2011年11月30日水曜日

本音にその人の無意識が表れるんだから、教養を身につけて耕さなくては人生もったいない

ほき(1)「オフレコ」発言というのは、その人の本音が表れるのだろう。特に、酒の席でのことは、その人がふだん抑圧しているけれども、無意識の中で考えていることが出やすい。だからこそ、おたがいの人間性を知るために、私たちは酒席をともにすることをたのしみにする。

ほき(2)昨日報道された田中聡沖縄防衛局長の酒の席での「発言」も、本音、無意識の思考の構造が出たものと思われる。あまりにも陳腐でお粗末。更迭されるのは当然だとしても、公務員のトップがこの程度の無意識しか耕せていないという事実に、愕然とする。

ほき(3)本音や無意識は、その人がどれくらい豊かな精神生活を送ってきたか、何を経験して、何を見て、考え、行動してきたかということによって耕され る。酒の席での本音は、いわばその人の人生の通知表。その発言が愚劣なものだったら、教養不足な人生と断じられても仕方がない。

ほき(4)ぼくは沖縄に行くと必ず斎場御獄に行く。世界遺産に登録されたかけがえのない聖地。最初に訪れたとき、何も人工的な設いを施さず、自然の織りなす岩と緑の景観が人間の精神に深い感化をもたらすことに衝撃を受けた。一番奥の三庫理からは、久高島が遙拝できる。

ほき(5)この斎場御獄の中に、小さな丸い池がある。沖縄戦の際に、アメリカ軍の砲弾を受けてできたくぼみに水がたまったのだという。戦争の傷跡さえ、そのままやわらかく受け入れてしまうような聖なる抱擁が、斎場御獄にはある。その前に立つと、沖縄の歴史に思いを馳せる。

ほき(6)斎場御獄は一つの例だが、沖縄に赴任する以上、その歴史や文化を学ぶということは公務員としてのいわば職務上の義務であろう。もし、その義務を 果たしていたら、今回のような愚劣な発言はあり得なかった。まことに失礼な言い方になるが、決定的な教養不足だと断ぜざるを得ない。

ほき(7)もし、酒の席での本音の発言が、「いや、私も、沖縄の人たちの思いや、苦しみもわかっています。しかしね、国というものは、時に難しい選択をす る必要がある時もある。そこをね、話し合ってね、お互いの理解を深めていきたい」というものだったら、どんなにか良かったろう。

ほき(8)防衛省だけの問題ではない。霞ヶ関に入ると、それぞれの「村」の雰囲気にどっぷりつかる。世界のさまざまな事象について、教養を深める機会を失 う。だから、つまらない人間が出来上がる。つまらないだけでない。大切なことに対する共感能力が欠ける。トップとしての資質がない。

ほき(9)振り返ってみると、ぼくが尊敬し、大切にする人たちは、みな無意識が美しい人だな。酒を飲んで出る本音が美しい。酒を飲んで出る本音が愚劣でつまらない人は、ああ自分は教養や経験が足りない、共感の振れ幅が 狭いんだと、大いに反省すべきだと思うよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月29日火曜日

その人がどれくらい感じ、考え、行動したかの総体が、言葉に表れると信じる

そこ(1)昨日、APU(立命館アジア太平洋大学)のやつらと話していて、その「生一本」という店での歓談の最中に、ああっ、本当にそうだなあ、と思っ た、一つひとつの言葉には、その人が、そのことについて人生の中でどれほどのことを思い、考え、感じてきたかの体重が乗っている。

そこ(2)たとえば、恋愛のことを話すにしても、あるいはベーシック・インカムのような社会的概念について語るにしても、それぞれの人に経験の総体のようなものがあって、その土が育む不思議な植物の花の匂いを、ぼくたちは確実に嗅ぎ分けている。

そこ(3)だからこそ、ふだんからいろいろ考えたり、感じたり、自ら動いてぶつかってみたり、人の心を測ってみたり、たくさんの先人の言葉に接したり、それを表現したり、そんなことをしてみるのが大切なんだなと思う。

そこ(4)立川談志師匠がなくなったことをきっかけに、追悼番組や過去のドキュメンタリーを見た。師匠がずっと追い求めていた「人間の業の肯定」としての 落語。これもまた、たとえば芝浜を演ずるに当たって、一つひとつの言葉の背景にある人間の経験の総体について、思いをめぐらせる営みだった。

そこ(5)落語家が、経験を積み上げ、いろいろなことを感じ、動かされ、沈み、包まれるうちに、次第に芸を磨いていくように、私たち一人ひとりの言葉の放つ光も、どれくらい格闘したか、一生懸命考え、感じたかということにかかっている。

そこ(6)たとえば、「時間」一つとっても、少し前の「未来」があっという間に「現在」になり、それが手の届かない「過去」となってやがてはうすぼんやり していくという現象学的驚異にどれくらい向き合って考え感じているかで、その人の言葉の深さというのは変わっていくのではないか。

そこ(7)ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という言葉を引用する人は多い。しかし、どれくらい真摯に響くかは、 「論理哲学論考」に向かった時間の長さ(そもそも読んだことがあるか!?)や、同じ問題についてその人が考え抜いたその時間に比例する。

そこ(8)言葉というものは、フェアなものだと思う。だから、私たちは、他人の話を聞くことを好む。耳を傾けることで、その人の精神生活の履歴が推し量れるから。会話をしていて飽きないのは当たり前だ。なぜって、それは、一つの秘められて宇宙との遭遇だから。

そこ(9)そして、他人との会話という外的言語を充実させるためには、自分が自分自身と向き合っている時の内的言語が豊饒でなければならないとつくづく思う。だから、自分のうちに籠もって、ぶつぶつと消化、分解しているキノコのような時間よ、祝福されよ!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月28日月曜日

ねじれにはそれなりの効用もあるが、改革や行動には脱ねじれが必要である

ねか(1)大阪府知事、大阪市長のダブル選挙で、それぞれ大阪維新の会の松井一郎氏、橋下徹氏が当選した。このことについて、大阪都構想や教育基本条例などの具体的な政策の是非から離れて、思うことがある。

ねか(2)それは、政治における「ねじれ」の意味である。周知のように、国政はここしばらく衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ」の現象が続いている。もともと、二院制は異なる視点からのチェック&バランスを 目的としており、多数波が両院で異なることには、それなりの意味がある。

ねか(3)一方で、「ねじれ」は、改革を進めたり、政策を実行したりする際には、足かせになる。とりわけ、時代の変化が大きい場合には、ねじれが続くことは、国益を損する場合がある。ねじれ状態だと、どうしても現状維持となってしまい、変わらないこと自体がリスクになりかねないのだ。

ねか(4)国政がねじれ状態になりやすいのは、衆議院選挙と参議院選挙がサンプルする民意の時点が異なるからである。異なる時点での民意を選挙結果に反映させることは、結果として国政の多様性に資するが、アメリカの中間選挙がそうであるように、ねじれの足かせにもなる。

ねか(5)異なる時点でのサンプリングに基づく「ねじれ」を避けるためには、衆参ダブル選挙が有効である。次回の国政選挙を、2013年の衆参ダブル選挙とすることが可能ならば、それはねじれ解消へと資する可能性が高いことになる。

ねか(6)以上のような意味で、橋下徹氏の、大阪市長、大阪府知事のダブル選挙に持ち込んだ手法は、政策決定、実行のプロセスにおける「ねじれ」を解消するという意味では、きわめて有効であった。ただ、 大阪市議会では、「維新の会」が過半数に達しておらず、その「ねじれ」がリスク要因である。

ねか(7)ところで、政治を離れても、一人の人生の中にも「ねじれ」はある。生きるということが、複数の、時には両立せずリソースを食い合う目標、志向性によって導かれていることがあるのだ。その結果、人生は 複雑で豊かなものになるかもしれないが、結果として現状維持にもなりやすい。

ねか(8)私たちは一つの時には一つの行動しかできず、だからこそ脳内にも「winner take all」の選択機構がある。今回の選挙でも、大阪維新の会に反対する民意は一定程度あったが、過半数の民意が首長の選択につながるのは、つまり行動というのはそういうものだからだ。

ねか(9)ねじれている間の、だらだらと現状維持をする中でああでもない、こうでもないというモードも良いが、時には目標を決めてさくさくと行動するモードも必要である。政治も人生も、ねじれ、脱ねじれそれぞれの効用を見きわめなければならないだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月26日土曜日

毛づくろいの制約をどう乗りこえるかが、ソーシャル・ネットーワーク・サービスにおける最大の技術的課題である

けそ(1)英国のダンバーは、1993年に、BBSに論文を書いて、人間の社会的グループの数について、「ダンバー数」の仮説を提出した。サルの大脳新皮 質が脳の他の領域に対して持つ割合と、群れの構成員数の間の相関を示し、そこから外挿して、人間の場合は約150人だと結論した。

けそ(2)サルたちは、群れのメンバーどうしで「毛づくろい」をする。ちょっと痛いのだけれども、それでエンドルフィンが出て快感を得る。「毛づくろい」を通して、同じグループの仲間としての「団結心」が生まれる。

けそ(3)問題は、群れの中のメンバー数が増えるにつれて、毛づくろいをしている時間の割合も増えることである。群れのメンバーたちと、もれなく毛づくろいをしようと思ったら、生活時間のほとんどを毛づくろいで過ごさなければならないということになる。

