2012年6月20日水曜日

千両みかん、たばこの火

せた(1)古典落語には、いろいろなものがあるけれども、私が特に好きなものは、ナンセンス系なのかもしれない。私たちの社会の中で前提とされている「価値観」をゆるがし、もう一度最初から考えなおさせる。ナンセンスの無重力空間を、私たちは時に必要としている。そうじゃないと堅苦しくなる。

せた(2)ナンセンス落語の筆頭は、「千両みかん」だろう。大店の若旦那が病にたおれる。「やわらかくて、ふっくらとした」というから恋患いかと思ったら、「みかんが食べたい」という。番頭さん、お安いご用と引き受けたが、よく考えたら暑い夏の盛り。当時はみかんなどあるはずがない。

せた(3)若旦那が死んだら、お前も主殺しで死刑だと旦那に脅された番頭さん、必死になって大阪中を駆け回って、やっとみかん問屋で一個のみかんを見つける。ところが、千両だという。看板商品を切らさぬようにたくさん囲ってあって、そのうちたった一個腐らなかったやつだから、それだけするという。

せた(4)番頭さんは腰を抜かすが、旦那は「息子の命が助かるなら安い!」と千両バーンと出す。若旦那は「おいしい美味しい」とみかんを食べ元気を取り戻す。「ありがとう。みかんが、ここにまだ3房ある。お前と、父、母で1房ずつ食べておくれ。」そこで番頭さんは、はたと考える。

せた(5)「けちな旦那が、子どものためならたった10房のみかんに千両出す。来年私がのれん分けしてもらうのは、せいぜい100両だ。まてよ、ここに300両分のみかんがある。ええい、あとは野となれやまとなれだ」と、番頭さんはみかん3房を持って逃げ出す。実にすばらしい幕切れではないか。

せた(6)番頭さんの勘違いを笑うのは簡単である。みかん一個が1000両だというのは、夏の暑い盛りにみかんを食べたいと無理難題を言う、大店の若旦那がいて始めて成立する価格。しかし、そもそも価値とは何か。お金とは何か、ナンセンスだからこそ、『千両みかん』は考えさせる。

せた(7)『千両みかん』と並ぶ壮大なナンセンス噺が『たばこの火』。高級料亭でお金を貸してくれという質素な客を断る。実は大旦那。もし貸していたら、何倍にもお礼になって戻ってきたのに、と後で知り悔しがる。今度その客が来たらいくらでも貸せるようにと、大阪中のお金を集めて、用意しておく。

せた(8)やがてやってきたそのお客。お店の人は張り切って「いくらご用立ていたしましょう? 千両ですか? 一万両ですか?」と尋ねると、だんなは、涼しい顔で、「いや、たばこの火をちょっと貸してほしいのじゃ」。人間の欲を相対化する、すばらしいオチ。さわやかな風が吹く。

せた(9)ナンセンス噺としては、もう一つ、『はてなの茶碗』という名作がある。注目すべきは、『千両みかん』にせよ、『たばこの火』にしても、『はてなの茶碗』にしても、すべて上方落語。今日の吉本に通じるユーモアのセンスがそこに。堅苦しくなりがちな東京に対する、大阪のパワーがそこにある。

2012年6月19日火曜日

人間として、目を開けばいいんだよ

にめ(1)昨日、鳩山由紀夫さんの「サイエンス・フォーラム」に参加してお話した。いわゆるfund raisingの会合。以前から鳩山さんとはお目にかかっていろいろお話させていただいており、依頼されたときに喜んでうかがいますと答えた。プリンスホテルの会場は、いっぱいだった。

にめ(2)まずは私が30分話して、それから鳩山由紀夫さんとの対談であった。会場の後ろを見ると、各局のテレビカメラが並んでいたから、それじゃあ、少し「サービス」して、後半の対談では、いろいろメディアが聞きたいことを聞こうかと思い、消費税、民主党、その他いろいろ鳩山さんに伺った。

にめ(3)鳩山さんは、逃げたりごまかしたりすることなく、とても真摯にお答えになった。どんなニュースになるか、と思って今朝ネットをチェックしてみると、いくつか記事になっている。その字面を眺めていて、以前から感じていたマスコミの問題点が、改めて胸に迫ってきた。

にめ(4)記者クラブや、「政局部」の弊害については言い尽くされた感がある。しかし、そこには生身の記者がいるはずだ。ところが、政治記事の「定型性」の中に閉じ込められて、記者たちの生の感性が伝わってこない。まるで人工知能、あるいはゾンビのような記事になってしまっているのだ。

にめ(5)「天声人語」が、花鳥風月を論じている間はそれなりに読めるが、政治ネタになった瞬間に力を失うように、定型性の限界は、記者たちが現場で感じたことによって突破されるしかない。ところが、日本の政治記事は、カテゴリーとして、ありきたりの型に押し込められるため、感動がないのだ。

にめ(6)昨日、鳩山由紀夫さんとお話していて、はっとした瞬間がある。鳩山さんが、「ぼくのように、既得権益を何とか打破しようと思い詰めて行動している人間を、マスコミはどうしても・・」と言われたその時。私はひとりの人間の「魂」に触れたような気がして、はっと鳩山さんを見た。

にめ(7)考えてみれば、鳩山由紀夫さんほどの「エスタブリッシュメント」はそれほどいない。その鳩山さんが、「既得権益」にメスを入れようと思い詰めた、その理由は何か。その点にこそ、鳩山由紀夫という政治家を理解する上での核心があるのに、記者クラブメディアの定型性はそれを伝えない。

にめ(8)まずはシロアリ退治をしようと政権をとったのに、シロアリ退治をする前に消費税増税に走ってしまっている現状。そんな民主党の現在に対し、日本を改革しようと民主党をつくった鳩山さんは当然いらだっているはずだし、その感触を伝えるメディアがあっていいのに、相変わらず無味乾燥な記事。

にめ(9)別に記者クラブがあっていい。一人ひとりの記者が、生身の人間ならば。ゾンビのように定型的な記事を垂れ流すがゆえに、日本の政治記事はつまらない。伝わるべき情報が、伝わっていない。それが、閉鎖性ゆえの談合体質、競争の不在に起因しているならば、開いて新しい空気を入れるしかない。

2012年6月18日月曜日

かえってきた、フェイスブック

かふ(1)twitterの面白さは、ある問題についてさまざまな角度からの意見や考えが得られることで、「ミーム」の淘汰、進化には適している。それに比べて、フェイスブックは、ゆるくて、まったりしていて、それが不満である、ということはこの欄でも何回か申し上げた次第。

かふ(2)ところが、人間の気分というのは不思議なもので、丁々発止、キッタハッタの論争、泥仕合に疲れてきたな、と思う季節が訪れた。この二年くらい、twitter上でさまざまな議論をしてきたが、それだけだと人生イヤだな、と思うようになった。とりわけ、正解のない問題について。

かふ(3)世の中には、こんな奇妙な考えをする人がいるんだ、感情の勢いをのせてしまうことがあるんだ、人を罵倒し、風刺して自分は匿名でふふふしている人がいるんだ、というのはサンプリングとしては面白いものの、それはこっちが元気なうちで、疲れてくるとうっとうしくなる。

かふ(4)それで、二三日前から、フェイスブックで少し長めの文章を載せ始めて(http://www.facebook.com/ken.mogi.1)気づいたことがある。フェイスブックは、市場性のないもの(あるいは小さいもの)を、ゆっくりと、穏やかに、育んでいくのには適した媒体であると。

かふ(5)もともと、フェイスブックに対する不満は、それが仲間内の写真の見せ合いや、日常のつぶやきを「イイネ!」とするゆるい場になりがちだ、という事だった。しかし、違う視点もあることに気づいた。それは、例えば、一つのコンサートの準備のプロセスについて考察すると見えてくる。

かふ(6)コンサートという一つの「作品」をつくる際には、当然そのことに「関心」がある人たちが劇場を占める。興味もない人や、反対派や、匿名の皮肉屋がそこにいたら、創造のオーラが失われる。そして、市場性がある必要はかならずしもない。むしろ、マイナーなことでいい。

かふ(7)自分が何をたべたとか、誰に会ったとか、そのようなことはもともと「マイナー」な私的領域である。しかし、それ以外にも私的領域はある。世間を騒がせるような大きな出来事以外にも、長い目で見ると、大切なことの種が、たくさんあって、それを育むには温かいコミュニティが必要だ。

かふ(8)過去1年間、日本社会を分断してきたさまざまな問題は、確かに重要であり、twitter上の重要な案件であった。しかし、世界はそのようなことだけで出来ているのではない。もっとゆっくり、小さく、育んでいくべき大切なことがある。twitterを炎上させるような市場性はないけど。

かふ(9)市場性のないことを、ゆっくりと、育んでいく。必ずしも日常生活のような私的なことではなく、むしろ文化的なこと、概念的なこと。そのようなかたちでフェイスブックを使うとしたら、有意義だということに気づいた。それはつまり、私自身がそちらの方に回帰していく兆しなのだろう。

2012年6月17日日曜日

ダンヒルのライターだったということが、大切なんだよ

だた(1)新潮社で、小林秀雄さんの担当の編集者をされた池田雅延さんに、いろいろなことを教えていただいている。池田さんが朝日カルチャーセンターで小林さんのことを語った時の音声が、私の弟子の野澤真一が運営しているもぎけんPodcastにある。http://bit.ly/LWmXPv

だた(2)その池田さんに、小林秀雄さんのことをご講義いただく「池田塾」が始まって、5回を数えた。池田さんが凛としたたたずまいで、生前の小林秀雄さんのことを含めて、さまざまなことを教えて下さっている。池田さんがテクストに選ばれたのは、「美を求める心」。この文章を、一年かけて読む。

だた(3)池田さんによれば、難解だと思われがちな小林秀雄の文章ではあるが、「美を求める心」は、その小林さんが中学生でもわかるように書いた、一つの文章の到達点。そして、もっとも大切なことが、その中に書かれているのだという。この長くはない文章を、一年かけてじっくり読んでいくのだ。

だた(4)昨日読んだ箇所に、ダンヒルのライターの話があった。小林さんが自宅のテーブルの上に、ダンヒルのライターを置いておく。お客さんはそれをとりあげるが、「ライターか」「ダンヒルですね」と言って、それ以上見ようとしない。その美しさに、関心を払わない。

だた(5)「ダンヒルのライター」という、ラベルや機能を把握しただけで、満足してしまう怠慢さが人間の中にはある。それ以上に対象に向き合えるか。小林さんが書かれていることは、現代的な用語で言えばクオリアの問題であり、現象学的なエポケーの問題であると思う。

だた(6)ここで大切なのは、それがダンヒルのライターだったということである。名前や機能を超えて対象にきちんと向き合うことは、観念的に語ることもできる。しかし、それを「ダンヒルのライター」という具体的な例に託して語っている点に、小林秀雄の人生の一回性も、表現の工夫もあると思う。

だた(7)そんなことを池田さんや塾生に言ったら、池田さんが話をして下さった。小林秀雄さんは、1954年だったか、戦後、初めての外国旅行に行く。当時は外貨制限もあり、難しかったので、朝日新聞が特派員にしてくれて、今日出海さんと半年ヨーロッパに行ったのだという。

だた(8)出発前、小林秀雄さんは、「観念でいっぱいになったヨーロッパを見てくる」という意味のことを言われたのだという。文学や絵画で通暁したヨーロッパの文化に、実際に触れる。現地に行った小林さんは、ルーブルだけで3日も通って、徹底的に絵画を見る。そんな中でダンヒルとの出会いがある。

だた(9)だから、ダンヒルのライターだった。観念だったヨーロッパの文化が、生活や現物に落ちてきた、その象徴としての、また自身の人生の履歴としてのダンヒルのライター。誰の人生にも、ダンヒルのライターはあるだろう。問題は、抽象的な観念に満足せずに、それに向き合うことができるかだ。

2012年6月16日土曜日

著作権法改正案は、誰を保護しようとしているのか

ちだ(1)グーグルのオフィス。スライドを、ほとんど一秒ごとに変えながら、早口でまくし立てる、眼鏡をかけた男がいる。「amvって知っているか? そうか、グーグルの人たちに教えることがあるなんてうれしいよ」会場爆笑。男は、アニメを編集して、音楽をつけたremix作品を見せ始めた。

ちだ(2)男の名前は、ローレンス・レッシグ。ハーバード大学で法学の教授をつとめる。ロースクールでも教鞭をとる。レッシグは、インターネット時代における著作権のあり方についての論客である。オープンでフリーなネットの文化。そこで起こっている新しい事象に着目する。

ちだ(3)レシッグのグーグル講演(http://bit.ly/LOFfRD)の文明観を昨日衆議院で成立した著作権法改正案を比べると後者の恐竜ぶりに絶望する。米国にも、保守主義者がいないわけではない。問題は、日本には例えば東大法学部にレシッグのような新文明の論客がいないことだろう。

ちだ(4)そもそも、著作権法改正案は、誰を保護しようとしているのか? 音楽を例にとれば、作曲家や演奏家がフェアな報酬を得ることは当然である。しかし、どのように生活するかという「ビジネス・モデル」は、時代とともに変わる。ネットに音楽があふれていても、人々はライブにかけつける。

ちだ(5)実際、ライヴ・コンサートには人が詰めかけている。ロック・フェスは盛況である。音楽家が生活していく方法は、時代とともに変わる。CDやDVDが売れないという。それが、音楽や映画という産業の育成において、本当にそんなに問題なのか?

ちだ(6)インターネットは、「中間業者」を淘汰する文明の波である。音楽家がいる。聴衆がいる。本質はそれだけ。CDをつくったり、DVDを売ったりする人たちに、固有の「権利」があるわけではない。時代の流れとともに市場構造が変わるのは当たり前。法律は既得権益を守るためにあるのではない。

ちだ(7)新しい技術が出てきた時に、権利の保護と、情報流通の自由をどのように調和するか。重要な問題である。だからこそ、既得権益者の声だけで、罰則規定があるような法律を作るべきではない。それは、一つの「恐竜の愚行」であろう。もっとも高度な文明観が必要とされる分野なのだ。

ちだ(8)このような法案は、本来、議員たちがさまざまな専門家にヒヤリングして、議論を尽くし、文明を先に進めつつ本当に保護されるべき人たちが保護されるような形にすべき。文部科学省が改正案を提出するというのは最悪の選択である。役人たちは、その本質において保守的なものだからだ。

ちだ(9)いろいろな考え方があっていい。しかし、日本には、レッシグのような論客、文明観がもっと必要。昨日、衆議院で文部科学省提出の著作権法改正案が成立したことは、はからずも、日本がインターネットという文明の波を作り出す側ではなく、もたもた遅れてついていく国であることを示した。

2012年6月15日金曜日

肩書きや組織ではない、安全基地を鍛えよ!

かあ(1)あなたの脳が、健康な状態かどうか、簡単に判別できるテストがある。人生においては、不確実性が避けられない。あなたは、これから人生で起こる不確実性が、不安ですか? それとも、楽しみですか? この問いに対する答えで、あなたの脳の健康度がわかる。

かあ(2)これからの人生の不確実性が、楽しみだという人は、脳が健康な状態にある。一方、不安だという方は、これから書くことを参考にして、自分の人生を見直してほしい。不確実性を楽しむことができるようになってこそ、人間は発展ができるし、幸せな人生を送ることができるのである。

かあ(3)もともと、何が起きるかわからないということは楽しみなことである。子どもの頃、遠足にの前の日はわくわくしてなかなか眠れなかったのではないか? 明日、どんな経験が待っているかわからない。その不確実性が、脳を刺激して、眠れないほど興奮するのである。

かあ(4)子どもの頃は、「人生で初めて」のことがあふれているから、脳もそれに根拠のない自信を持って向き合える。ところが、大人になると、大抵のことは経験済みになる。そのために、不確実なこと、新しいことが苦手な人が出てくる。その気になれば、勝手を知った「村社会」に引きこもれるからだ。

かあ(5)不確実性に向き合うためには、「根拠のない自信」が必要である。そして、根拠のない自信を支えるのが、「安全基地」。子どもが新しいことにチャレンジできるのも、保護者が見守るという「安全基地」が、ある程度の確実性の基盤を与えてくれるからである。

かあ(6)大人になっても同じこと。自分の中に、スキルや経験、価値観などの揺るぎない安全基地がある人は、臆することなく不確実性に向き合える。不確実性が不安だという人は、自分自身の安全基地をもう一度点検してみてはどうだろう。確実性と不確実性の脳内ポルトフォリオを見直すのである。

かあ(7)問題は、何が自分の「安全基地」になるか。「肩書き」や「組織」といった、日本社会で従来安心のもととなってきた属性は、変化の時代には役に立たない。むしろ、そのような村社会的なよりどころは、激変の時代には邪魔になる。個人の発展を阻害し、社会を停滞させてしまう。

かあ(8)組織や肩書き、学歴といったラベルではなく、実質的な経験、知識、スキルへと「安全基地」を移行していくこと。この「体重移動」に成功している人は、どんなに変化があっても不安には感じない。むしろ、不確実性をこちらから迎えにいくくらいの勢いで、時代を疾走していけるのだ。

かあ(9)肩書き、組織に依存しない自分自身の安全基地を内在化させるためには、「ホーム」だけでなく「アウェイ」の闘いを経験することが必要である。自分自身が何者であるか、実力で示さなければならない現場。「部長」が「ただのおじさん」になるようなアウェイでこそ、「根拠のない自信」が輝く。

2012年6月14日木曜日

いきなりトップスピードは、水道から水が出るようなものである

いす(1)先日、マイケル・サンデルさんの授業の収録でNHKに行った時のこと(番組は好評で、BS1で、6月17(日)午前1時から2時49分(16日(土)の深夜) に再放送されるそうです!)。一つ、びっくりしたことがあった。サンデルさんが入ってきて、いきなり収録が始まったのだ。

いす(2)丸いセットにサンデルさんが歩み入ると、間髪を入れず、本題を切り出した。その様子を見ていて、ああ、サンデルさんは「役者」でもあるのだと思った。ハーバードの『ジャスティス』の授業は、一つの演劇でもある。そして、いきなりトップスピードに入るのだ。

いす(3)いきなりトップスピードに入る、というと思い出すのがタイガー・ジェット・シンである。猪木が花束贈呈を受けていると、サーベルで殴りかかる。段取りや根回しなしで瞬時に本題に入る。その生命のリズムが心地よくて、私は子どもの頃シンのファイトを見るのが大好きだった。

いす(4)橋下徹さんもいきなりトップスピードの人である。記者会見などを見ていると、会見場に入ってくるなり、いきなり本題に入る。あのスピード感が、従来の政治家のもたもたした感じから一線を画していて、好感を持てる。あのリズムでやらないと、疾走する現代においては適応できないと思う。

いす(5)そして、話題のTEDもまたいきなりトップスピードのスタイルであることは言うまでもない。もともと各スピーカーに割り当てられた時間が短いが、その時間を一秒もムダにしないように、すぐに本題に入る。日本のモタモタ、うだうだのスピーチを見慣れた人にとっては、剛速球に見えるだろう。

いす(6)パブリックな現場でいきなりトップスピードの人を見ると好感が持てるのは、ふだんもそうだと推論できるから。サンデルさんがハーバードの部屋で仕事をする時、おそらく座ってすぐに没頭するのだろう。他人の目に見えるところでいきなりトップスピードの人は、誰がいなくてもそうしている。

いす(7)逆に、パブリックでうだうだ、もたもた、根回し、段取りの人を見ていると、一人で仕事をしている時にも同じなのだろうと推論が働く。人が見ていないところで何をやるかが圧倒的に大きな意味を持つ。だからこそ、他人が見ている時くらい、うだうだもたもたしてはいけないのだ。

いす(8)いきなりトップスピード、というと、難しそうだが、要は脱抑制。抑制を外してあげれば、あとは蛇口から水が出るように簡単にできる。いきなりトップスピードができる人は、脱抑制の達人である。うだうだもたもたの人は、自分だけでなく他人も抑制する。だから迷惑である。

いす(9)日本人が脱抑制が比較的ヘタなのは、子どもの頃からちいちいぱっぱで抑制しておとなしくすることばかり学んでいるだろう。日本の世直しのために一番必要なことは、賢く脱抑制することを学ぶことかもしれぬ。いきなりトップスピードの練習を、誰も見ていない時からやるように心がけよう。

2012年6月13日水曜日

お金で、買えないものはありますか

おか(1)日本を改革することをべったおりで諦めたわけじゃなくて、徐々にやって行きたいと思う。一つの方法は同志を増やすことである。少しずつ、しかも できるだけ若い時(高校生くらい?)から現代のグローバルな文化に触れさせる。その一つの方法として、book clubはあると思った。

おか(2)そこで、Michael SandelのWhat money can't buyである。ツイートで興味を持ったら、是非、できれば原書で読んで欲しい。サンデル教授の、緻密なロジックを積み上げていく思考、その世界観が、日本 という文脈を超えた現代文明の息吹を運んでくるはず。

おか(3)サンデル氏がいきなり挙げる例が面白くて、アメリカのある州では、お金を払った囚人は、独房の「アップグレード」が出来て、他の囚人よりもきれ いで快適な部屋で過ごすことができるという。確か一泊85ドルとか書いてあったかな。ホリエモンだったら、そうするだろう。

おか(4)What money can't buyが挙げるアメリカの例は、なかなかに刺激的である。ある州では、決まった額を払うことで、一定の範囲内で「スピード違反」をする権利を与えることが 検討された。スピードガンで違反がわかっても、支払いをしている人は、警官が見逃すのだ。

おか(5)実際に行われている制度では、高速の優先レーンを走行する権利を、お金で買う。朝の渋滞時に、支払いをした優先レーン走行者と、一般レーン走行車では、平均速度が全く変わってしまう。そのような「市場メカニズム」の是非について、サンデル教授は検討を続ける。

おか(6)認知科学的に最も興味深いのは、あるお金が「罰金」なのか、それとも「利用料」なのかという視点だろう。ある託児所が、子どもを迎えに来るのに 遅刻した親に罰金を課したところ、むしろ遅刻が増えた。親は、罰金を、託児延長の「利用料」と考えるようになってしまったのである。

おか(7)スピード違反の罰金を、道路を高速で利用する「利用料」と考える運転者を排除するため、北欧のある国では収入に応じた「罰金」を課すことによって、懲罰的な意味合いを維持しているという。お金だけでは解決しない人間心理の問題である。

おか(8)サンデル教授は問う。友情はお金で買えるか。「利用料」で得た友情は、本当の友情とは言えないだろう。ノーベル賞委員会が、毎年一個の賞をオー クションしたらどうか。購入したノーベル賞は、もはや意味が違うだろう。マーケット原理では説明できない事象に、人間の本質が現れる。

おか(9)What money can't buyのような本を読むことの喜びは、サンデル教授のすぐれた考察に触れることと同時に、カテゴリーとして日本の文脈の中では存在しない思考のパターンを 知ること。だからこそ、できれば英語で読んだ方がいい。相対化することで、より日本が見えてくる。

2012年6月12日火曜日

あらためて、レディについて

あれ(1)昨日、紳士とレディの条件についてツイートしたら、多くの反響があった。どんな理不尽なことでも黙って受け入れる忍耐強さが紳士の条件である。一方、相手がある女性をレディとして扱った瞬間にレディとなるのだとツイートしたら、特に後者について、数々の疑問が寄せられた。

あれ(2)それでは、レディになるのは他人任せで、自発的なものではないかという疑問である。もっともな疑問であるし、そんなはずがないので、今朝は、「レディ」の条件について、改めて補足(clarification)をしてみたいと思う。

あれ(3)まず、レディは紳士と同じ資質を持つことは、男女とも人間なのだから当然である。その典型は、BBCの『サンダーバード』に出て来るレディ・ペネロープ。どんなに困難な状況下でも、決してその朝の湖のような静けさを失わない。淡々と物事に当たっている。

あれ(4)レディには、プリンシプルがある。日本で言えば白洲正子さんがそうだろう。韋駄天お正と言われながらも、凛と筋を貫く。レディ・ペネロープも、白洲正子さんも、ジェントルマンに通じる芯の確からしさがある。本質においては、男と女の区別はない。若干のスタイルの違いがあるだけだ。

あれ(5)綺麗な格好はレディの条件ではない。私が大学院生の時、隣の研究室で実験補助をしていた女性は、当時60歳くらい。正真正銘のレディだった。いつも長靴を履いて、ショウジョウバエの実験に使う試験管を洗っていた。その一方で、彼女はホームレスの方への炊き出しをされていたのである。

あれ(6)結局、レディは、内面の美しさがにじみ出るのだと思う。ショウジョウバエの試験管を大量に洗いながら、にこやかに今度の日曜の公園での炊き出しの話をされるその方は、神々しいまでのレディだった。そのありさまは、一つの神話的光景として、私の心に焼き付いている。

あれ(7)「女性にレディとして接した瞬間に、その女性はレディとなる」というのは、世の男性諸君に対する戒めであり、自らへの戒めでもある。レディとして接したときに、その女性の最も美しい内面が引き出されるのだ。そのことを、世の男性諸君は肝に銘じていなければならない。

あれ(8)最後に、おとぎ話を一つ。取材でアイラ島に行った時に会ったフィオナ・ミドルトンは、アザラシの前でヴァイオリンを弾くという不思議な女性だったが、西風の中に立っているようなレディーだった。私が脳科学者だと知ると、「私のこと、おかしいと思う?」とフィオナは言って笑った。

あれ(9)これは、個々人で見解の異なるところかもしれないが、レディには、森の中から出てきたような不思議さがあると、より好ましい。最近の「森ガール」という言葉は、レディの本質をとらえた言葉であると、私は考える。アザラシの前でヴァイオリンを構えたフィオナは、レディの典型だった。



2012年6月11日月曜日

紳士たれ、レディーとなれ

しれ(1)イギリスは「紳士」の国だという。そのことの意味が、ぼくにはよくわからなかった。お金持ちだからと言って、品性が高いとは限らない。ばりっと仕立てた服に、ステッキか何か持っていれば紳士かと言えば、そうでもないような気がする。結局、「紳士」って何なのだろう。

しれ(2)イギリスに留学していたとき、ぼくのボスのホラス・バーローは、間違いなく紳士だったけれども、紳士の格好はしていなかった。いつもよれよれのズボンと服で、ポケットに小銭を入れてじゃらじゃらしていた。それでも、ホラスは正真正銘の紳士だった。

しれ(3)紳士の資質の一つに、おおらかさがあると思う。世界や人間について、多くのことを知っているのである。だから、奇妙な振る舞いや、エキセントリックな感情に接しても、眉をちょっと動かすくらいで驚かない。そして、やり過ごすか、やんわりと無視する。本質的なことだけを見つめている。

しれ(4)紳士のもっとも本質的な態度は、他人の理不尽な要求や議論に対して現れる。だまって、奇妙な話を受け入れるのである。相手が言うことが支離滅裂でも、顔色を変えずにそれを通す。その忍耐強さの中に、紳士たるものの資質があるように思う。だから、ボロを着ていてもいいのだ。

