2011年11月16日水曜日

ものをつくったり、仕事をしたり

もし(1)ワシントンに来て以来、田森とやっている国境紛争の認知神経科学のデータ解析をずっとしていた。ホテルと会場と食事の場所以外、ほとんど何も見ていない。さっき、タクシーに乗っているときにホワイトハウスが見えて、やっと旅をしている気分になった。

もし(2)ずっと作業していると、いろいろなことを思いだす。ひとつのことをまとめるまでの、工数の多さ。書き写したり、チェックしたり、白熱電灯のような時間が続く。そんななかで、振り返ると、いろいろなことを考える。

もし(3)批評や否定自体を批評したり否定する必要はない。参考になるし、創造のきっかけになることもあるからである。特に、あるべき状態と比べての現状へのダメだしは、それ自体に独自の視点が必要なことも多いし、意義のある営みだと思う。

もし(4)しかし、批評や否定は、最終的には創造にはおよばない。創造することが持つ、ひとつひとつの努力が積み上がって有機的な肉体へとへんかしていく、あの充実がない。それは、むしろ、切り刻んだり、つぶしたりすることににている。しかし、そもそも肉体がなければ料理もできないのだ。

もし(5)このところのツイッター空間には、刻んだりつぶしたりする人がどうも目立つようになった。そのことに対する違和感が、ワシントンに来て以来高まって、田森とポスターをつくりながら、「もうおれ、あいつらあきちゃったよ」と思わずもらした。

もし(6)ツイッターを、RTしたり、コメントしたりして、一種の社会運動のメディアとしてつかうという機運は、一時期確かにあった。それが意味のないこととは思わないが、このところのその手のツイートには、すっかりへきえきした思いがある。そこには、創造のための工数の積み重ねがない。

もし(7)ツイッターで、政府やマスメディアのことを批判しているだけでは、世の中はかわりなどしない。オルタナティヴなシステムを組むためには、むしろ潜らなくてはならない。それでたまたま浮上したときには、もうひとつの試みがなかなかうまくいかないことへのため息がある。

もし(8)だから、ツイッター上で、政府の発表はどうだとか、マスコミは偏向しているだとか、日本の国益はこうだとか、そういう言葉の断片をまき散らしている人たちと、私はどうにも違う温度になってしまって、そのような世界を目をぱちくりして見ている以外にないと思う。

もし(9)実直そうな人たちが働いている会社の片隅で、自分たちが過去数日ああでもない、こうでもないとデータ解析を仕上げた研究のポスターが印刷され、ラミネートされるのを待っている白熱電灯のような時間。ツイッターの言葉の断片を競うよりも、こんな井戸のなかに潜っていたいと思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。