けそ(4)人間の場合、会話が毛づくろいの代わりになっている。大学生を対象とする調査によれば、政治や文化、学問などの「実質的なテーマ」について話し ている時間よりも、人間関係のゴシップや自分自身の体験について話している時間が多い。雑多に話すことで、仲間であることを確認する。

けそ(5)なぜ、大脳新皮質の大きさで仲間の数が制約されるのか。毛づくろい/会話に要する物理的時間の制約に加えて、さまざまな計算資源が関係している のだろう。その人との結びつきの記憶を、どれくらい保持できるか。社会性に伴う複雑な計算を、どれくらいこなしていけるか。

けそ(6)「社会性にともなう複雑な計算」とは、たとえば、この話は彼は知っているけど彼女は知らない、だからあの人には言っていいけど、この人にはダメ、といった類の判断である。集団の数が増えるほど、計算の量と複雑さも増大する。

けそ(7)結局、人間の場合も、どれくらい継続的に、「毛づくろい」ができるかということで、集団の数が決まっているのだろう。クリスマスカードや年賀状 を出すというのも一つの「毛づくろい」の行為であり、ダンバーたちの研究によれば、ほぼ予言される150程度のグループ規模になる。

けそ(8)ここで問題になるのが、「ソーシャル・ネットワーク・サービス」(SNS)である。SNSでつながっている人の数が増えるにつれて、「毛づくろい」は困難になり、つながっていること自体が苦痛となる。この 「ダンバー数の壁」をどう乗りこえるかが、SNSの最大の課題だろう。

けそ(9)私がツイッターを好む理由は、「毛づくろい」に基づくつながりとは関係なく、「ミーム」(文化的遺伝子)が接着剤となったコメント、やりとりが できるからだろう。ツイッターには毛づくろいが必要ない。SNSにそれが必要なのだとしたら、技術革新がないと、スケールアップできない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月25日金曜日

白や黒ではなく、灰色の中でこそ自ら生きよう

ひは(1)日本の教育についての論点の一つに、英語力の問題がある。中学、高校、大学とあれだけ時間をかけてやっているのに、なぜ英語力が付かないのか。日本語を介在させる「翻訳」文化が問題の根源だという指摘がある。

ひは(2)大学教育も、日本語で行われている。その結果、世界の学生たちとの交流や、教員の構成において、大きなハンディキャップを持つ。そのことが、日本の大学が「ガラパゴス化」する根本原因であり、特に文化系がそうだという指摘は根強い。

ひは(3)ひるがえって、教育を英語で行っている国は多い。しかし、それで万歳かというと、すぐにわかるように、そのような国では母語による学問がボキャ ブラリーあるいは概念の面から難しいことも多い。だから、日本語で教育ができることは、日本にとって一つのメリットでもある。

ひは(4)およそ人間が直面する問題は、選択肢のうちどれを選ぶかで、必ずと言っていいほど「トレードオフ」の関係がある。教育で用いる言語をどうする か、というのも同じ。英語で学ぶというのは、良い点もあれば、悪い点もある。その「グレーゾーン」を踏まえて、どうするかを決断する。

ひは(5)第三者の視点からの「批評」と、第一人称の「決断」が異なるのは、まさにこの点。批評は、トレードオフのうち、片方の視点を拡大し、取りだして 極論をしても成り立つ。一方、自分のこととして決断する時には、グレーゾーンのあわいの中で、えいやっと選び取らなければならない。

ひは(6)TPPの問題にしても、参加したらいいことも悪いこともあるに決まっている。そのグレーゾーンのあわいのなかで、決断するというのが政治的プロ セスの本質である。一方、評論家たちは白か黒かどっちかを立てて議論すればいいのだから、単純である意味では気楽である。

ひは(7)参加したら、こういう良いことと悪いことがある。参加しなかったら、こういう良いことと悪いことがある。そんなグレーゾーンの中での決断を、日 本の秀才たちはあまり鍛えてこなかった。賛成にしろ、反対にしろ、TPPの問題で声高に論じている人たちは、 単純な批判者であることが多い。

ひは(8)ツイッター上で、ものごとの一面をとらえて、白か黒かを言い立てる人たち(黒と言う人が多いが)は、そのことで、グレーゾーンのあわいで自らの 身体で引き受けて決断する、重要な学習機会を逸失している。第三者的視点から単純化することは、自分が生きることに資することはない。

ひは(9)自分の日常を見つめてみれば、進学や就職といった大きな決断から、ひるめしは何にするかという小さな決断まで、グレーゾーンこそが生きることだと気付くはずだ。白か黒かで安心している人は、それだけ自分自身が生きることから遠ざかる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月24日木曜日

インターネットが、地上の風景を変えていく

いち(1)九州新幹線で博多から久留米に移動し、そこから鹿児島本線に乗った。二両編成のワンマンカー。とことこ走るうちに、目的地の西牟田駅に着いた。近くに、集英社の取材でお世話になる旅館「ふかぼり邸」がある。

いち(2)大した距離じゃないから歩こうともともと思っていたが、駅前の様子に呆然とした。何にもない。最初からは乗ろうと思っていなかったが、タクシー 一台ない。これから歩くからトイレに行って置こう、と思って駅前のに行ったら、すぐ後から地元の兄ちゃんがきて、となりに立った。

いち(3)男子トイレでとなりに立たれると、なんとなくやりにくい。しかも、二つしかなくて、距離が近いので、密着感がつよい。にいちゃんきちゃったな、困ったな、緊張するなと思いながら、なるべく別の方を見るようにしてなんとか済ませた。

いち(4)にいちゃんたちは二人連れで、なんとはなしにちんたらした雰囲気をかもし出している。ちんたらと自転車に乗って、ちんたらと二人乗りでふらふら 走り出した。ときどきこっちを振り返っているので、ぼくはiPhoneの画面を見るふりをしながら、ぱっぱっぱと歩いていった。

いち(5)ぼくが歩いていったのは、三潴という地区。本当に静かだった。車も通らない。周囲に溜池がたくさんあって、江戸時代に飢饉を避けるために工夫されて、築造されたのだという。本当にのんびりした、すてきな場所。歩いていくうちに、どんどん周囲になじんでいった。

いち(6)さっきのにいちゃんたちは、昔からいる、典型的な「田舎」の青年たち。都会と違って、田舎は刺激が少なくて、退屈して時間を持てあます、というイメージ。ところが、三潴のきれいな風景の中を歩いているとき、ぼくは突然、待てよそれは違う! と気付いた。

いち(7)今や、インターネットがある。ネットは、世界につながっている。TEDのトークにも、ツイッターにも、最先端の学術論文のpdfにも、 youtubeにも、Economistのサイトにもつながっている。どんな田舎でも、本当は世界のぐるぐると、渦とつながっている。

いち(8)ぼくが、この三潴地区に住んでいたとしたらどうだろう。想像してみた。家で、ネットでばーっと情報を収集する。駆け抜ける。時折、この美しい風 景の中を歩く。考えをまとめる。十分やっていけると思った。もう、田舎と都会の情報格差とか、雰囲気の違いとか、すべては 幻想である。

いち(9)もっとも、変化はゆっくりと起こる。情報の浸透は、やがて非線形の不可逆変化を起こす。どんな田舎でも、インターネットさえ来ていれば、世界と 直結している時代。そのことが、地上の風景を確実に変えていく。私は、大いなる希望を持つだろう。変化の断層は、必ず接続される。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月23日水曜日

ベンチャーを起こすこと自体よりも、ブツをつくることが大切だと肝に銘じておこう

べぶ(1)昨日、波頭亮さんと対談していて、「これからの日本は明るい」と言った。新卒一括採用とか、くだらないことを続けている「本体」とは無関係に、 「オレたちは勝手にやるぜ」というやつらが増えてきているように手応えがあるからだ。就活をしない学生たちが、日本の希望である。

べぶ(2)起業する、というやつらも増えてきた。起業のコストは、インターネットなどの環境整備によって格段に下がっている。波頭さんも言っていたように、「一生懸命やれば、なんとか食っていける」くらいにはなっていると思う。

べぶ(3)ところで、起業する、という若者たちの意気は良いとして、考えておくべきことがある。一つは、対象の商品やサービスについて、徹底的に考えて作り込むこと。そのことについては、世間の誰よりも、自分が考え抜いているというくらいの情熱を持ってのぞむこと。

べぶ(4)案外うかつなやつも多くて、最近も、こんなウェブサイトを作った、とザッカーバーク気取りでいるから、聞くと、人力に頼っていて、スケーラビリ ティがない。「お前、それ、ユーザーが増えたら破綻するじゃん」というと、「あっ!」とか初めて気付いたような顔をしている。

べぶ(5)スケールアップできない労働集約的な仕事を「起業」と勘違いしているやつは多くて、それでは実際には便利屋になってしまっている。それはそれで一つの生き方だけど、ネットの特徴である不特定多数が利用するという設計が、そもそもできていないことも多い。

べぶ(6)起業したい、という意欲はいいし、おっちょこちょいで何かをやってしまうということは必ずしも悪いことではないけれども、せっかくやるんだったらもう少し考えろよと言いたくなるケースが多いのである。

べぶ(7)思うことがある。ジョブズとウォズニアックがアップルを創業した時には、何よりも「Apple I」という「ブツ」があった。当時としては画期的なパーソナル・コンピュータ。まだ未熟で、荒削りでも、人々が求める具体的な商品が、そこにはあった。

