2011年12月31日土曜日

世の中は変わらない

よか(1)この一年を振り返って思うことは、「世の中は簡単には変わらない」ということである。しかし、感激があり、ヴィジョンがある。人生というのは結局は中途半端なまま進んでいくしかない。その中で信じられるのは、手元でやっている作業だけである。

よか(2)3月11日、忘れることなどできない大震災が起こった。そのあと、東北の人たちを襲った大変な事態を、私たちは決して忘れることなどできない。何度も被災地に通った。でも、何もできなどしなかった。ただ、耳を傾けて、声を聞くことしかできなかった。

よか(3)あれだけのことがあったから、今度こそ日本は変わるだろう、変わるべきだと多くの人が思ったろう。しかし、変わりなどしていない。政治も、メ ディアも、そして何よりも大切なことだが我々自身も、相変わらずの日常を過ごしてしまっている。そこに、考えてみるべき出発点がある。

よか(4)人間は一つの生態系である。そして、生態系は強固なものである。大量絶滅の時代でもない限り、種の交代のスピードは遅々としている。恐竜からほ乳類への転換が、そう簡単に起きるはずもない。それでも、私たちの頭脳は、ついつい先をあせってしまう。

よか(5)自分自身だってそうだ。理想としている、活動や存在のあり方がある。それと現実とのギャップがある。毎日朝起きてから、夜寝るまで一生懸命生き ているように思ってはいるけれども、それでも対して変わりはしない。自分が変われないことを振り返れば、世間が変わらないのは当たり前だと思う。

よか(6)ただ、痕跡はある。被災地を訪ねて、大変な経験をした人たちが、それでも前向きに生きている姿に接したとき、この感激を忘れまい、絶対に覚えて おこう思った、その瞬間の自分だけは 残っている。一日にしては変われないとしても、毎日その方向にうんうんと少しずつ押していく。

よか(7)今年のある時期、私はツイッターのプロフィール欄に「社会の前に自分を革命せよ」と書き加えたが、自分が変わることの難しさを引き受けていなけ れば、単なる小言幸兵衛になると思ったからだ。そして、自分が本当に変わることの難しさを日々感じながら、それでもうんうんいっている。

よか(8)日本の社会のあり方について、システム的、論理的に考察して、変化への方向性を論じることはもちろん貴い。それと、本当に存在がに変わるという ことは別。私たちの精神は、常に肉体を先取りしてしまう。だから焦るが、空虚な言葉遊びで満足してはならない。身体がともなわなければ!

よか(9)世の中は変わらない。そう簡単には変わらない。だからこそ、「あの山に登ろう」「あの山を目指せ」と言っているだけでなくて、実際に毎日登山を しよう。うんうんいいながら、一歩一歩に自分の重さを感じながら。世の中は変わらない。しかし、だからこそ、いつか絶対に変えてみせる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月30日金曜日

受験生へのエール

じえ(1)受験生は、年明けから始まる入試のために、一生懸命がんばっていることだろう。そこで、受験生たちに、こんな風に勉強したらいい、というヒントのようなものを書いて、応援メッセージとしたい!

じえ(2)まず、「自分は受かる」という根拠のない自信を持つこと。そして、それを裏付ける努力をすること。ただし、睡眠不足はよくない。疲れたら眠る。できれば、目覚ましなしで自然に目が覚めるようにすると、睡眠サイクルとして無理がない。

じえ(3)「本番」で望ましいのは、集中しているけれどリラックスしているという、「フロー状態」で問題にのぞむこと。そうすれば最大の実力を発揮できる。「緊張」と「集中」は違う。むしろ、微笑みが浮かぶくらいの余裕で、しかし目の前の問題に集中しよう。

じえ(4)本番に強くなるためには、ふだんから自分に負荷(プレッシャー)をかける練習をしておくこと。たとえば、本番と同じ時間配分、あるいはそれより短い時間で問題を解いてみる。そのとき、「これが本番だ」と自分に言い聞かせて、必死になってがんばってみる。

じえ(5)練習の時から、自分にプレッシャーをかけ、それでも集中してリラックスしている「フロー状態」を保つことができたら、本番では実力を発揮でき る。普段から速い球を見ていれば、本番の球はかえってゆっくり動いているくらいに見える。プレッシャーは自分でかけて調節しよう。

じえ(6)時間を区切って勉強をすること(タイム・プレッシャー法)は、さまざまな意味で有効である。まず、自分への負荷を調整できる。また、時間を区切 ることで、より多様な勉強ができる。また、脳内資源の配分にかかわる背外側前頭前皮質を、より高度に使うきっかけになる。

じえ(7)受験日当日は、とにかく一生懸命やって、その後は見直しをしよう。特に、英語や数学においては、ケアレスミスもあるから、見直しが肝心。国語 は、最初にこれだ、と思った答えを直すと間違うこともあるから、考えすぎないことも肝要。早とちりは、時間をかけると発見できることもある。

じえ(8)受験勉強に疲れたら、ぱっと切り替えて気分転換をすることも大切。お風呂に入ったり、トイレにいったり、コンビニへの買い物など、どうせしなけ ればならないことを、気分転換の句読点に使うのが良い。「煮詰まってきたな」と感じたら、早めに判断して転換することで効率が上がる。

じえ(9)そして、一番大切なこと。ベストを尽くして、それでもし落ちてしまっても、人生が終わるわけではない。受験は、一つのものさし。受かる方がいい けれども、落ちてもまた人生。親や周囲の人は、落ちた時にどう声をかけてあげるか、その心づもりが大切。でも、きっと受かるさガンバレ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月29日木曜日

現代文明は、金系や情系だよ

きじ(1)これは言い古されたことだけど、文系、理系という区別はもう本当にやめた方がいい。現代文明において、全く意味のない区別だからだ。特に、「私は文系ですから」という言い訳は、もはや通用しない。「文系」、「理系」という言葉を、早く死語にしたい。

きじ(2)百歩譲って、大学の4年間で「文系」と呼ばれるような専門分野があったとしても、卒業して何年も経って「私は文系ですから」を言い訳にしている人は、単なる怠慢である。人間は一生学び続けるのに、たった4年の期間で一生が規定されると考えるのはもったいない。

きじ(3)ところで、「文系」、「理系」についての古いイメージについては、こんな経験がある。高校の時、親友の宮野勉に(彼は東大法学部を出て弁護士に なった)「お前ら理系を、オレたち文系がそのうちアゴでつかってやるから」と、半ば冗談だとは思うが、言われたのである。

きじ(4)リベラル・アーツを修めたものが、ナイーヴな「理系」よりも判断能力において優れていて、すなわち指導者に向いているという概念は、日本だけで なく英国にもあって、科学者を輩出するケンブリッジを、政治家を輩出するオックスフォードがちょっと見下す、みたいなことがあった。

きじ(5)日本でも、たとえば霞ヶ関の官僚の文化においては、法律で入ってきた人が事務次官レースの最右翼で、物理や化学などで入ってきた「技官」は、出世の階段も途中まで、みたいな雰囲気がある時期までは(ひょっとしたら今でも?)あったのだろう。

きじ(6)神宮外苑のバッティングセンターあたりを歩いているときに、「そういう文系の概念は完全に時代遅れだな」と思ったのは、現代文明を支配している 二大原理は「金」と「情報」だと改めて感じたからである。どちらも、システムとして操作するには、いわゆる「文系」の知識では太刀打ちできぬ。

きじ(7)銀行などの「金」に関わる職業は、社会の価値創造、流通においていわば「メタ」の立場にある。ネット企業も「情報」を通して「メタ」の立場に立 つ。そして、これらの立場において卓越しようとすれば、分析的、システム的思考が欠かせない。いわゆる「文系」の学問では歯が立たない。

きじ(8)日本の状況を見ると、マンガやアニメ、音楽、芸術などの個々の分野におけるクリエーターたちは本当に良くやっていて、世界的に見ても遜色ない。 だらしないのはいわゆる「エリート」たちで、明らかに能力不足。そのことと、相変わらず「文系」「理系」と言っていることは、無関係ではない。

きじ(9)「文系」、「理系」じゃなくて、敢えていえば「金系」(お金を扱うことが業務の人)、「情系」(情報を扱うことが業務の人)なんだよな、現代は。日本の大学の専門性の区別は、文明の進捗の前で立ちすくんでいるうちに、すっかり化石化してしまった。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月28日水曜日

原本にこだわる役所のやり方そのものが時代にそぐわない

げや(1)朝6時55分に目が覚めた。たまたまテレビをつけたら、NHKの7時のニュースで、暗い中、誰かがどなっていて、車が停まっている。そうしたら、車から、段ボールを次々と運び出す人たちがいる。一体何をやっているんだろう? 一瞬、意味がわからなかった。

げや(2)聞いていてわかった。昨日、市民団体の抗議によって沖縄県庁に搬入できなかった普天間基地の辺野古への移設の環境影響評価の評価書(アセスメン ト)を、午前4時過ぎに県庁内の守衛室に運び込んだのだという。そこを見つかってしまって、抗議している男性がいたのだ。

げや(3)県庁側としては、開庁時間以外は受け付けないから、午前4時過ぎに守衛室に「搬入」しただけでは「受理」とは言えず、今後、午前8時30分の開 庁時間以降に「受理」するのかしないのか、判断を迫られることになるのだという。随分姑息なことをするものだと思ったが、別の違和感があった。

げや(4)喉が痛いから、レムシップ(イギリスで風邪の時に飲む、レモン風味の薬)でも飲もうとお湯をわかしながら思った。ああ、わかった。私が違和感を 覚えているのは、評価書を、ああやってハードコピーで持ち込む役所の体質そのものだ。そんなもん、pdfで送ればいいじゃないか。

げや(5)役所としては、紙に印刷した「ハードコピー」じゃないと正式な提出、受理としては認めない、ということなのかもしれないが、そのあたりが、この 問題に関する役所の旧態依然たる体質を象徴しているように感じられる。電子データをウェブ上で公開して、もって提出とするとなぜできないのか。

げや(6)評価書(アセスメント)は、多くの人が関心を持つ重大事である。思わぬ評価の漏れやバイアスがあるかもしれない。関心が高い書類なのだから、ウェブ上で直ちに公開して、みなでその内容について検討するというのが、現代における民主主義の当然のあり方だろう。

げや(7)「普天間飛行場代替施設建設事業に係る環境影響評価準備書」(平成21年4月)については、ネット上にその全文が公開されている(http://bit.ly/tYxt0X )。今回の評価書も、本当の「提出先」は沖縄県民、日本国民であるはずで、ネットで直ちに公開すべきである。

