2011年12月31日土曜日

世の中は変わらない

よか(1)この一年を振り返って思うことは、「世の中は簡単には変わらない」ということである。しかし、感激があり、ヴィジョンがある。人生というのは結局は中途半端なまま進んでいくしかない。その中で信じられるのは、手元でやっている作業だけである。

よか(2)3月11日、忘れることなどできない大震災が起こった。そのあと、東北の人たちを襲った大変な事態を、私たちは決して忘れることなどできない。何度も被災地に通った。でも、何もできなどしなかった。ただ、耳を傾けて、声を聞くことしかできなかった。

よか(3)あれだけのことがあったから、今度こそ日本は変わるだろう、変わるべきだと多くの人が思ったろう。しかし、変わりなどしていない。政治も、メ ディアも、そして何よりも大切なことだが我々自身も、相変わらずの日常を過ごしてしまっている。そこに、考えてみるべき出発点がある。

よか(4)人間は一つの生態系である。そして、生態系は強固なものである。大量絶滅の時代でもない限り、種の交代のスピードは遅々としている。恐竜からほ乳類への転換が、そう簡単に起きるはずもない。それでも、私たちの頭脳は、ついつい先をあせってしまう。

よか(5)自分自身だってそうだ。理想としている、活動や存在のあり方がある。それと現実とのギャップがある。毎日朝起きてから、夜寝るまで一生懸命生き ているように思ってはいるけれども、それでも対して変わりはしない。自分が変われないことを振り返れば、世間が変わらないのは当たり前だと思う。

よか(6)ただ、痕跡はある。被災地を訪ねて、大変な経験をした人たちが、それでも前向きに生きている姿に接したとき、この感激を忘れまい、絶対に覚えて おこう思った、その瞬間の自分だけは 残っている。一日にしては変われないとしても、毎日その方向にうんうんと少しずつ押していく。

よか(7)今年のある時期、私はツイッターのプロフィール欄に「社会の前に自分を革命せよ」と書き加えたが、自分が変わることの難しさを引き受けていなけ れば、単なる小言幸兵衛になると思ったからだ。そして、自分が本当に変わることの難しさを日々感じながら、それでもうんうんいっている。

よか(8)日本の社会のあり方について、システム的、論理的に考察して、変化への方向性を論じることはもちろん貴い。それと、本当に存在がに変わるという ことは別。私たちの精神は、常に肉体を先取りしてしまう。だから焦るが、空虚な言葉遊びで満足してはならない。身体がともなわなければ!

よか(9)世の中は変わらない。そう簡単には変わらない。だからこそ、「あの山に登ろう」「あの山を目指せ」と言っているだけでなくて、実際に毎日登山を しよう。うんうんいいながら、一歩一歩に自分の重さを感じながら。世の中は変わらない。しかし、だからこそ、いつか絶対に変えてみせる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月30日金曜日

受験生へのエール

じえ(1)受験生は、年明けから始まる入試のために、一生懸命がんばっていることだろう。そこで、受験生たちに、こんな風に勉強したらいい、というヒントのようなものを書いて、応援メッセージとしたい!

じえ(2)まず、「自分は受かる」という根拠のない自信を持つこと。そして、それを裏付ける努力をすること。ただし、睡眠不足はよくない。疲れたら眠る。できれば、目覚ましなしで自然に目が覚めるようにすると、睡眠サイクルとして無理がない。

じえ(3)「本番」で望ましいのは、集中しているけれどリラックスしているという、「フロー状態」で問題にのぞむこと。そうすれば最大の実力を発揮できる。「緊張」と「集中」は違う。むしろ、微笑みが浮かぶくらいの余裕で、しかし目の前の問題に集中しよう。

じえ(4)本番に強くなるためには、ふだんから自分に負荷(プレッシャー)をかける練習をしておくこと。たとえば、本番と同じ時間配分、あるいはそれより短い時間で問題を解いてみる。そのとき、「これが本番だ」と自分に言い聞かせて、必死になってがんばってみる。

じえ(5)練習の時から、自分にプレッシャーをかけ、それでも集中してリラックスしている「フロー状態」を保つことができたら、本番では実力を発揮でき る。普段から速い球を見ていれば、本番の球はかえってゆっくり動いているくらいに見える。プレッシャーは自分でかけて調節しよう。

じえ(6)時間を区切って勉強をすること(タイム・プレッシャー法)は、さまざまな意味で有効である。まず、自分への負荷を調整できる。また、時間を区切 ることで、より多様な勉強ができる。また、脳内資源の配分にかかわる背外側前頭前皮質を、より高度に使うきっかけになる。

じえ(7)受験日当日は、とにかく一生懸命やって、その後は見直しをしよう。特に、英語や数学においては、ケアレスミスもあるから、見直しが肝心。国語 は、最初にこれだ、と思った答えを直すと間違うこともあるから、考えすぎないことも肝要。早とちりは、時間をかけると発見できることもある。

じえ(8)受験勉強に疲れたら、ぱっと切り替えて気分転換をすることも大切。お風呂に入ったり、トイレにいったり、コンビニへの買い物など、どうせしなけ ればならないことを、気分転換の句読点に使うのが良い。「煮詰まってきたな」と感じたら、早めに判断して転換することで効率が上がる。

じえ(9)そして、一番大切なこと。ベストを尽くして、それでもし落ちてしまっても、人生が終わるわけではない。受験は、一つのものさし。受かる方がいい けれども、落ちてもまた人生。親や周囲の人は、落ちた時にどう声をかけてあげるか、その心づもりが大切。でも、きっと受かるさガンバレ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月29日木曜日

現代文明は、金系や情系だよ

きじ(1)これは言い古されたことだけど、文系、理系という区別はもう本当にやめた方がいい。現代文明において、全く意味のない区別だからだ。特に、「私は文系ですから」という言い訳は、もはや通用しない。「文系」、「理系」という言葉を、早く死語にしたい。

きじ(2)百歩譲って、大学の4年間で「文系」と呼ばれるような専門分野があったとしても、卒業して何年も経って「私は文系ですから」を言い訳にしている人は、単なる怠慢である。人間は一生学び続けるのに、たった4年の期間で一生が規定されると考えるのはもったいない。

きじ(3)ところで、「文系」、「理系」についての古いイメージについては、こんな経験がある。高校の時、親友の宮野勉に(彼は東大法学部を出て弁護士に なった)「お前ら理系を、オレたち文系がそのうちアゴでつかってやるから」と、半ば冗談だとは思うが、言われたのである。

きじ(4)リベラル・アーツを修めたものが、ナイーヴな「理系」よりも判断能力において優れていて、すなわち指導者に向いているという概念は、日本だけで なく英国にもあって、科学者を輩出するケンブリッジを、政治家を輩出するオックスフォードがちょっと見下す、みたいなことがあった。

きじ(5)日本でも、たとえば霞ヶ関の官僚の文化においては、法律で入ってきた人が事務次官レースの最右翼で、物理や化学などで入ってきた「技官」は、出世の階段も途中まで、みたいな雰囲気がある時期までは(ひょっとしたら今でも?)あったのだろう。

きじ(6)神宮外苑のバッティングセンターあたりを歩いているときに、「そういう文系の概念は完全に時代遅れだな」と思ったのは、現代文明を支配している 二大原理は「金」と「情報」だと改めて感じたからである。どちらも、システムとして操作するには、いわゆる「文系」の知識では太刀打ちできぬ。

きじ(7)銀行などの「金」に関わる職業は、社会の価値創造、流通においていわば「メタ」の立場にある。ネット企業も「情報」を通して「メタ」の立場に立 つ。そして、これらの立場において卓越しようとすれば、分析的、システム的思考が欠かせない。いわゆる「文系」の学問では歯が立たない。

きじ(8)日本の状況を見ると、マンガやアニメ、音楽、芸術などの個々の分野におけるクリエーターたちは本当に良くやっていて、世界的に見ても遜色ない。 だらしないのはいわゆる「エリート」たちで、明らかに能力不足。そのことと、相変わらず「文系」「理系」と言っていることは、無関係ではない。

きじ(9)「文系」、「理系」じゃなくて、敢えていえば「金系」(お金を扱うことが業務の人)、「情系」(情報を扱うことが業務の人)なんだよな、現代は。日本の大学の専門性の区別は、文明の進捗の前で立ちすくんでいるうちに、すっかり化石化してしまった。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月28日水曜日

原本にこだわる役所のやり方そのものが時代にそぐわない

げや(1)朝6時55分に目が覚めた。たまたまテレビをつけたら、NHKの7時のニュースで、暗い中、誰かがどなっていて、車が停まっている。そうしたら、車から、段ボールを次々と運び出す人たちがいる。一体何をやっているんだろう? 一瞬、意味がわからなかった。

げや(2)聞いていてわかった。昨日、市民団体の抗議によって沖縄県庁に搬入できなかった普天間基地の辺野古への移設の環境影響評価の評価書(アセスメン ト)を、午前4時過ぎに県庁内の守衛室に運び込んだのだという。そこを見つかってしまって、抗議している男性がいたのだ。

げや(3)県庁側としては、開庁時間以外は受け付けないから、午前4時過ぎに守衛室に「搬入」しただけでは「受理」とは言えず、今後、午前8時30分の開 庁時間以降に「受理」するのかしないのか、判断を迫られることになるのだという。随分姑息なことをするものだと思ったが、別の違和感があった。

げや(4)喉が痛いから、レムシップ(イギリスで風邪の時に飲む、レモン風味の薬)でも飲もうとお湯をわかしながら思った。ああ、わかった。私が違和感を 覚えているのは、評価書を、ああやってハードコピーで持ち込む役所の体質そのものだ。そんなもん、pdfで送ればいいじゃないか。

げや(5)役所としては、紙に印刷した「ハードコピー」じゃないと正式な提出、受理としては認めない、ということなのかもしれないが、そのあたりが、この 問題に関する役所の旧態依然たる体質を象徴しているように感じられる。電子データをウェブ上で公開して、もって提出とするとなぜできないのか。

げや(6)評価書(アセスメント)は、多くの人が関心を持つ重大事である。思わぬ評価の漏れやバイアスがあるかもしれない。関心が高い書類なのだから、ウェブ上で直ちに公開して、みなでその内容について検討するというのが、現代における民主主義の当然のあり方だろう。

げや(7)「普天間飛行場代替施設建設事業に係る環境影響評価準備書」(平成21年4月)については、ネット上にその全文が公開されている(http://bit.ly/tYxt0X )。今回の評価書も、本当の「提出先」は沖縄県民、日本国民であるはずで、ネットで直ちに公開すべきである。

げや(8)抗議運動に阻まれて提出できなかったらと言って、午前4時に県庁に搬入する。それ以前に、この時代に「ハードコピー」にこだわる。そのあたりに、ネットで情報が迅速に公開されるべき現代にそぐわない、役所の体質が見えてしまっている。

げや(9)評価書の実質的な意味を考えて、議論のために有効にそれを使うというのではなく、手続きを(たとえそのやり方が姑息であっても)形式的に満たし ていればいいとする。そんな役所の前時代的な感性が、7時のニュースの冒頭の映像で、世間に告知されてしまった。残念なことである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月26日月曜日

科学とは、カマキリの気持ちになってみることである

かか(1)最近、ある場所で子どもたちがインタビューされるのを見ていたら、将来なりたいものとして、「科学者!」と答える子が案外多いのに驚くとともに うれしくなった。ぼくも、蝶の採集や研究に明け暮れた小学生時代で、「科学者になりたい!」と大人たちに言っていたものだ。

かか(2)子どもたちに科学に対する興味をどのように持ってもらうか。ぼくは、一つの鍵は「カマキリの気持ちになる」ことだと思っている。そんな話を東京芸大で授業をしていた最初の頃に言ったら、今でも覚えている学生がいるので、今朝はそのことを書こうと思う。

かか(3)秋の野でカマキリを一匹見たとき、「ああ、いるんだ」で片付けてしまわないで、そのカマキリの気持ちになって一生をたどってみる。まずは、生まれたとき。あんなに小さいのに、一体何を食べて育てばいいというのか。

かか(4)カマキリは結局自分が食べた分しか大きくなれない。余裕になって蝶でもバッタでも取り放題になったらいいとして、卵から孵化して小さいときに、 か弱いカマで何を食べるのか。そんな風にカマキリの「気持ち」になって想像してみることで、科学に対する興味がわいてくる。

かか(5)カマキリは小さい時にはアブラムシなどを食べているようなのだが、そこから始まって、徐々に大きな獲物に「アップグレード」していく。自分がと れる獲物をどうやって判断しているのか。自分の身体の大きさと、相手の大きさをどうやって比較しているのか、想像始めると興味は尽きない。

かか(6)川を泳ぐ魚を見て、「ああ、いるんだ」で済ませないで想像してみる。流れに逆らって泳いでいないと、同じ場所にとどまれない。大雨が降って濁流 になったときは、どうやって同じ場所にいるのか。小石の下に隠れる? あるいは、流されてしまう? それから、時間をかけて戻っていくのか?

かか(7)自然の中に息づく生きもの、物体を見て、「ああ、あるんだ」と片付けるんじゃなくて、そのものの気持ちになって、どうなっているのか想像してみ る。科学とは、つまりは他者の気持ちを思いやることであり、他者の気持ちになって、どのように成立しているのか想像してみることである。

かか(8)りんごが落ちるのを見て、「ああ、落ちるんだ」で片付けなかったからこそ、ニュートンは万有引力を発見できた。光を光のスピードで追いかけたら どうなるのかと、光の気持ちになったから、アインシュタインは相対性理論をつくれた。他者の立場になって想像するところから科学は始まる。

かか(9)テクノロジーに対する興味も同じこと。コンピュータやスマートフォン、インターネットが、「ああ、そういうのあるんだ」で片付けないで、どのよ うに動いているのか、スマホやネットの気持ちになって想像すれば、科学への興味がわいてくる。科学する子とは、他人の気持ちがわかる子である。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月25日日曜日

公務員の方々は、仕事のやり方を変えたらどうですか?