べぶ(8)「オレ、起業しますよ」とか、「ビッグになりますよ」とか夢を持つのはいいけれども、起業すること自体は実は難しくなくて、大切なのは、「ブ ツ」をつくること。だから、起業にこだわらずに、ふだんから 商品やサービスの「ものづくり」に没頭していた方が、実は成功に近い。

べぶ(9)多くの人が求める、魅力的な商品、サービスができたら、起業など簡単。お金も人も集められる。本当に難しいのは、起業すること自体ではなく、画期的な「ブツ」をつくることなのだと頭を整理しておこう。就活をしない君たちへの、ぼくからのはなむけの言葉です!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月22日火曜日

テレビのダイナミック・レンジが狭いことは、日本人の建て前主義を反映している

てに(1)通販生活のテレビコマーシャル「原発国民投票」についての天野祐吉さんのブログ(http://t.co/NoPkxLKa ) が議論を呼んでいる。大滝秀治さんの声で、「原発国民投票」を呼びかける秋冬号の巻頭特集について。各テレビ局が放送拒否したと、天野さんは書く。

てに(2)「意見広告」を放送しないというテレビ局のポリシーに基づいてそのような判断がなされた、というニュアンスがブログから伝わる。23日付の朝日新聞の天野さんのコラムにその点について書いたとあるので、明日の朝刊でより詳細が明らかになるかもしれない。

てに(3)関連事実、今後の推移については見守るとして、このニュースに接して改めて思うことは、日本のテレビの「ダイナミック・レンジ」の狭さである。 よく言えばやさしい。悪く言えばツッコミが足りず、切り口が甘い。テレビのあり方は、結局は国民の心理の反映なのだと思う。

てに(4)英国のBBCは、一時期若者の視聴離れに悩んだが、エッジの立った情報番組やエンタティンメント番組で息を吹き返したと聞く。イギリスのコメ ディ番組は、差別や偏見など、社会的なタブーにも取り組んでいくが、日本のバラエティでそんな場面を見ることはほとんどない。

てに(5)アメリカでも、政治的な風刺ショーが放映されて、著名政治家がやり玉に挙がる。もちろん、取り上げられた政治家は怒るだろうが、そのような鋭いツッコミがあってこそ、初めて流れ始める社会の中の感情の回路のようなものがある。

てに(6)先日のブータン国王の来日に際して、虚構新聞が愛にあふれる記事を書いたとき、部の人が「ブータンの人の国王に対する敬意を考えると、いかがな ものか」と書いているのをみて、これが日本だと思った。そのような一見「良識派」の意見を先取りして、テレビがつまらなくなっている。

てに(7)今、若者がテレビから離れているとすれば、提供されるダイナミック・レンジがあまりにも狭いからである。ネット上では、「原発国民投票」くらい の意見は当たり前。それを、波が立たないように、誰も怒らないように、誰も傷つかないようにとどんどん自己規制していくから、つまらない。

てに(8)日本人は本音と建て前を使い分けると言われる。みな、本音では、「原発国民投票」くらいのことは当然考えている。それを、テレビは、「中庸」だ とか「バランス」という建て前で規制しようとする。これでは、インターネットとの競争で、負けることが運命付けられてしまう。

てに(9)テレビだけの責任ではない。先日のオバマ大統領と中国の胡錦涛国家主席がキスをしているベネトンの広告に対しても、「物議を醸している」と、あ たかも世間を騒がせるのが悪いかのような角度から報じられる国。本音の日本人は面白いのに、建て前の日本人とテレビはつまらない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月21日月曜日

政策よりも、人格の方が、選挙における判断基準であること

せじ(1)大阪市長、大阪府知事選挙の選挙戦が熱い。「大阪都」構想を掲げる橋下徹氏の「維新の会」が果たして民意を得るのか。その行く末はまだわからないとしても、興味深い現象があるように思う。

せじ(2)それは、具体的な政策の是非よりも、その人の人格、資質を有権者が判断の基準にしているということ。これは、このところの選挙の一つの傾向であり、政治について考える際に、無視することのできないファクターだと私は思う。

せじ(3)たとえば、東京都知事の石原慎太郎氏。外国人や女性に対する発言など、その政治的思想には必ずしも賛成しない人も多いが、なぜ再選されるのかと言えば、氏の物怖じしない、決然とした態度に惹き付けられる有権者が多いからだろう。

せじ(4)橋下徹氏も、大阪都構想はもちろん、その教育関係の政策についても必ずしも民意が集まっているとは言えないが、アジェンダを設定し、精力的にその実現を目指していくその姿勢には、共感する人が多いように思う。

せじ(5)国政で言えば、小泉進次郎氏。TPPの是非はともかく、自分の信念を、党の政治やヒエラルキーとは無関係に強く主張する態度には、注目すべき点が大いにあるように思われる。

せじ(6)思うに、一度当選すれば、その人が直面する政策課題は、必ずしも選挙で争われたものに限られるわけではない。その際には、選挙の争点となった政 策以外の、さまざまな論点について、その人の判断力、 行動力が問われる。有権者が、人格を判断基準にするのは、合理的である。

せじ(7)従来の日本型の、組織の中での根回しを重視したり、ヒエラルキーに黙々と従ったり、理念よりもしがらみを重視するやり方ではまずいと多くの人が感じている。このところ人気が出ている政治家は、そのような旧弊を打破する人格力を持っているように思われる。

せじ(8)首相についても、もし公選制で選ばれればまったく異なる資質の人が選ばれることになるだろう。調整型、ヒエラルキー重視型の首相が選ばれることは、今日の民意の温度からすると、不調和な印象が否めない。

せじ(9)選挙の争点が、政策ではなく実は人格であり、判断力、行動力の総合的な印象であることは、抑えておくべき重要な点だと思う。そして、政治家の直面する課題があらかじめ予想不可能だということを踏まえれば、そのような有権者の判断基準は、合理的である。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月20日日曜日

勉強ができないということよりも、やる気をなくしてしまうことの方が深刻な問題である

べや(1)ぼくは、たまたま勉強が抜群にできた。小学校2年生のころ、砂場にいて、そうか、ぼくの友だちの中には、勉強が苦手な子がいるんだな、ということに改めて気付いて驚いたことがある。だけど、その頃のぼくは、おそらくはすでに正しい直観を持っていたのだと思う。

べや(2)それは、勉強ができる、というのは、たくさんの個性のうちの一つに過ぎないということ。知らず知らずのうちに勉強ができていたぼくは、それは、 友人たちと行き交う中でのぼくの個性の一つだとしか考えていなかった。まさか、世間がそんなことを重視するとは、思っていなかった。

べや(3)というのも、友だちには、本当に個性のあふれるやつらがいっぱいいたからである。例えば、走ると抜群に速いやつ。自然とリーダーシップをとるや つ。漫画を描くのが、神的にうまいやつ。冗談をいうと、みんな爆笑してしまうやつ。そんな彩りの中で、ぼくらは生きていた。

べや(4)小学校はまだ良かったけれども、中学に入ると、「抑圧の構造」が始まった。成績によって、行く学校が分かれる。それで、個性豊かなぼくの仲間の うち何人かは、ぐれて不良になっていった。いつも外れ者の方になぜか行ってしまうぼくは、それで彼らとかえって以前より仲良くなった。

べや(5)脳の個性というのは本当にあって、たとえば、あんなに天才的な小説を書く夏目漱石が、画家としてはまったく稚拙である。天才哲学者ニーチェは、 作曲家としては凡庸で、ワグナーとの関係に影を落とした。人間の才能というのは不可思議なもので、「万能の天才」は幻想に過ぎぬ。

べや(6)問題なのは、いわゆる「勉強」というのは脳の個性の一つの指標に過ぎないのに、それで「選別」されるという抑圧の構造があること。ぼくは、「Fランク大学」なんて言葉があることを最近知ったが、ずいぶんくだらない言葉を使うやつらがいるもんだと思う。

べや(7)入試が事実上フリーパスの大学に入ったからといって、その人を特徴付けるのは、「学力」ではなくて、全く別のことのはず。「Fランク」とかいっ てばかにするやつらは知的に浅く、想像力もない。逆に、たまたま勉強が苦手だった人が、やる気を失っているとしたら国家的損失だと思う。

べや(8)教育の現場に立つ人たは指摘する。勉強に意欲的に取り組める子は放っていてもいい、問題は「勉強が苦手」だと思っている子たちのこと。誰にだって、得意なことは絶対にある。それをできるだけ早く見つけることが、その人にとっても、社会にとっても最重要課題である。

べや(9)実際の社会に出てみると、彩り豊かな個性に包まれていた子どもの頃にむしろ似ている。サイボーグ009のように異なる能力でのチームワーク。な ぜ、子ども時代から社会への途中に、(一つの指標に過ぎない)学力による選別という抑圧の構造があるのか、理解に苦しむ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月19日土曜日

物理学帝国主義はすっかり過去のものとなったが、理論すら存在しないという現状は、生物学、脳科学など多くの分野で続いている

ぶり(1)国際研究グループ「OPERA」が、ニュートリノが光速よりも速く到達していたという実験について、再実験をしても同じ結果が得られたと発表した。相対性理論が修正を迫られるのかどうか、関心を集めている。

