にも合っていると感じた。出席している議員がいきいきしているし、多様な意見が反映されている。たくさんの人が発言を求めて立ち上がる風景は、ちょっと感動的だ。必ずしも指名されないけれども。


こほ(8)英国の議会でも、党首討論のときは一対一でやるけれども(http://bit.ly/whAaCm )、そのときでも、後ろにいる仲間たちを時々振り返って、個人の顔が見える風景である。そこをいくと、日本の国会のあの形骸化した質疑の時間は、いったいなんなのだろう。


こほ(9)日本の国会の質疑は、あらかじめ質問が提出され、答弁も官僚たちが書いているのだと聞く。だから揚げ足とり、重箱の隅になるのだろう。日本の国会でも、出席者が自由に発言できる時間を設ければ、事前に答弁も用意できないし、実質的な議論ができるようになるのではないか。

2012年3月13日火曜日

胸の中にある空き箱に、どうしたら気付けますか

むど(1)生きる上で必要な技術はいろいろあるけれども、一つ欠かせないのは胸の中の空白に気付くことだと思う。日本には何でもあるけれども、夢や希望だけがない、というのは言い古された惹句だ。だけど、夢や希望は存在ではなく不存在によってこそ担保されるということを、私たちは知っているか。

むど(2)生きている中で、私たちはそれなりに満たされてしまうし、「コンビニ」は日本の偉大な発明だが、だからこそ気付かないで通り過ぎてしまうこともある。それなりに成立している日常の中に、大きな空白を感じる能力こそ、夢のふくらまし粉であり、希望の検出器である。

むど(3)あれは、20代の、もっとぼんやりとしていた頃。バリ島のクラブ・メッドに行って(その頃の私の例によって、懸賞論文で入選したのだけど)、何もせずにプールサイドに横たわっていた。そうしたら、3日くらい経って、驚くべき変化が起こった。心の中の石炭がかっかし始めたのだ。

むど(4)そろそろ現実的になり始めていた思春期。それが、慣れないバカンスをする中で、忘れていた夢を思いだした。自分の中で子どもの頃から育んでいた大きな希望を、日常という埃まみれの屋根裏からとりだしてきた。そうしたら、箱の中身は、やっぱりからっぽだった。

むど(5)それが存在しないことは、決して絶望ではない。生命は、空白を必ず覆い尽くそうとする。自分の中に大きなからっぽがあると知ることこそが、夢の基礎であり、希望の認識である。いっぱいいっぱいでもう隙間がないという風に思うことこそが、退屈や小人閑居しての始まりなのだ。

むど(6)こんなこともあったな。『プロフェッショナル 仕事の流儀』のスタジオで、中村好文さんのお話をうかがっているうちに、「家」というものに持っていた夢を思いだした。日本の住宅事情の中で、家なんてこんなもんだと思っていたのが、ほんとうはぽっかりと空白があったことに気付いた。

むど(7)葉っぱに包まれ、縁側で寝転び、人の行き来が感じ、風が通り。木肌の温もりがあったり。そんな、中村好文さんのつくる家のお話を聞いているうちに、なんだ、自分の中には、すっかりぽっかりとした隙間があったんじゃないかと気付いた。そうしたら、夢も希望もわいてきた。

むど(8)だからね、もし、今の日本に夢や希望がないと感じられているとしたら、私たちが、自分の中にある空白を感じる力を失っているということだと思う。それなりに便利で、楽しい日常をつくってしまったから。うわあーと叫びたくなるような大きな空白を、忘れてしまったんだね。

むど(9)空白を見つけること。大きな欠落を感じ続けること。それは、私自身の課題でもある。生きるということは、つまりは、空白のマネッジメントの技術である。その周辺技術として、夢や希望もある。ドロシーが「虹の向こうに」を歌っていたとき、本当は心の中の空白を語っていたんだね。

2012年3月12日月曜日

たとえ広げるに値する情報があったとしても、人をその単なる道具として使ってはいけない

たひ(1)昨日、@tospo_mobileさんが、1年前同時刻のつぶやきを配信していた。その中に、私のツイートもあって、あの時は大変だったなと思った。緊急事態で、多くの人が善意のツイートをした。拡散やRTを求めるものも多く、人々がそのような求めに呼応していた。

たひ(2)確か、当日だったか、家具か何かに挟まれて助けを求めている人のツイートがあって、多くの人がRTしていたが、それが後にわざと書いたデマだったとわかったことがあった。善意のRT、拡散に水を差すそのようなfalse alarmが、一定割合で存在する。

たひ(3)震災時に、ソーシャル・メディアの可能性が大きく浮かび上がった。そこには、確かに新しい希望がある。同時に、間違った情報や、偏った情報が潜む可能性もあって、そのような可能性を前にしてどんな風に対応するかということは、一人ひとりが発信者にもなる時代のリテラシーだろう。