げや(8)抗議運動に阻まれて提出できなかったらと言って、午前4時に県庁に搬入する。それ以前に、この時代に「ハードコピー」にこだわる。そのあたりに、ネットで情報が迅速に公開されるべき現代にそぐわない、役所の体質が見えてしまっている。

げや(9)評価書の実質的な意味を考えて、議論のために有効にそれを使うというのではなく、手続きを(たとえそのやり方が姑息であっても)形式的に満たし ていればいいとする。そんな役所の前時代的な感性が、7時のニュースの冒頭の映像で、世間に告知されてしまった。残念なことである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月26日月曜日

科学とは、カマキリの気持ちになってみることである

かか(1)最近、ある場所で子どもたちがインタビューされるのを見ていたら、将来なりたいものとして、「科学者!」と答える子が案外多いのに驚くとともに うれしくなった。ぼくも、蝶の採集や研究に明け暮れた小学生時代で、「科学者になりたい!」と大人たちに言っていたものだ。

かか(2)子どもたちに科学に対する興味をどのように持ってもらうか。ぼくは、一つの鍵は「カマキリの気持ちになる」ことだと思っている。そんな話を東京芸大で授業をしていた最初の頃に言ったら、今でも覚えている学生がいるので、今朝はそのことを書こうと思う。

かか(3)秋の野でカマキリを一匹見たとき、「ああ、いるんだ」で片付けてしまわないで、そのカマキリの気持ちになって一生をたどってみる。まずは、生まれたとき。あんなに小さいのに、一体何を食べて育てばいいというのか。

かか(4)カマキリは結局自分が食べた分しか大きくなれない。余裕になって蝶でもバッタでも取り放題になったらいいとして、卵から孵化して小さいときに、 か弱いカマで何を食べるのか。そんな風にカマキリの「気持ち」になって想像してみることで、科学に対する興味がわいてくる。

かか(5)カマキリは小さい時にはアブラムシなどを食べているようなのだが、そこから始まって、徐々に大きな獲物に「アップグレード」していく。自分がと れる獲物をどうやって判断しているのか。自分の身体の大きさと、相手の大きさをどうやって比較しているのか、想像始めると興味は尽きない。

かか(6)川を泳ぐ魚を見て、「ああ、いるんだ」で済ませないで想像してみる。流れに逆らって泳いでいないと、同じ場所にとどまれない。大雨が降って濁流 になったときは、どうやって同じ場所にいるのか。小石の下に隠れる? あるいは、流されてしまう? それから、時間をかけて戻っていくのか?

かか(7)自然の中に息づく生きもの、物体を見て、「ああ、あるんだ」と片付けるんじゃなくて、そのものの気持ちになって、どうなっているのか想像してみ る。科学とは、つまりは他者の気持ちを思いやることであり、他者の気持ちになって、どのように成立しているのか想像してみることである。

かか(8)りんごが落ちるのを見て、「ああ、落ちるんだ」で片付けなかったからこそ、ニュートンは万有引力を発見できた。光を光のスピードで追いかけたら どうなるのかと、光の気持ちになったから、アインシュタインは相対性理論をつくれた。他者の立場になって想像するところから科学は始まる。

かか(9)テクノロジーに対する興味も同じこと。コンピュータやスマートフォン、インターネットが、「ああ、そういうのあるんだ」で片付けないで、どのよ うに動いているのか、スマホやネットの気持ちになって想像すれば、科学への興味がわいてくる。科学する子とは、他人の気持ちがわかる子である。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月25日日曜日

公務員の方々は、仕事のやり方を変えたらどうですか?

こし(1)今日の朝日新聞の一面に、国の借金1000兆円というニュースが出ていた。今のところ、国債の金利が高騰するなどの事態にはなっていないが、いつ危機をむかえてもおかしくない懸念されるべき状況である。

こし(2)国家公務員、地方公務員をあわせた公務員の人件費の総額は、二十兆円台のようだ。パブリックセクターの仕事ぶりは、この方々にかかっている。も ともとは公のために尽くそうと高い志をもって公務員になられたのだろうが、その実際のありさまは、必ずしも理想的なものとは言い難いようだ。

こし(3)もちろん、私は霞ヶ関や県庁、市役所に二十四時間常駐してその仕事ぶりを観察したわけではないし、組織内部の様子もわかるわけではない。一方、フラクタル構造をしている宇宙と同じように、一部分に接すると、全体の様子がある程度わかる、ということもある。

こし(4)公務員の方と話していて感じることは、「クロック数」が遅いということである。仕事の進め方がぐずぐずしていて、余計なことばかりやっているように感じることがある。それだけでなく、余計なことを民間の人にも押しつけているという印象が否めない。

こし(5)先日も、こんなことがあった。ある会合に出席するのに、出張依頼書がどうの、交通費の計算がどうのとやっている。当日、「印鑑をいただきたい」と回ってきたが、私以外の出席者は、みな印鑑を持っていなくて、「後日郵送します」ということになった。

こし(6)役所関係の仕事をすると、余計な書類を書かされたり、飛行機の半券をよこせといわれたり、印鑑を押せとか言われたりするのは日常茶飯事。もう慣 れっこになっているが、そのようは書類をチェックしたり、ファイルしたりするのが仕事の人が大量にいるのだと考えると、ぞっとする。

こし(7)政府の審議会もムダの極致。何度か出席したが、出席者が5分くらいずつ話して、「ありがとうございました。次回の会合は・・です」と何の議論もない。文書は、結局官僚が書いている。その文書だって、何のために書いているのか、誰が読むのかわかったもんじゃない。

こし(8)もったいないと思う。一方、先日訪れた釜石での市役所の方々の働きぶりはすばらしかった。震災、津波という非常事態。管轄も権限もあったもん じゃない。それこそ、サッカー選手がピッチの上を全力で走り回るような、頭の下がる働きぶりだった。公務員は、本来そうあるべきなんだろう。

こし(9)公務員の方々は、みな、黒澤明の『生きる』を見たらどうか。国難とも言える時に、パブリック・セクターがやれることはたくさんあるはずだ。書類 主義、形式主義にこだわることができるのも、つまりは暇だからだろう。本当にやることがあったら、走り始めるはずだ。奮起を期待します。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月24日土曜日

黒魔術じゃなくて白魔術をかけろ

くし(1)「すべての発達した技術は、魔法に似ている」と書いたのは、確かアーサー・C・クラークではなかったか。そんなことが起こるとは思わないのに起 こる。これが魔術(magic)である。それは、不意打ちに私たちの人生に訪れ、そして私たち一人ひとりの存在を変えていく。

くし(2)そもそも、私たちがこの世に誕生した経緯が、魔術に似ている。なんだかしらないけれども、気付くといるのである。最初は無明で、次第にはっきり してくる。大人になるとずうずうしくなって生きることに慣れてきてしまうけれども、この世界にいること自体が本来魔術でなくてなんだろう。

くし(3)人間関係でも、魔術はある。なぜかわからないけれども、自分に誰かが好意を寄せてくれる。人間はそれぞれ無意識を抱えており、そこからなにがわ きあがってくるかは本人にも分からない。だから、好意や愛は、本人にとってもそれを受ける人にとっても、一つの魔術である。

くし(4)魔術には白魔術と黒魔術が存在するということをある時知った。黒魔術(black magic)とは、自分のゆがんだ欲望を実現しようとしたり、あるいは相手を貶めようとするもの。一方白魔術(white magic)とは、愛や美といった、よきものをこの世界にもたらすもの。

くし(5)時に、自分や他人に黒魔術ばかりかけている人をみかけることがある。やたらとぼやいて、揶揄し、生きる力を失わせる人たち。内田樹さん(@levinassien)の言うところの、「呪いの言葉」。そんなことを言うくらいだったら、黙っていればいいのに、敢えて言ってしまう。

くし(6)一方、他人を勇気づけたり、前向きにしたり、傷ついている人を癒したりする「白魔術」の言葉をかける人もいる。同じ言葉をかけるならば、こちらの方がいい。そして、白魔術をかける人は、自分の中にもともとそれが満ちていて、外にあふれてくるのであろう。

くし(7)魔術(magic)というのはもちろん比喩で、自然法則を超えたものがあるわけではない。ただ、「魔術学」というものがあるらしく、そこで言わ れていることが面白い。つまり、白魔術と黒魔術は、目的が違うだけで、本来は同じところに由来するのではないかという考え方である。

くし(8)他人に呪いの言葉をかける人も、育む言葉をかける人も、本当は懸命に生きようとしているのだろう。感情としては、同じなのに、外に出る結果が違う。負の感情があっても、それを正の感情へと転化して、白魔術使いとなることこそ、私たちは目指すべきなのではないか。

くし(9)それでも、黒魔術をかけている人がいたら、ああ、この人も生きたいんだな、だけど、未熟だから、こんな他人を貶めるようなことしか言えないんだ な、と温かく見守ってスルーしよう。そこに、黒が白に転化する契機がある。白魔術師になった方が、自分にとっても世界にとっても絶対に 良い。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月23日金曜日

和文英訳、英文和訳はやるな

わえ(1)先日、たままた某大学の入試問題を見る機会があったら、和文英訳、英文和訳が相変わらす出題されていた。私の主張は、これらの学習法は今の時代 に全く意味がないというもの。大学は、これらの出題をすることで、若者の貴重な脳時間を奪っている。即刻廃止することを主張したい。

わえ(2)そもそも、なぜ英文和訳、和文英訳が定着したかといえば、特に前者は、日本の「翻訳文化」の伝統の中にあったから。漢語を日本語化したのは、私たちの祖先の偉大な業績である。明治以降、日本語で学問ができるようになったのも、翻訳文化のすばらしい功績である。

わえ(3)英文和訳は、特に、日本の大学の「文化系」の教授たちの、いわば「基礎トレーニング」であったことは事実である。文系の学問は圧倒的な輸入超 過。いわば輸入業者だったから、英文和訳を出題するというのがごく自然な発想であった。輸入自体に価値があったから、それでもよかった。

わえ(4)ところが、時代が流れて、グローバル化とインターネットの発達により、もはや英語は「lingua franca」(使えて当たり前)のものとなり、いちいち翻訳フィルターを通す日本人の習い性が、時代遅れのものとなった。未だに英文和訳をやっているの は、時代錯誤もはなはだしい。

わえ(5)たとえていえば、サッカーでボールが来たのに、直ちにドリブル、パス、シュートをせず、足元でごにょごにょやっているようなもの。かつてはそれ でも良かったけど、もはや、lingua francaで直接やりとりする時代に、それではグローバルな舞台で日本人が活躍できぬ。

わえ(6)大学の役割とは何か? その時代の最先端の学問を学生たちに徹底的にたたき込み、自立して活躍資質を涵養することだろう。相変わらず「輸入学 問」「翻訳文化」の中にある大学の文系学部は、この時代の要請に応えていない。足元でボールをごにょごにょやっていないでさっさとパスしろ!