ぶり(2)この点についての、益川敏英さんの反応が面白かった。私がナビゲーターをつとめたTokyo FMの「未来授業」で、聴衆の学生に質問されて、一言「ガセネタです」と言って、会場を沸かせていた。確かに、今回のニュートリノ実験は突拍子もなく、自 然観に整合させるのが難しい。

ぶり(3)相対性理論は、この宇宙の因果関係がどのようなものか、時間や空間の構造がどうなっているかということについての根本的な法則で、現代の物理学 はすべて相対論との関係で緻密につくられている。今回の実験が、その意味で、調子外れであるということは、多くの物理屋が感じるところだろう。

ぶり(4)そもそも、ニュートリノが光速よりも速く動くならば、1987Aのような超新星爆発の際に、光よりも速くニュートリノが地球に到達しているはずで、今回のニュートリノ実験は、この宇宙について私たちが知っている様々な事実と、整合性がとれない。

ぶり(5)もちろん、従来の理論では説明できない新たな観測事実が登場することで、パラダイムが変化するというのがこれまでの物理の歴史だった。従って、今回の実験が、最終的にどのような評価になるかは、今後の検討を待たなければならない。

びり(6)ところで、かつて「物理帝国主義」という言葉があった。化学や生物学などの他の科学の分野は、最終的には物理学に回収されるという考え方である。最近では聞かれなくなったのは、生物学や情報科学など、具体的な現象が面白い分野が増えてきたからだろう。

ぶり(7)ある現象が出た時に、従来の理論が揺るがされるという関係が成立するのは、それだけ理論が緻密にかつ網羅的に作られているからである。それに対 して、生物学や脳科学では、そもそもそんな理論がない。だから、事実だけが積み重ねられて、揺るがされるべき理論がない。

ぶり(8)Natureのエディターをしていたマドックスが、「分子生物学は科学か」という文を発表して論議を呼んだのは、1980年代だったか? 今回のニュートリノ騒動は、物理学が、理論と実験が緻密に絡む分野として、依然として科学の規範であることを示している。

ぶり(9)先日、Society for Neuroscienceに出席して、膨大な量の研究発表を見ている時に感じたのが、まさに「まだ理論がない」「理論すらない」ということ。計測や解析と しての数学はあっても、脳はこう振る舞うはずだと予言する理論は、存在しないのである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月17日木曜日

(恐竜が)自ら恥じて変わることはあまり期待できないから、(ほ乳類が)別の道を探した方がきっと楽しい

みべ(1)Society for Neuroscience meetingの主役は、ポスター発表である。じっくりと議論の時間をとれるので、スライド・プレゼンテーションを避けて、敢えてポスターを選ぶ人が多 い。ぼくと田森佳秀の発表も、ポスター。いろいろ意見が聞けて、有意義だった。

みべ(2)ほっとして、ご飯を食べて、ホテルに帰ってきて、トイレに座ってiPadでWhat would Google do? の続きを読み始めた。ネット上で起業することが本当に少額の投資でできるようになり、ティーンエイジャーの起業が相次いでいるというアメリカの状 況。

みべ(3)起業のコストが極めて低くくなったために、ベンチャーキャピタルの役割が低下しているのだと著者は言う。なるほどなあと思って読み、iPadを閉じ、そうだスタバでラテ買って来よう、と外に出た。

みべ(4)ワシントンの日は、暮れようとしていた。薄暗がりの中を、スタバを通り過ぎて、ホワイトハウスまで行ってしまう。iPhoneのズーム機能に初めて気付いた。ナショナル・モールを通って帰ってくる時に、さっきトイレで読んでいたことについて思い返していた。

みべ(5)社会の中に新しい文明の波に乗れない恐竜がいたとする。恐竜は、日本にも、アメリカにも、どこにもいるだろう。その時、恐竜が、自らの非を恥じて、自己変革をして変身するということが、理想の話としてはともかく、現実に、どの程度期待できるだろうか?

みべ(6)よりあり得るのは、恐竜自らが変革するというよりは、恐竜の足元をうろちょろしているほ乳類が次の文明の担い手になるというシナリオだろう。実 際、ほ乳類が文明に指紋を残すためのコストは、What would Google do?の著者が書いているように、劇的に低くなっている。

みべ(7)恐竜たちに、「君たちはもう古い。考えを改めたまえ。大学入試や、新卒一括採用や、教科書検定や、意味のないことはやめたまえ」とメガホンで 言っても、どうも有効ではないようだ。それよりも、足元をちょこまか動き回るほ乳類になって、勝手にやった方がいいように思われる。

みべ(8)インターネットはもちろんチューリング・マシンの範疇だが、その計算可能な宇宙の中に、無限の可能性がある。一生あれこれと試み、遊んだとしても、尽くせぬくらいやることがあるんだから、恐竜にがなり立てるよりも、どうやらそっちの方が楽しそうだ。

みべ(9)それに、野生では、異種間の動物がとなりどうしで肌近く共存するという現象が案外見られるようだ。動物と動物の、種を超えた生きものとしての連帯。恐竜がドタドタしていて、ほ乳類がちょこまか動き回って、両者が、生きものとして連帯すれば、いい社会ができるさ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月16日水曜日

ものをつくったり、仕事をしたり

もし(1)ワシントンに来て以来、田森とやっている国境紛争の認知神経科学のデータ解析をずっとしていた。ホテルと会場と食事の場所以外、ほとんど何も見ていない。さっき、タクシーに乗っているときにホワイトハウスが見えて、やっと旅をしている気分になった。

もし(2)ずっと作業していると、いろいろなことを思いだす。ひとつのことをまとめるまでの、工数の多さ。書き写したり、チェックしたり、白熱電灯のような時間が続く。そんななかで、振り返ると、いろいろなことを考える。

もし(3)批評や否定自体を批評したり否定する必要はない。参考になるし、創造のきっかけになることもあるからである。特に、あるべき状態と比べての現状へのダメだしは、それ自体に独自の視点が必要なことも多いし、意義のある営みだと思う。

もし(4)しかし、批評や否定は、最終的には創造にはおよばない。創造することが持つ、ひとつひとつの努力が積み上がって有機的な肉体へとへんかしていく、あの充実がない。それは、むしろ、切り刻んだり、つぶしたりすることににている。しかし、そもそも肉体がなければ料理もできないのだ。

もし(5)このところのツイッター空間には、刻んだりつぶしたりする人がどうも目立つようになった。そのことに対する違和感が、ワシントンに来て以来高まって、田森とポスターをつくりながら、「もうおれ、あいつらあきちゃったよ」と思わずもらした。

もし(6)ツイッターを、RTしたり、コメントしたりして、一種の社会運動のメディアとしてつかうという機運は、一時期確かにあった。それが意味のないこととは思わないが、このところのその手のツイートには、すっかりへきえきした思いがある。そこには、創造のための工数の積み重ねがない。

もし(7)ツイッターで、政府やマスメディアのことを批判しているだけでは、世の中はかわりなどしない。オルタナティヴなシステムを組むためには、むしろ潜らなくてはならない。それでたまたま浮上したときには、もうひとつの試みがなかなかうまくいかないことへのため息がある。

もし(8)だから、ツイッター上で、政府の発表はどうだとか、マスコミは偏向しているだとか、日本の国益はこうだとか、そういう言葉の断片をまき散らしている人たちと、私はどうにも違う温度になってしまって、そのような世界を目をぱちくりして見ている以外にないと思う。

もし(9)実直そうな人たちが働いている会社の片隅で、自分たちが過去数日ああでもない、こうでもないとデータ解析を仕上げた研究のポスターが印刷され、ラミネートされるのを待っている白熱電灯のような時間。ツイッターの言葉の断片を競うよりも、こんな井戸のなかに潜っていたいと思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月15日火曜日

新しいことに挑戦すると、それだけ濃密な時間を過ごすことができる

あそ(1)小学校の頃、一学期の真ん中あたりで、ふと気付くと、まだ夏休みまでずいぶんあるんだということがわかって、時間の流れが濃く、そして重く感じられることがあった。ギュウギュウ詰めになっていて、なかなか時間が経っていかない。

あそ(2)一方、大人になると、時間の経つのが早い。これは、多くの人が実感するところだろう。落語家なんかは、「近頃では正月が年に三回も来ますから」などと言って笑いを取っているが、冗談ではなく本当である。

あそ(3)時間が経つのが、どれくらい密度濃く、じりじりと感じられるか。それに影響を与えるパラーメータには諸説あれども、有力なのは、どれくらい自分 にとって新しい刺激があり、新たな課題があるかということだろう。単位時間あたりの新しいものとのふれあいによって、時間知覚が 変わる。

あそ(4)子どもの頃は、目にするもの耳にするもの新しいし、階段を上る度に斬新な世界が開ける。たとえば、初めて文字を書くというのは目眩がするほど新 しいことだし、分数を最初に習うのも、くらくらするほど興奮することである。だから、時間の密度が濃くて、経つのが遅く感じられる。

あそ(5)ところが、大人になると、既存の知識、経験で「使い回し」が出来るようになってくる。次第に「新しい経験」の頻度が小さくなり、なんとなくぼんやり生きていても、事が済むようになる。その結果、時間がだらだらとあっという間に過ぎていってしまう。

あそ(6)極論すれば、回路の損傷によって新たな記憶をつくれなくなった人でも、正常の知能指数を示し、それなりに受け答えができる。学習するのをやめてしまったとしても、人生はだらだらと生きていくことができるのだ。