たひ(4)ところで、情報の真偽や偏りとは別の意味で、ツイッター上の「拡散」や「RT」について以前から感じていることがある。人助けや、人道上の正義を訴えるツイート、情報を、「RTお願いします」「拡散願います」とコメントして@メンションで投げてくる方々に、ずっと違和感を持っていた。

たひ(5)一番最近では、ウガンダのKonyという人物が子どもたちを誘拐している、ということを訴えるビデオを、「拡散してください」「RTしてください」というツイートが複数@kenichiromogiに寄せられていた。違和感を抱くとともに、Konyのビデオにもひっかかりを感じていた。

たひ(6)そうしたら、案の定、英語圏ではKonyのビデオは多くの人に見られると同時に、物事のとらえ方が偏っているとか、本当の解決にならない、真剣な政治というよりは広告であるという批判が噴出している。Konyのビデオを見た時に感じたひっかかりは、そのあたりへの直覚だったのだろう。

たひ(7)情報の信憑性以前に、「RTしてください」「拡散してください」というかたちで情報を投げることに違和感を抱くのは、そこに、他者に対する敬意ある距離感が欠けているからだろう。人は、それぞれの判断で、情報を発している。その固有の時間に侵入することに、ためらいはないのか。

たひ(8)カントは、他者を手段として扱ってはならない、他者自体を目的として扱わなければならないと言った。このことは、ソーシャル・メディア上の情報の拡散にも当てはまる。こういうビデオがある、と情報を提供するのはいい。しかし、RTや拡散は、個人の判断であって、強制すべきものではない。

たひ(9)システム的に見れば、RTや拡散を機械的ではなくそれぞれの人の固有の時間(in your own time)でそれぞれの判断で行うことは、結果として情報の信憑性やリテラシーの質の向上に資する。広げるに値する情報があったとしても、他人をその拡散の単なる道具としてはいけない。

2012年3月11日日曜日

東日本大震災から一年経った時の流れに思いを寄せて

(1)被災地に初めて入ったとき、その広がりに言葉を失った。トンネルを抜けて、向こう側に入った瞬間、突然家並みが乱れ始めた。やがて、すべてを破壊された土地が続き始める。行けども行けども、瓦礫の山はずっと続いていた。海岸を走りながら、いったいどうすればいいのだろうと思った。

(2)断層が動き、大地を引き裂いたあの日のこと。私たちの運命も、また分裂してしまった。津波が到達した場所と、しない場所で、あまりにも被害状況が異なる。海岸から、ほんの少しの距離、標高の差が、運命を分けてしまった。そして、その分裂した状況の中に、私たちは依然としている。

(3)人間には、想像力がある。他人の体験を、思いやる力がある。ありったけの力を振りしぼって、分裂し、ばらばらになった世界をつなぎ合わせなければならない。その一方で、あの日、揺れが起き、津波が押し寄せる中で自分がどこにいたのかによって、体験が分かれてしまったことを忘れてはならない。

(4)雄勝から避難している子どもたちと話したとき、ある男の子がこう言った。あの日、海を見ていたおじいちゃんが「津波が来た!」と言った。裏山を、草の根や枝をつかんでひっしになって逃げた。おじいちゃんとおばあちゃんの腰を押して、最後は男の子の足、おじいちゃんの腰まで波がきたという。

(5)寒い夜。着の身着のまま逃げたから、ふるえていた。たき火をして、朝までしのいだという。ようやく来た救援のおにぎりを、分け合って食べた。あとで、学校の先生が、あの子たちは笑顔でいるけれども、本当は、目の前でお年寄りがなくなったり、大変な体験をしているのですと耳打ちして下さった。

(6)その男の子が、津波で家が流されてしまった海岸のその土地に、また住みたいと言った、その時の表情が忘れられない。お父さんは漁師さんだという。その男の子のことを一生懸命考えている中で、「板子一枚下は地獄」という古くからあることわざの意味に思い至った。

(7)大変な思いをして逃げた、その体験の辛さと苦しさ。そして、あんなにひどい目にあったのに、また昔のように海沿いに住みたいという男の子の思い。浸水地域の土地利用をどうするか議論が進む中、その12歳の男の子の心のうちには、私が知らない一つの体験の宇宙がある。

(8)震災から一年。多くの人があの日のことを思い、祈りを捧げるであろうこの日。他人の苦しさ、悲しみに思いを馳せることは、人間としてもっとも尊い行為である。その一方で、あの日、私たちの体験が、とりかえしのつかない形で分裂してしまったことも、忘れてはならないだろう。

(9)人間は、決して完全にはわかりあえないとしても、近くに寄り添い、心を向け合うことができる存在なのではないか。そして、それは古来変わらない私たちの生存の基本的条件である。震災がつきつけた「板子一枚下は地獄」の現実の中、私たちは人間であるし、人間であり続けたいと思う。

