2011年11月28日月曜日

ねじれにはそれなりの効用もあるが、改革や行動には脱ねじれが必要である

ねか(1)大阪府知事、大阪市長のダブル選挙で、それぞれ大阪維新の会の松井一郎氏、橋下徹氏が当選した。このことについて、大阪都構想や教育基本条例などの具体的な政策の是非から離れて、思うことがある。

ねか(2)それは、政治における「ねじれ」の意味である。周知のように、国政はここしばらく衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ」の現象が続いている。もともと、二院制は異なる視点からのチェック&バランスを 目的としており、多数波が両院で異なることには、それなりの意味がある。

ねか(3)一方で、「ねじれ」は、改革を進めたり、政策を実行したりする際には、足かせになる。とりわけ、時代の変化が大きい場合には、ねじれが続くことは、国益を損する場合がある。ねじれ状態だと、どうしても現状維持となってしまい、変わらないこと自体がリスクになりかねないのだ。

ねか(4)国政がねじれ状態になりやすいのは、衆議院選挙と参議院選挙がサンプルする民意の時点が異なるからである。異なる時点での民意を選挙結果に反映させることは、結果として国政の多様性に資するが、アメリカの中間選挙がそうであるように、ねじれの足かせにもなる。

ねか(5)異なる時点でのサンプリングに基づく「ねじれ」を避けるためには、衆参ダブル選挙が有効である。次回の国政選挙を、2013年の衆参ダブル選挙とすることが可能ならば、それはねじれ解消へと資する可能性が高いことになる。

ねか(6)以上のような意味で、橋下徹氏の、大阪市長、大阪府知事のダブル選挙に持ち込んだ手法は、政策決定、実行のプロセスにおける「ねじれ」を解消するという意味では、きわめて有効であった。ただ、 大阪市議会では、「維新の会」が過半数に達しておらず、その「ねじれ」がリスク要因である。

ねか(7)ところで、政治を離れても、一人の人生の中にも「ねじれ」はある。生きるということが、複数の、時には両立せずリソースを食い合う目標、志向性によって導かれていることがあるのだ。その結果、人生は 複雑で豊かなものになるかもしれないが、結果として現状維持にもなりやすい。

ねか(8)私たちは一つの時には一つの行動しかできず、だからこそ脳内にも「winner take all」の選択機構がある。今回の選挙でも、大阪維新の会に反対する民意は一定程度あったが、過半数の民意が首長の選択につながるのは、つまり行動というのはそういうものだからだ。

ねか(9)ねじれている間の、だらだらと現状維持をする中でああでもない、こうでもないというモードも良いが、時には目標を決めてさくさくと行動するモードも必要である。政治も人生も、ねじれ、脱ねじれそれぞれの効用を見きわめなければならないだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。