あそ(7)どうせ一度しかない人生を生きるのならば、密度が濃い方がいい。そのためには、自分の知らないことにどんどん挑戦して、脳が新奇性に直面する頻 度を上げることだろう。小学校の時に、「まだ一学期経っていないのか」と思ったように、無理めのチャレンジを続ければ、時の密度が上がる。

あそ(8)小さなことからでいい。例えば、youtubeで自分の知っている曲ばかり聴くのではなくて、知らないアーティストの曲、未聴のクラシックを体系的に聴いてみる。プログラミングに挑戦する。楽器を弾く。今の自分ができないことに挑戦する時間帯を増やす。

あそ(9)新しいことに挑戦する時には、大人の胸にだってさざ波が立つ。小学生の時の作文には、「希望と不安」という言葉がつきものだったが、新しいもの に向き合うからこそ、「希望と不安」がこみ上げる。日本の国全体としても、だらだら惰性で行くのではなく、思い切ったチャレンジをしなければ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月14日月曜日

人生において一番大切なことは、ピュアな気持ちを保ち続けること

じぴ(1)ワシントンDCを歩きながら、昨日読み終わったSteve Jobsの伝記をあれこれと思いだしていた。やはりぼくにとって一番感動的だったところは、Think DifferentのCMを思い出すと、今でも号泣してしまうと告白する箇所かもしれない。

じぴ(2)Think Differentのコマーシャルが出たとき、ぼくはものすごく感動して、当時はyoutubeなんかなかったから、ネットで検索して動画を探し出して繰 り返しみていた。有楽町のマリオンに大きな広告が出た時も、出かけていってアインシュタインやピカソの写真を撮った。

じぴ(3)ちょうどその頃、研究所に来ていたアメリカ人と話していた。彼がしきりに、Think Differentというのは文法的に間違っている、Think Differentlyだろう、とぶつぶつ言っていたのを思い出す。それを聞いて、そんなことを気にするか、と思った。

じぴ(4)Think Differentが文法的に正しいかどうかは、wikipediaの項目でも議論されていて、誰でもオヤ、と思うところだが、あのコマーシャルを見てま ずそのような反応をする人を、ぼくは基本的に信用しない。そのアメリカ人のことを、ぼくは内心陳腐なやつだと思った。

じぴ(5)生きていると、いろいろと細かいことがたまってくる。ヘタな知識が増えて、処世術も学び、事情通になって、したり顔であれこれと言うようにな る。Think Differentって、文法的にアレらしいぜ。そんな人たちは、Steve Jobsがなぜ号泣するのか、理由を知らない。

じぴ(6)とても純粋で、エネルギーに満ちていて、ストレートなメッセージを持っている芸術、作品。そのようなものに接した時に、素直に感動せずに、あれ これと些事ばかりゴシップする人たちがいる。そのような人たちと接すると、基本的に世界が違うのだと私はとっとと通り過ぎる。

じぴ(7)私の友人の選び方は、結局、どれくらい純粋なものに殉じて生きているか、ということかもしれない。生きているうちに智恵がついたり複雑になった りするのは当たり前で、そんなことをしたり顔に言われても仕方がない。年齢を重ねる毎に、むしろピュアになっていく人に惹き付けられる。

じぴ(8)たとえば新卒一括採用にしても、人事にこんなメリットがあるとか、君は世間を知らないとか、したり顔で言う人をぼくは全く信用しない。そんな不当な差別は維持不可能だという原則に純粋に寄り添うことを知らない人は、人類の未来の文明と無関係なのだろう。

じぴ(9)そういえば、ジョブズの伝記のひどい書評をどこかで読んだけど、すでに知っていることだとか、皮肉のスタンスでどうでもいいことを書き散らす暇があったら、Think DifferentのCMを見て号泣する、その純粋さをこそ持つべきなのではないだろうか。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月13日日曜日

否定することは簡単だけど、創造する方が難しくて楽しいね

ひそ(1)JALだと思って楽しみにしていたのに、よく見たらAmerican Airlinesの共同運航便だった。日本テレビからのタクシーの運転手さんが、「ターミナル2というのはおかしいな」と言っていたら、本当に違っていた。

ひそ(2)乗った時から、徐々にアメリカが始まっている。最初からヘッドフォンを置いておけばいいのに、持ってくることになっていて、しかもなかなか持ってこない。隣りの大きなおじさんも、映画やビデオをあれこれと眺めながら、音がなくて呆然としている。

ひそ(3)大味のアメリカ式サービス。以前、「今度は赤ワインをください」と言ったら、それまで飲んでいた白ワインのグラスに注がれて(しかもまだ残っていたのだ!)びっくりしたことがある。それでも、アメリカに近づくにつれて、細かいことはどうでもよくなっていく。

ひそ(4)国民性にはもちろんトレードオフがあって、日本の良いところは細かいところに心遣いできること。一方、アメリカはおおざっぱだが、大胆なイノ ベーションは起こしやすい。飛行機の中でiPadで読み継いだSteve Jobsの伝記は、まさにそんな世界の話であった。

ひそ(5)国民性の比較という意味においては、興味深い一節があった。JobsがObama大統領に会って、アメリカの教育システムがいかに遅れているかを力説する。政府の規制がいかにビジネスをやりにくくしているかも熱心に説いていて、どこかの国のことかと思った。

ひそ(6)Jobs氏のObama大統領への苦言は、二つの点で面白かった。一つは、どの国でも、内部にいればいろいろ文句があるということ。日本から見るとアメリカはついつい自由の国に見えるけれども、中にいれば、いろいろなあら探しができるのであろう。

ひそ(7)もう一つは、もし、Jobs氏が文句ばかり言って自分では何もつくらない人だったら、全くインパクトを与えなかっただろうということ。批評にはそれなりの見識が表れるが、創造には身体を張る勇気がいる。社会が批評家ばかりになってしまっては、物事は進まない。

ひそ(8)ダラスの空港に降りて、コリドーを歩く。日本人は、良かれ悪しかれアメリカのことを気にしがちだが、アメリカに来ると、市民レベルで日本のことなどほとんど考えていないことが伝わってくる。だったら、もう少し気楽に、積極的にやっていいんじゃないかな。

ひそ(9)日本の社会の中に満ちている、揚げ足取り、あら探しの空気に飽き飽きしていたのかもしれない。内田樹さん(@levinassien)の言うように、呪いの言葉は知的負荷が低い。どんなにショボイものでもいいから、自分で作ってあら探しされる側に回った方が楽しいよね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月12日土曜日

「最大の欠点の近くに、最大の長所がある」ということの連続ツイート

ささ(1)自分の欠点を隠そうとすればするほど、ぎこちなくなり、他人とのコミュニケーションがうまく行かなくなる。たとえば、ガンコな人が、「いや、オ レはガンコじゃない、オレはガンコじゃないよ、それは、お前たちの勘違いだ」とガンと認めないと、話し合いがもうそこから進まない。

ささ(2)同じガンコでも、「悪いなあ、自分でもわかってはいるんだ。こう、と決めると、どうしても思い込みが強くてダメなんだよ。お前たちにも迷惑をか けているかもしれないけど、勘弁してくれよな」と言ってくれれば、周囲もほっとするし、コミュニケーションもうまく進む。

ささ(3)自分の欠点、足りないところがあったら、それを隠すのではなく、むしろ積極的に認めてしまう。ユーモアのセンスを持って、自分を客観的に見る(メタ認知する)。そのような人は、魅力的だし、人を惹き付ける。自分自身も、成長することができる。

ささ(4)わかりやすい喩えで言えば、カツラの人がいるとする。カツラをかぶっていることを隠していると、まわりは気が気じゃない。ちょと、ずれているん じゃないかな、今日は風が強いけど、だいじょうぶかな。台風中継なんてやって大丈夫かなと、見ていてはらはらしてしまう。

ささ(5)それが、こんな人がいたらどうだろう。夏の暑い日、喫茶店に入ってくるなりカツラをかばっととって、おしぼりで拭き、「いやあ、夏は蒸れてこま るよ。うちわない? (扇ぐ)あーすっきりした。」(カツラをのせて)「よっ。どう? ちゃんとのってる? それで、先日の件だけどさ。。」

ささ(6)そんな人がいたら、「ああ、この人は自分を捨てている。人間ができている、楽しい人だ、話してみたい」と思うでしょ。まあ、そんなんだったら、最初からカツラしなくてもいいんじゃないかという話もありますけれども。

ささ(7)カツラはさておき、脳の個性というのは面白いもので、回路のできかたにメリハリがある。自分の最大の欠点の近くに、自分の最大の長所があると考えてよい。だからこそ、自分の長所を活かすためにも、自分の欠点を自ら認める必要があるのです。

ささ(8)ぼくは、さっきから見ていれば判るように、落ち着きがない。ぜんぜんじっとしていない。でも、この欠点の裏返しとして、ぼくは異なる種類の仕事 を同時にできる。ぱっと瞬間的に切り替えて、集中してしまう。若い時は落ち着きのないやつだ、紳士になれないとさんざんバカにされましたが。

ささ(9)自分の欠点を見つめることができる人は、他人の欠点に対しても寛容です。包容力がある。一方、自分の欠点を認めない、隠そうとする人は、他人を攻撃する傾向がある。自分の欠点をユーモアを持って語れるような、そんな人になりたいものです。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月11日金曜日