わえ(7)和文英訳はさらに陳腐である。これを英訳しろ、と示される日本語が、意味不明でわけのわからないものであることが多い。そもそも英語ではそんな 発想をしないよ、というような代物。英語が得意な人でも、「なんじゃ、こりゃ?」と首をひねるような出題が多い。受験生かわいそう。

わえ(8)母語が大切なことは言うまでもない。日本語は日本語で徹底的にやる。英語は英語で、(日本語を介在させないで)徹底的にやる。両言語に通じれ ば、和文英訳、英文和訳など、(もしその必要があれば)できるさ。もちろん、文学翻訳者のような熟練は別だが、ほとんどの人にそれは必要ない。

わえ(9)結論。大学入試、あるいはそこに至る教育課程で、「和文英訳、英文和訳」を課すことは時代錯誤であり、日本の大学の文系研究者の特殊な文化に過 ぎない。英語を読み、英語で話し、英語で書くという「直接性の原理」が必要な現代。英文和訳、和文英訳は即刻入試から廃止することを主張する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月22日木曜日

贈り物によって豊かになっているのは誰か

おだ(1)クリスマスの季節である。以前はMerry Christmas!と言っていたが、最近は、「政治的に正しい」Happy Holidaysという表現が多いようだ。人々が集い、街を贈り物が行き交う。今朝は、この「贈り物」ということについて考えてみたいと思う。

おだ(2)贈り物では、何がやりとりされているのか? O・ヘンリーの名作『賢者の贈り物』では、恋人たちがお互いに贈るものが、それぞれ役に立たないものになってしまう。それでも彼らは幸せである。お互いに対する「思いやり」が交換されたと感じるからだ。

おだ(3)役に立つもの、高価なものというよりは、相手のことをどれくらい考えたか、ふさわしいものを選んだかというその「準備」にこそ、贈り物の本質が ある。つまりは、贈り手にとっては、贈る前の心と身体のエキササイズこそが、贈り物という文化のエッセンスだということになる。

おだ(4)だからこそ、プレゼントをすることは、贈り手を成長させる。子ども会で友だちにあげるプレゼント、生まれて初めて贈るバレンタインのチョコ、誕生会に呼ばれた時に持っていくもの。何を持って行こうと一生懸命考えることで、その贈り手の方が成長するのだ。

おだ(5)贈り物によって豊かになるのは誰か。受け取り手の「富」が増大しているように見えて、交換時にすでに成長しているのは贈り手の方であろう。相手 のことを考え、自分をそこに反映し、街を歩き、棚を探しているその時間の中にこそ、贈り手を成長させる「賢者の贈り物」があるのだ。

おだ(6)大学で授業をしている時など、これは一生懸命「贈り物」をしているんだなと感じることがある。それを受け取ってもらえるかどうかは、相手次第。 どれくらい残るかもわからない。それでも、温泉のかけ流しのように、ありったけのものを、目の前にいる人たちに伝えようとする。

おだ(7)自分の話したことなど、ちょっとほろりとさせたり、なるほどと思ったり、感動させたりできたとしても、ほとんどはこぼれ落ちて記憶から消えていってしまうのだろうと思う。自分の大学時代に聴講した授業のことを思いだしても、全くその通りである。

おだ(8)だとすれば、話し手こそが、その贈り物をするという行為を通して、まずは豊かになっている。そのうちの某かが、受け取り手にも感染する。話す行 為だけではない。私たちがネットで何かを表現する時にも、まずは「贈り手」の成長がある。それが、時々、ノイズのように他者にも伝わる。

おだ(9) Season of goodwill. 他者に対する善意や思いやりこそが相応しい季節。贈り物をすることによって豊かになっているのは、まずは自分だということを認識して、有形無形の贈り物を してみてはいかがだろう。Happy holidays everyone!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月21日水曜日

相手のおもしろさに一秒目から耳を傾けてから、名刺は最後に渡せばいいよ、もし持っていて、渡したいんだったら

あめ(1)Mountain ViewのGoogle本社で行われたScience and Technologyの会議に出席したときのこと。夕方、カクテル・パーティーのようなものがあって、みんなで外でだべっていた。創業者のLarry Pageもふらふらしていた。

あめ(2)たまたま同じテーブルに座ったのが、髪の毛がちりちりで長い男と、帽子をかぶったダンディーな紳士。脳の話や、インターネットのこと、私の研究テーマのクオリアのこと、政治のことなど、いろんなことをああでもないこうでもないと議論していた。

あめ(3)髪の毛がちりぢりで長いやつも、帽子を被ったダンディーも、なんだかやたらに面白くて、興味深い人物だった。とくに自己紹介とかしないで話していたので、果たしてこいつら誰なんだろう、と思いながらも、まっ、いいかと思って、そのまま議論をしていた。

あめ(4)そしたら、パーティーがお開きになるというので、このあとも連絡を取り合おう、というんで、「ところで、誰なんだっけ?」と帽子をかぶっている 紳士の方が名刺(Name card)をくれた。髪の毛長いちりぢりの方は、名刺を持っていなかった。ぼくも確か持っていなかったんじゃないか。

あめ(5)名刺をみて、あじゃっと思った。http://www.edge.org/ をやっている、有名なliterary agentのJohn Brockmanと、VRの先駆者の一人、Jaron Lanierだった。ああそうか、だから話が おもしろかったんだと納得した。

あめ(6)この話のポイントは、John Brockmanも名刺を持っていたことは持っていたけれども、まずは実質的な会話に1秒の猶予もなく入っていって、「おお、オモシロイネ」となって、相 手に興味をもって最後に別れて連絡先欲しいなと思ったときに、初めて名刺を交換するということ。

あめ(7)日本人が最初に名刺を交換するのは、相手の組織や肩書きを知らないと、安心して話せないからだろう。でも、科学や技術や文化の実質的なことにつ いて、ストレートに見解を交換するのに、組織や肩書きは要らないよね。名刺をもらっても、どうせ、ある半減期で消えていくし。

あめ(8)人間はどんな文化でも、そこに適応していくもの。日本で名刺交換が盛んなのは、組織や肩書きで実際に仕事をしたり、関係性を結んだりしている場 合が多いからだろう。一方瞬時に実質的な会話に入っていく社会は、組織や肩書きと関係なく、アイデア勝負で仕事をしている。

あめ(9)肩書きや組織が大好きな日本の社会にも何かメリットはあったんだろう。はっきりしていることは、現代文明のもっとも熱き進捗の場において、名刺 文化は邪魔でしかないということ。ぼくは、初対面の瞬間から、その人の一番熱い思想に耳を傾けるのを好みます。そうでないと、つまらんね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月20日火曜日

かよわさの原理に基づいた文明

かぶ(1)北朝鮮の金正日総書記が死去した。報道によれば、視察中に列車の中で心筋梗塞になったという。それが事実だと仮定して、そのときの光景を想像し てみる。総書記に異変が生じ、周囲のひとたちがあわてふためく。おつきの医者が必死になって処置をするが、異変をどうすることもできない。

かぶ(2)周囲の人は青ざめるが、総書記の肉体の中で起こっている不可逆変化をどうすることもできない。他の不祥事であれば、責任者が捜し出され、あるいはでっちあげられ、厳しく糾弾されるだろうけれども、総書記の肉体に起きた異変だけは、誰もどうすることもできない。

かぶ(3)北朝鮮の中では、総書記は偉大なる指導者であり、核兵器をつくり、ミサイルを配備し、「強盛大国」をつくりあげた恩人ということになっていた。 すべてを支配し、指導するいわば「スーパーマン」。その「スーパーマン」が、自分の心臓だけは、どうにもコントロールすることができなかった。

かぶ(4)「独裁者」の「権力」は、人間が生み出したもっともやっかいな「幻想」(イリュージョン)であろう。実際には、どんな人間にもかよわく、いつその脆弱性から倒れるかわからない。核兵器、ミサイル、強盛大国。威勢の良い言葉を並べても、本人のか弱さは変わらない。

かぶ(5)日本は、政治については比較的幻想から自由な国である。首相や首相経験者に会っても、かよわさの印象は変わらない。万能で強力な首相という幻想 を、私たちは持っていない。むしろ、指導者の性格の欠点や無能力を把握した上で、そのリーダーシップに微温的な期待を込める。

かぶ(6)国家の運営において、幻想(イリュージョン)が占める割合が高くなればなるほど、この世界の現実から離れていく。「強盛」は最大の幻想の一つだ ろう。実際には、どんな指導者も、組織も、かよわく、脆弱である。もちろん、一つの国家も。かよわさの認識は、市場における競争と整合する。

かぶ(7)成熟した民主主義の国では、指導者がかよわいと認識したまま、ほんのちょっぴりの「カリスマ性」という幻想のかけ薬で、政治権力につくことがで きる。しかし、その権力の座も、いつ奪われるかわからない。流血なしに権力交替ができる。それが、かよわさに基づく文明の姿である。

かぶ(8)首相も、幼稚園児も、高校生も、ごく普通のサラリーマンも、24時間を精一杯生きていることには変わりない。どちらがより「強盛」で、「万能」ということはない。そんな成熟した世界観を持つ文明の方が、結局は全体としては強靱で、持続可能なものになるのだろう。

かぶ(9)私がもし北朝鮮の人と会うとしたら、彼らの「強盛」の「幻想」(イリュージョン)ではなく、その息づかいにこそ耳を傾ける。忌野清志郎の名作『あこがれの北朝鮮』(http://bit.ly/fTeUvD )から伝わってくるのも、強がりの向こうのかよわさに対する感受性だ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月19日月曜日

本人に自覚のない変人が、面白い

ほお(1)田森佳秀(@Poyo_F )の話は、いつも面白い。実話なのだが、何度聞いても笑ってしまう。それで、本人は、「面白くないよ」というが、やっぱり面白いと思う。「私は変人」という人が変人ではないように、「私は面白い」という人は面白くないのだろう。