こし(1)今日の朝日新聞の一面に、国の借金1000兆円というニュースが出ていた。今のところ、国債の金利が高騰するなどの事態にはなっていないが、いつ危機をむかえてもおかしくない懸念されるべき状況である。

こし(2)国家公務員、地方公務員をあわせた公務員の人件費の総額は、二十兆円台のようだ。パブリックセクターの仕事ぶりは、この方々にかかっている。も ともとは公のために尽くそうと高い志をもって公務員になられたのだろうが、その実際のありさまは、必ずしも理想的なものとは言い難いようだ。

こし(3)もちろん、私は霞ヶ関や県庁、市役所に二十四時間常駐してその仕事ぶりを観察したわけではないし、組織内部の様子もわかるわけではない。一方、フラクタル構造をしている宇宙と同じように、一部分に接すると、全体の様子がある程度わかる、ということもある。

こし(4)公務員の方と話していて感じることは、「クロック数」が遅いということである。仕事の進め方がぐずぐずしていて、余計なことばかりやっているように感じることがある。それだけでなく、余計なことを民間の人にも押しつけているという印象が否めない。

こし(5)先日も、こんなことがあった。ある会合に出席するのに、出張依頼書がどうの、交通費の計算がどうのとやっている。当日、「印鑑をいただきたい」と回ってきたが、私以外の出席者は、みな印鑑を持っていなくて、「後日郵送します」ということになった。

こし(6)役所関係の仕事をすると、余計な書類を書かされたり、飛行機の半券をよこせといわれたり、印鑑を押せとか言われたりするのは日常茶飯事。もう慣 れっこになっているが、そのようは書類をチェックしたり、ファイルしたりするのが仕事の人が大量にいるのだと考えると、ぞっとする。

こし(7)政府の審議会もムダの極致。何度か出席したが、出席者が5分くらいずつ話して、「ありがとうございました。次回の会合は・・です」と何の議論もない。文書は、結局官僚が書いている。その文書だって、何のために書いているのか、誰が読むのかわかったもんじゃない。

こし(8)もったいないと思う。一方、先日訪れた釜石での市役所の方々の働きぶりはすばらしかった。震災、津波という非常事態。管轄も権限もあったもん じゃない。それこそ、サッカー選手がピッチの上を全力で走り回るような、頭の下がる働きぶりだった。公務員は、本来そうあるべきなんだろう。

こし(9)公務員の方々は、みな、黒澤明の『生きる』を見たらどうか。国難とも言える時に、パブリック・セクターがやれることはたくさんあるはずだ。書類 主義、形式主義にこだわることができるのも、つまりは暇だからだろう。本当にやることがあったら、走り始めるはずだ。奮起を期待します。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月24日土曜日

黒魔術じゃなくて白魔術をかけろ

くし(1)「すべての発達した技術は、魔法に似ている」と書いたのは、確かアーサー・C・クラークではなかったか。そんなことが起こるとは思わないのに起 こる。これが魔術(magic)である。それは、不意打ちに私たちの人生に訪れ、そして私たち一人ひとりの存在を変えていく。

くし(2)そもそも、私たちがこの世に誕生した経緯が、魔術に似ている。なんだかしらないけれども、気付くといるのである。最初は無明で、次第にはっきり してくる。大人になるとずうずうしくなって生きることに慣れてきてしまうけれども、この世界にいること自体が本来魔術でなくてなんだろう。

くし(3)人間関係でも、魔術はある。なぜかわからないけれども、自分に誰かが好意を寄せてくれる。人間はそれぞれ無意識を抱えており、そこからなにがわ きあがってくるかは本人にも分からない。だから、好意や愛は、本人にとってもそれを受ける人にとっても、一つの魔術である。

くし(4)魔術には白魔術と黒魔術が存在するということをある時知った。黒魔術(black magic)とは、自分のゆがんだ欲望を実現しようとしたり、あるいは相手を貶めようとするもの。一方白魔術(white magic)とは、愛や美といった、よきものをこの世界にもたらすもの。

くし(5)時に、自分や他人に黒魔術ばかりかけている人をみかけることがある。やたらとぼやいて、揶揄し、生きる力を失わせる人たち。内田樹さん(@levinassien)の言うところの、「呪いの言葉」。そんなことを言うくらいだったら、黙っていればいいのに、敢えて言ってしまう。

くし(6)一方、他人を勇気づけたり、前向きにしたり、傷ついている人を癒したりする「白魔術」の言葉をかける人もいる。同じ言葉をかけるならば、こちらの方がいい。そして、白魔術をかける人は、自分の中にもともとそれが満ちていて、外にあふれてくるのであろう。

くし(7)魔術(magic)というのはもちろん比喩で、自然法則を超えたものがあるわけではない。ただ、「魔術学」というものがあるらしく、そこで言わ れていることが面白い。つまり、白魔術と黒魔術は、目的が違うだけで、本来は同じところに由来するのではないかという考え方である。

くし(8)他人に呪いの言葉をかける人も、育む言葉をかける人も、本当は懸命に生きようとしているのだろう。感情としては、同じなのに、外に出る結果が違う。負の感情があっても、それを正の感情へと転化して、白魔術使いとなることこそ、私たちは目指すべきなのではないか。

くし(9)それでも、黒魔術をかけている人がいたら、ああ、この人も生きたいんだな、だけど、未熟だから、こんな他人を貶めるようなことしか言えないんだ な、と温かく見守ってスルーしよう。そこに、黒が白に転化する契機がある。白魔術師になった方が、自分にとっても世界にとっても絶対に 良い。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月23日金曜日

和文英訳、英文和訳はやるな

わえ(1)先日、たままた某大学の入試問題を見る機会があったら、和文英訳、英文和訳が相変わらす出題されていた。私の主張は、これらの学習法は今の時代 に全く意味がないというもの。大学は、これらの出題をすることで、若者の貴重な脳時間を奪っている。即刻廃止することを主張したい。

わえ(2)そもそも、なぜ英文和訳、和文英訳が定着したかといえば、特に前者は、日本の「翻訳文化」の伝統の中にあったから。漢語を日本語化したのは、私たちの祖先の偉大な業績である。明治以降、日本語で学問ができるようになったのも、翻訳文化のすばらしい功績である。

わえ(3)英文和訳は、特に、日本の大学の「文化系」の教授たちの、いわば「基礎トレーニング」であったことは事実である。文系の学問は圧倒的な輸入超 過。いわば輸入業者だったから、英文和訳を出題するというのがごく自然な発想であった。輸入自体に価値があったから、それでもよかった。

わえ(4)ところが、時代が流れて、グローバル化とインターネットの発達により、もはや英語は「lingua franca」(使えて当たり前)のものとなり、いちいち翻訳フィルターを通す日本人の習い性が、時代遅れのものとなった。未だに英文和訳をやっているの は、時代錯誤もはなはだしい。

わえ(5)たとえていえば、サッカーでボールが来たのに、直ちにドリブル、パス、シュートをせず、足元でごにょごにょやっているようなもの。かつてはそれ でも良かったけど、もはや、lingua francaで直接やりとりする時代に、それではグローバルな舞台で日本人が活躍できぬ。

わえ(6)大学の役割とは何か? その時代の最先端の学問を学生たちに徹底的にたたき込み、自立して活躍資質を涵養することだろう。相変わらず「輸入学 問」「翻訳文化」の中にある大学の文系学部は、この時代の要請に応えていない。足元でボールをごにょごにょやっていないでさっさとパスしろ!

わえ(7)和文英訳はさらに陳腐である。これを英訳しろ、と示される日本語が、意味不明でわけのわからないものであることが多い。そもそも英語ではそんな 発想をしないよ、というような代物。英語が得意な人でも、「なんじゃ、こりゃ?」と首をひねるような出題が多い。受験生かわいそう。

わえ(8)母語が大切なことは言うまでもない。日本語は日本語で徹底的にやる。英語は英語で、(日本語を介在させないで)徹底的にやる。両言語に通じれ ば、和文英訳、英文和訳など、(もしその必要があれば)できるさ。もちろん、文学翻訳者のような熟練は別だが、ほとんどの人にそれは必要ない。

わえ(9)結論。大学入試、あるいはそこに至る教育課程で、「和文英訳、英文和訳」を課すことは時代錯誤であり、日本の大学の文系研究者の特殊な文化に過 ぎない。英語を読み、英語で話し、英語で書くという「直接性の原理」が必要な現代。英文和訳、和文英訳は即刻入試から廃止することを主張する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月22日木曜日

贈り物によって豊かになっているのは誰か

おだ(1)クリスマスの季節である。以前はMerry Christmas!と言っていたが、最近は、「政治的に正しい」Happy Holidaysという表現が多いようだ。人々が集い、街を贈り物が行き交う。今朝は、この「贈り物」ということについて考えてみたいと思う。

おだ(2)贈り物では、何がやりとりされているのか? O・ヘンリーの名作『賢者の贈り物』では、恋人たちがお互いに贈るものが、それぞれ役に立たないものになってしまう。それでも彼らは幸せである。お互いに対する「思いやり」が交換されたと感じるからだ。

おだ(3)役に立つもの、高価なものというよりは、相手のことをどれくらい考えたか、ふさわしいものを選んだかというその「準備」にこそ、贈り物の本質が ある。つまりは、贈り手にとっては、贈る前の心と身体のエキササイズこそが、贈り物という文化のエッセンスだということになる。

おだ(4)だからこそ、プレゼントをすることは、贈り手を成長させる。子ども会で友だちにあげるプレゼント、生まれて初めて贈るバレンタインのチョコ、誕生会に呼ばれた時に持っていくもの。何を持って行こうと一生懸命考えることで、その贈り手の方が成長するのだ。

おだ(5)贈り物によって豊かになるのは誰か。受け取り手の「富」が増大しているように見えて、交換時にすでに成長しているのは贈り手の方であろう。相手 のことを考え、自分をそこに反映し、街を歩き、棚を探しているその時間の中にこそ、贈り手を成長させる「賢者の贈り物」があるのだ。

おだ(6)大学で授業をしている時など、これは一生懸命「贈り物」をしているんだなと感じることがある。それを受け取ってもらえるかどうかは、相手次第。 どれくらい残るかもわからない。それでも、温泉のかけ流しのように、ありったけのものを、目の前にいる人たちに伝えようとする。

おだ(7)自分の話したことなど、ちょっとほろりとさせたり、なるほどと思ったり、感動させたりできたとしても、ほとんどはこぼれ落ちて記憶から消えていってしまうのだろうと思う。自分の大学時代に聴講した授業のことを思いだしても、全くその通りである。

おだ(8)だとすれば、話し手こそが、その贈り物をするという行為を通して、まずは豊かになっている。そのうちの某かが、受け取り手にも感染する。話す行 為だけではない。私たちがネットで何かを表現する時にも、まずは「贈り手」の成長がある。それが、時々、ノイズのように他者にも伝わる。

おだ(9) Season of goodwill. 他者に対する善意や思いやりこそが相応しい季節。贈り物をすることによって豊かになっているのは、まずは自分だということを認識して、有形無形の贈り物を してみてはいかがだろう。Happy holidays everyone!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月21日水曜日

相手のおもしろさに一秒目から耳を傾けてから、名刺は最後に渡せばいいよ、もし持っていて、渡したいんだったら

あめ(1)Mountain ViewのGoogle本社で行われたScience and Technologyの会議に出席したときのこと。夕方、カクテル・パーティーのようなものがあって、みんなで外でだべっていた。創業者のLarry Pageもふらふらしていた。

あめ(2)たまたま同じテーブルに座ったのが、髪の毛がちりちりで長い男と、帽子をかぶったダンディーな紳士。脳の話や、インターネットのこと、私の研究テーマのクオリアのこと、政治のことなど、いろんなことをああでもないこうでもないと議論していた。

あめ(3)髪の毛がちりぢりで長いやつも、帽子を被ったダンディーも、なんだかやたらに面白くて、興味深い人物だった。とくに自己紹介とかしないで話していたので、果たしてこいつら誰なんだろう、と思いながらも、まっ、いいかと思って、そのまま議論をしていた。

あめ(4)そしたら、パーティーがお開きになるというので、このあとも連絡を取り合おう、というんで、「ところで、誰なんだっけ?」と帽子をかぶっている 紳士の方が名刺(Name card)をくれた。髪の毛長いちりぢりの方は、名刺を持っていなかった。ぼくも確か持っていなかったんじゃないか。

あめ(5)名刺をみて、あじゃっと思った。http://www.edge.org/ をやっている、有名なliterary agentのJohn Brockmanと、VRの先駆者の一人、Jaron Lanierだった。ああそうか、だから話が おもしろかったんだと納得した。

あめ(6)この話のポイントは、John Brockmanも名刺を持っていたことは持っていたけれども、まずは実質的な会話に1秒の猶予もなく入っていって、「おお、オモシロイネ」となって、相 手に興味をもって最後に別れて連絡先欲しいなと思ったときに、初めて名刺を交換するということ。

あめ(7)日本人が最初に名刺を交換するのは、相手の組織や肩書きを知らないと、安心して話せないからだろう。でも、科学や技術や文化の実質的なことにつ いて、ストレートに見解を交換するのに、組織や肩書きは要らないよね。名刺をもらっても、どうせ、ある半減期で消えていくし。

あめ(8)人間はどんな文化でも、そこに適応していくもの。日本で名刺交換が盛んなのは、組織や肩書きで実際に仕事をしたり、関係性を結んだりしている場 合が多いからだろう。一方瞬時に実質的な会話に入っていく社会は、組織や肩書きと関係なく、アイデア勝負で仕事をしている。

あめ(9)肩書きや組織が大好きな日本の社会にも何かメリットはあったんだろう。はっきりしていることは、現代文明のもっとも熱き進捗の場において、名刺 文化は邪魔でしかないということ。ぼくは、初対面の瞬間から、その人の一番熱い思想に耳を傾けるのを好みます。そうでないと、つまらんね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月20日火曜日

かよわさの原理に基づいた文明

かぶ(1)北朝鮮の金正日総書記が死去した。報道によれば、視察中に列車の中で心筋梗塞になったという。それが事実だと仮定して、そのときの光景を想像し てみる。総書記に異変が生じ、周囲のひとたちがあわてふためく。おつきの医者が必死になって処置をするが、異変をどうすることもできない。

かぶ(2)周囲の人は青ざめるが、総書記の肉体の中で起こっている不可逆変化をどうすることもできない。他の不祥事であれば、責任者が捜し出され、あるいはでっちあげられ、厳しく糾弾されるだろうけれども、総書記の肉体に起きた異変だけは、誰もどうすることもできない。

かぶ(3)北朝鮮の中では、総書記は偉大なる指導者であり、核兵器をつくり、ミサイルを配備し、「強盛大国」をつくりあげた恩人ということになっていた。 すべてを支配し、指導するいわば「スーパーマン」。その「スーパーマン」が、自分の心臓だけは、どうにもコントロールすることができなかった。

かぶ(4)「独裁者」の「権力」は、人間が生み出したもっともやっかいな「幻想」(イリュージョン)であろう。実際には、どんな人間にもかよわく、いつその脆弱性から倒れるかわからない。核兵器、ミサイル、強盛大国。威勢の良い言葉を並べても、本人のか弱さは変わらない。

かぶ(5)日本は、政治については比較的幻想から自由な国である。首相や首相経験者に会っても、かよわさの印象は変わらない。万能で強力な首相という幻想 を、私たちは持っていない。むしろ、指導者の性格の欠点や無能力を把握した上で、そのリーダーシップに微温的な期待を込める。

かぶ(6)国家の運営において、幻想(イリュージョン)が占める割合が高くなればなるほど、この世界の現実から離れていく。「強盛」は最大の幻想の一つだ ろう。実際には、どんな指導者も、組織も、かよわく、脆弱である。もちろん、一つの国家も。かよわさの認識は、市場における競争と整合する。

かぶ(7)成熟した民主主義の国では、指導者がかよわいと認識したまま、ほんのちょっぴりの「カリスマ性」という幻想のかけ薬で、政治権力につくことがで きる。しかし、その権力の座も、いつ奪われるかわからない。流血なしに権力交替ができる。それが、かよわさに基づく文明の姿である。

かぶ(8)首相も、幼稚園児も、高校生も、ごく普通のサラリーマンも、24時間を精一杯生きていることには変わりない。どちらがより「強盛」で、「万能」ということはない。そんな成熟した世界観を持つ文明の方が、結局は全体としては強靱で、持続可能なものになるのだろう。

かぶ(9)私がもし北朝鮮の人と会うとしたら、彼らの「強盛」の「幻想」(イリュージョン)ではなく、その息づかいにこそ耳を傾ける。忌野清志郎の名作『あこがれの北朝鮮』(http://bit.ly/fTeUvD )から伝わってくるのも、強がりの向こうのかよわさに対する感受性だ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月19日月曜日