「将棋と囲碁は異なる能力を試されるゲームだから、両方やるのがええ」についての連続ツイート

しり(1)「趣味は何ですか?」と聞かれて、答えに窮する。エッセイを書いたり、講演をしたりといった仕事の側面を考えると、すべて反映されるから、純然たる趣味というのはほとんどない。敢えて言えば、すべて仕事。しかし、ほとんど「趣味」と言って良いものがあることに気付いた。

しり(2)それは、将棋や囲碁。子どもの頃からやっているが、マジメに習ったり鍛錬したこともなく、そこそこできる程度。将棋や囲碁に絡んで、何か仕事をするということもほとんどないから、私の数少ない「純然たる趣味」と言ってよいだろう。

しり(3)時間がないのであまりやっていなかったが、このところソフトが良くなったので、iPhoneに入れて、よくトイレでやっている。最初は将棋を熱心にやり始めて、最近は囲碁に凝っている。トイレに座るたびに、「さて続き」と先を打ち出す。

しり(4)将棋も囲碁もよく出来ていて、奥深いゲームだが、両者には違いがある。将棋は、王将をめぐる、緊密な攻防戦。相手と、がっぷりよつに組んで接近している感覚があり、あまり猶予というものがない。序盤のかたちを作るところを除いて、つねに緊迫感がある。

しり(5)将棋に比べて、囲碁は、路面が広いので、あちらの失敗もこちらで挽回できる、というある程度の余裕がある。特に、序盤の布石の場面においては、ある程度のびのびと遊べるという側面がある。その点、囲碁の方が大らかなのかもしれない。

しり(6)囲碁が将棋に接近するのは、大きな石の生き死にがかかわる局面だろう。一着一着に、緊迫感がある。目をつぶしたり、コウに持ち込んだり、あるいはセキになるかどうか、勝敗を左右する分岐点だけに、相手とがっぷりよつに組んだ、将棋的な格闘技性が生まれる。

しり(7)白洲信哉(@ssbasara)はのんだくれているだけでなく、意外な特技をたくさん持っているが、将棋もその一つ。子どもの頃から、中原名人だったか誰かに指してもらって、一時期は奨励会入りも考えたという。こんど指してみたいと思うが、負けるとくやしいようにも思う。

しり(8)将棋や囲碁ができます、という人に会うと、何だか得をした気分になる。実際にはやらないにしても、いつか対局をすることがあるかもしれない、と思うからだ。昨日も、池坊雅史さんが囲碁をすると聞いて、「しめたっ」と思った。

しり(9)王将を巡る緊迫した攻防の将棋。一手でも先に。特に布石において、広々とした空間の中の多数の選択肢の中から、一つを選ぶ「目配りと決断」の囲碁。空間認識と構想力。二つの性格の異なるゲームが日本の文化の中に脈々と受け継がれていることを、誇りに思っていい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月10日木曜日

「大切なことを決めるときは、歩き回るといい」についての連続ツイート

たあ(1)Steve Jobsの伝記をiPadで読んでいるが、とても面白い(ただ今68%)。いろいろ記憶に残る点があるが、ここまで、もっとも印象深かったことの一つが、ジョブズ氏が重要な選択をする時に、やたらと歩き回ることである。

たあ(2)企業を買収するかどうか、CEOをどうするか、Appleを追い出されたあと、何をするか。人生や企業の曲がり角に来たときに、ジョブズは周囲を何時間も歩いて、考え事にふけるのである。

たあ(3)自分自身で迷って、どうするかと模索するときだけではない。たとえば、買収交渉の相手や、CEOの候補や、重要な意思決定の節目において、ジョブズは相手を散歩に誘う。そして、郊外の山などを歩きながら、じっくりと話し合って、心を決めていくのである。

たあ(4)それは、想像してみると、不思議で素敵な光景である。何千億円というような意味を持つ重大な決定を、ジョブズが一人で、あるいは交渉相手と二人 で、歩き回りながら決める。スタンフォード大学の裏で待ち合わせて、郊外の山へと登っていく。些事のようでいて、大切な叡智。

たあ(5)人は、何か重大な決定をしようとする時に、どうしても資料に頼ったり、ネットワークにつながっていようとする。でも、本当に大切なことは、自分 の心の中で起こっている。あるいは、相手の心との響き合いのうちに。一緒に歩くことで、その響き合いの中に耳を傾けることができる。

たあ(6)「歩行禅」という言葉があるように、歩いている時に、人の心は空っぽになる。心を惑わす小さなことは消えていって、本質的なポイントだけが見えてくる。ジョブズが歩きながら分かれ道を選んでいた、その数時間はその人生のクライマックスだろう。

たあ(7)「魂の探究」(soul searching)という言葉がある。自分は、そもそも何を夢見て、こんなことをやっているのか。これからやるべきことは何か。そんな探究の舞台が、ジョブズ氏にとっては「散歩」の時間だったのだろう。

たあ(8)政権も、国会も、重大な「決断の時」を迎えている。密室で、こそこそ話し合っていないで、本当は散歩でもしながら魂の底を探った方が、良質な意思決定ができると思うのだが、残念ながら心地よい道がないし、警備の問題もある。日本の政治家は可哀想だね。

たあ(9)人柄というものは、ほんとうに小さなことに表れるのだと思う。重要な決定をする時に、立派な建物の中の机にそれらしく座るのではなく、郊外の気持ちのよい空気の中を散歩することを選ぶという点に、スティーヴ・ジョブズという人の本質が示されていると私は思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月9日水曜日

「閉じるよりも開いた方がいいに決まっているが、覚悟がなければ出ていくことなどできない」ことについての連続ツイート

とか(1)TPPに関する議論で、「反対」している人の論には実は余り見るべきものがない。陰謀史観に近いものや、日本人の潜在能力を自分たちで過小評価 している人たちが多い。ツイッターでの意見表明でも、あまりものを考えずに短絡的に反応している人が多く、知的興奮がない。

とか(2)国を閉じるよりも開いた方がいいに決まっている。問題は、その時のスタンス。TPPの本質は、農業だけでなく、あらゆる分野が国際競争にさらさ れるということ。昨日ある方と話していたら、みなさんあまりおっしゃらないけど、土木分野にも入ってくると教えてくださった。

とか(3)TPP単純反対派の論が聞くに値しないのは、日本人を、一方的に「入って来られて」、「搾取される」側であるかのように描くからだろう。入って来るんだったら、同じように出ていけば良い。ところが、そのような議論をしている例が、ほとんど見あたらない。

とか(4)医療や、保険、その他のサービスの分野に外国勢が入ってくるというけれども、同じように自分たちも外国市場に出ていけばいいだけのことではない か。TPP、入るのと出るのが拮抗してちょうどバランスがとれる。反対派は、外に出るという発想がほとんどないように見える。

とか(5)ぼくが気の毒だと思うのは、農業の方で、土地に縛られるし、自然の生産力には限界があるから、外国産の農作物と単純競争させられたら、負けるかもしれない。その時に生産性を上げる道筋は、確かに一筋縄ではいかない。

とか(6)しかし、農業でさえ、付加価値を上げて対抗する道がないわけではない。「入ってくるのと出ていくことのバランス」という意味で言うと、入ってこられるだけ出ていく工夫をしなければならない。それが農業にだけ可視的に強制されてしまうのが、お気の毒だと思う。

とか(7)日本の生産性問題の本質は、ホワイトカラーにあると思っている。土地や自然の制約のある農業に比べて、サービスや情報などのホワイトカラーの生産性は、工夫すれば自分たちで勝手に上げられる。それをさぼっているんだから、こっちは入ってこられて当然である。

とか(8)膨大な書類のムダ仕事を自ら作って消費している役所や、国際化に適応できない大学や、ネット時代にそぐわないコンテンツ産業こそ、TPPの荒波にさらされて淘汰、進化すればいい。そうでないと、日本は救われない。

とか(9)TPP単純反対派の最大の愚鈍は、アメリカの戦略にやられるとばかり言い立てていることだろう。向こうに戦略があるならば、こっちにもある。入ってこられるだけ、出ていけばいい。そんなヴィジョンがないほど、日本のホワイトカラーは井の中の蛙で劣化している。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月8日火曜日

「遠くまで相互影響の関係性が及ぶ現代、予想ができない事態を避けることなどできない」ことについての連続ツイート

とよ(1)日本が不適応を起こしている「偶有性」という文明の新しい波。なぜ、そのようなことが起こってしまっているかということについては、数理的な必然性がある。

とよ(2)現代の世界は、グローバル化によって、遠くまでつながってしまっている。「6人の知り合い」を辿っていけば世界の誰にでも到達できるという「スモール・ワールド・ネットワーク」。予想がしやすいローカルなネットワークだけでなく、長距離結合が重要な意味を持つ。

とよ(3)自分の近くの世界は、ある程度予想できる。しかし、結合を辿ってようやく到達する、遠くで起こっているプロセスは、簡単には予想できない。そして、その予想できない出来事が、まわりまわってローカルなプロセスにも影響を与える。これが、グローバル化時代の特徴である。

とよ(4)たとえば、ギリシャの経済危機は、経済規模からいって以前ならば日本経済に影響を与えるものではなかった。ところが、ギリシャがユーロ圏にとりこまれ、円、ユーロ、ドルの間の相互関係が密になっている時代ゆえに、私たちにも思わぬ影響を与える。偶有性が避けられない。