2012年3月10日土曜日

他人のためだと思えば、無限のエネルギーがわいてくる

たむ(1)若いやつらと話していると、とにかく、自分が何とかなりたい、というやつが多い。自分が勉強ができるようになりたい、仕事がほしい、彼女が欲しい、彼氏が欲しい、幸せになりたい。自分の幸せを、そのようにして考えるのは当然の本能だが、短絡的になってはいけない。

たむ(2)「自分のため」というのは、一つの罠である。世界に、自分は一人しかない。だから、「自分のため」ということを考えていても、結局、一人分のエネルギーしか出ない。それに、自分が幸せになりたい、という主張は、世間から見れば、どうぞ御勝手に、ということに過ぎない。

たむ(3)発想を変えて、他人のために何ができるか、ということを考えてみる。自分の学ぶこと、やること、考えることが、以下に多くの他人に利益をもたらすか、福音を呼び込むかということを考える。そのように頭を切り換えると、この世の中は随分と面白い場所になってくる。

たむ(4)自分は一人しかいないけれども、他人はたくさんいる。最初は周囲のひとたち。それが、十人、百人、千人。多くの人たちに役に立つことをしようと思うだけで、無限のエネルギーがわいてくる。どれだけがんばっても、終わりということはないからである。

たむ(5)他人のために、と考えることは、人間観を鍛えること。自分が好きなことはわかっている。しかし、他人は何に悩んでいるのか、何を必要としているのかということはそう簡単にはわからない。他人が集合してできるのが「マーケット」。ほら、と差し出しても、市場が受け入れるかはわからない。

たむ(6)他人のため、と考えると、社会の仕組みがわからなければならない。人と人とが出会う有機的なネットワークがどのように動くのか、そのシステム的な洞察が必要となるのである。このような発想は、インターネットの上の新しいサービスにも直結する。

たむ(7)自分のため、と囚われていると発展がないが、いったん発想を逆転させて、他人のために疾走してみる。すると、社会というのは不思議なもので、他人のために役立つことをやっている人に対しては、「ありがとう」と感謝をしたくなる。結局、めぐり巡って自分のためになるのである。

たむ(8)利他を測ることは、自分の知性、感性を磨くことにもなる。知性とは、つまりは利他を突きつめた一つの境地である。自分のことばかり考えているやつは、結局こじんまりとしてしまう。学問でも芸術でも、本当にすばらしいものは利他を貫いている。そこに世界があるからだ。

たむ(9)4月から社会に出る人たちは、ぜひ、「自分が幸せになりたい」ということばかり考えないで、古い言い方のようだが、世のため人のためということを考えてほしい。そして、それがどれくらい難しく、奥深いものであるかを噛みしめてほしい。そうすれば、きっと桜が咲くでしょう。

2012年3月9日金曜日

根拠のない自信を持て。それを裏付ける努力をせよ

こそ(1)「根拠のない自信を持て」と私はしばしば言う。みんな、子どもの頃には根拠のない自信を持っている。初めてハイハイしたときに、「今日は調子がわるいから来週の日曜まで順延しよう」なんて思うか。子どもにとっては、すべてのことが「生涯で初めて」のこと。それに挑戦する気概を忘れるな。

こそ(2)誰でも最初は根拠のない自信を持っているのに、次第に忘れていく。あるいは、点数や偏差値といったくだらないもので人を決めつける社会によって、根拠のない自信をうばわれていく。だから、人生のときを積み重ねた人ほど、根拠のない自信を取り戻すのが大切なのである。

こそ(3)ここで肝心なのは、「根拠のない自信」には、「それを裏付ける努力」が伴わなければならないということである。しばしば、「茂木さん、オレ、将来ビッグになりますから、見ていてください!」という若者に出会う。そういうやつに限って、ビッグになった試しがない。なぜか。

こそ(4)「オレ、ビッグになりますから」と言う若者に限って、努力をしていない。本当にビッグになると信じているのならば、すさまじいまでの努力をしているはずだが、何もしていないし考えていない。つまりは、自分の夢を、本気では信じていないのである。

こそ(5)最近はネット・ベンチャーをやる、というともてると思っているやつが多くて、教室でとなりの女の子に「オレ、将来のフェイスブックつくっているんだ」なんて言ってる。「お前のモデルだと人力かかるけど、どうやってスケーラビリティ確保するんだ?」と聞くと、「あっ」なんて言っている。

こそ(6)誰でもすぐ気付くことにまだ思い至ってないということは、「将来のフェイスブックを作る」という夢を、本気では信じていないということである。そういうやつは、実は「根拠のない自信」を持っているとは言えない。「根拠のない自信」は、凄まじいまでの努力によって初めて実体化するのだ。