本人に自覚のない変人が、面白い

ほお(1)田森佳秀(@Poyo_F )の話は、いつも面白い。実話なのだが、何度聞いても笑ってしまう。それで、本人は、「面白くないよ」というが、やっぱり面白いと思う。「私は変人」という人が変人ではないように、「私は面白い」という人は面白くないのだろう。

ほお(2)田森が、子どもの頃北海道豊頃町商工会の福引きの準備をさせられた話。ある年は一等商品が鮭のつかみ取り。「佳秀、鮭は一度に何匹つかめるもの か、やってみろ」と言われた。まず殴って気絶させる。そのあと、両脇に二匹ずつ、股に二匹、最後にアゴの下に一匹「つかめる」ことがわかった。

ほお(2)別の年は、一等商品が100円玉のつかみ取りだった。「佳秀、100円玉というのは一度に何枚つかめるものか、やってみろ。」まず、指の間に 100円玉をつめて、グローブのようにする。それからすくうと掴めることがわかった。ただし、あまり掴みすぎると手がふくれて穴から出なくなる。

ほお(4)田森の育った豊頃町では、毎年仮想行列をやっていた。ある年、田森はシンデレラをやった。長い棒の上にシンデレラの張りぼてをつくった、自信 作。ところが、あまりにも重くて、張りぼてを持ったまま歩いていると、腕が死ぬほど疲れる。時々道の上に置いて休んだが、地獄の時間だった。

ほお(5)田森が落とし穴を掘った「山本鶴」さんの話は最高傑作の一つ。近所の悪ガキを落とそうと、練りに練った落とし穴をつくった。穴のふちを少し下げ て、そこに新聞紙を敷いて、上から土をかけ、そこに草を植えて水をまき、数日おいて、周囲とまったく区別がつかない素晴らしい落とし穴。

ほお(6)ところが、悪ガキを呼ぼうとしたら、町役場の山本鶴さんがやってきてしまった。「あーっ」と思う間もなく、鶴さんが落ちていく。「時間がスロー モーションで流れていくんだよ」。ずどどどどーん。不思議なことに、山本鶴さんは何ごともなかったように立ち上がり、歩いていきましたとさ。

ほお(7)田森佳秀には、変人の自覚がない。ある時薔薇の折り紙に凝ってたから、山手線の中で、「田森さ、あれって何回くらい折るんだ?」と聞いたら黙っ ている。窓の外の風景を見ているのかな、と思っていたら、二駅過ぎたところでぽつりと「84回。ただし、そのうちの2回は折り目をつけるため」。

ほお(8)今でも、その時のことを持ち出すと、「誰だって頭の中で数えるよ」という。「そんなことはないだろう、お前は普通じゃない」というと、田森は 「だって、数えるしか答える方法はないじゃないか」と田森はいう。こういう、変人の自覚がない変人こそが、本当の変人なのだろう。

ほお(9)結論。田森佳秀(@Poyo_F)の言動が面白いのは、本人が身体を張っていろいろ工夫しているからである。薔薇の折り紙にしろ、落とし穴にしろ、鮭のつかみ取りにせよ、工夫を積み重ねていく、その詰め方が尋常ではない。だから、面白い。変人の自覚がない変人が、この世で一番面白い。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月18日日曜日

髪の毛を自分で切ったあの日に何かが始まった

かじ(1)子どもの頃、床屋さんにいくのが面倒だった。だから、ついつい長くなってしまう。行くと思いきり切ってもらうので、長いときと短いときの差が大きかった。「そろそろ行かなくちゃ」と思いながら、ぐずぐずしている。えいやっといくと、ボンタンあめをくれた。

かじ(2)大学のときは、何を血迷ったか「美容院」に数回行ったことがある。最初は御殿下グランドの横にあった店。髪の毛を切るときに、ちょいちょいと少しずつまとめるので、そのテクノロジーに「おおっ!」と感動した。

かじ(3)あの頃思っていたのは、「自分では髪の毛を切ってはいけないのだ」ということだった。だから、一切切ったことがなかった。髪の毛を切る、というのはプロに任せるべきことで、自分でやると、「虎刈り」という恐ろしい結果になる。そんな思い込みの中に、ぼくはいた。

かじ(4)それが、イギリスに留学中、最後にキプロス島出身の兄弟がやっている床屋に行って、一時間ずっとキプロス島の話をしていた。次に行くときに、またキプロス島の話をするのは面倒だな、と思った。それで、「じゃあ、やっちゃうか」と人生で初めての決断をした。

かじ(5)今でも覚えている。下宿のソファのある部屋で、ハサミをもち、「じゃあ、切るぞ」と思った。これでオレは虎刈りになるんだな、と思った。まあ、いいか、とも思った。とにかく、ぼくはハサミで自分の髪を切ってしまった。以来、ずっと自分の髪は自分で切っている。

かじ(6)近頃は慣れたもので、そろそろ長くなってきたな、と思うと、コンビニの袋とハサミをもって風呂場にいく。そして、後ろの方もあたりをつけて切ってしまう。チョキチョキチョキと、2、3分で終了。あとはシャワーで髪の毛を洗って、ぼくのセルフ床屋は終わりである。

かじ(7)子どもの頃から、髪の毛を自分で切ってはいけない、と思っていたのが、「じゃあ、やっちゃうか」とハサミを持って立ったあの下宿の午後。今でも 時々思い出す。人生では、やってはいけない、と勝手に思い込んでいることがたくさんあって、その思い込みさえ外せば、一気に自由になる。

かじ(8)大学に行かないと学問ができない、という思い込み。どこかの組織に「所属」しなければならない、という思い込み。肩書きがないといけない、とい う思い込み。いろいろな思い込みが、髪の毛を自分で切ってしまう、ということと同じように、身体性にかかわることのように思う。

かじ(9)身体感覚に関わり、もし活動が乱れれば体外離脱体験を起こすのはtemporoparietal junction (TPJ)だが、同じ領域がmoral judgment (倫理的判断)にもかかわっている。自分の身体をどう扱うかが人生の重大事であるゆえんである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月17日土曜日

本人が意識していないのが、名言

ほめ(1)『心と脳に効く名言』(PHP研究所)の発刊を記念して行われた昨日の朝日カルチャーセンター講演。構成をいろいろ考えたが、結局、練り上げられた言葉でごくありきたりの人生を描く小津安二郎の名作『東京物語』を丹念に見ることから始めた。

ほめ(2)『心と脳に効く名言』でとりあげた名言には、例えば井伏鱒二の「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」がある。何とも言えない、わっと泣き出したくなるような味わいのある素晴らしい言葉。しかし、才能にあふれた著名人だけが名言を吐 けるのかといえば、そうではない。

ほめ(3)『東京物語』では、東京にいる子どもたちを訪ねる老夫婦が、数々の名言をつぶやく。人生も終わりを迎え、楽しみにしていた子どもたちとの再会 も、思ったようにはいかない。それでもすべてをあるがままに受け入れ、微笑み続ける。そんな生きる姿勢が、深い言葉を生むのだ。

ほめ(4)河川敷で、幼い子どもと遊ぶ老母。花摘みをする子どもに向かって、「大きくなったらなんになるん? お父さんといっしょでお医者さんか。あんた がのう、お医者さんになるころには、おばあちゃんおるかのう。」子どもは花摘みに夢中できいていない。愛おしそうにながめる老母。

ほめ (5)美容院をやっている次女の家が寄り合いでいそがしいというので、老夫婦は追い出されてしまう。家を出る支度をしながら、老父が「ははは。ついに、宿 無しになってしもうた」とつぶやく。冷たい仕打ちをうけながらも、それを諦念の下に受け入れ、ただ淡々と笑っている。

ほめ(6)『東京物語』の一番の名言といえば、老母が亡くなった朝、原節子が迎えにいくと、ひとり庭に立っていた老父が、「ああ、きれいない夜明けだっ た。ああ、今日も暑うなるぞ」とつぶやくシーンであろう。すべてをありのままに受け入れる老父の生き方が表れているからこそ、感銘がある。

ほめ(7)変人は大切だが、「私は変人です」と言う人はニセモノである。本当の変人は、自分がやっていることが、ごく自然の、当たり前のことだと思ってい る。同様に、名言も、本人には意識がないことが多い。その人のごく当たり前の生き方がにじみ出て、聴く者に感銘を与えるのだ。

ほめ(8)誰かが何かを言う。すばらしい言葉だと、深い感銘を受ける。何年か経って、「あの時こんなことを言われて」とお礼を言っても、本人は覚えていな いことがしばしばある。話者にとってはあまりにも自然な、生き方のにじみ出る言葉。それこそが、本当の意味での「名言」である。

ほめ(9)『脳と心に効く名言』で取り上げた言葉。「人間は、自分の置かれた、その中で最善を尽くすほかないでしょう」(小津安二郎)。確かに、小津監督 はそんな生き方をした人だった。『東京物語』の老父は、小津自身の投影。諦念と微笑みの思想が、世界じゅうの人に感動を 与え続けている。

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2011年12月16日金曜日

てんでんこで生きる

てい(1)津波がくるときは、てんでんばらばらに必死に逃げる「津波てんでんこ」の考え方を広めた山下文男さんが亡くなった。一度お目にかかってお話をうかがいたいと思っていた方。その教えは、ずっと受け継がれることだろう。ご冥福をお祈りいたします。

てい(2)山下さんの「津波てんでんこ」の考え方を実践して登校していた生徒が全員助かったのが、「釜石の奇跡」と呼ばれた鵜住居小学校、釜石東中学校の事例(http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1072/20110519_01.htm)である。私も現場に立ったが、津波の怖ろしさと、教えの大切さが身にしみた。

てい(3)釜石東中学校で生徒たちを指導していた森本晋也先生に現場でお話をうかがった。ふだんから、津波が来そうなときはてんでんばらばらに逃げろ、と指導していたのだという。その際、ポイントになることがいくつかあると森本先生はおっしゃった。

てい(4)一つは、他の人もまた、てんでんこで逃げているだろうと、信頼すること。他の人は逃げているかな、だいじょうぶかなと探しにいくと、そのことで避難が遅れて、津波に巻き込まれてしまうかもしれない。

てい(5)もう一つは、「目指す場所」を確認しておくこと。高台のあそこに集まる、とあらかじめ合意が出来ていれば、てんでんばらばらに逃げても、落ち合 うことができる。他人を信頼することと、目的地を共有すること。これが、「てんでんこ」の思想だと森本先生はおっしゃった。

てい(6)「津波てんでんこ」は大災害から身を守る三陸の方々の智恵が詰まった考え方である。身体が弱い方を助けるなどのケースはもちろん例外であるが、てんでんばらばらに逃げた方が助かる人が増えるというのは、数理モデルなどでも確認ができる方法論であろう。

てい(7)さらに、「てんでんこ」の考え方には、私たちの生活全体につながるヒントがあるように思う。特に、今日のようにインターネット、グローバル化と いう「文明の波」が押し寄せている時代には、他人が何かをするのを待っているのではなく、てんでんばらばらに自分でやるのが良いのではないか。

てい(8)変化には、独自の判断で必死に行動する。やるべきことを自分でやる。そんな中で、他の人もまた、自分の判断で対応しているだろうと信頼する。さ らに、最終的に何を目指すのか、「ヴィジョン」を共有する。そんな「てんでんこ」の考え方は、現代人の生き方一般に通じる。

てい(9)状況が変化しているのに、他の人は何をしているのだろうと模様眺めしていては、遅れてしまう。てんでんばらばらにベストを尽くす。そんな生き方が求められている時代なのではないか。今日も一日、精一杯生きよう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月15日木曜日

抗議者は身体の大切さを教えてくれる

こか(1)米国のタイム社恒例の2011年「今年の人物」(Person of the year)に、抗議者(The Protester)が選ばれた。他にはスティーヴ・ジョブズ氏らの名前が挙がったが、もっとも世界に影響を与えた存在として、抗議者が選ばれたのだとい う。

こか(2)タイムの表紙で言及されているのは、「アラブの春」、「ウォール・ストリート占拠」、そして「モスクワ」であるが、日本でも、反原発のデモなど、これまでに参加しなかったような人たちが「抗議者」として注目されるに至った。

こか(3)タイムの記事の中でも触れられていたように、「抗議者」たちが登場した背景が興味深い。もともと、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』の中 で書いたように、かつての資本主義対共産主義のようなイデオロギー対立は終わり、西欧的民主主義が唯一の勝利を収めたように見えていた。

こか(4)「歴史の終わり」を迎えた以上、通りに出て体制に抗議するという「抗議者」の役割も、消滅したように見えていた。しかし、そうではなかった。ア ラブの春や、中国におけるデモは古典的な意味で「民主主義」への移行過程のダイナミクスと見られるが、ウォール街や反原発デモはそれとは異なる。

こか(5)通りの上での「抗議者」たちの物理的存在をもたらした一つの条件は、間違いなく、フェイスブックやツイッターなどのサイバー空間でのつながりであろう。ここで注目されるべきことは、サイバー空間での「活動」だけでは、現実は変化しないという経験則である。

こか(6)日本でも、メディアの記者クラブに対する反発、批判はネット上で広がっている。それでも、記者クラブが撤廃に至らないのは、物理的な存在としての通りでの抗議者の活動が盛り上がっていないからであろう。同じことは、新卒一括採用や、大学入試についても言える。

こか(7)すなわち、フェイスブック、ツイッターといったソーシャル・メディアは、意見や考え、情報を交換する場としてはすぐれているが、最終的に現実的な変化をもたらすものは、依然として通りの上の抗議者という物理的存在であるという経験則が成り立つのである。

こか(8)なぜ、サイバー空間上の「抗議者」ではなく、通りの上の物理的な「抗議者」こそが変化をもたらすのか。インターネットが新しい文明を定義しつつある現在、この問題は、単に社会における活動のあり方という文脈を超えた、普遍的な意味を持つと言えるだろう。

こか(9)ネットだけでは足りない。自分の身体を動かさなくてはならない。そんな真実を教えてくれる「抗議者」の経験則。学校や会社、国といった物理的実 体がネットによって相対化されつつある今、「抗議者」たちは私たち人間の存在について、現代における「へそ」のようなものを教えてくれる。

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2011年12月14日水曜日

やってはいけないと思い込んでいる壁を、突破すること

やと(1)伝説で、本当かどうかわからないが、ラグビーの起こりは、サッカーをやっていた少年が興奮してボールを持って走り出したことだと言う。たとえ事実でないとしても、「脱抑制」のスタートダッシュを表現して、印象的である。

やと(2)人間は、「やってはいけない」と勝手に思っていることがたくさんある。その範囲で自分の行動をついつい制約してしまうのだけれども、実際には、本当はやってもいいのである。その壁を乗りこえたとき、新しい人生が始まる。

やと(3)イギリスにミッチェルという人がいて、ATP合成の化学浸透圧説でノーベル賞をもらった。この人は変わり者で、学会の定説に異を唱え、田舎の一軒家に自分で実験装置をつくって、勝手に実験していた。

やと(4)田森佳秀に聞いた話なのだが、ミッチェルが日本に来て話したときに、日本人の研究者が、「研究費はどうしていたのですか?」と聞いた。ミッチェ ルは、ちょっと恥ずかしそうに、「私は、たまたま財産を持っていたのです」と答えた。その瞬間、田森の脳の中で脱抑制が起こった。

やと(5)何ごともお上が好きな日本人のメンタリティだと、国から科研費をたくさんもらっている研究者が偉いという思い込みがある。ところが、自分の金を使って勝手にやっていいんだ、と思った瞬間、ぱっと解放される。最初から解放されてしまっている国や個人もいる。