しれ(5)一方、レディーとは何か。高い服を着ていれば、レディーであるわけではない。美しくないと、レディーになれないわけではない。イギリスでいろいろなことを観察しているうちに、ははあとわかった。レディーは、自分だけにおいてなるのではなく、他人との関係においてなるのである。

しれ(6)どんな女性でも、相手の男性が彼女をレディーとして扱った瞬間に、レディーとなる。若くなくても、美しくなくても、きれいな服を着ていなくても、その女性に対して男性がレディーとして接したときに、彼女はレディーになるのである。

しれ(7)映画『マイ・フェア・レディ』の印象的なシーン。ヒギンズ教授が、貧しい花売り娘のイライザを雑巾のように扱う。ところが、ピカリング大佐が、「どうぞ、腰掛けませんか、イライザ」と言った瞬間に、彼女はレディーになる。ボロを着ていても、レディーとして扱えば、レディーになるのだ。

しれ(8)つまり、紳士とレディーは、合わせ鏡のように、共生する存在である。紳士は、経験や余裕に裏打ちされた忍耐強さを持っている。そんな紳士が、ある女性に対してレディーとして接すれば、その女性はレディーとなる。そこには、お金や服装、社会的地位に関する要件があるわけではないのだ。

しれ(9)以上の紳士とレディーに関する考察は、現代の日本においてはおとぎ話だろう。心がぎすぎすしている。汚い言葉が飛び交う。怒号が支配する、そんな日本。しかし、だからこそ、紳士とレディーに関するフェアリー・テイルが必要だと感じる。諸君、紳士たれ。そして、レディーとなれ。


2012年6月10日日曜日

改革は、私やあなたが負けることから始まる

かわ(1)明治維新は、世界史でもまれに見る改革の成功例であったから、日本人が繰り返し振り返るのは当然だろう。その担い手になったのが、薩摩と長州の志士たち。なぜ、彼らが改革を進めることになったのか、ということについて、私なりの仮説がある。

かわ(2)それは、薩摩も長州も、「負け組」だったということ。闘いを挑んで、完膚無きまでに粉砕された。何も、国内の権力争いにおいてではない。当時の世界で、植民地獲得競争を繰り広げていた、西洋列強との闘いを経験し、その実力を痛感したのである。そのような意味での「負け組」だった。

かわ(3)薩摩は、薩英戦争によって、英国のアームストロング砲などの最新の科学技術の威力を思い知った。砲撃によって、鹿児島市内が火の海になり、大きな被害を受けた。その後、薩摩は、西洋列強の最新技術から学ばなければ危うい、と危機感を強めるようになる。

かわ(4)長州藩も、イギリス、フランス、オランダ、アメリカとの間に「下関戦争」を経験して、大きな被害を受けた。長州藩は、それまで「攘夷」に傾いていたが、列強の実力を知り、一転して西洋の技術に学んで、近代化へと走ることになる。完膚無きまでに負けたからこそ、方針を転換できたのである。

かわ(5)薩摩も長州も、当時の最先端の文明や技術に触れ、我彼の実力差を肌で知ることによって、近代化へと疾走することになった。一方、江戸幕府の動きは鈍かった。危機は共有しつつも、二百数十年間積み上げた権力機構の中に安住して、本当にお尻に火がついていなかったのである。

かわ(6)現代の日本も、同じことであろう。大企業、大学、官庁、メディアなど、戦後の日本で数十年にわたって積み上げられた成功体験と権力機構の中にいる人たちが、観念としては「危機」を理解できても、本当に自ら動くはずがない。明日の自分たちの生存が危うい、と思わない限り、人間は動かぬ。

かわ(7)ここ二十年を見れば、日本の「負け」は明らかである。グローバリズムと、インターネットという二つの文明の波に、日本のメディアも、統治機構も、教育も、産業も適応出来ていない。しかし、その危機をどれくらい肌で感じているかは、人によって違うだろう。

かわ(8)アップルやグーグルといった企業の成功の本質を理解している者、偶有性に基づくネット文化の破壊力を感じている者、世界的な能力の大競争を目の当たりにしている者、シンガポールや上海、香港の沸き立つ空気を知っている者、そのような「負け組」の中から、改革者が出てくるしかない。

かわ(9)現代日本の文脈に守られた「幕府」に改革が担えるはずがない。現代文明の最先端に果敢に勝負を挑んで、完膚無きまでに打ちのめされた負け組だけが、日本を変えることができる。だからこそ、志ある者は、果敢に勝負を挑んで欲しい。そして徹底的に負けるがいい。そこから、疾走は始まる。

2012年6月9日土曜日

日本は、居心地がいい

にい(1)というわけで、私は、大学入試のことも、新卒一括採用のことも、記者クラブのことも、あるいは連帯保証のことも、この数年間ずっと論じてきたことについて何かを言うのが疲れてしまって、日本はもうこのままでもいいんじゃない、というある種投げやりな気分の中にいるのだった。

にい(2)いくら、理を尽くしても、今まで通りの大学や、新卒一括採用でいい、と当事者たちが思っているんだったら、もうそれ以上言うことはない。「余計なお世話」である。だから、ぼくは、プロフィールにもあるように、自分自身を変えることに専念することにした。その方が報われる。

にい(3)自分自身に関わることで、できていないことが幾つかある。一つは、クオリアの問題。マッハの原理や相互作用同時性からの、本質的な進展を図ること。もう一つは、英語で本を書きまくること。東京発で、世界の文明に一石を投じるような仕事を続けたい。ヘタレから脱却したい。

にい(4)幾つかのことが重なって、「日本、もういいや」と思うようになったわけだが、なぜこの国が変わらないのか、変わろうとしないのかということについては理論的、実践的な興味がある。そして、一つの根本的な理由として、「居心地の良さ」ということがあるように思う。

にい(5)「偏差値」で予想できるような大学入試は、そのシステムの中に入ってしまうと、いかにも居心地が良い。それ以外の方法で、自分の価値をアピールする必要もない。一種の談合のようなものだが、談合は、中に入っていればこれほど居心地の良いものはない。当事者たちが自ら変えるはずがない。

にい(6)新卒一括採用も、「あいつとオレは同期だ」「あいつは一期下だ」なんて会話をしていると、居心地がいい。「同じ釜の飯を食った中だから」なんて手をつないでいれば、お友達問題は解決。そんな居心地のよい制度を、自分たちで変えようとするはずがない。

にい(7)「記者クラブ」が、居心地の良い制度であることは言うまでもない。「俺たちは、ちゃんとしたメディアだから。フリーのやつらとは違うから」。仲間同士で、役所の中にスペースを持って、酒なんかも一緒に飲んでいる。そんな居心地の良いシステムを、自ら変える必要はない。

にい(8)居心地の良いスペースで、ゆったりとくつろいでいる。つまり、それはおじさんのメンタリティである。日本は、大学入試も、記者クラブも、新卒一括採用も、すべておじさん化している。青年は荒野を目指すが、この国では、もはや青年の居場所はない。おじさんがまったりするための国なのだ。

にい(9)自らも戒めなければ。日本の中で、「文化人」としてテレビに出たり、講演をしたり、本を書いていれば、それなりに居心地がいい。しかし、ぼくは居心地の悪い場所に行きたい。ロングビーチのTEDで大漁旗を振り回したとき、本当に必死だった。残りの人生を、できるだけ居心地悪くしたい。

2012年6月8日金曜日

電車で靴を脱いで窓に向かって座る、子どもたちがいた風景

でこ(1)子どもの頃、電車に乗ると、必ずといって良いほど自分でもやっていたし、他の子もやっているのを見た景色があった。窓際の座席に、外を向いて座るのである。夢中で座っていると、大人が、靴を脱ぎなさい、そうでないと座席がよごれるでしょう、とたしなめる。

でこ(2)時には、兄弟で座っている子どもたちもいた。座席の前にちょこんと靴が並んで置かれている。子どもたちは外を見るのに夢中で、靴下をはいた足が、ぴょんぴょんとはねるようにならんでいる。そんな光景の中に私自身もいたし、他の子どもたちもいたように思う。

でこ(3)子どもは、「好奇心」に満ちた存在である。なにしろ世界のさまざまが物珍しいので、目を輝かせて見ている。好奇心を満足させるためには、なりふりなどかまってはいられない。他人の存在など関係なく、とにかくキラキラと外を眺めている。好奇心には、生を浄化させる作用がある。

でこ(4)好奇心が充たされないと、退屈になる。だから、子どもの退屈の強度はそれだけ強い。「あ〜つまらないな」「なにかおもしろいことないかな」とつぶやいた経験は誰にでもあるはずだ。退屈は、それだけ好奇心を満たす対象を求めることが強いということであり、欲望の強度の表れである。

でこ(5)大人になると、さまざまなことを知ってしまうから、次第に好奇心を失っていく。退屈する能力も失い、退屈にすら気づかないこともある。新しいものに目をキラキラすることを忘れた大人は、いわば、慢性退屈症にかかっている。退屈が空気のようなものになって、当たり前だと思ってしまうのだ。

でこ(6)何人かの大人が、それでも、好奇心を持ち続ける。「奇跡のりんご」の木村秋則さんでびっくりしたことがある。木村さんの地元、弘前で会があった。壇上に私がいて、目の前で有志がマジックをやってくださった。木村さんは客席の最前列にいて、私と、そのマジックを見ていた。

でこ(7)そしたら、本当に驚いた。マジシャンの手元を見る木村秋則さんは、口をあんぐりと開けて、目を輝かせて、もう夢中になってしまっている。木村さんは歯が一本もないが、その表情は5歳児そのもので、大人でこんな顔をする人は見たことがないと、震撼し、そして感動したのだった。

でこ(8)「奇跡のりんご」が誕生するに当たっては、好奇心がどうしても必要だったろう。りんごに着く虫はどんなものか、土はどんなものがいいのか。一度は死を覚悟するところまで追い詰められた木村秋則さん。前に進むエネルギー源の一部は、好奇心から来ていたのだろう。

でこ(9)大人になると、電車に乗っても、外を見ずに仕事をしたり、眠ってしまうことも多い。靴を脱いで、窓に向かって座っていたあの子どもの頃の灼熱の好奇心。自分がその風景の中にいるのも、誰かがその風景の中にあるのを見るのも、すがすがしく、人生の停滞を吹き飛ばすさわやかな風となる。

2012年6月7日木曜日

AKB48に、学べ

Aま(1)AKBの総選挙の特番にいらしてください、とフジテレビでずっとお世話になっている朝倉千代子さんからお誘いいただいて、スケジュールが空いているので、だいじょうぶですとお返事した。朝倉さんからのお誘いは、時間が空いている限り、必ずお受けすることにしている。

Aま(2)そしたら、他の事とは全く違う反響があった。「すごい!」と素直な反応と、「AKBまで行くんですか」というような反応。後者については、「アイドルのことまで関わるなんて」という偏見のようなものを感じる。でも、ぼくには、AKBについて、素直に受け止める素地があった。

Aま(3)秋元康さんから、AKBが秋葉原の劇場で細々とやっている頃からお話を伺っていた。「秋葉原でやっているんですよ」「なかなかお客さん来なくて苦労しているけど、がんばってますよ」と秋元さんから聞いていて、その原点を知っているだけに、今日の大成功は夢のような感じがする。

Aま(4)武道館で行われた「じゃんけん大会」にやはりテレビの仕事でおじゃました時、じゃんけんという偶然に賭ける彼女たちの真剣さ、まっすぐさに打たれた。この一瞬、に向かった表情が、太陽そのもののような輝きを見せていたのである。「アイドル」と油断している人は、その光を見ているか。

Aま(5)ぼくは、AKBの顔と名前が一致しないおじさんだが、彼女たちが日本人の心を惹きつける理由はわかる。「総選挙」にも現れる、「ガチの勝負」のすさまじさ。言い訳は利かない。その人の吸引力のようなものが、ストレートに現れてしまう。今の日本に、そんな勝負がどこにあるか。

A8(6)Freakonomicsという本に書いてあるが、アメリカの選挙の結果は、どれだけお金を使ったかということとは関係のない、候補者の絶対的魅力のようなものがあるのだという。AKB総選挙も同じこと。努力は大切だが、どんなに積み重ねても、ダメな人はダメ。その「残酷なリアル」。

A8(7)「アイドル」のことと偏見を持っているような日本の社会の「まとも」の方が、よほどガチな努力をしていない。受験だって、家庭の経済力で塾や家庭教師の差がついて、本当はガチな勝負ではないと、みんなわかっている。既得権益のおじさんたちは、ふんぞり返ってサボっている。それが日本。

A8(8)AKB48から、学んだらいいんじゃないか。全力でぶつかって、ありったけを込めて、それでも、結果は残酷に現れる。そんな「ひたむきさの元素」のようなものを、彼女たちの総選挙や、じゃんけん大会から学んだらいいと思う。そろそろ、本気を出してもいいんじゃないか、日本。

Aま(9)生放送が始まる前、フジテレビの小松純也さんと話していた。NHKで『プロフェッショナル』を創った有吉伸人さん(@nobip14)と、京都大学の劇団そとばこまち時代の盟友。短い時間だったけど、プロが考えていることは凄いとしびれた。油断してはいけない。何よりも、生命の前では。

2012年6月5日火曜日

ワンのばか、エメリヤンのタイコ

いえ(1)人間は、なんかのときにふっと我に還って、人生のバランスをとろうとするのではないだろうか。このところ、いろいろ揺れ動いていて、それで昨日は有吉伸人さんに会って、昨夜へんな夢を見て、それで、ふっと思い出したいくつかのことがある。

いえ(2)子どもの頃、家にトルストイの童話がいくつかあった。そのうち鮮明の覚えているのが、まずは『イワンのばか』。イワンがばか正直で、悪魔が出てきてもだまされない。それで、そこに、確か悪魔がばけたか何かの紳士がやってきて、「まじめに働く必要はない。あたまを仕え」か何か言う。

いえ(3)でも、イワンはばかだから、紳士の「頭を使え」という意味がわからない。紳士は「頭を使って働く」方法をずっと演説しているけど、そのうち疲れてふらふらしはじめる。それで、頭がかなづちになったように柱に打ち付ける。イワンや村の人はいう「おっ、頭を使って働きはじめたぞ。」

いえ(4)あと、なんとかのタイコというのもあった。今検索したら、「エメリヤンのタイコ」らしい。エメリヤンが、一夜にして城をつくれとか、むちゃくちゃなことを言われる。その度に、妻か何かが、「だいじょうぶ。わきめをふらずにやっていれば、朝になればできていますよ」とか言う。

いえ(5)それで、一晩中一心不乱に働いていると、ふしぎなことに朝までにお堀に水ができて、お城ができてしまう。それで、王様がくやしがって、また無理難題をふっかける。たしかそんなストーリーだったように記憶する。子どもの頃読んで、そのふしぎな「クオリア」がずっと残っている。

いえ(6)トルストイが言いたかったのは、何が裏切らないか、ということだと思う。わきめをふらずに集中した時間は、自分を裏切らない。それは一つの倫理観でもあるし、実践哲学でもある。それで、今朝そんなことを思い出したのは、人生の潮目の中でバランスをとろうとしているんじゃないか。

いえ(7)どうも、時代が落ち着かなさすぎる。社会的なことについて何か提言したり、批判したり、オルタナティヴを提示したりということは大切だとは思うが、一方で裏切られることも多い。社会は巨大な岩で、うんうん押してもなかなか動かない。ならば、自分にかかわることに専念する道もあるはずだ。

いえ(8)私のプロフィールに、「脳科学者。クオリアを研究。アンチからオルターナティヴへ。社会の前に自分を革命せよ。」とあるのは、ほんたうの気持ちで。社会を変える前に、自分自身に関わることでいくつか変えたいことがあるから、そちらに専念したい、というような思いである。

いえ(9)人はらせんを上るように変わっていくものだと思う。誰の中にも、イワンやエメリヤンがいると思う。予想ができず、落ち着かない世の中だが、時にバランスをとる精神の働きは大切。なんだか、ちょっと引きこもってみたい気分に、今朝はなっている。わきめをふらずにやるっていいね。

2012年6月4日月曜日

どんな人か、よく見ないとわからないよ

どよ(1)フジテレビで『エチカの鏡』という番組に出ていた頃。ある日、スタジオで清原和博さんがご一緒だった。清原さんと言えば、豪快な印象で、スター性があり、注目も浴びていただけに、「番長、夜のバットは絶好調」みたいな、おもしろおかしい週刊誌報道も多くあったように記憶する。

どよ(2)収録の合間に、横に座っていた清原さんに、「週刊誌でいろいろ書かれるのはどうでしたか?」とうかがったら、「ぼくはまだいいけれども、親がそんな記事を読むと思うと、つらかったです」と言われた。その時、私は、清原さんの魂の声を聞いたような気がした。

どよ(3)マスコミの中の「清原和博」というイメージと、ご本人が違う。注目される人ほど、集中豪雨的な報道の中であるイメージがつくられ、それが一人歩きする。メディアの中で造られたあるイメージと、本当のその人は違うかもしれない、というのは、リテラシーの大切な一部分であろう。

どよ(4)昨日、野田佳彦首相が小沢一郎氏と会談した。消費税をめぐって、「ものわかれ」に終わったと報じられる。しかし、新聞やテレビの報道の仕方を見ても、私がこの点について「本質的」と感じるテーゼは一向に触れられていないように思う。これは一種の「風評被害」であろう。

どよ(5)小沢一郎氏というと、豪腕というイメージが定着している。「悪代官顔」のせいもあって、ダーティーだと思っている人も多いかもしれない。しかし、実際の小沢さんは、「プリンシプル」の人である。そのことは、実際にお目にかかってお話すればわかるし、間接情報でも注意深くよめばわかる。

どよ(6)今回の件も、小沢一郎さんが言われているのは、前回の総選挙で民主党が立てた「マニフェスト」と、今回の消費税率の上げは一致しないではないか、というプリンシプルの問題。財政再建の必要はある。しかし、税率を上げる前にやるべきことがある。霞ヶ関改革が必要。その通りではないか。

どよ(7)この国の不幸の一つは、メディアの中で「政治報道」はなく、「政局報道」だけがあることで、今回の事態も、野田首相が「政治生命」を賭けた法案に豪腕の小沢が反対、自民との歩み寄りか、民主分裂か、とおもしろおかしく報じるだけ。マニフェストによる付託に本質があるとはどこも報じぬ。

どよ(8)このような一連のツイートをすると、必ず「茂木は小沢派か」「小沢信者か」というような輩が出て来る。本来、政治のプリンシプルに関することを、属人的にしかとらえられない精神的貧困。ところが、新聞やテレビの「政局部」の報道も、にたり寄ったりだから、この国は不幸だ。

どよ(9)「政局部」の報道のやり方が急に変わるとは思えない。小沢一郎さんが、メディアの中でつくられた「豪腕」「ダーティー」のイメージを払拭してその真の姿を伝えるためには、ニコ生や、ツイッターなどを活用するのが一番。ご本人はツイッターをやらないだろうから、周囲が工夫してはどうか。

2012年6月3日日曜日

さまざまな、声を聞くこと

さこ(1)「風の旅人」の佐伯剛さんには、いろいろとお世話になった。雑誌で「今、ここからすべての場所へ」を連載させていただき、それが筑摩書房から本になって、桑原武夫学芸賞をいただいた。その佐伯さんが、今朝、興味深いツイートをされていた。中学校に東電の人が来て授業したというのである。

さこ(2)「あれだけの事故」の後で、東電の人が来て、「原発がないと日本の経済がたち行かなくなる」と子どもに思わせるような授業をする。そのことを、佐伯さんは批判されているわけだけれども、ここには、とても重要な論点があるように思うので、今朝はそのことについてツイートしたい。

さこ(3)昨日、飛行機に乗るときに何か読もうと思って、ニューズウィーク日本版を買ったら、フェイスブック批判の記事オンパレードでびっくりした。ザッカーバーグの行状など、さまざまな視点から批判している。ところが、最後に、ちゃんと「反論」の記事もある。SNSの未来を称揚しているのだ。

さこ(4)これが、上杉隆さん(@uesugitakashi)の言われるop-edというやつで、ニューズウィークの主張(フェイスブック批判)とは異なる意見を、ちゃんと載せて、公刊する。そうすることでバランスがとれるし、多様な意見を聞くことができる。

さこ(5)そこで、佐伯さんの書かれていた授業の件である。問題の本質は、授業に東電の人が来て、その見解を述べること自体にあるのではない。授業の中で、その見解への反対意見、異なる立場からの見解が提示されているかどうかである。そのような立体的な視点があって、初めて授業に意味がある。

さこ(6)日本の社会は「空気」を読み、同化圧力が強いから、「あれだけの事故」があった後では、当事者は意見を表明することは慎むべきだ、という考え方も根強い。しかし、それでは民主主義が成立しない。意見はそれぞれあっていい。それぞれの立場で、意見をフルスロットルで主張していい。

さこ(7)それぞれが意見を言い切って、あとはお互いに響き合わせて、考えればいい。「自粛」したり、意見を言うこと自体を非難するのはおろかである。それでは全体主義と同じだ。問題は、異なる声が、どれくらい響き合っているか、そのことにかかっている。

さこ(8)昨日の東京大学でのシンポジウムで、ぼくは自分の意見を「フルスィング」で言った。後で、岡ノ谷和夫さんからメールをいただいた。岡ノ谷さんの見解は、ぼくとは違った角度からのものだったが、それももっともだと思った。こうして、異なる意見が響き合うことで、何かが生まれていく。

さこ(9)「あれだけの事故」があったから、東電の人は一切見解を言うべきでない、と言うのは最悪の選択である。どんどん意見を言っていただいていい。その上で、反対意見と闘わせる。そのような立体的な言論空間だけが、困難な状況を切り開く強靱な精神をつくる。自粛の強制は、愚かである。

2012年6月2日土曜日

大飯原発再稼働の問題が大詰めを迎える中、「感情」の問題について、今感じていること

(1)私は都内はできるだけ歩いて移動することにしている。ここのところ、霞ヶ関の経産省前を通ると、原発に反対する方々がテントをもうけて訴えている。その様子を、肌で感じながら、外務省横を抜けて、国会前を抜けて、半蔵門へとたどることが多い。

(2)経産省の前のテントのあたりにいらっしゃる方々からは、独特の雰囲気が伝わってきて、その現場の感覚を受け取るのがぼくにとっての一つの勉強になっている。文字情報だけでなく、そのような空気のようなものに向き合っていないと、おそらく時代を感じることはできない。

(3)先日の日曜は、経産省の原発テントの前はとても忙しそうだった。その方々の横に、なぜか街宣車の方々も乗り付けて、大きな声で何か言ってらした。音が割れてしまって、内容がよく聞き取れなかったのが残念だったけれども、その気持ちの圧力、のようなものは、こちらに伝わってきた。

(4)先日は、大手町を歩いていたら、大きな音量で訴えかけている方々がいらした。ビルにこだましてよく聞き取れない。近づくと、経団連ビルの前で、原発に反対する方々が訴えていた。「福島の子どもたちは、・・・なり」と、「なり」で終わるセンテンスを、重ねていた。全部で十名くらいいらした。

(5)大飯原発の再稼働について、野田政権の「決断」が近いとも言われている。橋下徹さんを初めとする関西の首長の方々も、事実上の「容認」に転じた。私はもともと再稼働に賛成の立場だったから、我が意を得たりという思いかというと、そうでもない。理由は、以上書いた時代の「空気」と関係する。

(6)あるテーマについて議論をしている時に、相手が感情的になったとする。まず、その感情自体が「いい」とか「悪い」とか、あるいは「正しい」か「正しくないか」などとは言えない。感情を抱くに至ったのは、それなりの必然性があるはずであり、正しくない感情だから持つな、とは誰にも言えない。

(7)また、議論に感情を持ち込むのはやめて、あくまでも論理的に考えるのが「望ましい」とは言えない。現にある感情を抱いている方がいらして、その生が影響を受けている以上、そんな感情を議論に持ち込むのはやめろとか言っても、生の現場における問題の本質は解決しない。

(8)原発をめぐる議論を、ツイッター上でしばらくやった後、私がそれをやめてしまったのも、問題の本質が「感情」だと気づいたからかもしれない。福島の事故をきかっけに、本当に恐れ、不安になり、駆り立てられてしまっている方々がいる。科学的、技術的論点とは別に、そうなってしまっている。

(9)その感情に向き合うことからしか、原発の問題の本質的な進捗はないように思う。だから、私は経産省のテントの前を通る。経団連の前で訴えかけている方がいれば、その声の調子に耳を傾ける。その主張が「正しい」かどうかということよりも、そこにある心の叫びをまずは受け止めたいと思う。

2012年6月1日金曜日

男の子の時間、おじさんの時間

おお(1)昨日書いたように、駒場の裏門から入ろうとしていたら、池上高志が後ろからばーんとぶつかってきて、驚いた。うひゃひゃ、っていうその感じが、何かに似ているなあ、と思っていろいろ考えていたら、思い出したよ、「男の子の時間」。そのスピリットを忘れないことが大切だよな。

おお(2)男の子には、いっしょにわるふざけする、聖なる時間があるのだ。小学校に上がったばかりの頃、みんなで缶蹴りをやっていて、ひどいトリックをいろいろ工夫した。鬼が缶の近くにいるとき、全員でわーっと走っていって、名前を言えないうちに缶を蹴ってしまう。

おお(3)あと、仲間とシャツを交換して、壁の陰から上半身だけ出す。鬼が「何とか君!」ていうと、ぱっと飛び出して、「まーちがえた、まちがえた!」とやる。5、6人で芋虫のようにつながって、顔が見えないようにして、缶に近づいて蹴ってしまう、というようなこともやった。

おお(4)そんないたずらをやっている最中のぼくたちは、笑っていた。缶の近くにいる鬼に向かって、全員でわーっと走っていくときなど、もうおかしくておかしくて、ケタケタ笑いながら殺到していった。あの時に発散されていたエネルギーって、いったいなんだったのだろう。

おお(5)思いついたこと、不謹慎なことをやるときに、男の子は笑い出す。極上の笑い。加藤茶が、タブーに合わせて「ちょっとだけよ」とやるのが流行ったときも、林間学校でそれをやった。キャンプファイヤーのまわりで「ちょっとだけよ」とやったとき、もうおかしくて、ずっと笑っていた。

おお(6)男の子が悪ふざけをするのは、つまりエネルギーが有り余っているからで、発散の一つの儀式なんだろう。池上高志が、いっしょに悪ふざけできる相手だというのは、奇跡だと思う。だって、東京大学教授のいい年したおっさんなんだぜ。普通、もっともっともらしくしていてもいいじゃないか。

おお(7)おじさんになると、だんだん「もっともらしく」なってきてしまう。学士会館に行くと、「もっともらしい」おじさんがたくさんいる。そんなおじさんたちも、昔はケタケタ笑う男の子だったんだろう、と考えると、何だか楽しい。人生の滋味がそこにあるというか、しみじみするね。

おお(8)新橋の飲み屋なんていくと、「サラリーマンのコスプレ」をしているんじゃないかというくらい、もっともらしいおじさんがあふれている。でも、昔は缶蹴りをしたり、ちょっとだけよをしてケタケタ笑う男の子だったはず。おじさんのどこかに、そんな時代の名残はあるんじゃないかな。

おお(9)いかにもなおじさんの中に、少年の心が隠れているのを見つけると、おお、とダイヤモンドの原石を発見した気持ちになるね。そうだ、今週のメルマガ連載の「続生きて死ぬ私」は、そのことを書くようにしよう。みなさん今日は、もっともらしいおじさんの中に、少年の心を見つけてください!