こそ(7)イチロー選手が大リーグに挑戦するとき、体力的に無理だとか、パワーが足りないとかいろいろなことを言う人がいた。しかし、イチローさんは根拠のない自信を持っていた。そして、それを裏付けるすさまじい努力をした。だからこそ、大リーグの歴史に残る偉大な記録を達成した。

こそ(8)シアトルのセイフィコフィールドを訪れたとき、球場にはイチロー選手専用のトレーニングマシンがあった。単に筋力を鍛えるだけでなく、一連の柔軟な身体運動を引き出す。そこまで工夫して、積み重ねる。根拠のない自信とは、凄まじいまでの努力の原資でしかない。

こそ(9)秀才は努力するが、天才は努力しなくてもできるというのは全くの間違い。天才は超人的な努力をする人で、秀才は中途半端な努力しかしない人である。そして、天才の超人的な努力を支えるのが、根拠のない自信に他ならない。若者よ、根拠のない自信を持て。それを裏付ける努力をせよ。

2012年3月8日木曜日

猿だけでなく、山も見ようね

さや(1)新しいiPad(new iPad)が発表された。巷で予想されていたiPad 3という名称を採用しなかったのは、世間の期待を裏切りたいというアップルならではの流儀なのであろう。これで、タブレット市場におけるアップルの立場がより強化されるという分析も見られる。

さや(2)単なるハードとしての優秀さではなく、情報ネットワークと結びついた「ものづくり2.0」が最大の付加価値を生み出す主戦場となりつつある今、インターネットやグローバル化といった文明の波に適応できていない日本企業は「ものづくり1.0」にとどまり、コモディティ化している。

さや(3)なぜ、日本からiPadやiPhoneが出ないのか。あるいは、Google、Facebook、Twitterのようなベンチャー企業が生まれないのか。過去数年間、私たちは繰り返し問うてきたが、容易に事態は改善されそうもない。日本再生は本腰を入れなければ無理だろう。

さや(4)ただ、こんなことがある。以前、大分の高崎山に行ったとき(私は勝手に高崎山というのは群馬県にあるとずっと思い込んでいたのだが)、そこには天然記念物の猿たちがいた。そして、餌付けの時間になると公園にやってくるのを、観光客が喜んで撮影していた。

さや(5)猿たちはもちろん可愛かったのだが、私が心を惹かれたのは、むしろ背景にある豊かな照葉樹林の山だった。猿たちは、餌付けのときにだけ公園にやってくるのであって、ふだんは、森の中でエサをとったりして生活しているのだという。途中から、私は猿ではなく森ばかり見ていた。

さや(6)あれだけの群れの猿が継続的に生活するためには、ある程度の規模の豊かな生態系がいる。つまり、猿は一つのエコロジカル・システムの反映であり、高崎山の猿の存在は、その背後にある原生林の豊かさ、健在ぶりを示す。猿を保護するためには、森全体を育まなければならない。

さや(7)今日本を覆っている危機の本質も、ここにあるのだろう。FacebookやiPadが日本からは生まれないというのは、猿がいないという現象論に過ぎない。そこだけとらえて議論しても仕方がないのであって、問題は、背景にある「森」が健康であるかどうかだ。

さや(8)日本の教育、社会のあり方、メディアの姿、人々の価値観、流動性、市場の機能。さまざまな生態系としての充実ないしは劣化の結果、今日の日本の姿がある。だとすれば、一部分だけをとりあげて、あれがないこれがないと議論しても仕方がない。日本という生態系全体を見直さなければならない。

さや(9)以上のことは個人においてもそうなのであって、なぜ自分にはあることができないのか、その点だけでなく生活全般、人生の履歴という「生態系」において初めて見えてくることがある。木を見て森を見ずの失敗は、国においても、個人においても、繰り返し行われ、私たちを停滞させている。

2012年3月7日水曜日

それまでの人生とは、直角に違った方向に歩いていく

そち(1)人間というものは不思議なもので、ある傾向が存在すると、それを「線型」に延長しがちになる。たとえば、ちょっと不調なことが続くと、これからの人生は、この不調なことが延長されて下り坂なのではないかと思ってしまう。

そち(2)今の日本を覆っている停滞感も同じで、停滞という傾向が線型に未来永劫続いていくんじゃないかと考えてしまう。そんなはずがないので、いつかは反転したり、陽化したりするに決まっている。句読点は必ず打たれる。問題は、自らいかに句読点を打つかである。

そち(3)毎週のようにNHKに通っていた頃、20分とか30分の休み時間があることがよくあった。そんな時、私は大抵局内をぶらぶら歩いていた。第一食堂とか、第五食堂とか、丸コアとか、本屋さんとか、10階に行って下りて来たりだとか。