ほお(2)田森が、子どもの頃北海道豊頃町商工会の福引きの準備をさせられた話。ある年は一等商品が鮭のつかみ取り。「佳秀、鮭は一度に何匹つかめるもの か、やってみろ」と言われた。まず殴って気絶させる。そのあと、両脇に二匹ずつ、股に二匹、最後にアゴの下に一匹「つかめる」ことがわかった。

ほお(2)別の年は、一等商品が100円玉のつかみ取りだった。「佳秀、100円玉というのは一度に何枚つかめるものか、やってみろ。」まず、指の間に 100円玉をつめて、グローブのようにする。それからすくうと掴めることがわかった。ただし、あまり掴みすぎると手がふくれて穴から出なくなる。

ほお(4)田森の育った豊頃町では、毎年仮想行列をやっていた。ある年、田森はシンデレラをやった。長い棒の上にシンデレラの張りぼてをつくった、自信 作。ところが、あまりにも重くて、張りぼてを持ったまま歩いていると、腕が死ぬほど疲れる。時々道の上に置いて休んだが、地獄の時間だった。

ほお(5)田森が落とし穴を掘った「山本鶴」さんの話は最高傑作の一つ。近所の悪ガキを落とそうと、練りに練った落とし穴をつくった。穴のふちを少し下げ て、そこに新聞紙を敷いて、上から土をかけ、そこに草を植えて水をまき、数日おいて、周囲とまったく区別がつかない素晴らしい落とし穴。

ほお(6)ところが、悪ガキを呼ぼうとしたら、町役場の山本鶴さんがやってきてしまった。「あーっ」と思う間もなく、鶴さんが落ちていく。「時間がスロー モーションで流れていくんだよ」。ずどどどどーん。不思議なことに、山本鶴さんは何ごともなかったように立ち上がり、歩いていきましたとさ。

ほお(7)田森佳秀には、変人の自覚がない。ある時薔薇の折り紙に凝ってたから、山手線の中で、「田森さ、あれって何回くらい折るんだ?」と聞いたら黙っ ている。窓の外の風景を見ているのかな、と思っていたら、二駅過ぎたところでぽつりと「84回。ただし、そのうちの2回は折り目をつけるため」。

ほお(8)今でも、その時のことを持ち出すと、「誰だって頭の中で数えるよ」という。「そんなことはないだろう、お前は普通じゃない」というと、田森は 「だって、数えるしか答える方法はないじゃないか」と田森はいう。こういう、変人の自覚がない変人こそが、本当の変人なのだろう。

ほお(9)結論。田森佳秀(@Poyo_F)の言動が面白いのは、本人が身体を張っていろいろ工夫しているからである。薔薇の折り紙にしろ、落とし穴にしろ、鮭のつかみ取りにせよ、工夫を積み重ねていく、その詰め方が尋常ではない。だから、面白い。変人の自覚がない変人が、この世で一番面白い。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月18日日曜日

髪の毛を自分で切ったあの日に何かが始まった

かじ(1)子どもの頃、床屋さんにいくのが面倒だった。だから、ついつい長くなってしまう。行くと思いきり切ってもらうので、長いときと短いときの差が大きかった。「そろそろ行かなくちゃ」と思いながら、ぐずぐずしている。えいやっといくと、ボンタンあめをくれた。

かじ(2)大学のときは、何を血迷ったか「美容院」に数回行ったことがある。最初は御殿下グランドの横にあった店。髪の毛を切るときに、ちょいちょいと少しずつまとめるので、そのテクノロジーに「おおっ!」と感動した。

かじ(3)あの頃思っていたのは、「自分では髪の毛を切ってはいけないのだ」ということだった。だから、一切切ったことがなかった。髪の毛を切る、というのはプロに任せるべきことで、自分でやると、「虎刈り」という恐ろしい結果になる。そんな思い込みの中に、ぼくはいた。

かじ(4)それが、イギリスに留学中、最後にキプロス島出身の兄弟がやっている床屋に行って、一時間ずっとキプロス島の話をしていた。次に行くときに、またキプロス島の話をするのは面倒だな、と思った。それで、「じゃあ、やっちゃうか」と人生で初めての決断をした。

かじ(5)今でも覚えている。下宿のソファのある部屋で、ハサミをもち、「じゃあ、切るぞ」と思った。これでオレは虎刈りになるんだな、と思った。まあ、いいか、とも思った。とにかく、ぼくはハサミで自分の髪を切ってしまった。以来、ずっと自分の髪は自分で切っている。

かじ(6)近頃は慣れたもので、そろそろ長くなってきたな、と思うと、コンビニの袋とハサミをもって風呂場にいく。そして、後ろの方もあたりをつけて切ってしまう。チョキチョキチョキと、2、3分で終了。あとはシャワーで髪の毛を洗って、ぼくのセルフ床屋は終わりである。

かじ(7)子どもの頃から、髪の毛を自分で切ってはいけない、と思っていたのが、「じゃあ、やっちゃうか」とハサミを持って立ったあの下宿の午後。今でも 時々思い出す。人生では、やってはいけない、と勝手に思い込んでいることがたくさんあって、その思い込みさえ外せば、一気に自由になる。

かじ(8)大学に行かないと学問ができない、という思い込み。どこかの組織に「所属」しなければならない、という思い込み。肩書きがないといけない、とい う思い込み。いろいろな思い込みが、髪の毛を自分で切ってしまう、ということと同じように、身体性にかかわることのように思う。

かじ(9)身体感覚に関わり、もし活動が乱れれば体外離脱体験を起こすのはtemporoparietal junction (TPJ)だが、同じ領域がmoral judgment (倫理的判断)にもかかわっている。自分の身体をどう扱うかが人生の重大事であるゆえんである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月17日土曜日

本人が意識していないのが、名言

ほめ(1)『心と脳に効く名言』(PHP研究所)の発刊を記念して行われた昨日の朝日カルチャーセンター講演。構成をいろいろ考えたが、結局、練り上げられた言葉でごくありきたりの人生を描く小津安二郎の名作『東京物語』を丹念に見ることから始めた。

ほめ(2)『心と脳に効く名言』でとりあげた名言には、例えば井伏鱒二の「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」がある。何とも言えない、わっと泣き出したくなるような味わいのある素晴らしい言葉。しかし、才能にあふれた著名人だけが名言を吐 けるのかといえば、そうではない。

ほめ(3)『東京物語』では、東京にいる子どもたちを訪ねる老夫婦が、数々の名言をつぶやく。人生も終わりを迎え、楽しみにしていた子どもたちとの再会 も、思ったようにはいかない。それでもすべてをあるがままに受け入れ、微笑み続ける。そんな生きる姿勢が、深い言葉を生むのだ。

ほめ(4)河川敷で、幼い子どもと遊ぶ老母。花摘みをする子どもに向かって、「大きくなったらなんになるん? お父さんといっしょでお医者さんか。あんた がのう、お医者さんになるころには、おばあちゃんおるかのう。」子どもは花摘みに夢中できいていない。愛おしそうにながめる老母。

ほめ (5)美容院をやっている次女の家が寄り合いでいそがしいというので、老夫婦は追い出されてしまう。家を出る支度をしながら、老父が「ははは。ついに、宿 無しになってしもうた」とつぶやく。冷たい仕打ちをうけながらも、それを諦念の下に受け入れ、ただ淡々と笑っている。

ほめ(6)『東京物語』の一番の名言といえば、老母が亡くなった朝、原節子が迎えにいくと、ひとり庭に立っていた老父が、「ああ、きれいない夜明けだっ た。ああ、今日も暑うなるぞ」とつぶやくシーンであろう。すべてをありのままに受け入れる老父の生き方が表れているからこそ、感銘がある。

ほめ(7)変人は大切だが、「私は変人です」と言う人はニセモノである。本当の変人は、自分がやっていることが、ごく自然の、当たり前のことだと思ってい る。同様に、名言も、本人には意識がないことが多い。その人のごく当たり前の生き方がにじみ出て、聴く者に感銘を与えるのだ。

ほめ(8)誰かが何かを言う。すばらしい言葉だと、深い感銘を受ける。何年か経って、「あの時こんなことを言われて」とお礼を言っても、本人は覚えていな いことがしばしばある。話者にとってはあまりにも自然な、生き方のにじみ出る言葉。それこそが、本当の意味での「名言」である。

ほめ(9)『脳と心に効く名言』で取り上げた言葉。「人間は、自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」(小津安二郎)。確かに、小津監督 はそんな生き方をした人だった。『東京物語』の老父は、小津自身の投影。諦念と微笑みの思想が、世界じゅうの人に感動を 与え続けている。

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2011年12月16日金曜日

てんでんこで生きる

てい(1)津波がくるときは、てんでんばらばらに必死に逃げる「津波てんでんこ」の考え方を広めた山下文男さんが亡くなった。一度お目にかかってお話をうかがいたいと思っていた方。その教えは、ずっと受け継がれることだろう。ご冥福をお祈りいたします。

てい(2)山下さんの「津波てんでんこ」の考え方を実践して登校していた生徒が全員助かったのが、「釜石の奇跡」と呼ばれた鵜住居小学校、釜石東中学校の事例(http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1072/20110519_01.htm)である。私も現場に立ったが、津波の怖ろしさと、教えの大切さが身にしみた。

てい(3)釜石東中学校で生徒たちを指導していた森本晋也先生に現場でお話をうかがった。ふだんから、津波が来そうなときはてんでんばらばらに逃げろ、と指導していたのだという。その際、ポイントになることがいくつかあると森本先生はおっしゃった。

てい(4)一つは、他の人もまた、てんでんこで逃げているだろうと、信頼すること。他の人は逃げているかな、だいじょうぶかなと探しにいくと、そのことで避難が遅れて、津波に巻き込まれてしまうかもしれない。

てい(5)もう一つは、「目指す場所」を確認しておくこと。高台のあそこに集まる、とあらかじめ合意が出来ていれば、てんでんばらばらに逃げても、落ち合 うことができる。他人を信頼することと、目的地を共有すること。これが、「てんでんこ」の思想だと森本先生はおっしゃった。

てい(6)「津波てんでんこ」は大災害から身を守る三陸の方々の智恵が詰まった考え方である。身体が弱い方を助けるなどのケースはもちろん例外であるが、てんでんばらばらに逃げた方が助かる人が増えるというのは、数理モデルなどでも確認ができる方法論であろう。

