2012年3月15日木曜日

批判はいいけれど、自分の身体を張った現場感覚も必要だよね

ひじ(1)最近の日本を見ていて、気になることがいくつかある。一つは、科学や技術に対する無関心や無理解、反発のような気分が広がっていること。前から そうだったが、原発事故の影響によって、ますますその傾向が強く感じられるようになった。資源のない日本の立国は、科学技術しかない。

ひじ(2)ぼくは、子どもの頃蝶を追いかけていて、フィールドとしていた森や野原がブルドーザーで崩 されていく痛みを知っているから、環境を大切にしたいという思いは大きい。だからと言って、環境原理主義が正しいとも思わない。特にそれが科学技術に対す る不信として表れると、あちゃーと思う。

ひじ(3)米国では、エコの「緑」は新たな「赤」(共産主義のようなイデオロギー)だという議論もあ るくらい。道を誤ってしまう。文明の未来について、いろいろな立場から議論するのはよいことだけど、エコならばすべて良し、というような自己陶酔型の思考 停止は、正直ごめんこうむりたい。

ひじ(4)もう一つ気になること。それは、政治過程や指導者の資質について、批判をするのはいいとして、それが、自らの身体を張った現場からの感覚という よりは、父権主義の裏返しとしての過剰な期待や、どこかに「正解」があるはずだという甘い目論見のように感じられることが多いこと。

ひじ(5)あの時、指導者がどうふるまったとか、ああすべきだったとか、後付けで批判するのは簡単で ある。しかし、たとえば首相といったって、われわれと同じ凡人。全知全能のスーパーマンであるべきだという期待は、非現実的であるだけでなく、国の統治機 構に対する私たちの理解を劣化させる。

ひじ(6)首相と言ったって、別にそのあたりを歩いている女子高生やあなたの会社の部長よりも賢いわけでも、見識があるわけでもない。そういう人が現場で 何ができるのか、ということについての現実的な期待値を持ち、リーダーが凡庸であるという前提の下に国の当時機構をつくる方がよほど現実的。

ひじ(7)いちばんいいのは、町内会でも、NPOでも、趣味のサークルでもいいから、自らがリーダーとなって運動なり改革なりやってみることである。そう すれば、いかに難しいか、何が問題点かわかる。身体を張った道具的学習を伴わない無責任な批評家ほど、この世に害をもたらすものはない。

ひじ(8)ぼくは中学生のときに生徒会長をやったけど、一年間でできたことは、学校にかけあって、靴下が一本ラインまでしかダメだったのを3本ラインまで OKなように校則を変えたことだけだった。この前その話をフォーラムでしてゲラゲラ笑われたのだけど、リーダーって実際にやってみると難しい。

ひじ(9)ツイッターのTLを見ていると、舌鋒鋭く批判している人がたくさんいるけれども、自分たちはどうかと振り返ってみることはあるのかな。批評家で 済むのは日本の風土で、アメリカだったら、「お前やってみろよ」と言われる。日本のかくも長き停滞は、そのあたりに原因があるのかもしれません。