そち(4)ある時、「そうだ!」と思いついて、30分の休みがあったときに、NHKの正面玄関から出て、NHKホールの横を抜けて、代々木公園にずんずん入っていった。片道15分歩くことができる。そしたら、私は森の中に立っていて、小鳥のさえずりを聴いていた。

そち(5)昔から気分転換の名手のつもりだったが、こんな風に気付かないこともあるんだなあと思った。未来について線型近似してしまう癖と同様、人には慣性の法則というものがあって、ついつい過去の延長線上で今日、「今、ここ」を過ごしてしまう。だから人生が単調になっていく。

そち(6)それまでの自分の人生とは、直角に違った方向に歩いていく。時にはそんなことをしてみるのが良い。そうしたら、どんなに異なる風景が広がっていることか。英語ばかりやっている人は、30分スワヒリ語をやってみるとか。人生の句読点は自分で打たなくてはならないんだよ。

そち(7)これはいつも言っていることだけど、前頭葉の背外側前頭前皮質とか、眼窩前頭皮質をつかった気分転換は、瞬時の勝負。「変えよう」と思ったら、ぱっと直角に切り替えて、いきなりトップスピードに入ろう。できない、というのは思い込み。句読点一つで、いきなり世界を変えられる。

そち(8)前頭葉の文脈切り替えの回路が、いわばむりやりに一秒で句読点をつくる。環境の変化や、身体性の推移は、あとからゆっくりとついてくる。まずは自ら文脈を変え、直角に違った方向に歩き始めること。子どもが、新しいおもちゃをみると今までのを放りだして遊び始めるでしょ。あれと同じ。

そち(9)文脈切り替えをすばやくやることの一つのメリットは、人生の多様性が増すこと。一日のうちに、何個句読点を打つことができるか。文章と同じで、人生も句読点の打ち方でいきいきとしてくる。とりあえず、今日、それまでの人生と直角に違った方向に歩いてみませんか? 30分だけでいい。

2012年3月6日火曜日

ナルシストはある程度までは行くけれども、一流には決してならない

ない(1)いろいろな方とお会いしてお話したり、対談する機会がある。どんなときも、その方の一番よいところを引きだそうとする。たいていの場合は本当に楽しいけれども、時には、内心「困ったなあ」と思うときがある。絶対に相手に悟られないようにするけれども、内心傷ついている。

ない(2)それは、相手が「ナルシスト」である場合。とくに、クリエーター系の仕事をしている人(広い意味での自己表現をしている人)にナルシストが多い。「対談」であるにもかかわらず、自分の話しかしない人。どんなネタでも、自分の話に持っていく人。そんな人に出会うと、「またかよ!」と思う。

ない(3)ナルシストは、自分自身に興味があって、他人や世界にはあまり興味がない。興味がある場合でも、自分を経由していく。だから、パブリックの話や、俯瞰した話ができない。「自分語り」に終始するから、話が広がらない。内心「こいつダメだ」と思いながらも、にこやかに話し続ける。

ない(4)そして、対談が終わったら、「お疲れさまでした!」と叫んで、後ろを振り返らないで逃げ去っていく。できるだけ早く今の悪い時間を忘れようと、口直しに楽しいこと、面白いことを考える。気分転換は私の得意。ただ、ずっとナルシストの自分と付き合っている人は大変だなと思う。

ない(5)表現者にナルシストが多いということは、それなりの適応性があるのだろう。また、日本には「甘え」の文化があって、ナルシストの表現者に一定のファンがつき、市場が形成されてもいる。延々と続く「自分語り」に付き合って、「素敵」と目を輝かせるファンもいるのだから、まあ好き好きだ。

ない(6)ただ、思うのだけれども、経験上、ナルシストの表現者は、それなりのマーケットもあるし、作品もそれなりのものを作るけど、それ以上伸びない。本当に一流のものを作っている表現者には、ナルシストはまずいない。ちゃんと他人や世界が見えている。やっぱり、ナルシストはダメだ。

ない(7)ある人がナルシストになるのは、それなりの理由があるのだろう。ボウルビィの「愛着」理論によれば、他者の愛が足りないのである。他人が自分を愛してくれないから、仕方がないから自分で自分を愛するようになる。つまり、ナルシストは本当は自信がないのだ。

ない(8)もったいない。自分のことばかり考えないで、他者や世界に目を向ければ、どんなに豊かな世界がそこに広がっていることか。「愛」を自分に留めないで、手放し、他者との間で育むことで、より自由で楽しい交流が生まれる。作品の質も向上する。ひょっとしたら「天才」になるかもしれぬ。

ない(9)今日の連続ツイートは、若者、特に表現を志す若者に向けて一つの「警告」の意味で書く。ナルシストのままでも、ある程度まではいく。君たちを甘やかしてくれる、市場もある。しかし、ナルシストのままでは、決して一流の表現者にはなれない。自分から離れて、広い世界に目を向けようよ。

2012年3月5日月曜日

偶然の幸運(セレンディピティ)をつかむためには、周辺視野を活かせ!