てい(7)さらに、「てんでんこ」の考え方には、私たちの生活全体につながるヒントがあるように思う。特に、今日のようにインターネット、グローバル化と いう「文明の波」が押し寄せている時代には、他人が何かをするのを待っているのではなく、てんでんばらばらに自分でやるのが良いのではないか。

てい(8)変化には、独自の判断で必死に行動する。やるべきことを自分でやる。そんな中で、他の人もまた、自分の判断で対応しているだろうと信頼する。さ らに、最終的に何を目指すのか、「ヴィジョン」を共有する。そんな「てんでんこ」の考え方は、現代人の生き方一般に通じる。

てい(9)状況が変化しているのに、他の人は何をしているのだろうと模様眺めしていては、遅れてしまう。てんでんばらばらにベストを尽くす。そんな生き方が求められている時代なのではないか。今日も一日、精一杯生きよう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月15日木曜日

抗議者は身体の大切さを教えてくれる

こか(1)米国のタイム社恒例の2011年「今年の人物」(Person of the year)に、抗議者(The Protester)が選ばれた。他にはスティーヴ・ジョブズ氏らの名前が挙がったが、もっとも世界に影響を与えた存在として、抗議者が選ばれたのだとい う。

こか(2)タイムの表紙で言及されているのは、「アラブの春」、「ウォール・ストリート占拠」、そして「モスクワ」であるが、日本でも、反原発のデモなど、これまでに参加しなかったような人たちが「抗議者」として注目されるに至った。

こか(3)タイムの記事の中でも触れられていたように、「抗議者」たちが登場した背景が興味深い。もともと、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』の中 で書いたように、かつての資本主義対共産主義のようなイデオロギー対立は終わり、西欧的民主主義が唯一の勝利を収めたように見えていた。

こか(4)「歴史の終わり」を迎えた以上、通りに出て体制に抗議するという「抗議者」の役割も、消滅したように見えていた。しかし、そうではなかった。ア ラブの春や、中国におけるデモは古典的な意味で「民主主義」への移行過程のダイナミクスと見られるが、ウォール街や反原発デモはそれとは異なる。

こか(5)通りの上での「抗議者」たちの物理的存在をもたらした一つの条件は、間違いなく、フェイスブックやツイッターなどのサイバー空間でのつながりであろう。ここで注目されるべきことは、サイバー空間での「活動」だけでは、現実は変化しないという経験則である。

こか(6)日本でも、メディアの記者クラブに対する反発、批判はネット上で広がっている。それでも、記者クラブが撤廃に至らないのは、物理的な存在としての通りでの抗議者の活動が盛り上がっていないからであろう。同じことは、新卒一括採用や、大学入試についても言える。

こか(7)すなわち、フェイスブック、ツイッターといったソーシャル・メディアは、意見や考え、情報を交換する場としてはすぐれているが、最終的に現実的な変化をもたらすものは、依然として通りの上の抗議者という物理的存在であるという経験則が成り立つのである。

こか(8)なぜ、サイバー空間上の「抗議者」ではなく、通りの上の物理的な「抗議者」こそが変化をもたらすのか。インターネットが新しい文明を定義しつつある現在、この問題は、単に社会における活動のあり方という文脈を超えた、普遍的な意味を持つと言えるだろう。

こか(9)ネットだけでは足りない。自分の身体を動かさなくてはならない。そんな真実を教えてくれる「抗議者」の経験則。学校や会社、国といった物理的実 体がネットによって相対化されつつある今、「抗議者」たちは私たち人間の存在について、現代における「へそ」のようなものを教えてくれる。

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2011年12月14日水曜日

やってはいけないと思い込んでいる壁を、突破すること

やと(1)伝説で、本当かどうかわからないが、ラグビーの起こりは、サッカーをやっていた少年が興奮してボールを持って走り出したことだと言う。たとえ事実でないとしても、「脱抑制」のスタートダッシュを表現して、印象的である。

やと(2)人間は、「やってはいけない」と勝手に思っていることがたくさんある。その範囲で自分の行動をついつい制約してしまうのだけれども、実際には、本当はやってもいいのである。その壁を乗りこえたとき、新しい人生が始まる。

やと(3)イギリスにミッチェルという人がいて、ATP合成の化学浸透圧説でノーベル賞をもらった。この人は変わり者で、学会の定説に異を唱え、田舎の一軒家に自分で実験装置をつくって、勝手に実験していた。

やと(4)田森佳秀に聞いた話なのだが、ミッチェルが日本に来て話したときに、日本人の研究者が、「研究費はどうしていたのですか?」と聞いた。ミッチェ ルは、ちょっと恥ずかしそうに、「私は、たまたま財産を持っていたのです」と答えた。その瞬間、田森の脳の中で脱抑制が起こった。

やと(5)何ごともお上が好きな日本人のメンタリティだと、国から科研費をたくさんもらっている研究者が偉いという思い込みがある。ところが、自分の金を使って勝手にやっていいんだ、と思った瞬間、ぱっと解放される。最初から解放されてしまっている国や個人もいる。

やと(6)昨日読んだUSA todayの記事。アメリカではエージェントや出版社を通さないで自分で勝手に電子出版する著者が増え、ベストセラーが次々と誕生。自分で出版するのは vanity publishingだとそのstigma(悪印象)を避けていたのが、「やっちゃえ」となった。

やと(7)本を「ちゃんと」出すには、やはり「ちゃんと」した出版社から、「ちゃんと」出さないと、ダサイ自費出版だと思われる。そんな思い込みから、電 子出版のシステムは著者たちを解放しつつある。まさにビッグ・バン。でも、どれくらいの思い込みが、私たちをまだ縛り付けていることだろう。

やと(8)大学に行かないと学問ができないという「思い込み」もそうで、恐らくは現代では無意味。そもそも日本の大学は、文科省管轄の「学位」の独占企業。国からの設置基準の「お墨付き」をもらっているというだけの話で、現代文明を生き抜く力の実質とは無関係。

やと(9)とにかくやっちまえよ。それが、学生の時に読んで感動したミルトン・フリードマンの『選択の自由』のコア・メッセージ。日本人は、自分たちで規 制していることがたくさんあるよね。法律で禁じられていることじゃないよ。誰も禁じていないのに、勝手に自分たちでできないと思い込んでいる。

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2011年12月13日火曜日

日本八策

日本八策(1)インターネット、グローバル化という「偶有性」の文明の波が押し寄せる時代。福澤諭吉が「適塾」で示したような、寝食を忘れて猛勉強する精 神を復活させる。「知のデフレ化」の逆転。吉田松陰が松下村塾で講じたように、現実の状況に安易に妥協せず理想を貫く「心の整え方」を磨く。

日本八策(2)記者クラブに象徴されるマス・メディアの守旧体勢、独占体制を改め、真のジャーナリズムを醸成するための方策を実現する。メディアを、既得 権益層の自己保身の手段とせず、日本を先に進める改革のためのメディアとする。結局はメディアのためにもなる。自己否定なくして、成長もない。

日本八策(3)役所における悪しき文書主義、形式主義を改め、公務員が実質的な職務にだけ専念できるようにする。民間も「お上頼み」「指示待ち」の風潮を 改める。市場における自由闊達な競争、共創を図るための法的制度、インフラの整備を進める。多様なキャリア形成を妨げる「新卒一括採用」の廃止。

日本八策(4)大学を世界に開かれた、真に高度な学問の切磋琢磨の場に。小中高校における学習を、大学入試への準備の負担から解放する。教科書のデジタル 化、クラウド化は不可避。大学を、ガラパゴスな「クラブ」から進化させ、自立して世界で活躍するクリエイティヴ・クラスの資質醸成の場とする。

日本八策(5)現代における最大の付加価値は、世界規模に展開した情報価値ネットワークから生まれる。モノ重視の「ものづくり」の時代から、ネットワーク と結びついた「ものづくり2.0」へと、日本の産業構造を進化させる。プログラミング能力、システム思考を新たな「読み書きそろばん」に。

日本八策(6)「みんなちがって、みんないい」の精神で、個性を育む。一人ひとりがユニークな属性をもってこそ、共同して事に臨んだ際に「かけ算」でもの ごとを大きくすることができる。みんなが同じになってしまっては、積算が大きくならない。個性がゼロだと、かけてもゼロになる。

日本八策(7)自らの歴史や、文化を引き受ける「プライド」のないところに成長はない。「隣の芝生」が青いからと自らを全否定するのではなく、むしろ、過 去からの継続を身体化し、新たな生命をよみがえらせること。「和魂洋才」の精神を、地球全体に開かれた「和魂球才」へと進化させる。

日本八策(8)「もののあはれ」のような伝統的価値観、里山における自然との共生は、世界に誇るべき日本の文化。マンガやアニメに見られる表象の豊かさ、 「おまかせ」の食文化など、日本の伝統をさらに掘り下げ、発展させること。感性に根ざしたクオリア立国。自らを開いて、世界に贈り物を。

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2011年12月12日月曜日

本が人生を変える

ほじ(1)今朝、トイレに入っているときに、「そういえば、イギリスに留学しているときにLevyのInsanely Greatを読んで、ITとか、コンピュータに関する考え方が一変したんだったなあ」と思った。それから、人生を変えるきっかけになったのは、実際に本が 多かったなと思いだした。

ほじ(2)小学校5年生の時にたまたま図書館で読んだ「赤毛のアン」が、「もう一つの生き方」に眼を開かせた。初めて、日本の文化や生活を相対化する視点を与えてくれたのだろう。外国の文化に対するあこがれ。英語に対する興味。その後のいろいろなことが始まった。

ほじ(3)これも、小学校5年の頃に読んだアインシュタインの伝記で、ぼくは将来科学者になると決めてしまった。相対性理論のような革命的な理論をつくるということが、この世でもっとも深遠で、かっこいいことだと確信してしまったのだ。

ほじ(4)これも小学校の時に読んだ夏目漱石の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などなどで、ぼくの中に小説というものの絶対基準が出来てしまった。言葉で一つの架空世界を綴る面白さと難しさは、漱石に教えてもらったといってもよい。

ほじ(5)中学生の時に読んだ小林秀雄、高校の時に読んだニーチェ、カント、ミルトン・フリードマン、マルクスやエンゲルス。いろいろな著者の本が、自分の人生観を変えてくれた。一過性ではない、深いところにおける変化を、これらの本はもたらしたのである。

ほじ(6)脳の研究を始めるきっかけになったのも、一冊の本。大学院生の時に読んだロジャー・ペンローズのEmperor's New Mindで、人間の知性というものの不思議さに痺れた。もっとも、クオリアの問題意識に気付くのは、それから数年後のことになる。