2012年5月31日木曜日

いきいきとした会話が、楽しかったね

いた(1)池上高志(@alltbl)が呼んでくれている駒場のオムニバス授業。毎年楽しみにしている。昨日は、裏門からふらふら歩いていたら、池上が後ろからどーんとやってきて驚いた。池上のTED オーディションの話を聞きながら、15号館の方に歩いていった。お腹が空いたから、弁当食べた。

いた(2)教室に入って、まず、東大とハーバードの入試の違いの話をした。ハーバードは、偏差値では予想できない入試をしている。市川海老蔵や五輪メダリストのような人材が、ハーバードだったら入れるけど、東大だと入れない。そのことをどう思うか、と問いかけた。

いた(3)そしたら、海城から来たという3年生の橋本くんが、人材の多様さよりも、東大は学問の最先端でいい、と言う。ぼくが、学問のあり方も変わっている、ネットも重要、ザッカーバーグみたいな人材が出るような大学は、多様性が大切と言ったら、橋本くんはザッカーバーグは要らない! と言った。

いた(4)ぼくは驚いて、「お前、同じ大学にザッカーバーグみたいなのがいない方がいいのか!」と言ったら、橋本くんは「そうだ」という。「ネット・ベンチャーとか、本物の学問に比べたらちゃらちゃらしている」と橋本が言う。ぼくは「へえ」と驚いた。グーグルとかこそ、今の学問なんじゃないの?

いた(5)大量のデータをどう滞留させないで処理するとか、効率よいアルゴリズムとか、グーグルとかフェイスブックとか、学問の塊だと思うよ、と言うと、橋本くんはまじめに聞いている。いいやつだ。授業が終わって、池上とかとファカルティ・クラブでしゃべると言ったら、橋本くんを始め何人かきた。

いた(6)ファカルティ・クラブでビール飲みながら話してたら、橋本くんが、「大学は象牙の塔でいい」という。お前、ザッカーバーグみたいなのが出て、大学にたくさん寄付してくれた方がよくないか、というと、橋本くんは、そういうのは東大以外でやればいい、なんて言っている。

いた(7)そこで、ぼくは言った。ハーバードにしても、ケンブリッジにしても、大学が独自の財源を持っているから、学問の自由を保てる。日本の大学は、金を出している文科省のいいなりじゃないか。ザッカーバーグが出て、自分で資金を得るということは、学問の自由につながるんだよ。

いた(8)チャールズ・ダーウィンは、一生学問しかしなかった人だけど、それができたのは財産があったから。だから、君の言う学問の自由と、お金という世俗的なものはつながっているだろう。そこまで言ったら、橋本くんにもわかってもらえたようだった。良かったヨカッタ。ビールで乾杯。

いた(9)そこに岡ノ谷一夫さんも来て、池上高志と「教授トーク」が始まった。大学の現場の感覚を、橋本くんをはじめとする学部生たちは「へえ」と聞いていたに違いない。いきいきとした会話ができて、ヨカッタ。現状にはいろいろ問題があるけれども、君たちが未来を開くんだよ。

2012年5月30日水曜日

古い文化と、新しい文化

ふあ(1)今森光彦さんと雑木林を歩く、という至高の時間のあと、新幹線に乗って品川駅にきた。途中の公園のベンチで原稿を書いて助川さんに送り、ホテル・オークラまで歩いた。Human Rights Watchのチャリティー・ディナーに出席するためである。

ふあ(2)土井香苗さん(@kanaedoi)に、「29日は空いているか」と聞かれたから、「空いてるよ、行くよ」と答えたんだけど、実は数日前まで何の会なのか、よくわかっていなかった。ホテル・オークラに着いたら、つまりfund raisingのためのチャリティ・ディナーだとわかった。

ふあ(3)ビデオでHuman Rights Watchの活動を紹介していたけども、本当に価値ある仕事をされていると思う。チュニジアや、エジプトなどで、当局による人権侵害を、客観的事実として確立し、それを世界に訴えかける。そのために、地道な調査を行っている。

ふあ(4)例えば、独裁国家がデモ参加者に発砲するなどして死者が出たとしても、当局の発表では死者数が小さい場合がある。そんな時、Human Rights Watchは死体置き場を回って、数をカウントし、発表する。そのことによって、国際社会が動くのである。

ふあ(5)Human Rights Watchによれば、現在の緊急課題はシリア情勢で、その対応、その他の活動をするための資金を得るためのチャリティ・ディナー。途中で現代アートのオークションがあったり、黄帝心仙人さんのダンスがあったりなど、いきいきとした内容だった。

ふあ(6)そして、そこには新しい文化があった。出席者の間に、old money(古いお金)は少なく、cloud fundingやってますとか、ベンチャー支援やってますとか、そんな若者がたくさん。経団連の企業の影は、きわめて薄かった。政治家の影も薄かった。

ふあ(7)土井香苗がスピーチしろ、というから、立って話しているうちに小噴火。「日本は経済規模に比して人権擁護に寄与していない。何か論争的なことを言うとお前は朝鮮人だろう、とか2ちゃんやツイッターでいうバカがいる。政治家の人権意識も低い」とやったら、大受けした。どうも、スミマセン。

ふあ(8)世界には、古い文化と新しい文化が歴然としてあって、それは欧米とかそういうこととは関係がない。孫泰蔵さんとか、夏野剛さんが近くの席だったけど、こういう新しい文化の人たちと吸う空気と、日本国内の古い文化の人たちが醸す空気は全く違う。だけど、時代はすでに変わりつつある。

ふあ(9)最近、ツイッター上の論争などを一回りして思うこと。古い文化のことはもう気にしなくて、新しい文化に専念すればいい。Human Rights Watch、これからも応援しています。立派な「文化人」が、「人権なんて」とほざく日本の「古い文化」は、どうせそのうち消えるでしょう。

2012年5月29日火曜日

健康で文化的な最低限度の生活って、なんだろう

けな(1)このところ、生活保護をめぐる報道があついでいる。国の経済が悪化して、生活保護費の総額が増大する中、何人かの有名人の親族の受給について、報道があいついだ。その中で、複数の国会議員や大臣が制度の見直しに言及するに至っている。いくつか感じたことがあるので、そのことを書く。

けな(2)まずは、報道に接して、だからあいつはこうだとか、決めつける人がツイッター上に見受けられたこと。親族のことは他者には容易にわからないし、いろいろな事情があるのかもしれない。決めつけるのはラクだが、それ以上に深まりもしない。想像力を欠いた断言は、魂の貧困である。

けな(3)ところが、現実に会って話してみると、そんなに決めつけている人は多いわけではない。ツイッター上では常に起こることだが、決めつけたり極論を吐く人の割合が、現実よりも多めに知覚されてしまう。実際の市民たちは、より健全で複合的な見方をしているというのが体感値である。

けな(4)ところで、そもそも生活保護とは何だろう。周知の通り、憲法25条は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定める。小宮山大臣は支給額の引き下げに言及しているが、「健康で文化的な最低限度」が、変化したとでも言うのだろうか。ならばその根拠は?

けな(5)そもそも、「健康で文化的な最低限度の生活」とは何だろう? 報道をきっかけに起こっている議論は、支給の有無や支給額にだけ言及しているが、お金さえあれば「健康で文化的」と言えるわけではない。むしろ、もっと大切なことの一つは、人とのつながり、コミュニケーションである。

けな(6)ホームレスの方が販売する雑誌Big Issueを熱心に支持するのは、まさにそれがお金だけではない価値を生むから。路上で寝ていても、みんなまるで存在しないかのように通り過ぎる。雑誌を売ることで、会話が起こる。やりとりが生まれる。そのことが、どんなに支えになることか。

けな(7)北九州でホームレス支援の活動を続ける奥田知志さんは、「ベーシック・サポート」の大切さを訴える。一律にお金を支給する「ベーシック・インカム」を超えて、仕事や社会とのかかわりなどをケアするのが、本来のセイフティ・ネットだと。まさに、その通りだろう。

けな(8)生活保護をめぐる議論が、支給の有無や支給額にだけフォーカスされているのは、現代日本の精神的貧困と、知性の劣化の象徴だろう。ましてや、国会議員が、支給額うんぬんだけを問題にするのは、そもそも公人としての資格がない。期待しているのは、弱者に対する想像力です。

けな(9)「健康で文化的な最低限度の生活」は、お金だけの問題ではない。必要なのは、関心であり、つながり。今の議論は、自己責任論であり、関心やつながりと逆のベクトルを向いている。弱い立場の方が社会とつながるように複合的に図ることが、結果としては支給額の低下にもつながる。

2012年5月28日月曜日

すぐれた指導者が、自分たちの話を聞いていてくれたという事実

すじ(1)マイケル・サンデルさんにお目にかかるのは二度目である。NHKのスタジオに入って待っていると、サンデルさんが入ってきて、いきなりレクチャーが始まった。ハーバードの授業もそうだが、サンデルさんには、そのような劇場的能力がある。役者であることも、一つの素養なのだろう。

すじ(2)レクチャーの内容については、6月8日(金)23時からのBS1の番組を見ていただくことにして、スタジオの中で感じたことについて書きたい。サンデルさんが、私たちスタジオのゲスト、回線でつながっている東京、上海、ボストンの学生とやりとりしながら、話を進めていった。

すじ(3)周知の通り、サンデルさんの方法は、ソクラテスの問答法。一方的にある事実を伝えていくのではなく、学生たちに話しかける。しかし、その設問の仕方や、学生の発言を受けてのコメント、場合によっては途中で遮るなどのファシリテーションを通して、議論が進んでいく。

すじ(4)ソクラテスの方法の本質はどこにあるのだろう。情報を一方的に受け取る方法は、一見効率の良いやり方のように思われる。しかし、人は自ら何かを発する際に、多くを学ぶのである。そこで起こっていることを一言で表すとすれば、ある種の「危うさ」なのであろう。

すじ(5)議論の流れを受けて、自らが何かを発言する際には、まるで綱渡りをしているかのような危ういバランスが生じる。失敗するかもしれない、外すかもしれない。サンデルさんがどのように受け取るかわからない。そんなぎりぎりの心の動き自体に、大きな教育効果がある。

すじ(6)サンデルさんのJusticeの第一回で、サンデルさんが最後に言う非常に印象的な言葉がある。講義の目的は、restlessness of reason(理性の落ち着きのなさ)を受講者の中に引き起こすことであると。前提にしていることを揺るがす。そのプロセスに価値がある。

すじ(7)その、Justiceの第一回の授業で、サンデルさんは学生たちに散々議論をさせた後で、突然、格調の高い英語で魂を震撼させるようなことを言い出すのだった。最後にrestlessness of reasonという言葉が出てくる。議論した後でそのようなコーダで締める。

すじ(8)ソクラテスの方法は、参加者が議論するという意味で、指導者の役割が小さいようにも見える。しかし、そうではない。その気になれば、あれほどまでに高度で、緻密で、感動的な「演説」ができる指導者が、ただ聞き役に徹しているという事実の中に、凄みがあるのだ。

すじ(9)昨日のNHKの収録の際にも、サンデルさんは私たちを震撼させた。議論してきたテーマについて、あまりにも見事な「演説」を行ったのである。すぐれた指導者が、自分たちの話を聞いていてくれたという事実。ハーバードの教え子は、理性の落ち着きのなさの中に、成長していくのだろう。

2012年5月27日日曜日

答えではなく、プロセスを教えるのが真の教育

こぷ(1)朝起きてすぐに、iPadでSurely You're Joking, Mr. Feynmanを読み始めたら、面白くて時間が経つのを忘れてしまった。ブラジルで教えていたとき、学生たちが暗記ばっかりしていて科学的思考法を身につけていない、というエピソードのあたり。

こぷ(2)ファインマンが、ブラジルの学生たちに質問をするように促す。すると、学生たちが、「そんなことをしたら、授業の時間がムダになる!」と抗議する。ところが、暗記している内容が、目の前の現実とどのようにかかわるのか、一向に考えようとしない。

こぷ(3)クラスに二人、よくできる学生がいた。「だから、ブラジルの教育システムでも、育つ人は育つ」とファインマン。ところが、後で、二人ともブラジル以外で教育を受けたことが判明する。「100%例外なくダメ、というのはある意味凄いシステムだ!」とファイン万は驚く。

こぷ(4)これが笑い話だとは思えないのは、日本も似たようなものだからである。ある時、私は大学の授業で原書を紹介したら、次の週まで読んできた女の子がいた。驚いて、「君、どこの高校?」って聞いたら、スイスの寄宿舎学校を出た人だった。日本の教育では、一週間で原書を読む力はつかない。

こぷ(5)東大法学部に学士入学したときのこと。大教室で、数百人の学生を前に、教授が90分間、延々と話している。講演会などでマネをすると、大受けする。「この手形小切手法のですね。。。手形の裏書き行為。。。判例は、こうなっておりまして」学生たちが、カイコのようにひたすら筆記する。

こぷ(6)その東大法学部を出た、私の友人、「天才バカ弁」こと、宮野勉はハーバード・ロー・スクールに留学したが、日本人はみな驚くのだという。教授が学生と対話をしていて、「そういう考えもある」「これもある」時間が来ると「じゃあ、来週」。えっ、答えを教えてくれないの?!

こぷ(7)大教室で、教授がマイクを使ってずっとしゃべっていて、それを学生が筆記して、試験に臨む。日本の大学でおなじみのあの光景は、ファインマンが批判していた、ブラジルの暗記授業と本質的に変わらない。結局、日本の大学教育は、安上がりのマスプロ。本物の知性が育ちようがない。

こぷ(8)現代の多くの問題は、一つの答えなどない。答えに向かう、プロセスだけがある。そのプロセスを、ロジックを持って丹念に共有できるかどうか。民主主義の基本的な能力を、日本人は訓練されていない。文科省が進めてきた学力観は時代遅れ。根本的に変えなければならない理由がここにある。

こぷ(9)先日千葉大で講義したときも、一冊でも原書を読んだことがある人がせいぜい5%くらいで、寂しかったな。スイスの寄宿舎学校を出ると、授業でさっと紹介した本を次の週まで読んできちゃうような機動力ができる。これじゃあ、日本の教育システムから外れようという人が出てきても当然だ。

2012年5月26日土曜日

国会議員はそもそも、なぜ「偉い」のか

こな(1)子どもの頃は、国会議員は「偉い」のだと素直に思っていた。議員は「先生」と言われるらしいが、「偉い」から「先生」なのだろうと思っていた。社会科見学で国会議事堂に行ったときも、「ここが先生がいるところなんだ」と緊張して赤じゅうたんを踏んでいた。

こな(2)時は流れて、(まだ政権を担当していた当時の)自民党本部に行くような用事もできた。すると、受付の女の人が、議員の姿を認めて、「なんとか先生なんとかなんとか」とアナウンスしている。すると、すーっと配車されるのである。受付は神業だと思ったし、「先生」は空気だった。

こな(3)議員会館にも用事があって行くことが増えた。すると、議員が「普通の人」だということがだんだんわかってくる。個人差があるが、特に賢いわけでもないし、人格に優れていわけでもない。すると、一体議員のどこが「先生」なのか、よくわからなくなってきた。

こな(4)そもそも、国会議員の仕事は何だろう? 立法府だから、法律を作ったり審議することが仕事のはずだ。これは大変な作業である。政策に通じているだけではだめ。膨大な実定法の条文を調べ上げ、新たに制定、改正する法律との整合性をつけなければならぬ。気の遠くなる作業である。

こな(5)それぞれの人生があるだろうに、実定法の条文などという七面倒くさいものの勉強に精励しなければならぬ。自己犠牲の精神で、国のために奉仕する。なるほど、国会議員というのはお気の毒な商売である。それじゃあ、「先生」と呼ばれても仕方がない。ところが、実態はそうではないらしい。

こな(6)観察していると、世間で議員が「先生」と呼ばれている、その根源は、口利きをしてもらったり、斡旋してもらったり、その類いのことがむしろ起源のようである。頼む方も愚民ではあるが、頼りがいのある「先生」ほど選挙で勝ってきたから、それが日本の戦後の政治文化をつくってきた。

こな(7)ぼくなぞは、議員を前にしても、自分のために何かしてもらおうなどという気は毛頭なく、立法という面倒なことに携わっておられるのだから、むしろこちらから何かをして差し上げたいと思う方だが、戦後日本では議員は頼まれごとをたくさんしてきたから、結果として「先生」になったのだろう。

こな(8)昨今のニュースに接していると、一部議員が、社会で耳目を集める案件について、事実を調査し、「要請」し、「勧告」し、対する関係者の反応に対して論評、批判を加えている。なぜ違和感を覚えるのかと考えてみたが、つまりは立法とは関係のない、圧力、口利き、斡旋に近いからだろう。

こな(9)原理原則に立ち返れば、議員が、民間人の行動に対して調査したり圧力をかけることは本義に反する。それが通ってしまうのは、「先生」たちが実際に過去にそういうことをしてきたから。時代が変わろうとする時に、古い文化を目にして嫌な気持ちになる。議員は、立法の本義に邁進してほしい。

2012年5月25日金曜日

芸術か、娯楽かそれが問題だ

げご(1)小学校の頃から、毎月のように映画を見に行っていた。たいていがハリウッド映画のロードショーで、A級からB級、級外までいろいろ見たけれども、そんな中で、映画というのはこんなものであるという「相場観」ができあがっていった。一つのジャンルの性質は、いくつか見ないとわからない。

げご(2)それが、高校くらいからいわゆる名画系の映画を見るようになった。最初はタルコフスキーとか、ヴィスコンティあたりではなかったか。当時はビデオなんかないから、名画座に通って、せっせと見た。そうしたら、それまでのハリウッドの大作とは、明らかに異なる。

げご(3)タルコフスキーなんて、何の説明もない。詩的な映像が、延々と続く。ベルイマンのはっと息を呑むような美しい画面。一度これらの「芸術映画」を知ってしまうと、それまで見ていたハリウッド映画が、なんだかばからしく思えてしまって、「くだらねえよな」とか友達に言っていた。

げご(4)こうなると、ハリウッドが敵になる。映画好きの友達と、「スケアクロウ」や「ミッドナイトカウボーイ」などのアメリカン・ニュー・シネマの頃は良かったけど、最近のアカデミー賞なんてホントにくだらねえ、とよく怪気炎を上げていた。オレたちは、そんなもん見ないぜ、と吹かしてたのだ。

げご(5)ところが、世の中にはいろんな人がいることを思い知らされる。心から感動したエリセ監督の『ミツバチのささやき』。この名作を見て、「小さな女の子」(アンナ)をひどい目に遭わせる、と怒った人がいるというから驚いた。その人は、ミッキーやミニーが好きでTDL行きまくっているという。

げご(6)『ミツバチのささやき』を見て、「ああ、この映画は自分のことを描いてくれている」と思う人と、『プリティ・ウーマン』とか、ああいった商業大作命の人と、世の中はいろいろだなあ、と思って、やたらと映画の話をしていた青春時代があった。後藤聡くん、君は元気でどこにいますか?

げご(7)ハリウッドの大作も、まっ、いいかと思うきっかけは、フロリダのユニヴァーサル・スタジオに行ったこと。インディ・ジョーンズの舞台がマジ凄くて、それだけのエネルギーを費やしてエンタメを作るという志に感動した。ま、世の中いろいろあっていいんだよ。青春のオレは、暑苦しかったね。

げご(8)日本酒飲むようになると、いい酒は翌日残らない。あー、楽しかったと劇場を出て、そのあとすっきり何も残らないハリウッド大作は、極上の日本酒のようなものだろう。タルコフスキーとか心に刺さって、ずっと残る。芸術映画は、そうやって足跡残すけど、ハリウッドは違う道でいいよね。

げご(9)保坂和志さんと話していたとき、小津作品は、ロードショウ当時は普通の人が見に行って、「笠智衆がこんなばかなことを言ってたよ」と笑うような娯楽大作でもあったという。スゲーな、小津安二郎。今見たら神の業だけど、娯楽でもあり、芸術でもあるものを作ったのは、愛が深かったんだろう。

2012年5月24日木曜日

愛するものに向き合う時間の中で、育っていく

あそ(1)@KimuSuhanに送ってもらった南直哉さんの『恐山』をようやく見つけて、徳島の行き帰り読んでいた。面白い! 直哉さんに老師が、「お前、人は死んだらどこに行くかわかるか?」と聞く。「わかりません」と言うと、「そんなこともわからないのか。愛するもののところに行くんだよ」

あそ(2)なるほど、と思う。仕事を愛して、それに心血を注いだ人は、死んだらその作品の中に生き続ける。誰かを大切に育んだ人は、その誰かの中に生き続ける。いずれにせよ、人は愛するものの中に入る。愛するものがない人は、その点、不幸である。

あそ(3)それで、10年ぶりくらいにKindle for iPadでSurely You're Joking, Mr. Feynmanを読んでいて、あまりにも面白い。探求すること、熱狂的であること、好奇心のすばらしさがあふれていて、ぼくが好きなのはこの世界なのだなと確認できた。

あそ(4)先日の金環日食における熱狂で、日本の様々が一度克服され、生命力が増進したような気がした。同じように、ファインマンを読んでいると、ああ、こういうのが好きなんだよな、と思う。自分の好きなもの、愛するものに没入することには、魂を浄化する作用がある。

あそ(5)思い出したのが、高校の同じ学年だった高橋英太郞のこと。ピアノを上手に弾く、ダンディーなやつだった。ぼくがその頃からおっちょこちょいで、いろいろふかしていると、英太郞が冷静に正しい意見を吐くのだった。英太郞のひんやりとした理性が、ぼくは好きだった。

あそ(6)ぼくは、いつも、世の中の劣悪なものを見つけては、これがくだらない、あれが低俗だ、などと噴火していたら、英太郞は、ごく冷静に、「でも君ね、いつの時代も、悪いものなんて、たくさんあるじゃないか」と言う。「いちいち腹を立てていては、仕方がないよ。」

あそ(7)今も昔も、ムダにエネルギーを発散するのが私の癖のようなものだから、どうしても放っておけない性分があるのだが、英太郞の言うように、悪いものは昔からたくさんあるのは理屈だ。だから、本当は、愛するものに心を注いで、それを育て、自分も育つのがいいのだろう。

あそ(8)ツイッターはとても面白いツールだが、オープン・ダイナミカル・システムの宿命として、邪悪なもの、これはちょっとな、と思うもの、勘違い、その他もろもろがやってくる。それにいちいち腹を立てていてはもぐら叩き。切りがない。英太郞のように、冷静に割り切るのがよかろう。

あそ(9)「英太郞の教え」は重々わかっていても、血気盛んでついつい噴火してしまう。愛するものは深くて、それに費やす時間は必ずさらさらと生命を潤してくれる。だから、愛するものに向き合う時間を耕そうと思う。ツイッターのようなSNS全盛の時代だからこそ、「英太郞の教え」が大切だ。

2012年5月23日水曜日

笑いの文化は、いろいろだよね

わい(1)大塚国際美術館の取材のために、徳島に来ている。昨日、初めて『リンカーン』という番組を見た。以前、『プロフェッショナル 仕事の流儀』が火 曜日放送だった頃は、「裏番組」として認識していた番組である。そしたら、着ぐるみの人たちがいろいろな競技をしていた。

わい(2)「ビーチフラッグ」とか何とか言って、着ぐるみの人たちがうつぶせに倒れて、それからでこぼこの砂地を走ってフラッグを取りに行く。その様子がおかしくて、ボコッ・バシッなどという効果音も面白く、なんだかソファーの上で笑ってしまった。

わい(3)話は飛ぶが、イギリスに留学していた時のこと。ケンブリッジからヒースロー空港に行くのに、最初は電車から地下鉄を乗り継いでいたが、タクシー を予約すると2時間くらいで、そんなに高くなく行けることがわかった。それからは、Missleton Court5番の自宅に来てもらった。

わい(4)ケンブリッジからヒースローまでの道は、M25に当たるまでは田舎でのんびりしている。ある時のこと、タクシーの運転手さんといろいろ話していて、コメディーの話題になった。私はイギリスのコメディが大好きだから、そのことを話すと、大いに盛り上がった。

わい(5)モンティ・パイソンとか、フォルティ・タワーズとか、私の好きなコメディの話をしていると、運転手さんが、「そういえば、私が今まで見た中で一 番面白かったコメディは、日本のやつだった」と言い出した。「もう、面白くておもしろくて、腹を抱えてわらったよ。止まらなかった。」

わい(6)「へえ〜どんなやつですか?」と聞くと、「なんだか、若いやつが、裸で、泥の中を走ったり、何かにぶつかったり、よけたり、熱いお湯に入ってあ ちちちち、とか出てくるやつだった」というから、ああ、それは、ビートたけしさんが若手芸人とやっていたような番組だな、と思った。

わい(7)笑いの文化は多様である。イギリスのコメディは、政治や社会のネタが多く、しかも差別や偏見の問題など、「一番やばいところ」につっこんで行 く。日本では、「スネークマン・ショウ」の桑原茂一さんがパイオニア。ブリティッシュな笑いは、ちょっとブラックなテーストがある。

わい(8)一方、日本の笑いの強いところは、身体を張ったフィジカルな笑いだろう。「風雲たけし城」が未だにヨーロッパやアメリカで放送されて人気を博し ているように、身体を張って、いろいろなことに耐える、という様子から笑いを引き出すのが、日本の笑いの文化の一つの金脈である。

わい(9)「へ〜、そうなんだ、ああいう笑いが好きなんだ」。私は、ケンブリッジからヒースローに向かうタクシーの中で、運転手さんにそう言った。笑いの 文化はいろいろで、国や地域、時代によって異なる。私は日本の笑いの文化の中で育ったけれども、イギリスの笑いの文法も知ってよかったと思う。

2012年5月22日火曜日

ようこそ、偏差値のない世界へ

よへ(1)「ようこそ、偏差値のない世界へ!」これは、ある芸術大学の学長さんが入学式の時に言った、という言葉である。確かに、芸術にはもともと「偏差値」という概念が成り立ちにくい。難関と言われる東京芸大でも、センター試験の点数は低くて入ってくる人もたくさんいるという。

よへ(2)デッサン力などを採点する基準があるにせよ、それはペーパーテストのような明確な点数、偏差値に変えるのが難しい。ましてや芸術そのものは、もちろん偏差値とは関係ない。「ようこそ、偏差値のない世界へ」。学長のこの言葉は、それまでの学校生活から解放するパワーがあるだろう。

よへ(3)そこで言いたかったのが、「偏差値のない世界」は本来芸術のことだけではない、ということ。日本の大学入試は、「偏差値」に支配されている。だから、大学の「ランク」が偏差値で決まると、なんとなくみんな思っている。しかし、これは特殊な条件の下での「幻想」に過ぎぬ。

