2011年11月25日金曜日

白や黒ではなく、灰色の中でこそ自ら生きよう

ひは(1)日本の教育についての論点の一つに、英語力の問題がある。中学、高校、大学とあれだけ時間をかけてやっているのに、なぜ英語力が付かないのか。日本語を介在させる「翻訳」文化が問題の根源だという指摘がある。

ひは(2)大学教育も、日本語で行われている。その結果、世界の学生たちとの交流や、教員の構成において、大きなハンディキャップを持つ。そのことが、日本の大学が「ガラパゴス化」する根本原因であり、特に文化系がそうだという指摘は根強い。

ひは(3)ひるがえって、教育を英語で行っている国は多い。しかし、それで万歳かというと、すぐにわかるように、そのような国では母語による学問がボキャ ブラリーあるいは概念の面から難しいことも多い。だから、日本語で教育ができることは、日本にとって一つのメリットでもある。

ひは(4)およそ人間が直面する問題は、選択肢のうちどれを選ぶかで、必ずと言っていいほど「トレードオフ」の関係がある。教育で用いる言語をどうする か、というのも同じ。英語で学ぶというのは、良い点もあれば、悪い点もある。その「グレーゾーン」を踏まえて、どうするかを決断する。

ひは(5)第三者の視点からの「批評」と、第一人称の「決断」が異なるのは、まさにこの点。批評は、トレードオフのうち、片方の視点を拡大し、取りだして 極論をしても成り立つ。一方、自分のこととして決断する時には、グレーゾーンのあわいの中で、えいやっと選び取らなければならない。

ひは(6)TPPの問題にしても、参加したらいいことも悪いこともあるに決まっている。そのグレーゾーンのあわいのなかで、決断するというのが政治的プロ セスの本質である。一方、評論家たちは白か黒かどっちかを立てて議論すればいいのだから、単純である意味では気楽である。

ひは(7)参加したら、こういう良いことと悪いことがある。参加しなかったら、こういう良いことと悪いことがある。そんなグレーゾーンの中での決断を、日 本の秀才たちはあまり鍛えてこなかった。賛成にしろ、反対にしろ、TPPの問題で声高に論じている人たちは、 単純な批判者であることが多い。

ひは(8)ツイッター上で、ものごとの一面をとらえて、白か黒かを言い立てる人たち(黒と言う人が多いが)は、そのことで、グレーゾーンのあわいで自らの 身体で引き受けて決断する、重要な学習機会を逸失している。第三者的視点から単純化することは、自分が生きることに資することはない。

ひは(9)自分の日常を見つめてみれば、進学や就職といった大きな決断から、ひるめしは何にするかという小さな決断まで、グレーゾーンこそが生きることだと気付くはずだ。白か黒かで安心している人は、それだけ自分自身が生きることから遠ざかる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。