ほじ(7)なぜ、一冊の本が人生を変えるきっかけとなるのか。本は言葉の森であり、脳の意味や志向性のネットワークに近しい。そして、断片的な時間ではなく、じっくりとつきあうことで、主体性の一番コアの部分が、ゆっくりと影響を受け、書きかえられていく。

ほじ(8)だから、ぼくは思うのだ。人は、自分が読んだ本を積み重ねて、その上に立った高さから、世界を見るのだと。たくさんの本を読めば読むほど、それ だけ高いところから、広く遠い世界をながめることができる。変化の触媒として、本ほどの体系性と持続性を持つものはない。

ほじ(9)今、人生で何度目かの濫読期を迎えているのは、変化への胎動を感じているからだろう。もっとも、専らiPad上のKindleで英語の本を。日本の本の世界が電子書籍化に遅れをとる中で、日本の出版業界はすっかり周回遅れになってしまった。

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2011年12月11日日曜日

日本の教育には、ビッグ・バンが必要である

にび(1)昨日も@Poyo_Fなどと話していて思ったのだが、日本の教育の諸悪の根源は大学入試、及び大学教育であろう。入試問題が現代の文明の要請から見て人工的であり、陳腐すぎる。このような現状になっている根幹は、入試が、実質的に「クラブ入会試験」になっている点にある。

にび(2)インターネットやグローバリズムといった偶有性の文明の波が押し寄せる中で、ひとりの自立した人間として役に立つ知識、経験、スキルを身につけ るというのが、教育の本来の目的のはず。ところが、日本の大学入試は、メンバー数の限られた「一流大学」というクラブへの入会試験となっている。

にび(3)入会試験の競争は、人工的に難しくなっていく。そこで得られる知識や経験は、グローバル化した偶有性の文明の中で生きていく上で役に立たない。 自然科学や技術に通じる「理系」の科目はまだしも、細かい人名や年号の知識を前提にする「歴史」の入試科目は、時代錯誤もはななだしい。

にび(4)大学入試が「クラブへの入会試験」である結果、どのようなことが起こるかというと、クラブに入るともう勉強しない。必死さがなくなる。18歳の時点の入試など、知の無限の宇宙から見ればひよっこなのに、それで自分が賢いと勘違いしてしまう。

にび(5)日本の企業の愚行が、「クラブ入会試験」の競争に拍車をかける。事情通に聞いたところでは、日本の企業は18歳の時の入試の学力にしか基本的に興味がないのだという。だから、それなら大学一年から採用しちまえという企業も当然出てくる。

にび(6)クラブへの入会資格を争うのは、後進地域の基本的な属性であろう。結局、明治維新からこの方、日本の文化の「中枢」は、世界の田舎から脱するこ とができなかった。自分たちが中心だと思えば、真の実力でフェアに競うという文化ができるが、周縁だと思うと、クラブ入会ではいおしまいになる。

にび(7)街を歩いていてトキワ荘に偶然でくわしたときは本当に感動したな。日本のシリコンバレーはトキワ荘にあった。社会のエスタブリッシュメントから はばかにされ、でも漫画家たちが夢を競い合った聖地。結局、世界的に通じる文化が生まれたのは、東大ではなくトキワ荘だった。

にび(8)エリートの堕落。日本の問題点はおそらくこれに尽きる。クラブへの入会試験(世界的にみれば大したクラブでもないのに)を通ると、あとは官僚で も大企業でも通じると思っている。甘い。ぬるま湯のクラブ化した日本の大学の解体的出直しをしないと、日本の再生はない。

にび(9)残念なのは、ガラパゴス化した日本の大学をとりあえず目指す以外に、小中校生の選択肢があまりないこと。本当は、大人たちが日本の教育のビッ グ・バンをしてあげなければいけない。しょぼいクラブの入会試験で青春の輝きをくもらせてしまうのは、あまりにももったいない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月10日土曜日

映画はみんなで観るもの

えみ(1)ぼくが21歳のとき、日米学生会議に参加して、アメリカ各地を回った。あれは確かミシガン大学に行ったときだと思うが、アメリカ人がキャンパスを歩きながら、「今日はロッキー・ホラー・ショーがあるんだ!」と興奮しながら話していた。

えみ(2)「なに、それ?」と聞くと、なんでもB級映画なんだけれども、みんなで変装していって、映画を観ながら騒ぐのだという。「へえ、それは面白そうだね」と言ったが、結局観に行かなかった。未だに『ロッキー・ホラー・ショー』は観ていない。

えみ(3)子どもの頃、東映マンガ祭りに行ったり、ゴジラ映画を観にいくと、みんなでわいわい盛り上がるのが本当に楽しかった。あれは南海の決闘だったか。ゴジラが野球をやるばからしいシーンがあって、みんなで「うわあ」と叫んだのが、今でも忘れられぬ。

えみ(4)いつしか時代は流れ、映画はビデオで観るものになった。そうなるとカウチポテトという新しい喜びがあらわれたが、みんな心のどこかで、「いっしょに観て盛り上がる」楽しみのようなものを求めていたのではないか。

えみ(5)先日ニコニコ生放送の公式番組を製作しているセルに行ったとき、今度ニコ生では本格的に映画の配信を始めるのだという。へえ、それはいいな、と 思った。映画を観ながら、弾幕でみんなが盛り上がる。ああだこうだとツッコミながら観たら、映画鑑賞が楽しくなるだろう。

えみ(6)ニコ生でみんなが盛り上がりながら観るのに適した映画というものがあるはずで、B級ホラー映画とか、シベリア超特急とか、丹波哲郎の『大霊界』シリーズ(死んだら驚いた!)とか観ながら弾幕攻撃をしたら、きっと今までにない体験がそこから生まれるだろう。

えみ(7)鍵は「シンクロ」ということ。大勢の人が同時に観ることで、映画鑑賞が新しい次元になる。昨日、『天空の城ラピュタ』の放送時に、「バルス」の 呪文でツイッターのつぶやきの最高記録が出て、サバーが停留したというニュースで、「ああ、これを求めているんだよな」と思った。

えみ(8)ネットのような同時並列の多様なメディアに対して、テレビのようなブロードキャストが生き残る道は、視聴者にシンクロした体験を提供して、「みんなで観た」という感動を与えることだろう。ビデオの個別視聴から「バルス」的シンクロ視聴に回帰する気配を感じる。

えみ(9)熱帯雨林のホタルって、シンクロして光るんだよね。みんなでぱっ、ぱっ、というのは、生命としての本能の一つなのでしょう。今夜起きる皆既月食も、共同体験の一つのきっかけ。ふだんバラバラでも、つながる実感を、私たちはどこかで必要としている。

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2011年12月9日金曜日

国会の職責は、法律をつくることである

こほ(1)時々、「国会議員に出ないのですか?」と聞かれることがある。「全くそんな考えはない」と即座に答える。その任に非ずということが大きいけれども、もっと決定的な理由がある。それは、国会議員の職務に 関することである。

こほ(2)国会の役割は、言うまでもなく「立法府」ということ。ということは、議員の何よりの職責は、法律をつくるということだろう。法案を提出し、吟味 し、さまざまな角度から検討し、考える。それが国会議員というプロフェッションの本質である。そして、私はそれに向いていない。

こほ(3)なぜ向いていないかと言えば、法律は「人間が作ったもの」であり、社会のために大切だとは思うが、自然法則に対するほどの興味を持てないからである。また、法案を審議しようとおもったら、関連する法律など、膨大な量の専門的知識を持たなければならない。

こほ(4)国会議員を「先生」と呼び、選挙に当選することがあたかも「出世」と見るような風潮があるが、国会の本質が立法府だということをどれだけわかっ ているか。現職の議員たちも、「先生」と言われながら、果たしてどれくらい法律について猛勉強して考えているか、どうも疑わしい。

こほ(5)こんな事を書くのも、政権交代以降の自民党のふるまいに対する深い失望が大きい。そもそも野党としての経験は貴重なものであって、政権を担っていてはできない自由な見地からの現状批判や、大胆な政策立案に時間を費やすことができる。

こほ(6)ところが、今日会期末を迎える臨時国会で、一川防衛大臣と山岡国家公安委員長に対する問責決議案を提出するという。可決された大臣が出席する審 議は、拒否するのだという。両氏の資質についてはともかくとして、このような振る舞いが国益にどうつながるのか、私は理解できない。

こほ(7)政治においては、もちろん自党の利益を図るべきである。しかし、それも国益という上位概念に資する限りにおいてであって、単に国会審議を停滞さ せ、社会を前に進めるための法案を通すという議員の職責を忘れたかのようなふるまいは、単なる愚鈍と断じられても仕方がない。

こほ(8)東日本大震災以降の日本は、まったなしの課題が山積。そんな中、ねじれ国会が迅速な法案審議をできず、国益に資さない党利党略を図る場になって いることは、「法律をつくる」という国会議員の職責を忘れた行為だということができるだろう。自民党には、猛省を促したい。

こほ(9)現職の国会議員たちは、なぜ選挙に出たのか。日本をよくしたいと思って出たのではなかったのか。だったら、その思いを実行に移してほしい。日本の心ある人たちにとって、国会はどうでもいい存在になっている。先生と言われていい気になっている場合ではない。

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2011年12月8日木曜日

テレビが終わっているのは、メジャーだからである

てめ(1)日本人が大人しいとかいうけれど、徳川以来のことだろう。その前は下克上だった。その頃の文化が、今でも最高の質を示している。たとえば作者不詳の日月山水図屏風。文化のダイナミクスは、つまり下克上で支えられる。

てめ(2)最初は小さく、無視され、底辺にあるものが、その価値をもって急上昇し、みなに知られるようになる。文化の対流はこのプロセスを通してしか活性化しない。だから、メジャーなものにだけよりそっていては、ダイナミクスが肉体化しない。

てめ(3)良いものがわかる審美眼は大切だが、その結果として、メジャーなものだけを良い、と褒めるようになっては、その人の感性は鈍る。自分で引き受ける、身体性がなくなるからだ。お前はどうなんだよ、という問いかけに対して、下克上の切れ味がなくなってしまう。

てめ(4)テレビが終わっているとはよく言われることだが、その理由は、つまりはすでにメジャーなものばかり扱う傾向があるからだろう。もちろん、無名な ものがスターになる下克上がゼロではないが、メジャーなものばかり取りそろえていると、作る側も受け取る側も下克上が鈍る。