よへ(4)そもそも、なぜ「偏差値」が登場したか。入試の結果をあらかじめ予想しようとしたからである。受けても、受かるかどうかわからないのでは気の毒だ。受験生全体の分布のうちどのあたりに位置するかという「偏差値」で、入試結果を予想しようという、都立高校の先生の発案だったと聞く。

よへ(5)つまり、日本の大学入試は、「偏差値」で入試結果が予想できるようなものだったということ。東大の浜田総長が言われたように、ペーパーテストで「一点でも高い方を入れる」ことが公正な入試だと長らく信じてこられたからこそ、偏差値というものさしが通用した。

よへ(6)ところが、アメリカの大学入試では、「偏差値」なんて言葉は聞かない。なぜか。「偏差値」では予想ができないような入試をしているからである。ハーバードの募集要項を見ると、SATなどのスコアは「参考」にするが、他の要素も配慮するという。入試が、多様なのである。

よへ(7)「アカデミックに優秀な学生」を基本的には求めるが、「ある分野で卓越した結果を残した人」「突き抜けた人」も求めるとはっきりと書いてある。だから、オリンピックの金メダリストや、映画女優も、ハーバードに入る。ペーパーテストの点数という単一のものさしでは入試が予測できないのだ。

よへ(8)つまり、アメリカの大学は、プライベートなクラブに似ている。魅力的な組織にするために、多様な人材を、多彩な基準で採用するのである。どんな基準で採っているかは、組織のdiscretion(熟慮)に属すること。その結果、組織がどのように発展するかは、自由競争に任される。

よへ(9)ようこそ、偏差値のない世界へ。日本の入試で偏差値が支配してきたのは、入試が偏差値で予想できるようなものだった、ことを反映しているに過ぎない。市川海老蔵さんは、ハーバード大学には入れるかもしれないが、東大には入らないだろう。多様な人材を集めない組織は、結局弱体化する。

2012年5月21日月曜日

日食は不意打ちが一番だが、それだと見逃してしまうこともある

にそ(1)浅井愼平さんと対談した時のこと。浅井さんは、ビートルズ来日公演の際の写真で有名だが、ビートルズとの出会いは、「不意打ち」だったという。 ある日、ラジオから流れてきたその楽曲に、「これは何だ」という衝撃を受けた。全ての出会いの中で最良のものは「不意打ち」だと浅井さんは言う。

にそ(2)不意打ちには、独特の切なさがある。たとえば、誰かが自分のことを褒めていたと、第三者から聞くのは価値がある。ひょっとしたら、伝言ゲームが 成立していなかったもしれないというはかなさ。本人から直接言われるよりも、途切れていたかもしれないという偶有性にざわざわするのだ。

にそ(3)日食との最良の出会い方は、「不意打ち」だろう。皆既日食、金環日食それぞれに、もし知らないでそれに出会ったとしたら、私たちはどんな印象を 受けるか。昔の人は、そうだった。今日も、ひょっとしたら、日本に数百人くらいは、金環日食にそれと知らずに出会った人がいるかもしれぬ。

にそ(4)途中から公園の森の中に身を置いて、金環日食を見ていた。もし、今日日食が起こるということを知らないとしたら、どのように感じるだろうとそれ ばかり考えていた。木漏れ日を見たとき、三日月がたくさんあって驚いた。もし、事前に知らなかったら、それで気づくだろうか。

にそ(5)関心があったのは、どれくらい暗くなるのか、ということである。食分が約0.96.4%の光は地球に届くのだから、それほど暗くはならないだろう、とは考えていた。もう一つは風。温度差が生じることによって、日食の際には、強い風が吹くことがあるという。

にそ(6)それは、気配として始まった。食分が増えていくにつれて、次第に、太陽の光に陰りがあるように思えた。鳥たちも反応して、空を行き交っている。 やがて、あたりは夕暮れのようになってきたが、それでも、肉眼で太陽のあたりをさっと見ると、いつもと変わった気はしない。

にそ(7)いよいよ金環日食になった瞬間の驚き。ちょうど雲が薄くかかっていたこともあって、太陽の中に、月の影がはっきり見えた。その時だけ、いつもの 太陽と明らかに様子が違っていた。もし、事前に日食を知らずに空を見上げた人がいたとしたら、太陽に瞳が出来たかと、びっくりするだろう。

にそ(8)もし、金環日食を事前に知らず、日食眼鏡も持っていない人がいたとしたら、こんな経験だったろう。太陽に力がない気がする。三日月形でも光が出 ている間は、まぶしくてそれとわからない。ところが、金環日食になった瞬間、太陽の真ん中に瞳が出来る。瞳は、こっちをじっと見ている。

にそ(9)科学文明全盛の私たちは、いつ日食が起こるのか、どのように起こるのかを知ってしまっている。最良の日食は、不意打ちで経験するもの。しかし、 それでは見逃してしまう可能性もある。日食に相当する配列の奇跡は、生活の様々な側面で起こる。不意打ちの「日食」に、いつも身構えていること。

2012年5月20日日曜日

嫌いは無関心より、好きに近い

きす(1)子どもの頃、大人たちがビールを飲んでいるのを見て、顔をしかめていた。祭りのときなど、「ちょっとなめてみるか?!」と言われて、口にして、「うぇー、苦い」。「こんな苦いもの、よく大人は飲むなあ」と逃げ出した。そんなぼくを見て、大人たちは笑っていた。

きす(2)それが、確かに20歳を過ぎた頃であって、大学に入った直後では決してないと思うが(飲酒の成人年齢は18歳にした方がいいよね)、ビールが好きになった。あの苦い味が、たまらないねえ、になったのである。暑い夏の夜など、枝豆とビール、早くはやく。ぐびぐび。ぷはー。

きす(3)扁桃体など、「好き」「嫌い」を司る脳の回路網のダイナミクスとしては、確かに「嫌い」は「好き」に近い。「無関心」よりも、「好き」に近い。だから、線形領域への待避か、あるいはオセロで白黒が逆転するような過程を通して、「嫌い」が「好き」に逆転することがあるのである。

きす(4)フジテレビの韓流ドラマ騒動のときにぼくも巻き込まれたので誤解があると思うが、ぼくは韓国の文化にとりたて激烈な感情を抱いていない。旅をして、いい国だとは思っているけれども、熱狂的な韓国好きや、逆に激しい嫌韓派ほどの、駆り立てられるような気持ちを、僕は持たない。

きす(5)そんなぼくが興味深いと思っているのが、韓国が嫌いだ、という人たちの感情に、勢いがあることである。それだけ関心があるのだろうと思う。その意味では、嫌韓派は、韓流ドラマ好きにむしろ近い。ぼくのような中立的な立場から見ると、そんなに関心があるんだな、と思えてしまう。

きす(6)遠いアフリカの国の文化に、韓流ドラマ好きvs 嫌韓派ほどの、強い関心を持つことはそんなにないだろう。やはり、歴史的にも文化的にも関心の高い隣国であるから、それだけ強い感情を抱く。好きにしても嫌いにしても、無関心でいることが難しい、ということなのだろう。

きす(7)以前、飛行機の中で、フランス人とベルギー人の感情的対立を描いた、Nothing to declare(確か)という映画を見たことがあった。日本人からしたら、フランスでもベルギーでもどっちでもいいよ、と思えるけど、ベルギーの人にとっては大いなる差があるらしい。

きす(8)日本は、明治維新で近代化をいち早く成し遂げたから、自分たちはアジアの中で特別だと長い間思ってきた。韓国や中国も経済成長を経験した今、日本がアジアの一国であるという認識に問題はないだろう。そして、アメリカから見れば、日本と韓国が、文化的に近く見えることも。

きす(9)「嫌い」という感情を抱くことは、もちろん自由。ただ、その「嫌い」の背景に強い関心があることをメタ認知すると、より強靱な立場を確保できる。嫌いは、無関心よりも、好きに近い。だからこそ、ぼくは、ツイッター上で執拗にぼくを批判する人を大切にし、時にはフォローまでする。

2012年5月19日土曜日

どうでもよいことは流行に従い、芸術のことは自分に従う

すあ(1)小津安二郎の『東京物語』をさいしょに見たのは大学院生の頃。正月休みにバイトをしていた予備校の近くのレンタルビデオ屋で借りた。そのときは、実はあまりよくわからなかった。3月中旬になって、何となく気になってもう一度借りてみた。そしたら、熱病にかかってしまった。

すあ(2)とりわけ、『東京物語』の冒頭と最後に出てくる尾道の風景に惹かれた。とりつかれたようになって、ついに、新幹線に一人乗って旅をした。季節は春。千光寺公園には、桜が満開だった。尾道水道を見下ろし、坂の街を歩きながら、映画のシーンの面影を探し求めた。

すあ(3)『東京物語』は、映画と言えば欧米のものばかり見ていた私が、日本映画の良さに目覚めるきっかけとなる作品となった。イギリス留学中、ロンドンで『東京物語』を見たときは、なんだか途中で涙があふれてしまった。映画の温かさ、なつかしさに日本のことを思い出したのだろう。

すあ(4)『東京物語』は、世界の映画史上のトップ10にしばしば登場する名作となり、『晩春』、『麦秋』、『秋刀魚の味』といった作品も、世界中の映画人が愛し、学び、繰り返し立ち返っていく古典となった。そんな小津安二郎が生きていた時代に思いをはせると、はっとあることに気づく。

すあ(5)『晩春』の公開は1949年。『麦秋』は1951年。『東京物語』は1953年。終戦後、ほんとうに間もない頃である。未だ、日本社会が混乱のまっただ中にあったその頃に、これらの作品が撮影されたと考えると、ちょっと信じられないような想いがある。

すあ(6)原節子の、精神的な美しさ。笠智衆の、諦念をはらんだ微笑み。繰り返される、取り立てて大きなことも起こらない、家族の物語。どこにでもありふれているような日常が、底光りしている。そんな小津の映画が、戦後の混乱期に撮られているということに、凄みを感じる。

すあ(7)当時、日本では左翼思想が盛んで、冷戦を背景に、激しいイデオロギー論争が繰り広げられていた。そんな嵐のような世相の中で、小津安二郎が、穏やかで小市民的な世界を描き続けたことに対して、当然批判はあったらしい。小津は古い、骨董のようだと揶揄されたとも聞く。

すあ(8)今や、世界の映画史に残り、敬愛される巨匠である小津安二郎が、汚く厳しい言葉でバッシングされていた。そんな批判に走った当時の血気盛んな若者たちの気持ちがわからないわけでもない。しかし、時代が流れ、残っているのは、小津映画の神々しい温かさだけ。批判は、全部消えてしまった。

すあ(9)同時代を生きていると、批判やバッシングのような事象が、あたかも重大事のように思える。しかし、時が流れれば、それらは全て消えてしまう。もちろん、人や作品自体も消えてしまうことも多いが、愛があれば、多くの場合それは残る。叩くよりも、叩かれて愛を貫いた方が徳である。

2012年5月18日金曜日

中学から高校に行くとき、成績で学校を分けているんじゃねえよ、タコ!

ちせ(1)そもそも、ぼくは学力で人を見る、という発想を持ったことがなかったらしい。覚えているのは、小学校2年くらいのときに、そうか、勉強が得意な 子と、苦手な子がいるんだ、と砂場で気づいたことで、なんだか重苦しい気分になった。苦手な子の体験を、想像してみたのだ。

ちせ(2)小学校6年の時、アライテツヤに鉄棒のところに呼び出されて、けんちゃん、中学に行くと勉強大変だぞ、クラスで一番だと、○○高校、学年で一番 だと、○○高校だ、と言われた。ぼくはそんなことを初めて聞いたから、へえーと思った。そして、ものすごい息苦しさを感じた。

ちせ(3)そして始まった中学は、人生で一番息苦しさを感じていた時代だったかもしれない。公立だったけど、先生たちは成績で学校が決まる、勉強しろみたいなことを言い続けた。それで、仲間たちが分断されていった、ぐれるやつとか、勉強という私利私欲に走るやつとか。

ちせ(4)習熟度別に授業をするというのは合理的かもしれない。しかし、成績で高校自体が分かれていく、というのはよく考えたらおかしい。「偏差値」によ る選別は、高校から始まっていくが、なぜそのようにしなければならないのか、原理原則に返って考えれば、合理性がないように思う。

ちせ(5)同じ高校に、成績がいいやつも、軽音に走っているやつも、サッカー夢中なやつも、ぐれころーまんすたいるなやつも、みんながいて、それでいいん じゃないかと思う。ぼくは自分が行った東京学芸大学付属高校が大好きだったけど、中学の仲間たちと一緒に勉学する高校生活でも、良かったと思う。

ちせ(6)体育館の裏で、煙草を吸って紙くずや枯れ草に火をつけていた関根が、どういう高校生活を送るのか見たかった。身体がでかくて番長、実はやさしい 山崎と話をしたかった。同じ高校にあいつらがいた過去というものを、ぼくは容易に想像できる。勉強の方も、別に困らなかったんじゃないかな。

ちせ(7)いわゆる「エリート高校」というものが、あってもいいと思うけど、なくてもいいんじゃないかと思う。微積分ハンパないやつと、分数ができないや つが、同じ高校に習熟度別にいたって、いいんじゃないか。それで困るとは、思わない。たかが、大学入試程度の勉強である。エリートもくそもない。

ちせ(8)一番肝心なこと。高校や大学は別でも、出ていく社会は同じ社会。勉強が得意なやつも、苦手なやつも、同じ社会に出ていくんだから、中学から高校 に行くときに別々にしなくたっていいじゃないか。どうせ、高校の勉強なんて、大したもんじゃないんだ。なんで偏差値で脅して分けようとするかね。

ちせ(9)ぼくの言うことは、おそらく極論なのでしょう。極論でもいいです。「成績」で学校を選別する今の社会のあり方が極論だと思うから。なんでこんなことを書いたかというと、『プロフェッショナル』OBの細田美和子さん(@miwahoso )のツイートがあったから。中学生に幸あれ。

2012年5月17日木曜日

自分を守るために、道化になるということもあるよね

じど(1)過去は、育てることができる。自分が今までに経験していたことをふりかえると、「ああ、そうか」というメタ認知が生まれることがある。これから 書くことは、私の個人的な体験ではあるけれども、読者のみなさんにも同じような「種」があるのではないかと思い、参考までに記すのである。

じど(2)昨日、NHKの415スタジオで『ドラクロワ』の収録があった。小山さんやすどちんなど、『プロフェッショナル』のOBが参加している。フロアもさっちん。それで、終わったあと、すどちんが、「いやあ、茂木さん、よかったすよ。がんばってましたねえ」と言った。

じど(3)いろいろ笑わせたり、振ったりしていたことをすどちんは言ったのだと思う。ぼくに芸人っぽい資質があるとすれば、それは最近のことじゃなくて根 が深い。話は、中学校時代にまでさかのぼるのだ。中学の三年間は、一番苦しい時期だった。今思い出しても、過酷な日々だったと思う。

じど(4)小学校は勉強したり運動したり蝶を追いかけたり、「まっすぐ真剣」で良かったのが、中学になると大切な仲間たちがぐれ始めた。関根が体育館の裏 で煙草を吸い、紙や枯れ草に押しつけて火をつけていた。関根は、卒業したあと消防士になった。山崎は身体が大きくて番長だった。

じど(5)ぼくはなぜか成績が抜群で、ずっと学年1位だった。でも、仲間はソリコミで鞄はぺちゃんこ。あいつらの苦しさ、悔しさもよくわかって、ぼくは狭 間で絶壁の縁に立っているような気がした。成績で学校が振り分けられていく世の中というものを、感情の部分で受け入れられなかった。

じど(6)それで、ぼくは道化になった。いつも学校で一番の自分という存在を、笑ってやった。いろいろな権威や、ルールみたいなやつを笑ってやった。関根 や山崎は煙草やソリコミで抵抗していたんだろうけど、ぼくは、いつも冗談ばかり言って、結局あれは自分を守っていたんだと思う。

じど(7)高校に行ったらだいぶラクになって、その後、大学、社会人と中学のようなきつさはなかったけれども、テレビに出るようになった頃から、また苦し くなったな。世間は、人の気も知らないで、いろいろなことを言う。痛くもない腹を探られたり、ある時、ああ、中学の頃とそっくりだな、と思った。

じど(8)関根は、この前再会したけれども、消防局の「主幹」になっていたなあ。立派になって、胸にたくさんバッジみたいなのをつけて。おお、関根! っ て言って笑ったけど、中学の頃を思い出すと、万感の思い胸に迫るだよね。過去は、育てることができるんだよな。振り返って戻る度に。

じど(9)ぼくが、お笑いの人たちを好きなのは、苦しいから道化になる、という感覚がわかるからだと思う。苦しくて、人を攻撃する人もいるけど、笑いにし た方がみんなの命が充実する。ぼくに芸人根性のようなものがあるとしたら、その起源は中学のときなんだ、と気づいた時には、救われた気がしたね。

2012年5月16日水曜日

自分や他人に対する、期待水準を上げよう

じき(1)数日前、ちょっと面白いことがあった。ある方が、私に「先生はジョルジュ バタイユは知っていますか?読んだことがないなら ぜひ、読んでくださいませ」とツイートしてきたのに対して、@May_Romaさんが、「学者になんつー質問してるのだ」と返していたのだ。

じき(2)このやりとりには、二つの異なる哲学が表れていると思った。ある人に向き合ったときに、「バタイユを読んでいるだろう」という仮定から始まる人と、「バタイユを読んでいないだろう」という仮定から始まる人。ここには、人生の重大な分かれ道があるように思う。あなたはどちらですか?

じき(3)本質は、自分や他人に対する期待水準、にあるのだと思う。人の知識や経験は、本来低いものだと思うか、あるいは高いものだと思うか。@May_Roma さんも、TOEICに批判的だが、TOEICを肯定する人は期待水準が低く、TOEICを否定する人は期待水準が高いのだろう。

じき(4)TOEICなんてくだらない、という人は、英語というのは、本来もっとファンタジスタで、高度なものだと思っている。一方、TOEIC礼賛の人は、英語はThis is a penから始まる、積み上げのものと思っている。どっちの立場をとるかで、伸びしろは変わってくると思う。

じき(5)バタイユを読むか読まないか、ということは実は大したことではない。現代の知の地図全体から言えば、小さな点である。問題は、自分や他人に、どの程度のパフォーマンスを期待するかというところであって、日本人は、低い期待水準にならされている。だから、場外ホームランが出ない。

じき(6)私が、大学入試を批判しても一向に通じない人がいるのは、この期待水準の問題とかかわる。東大文一や理三が「すごい」と思うか、あるいは「その程度」と思うか。現在の大学入試を肯定する人は、本来人間がはばたきうる知の空間を、低くとらえているように思う。そこに問題の本質がある。

じき(7)そして、今朝の虚構新聞のニュースのリツイート。「ああ、これは虚構新聞のネタだと知っていて、あえて素にRTしているんだ」と思うか、「ははあ、虚構新聞だと知らずにだまされてRTしているな、教えてやろう」と思うか。他人に対する期待水準は、結局、自分に対する期待水準につながる。

じき(8)「虚構新聞」は本当に良い仕事をしているが、「虚構」と断らなくてはならない点に、日本人の期待水準に関するリアルな判断があると思う。英国では、エイプリルフールネタは、いちいちそう断らずに一般記事の中に混じっている。何がネタかということは、読者が認知、判断してにやりと笑う。

じき(8)英語にしても、学問にしても、あるいは就職にしても、日本人の期待水準の低さが、飛躍をはばんでいる。文科省による教科書検定や大学の授業日数の指定も同じこと。人間を本来賢いものと期待しない人たちが、よけいなことをして社会を沈滞させる。自分や他人に対する期待水準を上げよう。

2012年5月15日火曜日

龍や、UFOを見るからこそ木村秋則さんはすごい人になった

りU(1)昨日に続いて、木村秋則さんのことを書く。『奇跡のリンゴ』(幻冬舎)がベストセラーになった後、木村さんは、『すべては宇宙の采配』( 東邦出版 )を出された。ゲラを読んだときに、そのあまりのすごい内容に、私は驚いてしまった。そして、異様な感動を覚えたのである。

りU(2)『すべては宇宙の采配』の中で、木村秋則さんは、こんなことを書いている。少年の頃、自転車に乗っているおじさんが、突然、止まった。ペダルも、ペダルをこぐ足も止まっている。おかしいな、と思ったら、周囲の時間がすべて止まっていて、目の前の木に、一匹の龍がいた。

りU(3)龍は、一つの玉を持っていて、木村さんに、あることばを言ったのだという。それが何なのか、木村さんは、誰にも絶対に言っていないのだという。市川海老蔵さんとの鼎談のときに、海老蔵さんが、それは何だったのですかと木村さんに聞いても、木村さんはにこにこして首を横に振るだけだった。

りU(4)木村さんは、さらに、UFOのことを書いている。リンゴ畑を宇宙人が猛スピードで飛んだ。ある時はUFOに乗って、そこで、白人の女の人に出会った。それから年月が経って、ある時テレビを見ていると、その時の女の人が出ていて、「眼鏡をかけた東洋人がいた」などと言っている。

りU(5)木村さんは急いで奥さんを呼んで「ほら、いつも言っている、UFOに乗った時にいた白人の女の人はこの人だよ」と伝えた。そんな話が、『すべては宇宙の采配』には書いてある。ゲラを読みながら、私は、地面の上に小さな石があって、その周囲を掘ったら巨石につながったような思いがした。

りU(6)科学的な立場からすれば、木村秋則さんが見た龍やUFOは、一つの「脳内現象」である。しかし、幻覚だからといって、その人にとってのリアリティがないわけではない。むしろ、そんなものを見るほど追い詰められる人、厳しい道を行く人だからこそ、偉大な業績を残せるとさえ言える。

りU(7)木村さんは、厳しい状況に置かれていたのである。その存在自体が、脅かされるような。そんな時、人はvisionを見る。何でもないことで、キリストもおそらくそうだったろう。visionaryが、手元のことをきちんとやる時(木村さんで言えば、リンゴ栽培)「奇跡」が起こる。

りU(8)『すべては宇宙の采配』の推薦と解説文を頼まれたとき、知り合いの編集者が「だいじょうぶですか」と言った。もちろん、と答えた。ある人のことを愛することはその全てを受け入れることであって、リンゴの木村さんはいいけど、龍やUFOの木村さんはちょっと、というのはおかしい。

りU(9)『プロフェッショナル』の取材班は、木村秋則さんが龍やUFOの話をしていることを把握していた。番組で触れなかったのは、正しい編集判断だと思う。同時に、人間の脳は、非常識なvisionを見ることで創造性を発揮することもあるということを忘れないために、今朝は記す。

2012年5月14日月曜日

困難の暗闇をくぐり抜けると、太陽のような明るい人になる

こた(1)昨日、那覇のとまりんで行われた沖縄タイムスの講演会で、質疑応答のときに、「プロフェッショナルのゲストで印象に残った人は?」と聞かれた。『ローマの休日』のアン王女のように、「どの方も」と言う手もあったけれども、言葉が自然にわいてきた。「リンゴ栽培の、木村秋則さんです」

こた(2)木村秋則さんは、不可能と言われたりんごの無肥料、無農薬栽培を思い立つ。しかし、うまく行かない。畑から、虫たちが葉を食べる音が聞こえてくる。季節外れに花芽が出る。どうしてもうまく行かなくて、極貧の生活となり、子どもたちは一つの消しゴムを切り分けて使った。

こた(3)7年経ってもダメで、もう死ぬしかないと、木村さんは思い詰めた。祭りの夜、家族たちを先に家に帰して、首をくくるロープを持って一人山に入っていく。この木にしよう、とロープを投げ上げたら、落ちた、それを拾おうと斜面で転がったら、目の前に、リンゴの木があった。

こた(4)なぜ、こんな山の中にリンゴの木が? いぶかる木村さん。よく見たら、どんぐりの木だった。いつもリンゴのことばかり考えていたから、そう見えてしまったのだろう。そこで、木村さんははっと気づく。なぜ、山の中では誰も肥料や農薬を使っていないのに、こんなに青々と茂っているのか。

こた(5)木村さんは、夢中になって根元の土を確かめた。ふわふわとして、やわらかい。自分のリンゴ畑の土とは、全く違う。これだ! 死にに来たことなど忘れて、夢中で山を転がり下りた。鍵は、「土」だということに気づいたのである。木村さんは土作りに奔走した。そして、ついに「その時」が来た。

こた(6)ある日、木村さんが家にいると、「大変だ、畑に行ってみろ」という。怖くて見れなくて、小屋の陰からそっとのぞいた。リンゴの花が、満開に咲いている。涙が出た。日本酒の一升瓶を持って、一本ごとにお疲れさま、とかけてあげた。ほとんどは、自分で飲んだ。

こた(7)木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」が出来るまでの物語。今度映画化されるそうだが、そこには本物のドラマがある。「真実」を求めて、それこそ自分の人生をすべて賭けて木村さんは探求した。その過程で、地獄を見た。地獄の中で、自分の命を絶とうとさえ思った。

こた(8)今日、木村秋則さんに会うと、まるで太陽のようである。その表情から、生命の光が輝いて見えるのだ。私は、木村さんほど、屈託なく、心から笑う人を知らない。その原初の日差しのような明るさは、言い尽くせない地獄をくぐり抜けたゆえ。夜明けの前の暗闇が一番深いという。

こた(9)木村秋則さんは口の中も「自然農法」で、歯が一本もない。収録の日、ディレクター(当時)の柴田さんが「歯入れてくるかな」と言っていたけど、結局歯無しできた。それでも滑舌がよくて、メロンも器用に食べる。木村さんのことを想うと、生きていてよかったと想う。困難が怖くなくなるのだ。

2012年5月13日日曜日

大学入試や、TOEICの耐えられないセコさについて

だと(1)昨日夜、寝る前にモーリー・ロバートソンさん(@gjmorley)のツイートを見たら、とてもふくよかな気持ちになった。知性というものは森のような作用があるのだと思う。それで、昼間、アルクの藤多智子さん(@8ya)と話していたことと合わせて、いろいろなことを考えた。

だと(2)昨日はアサカルの英語の講座で、いろいろな話をしたが、その中で、「じゃあ、TOEICの問題解いてみようか」ってなことになって、その場で初見でやってみた。もちろん全部正解したけど、the concernとconcernsとか、ひっかけがあって、やってて楽しくなかった。

だと(3)一方、「じゃあ、即興でやってみるね」と、みんなの前でお題をもらって即興で英語でスピーチしたり、エッセイを書いたりするのは楽しかった。英語アスリートは、こっちを鍛えましょう。その先には、TEDでのtalk や、Joseph Conradのような小説を書くという道がある。

だと(4)藤多さんと話していて「へえ」と思ったんだけど、TOEICって、大学生だと400点台くらいの平均から始まるんだって? ベストハウスで一緒に出ていた菊池さんみたいに、満点990点23回とかは、オタク、趣味みたいなもので、あまり意味がないらしい。800点台あれば十分とか。