とよ(5)自分たちの回りだけちゃんとやっていれば予想可能な未来が開けるような時代ではない。ギリシャの経済の行く末は、変数的に私たちにはコントロール不能。それが、回り回って「今、ここ」のローカルに影響を与えることを前提に、世界観を組み立て、生きていかねばならぬ。

とよ(6)お役所の書類主義にせよ、大学入試にせよ、新卒一括採用にせよ、日本の従来の文法の中で「ここだけはきちんとやる」という美徳が、現代の世界の中で全く意味を持たなくなって来ているのは、以上のような相互結合関係のグローバルな展開に起因する、原理的なものである。

とよ(7)偶有性は避けられないものとして、その中に飛び込むしかない。ゲーテのファウストで、人工人間ホムンクルスが、それを閉じ込めていたガラス瓶が割れて海の中に投げ出されるように、日本人もまた、自分たちを閉じ込めているガラス瓶の外に出なければ、現代の空気を生きられぬ。

とよ(8)偶有性という視点から見ると、いろいろなことがナンセンス。例えば、教科書検定問題。歴史についての勉強など、ネット上でいくらでもできる。一字一句までこだわって「標準」をコントロールしようとすることなど、偶有性の時代においては、「超」のつく愚行である。

とよ(9)教科書が電子化され、ネットにつながった瞬間、「検定」という概念が意味を持たなくなるのは、最低の論理的思考で明らかだろう。大学入試にせよ、新卒一括採用にせよ、教科書検定と同じく日本人を閉じ込める「ガラス瓶」に過ぎない。そんなものはとっとと割ってしまうに限る。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月7日月曜日

「日本が偶有性の新文明へ適応できない限り、没落が続くことは避けられない」ことについての連続ツイート

にぼ(1)人類の文明を今、変化させしめているのは「グローバリズム」と「インターネット」の二つの波である。両者に共通しているのは、「偶有性」。ローカルな結合だけでなく、長距離結合もあるネットワークの中で、容易に予測できない事態が頻発している。

にぼ(2)日本の変調は、偶有性への不適応である。日本は今や偶有性の新文明における「後進国」。よほどの覚悟を持って自分たちを見つめ、マインドセットを書き直さない限り、再浮上は覚束ない。没落は必定である。

にぼ(3)大学入試における「厳格なペーパーテスト」が「公正」だと思っている時点で、偶有性に不適応。人間の生育プロセス、能力は多様。それを、総合的 に判定して構成員を決定するアルゴリズムが、偶有性の新文明においては適応的。日本の大学入試は、もはや100年くらい古い。

にぼ(4)「記者クラブ」を維持する一つの理論付けは、「フリーランス」の記者にはさまざまな資質のものがいて、大マスコミほどの「クオリティ・コント ロール」ができないというものだろう。偶有性への不適応。さまざまな資質の人がいて、それでいい。石もあれば、玉もある。それが現実。

にぼ(5)日本の地上波テレビがネットに進出できないのも、「著作権」とか、「スポンサー」との関係を、従来通り杓子定規にとらえているから。これも、偶有性への不適応。形式的に齟齬を来すことを恐れるあまり、実質的な利益をとらえることができないでいる。

にぼ(6)役所の異常なまでの書類主義も、偶有性への不適応。ローカルな形式的齟齬を恐れるあまり、全体の最適化、効率化を図ることができないでいる。その結果、行政組織は愚鈍のかたまりになって、無駄な仕事で忙しがる、不思議なカフカ的世界が現出している。

にぼ(7)大学で教えている体系が完全に陳腐化しているため、ネットの偶有性に適応できる人材が枯渇している。そのため、単なるブツではなく、ウェブと連 動した「ものづくり2.0」で活躍する人材が枯渇。iPhoneのような画期的な商品が、日本から出なくなってしまった。

にぼ(8)日本の現在の変調は、以上に例を挙げたような、日本の従来の文明のあり方の「グローバル化」「インターネット」という偶有性の新文法への不適応 という一般現象として説明できるものであり、それだけ根が深い。このまま没落が長期化する可能性も、あながち否定できない。

にぼ(9)ウェブとの連動を考えずに済む「ものづくり」中心の時代には適応的だった国民性が、偶有性の新文明においては陳腐化し、むしろ邪魔になる。日本 の危機の本質はここにある。新卒一括採用や、不動産賃貸における「連帯保証人」など、偶有性への不適法症候群が、日本を後進国へと貶めた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月6日日曜日

「どうせ国が沈んでいくんだったら、明るく勝手にやろうぜという若者が指数関数的に増えていく」ことについての連続ツイート

どあ(1)ふりかえってみると、私はこの二年くらい? ずっと日本の課題を論じてきたように思う。グローバル化とインターネットという文明の二大潮流に適 応できないこと。それが、このところ、少し気分が変わってきた。もうどうせダメなんだったら、手を動かそうという気分に。

どあ(2)インターネット、グローバル化が何を意味するかと言えば、個人でもできることがたくさんあるということである。たとえば、一人ひとりがメディア・カンパニーになる。どんな情報を拾って、考え、発信するか。それで、ささやかだけど、世の中に波が広がっていく。

どあ(3)大学、官公庁、メディア。日本の中に、ダメなものはたくさんあって、おそらく今後も劇的な改善は期待できないけれど、よく考えたら、そういう恐竜たちの足元で、自分はちいさなほ乳類としてちょこまか動き回れる。やれることなんて、いくらでもあるんだってば。

どあ(4)昨日、浅草演芸ホールの会長さんのお話をうかがっていて、それはアルクの藤多さんがアレンジしてくださった機会だったけど、そうか、オレは、勝 手にジャーナリストだってできるんだ、と改めて思った。既成のメディアが拾わないネタだって、自分でいくらでも書けるじゃん。

どあ(5)大学のカリキュラムははっきり言って終わっているけど(入試問題はもちろミイラ化)、それに文句言ってなくて、勝手に自分たちでつくればいい じゃん。今の世界を生きるために必要な教養の体系を、勝手につくって発表していけばいいんだ。そしたら、大学がコピーするさあ。

どあ(6)これからの日本は、だんだん売るものがなくなって、エネルギーの調達コストも上がるし、いい大学−>いい企業という「エスタブリッシュメント」 のパイも減ってくる。どうせダメなんだったら、「クラブに入れてくれ」と言っていないで、無視して勝手にやればいいさあ。

どあ(7)昨日都築響一さんも言ってたけど、「クラブ」への入会の試験のやり方が悪いとか、クラブの運営規則がよくないとか言っていないで、そもそもクラブそのものを無視しちゃえばいい。ネット×グローバル化で、やれること、やるべきことはいくらでもあるんだよね。

どあ(8)どうせ国が沈むんだったら、むしろ底抜けに明るくやってしまえばいい、これが私の結論。エスタブリッシュメントには、もう何も期待しません。勝手に恐竜やっていてください。就活もしません。自分たちでやります。そんな若者が、徐々に増えてきているように思う。

どあ(9)だからね、日本の未来は、ものすごく明るい。大学入試も、就活も、メディアの体たらくも、行政の相変わらずの非効率も、一切無視して勝手にやる 若者が、これから指数関数的に増えてくる。彼らが日本を救う。そしたら、恐竜さんたちにも、少しは心地の良いねぐらを提供できるでしょう!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月5日土曜日

「噴火はなるべくしないほうがいいけど、義憤の場合は仕方がないわね」の連続ツイート

ふぎ(1)昨日、Tokyo Designers Weekでセッションがあって、やるのはやめよう、と思っていたんだけど、やっぱり噴火してしまった。しょうがないよね。いろいろ前提になっていることが受け入れられないから、どぱーっとやっちまう。 http://bit.ly/tr115t

ふぎ(2)だけど、ぼくは、絶対に私憤では噴火しないようにしている。どんなにバカにされても、アホだとか間抜けだと言われても、ああそうですかと笑っている。ぼくが噴火するのは、義憤だけ。かっこつけているようだけど、実際にそうなのです。

ふぎ(3)義憤とは何か。世の中はこうあるべきなのに、その方がもっと自由になれるし、楽しいのに、そうなっていない。そういう時にばーっと噴火する。仕方がないよね。だって、せっかく生きているのに、もったいないんだもん。

ふぎ(4)梅田望夫さんに聞いた話。アメリカでのインターネットのメンターだった人が、ある時、ソフトを買ったらフロッピーディスクに入って来たので、目 の前でその包装や箱をずたずたに切り刻んだ。「こんなのは意味がない。意味があるのはこのフロッピーの中の情報だけだ。」

ふぎ(5)当時は、まだインターネットがそれほど普及していなかったから、ソフトウェアをダウンロードして買うという習慣もなかったけど、その人は大げさにフロッピーが包装されて送られてくることに耐えられなかった。そういう「噴火」は、意味のある噴火だと思う。

ふぎ(6)ぼくには、新卒一括採用が耐えられない。世の中はそんなもんだよ、としたり顔に言うバカがいるが、本当に狂っていると思う。なんの正義も、合理 性もない。くるくるパーだ。みんなもっと自由に、創造的になれるのに、バカどもが下らない人工的な制度を押しつけて、みんなを不幸にしている。

ふぎ(7)テレビ番組をとっととネットで配信しないことも、意味がわからない。BBCのように、全部iPlayerで配信したらいいと思う。著作権がどうのこうの、と言い訳するやつらの意味がわからない。実際にBBCがiやっているのに、なぜできないんだ!?