ぐし(1)春は出会いの季節である。自分の人生を変えるような出会いを、誰もが待ち望んでいることだろう。何に出会うかは、偶然のできごと、確率的な事象であるが、偶然の出会いを活かして「必然」にするには、いくつかの心がけが必要になる。

ぐし(2)偶然の幸運に出会うこと(その能力)を、セレンディピティと言う。もともとは、イギリス初代首相ロバート・ウォルポールの息子、ホラス・ウォルポールが手紙の中で「偶然の幸運に出会う能力をセレンディピティと名付けよう」と書いて、それが元となった。

ぐし(3)セレンディピティを持つためには、まず何よりも行動しなければならない。じっとしていても、幸運は向こうからやってこない。行動するのに、特定の目的や理由は要らない。とにかく行動することで、確率的、偶然的出会いのイベントが演出されるのだ。

ぐし(4)行動する中で、さまざまなことに出会う。セレンディピティを深めるためには、自分が出会ったものの存在、意味に気付かなければならない。せっかくすばらしい出合いがあっても、それに気付かなければ、偶然の興奮を活かすことができない。

ぐし(5)気付くためには、自分の周辺視野にあるものに目を配る必要がある。今自分が目的としていることばかりに気をとられ、他のものに目を配ることができないと、偶然の幸運を取り逃す。何か特定のものに「居付いて」しまってはいけないのである。やわらかく全体を見なければならない。

ぐし(6)例えば、喫茶店で打ち合わせをしている時に、となりのテーブルにいる人が、実はセレンディピティの種かもしれない。目の前にいる人だけでなく、周辺視野の中にあるものに心を配り、気付く心のやわらかさを持つことで、偶然の幸運に出会うことができるのである。

ぐし(7)最後に、出会ったものを「受け入れる」必要がある。せっかく偶然の出会いがあり、それに気付いても、それを受容できなければ意味がない。出会いは、しばしば自分の人生観、価値観を変えるものである。受容して変化する勇気がなければ、セレンディピティを活かせない。

ぐし(8)このように、「行動」、「気づき」、「受容」がセレンディピティの三要素となる。本当に人生を変えるような大きな出会いは滅多にないが、この三要素をサイクルとして毎日回していることで、いつか自分に訪れる最良のセレンディピティをつかむ、心の基礎体力ができる。

ぐし(9)セレンディピティの考え方は、人間を周囲に向けて開かれたオープン・ダイナミック・システムとしてとらえている。誰一人として、自己完結的な人間は存在しない。世界と行き交って、呼吸して、共鳴して、初めて私たちは自身の生命体としての可能性を全うできるのである。

2012年3月4日日曜日

音楽がかかっていてもかかっていなくても、集中していれば関係ないよ

おし(1)勉強をするときに、音楽をかけるのはどうなのか、という質問を時々いただく。この問題について、半ば脳のはたらきの立場から、半ば経験から答えてみよう。私自身は、何か仕事をするときに音楽をかけることは時々ある。現に今も、youtubeで音楽をかけながらこのツイートをしている。

おし(2)音楽は、今やっている作業に直接関係はしていない。つまり、シグナルではなくノイズである。そして、脳の集中する力を高めるためには、ノイズがある環境でも、勉強や仕事ができるようにした方がいいことは確かである。前頭葉の機能とは、選択であり、排除だからだ。

おし(3)静かな勉強部屋でないと集中できない、というのはおかしい。人々が談笑している喫茶店でも、テレビがかかっていて家族がいる居間でも、集中できる人は集中できる。何かの調査で、東大生は居間で勉強している人が多いという結果が出ていると読んだことがある。

おし(4)私の畏友の田森佳秀(@Poyo_F)などを見ていると、本当に集中できる人は環境を選ばないのだなと思う。だから、音楽がかかっていようと人々が談笑していようと、自分のやっている仕事や勉強に集中できるくらいでないと、本当に前頭葉の集中の機能が高いとは言えない。

おし(5)以上は、音楽を主に作業とは関係のない「ノイズ」という視点から考察したが、逆に、作業効率を上げるはたらきはないのだろうか。いくつかの可能性がある。一つはリズムと引き込み。音楽がリズムをつくることで、作業があるダイナミクスに引き込まれて、効率が上がる可能性がある。

おし(6)もう一つは、音楽の気分向上効果。モーツァルトの音楽がIQを上げる効果があるという研究報告があったが、後に、自分の好きな音楽ならロックでもレゲエでも何でも良いのではないかと言われている。音楽が情動系に働きかけることによって、脳の全体の活性度が向上する。