だと(5)で、藤多さんは英語教育の専門家なわけだけど、TOEICは、400点台の人が800点になる道筋、みたいな意味ではそれなりの目安になる、というから、ああ、それはそうかもしれないと僕は思った。というか、僕には、最初から場外ホームランを基準にバントを語る癖がある。

だと(6)面白かったのは、みんなの前で即興で英文を書いて見せていたら、藤多さんや他の人が驚いたことで、ぼくは辞書も何も使わないでだーっと書くから、そんなの見たことないらしく、普通は辞書をひきひきえっちらこっちらやるらしい。その後に、表現をより磨いていくとことか、新鮮だったらしい。

だと(7)ちまちましている点において、TOEICと大学入試はにている。どちらも、本物の知性と関係がない。大学に受かることが最終目的の人と、連続体仮説や経済成長の謎の究明を目指す人がいたら、後者の方がいい。ところが、誰も場外ホームランのことは語らず、バントのやり方ばかり見てる。

だと(8)日本の不幸は、英語を語るにはTOEIC何点という内野安打の視点しかなく、学問を語るには大学入試という小さく前にならえ、の話しかないことだろう。それで、ぼくは一貫して場外ホームランの話しかしていないから、世界には内野しかない、と考えている人たちとは当然話が合わない。

だと(9)facebookやtwitter見てればわかるけど、場外ホームランを打つ人が出ないと、経済も国も活性化しない。目指しませんか、場外ホームラン。TOEICの点数や大学入試じゃない基準や目標について、日本人が熱く語るようになったとき、この国は本当に変わったのだと思う。

2012年5月12日土曜日

村はどこにありますか、村民はどこにいますか

むそ(1)意外だと言われるけど、ぼくはゲームを案外やっている。リンクがオカリナ吹いたり、少年が少女と手をつないで黒い影から逃げたり、草むらでスライムと出会ったり、ひっこぬいて投げて宇宙船つくったりしている。それで、たぬきちがいる「動物村」にも、いったことがあるんだ。

むそ(2)ちがった、「どうぶつの森」だってね。それで、確か、電車か何かに乗っていて、こっちが村だよ、なんて教えてくれるんじゃなかったか。それで、ああ、そっちに村があるんだ、とわかって行くと、たぬきちとかいて、たぬきちはスーパーか何か経営しているんじゃなかったっけ?(うろおぼえ)

むそ(3)「どうぶつの森」だと、村はどこにあるかわかっているし、村民がだれがいるかもわかっている。それでね、このところふしぎで仕方がないのが、 日本にもたくさん村があるらしい、ということ。特に、「原子力村」というのがあるらしくて、多くの人が言及する。ぼくが村民にされることもある。

むそ(4)「村」がある、ということを聞くと、当然「へえ、その村、どこにあるの?」「村民は、誰?」「村の条例って、あるの?」「村民憲章ってあるの?」と疑問がわいてくる。それで、「原子力村」とやらにも同じような疑問を抱くけれども、誰もわかっていなくて、あいまいに使っているみたいだ。

むそ(5)「原子力村」というのは、「原子力利権」に群がる腹黒い人たちの集まりで、お互いの利益を図るために、世間をだましている、というような意味で使われているようだけど、その村の定義は? どんな行動規範があるの? どこかに、密約が書いてあるの、とつめていくと、実態が消えていく。

むそ(6)「原子力村」ということの操作的定義がよくわからないから、ぼくは自分からはこの言葉を使わない。使って何かわかったようなことを言っている人は、あまりものを考えていないのだと思ってきた。それと、「原子力村」ということをいうときの、発言者の体重の乗り方が、いつもふしぎだった。

むそ(7)今朝、二度寝して起きた瞬間に、「ああ、そうか」と思った。ぼくは世間ずれしているから、おそらくどんな「村」の住民にもなっていない。学会でも一匹狼だし、特定の機関との密着もないし、互助組織もない。「村」の感情というものを、異なる惑星から来た人のように眺めているところがある。

むそ(8)「原子力村」と口をきわめて非難する人は、本人がどこかの村の住人か、あるいは村民のメンタリティを身近に感じているんだろう。ぼくにはそう思えてならない。ちょうど、日本人の中には韓国が好きな人も嫌いな人もいるけれど、ヨーロッパの人はそれほど関心自体がないのと同じように。

むそ(9)今朝、TOEFLを受験する人には「世界への道がここから開ける」、TOEICを受験する人には「日本村への道がここから開ける」とツイートした。案外そのあたりに本質があるのかもしれない。ぼくはどの村にも属さないで損をしているけど、ほんたうは日本には村がいっぱいあるんだろう。

2012年5月11日金曜日

間が悪いということが、世の中にはあるよね

まよ(1)さっき、コンビニに歩きながら、突然あることを思い出した。記憶というのは、不思議なもので、今生きている中で何らかの連想が働いたのかもしれないし、生きる中で、そのことを思い出すことが、バランスをとる上で必要だという無意識のダイナミクスがあったのかもしれない。

まよ(2)私が小学校の頃から、『刑事コロンボ』がものすごくはやりだした。「うちのカミさんがね」というぼさぼさの姿が、一世を風靡。ピーター・フォーク主演のこのドラマを、私は熱心に見た。ノベライズした本も十冊くらい持っていたから、よほど熱心なファンだったのだろう。

まよ(3)『刑事コロンボ』は、倒叙推理もので、最初に犯人がわかっていて、それをコロンボが推理して追い詰めていく。だから、犯人目線の映像がふんだんにあって、犯行をする、という立場に半分寄り添って物語が展開していくという、今考えれば斬新なスタイルでドラマが進行していた。

まよ(4)あれは大学生の頃。『刑事コロンボ』の放送があって、そのトリックが印象的だった。犯人が、エレベーターの中で証拠隠滅する。傘でエレベーターの天井を持ち上げて、その上に、ピストルを隠して、何事もなかったかのように出ていく。その映像が面白くて、鮮明な記憶に残った。

まよ(5)ある日、小学校の時からの親友の井上智陽(@eunoi)と、日本橋の高島屋に行った。スペースシャトル展か何かをやっていて見に行ったのではないかと思う。エレベーターに乗っているときに、刑事コロンボのことを思い出して、「そういえば、智陽さ、この前の見た?」と切り出した。

まよ(6)エレベーターの中には、私たち二人だけ。私が、『刑事コロンボ』のトリックの話をすると、井上もそれを見ていて、「こうやるんだよな」とよせばいいのに天井を傘で押した。そうしたら、信じられないことに、透明なプラスティックでできたその天井が、どさっと落ちてきた。

まよ(7)天井が落ちた瞬間、エレベーターの扉が開いた。やばい! と思って出ようとすると、乗ろうとしたおじさんが、「お前たち、直していけ!」と怒鳴った。そうしたら、高島屋のひとが、今考えてもやさしい声で、「あっ、直しておきますから、いいですよ」と声をかけてくださった。

まよ(8)顔から火が出るんじゃないかというくらい恥ずかしい思いで、ぼくたちは逃げるように立ち去った。よりによって、井上が傘で天井を押して、落ちた瞬間にエレベーターの扉があいて、おじさんがいて、店員さんがいるとは、間が悪いということが、世の中には確かにあるのだ。

まよ(9)今考えても不思議なのは、天井が落ちたのを見たとき、高島屋のひとが即座に「だいじょうぶですよ」と言ったこと。『刑事コロンボ』のトリックのせいだとは、わからなかったはずなのに。それにしても、あの時の高島屋の人は親切で、できることなら過去にトリップして説明し、あやまりたい。

2012年5月10日木曜日

ぼくはぼろぼろで、ふくは買いません

ぼふ(1)ぼくは、リュック以外つかったことがない。正確に言えば、学生の頃や、卒業したあとで、ビジネスマンの人が使うような鞄を試してみたことがあるが、どうにも身体感覚に合わなくてやめた。それで、リュック一つで、国内でも国外でも、どこでも出かけていく。

ぼふ(2)リュック一つでどこでもいっちゃうというのは、立派な紳士のセンスからすると、おかしいらしい。理化学研究所にいたとき、伊藤正男先生は、ぼくがリュックで建物を出ていくのを見る度に、「あれ、茂木くん、今日はこれから山に行くのかい?」と尋ねられていた。

ぼふ(3)いつもダンディな伊藤正男先生。「これから山に行くのかい?」という言葉は、ジョークや皮肉で言っていたわけではなく、素朴にそう思われておっしゃっていたのだろう。その度に、私は、なんだか申し訳なく、身体が縮こまるような気分になって、「いいえ、違います」と小さな声で答えていた。

ぼふ(4)それで、白洲信哉(@ssbasara)の件であるが、なにしろ彼は白洲次郎、白洲正子、小林秀雄の孫であるから、ダンディーな血統は申し分なく、ぼくのよれよれの服とみすぼらしいリュックを見ると、「君は何をしているのかね」と思わず言ってしまいたくなるのだろう。

ぼふ(5)有吉弘行さん(@ariyoshihiroiki)はあだ名をつけるのがうまい。スタジオでご一緒したときに、ぼくは、「賢いホームレス」というあだ名をつけられた。みんな爆笑して、ぼくは顔が真っ赤になった。「賢い」かどうかは別として、格好は、昔で言えば「ルンペン」である。

ぼふ(6)私が師匠と仰ぐ椎名誠さんに親近感を抱いてしまうのは、椎名さんもなんだかよれよれの格好をしているからだ。それで、椎名さんは、よくホームレスの方に間違えられるらしい。空港で人を待っていたら、警備員の人に、「ここは君のような人が来てはいけないところだ」とか言われるらしい。

ぼふ(7)ぼくは、服についてはほんとうにひどくて、ズボンは基本的に一着しかない。それで、家につくと床に脱いで、翌日、そのままはいてしまう。もちろん、一週間に一回くらい洗うけど。基本的に、ずっと同じ格好をしている。服を買うことも、ほとんどない。

ぼふ(8)自身の精神史を分析してみると、ぼくがこうなってしまったのはケンブリッジのせいだろう。かの地では、学者たちがみんなぼろぼろの格好をしていたから、ああ、これでいいんだ、と思ってしまった。それがいけなかったんだね。ほんとうにひどいよ。ずっと同じ格好だもんね。

ぼふ(9)でも、白洲信哉(@ssbasara)のおじいちゃんの白洲次郎さんも同じケンブリッジに行ったのに、なぜ向こうはダンディーになって、ぼくはよれよれぼろぼろになったんだろう。環境だけでは人は決まらないといういい実例だね。今年になって、服はまだ一着も買ってません。ずーっと同じ。

2012年5月9日水曜日

君たちはタコとばかにするけどね、ほんとうはいろいろ考えているんだよ

きほ(1)世の中にはいろいろ予想外のことがあるもので、このビデオ−> http://bit.ly/Jp0us1 を見たときには、本当にびっくりした。タコが、岩の上で、周囲の海草に合わせて擬態している。人が近づいたので、慌てて逃げ出すのだが、どこにタコがいるのか、全くわからない。

きほ(2)この見事な擬態ぶりは、一つの「知性」だということができるだろう。眼球で周囲の視覚的特徴をとらえて、それに合わせて身体表面の色素の分布を調整する。まるで、身体全体が立体ディスプレイになっているようなもので、人間とは全く異なる方向に進化した知性である。

きほ(3)この驚くべきビデオを見て、2週間くらい経ったときのこと。ふと、あのタコくんはどんな種類なんだろう、と思って、調べてみた。そうしたら、Octopus vulgarisだと書いてある。そうか、いずれにせよ、そんな特殊能力を持ったタコがこの世にいるんだなあ、と思っていた。

きほ(4)そしたら、よく見たらOctopus vulgarisは、Common Octopusだとある。それって、いわゆるマダコじゃないか! ということは、あの、ごく普通のタコが、周囲に合わせて擬態する驚くべき能力を持っている、ということになる。そのことを知り、私は動揺したね。

きほ(5)フラッシュバックのように蘇った光景がある。私は、大阪に行くと道頓堀を歩くのが好きで、食い倒れ人形をちょっと行ったところに、たこ焼きの屋台があった。その前を通るときに、ああ、たこ焼きだ、と思い、ふわふわの小麦粉の中に大粒のタコが入っている様子を思い描いていた。

きほ(6)そんなとき、たこ焼きのタコくんというのはゆでてぶつぶつ包丁で切っちゃうけど、くねくねしているやつだし、まあ、いいか、みたいに思っていたように思う。タコくんにそれほど敬意を払っていないというか、お前はどうせタコだろう、と高をくくっていたところがある。

きほ(7)タコなんて、たこ焼きに入ってればいいんだ! と思っていた。そのマダコくんが、あんなに高度な擬態能力を持っていたなんて。ぼくは、これは普遍的な現象で、相手をバカだとか、アホだとか思っていても、実は相手はいろいろ考えている、ということはいつもあると思うんだよね。

きほ(8)ネット上のやりとりを見ていると、最初から相手を決めつけていて、お前なんかタコだ、みたいな感じの人が多い。でも、他者って本当は想像し尽くすことなんてできないし、そもそも他者を理解する、というテーマ自体が不良設定問題だ。そのことの重みを、もっと感じた方がいいんじゃないか。

きほ(9)次にふかふかのたこ焼きを食べるとき、うまい、うまい、と思いながらも、君は今はこんなにぷりぷりになっているけど、本当は周囲の海草に合わせて擬態する、すごい能力を持っているんだよね、ごめんね、ありがとう、タコくん、と言ってあげたい。タコとばかにされる、すべての人のために。

2012年5月8日火曜日

なかかな人には言えない、ぼくについての恥ずかしい事実

なぼ(1)あれは数年前のことだったか。東大の駒場キャンパスかどこかで、池上高志(@alltbl)と話していて、池上が、「三島由紀夫の豊饒の海は、いいよな! あれを読んでいないやつは、信じられないよな!」と叫んだので、ぼくも、「そうだそうだ!」と同意した。

なぼ(2)池上に同意したことはいいのだが、実は二つだけ問題があった。一つは、ぼくは実はその時点で『豊饒の海』を読んだことがなかったこと。もう一つは、タイトルを、10%くらいの確率で、なんとなく、「ほうぎょうのうみ」と読むんじゃないか、という気がしていたということ。

なぼ(3)池上がそう言っていたので、ぼくはあわてて読んだ。「春の雪」「奔馬」、「暁の寺」、「天人五衰」。一ヶ月くらい経ったとき、池上に会って、『豊饒の海』、いいよな。と会話を続けたが、内心ひやひやだった。もちろん、その後すぐにばらしたけど。性格的に隠しておけないんだよね。

なぼ(4)誰もが読んでおくべき、見ておくべき名作でありながら、自分はまだ、という事実は、なかなか人には言えない恥ずかしい事実なのではないか。何を隠そう、ぼくはまだ「失われた時を求めて」の、マドレーヌから先を読んでいない。「100年の孤独」は、2、3ページしか読んでいない。

なぼ(5)トルストイの『戦争と平和』は、「よし、読むぞ!」と気合いを入れて買ったものの、途中で挫折している。『アンナ・カレーニナ』は、ずっと『アンナ・カレニーナ』だと思っていた。数年前読んだら、感動的にすばらしい話だった。『戦争と平和』も本当は読まなくちゃいけないんだけど。

なぼ(6)途中で挫折した名作は数限りな。学生時代、『旅芸人の記録』をビデオ屋で借りてきて、途中で落ちた。なぜか、『天井桟敷の人々』も途中で落ちて、それ以来こわくて見れないでいる。面白いらしいんだけど。あと、黒沢だと、実は『どですかでん』を見ていないなんて、口が裂けても言えない。

なぼ(7)ぼくは24の時だったか、実はドストエフスキーをまだ一冊も読んでいない、ってガールフレンドに言ったらそれはよくないと言われて、『罪と罰』を読んだらすごく良くって、『悪霊』とか『白痴』とか、『カラマーゾフの兄弟』とか次々読んだ。24歳前の自分を振り返ると、恥ずかしいのだ。

なぼ(8)いろいろ、恥ずかしいことはあるんだよね。たとえば、ジェームズ・ジョイスは、実は『ダブリン市民』しか読み通したことないし(英文)、グレート・ギャッツビーを初めて読んだのは5年くらい前だし(英文)、『赤ずきんちゃん気をつけて』は、いやらしい小説だとずっと誤解していたし。

なぼ(9)まあさ、人間、長く生きていると、今さら、「実は読んでいません」「実は見ていません」と言えないようなことって、たくさんあるよね。そういうのって、しまっちゃうおじさんがしまっておいてくれないかなあ、と思うけど、ときどきわらわら出てくるので、今朝は太陽に当ててみました。

2012年5月7日月曜日

学校は本来、プライベートなクラブである

がぷ(1)昨日、受験の「偏差値」が、日本の教育をゆがめているというツイートをしたら、多くの反響があった。それらのご意見を拝読しているうちに、思い出したこと、考えが整理できたことがあったので、改めて今朝そのことを書きたいと思います。ツイートをお寄せくださった方々、ありがとう!

がぷ”(2)偏差値が統計的な数値である、ということはもちろん知っている。50+(得点ー平均点)/標準偏差x10である。なぜこのような数値が出てきたか、と言えば、受験指導で、ある学校に受かるかどうかを予測する目安として使われてきた、ということも承知している。

がぷ(3)「偏差値」という数値が意味があるのは、各受験生にある数字を割り振るのが可能な場合だけである。そして、日本の場合、その数値は「ペーパーテスト」となっている。つまり、偏差値による「受験指導」が可能になるためには、入試が、ペーパーテストを基準にしているものでなければならない。

がぷ(4)日本の受験指導において偏差値が幅を利かせているということは、すなわち、入試がペーパーテスト重視、言葉を換えれば偏重であるということを意味する。しかし、諸外国を見れば、入試はペーパーテストを唯一あるいは主要な基準として行われているわけではない。

がぷ(4)アメリカの大学入試が、SATやTOEFLのスコアだけでなく、エッセイや、インタビューなど多様な基準で行われることは周知の通り。イギリスのケンブリッジやオックスフォードも面接重視。そのような入試では、そもそも、「偏差値」という概念が、入試結果の予測を与えない。

がぷ(6)昨日ツイートしたように、ハーバードに合格した人の70%しか入学しない。もし、日本のように「偏差値」という基準があって、少しでも偏差値の上の大学、と考えたら、このような結果にはならないはず。基準が、ペーパーテストのような単一の数値には落とせない。ここに問題の本質がある。

がぷ(7)日本でペーパーテスト重視の入試が行われるのは、それが、日本人の考える「公正さ」に適合しているからだろう。一方、アメリカやイギリスの大学は、別の基準で運営されている。それを一言で表せば、「プライベート・クラブ」。私的なクラブだから、自分たちの基準でメンバーを選ぶ。

がぷ(8)パーティーを開くとき、どんなメンバーを集めるかを、ペーパーテストで決める人はいない。あるいは結婚相手をセンター試験で決める人もいない。学校というものは、本来、プライベートなもので、誰を入学させるかは、その機関の裁量(discretion)による、というのが英米の考え方。

がぷ(9)日本式にもメリットはあるが、弊害の最たるものが「偏差値」、それと学校側がものを考えなくなること。私的なクラブとして裁量でメンバーを選ぶのは真剣。クラブの発展がそこにかかっているのだから。ペーパーテストだけで選抜してきた日本の学校は、未来の形成を放棄してきたに等しい。

2012年5月6日日曜日

体制間競争は終わっていないけれども、私たちがきっと勝つ

たわ(1)ぼくは、気づいたときには爆発している。堀義人さんにお誘いいただいてG1サミットに行ったとき、北京在住のある方が、中国では今はこうだ、だから、日本も中国を見習って、、、というようなことを言われたとき、ぼくは瞬間的に着火して、立ち上がって発言しちまっただ。

たわ(2)ぼくは、中国賛美のその人に言った。「あんな、一党独裁の、自由もないような国が、なぜ日本の見本になると言うんですか? 逆でしょう。日本は民主主義国なんですよ。なんで、中国なんかのマネをしなくちゃいけないんだ!」 G1サミットの会場は、「あ〜」っていう雰囲気が流れた。

たわ(3)フランシス・フクヤマが冷戦終結を受けて「歴史の終わり」を書いた。その後も、「体制間競争」は続いている。中国のような国家資本主義と、自由主義経済のどっちが勝つか。中国のやり方は効率が良いようでいて、果たして最後にどちらに軍配が上がるか、まだ歴史の審判はついていない。

たわ(4)数年前北京に行ったとき、大きな立派な道路を走っていた。そしたら、同行の人がぽつりと、「ここ、数ヶ月前までは、古い家がたくさんあったんですよね」という。政府が道路をつくる、と決めたら、住民を強制的に退去させてしまって、あっという間に平らにしちゃうというのだ。

たわ(5)政府がこう、と決めたら、勝手にそうできてしまう。そんな中国のやり方は、短期的には効率がいい。人権や自由など無視した方が、あっという間にインフラができるかもしれない。しかし、その後の経済発展が維持できるかどうかといえば、怪しいと私は思う。

たわ(6)読んでいる途中で本がどこかに行ってしまって困っているのだけれども、津田大介さんの「動員の革命」に面白いことが書いてあった。中国はtwitter禁止だが、VPNを通せば使える。そいて、100万人程度の人が、実際にソーシャル・メディアを使っているというのだ。

たわ(7)中国からVPNを通してtwitterを使うというのは、ぼくも上海に行ったときできると確認している。それで、津田さんによれば、なぜそんな「抜け穴」を用意しているかというと、そうでないと国際的なビジネスが展開できない、というのだ。だから「ダブル・スタンダード」にしている。

たわ(8)盲目の人権活動家、陳光誠氏の処遇をめぐって、中国政府がまた醜い一面を見せている。なんの法的根拠もなく、陳氏を病院に幽閉し、家族を迫害する。そういうことを平気でやる国家社会主義と、私たちの自由主義と、最後にどちらが勝つのか。私は、自由が最後には勝つと、信じるものである。

たわ(9)今朝retweetした英国Guardian紙の記事は、「日本が復活し、中国は停滞するだろう」と予測していた。プリンシプルに従って考えれば、そうなるのではないか。日本には、明治から民主主義が存在した。体制間競争はまだ終わっていないが、必ず最後に自由は勝つと私は予測する。

2012年5月5日土曜日

不信で片付けるような、大人にはならないようにしよう

ふお(1)今日は「子どもの日」である。「子どもの日だ、子どもの日だ、うれしいな」という歌が確かあったような気がする。子どもの頃を振り返ると、親や、先生、周囲の大人がが、まるで何でも知っている万能の人で、何でもできる「魔術師」のように思えた時期があった。

ふお(2)だからこそ、子どもは、大人を「信頼」する。大人が言うことは、とりあえず正しいことだという仮説から始まる。子どもはまだ世界のことを知らず、無力だから、大人にすがるしかない。親や先生の言うことを、とりあえずは信じてかからないと、この複雑怪奇な世界で生きていくことができない。

ふお(3)それが、成長して、大人になっていくと、かつては全知で万能だと信じていた大人たちが、全知でも万能でもない、ということがわかってくる。その過程で、大人不信になったり、反抗期になったりすることもある。やたらと親に反発したり、先生にはむかったり。成長の一つのほろ苦さなのだろう。

ふお(4)やがて、自分で働くようになり、社会の中で責任ある立場になってきたりすると、実際に物事を動かしたり、回したりすることの難しさがわかってくる。そんな中で、かつて大人たちを全知、全能だと信じていた頃の自分が、なつかしくもあり、みっともなくもあったと感じるようになる。

ふお(5)社会人の大人どうしの関係性は、だから、「お互い大変ですね」というのが、基本的感情であるべきなのだと思う。それぞれの職責を果たすのが、完全にはできないことなどわかっている。お互いベストを尽くしましょう。それでも、思うようにいきませんね。そんな共感から、大人たちは始まる。

ふお(6)もっとも、子どもたちに対しては、大人たちは、時に全知、全能の存在であるふりをしなくてはならないこともある。世界はどうなっているのですか? 生きることの意味はなんですか? そんな時、言い切ってしまうというのは子どもに対する大人の思いやり。ちょっと照れくさいけどね。

ふお(7)最近気になる傾向の一つは、大人どうしの間で、「不信」という言葉がしばしばに使われることだろう。現状に対する批判や提言はあったとしても、「不信」という言葉は、安易に使うべき表現ではない。その裏には、相手が全知全能であるべきという誤った「期待」があるのだから。

ふお(8)現場に立って、実際に自分が仕切ることを想像したら、「不信」という言葉は安易には使えない。事態を改善するにも、一つひとつ積み上げていくしかない。「不信」という言葉は、便利なようでいて、実際にはその言葉を吐いている人の現場経験の欠如、未熟さを反映していることが多い。

ふお(9)大人って、どんな厳しい現場でも、そう簡単には逃げられないし、結果はすべて自分に返ってくるし。だからこそ、大人どうしのコミュニケーションの基本は、「大変ですね」という共感であるべき。「不信」という言葉が幅を利かすのは、子どもから大人になる青春の一時期だけだと思う。

2012年5月4日金曜日

組織は、邪魔をするな!