やと(6)昨日読んだUSA todayの記事。アメリカではエージェントや出版社を通さないで自分で勝手に電子出版する著者が増え、ベストセラーが次々と誕生。自分で出版するのは vanity publishingだとそのstigma(悪印象)を避けていたのが、「やっちゃえ」となった。

やと(7)本を「ちゃんと」出すには、やはり「ちゃんと」した出版社から、「ちゃんと」出さないと、ダサイ自費出版だと思われる。そんな思い込みから、電 子出版のシステムは著者たちを解放しつつある。まさにビッグ・バン。でも、どれくらいの思い込みが、私たちをまだ縛り付けていることだろう。

やと(8)大学に行かないと学問ができないという「思い込み」もそうで、恐らくは現代では無意味。そもそも日本の大学は、文科省管轄の「学位」の独占企業。国からの設置基準の「お墨付き」をもらっているというだけの話で、現代文明を生き抜く力の実質とは無関係。

やと(9)とにかくやっちまえよ。それが、学生の時に読んで感動したミルトン・フリードマンの『選択の自由』のコア・メッセージ。日本人は、自分たちで規 制していることがたくさんあるよね。法律で禁じられていることじゃないよ。誰も禁じていないのに、勝手に自分たちでできないと思い込んでいる。

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2011年12月13日火曜日

日本八策

日本八策(1)インターネット、グローバル化という「偶有性」の文明の波が押し寄せる時代。福澤諭吉が「適塾」で示したような、寝食を忘れて猛勉強する精 神を復活させる。「知のデフレ化」の逆転。吉田松陰が松下村塾で講じたように、現実の状況に安易に妥協せず理想を貫く「心の整え方」を磨く。

日本八策(2)記者クラブに象徴されるマス・メディアの守旧体勢、独占体制を改め、真のジャーナリズムを醸成するための方策を実現する。メディアを、既得 権益層の自己保身の手段とせず、日本を先に進める改革のためのメディアとする。結局はメディアのためにもなる。自己否定なくして、成長もない。

日本八策(3)役所における悪しき文書主義、形式主義を改め、公務員が実質的な職務にだけ専念できるようにする。民間も「お上頼み」「指示待ち」の風潮を 改める。市場における自由闊達な競争、共創を図るための法的制度、インフラの整備を進める。多様なキャリア形成を妨げる「新卒一括採用」の廃止。

日本八策(4)大学を世界に開かれた、真に高度な学問の切磋琢磨の場に。小中高校における学習を、大学入試への準備の負担から解放する。教科書のデジタル 化、クラウド化は不可避。大学を、ガラパゴスな「クラブ」から進化させ、自立して世界で活躍するクリエイティヴ・クラスの資質醸成の場とする。

日本八策(5)現代における最大の付加価値は、世界規模に展開した情報価値ネットワークから生まれる。モノ重視の「ものづくり」の時代から、ネットワーク と結びついた「ものづくり2.0」へと、日本の産業構造を進化させる。プログラミング能力、システム思考を新たな「読み書きそろばん」に。

日本八策(6)「みんなちがって、みんないい」の精神で、個性を育む。一人ひとりがユニークな属性をもってこそ、共同して事に臨んだ際に「かけ算」でもの ごとを大きくすることができる。みんなが同じになってしまっては、積算が大きくならない。個性がゼロだと、かけてもゼロになる。

日本八策(7)自らの歴史や、文化を引き受ける「プライド」のないところに成長はない。「隣の芝生」が青いからと自らを全否定するのではなく、むしろ、過 去からの継続を身体化し、新たな生命をよみがえらせること。「和魂洋才」の精神を、地球全体に開かれた「和魂球才」へと進化させる。

日本八策(8)「もののあはれ」のような伝統的価値観、里山における自然との共生は、世界に誇るべき日本の文化。マンガやアニメに見られる表象の豊かさ、 「おまかせ」の食文化など、日本の伝統をさらに掘り下げ、発展させること。感性に根ざしたクオリア立国。自らを開いて、世界に贈り物を。

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2011年12月12日月曜日

本が人生を変える

ほじ(1)今朝、トイレに入っているときに、「そういえば、イギリスに留学しているときにLevyのInsanely Greatを読んで、ITとか、コンピュータに関する考え方が一変したんだったなあ」と思った。それから、人生を変えるきっかけになったのは、実際に本が 多かったなと思いだした。

ほじ(2)小学校5年生の時にたまたま図書館で読んだ「赤毛のアン」が、「もう一つの生き方」に眼を開かせた。初めて、日本の文化や生活を相対化する視点を与えてくれたのだろう。外国の文化に対するあこがれ。英語に対する興味。その後のいろいろなことが始まった。

ほじ(3)これも、小学校5年の頃に読んだアインシュタインの伝記で、ぼくは将来科学者になると決めてしまった。相対性理論のような革命的な理論をつくるということが、この世でもっとも深遠で、かっこいいことだと確信してしまったのだ。

ほじ(4)これも小学校の時に読んだ夏目漱石の『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』などなどで、ぼくの中に小説というものの絶対基準が出来てしまった。言葉で一つの架空世界を綴る面白さと難しさは、漱石に教えてもらったといってもよい。

ほじ(5)中学生の時に読んだ小林秀雄、高校の時に読んだニーチェ、カント、ミルトン・フリードマン、マルクスやエンゲルス。いろいろな著者の本が、自分の人生観を変えてくれた。一過性ではない、深いところにおける変化を、これらの本はもたらしたのである。

ほじ(6)脳の研究を始めるきっかけになったのも、一冊の本。大学院生の時に読んだロジャー・ペンローズのEmperor's New Mindで、人間の知性というものの不思議さに痺れた。もっとも、クオリアの問題意識に気付くのは、それから数年後のことになる。

ほじ(7)なぜ、一冊の本が人生を変えるきっかけとなるのか。本は言葉の森であり、脳の意味や志向性のネットワークに近しい。そして、断片的な時間ではなく、じっくりとつきあうことで、主体性の一番コアの部分が、ゆっくりと影響を受け、書きかえられていく。

ほじ(8)だから、ぼくは思うのだ。人は、自分が読んだ本を積み重ねて、その上に立った高さから、世界を見るのだと。たくさんの本を読めば読むほど、それ だけ高いところから、広く遠い世界をながめることができる。変化の触媒として、本ほどの体系性と持続性を持つものはない。

ほじ(9)今、人生で何度目かの濫読期を迎えているのは、変化への胎動を感じているからだろう。もっとも、専らiPad上のKindleで英語の本を。日本の本の世界が電子書籍化に遅れをとる中で、日本の出版業界はすっかり周回遅れになってしまった。

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2011年12月11日日曜日

日本の教育には、ビッグ・バンが必要である

にび(1)昨日も@Poyo_Fなどと話していて思ったのだが、日本の教育の諸悪の根源は大学入試、及び大学教育であろう。入試問題が現代の文明の要請から見て人工的であり、陳腐すぎる。このような現状になっている根幹は、入試が、実質的に「クラブ入会試験」になっている点にある。

にび(2)インターネットやグローバリズムといった偶有性の文明の波が押し寄せる中で、ひとりの自立した人間として役に立つ知識、経験、スキルを身につけ るというのが、教育の本来の目的のはず。ところが、日本の大学入試は、メンバー数の限られた「一流大学」というクラブへの入会試験となっている。

にび(3)入会試験の競争は、人工的に難しくなっていく。そこで得られる知識や経験は、グローバル化した偶有性の文明の中で生きていく上で役に立たない。 自然科学や技術に通じる「理系」の科目はまだしも、細かい人名や年号の知識を前提にする「歴史」の入試科目は、時代錯誤もはななだしい。

にび(4)大学入試が「クラブへの入会試験」である結果、どのようなことが起こるかというと、クラブに入るともう勉強しない。必死さがなくなる。18歳の時点の入試など、知の無限の宇宙から見ればひよっこなのに、それで自分が賢いと勘違いしてしまう。

にび(5)日本の企業の愚行が、「クラブ入会試験」の競争に拍車をかける。事情通に聞いたところでは、日本の企業は18歳の時の入試の学力にしか基本的に興味がないのだという。だから、それなら大学一年から採用しちまえという企業も当然出てくる。

にび(6)クラブへの入会資格を争うのは、後進地域の基本的な属性であろう。結局、明治維新からこの方、日本の文化の「中枢」は、世界の田舎から脱するこ とができなかった。自分たちが中心だと思えば、真の実力でフェアに競うという文化ができるが、周縁だと思うと、クラブ入会ではいおしまいになる。

にび(7)街を歩いていてトキワ荘に偶然でくわしたときは本当に感動したな。日本のシリコンバレーはトキワ荘にあった。社会のエスタブリッシュメントから はばかにされ、でも漫画家たちが夢を競い合った聖地。結局、世界的に通じる文化が生まれたのは、東大ではなくトキワ荘だった。

にび(8)エリートの堕落。日本の問題点はおそらくこれに尽きる。クラブへの入会試験(世界的にみれば大したクラブでもないのに)を通ると、あとは官僚で も大企業でも通じると思っている。甘い。ぬるま湯のクラブ化した日本の大学の解体的出直しをしないと、日本の再生はない。

にび(9)残念なのは、ガラパゴス化した日本の大学をとりあえず目指す以外に、小中校生の選択肢があまりないこと。本当は、大人たちが日本の教育のビッ グ・バンをしてあげなければいけない。しょぼいクラブの入会試験で青春の輝きをくもらせてしまうのは、あまりにももったいない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月10日土曜日

映画はみんなで観るもの

えみ(1)ぼくが21歳のとき、日米学生会議に参加して、アメリカ各地を回った。あれは確かミシガン大学に行ったときだと思うが、アメリカ人がキャンパスを歩きながら、「今日はロッキー・ホラー・ショーがあるんだ!」と興奮しながら話していた。

えみ(2)「なに、それ?」と聞くと、なんでもB級映画なんだけれども、みんなで変装していって、映画を観ながら騒ぐのだという。「へえ、それは面白そうだね」と言ったが、結局観に行かなかった。未だに『ロッキー・ホラー・ショー』は観ていない。

えみ(3)子どもの頃、東映マンガ祭りに行ったり、ゴジラ映画を観にいくと、みんなでわいわい盛り上がるのが本当に楽しかった。あれは南海の決闘だったか。ゴジラが野球をやるばからしいシーンがあって、みんなで「うわあ」と叫んだのが、今でも忘れられぬ。

えみ(4)いつしか時代は流れ、映画はビデオで観るものになった。そうなるとカウチポテトという新しい喜びがあらわれたが、みんな心のどこかで、「いっしょに観て盛り上がる」楽しみのようなものを求めていたのではないか。

えみ(5)先日ニコニコ生放送の公式番組を製作しているセルに行ったとき、今度ニコ生では本格的に映画の配信を始めるのだという。へえ、それはいいな、と 思った。映画を観ながら、弾幕でみんなが盛り上がる。ああだこうだとツッコミながら観たら、映画鑑賞が楽しくなるだろう。

えみ(6)ニコ生でみんなが盛り上がりながら観るのに適した映画というものがあるはずで、B級ホラー映画とか、シベリア超特急とか、丹波哲郎の『大霊界』シリーズ(死んだら驚いた!)とか観ながら弾幕攻撃をしたら、きっと今までにない体験がそこから生まれるだろう。

えみ(7)鍵は「シンクロ」ということ。大勢の人が同時に観ることで、映画鑑賞が新しい次元になる。昨日、『天空の城ラピュタ』の放送時に、「バルス」の 呪文でツイッターのつぶやきの最高記録が出て、サバーが停留したというニュースで、「ああ、これを求めているんだよな」と思った。

えみ(8)ネットのような同時並列の多様なメディアに対して、テレビのようなブロードキャストが生き残る道は、視聴者にシンクロした体験を提供して、「みんなで観た」という感動を与えることだろう。ビデオの個別視聴から「バルス」的シンクロ視聴に回帰する気配を感じる。

えみ(9)熱帯雨林のホタルって、シンクロして光るんだよね。みんなでぱっ、ぱっ、というのは、生命としての本能の一つなのでしょう。今夜起きる皆既月食も、共同体験の一つのきっかけ。ふだんバラバラでも、つながる実感を、私たちはどこかで必要としている。

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2011年12月9日金曜日

国会の職責は、法律をつくることである

こほ(1)時々、「国会議員に出ないのですか?」と聞かれることがある。「全くそんな考えはない」と即座に答える。その任に非ずということが大きいけれども、もっと決定的な理由がある。それは、国会議員の職務に 関することである。

こほ(2)国会の役割は、言うまでもなく「立法府」ということ。ということは、議員の何よりの職責は、法律をつくるということだろう。法案を提出し、吟味 し、さまざまな角度から検討し、考える。それが国会議員というプロフェッションの本質である。そして、私はそれに向いていない。

こほ(3)なぜ向いていないかと言えば、法律は「人間が作ったもの」であり、社会のために大切だとは思うが、自然法則に対するほどの興味を持てないからである。また、法案を審議しようとおもったら、関連する法律など、膨大な量の専門的知識を持たなければならない。

こほ(4)国会議員を「先生」と呼び、選挙に当選することがあたかも「出世」と見るような風潮があるが、国会の本質が立法府だということをどれだけわかっ ているか。現職の議員たちも、「先生」と言われながら、果たしてどれくらい法律について猛勉強して考えているか、どうも疑わしい。

こほ(5)こんな事を書くのも、政権交代以降の自民党のふるまいに対する深い失望が大きい。そもそも野党としての経験は貴重なものであって、政権を担っていてはできない自由な見地からの現状批判や、大胆な政策立案に時間を費やすことができる。

こほ(6)ところが、今日会期末を迎える臨時国会で、一川防衛大臣と山岡国家公安委員長に対する問責決議案を提出するという。可決された大臣が出席する審 議は、拒否するのだという。両氏の資質についてはともかくとして、このような振る舞いが国益にどうつながるのか、私は理解できない。

こほ(7)政治においては、もちろん自党の利益を図るべきである。しかし、それも国益という上位概念に資する限りにおいてであって、単に国会審議を停滞さ せ、社会を前に進めるための法案を通すという議員の職責を忘れたかのようなふるまいは、単なる愚鈍と断じられても仕方がない。

こほ(8)東日本大震災以降の日本は、まったなしの課題が山積。そんな中、ねじれ国会が迅速な法案審議をできず、国益に資さない党利党略を図る場になって いることは、「法律をつくる」という国会議員の職責を忘れた行為だということができるだろう。自民党には、猛省を促したい。

こほ(9)現職の国会議員たちは、なぜ選挙に出たのか。日本をよくしたいと思って出たのではなかったのか。だったら、その思いを実行に移してほしい。日本の心ある人たちにとって、国会はどうでもいい存在になっている。先生と言われていい気になっている場合ではない。

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2011年12月8日木曜日

テレビが終わっているのは、メジャーだからである

てめ(1)日本人が大人しいとかいうけれど、徳川以来のことだろう。その前は下克上だった。その頃の文化が、今でも最高の質を示している。たとえば作者不詳の日月山水図屏風。文化のダイナミクスは、つまり下克上で支えられる。

てめ(2)最初は小さく、無視され、底辺にあるものが、その価値をもって急上昇し、みなに知られるようになる。文化の対流はこのプロセスを通してしか活性化しない。だから、メジャーなものにだけよりそっていては、ダイナミクスが肉体化しない。

