2011年11月21日月曜日

政策よりも、人格の方が、選挙における判断基準であること

せじ(1)大阪市長、大阪府知事選挙の選挙戦が熱い。「大阪都」構想を掲げる橋下徹氏の「維新の会」が果たして民意を得るのか。その行く末はまだわからないとしても、興味深い現象があるように思う。

せじ(2)それは、具体的な政策の是非よりも、その人の人格、資質を有権者が判断の基準にしているということ。これは、このところの選挙の一つの傾向であり、政治について考える際に、無視することのできないファクターだと私は思う。

せじ(3)たとえば、東京都知事の石原慎太郎氏。外国人や女性に対する発言など、その政治的思想には必ずしも賛成しない人も多いが、なぜ再選されるのかと言えば、氏の物怖じしない、決然とした態度に惹き付けられる有権者が多いからだろう。

せじ(4)橋下徹氏も、大阪都構想はもちろん、その教育関係の政策についても必ずしも民意が集まっているとは言えないが、アジェンダを設定し、精力的にその実現を目指していくその姿勢には、共感する人が多いように思う。

せじ(5)国政で言えば、小泉進次郎氏。TPPの是非はともかく、自分の信念を、党の政治やヒエラルキーとは無関係に強く主張する態度には、注目すべき点が大いにあるように思われる。

せじ(6)思うに、一度当選すれば、その人が直面する政策課題は、必ずしも選挙で争われたものに限られるわけではない。その際には、選挙の争点となった政 策以外の、さまざまな論点について、その人の判断力、 行動力が問われる。有権者が、人格を判断基準にするのは、合理的である。

せじ(7)従来の日本型の、組織の中での根回しを重視したり、ヒエラルキーに黙々と従ったり、理念よりもしがらみを重視するやり方ではまずいと多くの人が感じている。このところ人気が出ている政治家は、そのような旧弊を打破する人格力を持っているように思われる。

せじ(8)首相についても、もし公選制で選ばれればまったく異なる資質の人が選ばれることになるだろう。調整型、ヒエラルキー重視型の首相が選ばれることは、今日の民意の温度からすると、不調和な印象が否めない。

せじ(9)選挙の争点が、政策ではなく実は人格であり、判断力、行動力の総合的な印象であることは、抑えておくべき重要な点だと思う。そして、政治家の直面する課題があらかじめ予想不可能だということを踏まえれば、そのような有権者の判断基準は、合理的である。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。