ふぎ(8)外国人や、フリーランスの方に部屋を貸す時に、「連帯保証人」をつけろとかいうやつらも、全く意味がわからない。大家が家賃をとりっぱぐれるか ら、とかΩ理屈をしたり顔で言うやつがいるが、そのことで、日本の社会や経済がいかに流動性を失っているか、それが見えない愚鈍が信じられぬ。

ふぎ(9)というわけで、ちょっと3ツイートくらい義憤でフォースが乱れましたが、日本をもっと良くしたい、という熱情なので、ご容赦。怒りを感じないや つは、オレは信用しない。このままではこの国は沈むからね。沈むのに、まあ、そう怒らないで、とか言っている人は、ぼくの友達ではありません。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月4日金曜日

「英語ができないのは、日本人の心性に深く根ざしていて仕方がない。日本代表たちが、自分で勝手に英語で表現すればいい」ことについての連続ツイート

えに(1)新幹線の中で、内田樹さん(@levinassien)が今度新潮社から出される『呪いの時代』のゲラをiPadで拝読した。本当に面白かった。主要なテーマの「呪い」的言説についての論考は深く刺さるのだけれども、 日本人の英語についての考察も、肯けるものだった。

えに(2)日本人が英語をやらないのは、能力的にどうのというよりも、心理的、歴史的要因があるのだという。おそらくそうなのだろうと私も思う。というのも、私たちは、もしそのことが本当に必要だと思ったら、勝手に工夫してやる民族だからである。

えに(3)「大学入試」に受かるかどうかが、人生の幸せに重大な意味があると「思い込む」と、文科省がどんなカリキュラムを組もうが、学校がゆとり教育を しようが、関係なく勝手に塾に行かせ、家庭教師をつける。「受験戦争」は文科省が指導したものではなく、人々の自発的活動の結果である。

えに(4)英語ができないのは文科省のせいではない。もし、英語を学び、英語で自分を表現することが人生の幸福に重大な意味を持つ、と日本人が本気で信じ たら、学校の英語教育がなんであれ、勝手に必死にやるだろう。やっていないということは、(これまでは)必要なかったということだ。

えに(5)内田樹さんも書かれていることだが、そもそも日本人は英語がペラペラな人を信用しないところがある。講演会とかで、私はときどきふざけて英語で 即興のスピーチをひとしきりやって、「ほら、こういう人って、信用できない気がするでしょ」と言うと、会場が爆笑する。深層心理の英語嫌い。

えに(6)本居宣長が、「いろはにほへと」以外の音は排除したのだ、とうう意味のことを書いているけれども、あれほど影響を受けた中国語の発音もほとんど 入らず、「日本語化」された。英語の発音やイントネーションも、それをやると日本人ではなくなるような気がするのかもしれない。

えに(7)私自身は、英語で自分を表現するしかないと思っていて、来年3月のLong BeachのTEDも、参加者の中から公募できる枠を申し込んだ。前回落ちているし、なんとTEDx Tokyoやっているパトリックも二回連続で落ちているというから狭き門だが、とにかく挑戦し続ける。

えに(8)日本の中に、英語で自分たちのことを発信する人たちが出てきた方が、この国は救われると私は考えている。それがグローバル化の中、経済がソフト 化する状況の中で一つの必然だと思う。一方、日本の「本体」が英語嫌いのままでも、それはそれでいいんじゃないかと思う。

えに(9)自分たちの言葉ですべての学問ができるようにした、というのは日本の偉大な達成である。翻訳文化も、その一つの顕れ。本体はそれでもいいけど、 英語で表現する人たちが出てくるためには、ある程度すそ野を作っておかなければならない。それは有志で勝手にやればいいかな。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月2日水曜日

「そもそもなんでそうなっているの、という疑問に、情報関連技術が具体的なソリューションを与えてくれる時代」の連続ツイート

そじ(1)どうも、ぼくは子どものころから世の中の秩序や制度をそのまま受け入れることができなくて、「どうしてそうなっているの?」と疑問を呈するタイプだったように思う。小学校のときに、アライテツヤに砂場に呼び出された時もそうだった。

そじ(2)アライテツヤは、「けんちゃん、中学に行くと勉強たいへんだぞ。クラスで一番だと○○高校、学年で一番だと○○高校に行けるけど、けんちゃんは どうかな。」未だに、アライテツヤがなぜ砂場に呼び出す気になったのか、わからないが、その時、とても不思議な気持ちがした。

そじ(3)そもそも、なぜ成績によって、違う学校に行かなければならないのか、それがわからなかった。だって、みんなで一緒に勉強すればいいじゃん、と 思った。ぼくは、結局三年間学年トップで、東京学芸大学附属高校に行ったけど(自慢しているわけじゃないよ!)その時の疑問が 鮮烈に残る。

そじ(4)中学の時、Sがぐれて、体育館の裏で煙草を吸って、紙くずや枯れ草に火をつけていた。焦がす程度だったけど。きっと、イライラしていたんだろうなあ。そのSが、卒業してしばらく経って、消防士になったと 聞いて、首尾一貫したやつだなあ、と思った。

そじ(5)Sがイライラしていた理由はわかる。勉強があまり得意じゃなかったから、自分の将来に不安を感じていたんだろう。ぼくは、その時も、自分がいわ ゆる進学校に行って、Sと離れることに、素朴な疑問を持っていた。なんで、そうやって「選別」しなくちゃいけないんだよ、と思っていた。

そじ(6)学者がテレビに出るなとか、いろいろ言う人がいるけど、ぼくがどんな現場でもその文脈の中で全力を尽くすのは、あの頃の原体験があるような気がしてならない。人々が世界の中でばらばらになっていく、その感覚が耐えられないのだろう。

そじ(7)そもそも、大学になぜ入試があるのか、どうして、学歴で人を判断する人がいるのか、いろいろ、根源的な問題意識と文句を抱いていた子どもから青 年時代の私だったが、この頃ふと気付いてみると、なんのことはない、ITが「もう一つの」ソリューションを提供している。

そじ(8)「有名大学」が入試とやらで入れてくれないんだったら、ネットで勝手に勉強すればいい。Sとばらばらになるんだったら、ネットでつながればい い。物理的な制約のある大学と違って、ネット大学に定員なんかない。「そもそもなんで?」という疑問に、テクノロジーで解が与えられる。

そじ(9)だから、ぼくは、近頃とても楽観的になっている。メディアや就職や教育の「そもそもなんで?」という不条理に、テクノロジーが解を与えてくれると思っているから。少なくとも努力はできる。ダメなものをダメと言っているより、少しでも建設する方が、きっと楽しい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月1日火曜日

「壁はとっくにもうなくなっているのに、壁があるとまだ思い込んでいるぼくたち」についての連続ツイート

かか(1)僕が小学校の頃、大人たちは、「大学に行く」ということが、すなわち「学問をすること」だとよく言っていた。だから、ぼくも、なんとはなしに、学問をするためには、大学に行かなければならないのだと思っていた。

かか(2)僕が小学校の頃、「本を書く」人は、すごく偉いのだと思っていた。「本を書く」ということと、「本を書かない」ということの間には、大きな壁があるのだと思っていた。その「壁」の向こうにいつか行くことがあるとは、思っていなかった。

かか(3)気が付いてみると、ぼくたちは、壁が消えた世界の中に生きている。勉強をしようと思ったら、とくに自然科学系は、膨大な情報がネットの上に存在している。大学図書館に行く必要などない。ワンクリックで、最先端の論文が、無料で読める。そんな時代になった。

かか(4)スティーヴ・ジョブズの伝記で印象的な一節は、彼がリード・カレッジを中退したあとも、別に大学にかかわらなかったわけではなくて、スタンフォード大学の授業にもぐっていたことである。現代は一歩進んで、大学の授業に、ネットでもぐることができる。

かか(5)僕が、今の時代に小学生だったらと、想像してみる。好奇心にかられて、おっちょこちょいの僕は、きっと、「チャレンジ」などと叫びながら、 MITとかハーバードの授業にネットで潜り込んでいるんじゃないかな。その時に、「大学に行け」と大人が言ったら、どんなことを考えるだろう。

かか(6)表現する方だってそうだ。商業出版したからと言って、多くの人に読まれたり、10年後に残っているとは限らない。むしろ、ある日突然、オスカー ワイルドのDe Profundisのような文章をネット上に公開してしまって、それが静かで深い波紋を呼んでいく。そんなことを想像する。

かか(7)学ぶ方だって、表現する方だって、本当は壁などもうないのだ。それでもなお、壁があると思っている人たちがいる。壁があると思わせたい人たちがいる。壁があると思わせていた方が、儲かったり、自分たちに都合がいい、という人たちがいる。

かか(8)「壁」の幻想は、この後も存在し続けるだろう。でも、本当は「壁」などない。壁を乗りこえてメンバーの限られたクラブに入ろうと画策する人より も、壁がないことに気付いて、ただ単に実質にだけ、 全身全霊を注ぐ人が輝く、そんなフェアな時代が「今、ここ」にある。

かか(9)僕が今小学生だったら、そんな時代の空気を吸って、酔っぱらったようにウェブの上をさ迷っているんじゃないかな。「壁」のなくなった、広大な世 界の中で。そして、そんな「壁なしネイティヴ」たちが、これからの時代を明るくしてくれるとぼくは信じるし、一緒にさ迷いたい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。