てめ(3)良いものがわかる審美眼は大切だが、その結果として、メジャーなものだけを良い、と褒めるようになっては、その人の感性は鈍る。自分で引き受ける、身体性がなくなるからだ。お前はどうなんだよ、という問いかけに対して、下克上の切れ味がなくなってしまう。

てめ(4)テレビが終わっているとはよく言われることだが、その理由は、つまりはすでにメジャーなものばかり扱う傾向があるからだろう。もちろん、無名な ものがスターになる下克上がゼロではないが、メジャーなものばかり取りそろえていると、作る側も受け取る側も下克上が鈍る。

てめ(5)インターネットは、テレビに比べると玉石混交で、誰も知らない本当にマイナーなものから、そこそこに有名なものまで、いろいろなものが揃っている。だからこそ、受けての鑑識がとわれる。それだけではない。マイナーな作り手として、参加することだってできる。

てめ(6)歌番組だって、紅白歌合戦ばかり見ていたら、メジャーの邪気に当たってしまうのであって、無名のバンドの場末のコンサートとか、あるいは自分たちで下手くそな音楽をやってみるとか、そんなことをしていないと、クリエーターとしての感性は絶対に鈍る。

てめ(7)地方にいって、連続テレビ小説や大河ドラマで取り上げられたからとそれで町おこしをやっていると興ざめするのは、そこに下克上がないからだろう。せっかく地方にマイナーな良質のネタがあるのに、メジャーな感性で鈍らせてしまう。結局、何も見ていないのに等しい。

てめ(8)地方は、テレビなどのメジャーなメディアに取り入れられて感性を鈍らせるよりも、何でもありのインターネットで地道に自ら下克上をしかけた方がいい。その方が自分たちの感性が磨き上げられるし、陳腐な結果にもならない。

てめ(9)文化のダイナミクスから言えば、メジャーであることはすでに陳腐であるということである。マイナーな、ほとんど知られていないもの、しかし自分 の感性を揺さぶるものを見つけ、それに寄り添い、下克上を図ること。地方の活性化も、自分の成長も、徳川以前に 戻ることによって。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月7日水曜日

尾道でぼくも考えた

おぼ(1)東京芸大で教えていた頃の学生、津口在五が生まれ古郷の尾道に帰っていて、シネマ尾道で行われる「東京物語」の上演後のトークに誘ってくれた。津口だし、尾道だし、東京物語だし、二つ返事で行くと答えた。

おぼ(2)尾道の「坂道の街」は、今素敵なことになっていて、「空き家プロジェクト」で古い民家を再生し、若者が住み着く動きが出て来ている。象徴的なのは「ネコノテパン工場」で、最初にその姿を見たとき、あまりにもファンタスティックで呼吸が止まるかと思った。

おぼ(3)尾道の「坂道の街」では、AIR(アーティスト・イン・レジデンス)の活動も行われていて、芸術家たちが一定期間住み着いて、作品をつくる。二 つ見たけれども、どちらも素晴らしい出来で、尾道がアートの街として力を持っていくプロセスの目撃者になっているような気がした。

おぼ(4)尾道大学の存在も大きい。経済や美術の学科があり、尾道大学に進学したことがきっかけとなって尾道の街並みや風土が好きになり、そのまま住み着 いてしまったという若者も多い。魅力的な景観と、大学と。一つの街が新たな生命を得る一つのモデルケースが、尾道にあった。

おぼ(5)シネマ尾道で、小津安二郎の『東京物語』を見た。世界の映画人にこよなく愛される神品。幾度となく見ている作品だけれども、ロケ地の尾道で観賞 することには、独特のよろこびがあった。尾道の街は、実にこの作品で、人類の文化史に永遠の足跡を印したと言ってよいだろう。

おぼ(6)『東京物語』の中での、尾道の描かれ方が素敵である。老夫婦が尾道から東京に旅する。子どもたちは、それぞれの仕事に追われて、十分に愛情を示すことができない。「文明の圧迫」の下で、人間として本来大事なことを、忘れてしまっているのだ。

おぼ(7)ただ単に、その人がそこにいるから愛しみ、大切にする。そんな幸せの原理を、「東京」の子どもたちは忘れている。仕事や、勉強や、人間の能力を 量り売りし、取引する「市場原理」の下で、年老いた両親に対する 温かい気持ちを、十分に表現することができないでいる。

おぼ(8)『東京物語』の中の尾道は、夏目漱石も『坊っちゃん』の中で描いた私たちを駆り立て、せわしなくする「文明の圧迫」(その中には大学入試も、新卒一括採用も、TPPも入っている)への対抗原理の場として描かれることで、永遠の生命を得ることになった。

おぼ(9)尾道の街のリズムは、映画にあっている。尾道に旅して、シネマ尾道で映画を観る。そんな旅のスタイルが定着するのではないか。『東京物語』は、 できれば定期的に常に観賞できるようになってほしい。文明の圧迫から離れ、日常生活を見直す大切なきっかけになるはずだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月6日火曜日

のびるやつ、のびないやつ

のの(1)才能とはなんだろうか。性格的要素も大きいと思う。のびる人と、のびない人がいる。それは、一つの態度である。のびない人は、自分自身の態度で、のびないのだということに気付かない。もったいない。それは、人生の一つの悲劇である。

のの(2)話していると、なんとはなしに、この人はのびるか、のびないかということがわかる。わかいやつでのびるのは、とにかく背伸びしているうやつであ る。好奇心に満ちて、自分がまだよくわからないことでも、世界のいろいろなことに届こうとしている。つま先立ちのやつはのびる。

のの(3)一方、のびないやつは、自分語りを延々と続けたりする。なにか問題点を指摘すると、防護的になるやつものびない。客観的にみて、こんな穴がある じゃないか、というときに、はっと考え込むようなやつは伸びる。「それはこうで・・」と即座に誤魔化そうとするやつはのびない。

のの(4)人のせいにするやつはのびない。「世間って、こうじゃないですか」としたり顔でいうやつは、まずのびない。したり顔は一般にのびない。世間の常識がどうであれ、あれ、そうでしたっけ、というような涼しい顔をしているやつは、ときどき驚くほどぐーんと伸びる。

のの(5)一般に、ノーガードなやつは伸びる。ボディブローを何発打ち込まれても、それでも無防備で平気で打たれている。猜疑心の強いやつ、がちがちに防御しているやつはのびない。むしろ、打つんなら打ってみろとばかり、パンチをぶんぶんふりまわしてくるやつはのびる。

のの(6)自分がいかにダメか、至らないかという認識を、くそう、と反撃へのバネにできるやつはのびる。一方、だから無駄なんだとぐずぐず潜っていくやつ は、のびない。潜ること自体を美学にするやつもいる。そこで花が咲くこともあるけれども、ただ泥沼になってしまうこともままある。

のの(7)他人の助けを安易に借りるやつはのびない。一方、他人の美質を素直に認め、抱擁するやつはのびる。一般に、自己顕示欲の強いやつは案外伸びな い。自分のことばかりで、他人が視野に入っていないからだ。クリエーターにはナルシストが多いが、それぞれの器で作品をつくる。

のの(8)共感の振れ幅が大きいやつはのびる。ぐーんと自分の感覚が広がって、しかるに自分の身体へと帰っていくことができるやつ。振れても、いっちゃっ たままで、自分に戻ってこれないと伸びない。ものを知らないやつは伸びない。もっとも、それに気付いたとき、超新星爆発するやつもいる。

のの(9)人生の目的は自己実現であろう。私たち一人ひとりの中に、のばされるべき可能性の核がある。自己弁護や、自己正当化、自己欺瞞、見栄、虚栄、そ んなものでじゃましてちゃもったいないよね。若い時は、ダメな 性質が極端にでがちなものだから、特に注意せねばならない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月5日月曜日

赤毛のアン症候群。自分が一番イヤだと思っている特徴が、実はチャームポイントになることがある

あじ(1)『赤毛のアン』(Anne of Green Gables)を小学校のときに読んで好きになり、高校では英語で全部読んだ。プリンスエドワード島にも行った。というような過去をカミングアウトしたの は数年前のことであるが、この小説にはいろいろ面白いところがある。

あじ(2)名作というのはなんでもそうで、あとで「はっ」と気付くことがたくさんある。ずっとあとになって「なるほどな」と思ったのが、アンの赤毛。本人 はこれがイヤで仕方がない。自分の人生の、致命的な欠点だと思っている。赤毛であるかぎり、完璧な世の中などないとさえ。

あじ(3)ところが、周囲から見ると、そうでもない。むしろ、赤毛はアンの魅力でもある。自分から見るとイヤで仕方がない自分の特徴が、他人から見れば魅力的なポイントであること。このギャップを、「赤毛のアン症候群」と名付けよう。

あじ(4)後にアンと結婚することになるギルバートも、ひと目見てアンを素敵だと思ったのである。男の子が好きな女の子に対してよくやるように、ギルバー トも、その魅力的な特徴であるアンの赤い髪の毛をひっぱったのであるが、これが、数年間にわたる「冷戦」を引き起こすきっかけとなった。

あじ(5)アンからすれば、自分という存在の最大にして拭いがたい欠点である「赤毛」を、ギルバートにからかわれたと思ったのである。たしかに、ギルバートは引っ張りながら「ニンジン!」と言ったのであるが、それは、 単なるたとえにすぎなかったのである。

あじ(6)他人から見ればそれほどイヤではなく、むしろ魅力的な特徴なのに、本人がそれを気にして、隠したい、穴があったら入りたいと思っている。これは、アン・シャーリーだけでなく、さまざまな人に当てはまりそうだ。

あじ(7)私の場合でいえば、くせ毛。絶対に夜は洗わない。翌日、ぴょんぴょんしてしまうからだ。小学校の頃、髪の毛が飛び跳ねていやでたまらなかった。さらさらヘアの伊草孝志とかが、うらやましくて仕方がなかった。

あじ(8)そのもじゃもじゃの髪が、そのうち、そんなに悪くもないんだと思えてきたのは、思春期も最後の方になってからだった。もじゃもじゃの髪という自分の「特徴」を、最大の欠点と思っていた自分から開放されたのである。

あじ(9)「赤毛のアン症候群」は、思春期において特に顕著に表れるのかもしれないが、何歳になっても無縁ではないだろう。国全体としても。たとえば、日本人。自分たちが恥ずかしくて隠したいと思いがちな日本文化の特徴が、外国から見れば実は一番魅力的なのである。

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2011年12月4日日曜日

『巨人の星』に見られるように、「道」は日本人にとって空気のように自然なことであった

きみ(1)私が子どもの頃に大いに影響を受けた作品の一つに、アニメ『巨人の星』がある。土曜の19時から日本テレビで。ちょうど小学校に上がる頃に放映されていた。父がいると、「七時のニュース」に換えられてしまうので、悲しかった。

きみ(2)なぜ『巨人の星』に惹き付けられたのかと言えば、「自分を乗りこえていく」その克己の精神に共鳴したのではないかと思う。今の自分の限界を超えて、新しい自分になる。そのプロセスで凄まじいまでの努力をする。その感覚が、6歳くらいの私に、ちょうどはまった。

きみ(3)星飛雄馬は、大リーグボール養成ギブスをつけて剛速球投手になる。しかし、欠点があった。体重が小さいため、球質が軽いのだ。ピッチャーとして致命的な欠陥。野球選手としての生命が危うくなるが、ここであきらめるような飛雄馬ではない。

きみ(4)飛雄馬は、禅寺にこもって座禅する。何度も打たれてしまう。老師に、「打たれまいと思うから打たれる。打たれてもかまわない、いや一歩進んで打ってもらおう。そう思って開き直った時に道が開ける」と諭される。

きみ(5)老師の言葉がヒントとなって、相手のバットめがけて球を投げる魔球、大リーグボール1号ができあがる。荒唐無稽なフィクションだけれども、子どもの頃、本当にできると思って仲間たちと練習した。オレたちはそのとき本気だった。

きみ(6)『巨人の星』は、スポーツを、自己鍛錬の「道」としてとらえる。今の自分の限界を見つめ、それを乗りこえようとすること。『アタックナンバー 1』でも、『エースをねらえ』でも、『キャプテン翼』でも、日本人にとってはスポーツが「道」であることは、ごく自然な感覚である。

きみ(7)だから、以前ロサンジェルズタイムズの記者に真顔で聞かれて驚いた。「日本人は、なぜ野球選手に人生哲学を聞こうと思うのか? アメリカでは、彼らはアスリートでエンターティナーではあるけど、その哲学を聞こうとは思わない」と言われたのだ。

きみ(8)今の自分を乗りこえて、それを克服していこうという態度。それが、スポーツにおいてごく自然に結びつくのは、日本人が特に強く持っている一つの文化的態度であり、それが空気のように自然なので、私たちはその価値をふだんは忘れてしまっている。

きみ(9)スティーヴ・ジョブズが禅宗の僧侶に「心を整える」ことを教えられて活かしたように、最近ではむしろ国外から日本の「道」の伝統の良さを教わる ことも増えてきた。ネット上で、他人を揶揄、批判して低コストの満足を得る人が増えてきているのを見ると、日本の「道」もどうやら危うい。

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2011年12月3日土曜日

システムは揺るがず、反逆は青ざめる

しは(1)名古屋から帰ってくる新幹線の車内で、まずはみそかつえびふりゃー弁当をたべ、それから新潮社の金寿喚さんとよしなしごとを話ながら帰ってきた。東京まで約90分。いろいろ話すことがあったので、あっという間についた。

しは(2)新書の企画のことなど、いろいろなことを話す中で、「システム」の話になった。何かまだ名付けられていないものがある。さまざまなできごとが あっても、あっという間に吸収され、陳腐化し、忘れられてしまう。「システム」に対する態度をどうするかが、私たちの課題になる。

しは(3)Googleは一つのシステムである。梅田望夫さんが指摘されたように、私たちがいろいろな活動をする中で、googleは次第に賢くなっていく。すべては検索の空間の中で消費され、連絡され、そして私たちはそこにぶらさがるノードになる。

しは(4)資本主義も、一つの強固なシステムである。社会主義的な考えかたさえ、自分の中に取り入れてより強固なものとした。環境思想など、資本主義に対する挑戦として表れた動きは、やがて回収、吸収されて資本主義を増強する結果となる。

しは(5)しかし、私たちを取り囲んでいる「システム」は、資本主義や「google」をその中に含むが、より包括的で強固な、未だ名付けられていないものなのではないか。それは個々の国家さえも超えて、一つの分かちがたい存在を、この地球上に現出させている。

しは(6)ウィキリークスが登場したとき、国家というものの存在が揺らぐように感じられた。ノーベル平和賞の権威を中国が拒否した時、価値の体系を無視し て動く主体の登場を見た。アラブの春が、新時代の到来を告げた。しかし、これらの全ての動きも、やがて「システム」に回収される。

しは(7)フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を書いたが、今、世界は確かに一つの「終わり」を迎えている。主権国家も、「システム」の一構成要素で しかない。アメリカやロシアの大統領が「権力者」であると言い方は、茶番のようにさえ見える。彼らもまた、システムにぶら下がるか弱き子羊。

しは(8)核保有国の指導者たちは、理論的にはボタン一つで全面核戦争を起こす力を持つが、そのような状況が継続していることと、彼らが一市民と何ら変わ らない、システムにぶらさがる脆弱な人間であることの間で、喜劇が演じられている。大国の大統領だって、翻弄される木の葉に過ぎぬ。

