2011年12月8日木曜日

テレビが終わっているのは、メジャーだからである

てめ(1)日本人が大人しいとかいうけれど、徳川以来のことだろう。その前は下克上だった。その頃の文化が、今でも最高の質を示している。たとえば作者不詳の日月山水図屏風。文化のダイナミクスは、つまり下克上で支えられる。

てめ(2)最初は小さく、無視され、底辺にあるものが、その価値をもって急上昇し、みなに知られるようになる。文化の対流はこのプロセスを通してしか活性化しない。だから、メジャーなものにだけよりそっていては、ダイナミクスが肉体化しない。

てめ(3)良いものがわかる審美眼は大切だが、その結果として、メジャーなものだけを良い、と褒めるようになっては、その人の感性は鈍る。自分で引き受ける、身体性がなくなるからだ。お前はどうなんだよ、という問いかけに対して、下克上の切れ味がなくなってしまう。

てめ(4)テレビが終わっているとはよく言われることだが、その理由は、つまりはすでにメジャーなものばかり扱う傾向があるからだろう。もちろん、無名な ものがスターになる下克上がゼロではないが、メジャーなものばかり取りそろえていると、作る側も受け取る側も下克上が鈍る。

てめ(5)インターネットは、テレビに比べると玉石混交で、誰も知らない本当にマイナーなものから、そこそこに有名なものまで、いろいろなものが揃っている。だからこそ、受けての鑑識がとわれる。それだけではない。マイナーな作り手として、参加することだってできる。

てめ(6)歌番組だって、紅白歌合戦ばかり見ていたら、メジャーの邪気に当たってしまうのであって、無名のバンドの場末のコンサートとか、あるいは自分たちで下手くそな音楽をやってみるとか、そんなことをしていないと、クリエーターとしての感性は絶対に鈍る。

てめ(7)地方にいって、連続テレビ小説や大河ドラマで取り上げられたからとそれで町おこしをやっていると興ざめするのは、そこに下克上がないからだろう。せっかく地方にマイナーな良質のネタがあるのに、メジャーな感性で鈍らせてしまう。結局、何も見ていないのに等しい。

てめ(8)地方は、テレビなどのメジャーなメディアに取り入れられて感性を鈍らせるよりも、何でもありのインターネットで地道に自ら下克上をしかけた方がいい。その方が自分たちの感性が磨き上げられるし、陳腐な結果にもならない。

てめ(9)文化のダイナミクスから言えば、メジャーであることはすでに陳腐であるということである。マイナーな、ほとんど知られていないもの、しかし自分 の感性を揺さぶるものを見つけ、それに寄り添い、下克上を図ること。地方の活性化も、自分の成長も、徳川以前に 戻ることによって。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。