そじ(1)アメリカの大学の、オープンコースウェアは、便利である。よく、かけながら仕事をしている。先日も、MITのをかけながら作業をしていて、突然、おや。まてよ、何かがおかしいぞ、とおもった。それで、いろいろなことを考えはじめてまった。

そじ(2)なにがおかしいぞ、とおもったかと言えば、そのMITの授業が、つまらない、と言うか、ごく普通だったからである。自分が大学時代に、受けた授業とくらべても、別にたいしたことないし、ぼくの友人の、池上高志の熱力学の授業にもぐりこんだことあるけど、あっちのほうが、面白かった。

そじ(3)アメリカには、リチャード ファインマンという、驚くべき授業の達人がいて、ついつい、みんなファインマンみたいな授業をしているんじゃないかと思ってしまうけど、実際には、そんなことはない。MITと言えども、普通の教授はむしろ凡庸で、授業も、つまらん。あたりまえのことだよね。

そじ(4)それで、ぼくはいろいろ考えはじめてしまった。ぼくは、東京大学の悪口をいろいろ言っているけど、日本の大学が悪くなってほしいと思っているわけではない。ひとりひとりの能力を見ると、別に、MITも、東大も変わらないように思う。では、なぜ、組織全体としてみると、差がつくのか。

そじ(5)思うに、日本の組織は、個人の邪魔をするんだと思う。池上高志が先日ツイートしていたけれとも、やたらと報告書を書かせたり、会議があったりする。そういう時間が、大学の先生たちが、自由にものを考えたり、まとめたりする時間を、奪ってしまっているのだ。

そじ(6)アインシュタインなんかを見ていると、その独創性が育まれた条件は、要するに放っておかれた、ということに尽きるということがわかる。特許局の仕事は、器用だからすぐ終えて、あとは物理の計算とかをしていたらしい。放っておかれた時間に比例して、独創性は花を咲かせる。

そじ(7)湯川秀樹さん、朝永振一郎さんの生誕100年のシンポジウムで京都大学に行ったとき、面白いことがあった。当時の京大の学長さんが、京大が湯川さん、朝永さんにしてあげたことは、たったひとつ、放っておいて、邪魔をしなかったことですと。ぼくは、京大はすばらしいと思った。

そじ(8)大学の事務の人とか、文部科学省の人が、ついつい、余計な気を使ったり、心配して、先生たちに干渉したり、書類を書かせたりしたくなる気持ちは、わかる。事務屋、役人の本能のようなものでしょう。しかし、そこをぐっとこらえて、できれば邪魔をしないでほしい。

そじ(9)時間があるかたは、MITの、オープンコースウェアを一度見てみることをおすすめする。一人ひとりの先生の能力はさほど変わらないのに、なぜ、組織全体としては、大きな差がついてしまうのか。日本の組織は、きっと、至る所で個人の邪魔をしている。大学だけのことではない。

2012年5月3日木曜日

連帯保証制度は、どうあるべきか

れど(1)昨日、連帯保証制度についてツイートしたところ、いくつかの有益なフィードバックをいただいた。特に @hiromichimizunoさんの 冷静かつ論理的な反応に深謝。おかげで、私が問題と感じている点がよりクリアになったと思うので、そのことについてさらにツイートしたい。

れど(2)まず、「連帯保証」という概念、および制度<自体>に罪があるわけではない。夫婦で共有の家を購入する際の借金や、共同で経営する事業に関する債務については、社会的実態として連帯して債務を保証する実質的な意味があり、そのような場合には連帯保証人制度は有効である。

れど(3)問題は、日本社会においては、連帯保証制度が乱用されていること。たとえば、外国留学生がアパートを借りるときに、大学の先生が「連帯保証」するようなことがあると、この連帯債務には社会的な実態が伴っていない。大学の先生は学問の指導をするのであって、生計は共にしていないのである。

れど(3)入社する際に、親族が「連帯保証」の書面に署名を求められる事例がしばしばあるが、これも社会的実態を欠く。親族といえども、大の大人が入社後の日常の業務について、指導監督する責任も能力もあるわけではない。このような場合の連帯保証人契約は、明らかに形骸化している。

れど(4)入社する際に、親族が「連帯保証」の書面に署名を求められる事例がしばしばあるが、これも社会的実態を欠く。親族といえども、大の大人が入社後の日常の業務について、指導監督する責任も能力もあるわけではない。このような場合の連帯保証人契約は、明らかに形骸化している。

れど(5)借金する際に、知人や親戚が「義理」で連帯保証人の書面にサインすることがあるが、社会的実態を欠き、不当な場合が多い。たとえば、会社が借金する際に、その会社の経営にかかわっていない人が連帯保証することは、そもそもstake holderではないのだから、妥当性がない。

ど(6)借家、借金などにおける受益者ではない者、あるいは経営への関与がない者までもが「連帯保証」というかたちで債務者本人と同等の義務を負うことは、社会的実態、経済的合理性を欠き、法律の規定の乱用である。そして、そのような乱用が、日本の社会ではまかり通っている。

れど(7)問題の本質は、民法の連帯保証に関する規定が、本連続ツイートの(2)で言及したような社会的実態を伴わない事例に対してまで、個別の契約として適用されてしまうということの中にある。その結果、日本の社会全体が人的保証に頼り、より近代的なリスクへの対応の発達が妨げられている。

れど(8)社会的実態、経済的合理性を欠く「人的保証」に重点をおくことで、社会の流動性が失われる。外国人が家を借りる時の心理的障壁、起業する際の周囲への「迷惑」など、日本的なウェットな風土が温存され、結果として、連帯保証制度が、日本の後進性を象徴する存在となってしまっている。

れど(9)common lawの体系においては、以上でその一部に触れたような連帯保証に関する社会的に妥当な「法理」が「発見」されやすいのだろうが、日本では立法によって是正していくのが一番の近道。法体系は、すなわち、社会の「OS」。連帯保証の乱用をただすことが急務である。

2012年5月2日水曜日

権威って、なんだっけ?

けな(1)昨日、新聞を読んでいたら、東浩紀さんが憲法改正案をつくった、という話が出ていた。一方、別の面に、ツイッターの使用についての社内審議会のようなものがあって、そこに、憲法学の代表的な研究者の先生が出ていらした。その両紙面を比較して読んだときに、私はうーむと思ってしまった。

けな(2)これは、筑摩書房の増田健史と会ったときにいつも激論になるところなんだけど、そもそも、日本の憲法学って何なのだろう? 戦後、9条がどうしたとかいろいろやってきたわけだけど、結局、GHQの圧倒的な影響力の下につくられた憲法であることは否定できない。

けな(3)現実の世界は狭い意味での学問になんかは従わないし、むき出しのリヴァイアサンが暴れることもある。それで、敗戦して占領されて新しい憲法ができてしまうこともある、ということを引き受けた学問と、あたかも最初から憲法が金科玉条としてある、という学問は違うと思う。

けな(4)日本の法学界の「りっぱな」先生方の感覚から言えば、東浩紀さんのように自分で新憲法案をつくってしまうというのは「トンデモ」なんだろう。それで、現行の日本国憲法の条文の細かい解釈論かなにかやっている方が、「まともな」学問なんだろう。しかし、ほんとうにそうなのかね。

けな(5)どんな学問にも、適用限界というものがある。そして、戦後の法学界の適用限界は、きわめて狭いという印象を否めない。早い話、多くの自殺者を出す原因となっている民法の連帯保証規定をこんなに長い間放置している学者たちが、まともな学問をやっているとはぼくには思えない。

けな(6)結局、日本の法学のような学問における「権威」の構造は、明治以降の輸入学問の形式を本質的なところで踏襲しているのだと思う。その学者が、この世界のリアルな問題について、どれくらい真剣に深く考えたか、ということよりも、輸入の総代理店がここ、ということに、権威が由来する。

けな(7)東大法学部が法学界における「権威」であるというあの業界の妙な思い込みも、結局、明治維新で東大が「文明の配電盤」の総代理店だった、という事実に由来するに過ぎぬ。実際に画期的な学問がそこで行われた、というメリトクラシーに基づくものでは必ずしもないのだ。

けな(8)先日、日本の文系学部の「偏差値」というやつを見ていたら、相変わらず東大文一がトップだった。いみわからないよね。日本の実定法しか知らない人たちが、なぜグローバル化の時代のエリートなのか。東大文一の偏差値が暴落したとき、初めて日本は本当に変わった、と言えるのではないか。

けな(9)権威の暴落、つまらなさは、もう尋常ではなくなっていて、裸の王様が裸だとみんな気づいてしまっている時代。本気で本質を考え、適用限界を自ら設定せず、野生の猛獣のように自由に考え、疾走する。そんな本物の知性こそが賞賛される国に日本はなるのだと私は案外真剣に考えています。

2012年5月1日火曜日

その人を好きになるのに、肩書きはいらないよね

そか(1)この前、ニコニコ超会議からの帰りに、弟子の植田工(@onototo)と話していた。そうしたら、夏野剛さん(@tnatsu)の話になって、「オレ、夏野さんがどういうことをしてきた人か、今何をしているのか、よくわかっていないんだよね」と言ったら、植田に受けていた。

そか(2)「えっ、そうなんですか? あんなにやりとりしているのに、夏野さんのことわかっていないんですか?」「うん。肩書きとか、経歴とか、よくわかっていない。さっきのシンポジウムでも、あっ、そうか、この人、ニコニコにかかわっているんだ、とびっくりしたもん。」

そか(3)話のポイントはこうである。ぼくは、夏野剛さんとどこかのシンポジウムか何かでお会いして、その話しぶりを聞いて、一発で、この人はすばらしい人だと思った。それで、さまざまな場所で再会したり、ツイッター上でやりとりする時に、無限の好意を抱いてきた。夏野さんイイネ、って感じで。

そか(4)夏野剛さんが「イイ!」と思うのに、その肩書きとか、かかわっている組織とか、出身大学とか、一切知る必要はなかった。そういえば、いわゆる「名刺交換」みたいなものも、しなかったんじゃないかな。ぼくは名詞を切らしていることが多いから、そもそも交換にならないのだけれども。

そか(5)ある人に向き合う時に、その人の表情とか、お話になることとか、その内容とか、リズムとか、そういうもので判断する、というのはもう私の癖のようなものになっていて、最近はますますその傾向が純化している。ところが、世間を見ると、どうもそうではないらしい。

そか(6)初対面のときに、まずは名刺を渡さないと、なんとなく収まりがつかないように思っている。相手の肩書きとか、組織とかがわからないと、どのように話していいのかわからないと思っているのだろう。でもね、肩書きとか組織とかで人を見ると、かえってその人そのものが見えなくなるんだよね。

そか(7)日本社会が、肩書きや組織こそをその人の重要な属性だと思っていることは、いわゆる「責任」の取り方にも表れている。辞任することが背金の取り方だと思っているということは、その人にとって、肩書きが最大の資産だと思っているということ。でも、岡本太郎は辞任できないよね。

そか(8)結局、肩書きとか組織がもっとも価値のあるものだと思っていると、他人を見るときにもそのフィルターで見てしまうから、ほんとうのその人の姿が見えない。フェアじゃないし、もったいないよね。だから、ぼくは、できるだけはだかの気持ちで、誰かに向き合いたいと思っています。

そか(9)夏野剛さん(@tnatsu)の話に戻るけれども、ぼくは、夏のさんがどんなことをやってきた人か、今どこにいる人か、依然としてよくわかっていないのだけれども、とにかくいい人だと思う。はだかの眼で人に向き合うことが、流動化する現代においては、最高の出会いの方法論だと思います。

2012年4月30日月曜日

技術的にできることは、なんでもやりましょう!

ぎな(1)2011年の3月にロングビーチのTEDに参加したときのこと。Googleの人が出てきて、驚くべきプレゼンテーションをした。サンディエゴからロサンジェルスへだったか、車が自動運転で勝手に走っている。街の交差点ではちゃんと止まって、信号待ちしている。

ぎな(2)このGoogle car、人々を不安にさせないように、一応人が乗っているんだけれども、実際の運転は完全に自動。それで、通行人とかも察知して安全に運転する。街をいく人は、誰も、その車が自動運転だとは気づかない。そのプレゼンを見て、すごい時代が来たなあと思った。

ぎな(3)Google carはそのあとも進化を続けていて、最近では目の見えない人が生涯で初めて自分だけのドライヴを楽しんだ、みたいなニュースが流れていた。現在の技術を集めると、そこまでできてしまう。自動車は、まだまだ進化の途上である。

ぎな(4)Google carのような、自動運転の車の話をすると、必ず、「自分で運転する楽しみをうばれる」という意見が出て来る。人間がコントロールするという要素と、自動運転制御の要素をどのように有機的に結びつけて設計するか。技術的には興味深い分野であり、今後の研究が待たれる。

ぎな(5)昨日、高速バスの痛ましい事故があった。楽しみにしていた連休の旅が、悲劇に。運転手は、居眠りをしていたのだという。午前4時台は、魔の時間帯。運転手二人での交代運行の体制をとっていなかったなど、会社の責任は、逃れられまい。今後の安全対策を万全にしてほしい。

ぎな(6)ただ、「安全対策」の規制などは、問題の本質に対する間違ったアプローチである可能性がある。そもそも、自動車という「走る凶器」が、人間の制御だけに任せられているという現状が、問題だらけである。本質的な改善は、人間を責めることでなく、技術的に解決することなのかもしれない。

ぎな(7)なぜ、居眠りの兆候を検知して、アラームを出すシステムがないのか。道路の端からの距離が近すぎると運転をとって代わるようなシステム、車間距離を検知して減速するようなシステムができないのか。将来、そういう車が出来たとしたら、今の車は野蛮な存在に見えるだろう。

ぎな(8)人間は不完全な存在であり、誰でも間違いを起こす。そんな人間を信頼した安全システムは、根本的に設計が間違っている。年間数千人の死者を出す現行の自動車という商品は、いわば不完全な欠陥商品。その厳しい認識の下に、私たちは文明全体として取り組みをしなければならないのだろう。

ぎな(9)自動車会社のエンジニアたちは技術開発に最善を尽くしていると思う。社会として支援できることは一点。Google carは公道を普通に走っていたが、日本では未だにSegwayが走れない。過剰な規制はやめて、自動車の安全技術開発の社会実験ができるよう、バックアップしたい。

2012年4月29日日曜日

判断には専門知識は必須ではなく、専門家がよい判断をできるのでもない

はせ(1)ニコニコ超会議の「メディアの危機」のパネル・ディスカッションをしていたとき、池田信夫さんが専門知識の話をしていた。それでぼくは思ったことがあった。専門知識があれば、判断できるわけではないし、判断をするために、必ずしも専門知識が必要なのでもない。

はせ(2)専門知識は、必ず、ある文脈の中で成り立っている。だから、蛸壺化もする。ところが、判断というものは、文脈を超えた、生の現場全体の状況を反映したものでなければならない。だから、原発の問題にしても、専門家だから正しい判断ができるわけではない。むしろ専門家に任せるのはよくない。

はせ(3)原発をこれからどうするか、という問題は、だから、広く国民的議論をして、その中で、最終的には国民の負託を受けた政治家が判断しなければならない。その判断には、私も従う。その際、判断の質は、専門知識だけでは決して担保されない、ということを知っておく必要があると思う。

はせ(4)これは、悲劇的な結末をもたらしたプロジェクトではあるが、国家、いや文明の命運がかかったプロジェクトでもあった。ナチスが原爆を開発する可能性が恐れられる中、アメリカはマンハッタン・プロジェクトでウランを濃縮し、原爆をつくった。そこに、天才物理学者のファインマンもいた。

はせ(5)何しろ、史上初めてウランを濃縮するのだから、やり方がわからない。一方で、事態は緊迫している。そんな中、ファインマンをはじめとする科学者、技術者たちは昼夜をとわず奮闘していたが、そんな中で一つの問題が生じていた。

はせ(6)ウランを濃縮しているということは重大な機密だから、何を濃縮しているのか知らされないまま、技術者たちは仕事をしていた。それが、開発上の障害になっていると認識したファインマンは、責任者の将軍に、「技術者にウランを濃縮していると伝えていいか」と交渉に行く。

はせ(7)それは、難しい決断だった。何を濃縮しているのかわからなければ、技術者たちはよい仕事ができない。一方、何を濃縮しているのか、多くの人間が知ることは、それだけ漏洩の危険性に通じる。ナチスの脅威がリアルで、どちらが勝かわからなかった時期のことである。

はせ(8)ファインマンは証言している。将軍は、「ちょっと待ってくれ」と言って、一人で窓のところに行って、しばらく外を眺めていた。やがて、振り返ると、「技術者たちに、ウランを濃縮していることを伝えてくれ」と言った。マンハッタンプロジェクトを左右する、重大な決断だった。

はせ(9)原爆開発は、悲劇をもたらした。一方、このエピソードは、判断というものが必ずしも専門知識を必要とするものでも、専門家がよい判断ができるわけでもないことを示している。ファインマンは、将軍というのは判断をする訓練を受けている人だと、感動する。生死のぎりぎりの現場において。

2012年4月28日土曜日

バブルよ来い、早く来い!

ばは(1)昨日、Tokyo Designers Week. tv の収録をしていて、スプツニ子が、香港など中国圏の現代美術は、バブルだ! と言った。それを聞いてぼくは思った。バブルはバブルかもしれないが、そのバブルの間に、何をしているかということが、実に大事なのではないかと!

ばは(2)個人もそうだし、社会もそうだけれども、生命活動というのは浮き沈みがあるもので、一直線で安定な成長などできない。一瞬のひらめきは、神経活動の一種のバブル。そのときだけ、ある目的のためにリソースが総動員される。だから、バブルは成長の文法でもあるのだ。

ばは(3)何かに、突然熱狂的な興味を持つことがある。たとえば、小学校に上がる前の私。ちょうちょに猛烈な興味を持った。ちっこいのに、長い竿を持って、アカシジミやミドリシジミといったゼフィルス類を追いかけた。その過程で、自然についていろいろなことを学んだ。

ばは(4)今まで、いろいろなバブルがあったよね。たとえば、小学校5年生の時の、アインシュタイン・バブル! 同じ頃に始まり、中学校や高校まで続いた、赤毛のアン・バブル! 高校の時の、ニーチェ・バブル! 高校から大学への、ワグナー・バブル! ドイツ語バブル! 

ばは(5)言うまでもなく、恋愛は一つのバブルだし、とにかく、寝ても覚めても何かのことを考えているというのは一つのバブル現象なのであって、それを否定するのではなく、一つの生命脈動として受け入れ、波乗りしてしまって、その間に何かを学ぶ、ということが大切なのである。

ばは(6)バブルの波には大小があって、それは、対象の奥深さとおそらくは関係している。突然何かに興味を持って、しばらくやってみて、「あっ、もういいや」と離れる場合もあるし、何年経ってもバブルがやまず、気づいてみると生涯のテーマ、ライフワークになっている場合もある。

ばは(7)私の場合は、31歳のときに電車に乗っていて「がたん・ごとん」という音を聞いていて、その質感がフーリエ変換などの数理的解析では扱えないことに気づいておこった「クオリア・バブル」が生涯最大のバブルかもしれない。それは未だに続いているし、死ぬまでずっと続くであろう。

ばは(8)肝心なことは、世間の景気動向と、自分の個人的な心理動向はある程度独立だし、切り離せるということだ。世間が二十年、三十年デフレで停滞していたとしても、自分だけのバブルを起こしてよい! むしろ、バブルの熱狂が、ずっと続いていてよいのだ!

ばは(9)次から次へとバブルを起こして、波乗りすることだってできる!だから、バブルよ来い、早く来い! あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている。みんなみいちゃんだから、おんもへ出たいと 待っているんだよ。みんな、バブル起こそうぜ!

2012年4月27日金曜日

けんかにはばーっとさわやかなのと後出しネチネチがあるけど、さわやかな方がいいよね

けさ(1)先ほど、橋下徹さん(@t_ishin)のツイッターを拝読していて、おもわずほほえんでしまった。論敵に対して、ものすごい勢いで言葉を発している。ああ、この感じ、わかるなと思ったところから、過去へと連想がさかのぼり、思わずほほえんでしまって、今朝はこれで行こうと思った次第。

けさ(2)これから書くことは、政治的に正しいことでも、ましてや脳科学的に裏付けのあることでもなく、あくまでも私の感覚なので、そう思って読んでほしい。しかし、ツイッターの上での論争をする上では、大切なことだと個人的には思うのである。

けさ(3)みんなやられているらしいけど、ツイッター上では頼まれもしないのに人を罵倒したり、汚い言葉でののしったりするつぶやきが、時には@メンションで飛んでくる。私は基本的にじっとがまんしているけれども、心の中では、実はあることを思っていて、それが小さな復讐のつもりでいる。

けさ(4)それは、「ああ、この人、かわいそうに。もし、オレと実際に会って論争したら、こてんぱんにやられてしまうのになあ」ということ。小学校の頃から、論争でも口げんかでも、負けたことなし。論点を繰り出し、相手を攻撃するスピードは、ファンタジスタ。ツイッター上では、封印しているだけ。

けさ(5)橋下徹さん(@t_ishin)の今朝のツイートを読んでいて、なぜほほえんでしまったかと言うと、言葉を出すスピードや、その勢いが、おそらくぼくと同じ感覚の方で、橋下さんも生の論争ではおそらく負けないのだろうけど、それをツイッター上でやっているところに、さわやかさを感じた。

けさ(6)おそらく橋下さんもそうだと思うのだけれども、論争ファンタジスタの人は、だーっとその場では言うけど、あまり後を引かないというか、あとはケロリと仲直りできるんだよね。かえって、ねちねち後出しじゃんけんで言い続ける人の方がやっかいで、でもこういう人は論争では勝てない。

けさ(7)今朝の橋下さんのツイートに対しても、後出しじゃんけんで、「痛いところを突かれたからムキになったんだろう」みたいなことを書いている方がいたけど、あんがいネチネチしていて、生のリアルタイムの論争には向いていなかったりする。で、時代の気分は、橋下さんの方なのでしょう。

けさ(8)ぼくが、個々の政策においては意見を異にしても、橋下徹さん(@t_ishin)に一度首相をやっていただきたいと思うのは、その意志決定やコミュニケーションのスタイルに惹かれてのことだと思う。なんだか、フェアな感じがするんだよね。後出しじゃんけん系の人たちよりも。

けさ(9)だから、相変わらず@メンションでイミフな罵倒をあびさせてくる方々へ。もうしわけないけど、生で論争したら、絶対に負けません。口げんかになったとしても、こっちはファンタジスタだぜ。でも、ツイッター上でそれをやることはせず、じっと我慢しているだけなのです。

2012年4月26日木曜日

ぼうっとしていると、忘れかけていた自分の夢に出会うことができる

ぼわ(1)来週は大型連休である。私のように、休みがない! という人もいれば、まとめてとれる人もいるだろう。そこで、休み方のささやかなヒントのようなものを記して、本日の連続ツイートとしたい。みんな、ゴールデンウィーク、楽しみかっ!

ぼわ(2)学生の頃、お金などなかったから、懸賞論文にたくさん当選して、活動資金をかせいでいた。ある時、やっぱり当選して、バリ島へのバカンス旅行みたいなのに行くことになった。目的地は、地中海クラブ。フランスを拠点とする、世界各地にバカンス村がある組織である。

ぼわ(3)ぼくたちの日程は5泊6日とかだったけれど、フランス人などは二週間とか滞在するのだという。ひええ、と思いながら、プールに入ったり、卓球をしたりしていた。それからビールを飲んで、部屋でうとうと眠ったりして、怠惰な時間を過ごして、三日くらい経ったときのことである。

ぼわ(4)当時は学生だから、今ほど忙しいはずもないが、ぼくはがちゃがちゃしているから、あっちこっち動き回っていたのだろう。それが、バカンスということで、だらだらぐたぐたしていたら、三日目くらいに、ぼくの内面に驚くべき変化が起こり始めたのだ。

ぼわ(5)心の底の方が、なんだか、石炭でも燃やしているようにかっかしはじめた。それから、その活性が、じわじわと心の毛細管現象で上がってきた。そして、ぼくは、大切なことを思い出したのである。少年の頃から抱いていた、もっとも純粋な夢。命のようにかけがえのない夢が、蘇ってきたのだ。

ぼわ(6)思うに、当時のぼくはすでに世間にまみれ、日常に追われ、考え方が次第に実際的で、刹那的になっていたのだろう。夢と言っても、そんなものはどうせ実現できない、くらいに思い始めていたのではなかったか。それが、バリ島の地中海クラブで寝転がっていたら、蘇ってきて驚いた。

ぼわ(7)偶然の幸運に出会うセレンディピティは、外から来るとは限らない。自分の内側に、忘れかけているセレンディピティの種がある。それが日常の雑事の下に埋もれてしまっているのである。ゆったりとした時間を過ごして、自分自身の内面とやわらかく向き合って、初めてわかる。

ぼわ(8)プールサイドのチェアにだらしなくべたーっと寝転んで、水面にきらめく光を見つめながら、ぼくは、まだこの夢はオレの中で生きていたのか、とその事実に感動した。そして、ふだんの自分を反省した。生まれ変わったような気分だった。実際、その日を境に、ぼくは生まれ変わったと思う。

ぼわ(9)日常の忙しい時間から離れて、少しまとまった、ゆったりとした時間を過ごすことの効用。それがバカンスなのだな。バカンスは、忘れかけていた自分の夢と再会するためにある。このゴールデンウィークは、ぜひ自分との出会いを。ロマンティックな考え方かもしれないけど、ほんとうのことです。

2012年4月25日水曜日

音楽も、主要教科である

おし(1)小学校の頃から、国語、算数、理科、社会、中学からは英語を加えて「主要教科」と言っていた。どうしてそうなのかわからないけれども、そんなものなのだろうと思い込まされていた。音楽や美術、体育は主要教科ではないらしい、そんな風な理解であった。

おし(2)ところが、取材でライプツィッヒの聖トマス教会を訪れたとき、おもしろいことがあった。教会のとなりに付属の学校があって、そこで、かの偉大なヨハン・セバスチャン・バッハがかつて教えていた。その教会付属学校のカリキュラムが興味深かったのである。

おし(3)バッハが教えていた当時の毎日の教科が書いてあるのだけれども、「神学」、「古典」、そして「音楽」がそれぞれ1/3くらいの割合で学ばれていた。音楽は、主要教科の一つだったのである。musicという言葉の語源は、ミューズに捧げられたもの、宇宙の調和。神の栄光に至る道。

おし(4)近代化の下では、産業や経済の比重が高かったから、ついついそれと関連する教科が重視されたのであろうが、神の栄光や人間精神の栄誉を考えたら、当然音楽は主要教科になる。教会での儀式で演奏するということを考えても、音楽は必要にして欠くことのできない主要教科だった。

おし(5)教育課程におけるカリキュラムは、それが子どもたちに与える感化と便益を通して精査されるべき。その意味では、現行のカリキュラムは決して最適なものとは限らないと思う。中学校でダンスが必修化されるそうだが、将棋も必修にした方が集中力や考える力がつくのではないかと昨日思った。

おし(6)私立の学校では、文科省のカリキュラムとは別個の方針を立てているところも多いと聞く。ある自由な教育で知られる学校では、一年かけて演劇をつくり、上演するのだと聞いた。いわゆるペーパーテストの学力観にははまらないが、演劇上演を通して得られる経験、資質は確かにある。

おし(7)日本人は英語を話す力が相変わらずないが、英語による演劇を必修にすれば、ずいぶんと風景が変わる。考えてみると、私たちが「学校」にあてはめているカリキュラムは、知識偏重だった頃の思い込みに基づく、化石のような側面がないとも言えない。カリキュラムのビッグ・バンが必要だろう。

おし(8)コンピュータのプログラム能力は現代人に必須だが、それが十分に教育されているという話は聞かない。日本史や世界史の細かい人名や年号を聞く入試問題も、それに向けられた授業ももはや時代錯誤。日本の停滞は、化石化したカリキュラムがもたらしていると言ってもよい。

おし(9)重箱の隅をつつくような歴史教育、試験はナンセンスだが、歴史を知ること自体には価値がある。世界のさまざまな場所で、さまざまな年代にどのようなカリキュラムが存在したか。それを知ることで現代が相対化される。バッハの時代には、音楽はりっぱな主要教科だった。

2012年4月24日火曜日

不安なときは、笑って自分を守る

ふわ(1)Steve Jobsの伝記も書いたWalter IsaacsonのEinsteinの伝記を読んでいるが、今、佳境に入っている。ナチスが政権をとって、アインシュタインがアメリカに移住するあたりの緊張とドラマ。アインシュタインは勇気のある人である。

ふわ(2)アインシュタインは、よく笑う人だった。その笑いを注意深く見ていると、一つの防御機構(defense mechanism)であることがわかる。権威主義や、偏見に対して、笑いで防御する。それが、アインシュタインなりの、知的で生命を育むやり方であった。

ふわ(3)笑いの起源について有力な「偽の警告」(false alarm)仮説。危険が迫っていると仲間に知らせたが、あとで違うとわかった。そんなときに安心させるために笑う。笑いは、その背後に不安や恐怖がある。凝り固まらずに、生命をいきいきと育むためにこそ笑うのだ。