てめ(5)インターネットは、テレビに比べると玉石混交で、誰も知らない本当にマイナーなものから、そこそこに有名なものまで、いろいろなものが揃っている。だからこそ、受けての鑑識がとわれる。それだけではない。マイナーな作り手として、参加することだってできる。

てめ(6)歌番組だって、紅白歌合戦ばかり見ていたら、メジャーの邪気に当たってしまうのであって、無名のバンドの場末のコンサートとか、あるいは自分たちで下手くそな音楽をやってみるとか、そんなことをしていないと、クリエーターとしての感性は絶対に鈍る。

てめ(7)地方にいって、連続テレビ小説や大河ドラマで取り上げられたからとそれで町おこしをやっていると興ざめするのは、そこに下克上がないからだろう。せっかく地方にマイナーな良質のネタがあるのに、メジャーな感性で鈍らせてしまう。結局、何も見ていないのに等しい。

てめ(8)地方は、テレビなどのメジャーなメディアに取り入れられて感性を鈍らせるよりも、何でもありのインターネットで地道に自ら下克上をしかけた方がいい。その方が自分たちの感性が磨き上げられるし、陳腐な結果にもならない。

てめ(9)文化のダイナミクスから言えば、メジャーであることはすでに陳腐であるということである。マイナーな、ほとんど知られていないもの、しかし自分 の感性を揺さぶるものを見つけ、それに寄り添い、下克上を図ること。地方の活性化も、自分の成長も、徳川以前に 戻ることによって。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月7日水曜日

尾道でぼくも考えた

おぼ(1)東京芸大で教えていた頃の学生、津口在五が生まれ古郷の尾道に帰っていて、シネマ尾道で行われる「東京物語」の上演後のトークに誘ってくれた。津口だし、尾道だし、東京物語だし、二つ返事で行くと答えた。

おぼ(2)尾道の「坂道の街」は、今素敵なことになっていて、「空き家プロジェクト」で古い民家を再生し、若者が住み着く動きが出て来ている。象徴的なのは「ネコノテパン工場」で、最初にその姿を見たとき、あまりにもファンタスティックで呼吸が止まるかと思った。

おぼ(3)尾道の「坂道の街」では、AIR(アーティスト・イン・レジデンス)の活動も行われていて、芸術家たちが一定期間住み着いて、作品をつくる。二 つ見たけれども、どちらも素晴らしい出来で、尾道がアートの街として力を持っていくプロセスの目撃者になっているような気がした。

おぼ(4)尾道大学の存在も大きい。経済や美術の学科があり、尾道大学に進学したことがきっかけとなって尾道の街並みや風土が好きになり、そのまま住み着 いてしまったという若者も多い。魅力的な景観と、大学と。一つの街が新たな生命を得る一つのモデルケースが、尾道にあった。

おぼ(5)シネマ尾道で、小津安二郎の『東京物語』を見た。世界の映画人にこよなく愛される神品。幾度となく見ている作品だけれども、ロケ地の尾道で観賞 することには、独特のよろこびがあった。尾道の街は、実にこの作品で、人類の文化史に永遠の足跡を印したと言ってよいだろう。

おぼ(6)『東京物語』の中での、尾道の描かれ方が素敵である。老夫婦が尾道から東京に旅する。子どもたちは、それぞれの仕事に追われて、十分に愛情を示すことができない。「文明の圧迫」の下で、人間として本来大事なことを、忘れてしまっているのだ。

おぼ(7)ただ単に、その人がそこにいるから愛しみ、大切にする。そんな幸せの原理を、「東京」の子どもたちは忘れている。仕事や、勉強や、人間の能力を 量り売りし、取引する「市場原理」の下で、年老いた両親に対する 温かい気持ちを、十分に表現することができないでいる。

おぼ(8)『東京物語』の中の尾道は、夏目漱石も『坊っちゃん』の中で描いた私たちを駆り立て、せわしなくする「文明の圧迫」(その中には大学入試も、新卒一括採用も、TPPも入っている)への対抗原理の場として描かれることで、永遠の生命を得ることになった。

おぼ(9)尾道の街のリズムは、映画にあっている。尾道に旅して、シネマ尾道で映画を観る。そんな旅のスタイルが定着するのではないか。『東京物語』は、 できれば定期的に常に観賞できるようになってほしい。文明の圧迫から離れ、日常生活を見直す大切なきっかけになるはずだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月6日火曜日

のびるやつ、のびないやつ

のの(1)才能とはなんだろうか。性格的要素も大きいと思う。のびる人と、のびない人がいる。それは、一つの態度である。のびない人は、自分自身の態度で、のびないのだということに気付かない。もったいない。それは、人生の一つの悲劇である。

のの(2)話していると、なんとはなしに、この人はのびるか、のびないかということがわかる。わかいやつでのびるのは、とにかく背伸びしているうやつであ る。好奇心に満ちて、自分がまだよくわからないことでも、世界のいろいろなことに届こうとしている。つま先立ちのやつはのびる。

のの(3)一方、のびないやつは、自分語りを延々と続けたりする。なにか問題点を指摘すると、防護的になるやつものびない。客観的にみて、こんな穴がある じゃないか、というときに、はっと考え込むようなやつは伸びる。「それはこうで・・」と即座に誤魔化そうとするやつはのびない。

のの(4)人のせいにするやつはのびない。「世間って、こうじゃないですか」としたり顔でいうやつは、まずのびない。したり顔は一般にのびない。世間の常識がどうであれ、あれ、そうでしたっけ、というような涼しい顔をしているやつは、ときどき驚くほどぐーんと伸びる。

のの(5)一般に、ノーガードなやつは伸びる。ボディブローを何発打ち込まれても、それでも無防備で平気で打たれている。猜疑心の強いやつ、がちがちに防御しているやつはのびない。むしろ、打つんなら打ってみろとばかり、パンチをぶんぶんふりまわしてくるやつはのびる。

のの(6)自分がいかにダメか、至らないかという認識を、くそう、と反撃へのバネにできるやつはのびる。一方、だから無駄なんだとぐずぐず潜っていくやつ は、のびない。潜ること自体を美学にするやつもいる。そこで花が咲くこともあるけれども、ただ泥沼になってしまうこともままある。

のの(7)他人の助けを安易に借りるやつはのびない。一方、他人の美質を素直に認め、抱擁するやつはのびる。一般に、自己顕示欲の強いやつは案外伸びな い。自分のことばかりで、他人が視野に入っていないからだ。クリエーターにはナルシストが多いが、それぞれの器で作品をつくる。

のの(8)共感の振れ幅が大きいやつはのびる。ぐーんと自分の感覚が広がって、しかるに自分の身体へと帰っていくことができるやつ。振れても、いっちゃっ たままで、自分に戻ってこれないと伸びない。ものを知らないやつは伸びない。もっとも、それに気付いたとき、超新星爆発するやつもいる。

のの(9)人生の目的は自己実現であろう。私たち一人ひとりの中に、のばされるべき可能性の核がある。自己弁護や、自己正当化、自己欺瞞、見栄、虚栄、そ んなものでじゃましてちゃもったいないよね。若い時は、ダメな 性質が極端にでがちなものだから、特に注意せねばならない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月5日月曜日

赤毛のアン症候群。自分が一番イヤだと思っている特徴が、実はチャームポイントになることがある

あじ(1)『赤毛のアン』(Anne of Green Gables)を小学校のときに読んで好きになり、高校では英語で全部読んだ。プリンスエドワード島にも行った。というような過去をカミングアウトしたの は数年前のことであるが、この小説にはいろいろ面白いところがある。

あじ(2)名作というのはなんでもそうで、あとで「はっ」と気付くことがたくさんある。ずっとあとになって「なるほどな」と思ったのが、アンの赤毛。本人 はこれがイヤで仕方がない。自分の人生の、致命的な欠点だと思っている。赤毛であるかぎり、完璧な世の中などないとさえ。

あじ(3)ところが、周囲から見ると、そうでもない。むしろ、赤毛はアンの魅力でもある。自分から見るとイヤで仕方がない自分の特徴が、他人から見れば魅力的なポイントであること。このギャップを、「赤毛のアン症候群」と名付けよう。

あじ(4)後にアンと結婚することになるギルバートも、ひと目見てアンを素敵だと思ったのである。男の子が好きな女の子に対してよくやるように、ギルバー トも、その魅力的な特徴であるアンの赤い髪の毛をひっぱったのであるが、これが、数年間にわたる「冷戦」を引き起こすきっかけとなった。

あじ(5)アンからすれば、自分という存在の最大にして拭いがたい欠点である「赤毛」を、ギルバートにからかわれたと思ったのである。たしかに、ギルバートは引っ張りながら「ニンジン!」と言ったのであるが、それは、 単なるたとえにすぎなかったのである。

あじ(6)他人から見ればそれほどイヤではなく、むしろ魅力的な特徴なのに、本人がそれを気にして、隠したい、穴があったら入りたいと思っている。これは、アン・シャーリーだけでなく、さまざまな人に当てはまりそうだ。

あじ(7)私の場合でいえば、くせ毛。絶対に夜は洗わない。翌日、ぴょんぴょんしてしまうからだ。小学校の頃、髪の毛が飛び跳ねていやでたまらなかった。さらさらヘアの伊草孝志とかが、うらやましくて仕方がなかった。

あじ(8)そのもじゃもじゃの髪が、そのうち、そんなに悪くもないんだと思えてきたのは、思春期も最後の方になってからだった。もじゃもじゃの髪という自分の「特徴」を、最大の欠点と思っていた自分から開放されたのである。

あじ(9)「赤毛のアン症候群」は、思春期において特に顕著に表れるのかもしれないが、何歳になっても無縁ではないだろう。国全体としても。たとえば、日本人。自分たちが恥ずかしくて隠したいと思いがちな日本文化の特徴が、外国から見れば実は一番魅力的なのである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月4日日曜日

『巨人の星』に見られるように、「道」は日本人にとって空気のように自然なことであった

きみ(1)私が子どもの頃に大いに影響を受けた作品の一つに、アニメ『巨人の星』がある。土曜の19時から日本テレビで。ちょうど小学校に上がる頃に放映されていた。父がいると、「七時のニュース」に換えられてしまうので、悲しかった。

きみ(2)なぜ『巨人の星』に惹き付けられたのかと言えば、「自分を乗りこえていく」その克己の精神に共鳴したのではないかと思う。今の自分の限界を超えて、新しい自分になる。そのプロセスで凄まじいまでの努力をする。その感覚が、6歳くらいの私に、ちょうどはまった。

