2011年11月29日火曜日

その人がどれくらい感じ、考え、行動したかの総体が、言葉に表れると信じる

そこ(1)昨日、APU(立命館アジア太平洋大学)のやつらと話していて、その「生一本」という店での歓談の最中に、ああっ、本当にそうだなあ、と思っ た、一つひとつの言葉には、その人が、そのことについて人生の中でどれほどのことを思い、考え、感じてきたかの体重が乗っている。

そこ(2)たとえば、恋愛のことを話すにしても、あるいはベーシック・インカムのような社会的概念について語るにしても、それぞれの人に経験の総体のようなものがあって、その土が育む不思議な植物の花の匂いを、ぼくたちは確実に嗅ぎ分けている。

そこ(3)だからこそ、ふだんからいろいろ考えたり、感じたり、自ら動いてぶつかってみたり、人の心を測ってみたり、たくさんの先人の言葉に接したり、それを表現したり、そんなことをしてみるのが大切なんだなと思う。

そこ(4)立川談志師匠がなくなったことをきっかけに、追悼番組や過去のドキュメンタリーを見た。師匠がずっと追い求めていた「人間の業の肯定」としての 落語。これもまた、たとえば芝浜を演ずるに当たって、一つひとつの言葉の背景にある人間の経験の総体について、思いをめぐらせる営みだった。

そこ(5)落語家が、経験を積み上げ、いろいろなことを感じ、動かされ、沈み、包まれるうちに、次第に芸を磨いていくように、私たち一人ひとりの言葉の放つ光も、どれくらい格闘したか、一生懸命考え、感じたかということにかかっている。

そこ(6)たとえば、「時間」一つとっても、少し前の「未来」があっという間に「現在」になり、それが手の届かない「過去」となってやがてはうすぼんやり していくという現象学的驚異にどれくらい向き合って考え感じているかで、その人の言葉の深さというのは変わっていくのではないか。

そこ(7)ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という言葉を引用する人は多い。しかし、どれくらい真摯に響くかは、 「論理哲学論考」に向かった時間の長さ(そもそも読んだことがあるか!?)や、同じ問題についてその人が考え抜いたその時間に比例する。

そこ(8)言葉というものは、フェアなものだと思う。だから、私たちは、他人の話を聞くことを好む。耳を傾けることで、その人の精神生活の履歴が推し量れるから。会話をしていて飽きないのは当たり前だ。なぜって、それは、一つの秘められて宇宙との遭遇だから。

そこ(9)そして、他人との会話という外的言語を充実させるためには、自分が自分自身と向き合っている時の内的言語が豊饒でなければならないとつくづく思う。だから、自分のうちに籠もって、ぶつぶつと消化、分解しているキノコのような時間よ、祝福されよ!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。