しは(9)システムへの反逆は、若者の特権だったが、資本主義の打倒やインターネットへの反対運動が無効であること以上に、反逆が意味を持たないシステム が、世界を覆いつつある。その正体が何なのか、まだ誰も名前をつけていない。それはグローバル化の必然的帰結なのだろう。

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2011年12月2日金曜日

それぞれのみじめさを持ち寄ったら、自分のみじめさを持ち帰りたくなる

そじ(1)日本の国には、さまざまな問題点がある。新卒一括採用。インターネット、グローバル化の時代にそぐわない大学入試。日本をよくするために、これらの課題に取り組むことは大切なこととして、世界の中で、日本だけがみじめなのかと言えば、そんなことはない。

そじ(2)心理的な遠近感というものがあり、遠くのものは、良い部分がよく見える。自分自身のことは、悪いところがよく見える。公平に見て、日本が抱えているみじめさは、アメリカやイギリス、中国が抱えているさほど 変わらないだろう。大切なのは、行き交うことなのだ。

そじ(3)アメリカ人と話していると、ワシントンの連邦政府に対して、日本の霞ヶ関と同じくらい激烈に批判するし、教育システムについても、日本の文科省と同じくらいにサイテーだと言う。自分の国のことは、いろいろとアラが目立つのだ。

そじ(4)イギリス人と話していると、イギリスの社会がいかに腐敗して、ダメになっているかとよく話す。「日本人はとりわけ自虐的」だというのは全くの俗 説で、どの国でも心ある人たちは現状を嘆き、憤慨している。ただ、遠近法の中で、そのようなマイナスの要素は消えていってしまうのだ。

そじ(5)交易という視点から見れば、ダメなところを交換しても仕方がない。だからこそ、遠くの人の良いところを、見つけようとする。結果として、うちに 籠もった忿怒のエネルギーは抜けていってしまう。隣りの芝生が青く見えるのは、グローバルな交換経済のいわば宿命である。

そじ(6)日本の国のよいところも、遠近法で外に出ると初めてわかる。人の営みと自然が調和した「里山」の景観や、「おまかせ」という料理の提供の仕方、さまざまなクオリアに対する感受性など、外から遠くから見て、はじめてわかる日本の良さがある。

そじ(7)大切なのは、遠近法である。そして、内側からの視点ではなく、「遠く」から見てなおも残り、際だつ問題点こそが、その国の本当の課題である。私は、「新卒一括採用」や「大学入試」の問題は、遠くから見てもなおも目立つ日本の問題点だと、一貫して考えている。

そじ(8)ところで、私たちが、それぞれのみじめさを持ち寄ったとしたらどうだろう。イギリス人はイギリスの、アメリカ人はアメリカの、日本人は日本の社 会のみじめさを持ち寄る。お互いに見比べて、さて、交換しますかと言われたら、私たちは、むしろ自分たちのみじめさを持ち帰るのではないか。

そじ(9)他の国のみじめさには、自分たちの身体や歴史が反映されていない。日本のみじめさには、私たちの大切な文化や履歴が映し出される。だからこそ、 私たちは、自分たちのみじめさを抱きしめる。大切に持って帰る。どんなにみじめでも、それが私たち。自分たちでなんとかするしかない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年12月1日木曜日

新卒一括採用に対して宣戦布告

しせ(1)12月1日、先端技術が行き渡り、魅力的な文化を持ち世界から注目されるクールな国で、世界でも類を見ない奇妙な風習が始まる。判で押したよう な服装の学生たちが、神妙な顔で電車に乗っている。パソコンの前では、「エントリーシート」という謎の書類に取り組む若者がちが。

しせ(2)日本の「新卒一括採用」は、経済合理性がないだけでなく、多様な人材を育むという経済のイノベーションの原理にも反し、非典型的なキャリアの人に対から就業の機会を奪う、違法の疑いが極めて濃厚な、恥ずべき愚行である。

しせ(3)コンプライアンスという視点から見ても大いに疑問がある新卒一括採用という抑圧のシステムに乗って利益を上げるコンサルタントや、関連企業がある。CSRの観点からは、非典型的なキャリアの方に就業機会を与える活動に、一定のリソースを振り向けるべきだ。

しせ(4)3年の途中から始まる「新卒一括採用」は、そもそも大学で行われる専門教育を軽んじている。就活の片手間に出来るほど、学問というものは甘いものではない。大学における教育、研究に多少なりともかかわる人間として、新卒一括採用という愚行は看過できない。

しせ(5)新卒一括採用は、企業経営という視点から見て、合理性を根本的に欠いている。ジョブズが言う「点」と「点」を結ぶような人材は、むしろ、卒業後諸外国を見てきたり、さまざまな経験をしてきた人から生まれる。羊の群れのように従順に進んでいく人ばかり集めて、どうするというのだろう。

しせ(6)新卒一括採用のせいで、大学の学生たちは極端な抑圧の空気の中にある。いちばん学問をしたい時にできない。見聞を広めようとしても、就職に不利だからとあきらめる。そのことによる機会費用、見逃されたチャンスは膨大であり、国益に深刻な損害を与えている。

しせ(7)雨宮さんに聞いたのだけど、就活打倒デモをしていると、「デモをするくらいなら就活しろ」とヤジが飛んでくるのだという。学生は「就活するくらいならデモをしろ」と言い返したそうだ。その通り。時代遅れの就活に付き合っていたら、日本の社会的イノベーションは停滞してしまう。

しせ(8)日本が、インターネット、グローバル化という文明の波に適応できていないことは誰もが見る通り。ガラパゴス化を深刻にする新卒一括採用を続けて、国を滅ぼしたいのだろうか。多様な人材が、さまざまなキャリア パスを通れるようにして、初めて日本は復活への道をたどることができる。

しせ(9)結論。新卒一括採用は、大学での学問をないがしろにし、若者を抑圧するだけでなく、日本の国益を本質的に損なう。ここに、関係者の良識に訴えかけるとともに、新卒一括採用の打破に向けて、「宣戦布告」をするものである。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月30日水曜日

本音にその人の無意識が表れるんだから、教養を身につけて耕さなくては人生もったいない

ほき(1)「オフレコ」発言というのは、その人の本音が表れるのだろう。特に、酒の席でのことは、その人がふだん抑圧しているけれども、無意識の中で考えていることが出やすい。だからこそ、おたがいの人間性を知るために、私たちは酒席をともにすることをたのしみにする。

ほき(2)昨日報道された田中聡沖縄防衛局長の酒の席での「発言」も、本音、無意識の思考の構造が出たものと思われる。あまりにも陳腐でお粗末。更迭されるのは当然だとしても、公務員のトップがこの程度の無意識しか耕せていないという事実に、愕然とする。

ほき(3)本音や無意識は、その人がどれくらい豊かな精神生活を送ってきたか、何を経験して、何を見て、考え、行動してきたかということによって耕され る。酒の席での本音は、いわばその人の人生の通知表。その発言が愚劣なものだったら、教養不足な人生と断じられても仕方がない。

ほき(4)ぼくは沖縄に行くと必ず斎場御獄に行く。世界遺産に登録されたかけがえのない聖地。最初に訪れたとき、何も人工的な設いを施さず、自然の織りなす岩と緑の景観が人間の精神に深い感化をもたらすことに衝撃を受けた。一番奥の三庫理からは、久高島が遙拝できる。

ほき(5)この斎場御獄の中に、小さな丸い池がある。沖縄戦の際に、アメリカ軍の砲弾を受けてできたくぼみに水がたまったのだという。戦争の傷跡さえ、そのままやわらかく受け入れてしまうような聖なる抱擁が、斎場御獄にはある。その前に立つと、沖縄の歴史に思いを馳せる。

ほき(6)斎場御獄は一つの例だが、沖縄に赴任する以上、その歴史や文化を学ぶということは公務員としてのいわば職務上の義務であろう。もし、その義務を 果たしていたら、今回のような愚劣な発言はあり得なかった。まことに失礼な言い方になるが、決定的な教養不足だと断ぜざるを得ない。

ほき(7)もし、酒の席での本音の発言が、「いや、私も、沖縄の人たちの思いや、苦しみもわかっています。しかしね、国というものは、時に難しい選択をす る必要がある時もある。そこをね、話し合ってね、お互いの理解を深めていきたい」というものだったら、どんなにか良かったろう。

ほき(8)防衛省だけの問題ではない。霞ヶ関に入ると、それぞれの「村」の雰囲気にどっぷりつかる。世界のさまざまな事象について、教養を深める機会を失 う。だから、つまらない人間が出来上がる。つまらないだけでない。大切なことに対する共感能力が欠ける。トップとしての資質がない。

ほき(9)振り返ってみると、ぼくが尊敬し、大切にする人たちは、みな無意識が美しい人だな。酒を飲んで出る本音が美しい。酒を飲んで出る本音が愚劣でつまらない人は、ああ自分は教養や経験が足りない、共感の振れ幅が 狭いんだと、大いに反省すべきだと思うよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月29日火曜日

その人がどれくらい感じ、考え、行動したかの総体が、言葉に表れると信じる

そこ(1)昨日、APU(立命館アジア太平洋大学)のやつらと話していて、その「生一本」という店での歓談の最中に、ああっ、本当にそうだなあ、と思っ た、一つひとつの言葉には、その人が、そのことについて人生の中でどれほどのことを思い、考え、感じてきたかの体重が乗っている。

そこ(2)たとえば、恋愛のことを話すにしても、あるいはベーシック・インカムのような社会的概念について語るにしても、それぞれの人に経験の総体のようなものがあって、その土が育む不思議な植物の花の匂いを、ぼくたちは確実に嗅ぎ分けている。

そこ(3)だからこそ、ふだんからいろいろ考えたり、感じたり、自ら動いてぶつかってみたり、人の心を測ってみたり、たくさんの先人の言葉に接したり、それを表現したり、そんなことをしてみるのが大切なんだなと思う。

そこ(4)立川談志師匠がなくなったことをきっかけに、追悼番組や過去のドキュメンタリーを見た。師匠がずっと追い求めていた「人間の業の肯定」としての 落語。これもまた、たとえば芝浜を演ずるに当たって、一つひとつの言葉の背景にある人間の経験の総体について、思いをめぐらせる営みだった。

そこ(5)落語家が、経験を積み上げ、いろいろなことを感じ、動かされ、沈み、包まれるうちに、次第に芸を磨いていくように、私たち一人ひとりの言葉の放つ光も、どれくらい格闘したか、一生懸命考え、感じたかということにかかっている。

そこ(6)たとえば、「時間」一つとっても、少し前の「未来」があっという間に「現在」になり、それが手の届かない「過去」となってやがてはうすぼんやり していくという現象学的驚異にどれくらい向き合って考え感じているかで、その人の言葉の深さというのは変わっていくのではないか。

そこ(7)ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という言葉を引用する人は多い。しかし、どれくらい真摯に響くかは、 「論理哲学論考」に向かった時間の長さ(そもそも読んだことがあるか!?)や、同じ問題についてその人が考え抜いたその時間に比例する。

そこ(8)言葉というものは、フェアなものだと思う。だから、私たちは、他人の話を聞くことを好む。耳を傾けることで、その人の精神生活の履歴が推し量れるから。会話をしていて飽きないのは当たり前だ。なぜって、それは、一つの秘められて宇宙との遭遇だから。

そこ(9)そして、他人との会話という外的言語を充実させるためには、自分が自分自身と向き合っている時の内的言語が豊饒でなければならないとつくづく思う。だから、自分のうちに籠もって、ぶつぶつと消化、分解しているキノコのような時間よ、祝福されよ!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月28日月曜日

ねじれにはそれなりの効用もあるが、改革や行動には脱ねじれが必要である

ねか(1)大阪府知事、大阪市長のダブル選挙で、それぞれ大阪維新の会の松井一郎氏、橋下徹氏が当選した。このことについて、大阪都構想や教育基本条例などの具体的な政策の是非から離れて、思うことがある。

ねか(2)それは、政治における「ねじれ」の意味である。周知のように、国政はここしばらく衆議院と参議院で多数派が異なる「ねじれ」の現象が続いている。もともと、二院制は異なる視点からのチェック&バランスを 目的としており、多数波が両院で異なることには、それなりの意味がある。

ねか(3)一方で、「ねじれ」は、改革を進めたり、政策を実行したりする際には、足かせになる。とりわけ、時代の変化が大きい場合には、ねじれが続くことは、国益を損する場合がある。ねじれ状態だと、どうしても現状維持となってしまい、変わらないこと自体がリスクになりかねないのだ。

ねか(4)国政がねじれ状態になりやすいのは、衆議院選挙と参議院選挙がサンプルする民意の時点が異なるからである。異なる時点での民意を選挙結果に反映させることは、結果として国政の多様性に資するが、アメリカの中間選挙がそうであるように、ねじれの足かせにもなる。

ねか(5)異なる時点でのサンプリングに基づく「ねじれ」を避けるためには、衆参ダブル選挙が有効である。次回の国政選挙を、2013年の衆参ダブル選挙とすることが可能ならば、それはねじれ解消へと資する可能性が高いことになる。

ねか(6)以上のような意味で、橋下徹氏の、大阪市長、大阪府知事のダブル選挙に持ち込んだ手法は、政策決定、実行のプロセスにおける「ねじれ」を解消するという意味では、きわめて有効であった。ただ、 大阪市議会では、「維新の会」が過半数に達しておらず、その「ねじれ」がリスク要因である。

ねか(7)ところで、政治を離れても、一人の人生の中にも「ねじれ」はある。生きるということが、複数の、時には両立せずリソースを食い合う目標、志向性によって導かれていることがあるのだ。その結果、人生は 複雑で豊かなものになるかもしれないが、結果として現状維持にもなりやすい。

ねか(8)私たちは一つの時には一つの行動しかできず、だからこそ脳内にも「winner take all」の選択機構がある。今回の選挙でも、大阪維新の会に反対する民意は一定程度あったが、過半数の民意が首長の選択につながるのは、つまり行動というのはそういうものだからだ。

ねか(9)ねじれている間の、だらだらと現状維持をする中でああでもない、こうでもないというモードも良いが、時には目標を決めてさくさくと行動するモードも必要である。政治も人生も、ねじれ、脱ねじれそれぞれの効用を見きわめなければならないだろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月26日土曜日

毛づくろいの制約をどう乗りこえるかが、ソーシャル・ネットーワーク・サービスにおける最大の技術的課題である

けそ(1)英国のダンバーは、1993年に、BBSに論文を書いて、人間の社会的グループの数について、「ダンバー数」の仮説を提出した。サルの大脳新皮 質が脳の他の領域に対して持つ割合と、群れの構成員数の間の相関を示し、そこから外挿して、人間の場合は約150人だと結論した。

けそ(2)サルたちは、群れのメンバーどうしで「毛づくろい」をする。ちょっと痛いのだけれども、それでエンドルフィンが出て快感を得る。「毛づくろい」を通して、同じグループの仲間としての「団結心」が生まれる。

けそ(3)問題は、群れの中のメンバー数が増えるにつれて、毛づくろいをしている時間の割合も増えることである。群れのメンバーたちと、もれなく毛づくろいをしようと思ったら、生活時間のほとんどを毛づくろいで過ごさなければならないということになる。

けそ(4)人間の場合、会話が毛づくろいの代わりになっている。大学生を対象とする調査によれば、政治や文化、学問などの「実質的なテーマ」について話し ている時間よりも、人間関係のゴシップや自分自身の体験について話している時間が多い。雑多に話すことで、仲間であることを確認する。