ふわ(4)笑いのプロも、一つの防御機構として笑いに従事し始めることがある。BBCのコメディシリーズLittle BritainのMatt Lucasは、東京で会ったときに、自分を守るために相手を笑わせるようになったと言っていた。笑われる前に、笑わせてしまえというのである。

ふわ(5)Little Britainのスケッチ内でも明らかになっているが、Mattはゲイ。そのことと、太っているということを、相手に笑われる前に自分から笑わせてしまう。そんな道化の精神を、私は素敵だと思った。笑うことで、自分も解放されるし、社会の流れもなめらかになる。

ふわ(6)ぼくにも、似たようなことがあったからよくわかる。いちばんキツかったのは中学時代で、荒れる学校で不良の友人たちと、優等生たちの狭間に立って、ぼくは道化を演ずるしかなかった。あの頃が生涯で一番ふざけていたけど、あれは明らかに防御機構だった。でもね、笑うと、救われるんだよね。

ふわ(7)北朝鮮の金正日の長男、金正男は、日本に来てディズニーランドに行ってたのがばれるなど「お騒がせ」の男だけれども、最近文藝春秋から出た本によれば、体制や世襲に反対の立場で、真剣に体制批判すると危ないから、「遊び人」の振る舞いは、自分を守るための見せかけだという。

ふわ(8)「遊び人の金さん」のふりをしながら、時がくるのを待つ、というような生き方もあるのかもしれない。金正男が実際にそういう人かどうかはわからないが。いずれにせよ、不安な時代、恐怖のしのびよる時にこそ、笑いの効用を忘れてはいけない。うまく笑えば、うまく守ることができる。

ふわ(9)不安や恐怖から、他者への攻撃へと転ずることもある。ナチスは、その最悪の事例だろう。不安や恐怖があったときに、アインシュタインのように、笑いで防御するか。ナチスのように、他者への攻撃に走るか。どちらが生命を育む道かということは、すでに歴史が繰り返し証明している。

2012年4月23日月曜日

トキが飛ぶ空、ほたるが舞う小川

とほ(1)渋谷のNHKの近くには、童謡「春の小川」のモデルとなった流れがある。渋谷の現状を考えれば、「春の小川は、さらさら行くよ。岸のすみれや、れんげの花に」という歌詞は、まるで夢物語のようだ。今は暗渠となっているその流れが、もし元の姿になったとしたら、どうだろう。

とほ(2)私たちが、「幸せ」と考えるための条件が、明らかに変化してきた。もし、渋谷の「春の小川」が元の姿になって、蛍まで飛ぶようになったなら、どれほどの価値を私たちは見いだすことだろう。都市の文明と自然との共生。そこには、まだまだ無限の可能性がある。

とほ(3)自然の再生は、「点」でなく、「線」や「面」の生態系で行わなければならない。そのことを教えてくれるのが、佐渡のトキである。数年前に放鳥の試みが始まり、昨日、ついに自然界でひなが誕生したとの朗報が届いた。実に36年ぶりの繁殖確認だという。関係者の努力をたたえたい。

とほ(4)トキという「点」を保護するためには、自然環境という「線」や「面」を保護せねばならぬ。トキは、食物連鎖の頂点に存在する生物である。トキが暮らし、エサをとり、ひなを育てることができる環境を整備するということは、すなわち、佐渡の豊かな自然を再生、維持することにつながる。

とほ(5)トキのひなの誕生のニュースが、一つの種の保護という意味を超えた響きを持つのは、このためである。トキがひなを育てることができるような環境が、佐渡に戻ってきた。生活する者にとっても、訪れる者にとっても、すばらしい価値がそこにある。トキは、豊かな生態系の一つの象徴となる。

とほ(6)ところで、数年前トキを放鳥したときに、おもしろいことがあった。放たれたトキのうち何羽かが、佐渡から本土の方に飛んでいってしまって、日本海側の各地で目撃されたというのである。このニュースは、私にとって、実に痛快で、意味深いものであった。

とほ(7)ゲーテが『ファウスト』の中で書いているように、「自然にとっては大宇宙でさえ十分ではないが、人工は閉ざされた空間を必要とする。」トキが一度放たれてしまえば、それは「自然」となり、あらかじめここまで、というゾーニングができなくなる。そこに、トキ保護の深みがある。

とほ(8)トキに、佐渡以外には渡るな、とは言えない。トキにはトキの都合があって、思った方向に飛んで、拡散する。つまり、トキの保護を持続可能なかたちで図ろうと思ったら、豊かな環境を、佐渡という「点」から、「線」や「面」へと広げていかねばならぬ。そこにはなんと楽しい未来があることか。

とほ(9)自然に放たれたトキは、これからも、私たち人間の意図や線引きを超えていくだろう。そこに、飼育下ではなく檻の外にトキが息づいていることの意味がある。最初に放鳥されたとき、まっさきに佐渡から出てしまったのは新潟県知事の放した個体だったという。近頃、実に痛快な話だと私は思う。

2012年4月22日日曜日

人はそれぞれ違っていて、どうすることもできない

ひど(1)小学校の頃、アインシュタインの伝記を読んでいて、アインシュタインが、「誰かが何かを考えたり、行動したりすることの背後には、それなりの必然性がある」みたいなことを言っていた、と書いていて、それが奇妙に印象に残った。このところ、そのことを時々思い出している。

ひど(2)社会に出て、さまざまな人とかかわると、本当にひとそれぞれだなと実感する。一つの問題についても、いろいろな感性がある。そして、自分と立場や意見が異なっていると腹が立つこともあるだろうが、たいていの場合、議論しても相手の感性そのものは変えられないことの方が多い。

ひど(3)個性というものは、もちろん遺伝的な要素もあるだろうけれども、その人の一回限りの人生の中で培われてきたもの。脳の可塑性といってもホメオスタシスを前提にしており、人格の感性の法則は無視できない。結局、「この人はこういう人なんだ」と受け入れて、共存していくしかない。

ひど(4)たとえば、自身の存在意義についての不安が高くて、すぐに自分語りを始めたり、他人との会話でも自分へ興味や関心が来ないとがまんできない人がいる。みんな、その人がいると会話がそうなっちゃうと知っているけれども、仕方がないとあきらめて、共存するしかない。

ひど(5)脳科学をやっていると、他人に対して我慢強くなる。その人の性格の慣性の法則が、ありありとわかるからである。さらに重要なことに、我慢していて共生していると、案外面白いことになったりする。つまり、異なる要素のかけ算で、思わぬ強みを発揮したりするのである。

ひど(6)その政治手法を高く評価しながらも、橋下徹さんの教育基本条例に違和感があるのは、結局、国旗で起立しないヘンな人って、時々いるよね、その人がなぜそうなっちゃったかわからないけど、そうなっちゃっているんだよね、という認識を持って、共生するしかないと考えているからかもしれない。

ひど(7)一人の例外もなく何かのルールに従わないと困る、という組織の典型は軍隊である。どの国でも、軍紀違反は厳罰になる。それはそうだ。命令に従わない兵隊がいたら、そもそも軍隊自体が成り立たない。しかし、一般の社会では、へんな人とか変わった人がぽつぽついた方が、全体としては面白い。

ひど(7)ぼく自身は国旗で起立するし、国歌をうたうけれども、それを言うならアメリカ大リーグを観戦にいくと、なんとはなしに起立して、アメリカ国家をうたうふりをする(歌詞よく知らないけど)。ぼくはそういう人だけど、そうじゃない人がいても、「ああ、この人はそうなんだ」と思うだけだ。

ひど(8)国旗や国歌の問題にムキになる人たちがいるのは、それが「国家」や、「軍隊」とかかわっている。戦争では、ルールに従わない人がいると、確かに困る。しかし、戦争はない方がいいよね。それと、インターネット文明のイノベーションでは、むしろ反逆児を大切にしなくてはならない。

ひど(9)ツイッターでも、意見や認識が異なる人がいると、しつこく@メンションして、同じ意見になるように押しつける人がいる。ムダだと思う。人はそれぞれ違って、どうすることもできない。そういう認識からスタートする方が、日常生活でストレスがないし、強靱なコミュニティができると思う。

2012年4月21日土曜日

語も、ヒップホップも検定なんかいらねえよ

えひ(1)ゼミは研究発表と論文紹介をする。ゼミの前に、みんなでチェゴヤでごはんを食べる。昨日カキ入りキムチチゲを食べてたら、TOEICに「有効期限」があると聞いてのけぞった。スコアが、何年か経つと使えなくてまた受けなくてはいけないのだという。しつこいね。あこぎな商売だなあ。

えひ(2)何回も書いているように、TOEICはナンセンスだと思っている。ところが、ゼミ生のまみたこの証言によると、大学でも、英語教師がTOEICのスコアを要求され、ベテランが「初めてTOEIC受けるよ〜」と言っているらしい。世も末だね。TOEICでボーナスが変わる塾もあるとか。

えひ(3)TOEICって、結局、英語を使ったり、英語を生きたりしていない人たちが、自分たちで英語の力を判断する能力がないから、丸投げしているだけじゃん。問題作っているアメリカのETSと、日本のなんとか協会はうはうはだね。でも、日本人の英語の表現力が向上したという話は聞かないね。

えひ(4)あのさ、英語って、自由なのよ。生き方なのよ。表現なのよ。なんでこういうリズムになったかというとさ、ヒップホップってやつ? 先日、ヒップホップ検定なるものができる、っていうんでみんなの爆笑かってたでしょう。あれ、中学でダンスが必修になるから、先生対策なんだって?

えひ(5)でさー、ヒップホップを検定するって、明らかにおかしいってわかるよね。だって、ヒップホップって、ストリートじゃん、自由じゃん、検定って、ぷって笑っちゃうよね、文科省。で、本人たちがまっすぐ真剣だって思っているところも、笑っちゃうよね、さすが教科書検定。

えひ(6)それでね、チェゴヤでゼミ前のご飯を食べているときに、「あっ!」と思ったわけ。それで、まみたこに、「明日の連続ツイートのネタができた!」と言ったんだけど、その場では、一生懸命がまんして、それが何かを言わなかったんだけど、今からここで書きたいと思います。

えひ(7)つまりね、英語もヒップホップだと思ったら、TOEICのだささが一気にわかるでしょ、という話。言葉って、その人のリズムだからね。人生観だからね。文法とかボキャブラリじゃなくて、英語がヒップホップだと思って向き合うことで、初めて本質がわかる。そこなんだよ。

えひ(8)ヒップホップ検定がナンセンスなのと同じように、英語検定もナンセンスなんだよ。英語なんて使い倒せばいいんだよ。それなのに何だ、そのうんねんかん有効なTOEICスコアって。そんなの、生きることと全く関係ない、小さく前にならえの詐欺じゃん。つきあう必要まったくな〜し!

えひ(9)大学の教員まで、英語のTOEICスコア要求するなんて、世も末、日本はオワコンだね。就職面接で、「君は英文科なのに、TOEIC受けていないんだね」と聞くばかおやじもいるそうだけど、昔は、そんなおろかなやつらはヒップホップに相手にしない、というのが大人だったんだけどね。

2012年4月20日金曜日

新文明は隕石の落下よりは、新しい生命の登場ににている

しあ(1)「スティーヴ・ジョブズ」の電気を書いた人による、アインシュタインの伝記を読んでいるけれど(英文)面白い。相対性理論が、当時のひとたちにいかに大きな衝撃を与えたかということがわかる。日蝕の際に光が曲がることが確認されたときには、新聞に大きなニュースとして載った。

しあ(2)新しいことが出てくると、それによって私たちは旧来の世界観が揺るがされるように感じる。その時に見えるきらめく新宇宙は、おそらく私たちの最良のイリュージョンであって、実際の世界は、それほど根底から覆ってしまうわけではない。相対性理論も、そうであった。

しあ(3)アインシュタインの師であるミンコフスキーは相対論を4次元時空の数学としてまとめた。確かに私たちの住む宇宙は4次元として知覚されるようになった。しかし私たちは相変わらずぼんやりと生きていて、一般相対論はGPSの計算に使われている。革命はなったが、日常が続いた。

しあ(4)インターネットが登場した時に、革命的だと皆思ったし、また実際に革命的であったが、私たちはその時どうも幻想としての新宇宙を見てもいたのではなかったか。特に、しばしば使われたメタファーである「隕石」というイメージは、きっと適切ではなかったのではないかと思われる。

しあ(5)インターネットは隕石であり、その落下によってかつて恐竜が滅んだように、さまざまなものが滅びる。そんな風に予想された時期もあったが、実際には旧来のものも存続し、インターネットによって変質することはあっても、かえって進化、強靱化して存在し続けている。

しあ(6)新聞も、テレビも、インターネットという隕石の落下によって打撃を受けると予想されたが、案外しぶとく残っている。ソーシャル・メディアの役割についても、きらびやかな未来が夢見られたが、案外頃合いのところに落ち着いている。新文明の登場は、隕石の落下ではなかったのだろう。

しあ(7)インターネットという新文明の登場は、おそらくは隕石の落下による生態系全体の消滅、更新というよりは、新しい種の登場による生態系のバランスの変化、環境連鎖の推移の方に似ている。確かに新しい種は登場した。しかし、そのことで関係性が調整されて、かつてのものも存在し続けている。

しあ(8)生態系の歴史を冷静に考えれば、インターネットがどのような世界に私たちを誘うかは、より正確に予言できるのであろう。それでも、私たちは新しい世界の入り口できらびやかな刷新を夢見ることをやめない。その幻想は、おそらく私たちの精神生理の根幹に根付いている。

しあ(9)入学や入社、転職、引っ越しなどで環境が変わったときに、その向こうにきらびやかな新しい世界が待っているように思う。人間の愛らしい心性は文明の推移にも適用され、私たちはそれほどでもなかったという幻滅を味わうことになる。それこそが人の世の常であり、きっとそれでいいのだ。

2012年4月19日木曜日

そんなに検定が好きならば、自分でつくって勝手にやったら

そじ(1)先日、「クイズダービー」の収録のとき、解答を書こうとして、「記憶力」の「憶」が本当に「憶」というかたちなのか、何となく不安となった。い わゆるゲシュタルト崩壊というやつ。そういえば、最近手書きでものを書くことが、ほとんどない。コンピュータで変換してしまう。

そじ(2)これはまずいな、と思って、一週間前、コンビニでノートを一冊買った。今朝、思っていたことを初めて実行してみた。iPadで青空文庫から「我 輩は猫である」をダウンロードして、写し始めたのである。「しばらくすると非常な速力で運転し始めた」まで書いたところでページが一杯になった。

そじ(3)今朝、Hip Hopの検定をする団体が出来た、という天下の珍事のニュースを知ったから、その連想で前からやろうと思っていた『我が輩は猫である』の書写を始めたので ある。飽きなければ、最後までやってみようと思う。なにしろ名文であるし、漱石は実際に書いたのだから。

そじ(4)「漢字検定」というものがあることは知っているけど、全く関心がない。脳は目標を立てて、それを実行することで満足するものだが、目標は自分で 立てるのが良い。英検も一応一級まで受けたけど、あまり感激しなかった。当然TOEICなどは目もくれない。英語の基準は自分でたてるのが良い。

そじ(5)振り返れば、私の人生の「英語」の検定は、15歳で初めてバンクーバーに行ったとき、ホストファミリーのトレバーとランディー(当時10歳と8 歳)にいきなり「人生ゲーム」をやらされたのがそうだろう。子どもだから手加減しない。結婚とか、卒業とか、そんな会話は大変だった。

そじ(6)バンクーバーではコミュニティ・カレッジに行ったが、最後に英語でコマーシャルを作らされた。ネイティブの前で、遊び人の大学生とスタンドアッ プ・コメディをやった。なんとか受けたが、15歳にして良質の英語検定だったと思う。赤毛のアンの原書を読み通したのも、一つの検定だ。

そじ(7)大学院の時に初めて英語で論文を書いたのも検定だったし、この前TED Long Beachでしゃべったのも検定だ。英語で学会発表するのも検定だ。検定機会なんて生きているなかでいくらでもあるのであって、何もTOEICのような無 味乾燥な試験に検定を丸投げする必要などない。

そじ(8)日本人は検定好きらしいが、結局人生を質入れしたり、丸投げしているのだろう。自分で基準を作って、そのためにがんばれば、人生なんて毎日が検 定だし、それについて他人にとやかく言われる必要はない。お仕着せの検定で得られるのは大勢迎合の安心感と、個性の喪失である。

そじ(9)ドイツ語を熱心にやっていたとき、マイスタージンガーを最初から最後まで訳したことがあったな。まだノートがどこかにあるはずだ。検定なんて、 そんなに好きならば、自分で基準を作ってさっさとやればいいんだよ。なんとか協会のおじさんたちに認めてもらう必要など、私の人生にはない。

2012年4月18日水曜日

ぼくが、徳川家康を好きになった理由

ぼと(1)小学校の頃、歴史を習ったとき、信長、秀吉、家康のうち誰が好きか、という話になった。果敢に大胆なことをやりつづけた信長や、貧しい生まれから天下人まで上り詰めた秀吉が好きだ、という人はいても、家康が好きだ、というやつはまずはいなかった。家康は人気がなかったのである。

ぼと(2)あるとき、「ぼくは家康がいちばん好きだ!」と言った変わったやつがいた。「なんといっても250年続く江戸幕府をつくったのが偉い!」と。そいつは、小学生のくせに、おっさんのような不思議なやつで、「ああ、こいつだからか〜」とみな納得をしたのだった。

ぼと(3)中学、高校と進む中で、日本の歴史についての見方、考え方は深まっていったが、「家康が好き!」という気持ちは、一向に起こらなかった。家康の中に、空気を読んで、根回しをして、じとじとやっていく、みたいな、日本的なものの起源を読んでいたのかもしれない。

ぼと(4)流れが変わったのは、大学の時に日光の東照宮に行った時のことである。「見ざる聞かざる言わざる」を通り越して、いよいよこの先に家康の墓がある、という場所に来たとき、門のところに小さな猫が彫ってあった。左甚五郎作と伝えられる「ねむり猫」である。
ぼと(5)ねむり猫のまわりには、小鳥が飛んでいる。鳥をとって食べるはずの猫の近くで、小鳥たちが安心して遊んでいる。墓所の入り口に、「平和」の象徴としてそんな彫り物がある。権力者がかわいい意匠を施す趣味の良さに感心するとともに、「家康って案外いいやつかもしれない!」と思い出した。
ぼと(6)戦国の世を終わらせ、天下人になったのだから、もっとおどろおどろしい、権力を象徴するような彫り物をすることもできたのに、ねむり猫は鳥たちと遊んでいる。家康はいいやつで、日本の国はいい国だと思った。それが、私の家康観の変化の始まりのきっかけだった。
ぼと(7)家康のことを最終的に好きになる、決定的なきっかけとなったのは、一枚の絵との出会いである。「しかみ像」と呼ばれる、家康の肖像画。http://bit.ly/I49rpr 武田信玄との戦いに負けて逃げてきたときの自分の絵を描かせて、一生戒めとして近くに置いたのだという。
ぼと(8)一説には、信玄との戦いにやぶれ、命からがら、ほうほうのていで逃げてきたときに、あまりにもびびってうんこをもらしてしまった。そのおもらしをした自分の最低にみっともない姿を、家康は描かせて「しかみ像」としたというのである。それを知って、ぼくは、「家康サイコー!」と思った。
ぼと(9)お墓に至る門のところに、ねむり猫と、周囲で遊ぶ小鳥たちを描く。合戦に負けて、びびってうんこをもらしながら逃げてきた自分の姿を戒めとする。そんな人間像を知って、私は家康をいいやつだと思うようになった。決めつけてはいけない。どんな人にも、人間の幅というものがあるのだ。


原子力は、日本人の理想主義とは相容れないものになってしまったが、果たしてそれでいいのか

げに(1)原発の再稼働をするかどうかが大きな争点となっている。政府や電力会社の、原発を稼働させないと電力需給がひっ迫するという説明に不信を抱く人たちも多い。計算上は、火力や水力、再生エネルギーなどの電力源を積み上げれば、なんとか夏の需要期も乗り越えられるのかもしれぬ。

げに(2)火力発電ではコスト高になるという議論には、原子力発電の「外部不経済」が考慮されているのかという疑問がある。直接の費用ではなく、廃炉や、核廃棄物処理、さらには今回の事故のような潜在的なコストを考慮してもなお火力発電が割高になるのか、客観的に試算すべきである。

げに(3)一方、国のエネルギー安全保障という観点から見たときに、できるだけ多くのエネルギー源を確保しておくべきだという主張もあり得る。現在の状況で入手できるエネルギー源を積み上げれば足りるというだけでは、エネルギー安全保障上十分であるという議論にはならない。

げに(4)政府が、原発の再稼働を進めようとする背景には、エネルギー安全保障上の考慮があるのではないかと推察する。たとえば、イラン情勢が緊迫し、ホルムズ海峡に支障が生じるようなことがあれば、原油の輸入が止まる。もしそのような懸念を抱いているのならば、正直にそういうべきだろう。

げに(5)第二次大戦後の日本人は、素朴な平和主義を美質としてきた。二つの原爆を落とされ、大空襲の被害を受ける中で、たとえ安全保障上の必要があったとしても、不必要なリスクをとるべきではないと考えてきた。事故をきっかけとした原発への拒否感には、そのような背景があると私は考える。

げに(6)第二次大戦の戦勝国であるイギリスやアメリカは、核兵器はもちろん、原子力発電を放棄する気配すら見せない。安全保障ということが、リスクをとるということと表裏一体であることを自然に受け入れる文化。善し悪しは別として、日本の理想主義との対象は著しい。

げに(7)脱原発を志向する人たちの理想主義には、共鳴する。一方、現実的な安全保障上の観点から、原発を全廃することが望ましいのか、そもそも可能なのかということについては、判断が難しい。政府は、もし安全保障上の観点から再稼働をしようとしているのならば、ストレートにそう言うべきだろう。

げに(8)経済からの、電力コストが上昇することを懸念しての原発再稼働への圧力は、相対的な意味しかないとも言えるかもしれない。しかし、日本のエネルギー安全保障という観点はより深刻であり、理想主義は、たとえそれがどれほど麗しいものであったとしても、持続可能なものであるとは限らない。

げに(9)再生可能エネルギーの開発は、全力で進めるべき。一方、原発がなくてもエネルギーは足りるという議論は、世界情勢の中で起きうる蓋然性を十分に考慮したものとは、私には思えない。イギリスやアメリカは、徹頭徹尾実際的である。より観念的なドイツの風潮は、おそらく参考にはならない。

2012年4月16日月曜日

橋下徹氏がもたらした、政治のイノベーションについて

はせ(1)橋下徹氏が、引き続き日本の政界の台風の目になろうとしている。メディアの関心も高い。昨日ツイートしたように、時代の「気分」としては、首相はすでに野田さんではなく橋下さんである。なぜか。これは、わが国の現状と、政治文化の停滞と関係しているように思う。

はせ(2)わが国の現状をみれば、長期低落傾向にある。国が劣化するときはこのようなものかと思う。大学はガラパゴス、産業はインターネット文明に適応できない。メディアは旧態依然、そして政治はほとんどコメディの世界となっている。外国の日本に対する関心も、アニメや漫画のみ。

はせ(3)誰もが変化の必要性を感じている時に、橋下徹氏が登場した。橋下氏の個々の政策については、賛否両論が渦巻く。私自身、消費税、教育条例、TPP、原発政策、参議院廃止のうち、橋下氏と見解が同じなのは二つだけである。しかし、橋下氏の存在意義は、個々の具体的政策と別の点にある。

はせ(4)橋下氏は、政治の世界にイノベーションをもたらした。まずはそのスピード感。橋下氏のスピード感は、記者会見の会場にさっと現れて話し始める、そのリズムに表れている。今までの日本の政治家の、もったいぶってのろのろしている、どんよりとしたリズム感と一線を画す。

はせ(5)スピード感は本質的である。インターネット文明の中、ドッグイヤー、マウスイヤーと言われる中で、日本の旧来の官僚的停滞が目立ってきた。ぐずぐずしていて何もやらない。世界が疾走しているときに、重箱の隅をつついてああだこうだ言っている。そんな文化に橋下氏は決別している。

はせ(6)橋下氏の意思決定の方法も、従来の政治文化と一線を画している。日本では、地位が上がるほど口が重くなり、大した意思決定をしないのが通例。橋下氏は、迅速に意思決定する。そしてぶれない。この、議論を呼ぶテーマについてもぶれないという点が、橋下氏のもたらしたイノベーションである。

はせ(7)どんな政策についても、必ず反対する人がいるもので、それに配慮していたら意思決定などできない。リーダーがぶれない、とわかったらあきらめて、そのことを前提に適応しようとする。社会変革はそのようにしてなされるものであろう。橋下氏はそのことを直覚的にわかっている。

はせ(8)橋下氏のイノベーションの、もっとも深い部分は「ナショナリズム」の文法にかかわるものかもしれない。公立校の教師といえども、国歌、国旗について強制することに私は反対であるが、橋下氏の「民主主義の下で決めたルール」という論点は斬新で、イデオロギーの対立を無効化する。

はせ(9)まとめよう。橋下徹氏の個々の政策については賛成、反対があったとしても、その政治的手法におけるイノベーションは、画期的なものであると評価できる。橋下氏の政策決定プロセスを見た後では、与党、野党にかかわらず、旧来の政治家たちが色あせて見えるのは時代の趨勢だろう。

2012年4月15日日曜日

英語について大切なことを、改めて確認する

えあ(1)英語は必須であるという判断に代わりはない。しかし、そのことの意味をきちんと明確にしないといけないと改めて感じた。まず、英語という言語自体に価値があるということでは必ずしもない。英語と日本語は、言語としては、対等である。後者は母語だから、英語よりも大切なのは当然だ。

えあ(2)英語をしゃべっている人たちが、それだけで偉いというわけでもない。英語主義者には、ときおり、英米の人たちの「クラブ」メンバーになること自体を目標にしたり誇りにしたりする人がいるが、ナンセンスである。日本人もアメリカ人もイギリス人もみな対等であることは言うまでもない。

えあ(3)英語を、文法的に正確に、あるいは流ちょうにしゃべること自体に価値があるのではない。日本人には、時折、英語を正確にしゃべっているか、書いているか、神経症的に気にする人たちがいるが、これぞ植民地根性というものである。大切なのは中身で、英語表現は手段に過ぎない。

えあ(4)いわゆる「ネイティブ」が偉いわけでも、一枚岩でもあるわけではない。英語は急速にグローバル化している。いわゆる「グロービッシュ」はナンセンスだと思うが、それぞれが微妙に違う表現で英語をしゃべっている。英語と米語はすでにボキャブラリーなど、かなり異なる言語になっている。

えあ(5)では、なぜ英語をやらなくてはならないのか? まずは地球文明を推進している最良の「コンテンツ」への「アクセス」の手段としてである。科学や、技術、文明をめぐる知の集積が英語を中心に行われており、英語ができないと最良の内容に接することができない。日本語だけでは井の中の蛙だ。

えあ(6)別の言い方をすれば、ビジネス英語だとか、旅行会話とかは、できるには超したことはないが「オプショナル」な内容だということになる。英語の主戦場は、人類の知の最先端としての現場であって、TOEICで試験されているような実用的な内容は、はっきり言ってどうでもいいのである。

えあ(7)英語ができることのもう一つの意味は、日本人の感性、思想、主張を外に向かって表現する時がきたということである。レストランにおける「おまかせ」や、里山における自然と人間の共生など、世界中の人にプレゼントとして差し出すべき良質のコンテンツを、私たちは持っている。

えあ(8)京都大学の入試が「和文英訳」「英文和訳」に終始していることに象徴されるように、日本人の英語学習は、いまだに「日本語」というはしごをかけた翻訳言語になっている。これでは、英語というボールを直接やりとりしてピッチを走り回る現代の要請に全く適応できない。

えあ(9)結論。緊急の課題は、科学、技術、文明の最先端の思想内容を英語で直接吸収すること。これが、英語学習の意義9割くらいだと私は考える。残りの1割は自己表現。国家建設という意味においては、ビジネス英語などの実用は、まあできればいいという程度のこと。そんなに難しくないし。

2012年4月14日土曜日

田森義佳(@Poyo_F)について、私が知っているいくつかの驚くべきこと

たわ(1)田森佳秀(@Poyo_F)のことをよく知らない人もいるかもしれない。私の畏友で、一緒にサンクトペテルブルクに行ったりした(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/photos/qualiadiary/mogitamoridancesmall20060821.jpg)田森は、今、金沢で大学の先生をやっている。忙しいはずなのだが、その日常は驚くべきものである。

たわ(2)世の中には、こんな人間もいるのだ、ということを知るだけでも読者諸賢の参考になるだろう。もう二十年以上つきあっている私も、未だに驚くことがあるのだ。ツーソンに来て、一緒にご飯を食べているとき、田森は、突然、「オレ、モールス信号の資格持っていたんだった」と言った。

たわ(3)自分でモールス信号を生成して、それを文字に直す。それをコンピュータに入れて、正しいかどうか自動判定するソフトを試験前日に作って、一夜漬けで勉強して資格をとったという。こういう「大ネタ」を無数に持っているのが、田森佳秀(@Poyo_F)という男なのである。

たわ(4)ガイガーカウンターを作っているらしい、ということは知っていたが、先日会ったら、「あれから十種類試作した」という。そのうち一番いいのはなんとかという塩を使うやつで、ガンマ線が通ると光が出て、素子でカウントするんだそうだ。「最初は学生に数えさせようとしたんだけど」と田森。

たわ(5)ツーソンに来て、エクセルのデータを解析するのにUIが悪くてぶさくさ言ってたら、田森が妙に詳しい。どうしてだ、と問い詰めたら、大学の試験は、エクセルで入れて、数字と文字列を判定して自動採点するのだという。試験のやり方を聞いて私はのけぞった。田森は底知れず恐ろしいやつだ。

たわ(6)となりの学生の回答を覗いているやつがあるというクレームが来たので、田森は、すべての学生の問題用紙をオーダーメイドにしたのだという。「学籍番号から、ランダムに問題を並べるんだ」「え?」「問題用紙にそれぞれの名前が印刷されているから、自分のを見つけて回答しろと指示する」

たわ(7)「お前なあ、お前のまわりで、そんな面倒なことしているやついるのか?」「いない」orz 。アルゴリズムを緻密に実装する、その工数を全くいとわないところに、田森佳秀(@Poyo_F)の恐ろしさがある。週に10コマも授業をして、会議にも出て、なんでそんなにいろいろできるのか?