おし(7)勉強が苦手である、という子どもが、音楽を聴くことによって「やりたくない」という気分が変わって、勉強に向き合うことができる、という効果は期待できる。逆に言うと、勉強する時にいつも音楽を聴いているというのは勉強が苦手な子にしばしば見られる現象で、音楽依存症はあまりよくない。

おし(8)勉強そのものが面白ければ、音楽をかけている必要はない。音楽がないと勉強ができないというのは、対象自体に興味を持っていない証拠。本当に勉強に興味がある人は、音楽がかかっているかどうかというのは本来どうでもいいこと。音楽というノイズがあってもかまわないという程度のこと。

おし(9)一般論に戻る。脳についての問いの多くがそうであるように、「○○が脳にいいか」という問題設定自体が間違っていることが多い。(http://bit.ly/d79oLp)音楽をかけても、かけなくても、別にどちらでもいい。本当の集中は、環境を選ばないのである。

2012年3月3日土曜日

日本は八百万の神なんだから、二大政党制は無理だよ

にに(1)帰りの飛行機の中で、NHKニュースをやっていた。そしたら、自民党の谷垣総裁が、ニュース9か何か? に出てインタビューを受けていた。野田首相と極秘に会談したとか、しなかったとか、そんなことについての話だったらしい。谷垣さんの刈り上げっぽい髪型が印象的だった。

にに(2)ニュース9の眼鏡をかけたニュースキャスター(いのししみたいな印象の人で、ぼくはその顔に好感を抱いている)が、「私見ですが、日本をよくするために、会ってもいいじゃないですか」と言っておおーと思ったが、谷垣さんは「そもそも会っていませんし」とあくまでも否定した。

にに(3)そのあと、ニュースは消費税法案のこととか、解散のこととかのことに移っていたようだけれども、そのあたりになるとこちらの注意もかなり散漫になっていた。帰国の途中ということもあるのだと思うのだけれども、アメリカのテレビで見ていた政治討論とのニュアンスの違いが気になった。

にに(4)アメリカの政治討論は、個々の候補者もだけれども、あくまでも思想的なこと、イデオロギー的なことが主役になっていると思う。小さな政府なのか、大きな政府なのか。外国の紛争に関与するのか、しないのか。保険制度の是非。そのような政策上のことについて、各候補者のマトリックスを描く。

にに(5)各候補者についても、たとえばロムニー候補について、「一般の人々、99%との接続に失敗している」などと、有権者の思想的、傾向的構成との結びつきを議論していた。それに比べて、日本の政治報道は、例によって情緒的であり、雰囲気、あうんの呼吸である。

にに(6)直観的に思ったことは、日本に二大政党制を定着させるのは無理なんじゃないかということである。アメリカの民主党と共和党の間の対立は、思想的、イデオロギー的に二極をきちんと表現いており、そのバランスをとることが、実際に国政の運営上に役に立っている。

にに(7)一方、日本の政党は、自民党にしても、民主党にしても、その思想上、イデオロギー上の位置が必ずしも明確ではない。というよりも、そもそも、日本の政治家、有権者にとって、思想やイデオロギーは実はどうでもいいこと、というのが本音なのではないかと思う。

にに(8)だからこそ、自民と民主の連立だとか、維新の会との連携などという話が出て来る。日本は八百万の神なのだから、二大政党など土台無理。いろいろな政党が入り交じって、合従連衡するのが本来の姿なのかもしれない。外から輸入しても、内発的なものでなければ仕方がない。

にに(9)日本は、明治以来の危機に瀕しているが、その本質は、内発的なものでなければ身につかないということだと思う。西欧の学問を輸入する装置だった大学も、すっかり陳腐化した。政治もまた、身の丈に合わない二大政党制など諦めて、自分たちの感性に合った政体を模索する時なのかもしれぬ。

2012年3月2日金曜日

抵抗したってどうせそうなるんだから、ムダだよ

てむ(1)角川グループが、kindleから電子書籍を出すことにしたのだという。素晴らしいニュースであり、歓迎する。もっとも、このニュースに複雑な思いをもって聞いた日本の出版関係者も多いだろう。そこで、今朝は電子書籍について考えてみたい。

てむ(2)「紙の本」に対するノスタルジアは意味がないことを確認しておきたい。本の流通形態の「一つ」として紙の本が存続することに、誰も反対はしない。しかし、そのことは電子書籍がオプションとして存在することを否定するものではない。紙かデジタルかではなく、紙もデジタルもなのである。

てむ(3)日本の書籍流通が、アマゾンやグーグル、アップルなどの外資のプラットフォームに支配されたり、大きなマージンをとられることを懸念するのは理解できる。しかし、情報ネットワークの構築こそ、日本が過去何年にもわたって怠けてきた分野であり、今さら文句を言っても遅きに失する。