けそ(5)なぜ、大脳新皮質の大きさで仲間の数が制約されるのか。毛づくろい/会話に要する物理的時間の制約に加えて、さまざまな計算資源が関係している のだろう。その人との結びつきの記憶を、どれくらい保持できるか。社会性に伴う複雑な計算を、どれくらいこなしていけるか。

けそ(6)「社会性にともなう複雑な計算」とは、たとえば、この話は彼は知っているけど彼女は知らない、だからあの人には言っていいけど、この人にはダメ、といった類の判断である。集団の数が増えるほど、計算の量と複雑さも増大する。

けそ(7)結局、人間の場合も、どれくらい継続的に、「毛づくろい」ができるかということで、集団の数が決まっているのだろう。クリスマスカードや年賀状 を出すというのも一つの「毛づくろい」の行為であり、ダンバーたちの研究によれば、ほぼ予言される150程度のグループ規模になる。

けそ(8)ここで問題になるのが、「ソーシャル・ネットワーク・サービス」(SNS)である。SNSでつながっている人の数が増えるにつれて、「毛づくろい」は困難になり、つながっていること自体が苦痛となる。この 「ダンバー数の壁」をどう乗りこえるかが、SNSの最大の課題だろう。

けそ(9)私がツイッターを好む理由は、「毛づくろい」に基づくつながりとは関係なく、「ミーム」(文化的遺伝子)が接着剤となったコメント、やりとりが できるからだろう。ツイッターには毛づくろいが必要ない。SNSにそれが必要なのだとしたら、技術革新がないと、スケールアップできない。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月25日金曜日

白や黒ではなく、灰色の中でこそ自ら生きよう

ひは(1)日本の教育についての論点の一つに、英語力の問題がある。中学、高校、大学とあれだけ時間をかけてやっているのに、なぜ英語力が付かないのか。日本語を介在させる「翻訳」文化が問題の根源だという指摘がある。

ひは(2)大学教育も、日本語で行われている。その結果、世界の学生たちとの交流や、教員の構成において、大きなハンディキャップを持つ。そのことが、日本の大学が「ガラパゴス化」する根本原因であり、特に文化系がそうだという指摘は根強い。

ひは(3)ひるがえって、教育を英語で行っている国は多い。しかし、それで万歳かというと、すぐにわかるように、そのような国では母語による学問がボキャ ブラリーあるいは概念の面から難しいことも多い。だから、日本語で教育ができることは、日本にとって一つのメリットでもある。

ひは(4)およそ人間が直面する問題は、選択肢のうちどれを選ぶかで、必ずと言っていいほど「トレードオフ」の関係がある。教育で用いる言語をどうする か、というのも同じ。英語で学ぶというのは、良い点もあれば、悪い点もある。その「グレーゾーン」を踏まえて、どうするかを決断する。

ひは(5)第三者の視点からの「批評」と、第一人称の「決断」が異なるのは、まさにこの点。批評は、トレードオフのうち、片方の視点を拡大し、取りだして 極論をしても成り立つ。一方、自分のこととして決断する時には、グレーゾーンのあわいの中で、えいやっと選び取らなければならない。

ひは(6)TPPの問題にしても、参加したらいいことも悪いこともあるに決まっている。そのグレーゾーンのあわいのなかで、決断するというのが政治的プロ セスの本質である。一方、評論家たちは白か黒かどっちかを立てて議論すればいいのだから、単純である意味では気楽である。

ひは(7)参加したら、こういう良いことと悪いことがある。参加しなかったら、こういう良いことと悪いことがある。そんなグレーゾーンの中での決断を、日 本の秀才たちはあまり鍛えてこなかった。賛成にしろ、反対にしろ、TPPの問題で声高に論じている人たちは、 単純な批判者であることが多い。

ひは(8)ツイッター上で、ものごとの一面をとらえて、白か黒かを言い立てる人たち(黒と言う人が多いが)は、そのことで、グレーゾーンのあわいで自らの 身体で引き受けて決断する、重要な学習機会を逸失している。第三者的視点から単純化することは、自分が生きることに資することはない。

ひは(9)自分の日常を見つめてみれば、進学や就職といった大きな決断から、ひるめしは何にするかという小さな決断まで、グレーゾーンこそが生きることだと気付くはずだ。白か黒かで安心している人は、それだけ自分自身が生きることから遠ざかる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月24日木曜日

インターネットが、地上の風景を変えていく

いち(1)九州新幹線で博多から久留米に移動し、そこから鹿児島本線に乗った。二両編成のワンマンカー。とことこ走るうちに、目的地の西牟田駅に着いた。近くに、集英社の取材でお世話になる旅館「ふかぼり邸」がある。

いち(2)大した距離じゃないから歩こうともともと思っていたが、駅前の様子に呆然とした。何にもない。最初からは乗ろうと思っていなかったが、タクシー 一台ない。これから歩くからトイレに行って置こう、と思って駅前のに行ったら、すぐ後から地元の兄ちゃんがきて、となりに立った。

いち(3)男子トイレでとなりに立たれると、なんとなくやりにくい。しかも、二つしかなくて、距離が近いので、密着感がつよい。にいちゃんきちゃったな、困ったな、緊張するなと思いながら、なるべく別の方を見るようにしてなんとか済ませた。

いち(4)にいちゃんたちは二人連れで、なんとはなしにちんたらした雰囲気をかもし出している。ちんたらと自転車に乗って、ちんたらと二人乗りでふらふら 走り出した。ときどきこっちを振り返っているので、ぼくはiPhoneの画面を見るふりをしながら、ぱっぱっぱと歩いていった。

いち(5)ぼくが歩いていったのは、三潴という地区。本当に静かだった。車も通らない。周囲に溜池がたくさんあって、江戸時代に飢饉を避けるために工夫されて、築造されたのだという。本当にのんびりした、すてきな場所。歩いていくうちに、どんどん周囲になじんでいった。

いち(6)さっきのにいちゃんたちは、昔からいる、典型的な「田舎」の青年たち。都会と違って、田舎は刺激が少なくて、退屈して時間を持てあます、というイメージ。ところが、三潴のきれいな風景の中を歩いているとき、ぼくは突然、待てよそれは違う! と気付いた。

いち(7)今や、インターネットがある。ネットは、世界につながっている。TEDのトークにも、ツイッターにも、最先端の学術論文のpdfにも、 youtubeにも、Economistのサイトにもつながっている。どんな田舎でも、本当は世界のぐるぐると、渦とつながっている。

いち(8)ぼくが、この三潴地区に住んでいたとしたらどうだろう。想像してみた。家で、ネットでばーっと情報を収集する。駆け抜ける。時折、この美しい風 景の中を歩く。考えをまとめる。十分やっていけると思った。もう、田舎と都会の情報格差とか、雰囲気の違いとか、すべては 幻想である。

いち(9)もっとも、変化はゆっくりと起こる。情報の浸透は、やがて非線形の不可逆変化を起こす。どんな田舎でも、インターネットさえ来ていれば、世界と 直結している時代。そのことが、地上の風景を確実に変えていく。私は、大いなる希望を持つだろう。変化の断層は、必ず接続される。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月23日水曜日

ベンチャーを起こすこと自体よりも、ブツをつくることが大切だと肝に銘じておこう

べぶ(1)昨日、波頭亮さんと対談していて、「これからの日本は明るい」と言った。新卒一括採用とか、くだらないことを続けている「本体」とは無関係に、 「オレたちは勝手にやるぜ」というやつらが増えてきているように手応えがあるからだ。就活をしない学生たちが、日本の希望である。

べぶ(2)起業する、というやつらも増えてきた。起業のコストは、インターネットなどの環境整備によって格段に下がっている。波頭さんも言っていたように、「一生懸命やれば、なんとか食っていける」くらいにはなっていると思う。

べぶ(3)ところで、起業する、という若者たちの意気は良いとして、考えておくべきことがある。一つは、対象の商品やサービスについて、徹底的に考えて作り込むこと。そのことについては、世間の誰よりも、自分が考え抜いているというくらいの情熱を持ってのぞむこと。

べぶ(4)案外うかつなやつも多くて、最近も、こんなウェブサイトを作った、とザッカーバーク気取りでいるから、聞くと、人力に頼っていて、スケーラビリ ティがない。「お前、それ、ユーザーが増えたら破綻するじゃん」というと、「あっ!」とか初めて気付いたような顔をしている。

べぶ(5)スケールアップできない労働集約的な仕事を「起業」と勘違いしているやつは多くて、それでは実際には便利屋になってしまっている。それはそれで一つの生き方だけど、ネットの特徴である不特定多数が利用するという設計が、そもそもできていないことも多い。

べぶ(6)起業したい、という意欲はいいし、おっちょこちょいで何かをやってしまうということは必ずしも悪いことではないけれども、せっかくやるんだったらもう少し考えろよと言いたくなるケースが多いのである。

べぶ(7)思うことがある。ジョブズとウォズニアックがアップルを創業した時には、何よりも「Apple I」という「ブツ」があった。当時としては画期的なパーソナル・コンピュータ。まだ未熟で、荒削りでも、人々が求める具体的な商品が、そこにはあった。

べぶ(8)「オレ、起業しますよ」とか、「ビッグになりますよ」とか夢を持つのはいいけれども、起業すること自体は実は難しくなくて、大切なのは、「ブ ツ」をつくること。だから、起業にこだわらずに、ふだんから 商品やサービスの「ものづくり」に没頭していた方が、実は成功に近い。

べぶ(9)多くの人が求める、魅力的な商品、サービスができたら、起業など簡単。お金も人も集められる。本当に難しいのは、起業すること自体ではなく、画期的な「ブツ」をつくることなのだと頭を整理しておこう。就活をしない君たちへの、ぼくからのはなむけの言葉です!

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2011年11月22日火曜日

テレビのダイナミック・レンジが狭いことは、日本人の建て前主義を反映している

てに(1)通販生活のテレビコマーシャル「原発国民投票」についての天野祐吉さんのブログ(http://t.co/NoPkxLKa ) が議論を呼んでいる。大滝秀治さんの声で、「原発国民投票」を呼びかける秋冬号の巻頭特集について。各テレビ局が放送拒否したと、天野さんは書く。

てに(2)「意見広告」を放送しないというテレビ局のポリシーに基づいてそのような判断がなされた、というニュアンスがブログから伝わる。23日付の朝日新聞の天野さんのコラムにその点について書いたとあるので、明日の朝刊でより詳細が明らかになるかもしれない。

てに(3)関連事実、今後の推移については見守るとして、このニュースに接して改めて思うことは、日本のテレビの「ダイナミック・レンジ」の狭さである。 よく言えばやさしい。悪く言えばツッコミが足りず、切り口が甘い。テレビのあり方は、結局は国民の心理の反映なのだと思う。

てに(4)英国のBBCは、一時期若者の視聴離れに悩んだが、エッジの立った情報番組やエンタティンメント番組で息を吹き返したと聞く。イギリスのコメ ディ番組は、差別や偏見など、社会的なタブーにも取り組んでいくが、日本のバラエティでそんな場面を見ることはほとんどない。

てに(5)アメリカでも、政治的な風刺ショーが放映されて、著名政治家がやり玉に挙がる。もちろん、取り上げられた政治家は怒るだろうが、そのような鋭いツッコミがあってこそ、初めて流れ始める社会の中の感情の回路のようなものがある。

てに(6)先日のブータン国王の来日に際して、虚構新聞が愛にあふれる記事を書いたとき、部の人が「ブータンの人の国王に対する敬意を考えると、いかがな ものか」と書いているのをみて、これが日本だと思った。そのような一見「良識派」の意見を先取りして、テレビがつまらなくなっている。

てに(7)今、若者がテレビから離れているとすれば、提供されるダイナミック・レンジがあまりにも狭いからである。ネット上では、「原発国民投票」くらい の意見は当たり前。それを、波が立たないように、誰も怒らないように、誰も傷つかないようにとどんどん自己規制していくから、つまらない。

てに(8)日本人は本音と建て前を使い分けると言われる。みな、本音では、「原発国民投票」くらいのことは当然考えている。それを、テレビは、「中庸」だ とか「バランス」という建て前で規制しようとする。これでは、インターネットとの競争で、負けることが運命付けられてしまう。

てに(9)テレビだけの責任ではない。先日のオバマ大統領と中国の胡錦涛国家主席がキスをしているベネトンの広告に対しても、「物議を醸している」と、あ たかも世間を騒がせるのが悪いかのような角度から報じられる国。本音の日本人は面白いのに、建て前の日本人とテレビはつまらない。

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2011年11月21日月曜日

政策よりも、人格の方が、選挙における判断基準であること

せじ(1)大阪市長、大阪府知事選挙の選挙戦が熱い。「大阪都」構想を掲げる橋下徹氏の「維新の会」が果たして民意を得るのか。その行く末はまだわからないとしても、興味深い現象があるように思う。

せじ(2)それは、具体的な政策の是非よりも、その人の人格、資質を有権者が判断の基準にしているということ。これは、このところの選挙の一つの傾向であり、政治について考える際に、無視することのできないファクターだと私は思う。

せじ(3)たとえば、東京都知事の石原慎太郎氏。外国人や女性に対する発言など、その政治的思想には必ずしも賛成しない人も多いが、なぜ再選されるのかと言えば、氏の物怖じしない、決然とした態度に惹き付けられる有権者が多いからだろう。

せじ(4)橋下徹氏も、大阪都構想はもちろん、その教育関係の政策についても必ずしも民意が集まっているとは言えないが、アジェンダを設定し、精力的にその実現を目指していくその姿勢には、共感する人が多いように思う。

せじ(5)国政で言えば、小泉進次郎氏。TPPの是非はともかく、自分の信念を、党の政治やヒエラルキーとは無関係に強く主張する態度には、注目すべき点が大いにあるように思われる。

せじ(6)思うに、一度当選すれば、その人が直面する政策課題は、必ずしも選挙で争われたものに限られるわけではない。その際には、選挙の争点となった政 策以外の、さまざまな論点について、その人の判断力、 行動力が問われる。有権者が、人格を判断基準にするのは、合理的である。

せじ(7)従来の日本型の、組織の中での根回しを重視したり、ヒエラルキーに黙々と従ったり、理念よりもしがらみを重視するやり方ではまずいと多くの人が感じている。このところ人気が出ている政治家は、そのような旧弊を打破する人格力を持っているように思われる。

せじ(8)首相についても、もし公選制で選ばれればまったく異なる資質の人が選ばれることになるだろう。調整型、ヒエラルキー重視型の首相が選ばれることは、今日の民意の温度からすると、不調和な印象が否めない。

せじ(9)選挙の争点が、政策ではなく実は人格であり、判断力、行動力の総合的な印象であることは、抑えておくべき重要な点だと思う。そして、政治家の直面する課題があらかじめ予想不可能だということを踏まえれば、そのような有権者の判断基準は、合理的である。

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2011年11月20日日曜日

勉強ができないということよりも、やる気をなくしてしまうことの方が深刻な問題である

べや(1)ぼくは、たまたま勉強が抜群にできた。小学校2年生のころ、砂場にいて、そうか、ぼくの友だちの中には、勉強が苦手な子がいるんだな、ということに改めて気付いて驚いたことがある。だけど、その頃のぼくは、おそらくはすでに正しい直観を持っていたのだと思う。

べや(2)それは、勉強ができる、というのは、たくさんの個性のうちの一つに過ぎないということ。知らず知らずのうちに勉強ができていたぼくは、それは、 友人たちと行き交う中でのぼくの個性の一つだとしか考えていなかった。まさか、世間がそんなことを重視するとは、思っていなかった。

