2012年3月12日月曜日

たとえ広げるに値する情報があったとしても、人をその単なる道具として使ってはいけない

たひ(1)昨日、@tospo_mobileさんが、1年前同時刻のつぶやきを配信していた。その中に、私のツイートもあって、あの時は大変だったなと思った。緊急事態で、多くの人が善意のツイートをした。拡散やRTを求めるものも多く、人々がそのような求めに呼応していた。

たひ(2)確か、当日だったか、家具か何かに挟まれて助けを求めている人のツイートがあって、多くの人がRTしていたが、それが後にわざと書いたデマだったとわかったことがあった。善意のRT、拡散に水を差すそのようなfalse alarmが、一定割合で存在する。

たひ(3)震災時に、ソーシャル・メディアの可能性が大きく浮かび上がった。そこには、確かに新しい希望がある。同時に、間違った情報や、偏った情報が潜む可能性もあって、そのような可能性を前にしてどんな風に対応するかということは、一人ひとりが発信者にもなる時代のリテラシーだろう。

たひ(4)ところで、情報の真偽や偏りとは別の意味で、ツイッター上の「拡散」や「RT」について以前から感じていることがある。人助けや、人道上の正義を訴えるツイート、情報を、「RTお願いします」「拡散願います」とコメントして@メンションで投げてくる方々に、ずっと違和感を持っていた。

たひ(5)一番最近では、ウガンダのKonyという人物が子どもたちを誘拐している、ということを訴えるビデオを、「拡散してください」「RTしてください」というツイートが複数@kenichiromogiに寄せられていた。違和感を抱くとともに、Konyのビデオにもひっかかりを感じていた。

たひ(6)そうしたら、案の定、英語圏ではKonyのビデオは多くの人に見られると同時に、物事のとらえ方が偏っているとか、本当の解決にならない、真剣な政治というよりは広告であるという批判が噴出している。Konyのビデオを見た時に感じたひっかかりは、そのあたりへの直覚だったのだろう。

たひ(7)情報の信憑性以前に、「RTしてください」「拡散してください」というかたちで情報を投げることに違和感を抱くのは、そこに、他者に対する敬意ある距離感が欠けているからだろう。人は、それぞれの判断で、情報を発している。その固有の時間に侵入することに、ためらいはないのか。

たひ(8)カントは、他者を手段として扱ってはならない、他者自体を目的として扱わなければならないと言った。このことは、ソーシャル・メディア上の情報の拡散にも当てはまる。こういうビデオがある、と情報を提供するのはいい。しかし、RTや拡散は、個人の判断であって、強制すべきものではない。

たひ(9)システム的に見れば、RTや拡散を機械的ではなくそれぞれの人の固有の時間(in your own time)でそれぞれの判断で行うことは、結果として情報の信憑性やリテラシーの質の向上に資する。広げるに値する情報があったとしても、他人をその拡散の単なる道具としてはいけない。