2012年3月22日木曜日

こころの押さえがたき必然を描いているからこそ、漱石の『こころ』は名作である

こそ(1)夏目漱石の『こころ』は、漱石の小説の中でも最も読まれ、また売れ続けているときく。私も子どもの頃から繰り返し読んでいるけれども、本当にその意味がしみてきたのは、ずっと後になってからのことかもしれない。名作は、容易にその正体を現さないのだろう。


こそ(2)表題の『こころ』は、まさに小説全体のテーマを表している。もっとも、それについて直接の言及があったり、詳細な記述があるわけではない。物語の進捗を通して、人間の「こころ」というもののどうすることもできないいわば機微のようなものを、漱石は描いているのである。


こそ(3)『こころ』は、いろいろと奇妙な点のある小説である。まず、主人公の青年と「先生」の出会い方がおかしい。海岸で見かけて、なぜか「先生」のことが気になって、先生が沖に泳ぐときにあとから泳いでついていってしまう。今で言えば、「ストーカー」のようなものである。


こそ(4)先生の「遺書」を受け取った主人公の青年は、自分の実の父親が死の床に伏せっているのに、それを放り出して矢も盾もたまらず先生の下へとかけつけてしまう。肉親よりも近しい人がこの世にはいる。このあたりの漱石の認識は、読む者をひんやりとさせる作用がある。


こそ(5)なぜかわからないけれども、泳ぐ先生を追いかけてしまったり、遺書を受け取ってすぐに電車に乗ったり。つまりは「こころ」というもののどうしょうもなさ。理性で押さえられない。押さえようとしても、必ずあとでしっぺ返しがある。『こころ』の主人公は、人間の「こころ」である。


こそ(6)そして、小説『こころ』の最もどうすることもできない衝動と言えば、先生と、「お嬢さん」と、友人のKの間の関係だろう。その事がずっと後々までひっかかって、先生は幸せになれず、ついには死を選ぶ。『こころ』の物語を駆動しているのは、人間の意識ではない。無意識の「こころ」なのだ。


こそ(7)先生とKとお嬢さんの関係については、万が一未読の人には「ネタバレ」となるので書かないが、進化論的に言えば先生は「勝者」だったはず。その勝者が、自らの「こころ」のどうしょうもない力動に苛まされて、ついには「敗者」となる。ここには、震撼すべき哲学がある。


こそ(8)先生は、明治天皇の崩御をきっかけに、自らも殉ずることに思い至る。明治の大帝の死、一つの時代の終わりという大状況と、近代の個人の生活の必然が絡みあうところに、『こころ』のもう一つの不思議な読み味がある。そこには、近代の心理小説の文法を超えた脈絡があるのだ。


こそ(9)これはどこかで読んだのだが、『こころ』の先生の遺書があれほど長いのは、漱石の次に新聞連載を書くはずだった弟子が不始末で書けなくなり、やむをえず延ばして場をつないだとも。創造を導く偶然の事情と、漱石の言い訳をしない深い愛が感じられて、印象的なエピソードである。