てむ(4)時代の変化の方向は明らかなのに、ちまちました文句を言って何もしない。日本の文明の劣化は、ここに象徴されている。電子書籍の流通を迅速に実現できない技術的、企業的、法的怠慢こそ、日本の大学を始めとする教育システムの欠陥の結果。外資に文句を言うどころか、自ら反省すべき。

てむ(5)必要とされているのは、未来はどうなるべきかというヴィジョンだろう。梅田望夫さんに聞いた印象的な話。梅田さんが、ある時メンターと話していたら、ソフトが届いた。梅田さんの目の前で、そのメンターは箱をナイフで切り刻んで、包装をばらばらにし、フロッピーを取り出した。

てむ(6)そして、「本質的なのはこの中のデータだけなのに、何で無駄なことをしているんだ!」と叫んだという。ソフトをネットで買うなんて誰も考えなかった時代に、そのメンターは本質を見抜いていた。イノベーションを起こすエネルギーは、「義憤」であることを示すエピソードである。

てむ(7)誰がどう考えたって、数千冊の本を電子的に持ち歩くことができる時代が来た方がいいに決まっている。そうすれば、出版しにくかった全集も出せるだろうし、新刊の流通コストも減る。そっちの方がいいんだたら、世界はそうなるに決まっているのである。

てむ(8)もちろん、変化には困難が伴う。そのような困難を、ちまちまと指摘するのが得意な人もいる。しかし、どうせ抵抗したってムダである。みんなにとってそうなるのがいいんだったら、やがてそうなるに決まっているのだから。抵抗した分恥をかくし、余計なエネルギーを使うだけだ。

てむ(9)電子書籍に関する動きの遅さは、日本の文明の劣化の象徴だろう。電子書籍化はマンガなどのヴィジュアル業界にとっては大きなビジネス・チャンスでもある。ちまちました抵抗勢力に眩惑されて、人類の大きな変化という対局を見損じてはいけない。日本ではちまちました人たちの声が大きすぎる。

2012年3月1日木曜日

初めてのテッド・トーク

はて(1)初めてのTEDトークが終わった。最初にPatrick Newellに誘われてTEDx Tokyoで話して、去年はLong BeachのTED本会議に初めてきた。そして、今年は3分間のショート・トークをした。終わったらほっとして、浜辺を歩きながら、太陽がまぶしかった。

はて(2)そもそも、私は日本語でも英語でも、講演の前に準備をしたことがない。もちろん、原稿を書いたこともない。英語の学会発表でも、スライドだけ用意してその場で考えたことを話すというのが普通のことだった。一分後にしゃべろ、と言われてもできるといつも豪語していた。

はて(3)あまり大きな声では言えないが、NHKの英語版の「視点論点」を収録したときも、8分30秒から9分15秒の間で話せばいいんだろうと、何の準備もしなかった。そしたら、原稿がなかったのは茂木さんと元国連事務局次長の明石康さんだけだと言われた。

はて(4)その私が、今回のTEDトークだけは入念な準備をしたのは、一つには昨年Long Beachの本会議を経験して、いかにここが「家賃の高い」場所かということを痛感していたからであろう。あの聴衆の中で、TEDのステージに立つということは、大変プレッシャーのかかることである。

はて(5)TEDのトークは、たった三分でも、Derek SivrersのHow to start a movementのように強いインパクトを与えうる。最初の一秒目から、すべての言葉、振る舞い、息づかいまでが記録され、印象に影響を与える。そう思えば、気合いが入るのは当然だ。

はて(6)しかも、今回は、被災地の方々の思い、とりわけ、釜石の方々の思いを背負っているという気持ちがあった。津波の映像を提供して下さった柳田記者。大漁旗を貸して下さった木村さん。「復興の狼煙」ポスタープロジェクトのみなさん。遠藤ゆりえさん。みなさんの思いがあった。

はて(7)そんなこんなで、入念に準備をして本番に臨んだ。そしたら、クリス・アンダーソンが、予定よりも20分も早く「ケン、準備はいいかい?」なんて言ってくる。あれ、と思っていたら、いきなり、「さあ、東京から来たケンモギです!」と紹介されてしまった。

はて(8)最後の最後で、いきなり不意打ちの本番。それでも、ステージの上に立ったら、不思議とすらすらと言葉が出て来て、無事、最後に大漁旗を振るところまで終えることができた。あっという間に終わってしまって、それから、しまった、もっとじっくり楽しめばよかったと思った。

はて(9)終わって、ステージを下りて、マイクを取ってもらって、呆然と歩いていると、会った人の何人もが、「グッド・ジョブ!」「グッド・トーク」と声をかけてくれた。ぼくはなんだかぽかぽかした気分で、ホテルの部屋に戻り、旗を大切に置き、そして浜辺に歩いていってチリ・ドッグを食べた。