たわ(8)「お前、サヴァンだろう」というと、田森は、「そんなことはない」という。しかし、私は知っている。理化学研究所にいるとき、ある高名な脳の研究者が、「ああいう人の脳はね・・・」と田森のことを言っていた。田森佳秀の脳は、私が出会った中でもいちばんユニークなものの一つである。

たわ(9)いくらでも大ネタが隠れているから、学会に来て、田森とずっと話していても全く飽きない。鹿島神宮にある、地面から出ている部分は小さいけれども、どんどん掘っていくと大きくなって際限がない。そんな男が、わが畏友田森佳秀(@Poyo_F)である。その全貌は、未だにわからない。

2012年4月13日金曜日

東アジア情勢を見ると、アメリカを大切にするしかない

ひあ(1)昨日、ミサイル発射の警戒の中、仕事をしながら情報を手に入れようと滞在中のアリゾナ州ツーソンのホテルから、ニコ生につないだ。朝鮮中央テレ ビの放送をそのまま流していた。かつて、小学校の頃、モスクワ放送を聞いていたのを思い出して、独特の懐かしさがあった。

ひあ(2)朝鮮中央テレビというと、絶叫調のアナウンサーのニュースがすぐに思い浮かぶが、その他の番組は実は全く知らなかった。それが、ニコ生が流して くれたおかげで、軍人たちが出てくる妙なドラマを見ることができた。言葉はまったくワカラナイニダだけど、雰囲気は伝わってきた。

ひあ(3)それが、妙に惹きつけられる画面で、解析をしながら見入ってしまった。弾幕のコメントも盛り上がる。俳優から、なんとも言えない人間味がしみ出 してくる。思うに、イデオロギーが支配する独裁国家においても、生身の人間というものは、必ず肉体性を持ってしまうものなのだろう。

ひあ(4)北朝鮮の政体については同情の余地は全くないが、そこに住む生身の人間たちには、同情を禁じ得ない。この度のミサイル失敗でも、責任をとらされ る人たちがいるのだろう。ミサイル技術は難しいし、抑圧は決してよい結果をもたらさないが、そんなことが通じる相手だったら独裁などしていない。

ひあ(5)朝鮮中央テレビの妙に生々しいドラマを見たあと、眠ろうと横になっていたら、北朝鮮の政体 移行でどんなシナリオがあり得るのかと気になった。核兵器を持った国の政体移行には、独特の難しさ、リスクがある。そのあたりを、アメリカのインテリジェ ンスはどう考えているのか。

ひあ(6)核保有国が政体移行した例としてソ連からロシアがあるが、あの時もさまざまなリスクがあったはずだ。北朝鮮の崩壊に伴うリスクは、それと比べも のにならないくらい大きい。だから、イラクなどでは強制的な政体崩壊を迫ったアメリカも、北朝鮮に対しては慎重にならざるを得ない。

ひあ(7)それにしても、東アジアは、冷戦時代の「化石」のような北朝鮮がそのまま残り、中国は経済発展にもかかわらず特殊な政体を保ったままである。これからはアジアの時代だとは言われながら、地政学的なリスク要因は大きい。そんな地域に、私たちの国、日本はある。

ひあ(8)アジアにおいて、経済発展と民主化を遂げた国と言えば、日本、韓国、台湾がある。この三国がアジアの未来における希望である。そして、考えてみ ると、これらのどの国の歴史においても、アメリカの影響が決定的に重要であった。離れてアメリカからアジアを見ると、そのことが、実感される。

ひあ(9)第二次大戦中、戦後のさまざまがあっても、東アジア情勢を冷静に見れば、日本はアメリカを大切にするしかない。今回のミサイル発射も、独自の情 報網、技術では対応できなかった。アメリカとの同盟関係を軸に、東アジア情勢に向き合うしかない。とりあえず私はアメリカのビールを飲む。

2012年4月12日木曜日

砂漠よりも、熱帯雨林がいいね

さね(1)しばしば言われることだが、環境は人の思考を左右する。アリゾナ州ツーソンは砂漠だが、有名な「手を広げた」サワロ・サボテンを始め、豊かな植物相がある。ちょっと歩くとハチドリがぶんぶん飛んでいるし、チョウチョもいるし、バッタもいる。あまり会いたくないけど、ガラガラヘビも。

さね(2)イェルサレムのまわりに行くと、本当に砂漠で、しばしば言われることだが、こういうところでこそ一神教は誕生したのだなと思う。一神教は進化して、ニュートンの力学にまで結実した。『ふしぎなキリスト教』でも指摘されていたように、理神論がなければ、「奇跡」の概念もない。

さね(3)日本の自然風土は概ね温帯のおだやかなもので、八百万の神がいて統一など一切とれていない。しかし、明治以降、西洋式の理念が入ってきたから、インテリほど、一神教的イデオロギーを振り回すようになった。そのことの効用も弊害もあるけれども、現代日本においてはどうなのだろう。

さね(4)しばしば誤解されるが、現代の支配的パラダイムと言える「ダーウィニズム」は、決してモノカルチャーをもたらすのではない。熱帯のジャングルの豊かな生態系もまた、ダーウィンの進化論の結果である。すぐれた種、卓越したアイデアが支配的になるというモノカルチャーは、例外でしかない。

さね(5)ニュートンの機械論的宇宙観も、ダーウィニズムも、それが広々とした空間に適用された時には、画一性ではなく多様性をもたらす。二つの卓越した科学理論でさえそうなのだから、人間の考える思想やイデオロギーごときが、画一性を強制できるはずがない。

さね(6)現代においては、理念的であろうとする人ほど、社会の生態系を砂漠とのアナロジーで考える傾向がある。しかし、本当に目指すべきは熱帯雨林だろう。背後に単一の法則が隠れているかもしれないが、生物学的には多様である。インターネットがもたらす新文明もそうあるべきだ。

さね(7)昨日、不思議な夢を見た。なぜか、私は大阪市役所にいるのである。そして、大阪市の職員が、ずっと案内してくれている。その人が、とてもやわらかで、暖かい笑顔でいるので、私は思わず叫んだ。そうか、大阪市の改革が成功するための、条件がわかったぞ!

さね(8)かかわる人たちが、笑顔で、自らの主体性を持って、心の余裕を持って事に臨まなければ、改革など成功しない。そんなはっきりとした感触を夢の中で持った。そうしたら、夢の中で、大阪市の別の部屋に行ったら、おじさんが三人ふてくされてテレビを見て、さぼっているのだった。

さね(9)人間は、強制することなどおそらくはできないんだと思う。強制しようとしても、本当にその人の力や魅力を引き出すことなどできない。グローバリズムへの適応にしても、こっちの方が楽しいよ、とやるべきなので、その場合でも、砂漠ではなく熱帯雨林でなければならないのだろう。

2012年4月11日水曜日

最悪、二百五十年間鎖国が続いてもいいや、と覚悟を決めておけば腹も立たないんだよ

さに(1)アメリカに来て、いろいろ見たり聞いたりしていると、当然のことだが、英語ができるからと言って賢いわけでもセンスが良いわけでもないということがわかる。グローバル化の中、英語は必須だが、英語バカよりも実質賢い方がいいとは、急進的な私でも思うことである。

さに(2)会議が始まって、最初のスピーカーがいろいろしゃべっているけれども、必ずしもレベルの高いことや、深い洞察がそこにあるわけではない。もちろん、平均的な歩留まりはいいけれども、英語がうまいからと言って、聴衆をびっくりさせるような斬新なことが言えるわけでもない。

さに(3)英語学習においては、「実質」を重視するべきだと考える。明治以来、一生懸命日本語圏に輸入してきたから、英語をやる意味は、主に「差分」の中にある。インターネットや科学などの新発展、さまざまな分野を統合する新しい思想の中には、英語でないとアクセスできないものも多い。

さに(4)実用的な英語ができることは便利だが、別に大したことでもない。英語という言語そのものではなく、英語という言語の中でしか流通していない、実質的に興味を持てるものにフォーカスすることが、個人としても、国家としても、正しい戦略。英語バカをいくら量産しても仕方がないのである。

さに(5)海外における日本のプレゼンスは低下するばかり。国内の議論を見ていても、内向きのものが多い。しかし、危機管理の鉄則は、最悪の事態を想定してその準備をしておくことだから、「あるべき論」を振り回しても仕方がない。このまま日本がダメになったらどうなるか、心を決めておくべきだ。

さに(6)日本の弱点は、国内市場が十分に大きいことにある。メディアも大学も企業も、国内市場だけを相手にしていれば十分に「食える」から、外を見るという動機付けがない。一部の人は「貿易」や「翻訳」に携わるが、それは国内の全活動から見たら、ごく一部の例外に過ぎない。

さに(7)単純な経済規模のメカニズムから言って、日本人の中で、グローバルな舞台で丁々発止の戦いをする人は、これからも小さな割合にとどまるだろう。現状ではそんな人が少なすぎるから、すそ野を含めて拡大しようとしている。一方、一種の「鎖国」状態が続く事態も、想定しなければならぬ。

さに(8)国内市場ばかり見て動かない大学やメディアを見ていると腹も立つが、危機管理上も、精神衛生上も、最悪の事態を想定して覚悟を決め、対策を立てておいた方がよい。これからも、日本の大部分は鎖国メンタリティの中にあり続ける。それでもいいや、と思っていればまず間違いないだろう。

さに(9)早い話が、明治までは(一部の通路を除いて)日本は250年間鎖国を続けた。それでも、高度な独自の文化を築くことができた。十分大きな経済規模があることのメリット。最悪、鎖国が続いても仕方がないとあきらめて、有志で勝手に動けばいい。日本の将来は、まあ、そんなところでしょう。

2012年4月10日火曜日

美人とはなにか

びな(1)学会でアリゾナ州にいる。今朝ABCを見ていたら、何でもミスワールドか何かの大会で、ブロンドの参加者が実は生まれつきのブロンドではなかっ た、と失格になった、という話題をやっていた。大会委員長か何かが不動産王のドナルド・トランプとかで、「トランプふざけるな」とか言っている。

びな(2)西欧では、「ブロンド」こそが最高という美意識があるようだが、そのブロンド美人の象徴である、マリリン・モンロー(本名ノーマ・ジーン)は実 は染めたブロンドだということはあまり喧伝されない。いずれにせよ、美の基準というものは多分に政治的なものなのだろう。

びな(3)科学的には、美人は「平均顔」だと言われている。目の間の幅が、顔の幅の46%、目と口の間の距離が、顔の長さの36%だともっとも「魅力的」だと認識されるが、これは、全女性の平均値であることが知られている。

びな(4)また、男性が自分の容姿を棚に上げて美人を好む傾向があるのは、社会的な動物である人間にとって、多くの人が望む美人をパートナーとすること が、一つのステータス・シンボルだからと言われている。英語で、「trophy wife」(トロフィー妻)という言葉があるほどである。

びな(5)このように、美人の基準が社会性を背景にしているということは、当然そこに政治的強弱が絡むことになる。力を持つ男たちが、美人の基準を作る。 ミス・ユニバースの日本代表のメイクが日本人にとっては違和感があるとはよく言われることだが、そうしないと「世界標準」では勝てないのである。

びな(6)先日聞いた話では、ミスの世界大会の有力なスポンサーである中東の美意識を反映して、優勝者が選ばれる傾向があるという。要するに金を出す人たち(政治的に力を持つ人たち)が美の基準を決める。これは、美が社会的に構築される以上、仕方がないことなのだろう。

びな(7)このように、美というものは政治的なものであるが、一方、もっとも政治から自由なものでも ある。政治的権力というものは、自分以外の弱者を必要とする。独裁者は、従う国民がいなければ、無力である。ところが、美は、それ自体で完結している。美 を持つ者自体は弱いもので良い。

びな(8)政治権力や、お金持ちは、権力を行使したり、お金を使ったりする相手がいなければゼロに等しいが、美は、それ自体で完結している。ここに、美の 基準を作るものは権力であるのに、美自体は権力から独立しているというパラドックスが生じる。そのずれこそが、人々を魅了するのだろう。

びな(9)今朝見たABCの番組に戻る。ミス候補のブロンドが、生まれつきのブロンドではなかったと失格にするのは、美は無垢なものであるべきだという権 力者側の思い込みに由来している。一方、ミスを選ぶ不動産王トランプ氏は、お金の力で他者を従えて自分の価値を生む。なんと皮肉なことだろう。

2012年4月9日月曜日

公平とは何かということは、どの水準で考えるかで変わってくる

こど(1)アリゾナ州ツーソンのホテルにチェックインしてネットにつないだら、「IAEAは不公平」=鳩山氏発言として紹介-イランTV - 時事通信 http://bit.ly/HVQUL9 というニュースが入ってきた。鳩山氏が本当にこの趣旨の発言をされたのか不明だが、考えさせられる。

こど(2)公平という概念はきわめて難しいもので、既存の秩序を前提にしたときの「公平」と、より根源的な立場から考えたときの「公平」は異なる。そして、後者の「公平」を唱える者は、自然に革命家にならざるを得ないのであって、政治的には危険な道を歩むことになる。

こど(3)日本では、東日本大震災をきっかけに、原発をめぐる議論が盛ん。議論を深めることは大いに結構なこととして、日本の文脈で論じられないのは、世界的に見れば核の「平和利用」は、核兵器の存在と切り離せないという事実である。核兵器は「公平」でなく、非対称の関係が固定化されている。

こど(4)アメリカ、ロシア、中国、イギリス、フランス、インド、パキスタン、イスラエルという「核兵器クラブ」と、それ以外の国の間の非対称性は、国際政治を考える際の厳然たる与件である。この与件を前提に「公平」を考えるのか、それとも外して「公平」を考えるのかで、見え方は変わってくる。

こど(5)核兵器がこれ以上拡散することは人類の生存を脅かすから、IAEAの査察などを通して監視すべきだ。その趣旨はわかる。しかし、その際に前提になっているのは、「核兵器クラブ」の既得権は、そのままにしておくということである。その構造自体を問うということは、タブーとされてきた。

こど(6)核兵器所有国=常任理事国が作ってきた戦後の国際秩序。原発をめぐる議論にも影響を与える。脱原発に走るドイツ、日本、イタリアといった国の共通点は、第二次大戦の敗戦国で、核兵器を所有していないこと。一方、英国や米国では、原発が核兵器と密接なサイクルに組み込まれてしまっている。

こど(7)私自身は、「核兵器」は廃絶できるものならばするべきだと考えるし、その際は、現保有国も例外とすべきではないと考える。「公平」は、すでに核兵器を持ってしまっている国の「既得権」を認めるかどうかによって大きく変わってくる。そして、これは国際政治における虎の尾である。

こど(8)IAEAを初めとする、核の不拡散のための国際的な努力は、もちろん多とすべきである。政治的理由で核兵器を開発するのは、おろかだと悟らなければならない。その一方で、現保有国がそのまま保有し続けることを黙認するという不道義を放置することは、長い目で見て人類のためにならない。

こど(9)政治は可能性の芸術であり、現実的妥協は常に図られなければならない。現状から見て穏当な路線を追求することは、影響力のある人の責務であろう。一方で、原理原則、根源的な立場から見て何が「公平」なのか考察しておかないと、表面的に「平和」と言っても、底が浅くなる。

2012年4月8日日曜日

えいやっと決めてしまって、官僚機構が整合性をつける

えか(1)しばらく前に、シンガポールに行って、国会議員の人と話していた。電子教科書の話になって、「日本ではいろいろ議論があるんだけど」と言ったら、その人は「えっ!」と驚いた顔をしている。「シンガポールでは、とっくの昔に導入しています」。日本は今や後進国の認識である。

えか(2)韓国でも、年限を区切って、電子教科書への移行を完了することが決まっているという。それに比べて、日本の動きはあまりにも遅い。「紙の教科書の情緒が失われる」などといった、根拠の薄弱な守旧派の戯言につきあっているうちに、次世代のリテラシーを養う機会が失われていく。

えか(3)中村伊知哉さん(@ichiyanakamura)は、教科書の電子化への動きの中心にいらっしゃる方。慶応大学の教授をされているが、以前は官僚だったこともあって、実務的な知識とセンスに長けている。その中村さんが指摘されるように、電子教科書への移行にはさまざまな準備がいる。

えか(4)特に私が注目するのは、検定制度との絡みで、電子教科書になって、ネットへも接続することになった時に、今の一字一句まで揚げ足をとるような検定制度は、維持できない。教育の「標準化」という考え方が、オープンなネット環境になじまない。電子教科書が、日本の教育が変わる起爆剤となる。

えか(5)電子教科書化にはその他にもさまざま制度改正、準備がいるという中村さんの指摘はまっとうなものだろう。それに対する、@May_Roma さんの、「なんでそんな議論が必要なんだろう…狂った国だ」という反応も、至極まっとうなもの。だからこそ、このやりとりをおもしろいと思った。

えか(6)日本では、実務的な準備の大変さが、何もしないことのいいわけに使われることが多い。東大の秋入学への移行にしても、「こんなに準備が大変だ」といいわけをする人がいることは容易に想像できる。しかし、さまざまな制度の間の「整合性」をとることは、やろうと思えば案外できるんだよね。

えか(7)逆に言えば、霞ヶ関の官僚機構はさまざまな制度の間の整合性をとることは得意である。だから、電子教科書の導入は、たとえば「2015年までに完了する」と宣言して、決めてしまえばいい。それは、政治の役割。整合性をとる仕事は、優秀な官僚機構に任せればいいんだ。皮肉じゃないよ。

えか(8)改革というものは、細かい制度を変えて、整合性をとるという「積み上げ」では決してうまく行かない。えいやっと、大きな結論を最初に出してしまえばいいのである。その上で、後始末は淡々と実務的にやる。そのとうな時系列でやらないと、今やアジアの後進国である日本の現状は変わらない。

えか(9)先日Tokyo International Schoolに行った時、幼稚園の段階から、一人一台iBookを持っていて、ネットを調べながら授業を受けているのを見て、ああこれはダメだ、日本はもう絶対に勝てないと思った。一字一句まで検定する紙の教科書は、現代の恐竜である。

2012年4月7日土曜日

自分の意見に疑いを持たない人は、あやうい

じあ(1)この一年の日本の変化を見ていて、一番歓迎すべきことは、発言する人たちが次第に増えてきたことだろう。政治的な課題について、自分の意見を表明する人たちが表れてきた。ツイッター上でも、私がフォローしている人、そのRTだけを見ても、さまざまな意見が飛び交っている。

じあ(2)特に、英語で言うところのstrong opinionを持つ人たちが増えてきた。現状のここが問題で、未来はこうでなければならないと明快に主張する。橋下徹さんはその代表格だが、社会のさまざまな分野から、strong opinionの担い手が出てきた。

じあ(3)このような状況の変化は、ツイッターのようなソーシャル・メディアの登場に促されたことも事実だが、一方で日本という国がどうすることもできない状態になっていることとも関連する。最近は、「国が没落する時とはこういうものか」という思いを抱くことが多くなった。

じあ(4)「座して死を待つ」よりは、意見を表明した方がいい。そう思う日本人が増えてきたのだろう。これは歓迎すべき画期的な変化であり、日本の社会が、発展から没落のフェイズに入って、皮肉にも成熟してきた一つの証拠だろう。みんな大いに百家争鳴した方がいい。

じあ(5)ただ、気になることが一つある。それは、日本人独特の「空気を読む」感じが、意見の表明にも表れているように感じることである。たとえば、脱原発がトレンドになると、原発に反対する意見は書きやすいし言いやすい。橋下改革がトレンドになると、それに乗る意見は書きやすいし言いやすい。

じあ(6)死刑制度についても、国民の多数が存続に賛成の状況で、「被害者のことを考えろ」などという意見は、書きやすいし言いやすい。2ちゃんなどのローカルな文脈では、近隣諸国の悪口は、書きやすいし言いやすい。ソーシャル・メディアを飛び交う意見は、案外空気を読んだものだったりする。

じあ(7)タイムラインを見ていて、本当に価値があると感じるのは、「トレンド」に抗した反対意見を言っている人である。たとえば、橋下徹さんの力に私は期待をこめた注目をしているけれども、それに反対する内田樹さんの意見こそが、現在の日本では価値があるとどれくらいの人が気づいているだろう。

じあ(8)日本人が、strong opinionを言ったり書いたりするようになったのはよいことで、ただ、まだ練習、学習期間にあるのだろうと思う。時流に沿っていないことこそを、自分の判断で主張し続けられるようになったとき、日本の社会の成熟はほんものになったということになるのだろう。

じあ(9)自分の意見に疑いを持たない人は、あやうい。危うさは、「こうあるべき」というイデオロギー的決めつけが、時流と合ってしまったときに最大になる。強い意見を言うのはいいけれども、トレンドに乗ってかさにかかるのは価値の小さいことと、発言者は自覚した方がいい。

2012年4月6日金曜日

偶然の一致で、リアリティが立ち上がる

ぐり(1)あれは何年か前のこと。国際線の飛行機のトイレに入って、ふと考えた。もし、飛行中に急病人が出て、一刻を争う事態になったら、どうするのだろう? やっぱり、近くの空港に緊急着陸するのだろうか? そんなことを思いながら手を洗って、ドアを開けて外に出た。

ぐり(2)すると、飛行機の通路に中年の女性が仰向けに倒れている。ロシアか東欧の人の印象。フライトアテンダントが慌てて走っている。酸素吸入器のようなものを見つけて持ってきている。私は、まさに今トイレの中で急病人が出たらどうなるのだろうと考えていたばかりだったから、驚いた。

ぐり(3)幸い、その女性はしばらくすると立ち上がって、家族らしい人に支えられて座席に戻った。飛行機はそのまま運航を続けて、予定通り目的地に着いた。しかし、この一連の体験で、私はユングの言う「シンクロニシティ」(共時性)について改めて考えざるを得なかった。

ぐり(4)意味のある偶然の一致。ユングは、それを因果性を超えた何者かだとした。物理学の因果性の理解に基づけば、ユングの説は容れる余地はない。飛行機の中で急病人のことを考えて、実際に床に倒れている人がいた。現代科学に基づけばあくまでも偶然であって、因果性を超えているわけではない。

ぐり(5)小林秀雄が引用している話がある。ある時、女性が戦場で夫が倒れる夢を見た。実際にその時刻に夫が死んでいた。それを聞いたある人が言った。夫が死ぬ夢を見た人は何万人といるだろう。たまたま、その婦人が一致しただけで、一致しなかったケースは無数にあったはずだと。

ぐり(6)小林秀雄は、続けて言う。ある体験が正しいかどうか、の問題にしてはいけない。たとえ偶然だとしても、その婦人は夫が死ぬ夢を実際に見て、その通りになったのである。偶然だとしても、その主観的な体験の質こそが、問題なのだと。つまり、シンクロニシティを認知的にとらえること。

ぐり(7)たとえ、因果的に見れば偶然だとしても、実際に一致が起こったときに、私たちの世界観は揺らぐ。その揺らぎの中にこそ、祝福をもたらす何ものかがあるのであって、その体験が「正しい」とか「正しくない」とか論ずるのは、ナンセンスである。小林秀雄のこの考え方に、私も賛成する。

ぐり(8)リアリティが立ち上がるのである。机の上にコップがある。見るだけでなく、触れてみる。爪ではじいて、音を聞く。視覚、触覚、聴覚という異なるモダリティからの情報が一致して、コップのリアリティが立ち上がる。シンクロニシティも同じ。何ものかのリアリティが立ち上がり、動揺する。

ぐり(9)偶然の一致がたまたま起こったときに、今まで知らなかった、目に見えない世界のリアリティを感じる。それは、あくまでも私たちの脳内現象の中にある。河合隼雄さんは、共時性を大切にすると何倍も豊かな人生を送れると言っていた。目に見えない世界のリアリティは無限だからだろう。