2011年11月20日日曜日

勉強ができないということよりも、やる気をなくしてしまうことの方が深刻な問題である

べや(1)ぼくは、たまたま勉強が抜群にできた。小学校2年生のころ、砂場にいて、そうか、ぼくの友だちの中には、勉強が苦手な子がいるんだな、ということに改めて気付いて驚いたことがある。だけど、その頃のぼくは、おそらくはすでに正しい直観を持っていたのだと思う。

べや(2)それは、勉強ができる、というのは、たくさんの個性のうちの一つに過ぎないということ。知らず知らずのうちに勉強ができていたぼくは、それは、 友人たちと行き交う中でのぼくの個性の一つだとしか考えていなかった。まさか、世間がそんなことを重視するとは、思っていなかった。

べや(3)というのも、友だちには、本当に個性のあふれるやつらがいっぱいいたからである。例えば、走ると抜群に速いやつ。自然とリーダーシップをとるや つ。漫画を描くのが、神的にうまいやつ。冗談をいうと、みんな爆笑してしまうやつ。そんな彩りの中で、ぼくらは生きていた。

べや(4)小学校はまだ良かったけれども、中学に入ると、「抑圧の構造」が始まった。成績によって、行く学校が分かれる。それで、個性豊かなぼくの仲間の うち何人かは、ぐれて不良になっていった。いつも外れ者の方になぜか行ってしまうぼくは、それで彼らとかえって以前より仲良くなった。

べや(5)脳の個性というのは本当にあって、たとえば、あんなに天才的な小説を書く夏目漱石が、画家としてはまったく稚拙である。天才哲学者ニーチェは、 作曲家としては凡庸で、ワグナーとの関係に影を落とした。人間の才能というのは不可思議なもので、「万能の天才」は幻想に過ぎぬ。

べや(6)問題なのは、いわゆる「勉強」というのは脳の個性の一つの指標に過ぎないのに、それで「選別」されるという抑圧の構造があること。ぼくは、「Fランク大学」なんて言葉があることを最近知ったが、ずいぶんくだらない言葉を使うやつらがいるもんだと思う。

べや(7)入試が事実上フリーパスの大学に入ったからといって、その人を特徴付けるのは、「学力」ではなくて、全く別のことのはず。「Fランク」とかいっ てばかにするやつらは知的に浅く、想像力もない。逆に、たまたま勉強が苦手だった人が、やる気を失っているとしたら国家的損失だと思う。

べや(8)教育の現場に立つ人たは指摘する。勉強に意欲的に取り組める子は放っていてもいい、問題は「勉強が苦手」だと思っている子たちのこと。誰にだって、得意なことは絶対にある。それをできるだけ早く見つけることが、その人にとっても、社会にとっても最重要課題である。

べや(9)実際の社会に出てみると、彩り豊かな個性に包まれていた子どもの頃にむしろ似ている。サイボーグ009のように異なる能力でのチームワーク。な ぜ、子ども時代から社会への途中に、(一つの指標に過ぎない)学力による選別という抑圧の構造があるのか、理解に苦しむ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。