きみ(3)星飛雄馬は、大リーグボール養成ギブスをつけて剛速球投手になる。しかし、欠点があった。体重が小さいため、球質が軽いのだ。ピッチャーとして致命的な欠陥。野球選手としての生命が危うくなるが、ここであきらめるような飛雄馬ではない。

きみ(4)飛雄馬は、禅寺にこもって座禅する。何度も打たれてしまう。老師に、「打たれまいと思うから打たれる。打たれてもかまわない、いや一歩進んで打ってもらおう。そう思って開き直った時に道が開ける」と諭される。

きみ(5)老師の言葉がヒントとなって、相手のバットめがけて球を投げる魔球、大リーグボール1号ができあがる。荒唐無稽なフィクションだけれども、子どもの頃、本当にできると思って仲間たちと練習した。オレたちはそのとき本気だった。

きみ(6)『巨人の星』は、スポーツを、自己鍛錬の「道」としてとらえる。今の自分の限界を見つめ、それを乗りこえようとすること。『アタックナンバー 1』でも、『エースをねらえ』でも、『キャプテン翼』でも、日本人にとってはスポーツが「道」であることは、ごく自然な感覚である。

きみ(7)だから、以前ロサンジェルズタイムズの記者に真顔で聞かれて驚いた。「日本人は、なぜ野球選手に人生哲学を聞こうと思うのか? アメリカでは、彼らはアスリートでエンターティナーではあるけど、その哲学を聞こうとは思わない」と言われたのだ。

きみ(8)今の自分を乗りこえて、それを克服していこうという態度。それが、スポーツにおいてごく自然に結びつくのは、日本人が特に強く持っている一つの文化的態度であり、それが空気のように自然なので、私たちはその価値をふだんは忘れてしまっている。

きみ(9)スティーヴ・ジョブズが禅宗の僧侶に「心を整える」ことを教えられて活かしたように、最近ではむしろ国外から日本の「道」の伝統の良さを教わる ことも増えてきた。ネット上で、他人を揶揄、批判して低コストの満足を得る人が増えてきているのを見ると、日本の「道」もどうやら危うい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月3日土曜日

システムは揺るがず、反逆は青ざめる

しは(1)名古屋から帰ってくる新幹線の車内で、まずはみそかつえびふりゃー弁当をたべ、それから新潮社の金寿喚さんとよしなしごとを話ながら帰ってきた。東京まで約90分。いろいろ話すことがあったので、あっという間についた。

しは(2)新書の企画のことなど、いろいろなことを話す中で、「システム」の話になった。何かまだ名付けられていないものがある。さまざまなできごとが あっても、あっという間に吸収され、陳腐化し、忘れられてしまう。「システム」に対する態度をどうするかが、私たちの課題になる。

しは(3)Googleは一つのシステムである。梅田望夫さんが指摘されたように、私たちがいろいろな活動をする中で、googleは次第に賢くなっていく。すべては検索の空間の中で消費され、連絡され、そして私たちはそこにぶらさがるノードになる。

しは(4)資本主義も、一つの強固なシステムである。社会主義的な考えかたさえ、自分の中に取り入れてより強固なものとした。環境思想など、資本主義に対する挑戦として表れた動きは、やがて回収、吸収されて資本主義を増強する結果となる。

しは(5)しかし、私たちを取り囲んでいる「システム」は、資本主義や「google」をその中に含むが、より包括的で強固な、未だ名付けられていないものなのではないか。それは個々の国家さえも超えて、一つの分かちがたい存在を、この地球上に現出させている。

しは(6)ウィキリークスが登場したとき、国家というものの存在が揺らぐように感じられた。ノーベル平和賞の権威を中国が拒否した時、価値の体系を無視し て動く主体の登場を見た。アラブの春が、新時代の到来を告げた。しかし、これらの全ての動きも、やがて「システム」に回収される。

しは(7)フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を書いたが、今、世界は確かに一つの「終わり」を迎えている。主権国家も、「システム」の一構成要素で しかない。アメリカやロシアの大統領が「権力者」であると言い方は、茶番のようにさえ見える。彼らもまた、システムにぶら下がるか弱き子羊。

しは(8)核保有国の指導者たちは、理論的にはボタン一つで全面核戦争を起こす力を持つが、そのような状況が継続していることと、彼らが一市民と何ら変わ らない、システムにぶらさがる脆弱な人間であることの間で、喜劇が演じられている。大国の大統領だって、翻弄される木の葉に過ぎぬ。

しは(9)システムへの反逆は、若者の特権だったが、資本主義の打倒やインターネットへの反対運動が無効であること以上に、反逆が意味を持たないシステム が、世界を覆いつつある。その正体が何なのか、まだ誰も名前をつけていない。それはグローバル化の必然的帰結なのだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月2日金曜日

それぞれのみじめさを持ち寄ったら、自分のみじめさを持ち帰りたくなる

そじ(1)日本の国には、さまざまな問題点がある。新卒一括採用。インターネット、グローバル化の時代にそぐわない大学入試。日本をよくするために、これらの課題に取り組むことは大切なこととして、世界の中で、日本だけがみじめなのかと言えば、そんなことはない。

そじ(2)心理的な遠近感というものがあり、遠くのものは、良い部分がよく見える。自分自身のことは、悪いところがよく見える。公平に見て、日本が抱えているみじめさは、アメリカやイギリス、中国が抱えているさほど 変わらないだろう。大切なのは、行き交うことなのだ。

そじ(3)アメリカ人と話していると、ワシントンの連邦政府に対して、日本の霞ヶ関と同じくらい激烈に批判するし、教育システムについても、日本の文科省と同じくらいにサイテーだと言う。自分の国のことは、いろいろとアラが目立つのだ。

そじ(4)イギリス人と話していると、イギリスの社会がいかに腐敗して、ダメになっているかとよく話す。「日本人はとりわけ自虐的」だというのは全くの俗 説で、どの国でも心ある人たちは現状を嘆き、憤慨している。ただ、遠近法の中で、そのようなマイナスの要素は消えていってしまうのだ。

そじ(5)交易という視点から見れば、ダメなところを交換しても仕方がない。だからこそ、遠くの人の良いところを、見つけようとする。結果として、うちに 籠もった忿怒のエネルギーは抜けていってしまう。隣りの芝生が青く見えるのは、グローバルな交換経済のいわば宿命である。

そじ(6)日本の国のよいところも、遠近法で外に出ると初めてわかる。人の営みと自然が調和した「里山」の景観や、「おまかせ」という料理の提供の仕方、さまざまなクオリアに対する感受性など、外から遠くから見て、はじめてわかる日本の良さがある。

そじ(7)大切なのは、遠近法である。そして、内側からの視点ではなく、「遠く」から見てなおも残り、際だつ問題点こそが、その国の本当の課題である。私は、「新卒一括採用」や「大学入試」の問題は、遠くから見てもなおも目立つ日本の問題点だと、一貫して考えている。

そじ(8)ところで、私たちが、それぞれのみじめさを持ち寄ったとしたらどうだろう。イギリス人はイギリスの、アメリカ人はアメリカの、日本人は日本の社 会のみじめさを持ち寄る。お互いに見比べて、さて、交換しますかと言われたら、私たちは、むしろ自分たちのみじめさを持ち帰るのではないか。

そじ(9)他の国のみじめさには、自分たちの身体や歴史が反映されていない。日本のみじめさには、私たちの大切な文化や履歴が映し出される。だからこそ、 私たちは、自分たちのみじめさを抱きしめる。大切に持って帰る。どんなにみじめでも、それが私たち。自分たちでなんとかするしかない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月1日木曜日

新卒一括採用に対して宣戦布告

しせ(1)12月1日、先端技術が行き渡り、魅力的な文化を持ち世界から注目されるクールな国で、世界でも類を見ない奇妙な風習が始まる。判で押したよう な服装の学生たちが、神妙な顔で電車に乗っている。パソコンの前では、「エントリーシート」という謎の書類に取り組む若者がちが。

しせ(2)日本の「新卒一括採用」は、経済合理性がないだけでなく、多様な人材を育むという経済のイノベーションの原理にも反し、非典型的なキャリアの人に対から就業の機会を奪う、違法の疑いが極めて濃厚な、恥ずべき愚行である。

しせ(3)コンプライアンスという視点から見ても大いに疑問がある新卒一括採用という抑圧のシステムに乗って利益を上げるコンサルタントや、関連企業がある。CSRの観点からは、非典型的なキャリアの方に就業機会を与える活動に、一定のリソースを振り向けるべきだ。

しせ(4)3年の途中から始まる「新卒一括採用」は、そもそも大学で行われる専門教育を軽んじている。就活の片手間に出来るほど、学問というものは甘いものではない。大学における教育、研究に多少なりともかかわる人間として、新卒一括採用という愚行は看過できない。

しせ(5)新卒一括採用は、企業経営という視点から見て、合理性を根本的に欠いている。ジョブズが言う「点」と「点」を結ぶような人材は、むしろ、卒業後諸外国を見てきたり、さまざまな経験をしてきた人から生まれる。羊の群れのように従順に進んでいく人ばかり集めて、どうするというのだろう。

しせ(6)新卒一括採用のせいで、大学の学生たちは極端な抑圧の空気の中にある。いちばん学問をしたい時にできない。見聞を広めようとしても、就職に不利だからとあきらめる。そのことによる機会費用、見逃されたチャンスは膨大であり、国益に深刻な損害を与えている。

しせ(7)雨宮さんに聞いたのだけど、就活打倒デモをしていると、「デモをするくらいなら就活しろ」とヤジが飛んでくるのだという。学生は「就活するくらいならデモをしろ」と言い返したそうだ。その通り。時代遅れの就活に付き合っていたら、日本の社会的イノベーションは停滞してしまう。

しせ(8)日本が、インターネット、グローバル化という文明の波に適応できていないことは誰もが見る通り。ガラパゴス化を深刻にする新卒一括採用を続けて、国を滅ぼしたいのだろうか。多様な人材が、さまざまなキャリア パスを通れるようにして、初めて日本は復活への道をたどることができる。

しせ(9)結論。新卒一括採用は、大学での学問をないがしろにし、若者を抑圧するだけでなく、日本の国益を本質的に損なう。ここに、関係者の良識に訴えかけるとともに、新卒一括採用の打破に向けて、「宣戦布告」をするものである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。