べや(3)というのも、友だちには、本当に個性のあふれるやつらがいっぱいいたからである。例えば、走ると抜群に速いやつ。自然とリーダーシップをとるや つ。漫画を描くのが、神的にうまいやつ。冗談をいうと、みんな爆笑してしまうやつ。そんな彩りの中で、ぼくらは生きていた。

べや(4)小学校はまだ良かったけれども、中学に入ると、「抑圧の構造」が始まった。成績によって、行く学校が分かれる。それで、個性豊かなぼくの仲間の うち何人かは、ぐれて不良になっていった。いつも外れ者の方になぜか行ってしまうぼくは、それで彼らとかえって以前より仲良くなった。

べや(5)脳の個性というのは本当にあって、たとえば、あんなに天才的な小説を書く夏目漱石が、画家としてはまったく稚拙である。天才哲学者ニーチェは、 作曲家としては凡庸で、ワグナーとの関係に影を落とした。人間の才能というのは不可思議なもので、「万能の天才」は幻想に過ぎぬ。

べや(6)問題なのは、いわゆる「勉強」というのは脳の個性の一つの指標に過ぎないのに、それで「選別」されるという抑圧の構造があること。ぼくは、「Fランク大学」なんて言葉があることを最近知ったが、ずいぶんくだらない言葉を使うやつらがいるもんだと思う。

べや(7)入試が事実上フリーパスの大学に入ったからといって、その人を特徴付けるのは、「学力」ではなくて、全く別のことのはず。「Fランク」とかいっ てばかにするやつらは知的に浅く、想像力もない。逆に、たまたま勉強が苦手だった人が、やる気を失っているとしたら国家的損失だと思う。

べや(8)教育の現場に立つ人たは指摘する。勉強に意欲的に取り組める子は放っていてもいい、問題は「勉強が苦手」だと思っている子たちのこと。誰にだって、得意なことは絶対にある。それをできるだけ早く見つけることが、その人にとっても、社会にとっても最重要課題である。

べや(9)実際の社会に出てみると、彩り豊かな個性に包まれていた子どもの頃にむしろ似ている。サイボーグ009のように異なる能力でのチームワーク。な ぜ、子ども時代から社会への途中に、(一つの指標に過ぎない)学力による選別という抑圧の構造があるのか、理解に苦しむ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月19日土曜日

物理学帝国主義はすっかり過去のものとなったが、理論すら存在しないという現状は、生物学、脳科学など多くの分野で続いている

ぶり(1)国際研究グループ「OPERA」が、ニュートリノが光速よりも速く到達していたという実験について、再実験をしても同じ結果が得られたと発表した。相対性理論が修正を迫られるのかどうか、関心を集めている。

ぶり(2)この点についての、益川敏英さんの反応が面白かった。私がナビゲーターをつとめたTokyo FMの「未来授業」で、聴衆の学生に質問されて、一言「ガセネタです」と言って、会場を沸かせていた。確かに、今回のニュートリノ実験は突拍子もなく、自 然観に整合させるのが難しい。

ぶり(3)相対性理論は、この宇宙の因果関係がどのようなものか、時間や空間の構造がどうなっているかということについての根本的な法則で、現代の物理学 はすべて相対論との関係で緻密につくられている。今回の実験が、その意味で、調子外れであるということは、多くの物理屋が感じるところだろう。

ぶり(4)そもそも、ニュートリノが光速よりも速く動くならば、1987Aのような超新星爆発の際に、光よりも速くニュートリノが地球に到達しているはずで、今回のニュートリノ実験は、この宇宙について私たちが知っている様々な事実と、整合性がとれない。

ぶり(5)もちろん、従来の理論では説明できない新たな観測事実が登場することで、パラダイムが変化するというのがこれまでの物理の歴史だった。従って、今回の実験が、最終的にどのような評価になるかは、今後の検討を待たなければならない。

びり(6)ところで、かつて「物理帝国主義」という言葉があった。化学や生物学などの他の科学の分野は、最終的には物理学に回収されるという考え方である。最近では聞かれなくなったのは、生物学や情報科学など、具体的な現象が面白い分野が増えてきたからだろう。

ぶり(7)ある現象が出た時に、従来の理論が揺るがされるという関係が成立するのは、それだけ理論が緻密にかつ網羅的に作られているからである。それに対 して、生物学や脳科学では、そもそもそんな理論がない。だから、事実だけが積み重ねられて、揺るがされるべき理論がない。

ぶり(8)Natureのエディターをしていたマドックスが、「分子生物学は科学か」という文を発表して論議を呼んだのは、1980年代だったか? 今回のニュートリノ騒動は、物理学が、理論と実験が緻密に絡む分野として、依然として科学の規範であることを示している。

ぶり(9)先日、Society for Neuroscienceに出席して、膨大な量の研究発表を見ている時に感じたのが、まさに「まだ理論がない」「理論すらない」ということ。計測や解析と しての数学はあっても、脳はこう振る舞うはずだと予言する理論は、存在しないのである。

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2011年11月17日木曜日

(恐竜が)自ら恥じて変わることはあまり期待できないから、(ほ乳類が)別の道を探した方がきっと楽しい

みべ(1)Society for Neuroscience meetingの主役は、ポスター発表である。じっくりと議論の時間をとれるので、スライド・プレゼンテーションを避けて、敢えてポスターを選ぶ人が多 い。ぼくと田森佳秀の発表も、ポスター。いろいろ意見が聞けて、有意義だった。

みべ(2)ほっとして、ご飯を食べて、ホテルに帰ってきて、トイレに座ってiPadでWhat would Google do? の続きを読み始めた。ネット上で起業することが本当に少額の投資でできるようになり、ティーンエイジャーの起業が相次いでいるというアメリカの状 況。

みべ(3)起業のコストが極めて低くくなったために、ベンチャーキャピタルの役割が低下しているのだと著者は言う。なるほどなあと思って読み、iPadを閉じ、そうだスタバでラテ買って来よう、と外に出た。

みべ(4)ワシントンの日は、暮れようとしていた。薄暗がりの中を、スタバを通り過ぎて、ホワイトハウスまで行ってしまう。iPhoneのズーム機能に初めて気付いた。ナショナル・モールを通って帰ってくる時に、さっきトイレで読んでいたことについて思い返していた。

みべ(5)社会の中に新しい文明の波に乗れない恐竜がいたとする。恐竜は、日本にも、アメリカにも、どこにもいるだろう。その時、恐竜が、自らの非を恥じて、自己変革をして変身するということが、理想の話としてはともかく、現実に、どの程度期待できるだろうか?

みべ(6)よりあり得るのは、恐竜自らが変革するというよりは、恐竜の足元をうろちょろしているほ乳類が次の文明の担い手になるというシナリオだろう。実 際、ほ乳類が文明に指紋を残すためのコストは、What would Google do?の著者が書いているように、劇的に低くなっている。

みべ(7)恐竜たちに、「君たちはもう古い。考えを改めたまえ。大学入試や、新卒一括採用や、教科書検定や、意味のないことはやめたまえ」とメガホンで 言っても、どうも有効ではないようだ。それよりも、足元をちょこまか動き回るほ乳類になって、勝手にやった方がいいように思われる。

みべ(8)インターネットはもちろんチューリング・マシンの範疇だが、その計算可能な宇宙の中に、無限の可能性がある。一生あれこれと試み、遊んだとしても、尽くせぬくらいやることがあるんだから、恐竜にがなり立てるよりも、どうやらそっちの方が楽しそうだ。

みべ(9)それに、野生では、異種間の動物がとなりどうしで肌近く共存するという現象が案外見られるようだ。動物と動物の、種を超えた生きものとしての連帯。恐竜がドタドタしていて、ほ乳類がちょこまか動き回って、両者が、生きものとして連帯すれば、いい社会ができるさ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月16日水曜日

ものをつくったり、仕事をしたり

もし(1)ワシントンに来て以来、田森とやっている国境紛争の認知神経科学のデータ解析をずっとしていた。ホテルと会場と食事の場所以外、ほとんど何も見ていない。さっき、タクシーに乗っているときにホワイトハウスが見えて、やっと旅をしている気分になった。

もし(2)ずっと作業していると、いろいろなことを思いだす。ひとつのことをまとめるまでの、工数の多さ。書き写したり、チェックしたり、白熱電灯のような時間が続く。そんななかで、振り返ると、いろいろなことを考える。

もし(3)批評や否定自体を批評したり否定する必要はない。参考になるし、創造のきっかけになることもあるからである。特に、あるべき状態と比べての現状へのダメだしは、それ自体に独自の視点が必要なことも多いし、意義のある営みだと思う。

もし(4)しかし、批評や否定は、最終的には創造にはおよばない。創造することが持つ、ひとつひとつの努力が積み上がって有機的な肉体へとへんかしていく、あの充実がない。それは、むしろ、切り刻んだり、つぶしたりすることににている。しかし、そもそも肉体がなければ料理もできないのだ。

もし(5)このところのツイッター空間には、刻んだりつぶしたりする人がどうも目立つようになった。そのことに対する違和感が、ワシントンに来て以来高まって、田森とポスターをつくりながら、「もうおれ、あいつらあきちゃったよ」と思わずもらした。

もし(6)ツイッターを、RTしたり、コメントしたりして、一種の社会運動のメディアとしてつかうという機運は、一時期確かにあった。それが意味のないこととは思わないが、このところのその手のツイートには、すっかりへきえきした思いがある。そこには、創造のための工数の積み重ねがない。

もし(7)ツイッターで、政府やマスメディアのことを批判しているだけでは、世の中はかわりなどしない。オルタナティヴなシステムを組むためには、むしろ潜らなくてはならない。それでたまたま浮上したときには、もうひとつの試みがなかなかうまくいかないことへのため息がある。

もし(8)だから、ツイッター上で、政府の発表はどうだとか、マスコミは偏向しているだとか、日本の国益はこうだとか、そういう言葉の断片をまき散らしている人たちと、私はどうにも違う温度になってしまって、そのような世界を目をぱちくりして見ている以外にないと思う。

もし(9)実直そうな人たちが働いている会社の片隅で、自分たちが過去数日ああでもない、こうでもないとデータ解析を仕上げた研究のポスターが印刷され、ラミネートされるのを待っている白熱電灯のような時間。ツイッターの言葉の断片を競うよりも、こんな井戸のなかに潜っていたいと思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月15日火曜日

新しいことに挑戦すると、それだけ濃密な時間を過ごすことができる

あそ(1)小学校の頃、一学期の真ん中あたりで、ふと気付くと、まだ夏休みまでずいぶんあるんだということがわかって、時間の流れが濃く、そして重く感じられることがあった。ギュウギュウ詰めになっていて、なかなか時間が経っていかない。

あそ(2)一方、大人になると、時間の経つのが早い。これは、多くの人が実感するところだろう。落語家なんかは、「近頃では正月が年に三回も来ますから」などと言って笑いを取っているが、冗談ではなく本当である。

あそ(3)時間が経つのが、どれくらい密度濃く、じりじりと感じられるか。それに影響を与えるパラーメータには諸説あれども、有力なのは、どれくらい自分 にとって新しい刺激があり、新たな課題があるかということだろう。単位時間あたりの新しいものとのふれあいによって、時間知覚が 変わる。

あそ(4)子どもの頃は、目にするもの耳にするもの新しいし、階段を上る度に斬新な世界が開ける。たとえば、初めて文字を書くというのは目眩がするほど新 しいことだし、分数を最初に習うのも、くらくらするほど興奮することである。だから、時間の密度が濃くて、経つのが遅く感じられる。

あそ(5)ところが、大人になると、既存の知識、経験で「使い回し」が出来るようになってくる。次第に「新しい経験」の頻度が小さくなり、なんとなくぼんやり生きていても、事が済むようになる。その結果、時間がだらだらとあっという間に過ぎていってしまう。

あそ(6)極論すれば、回路の損傷によって新たな記憶をつくれなくなった人でも、正常の知能指数を示し、それなりに受け答えができる。学習するのをやめてしまったとしても、人生はだらだらと生きていくことができるのだ。

あそ(7)どうせ一度しかない人生を生きるのならば、密度が濃い方がいい。そのためには、自分の知らないことにどんどん挑戦して、脳が新奇性に直面する頻 度を上げることだろう。小学校の時に、「まだ一学期経っていないのか」と思ったように、無理めのチャレンジを続ければ、時の密度が上がる。

あそ(8)小さなことからでいい。例えば、youtubeで自分の知っている曲ばかり聴くのではなくて、知らないアーティストの曲、未聴のクラシックを体系的に聴いてみる。プログラミングに挑戦する。楽器を弾く。今の自分ができないことに挑戦する時間帯を増やす。

あそ(9)新しいことに挑戦する時には、大人の胸にだってさざ波が立つ。小学生の時の作文には、「希望と不安」という言葉がつきものだったが、新しいもの に向き合うからこそ、「希望と不安」がこみ上げる。日本の国全体としても、だらだら惰性で行くのではなく、思い切ったチャレンジをしなければ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月14日月曜日

人生において一番大切なことは、ピュアな気持ちを保ち続けること

じぴ(1)ワシントンDCを歩きながら、昨日読み終わったSteve Jobsの伝記をあれこれと思いだしていた。やはりぼくにとって一番感動的だったところは、Think DifferentのCMを思い出すと、今でも号泣してしまうと告白する箇所かもしれない。

じぴ(2)Think Differentのコマーシャルが出たとき、ぼくはものすごく感動して、当時はyoutubeなんかなかったから、ネットで検索して動画を探し出して繰 り返しみていた。有楽町のマリオンに大きな広告が出た時も、出かけていってアインシュタインやピカソの写真を撮った。

じぴ(3)ちょうどその頃、研究所に来ていたアメリカ人と話していた。彼がしきりに、Think Differentというのは文法的に間違っている、Think Differentlyだろう、とぶつぶつ言っていたのを思い出す。それを聞いて、そんなことを気にするか、と思った。

じぴ(4)Think Differentが文法的に正しいかどうかは、wikipediaの項目でも議論されていて、誰でもオヤ、と思うところだが、あのコマーシャルを見てま ずそのような反応をする人を、ぼくは基本的に信用しない。そのアメリカ人のことを、ぼくは内心陳腐なやつだと思った。

じぴ(5)生きていると、いろいろと細かいことがたまってくる。ヘタな知識が増えて、処世術も学び、事情通になって、したり顔であれこれと言うようにな る。Think Differentって、文法的にアレらしいぜ。そんな人たちは、Steve Jobsがなぜ号泣するのか、理由を知らない。

じぴ(6)とても純粋で、エネルギーに満ちていて、ストレートなメッセージを持っている芸術、作品。そのようなものに接した時に、素直に感動せずに、あれ これと些事ばかりゴシップする人たちがいる。そのような人たちと接すると、基本的に世界が違うのだと私はとっとと通り過ぎる。

じぴ(7)私の友人の選び方は、結局、どれくらい純粋なものに殉じて生きているか、ということかもしれない。生きているうちに智恵がついたり複雑になった りするのは当たり前で、そんなことをしたり顔に言われても仕方がない。年齢を重ねる毎に、むしろピュアになっていく人に惹き付けられる。

じぴ(8)たとえば新卒一括採用にしても、人事にこんなメリットがあるとか、君は世間を知らないとか、したり顔で言う人をぼくは全く信用しない。そんな不当な差別は維持不可能だという原則に純粋に寄り添うことを知らない人は、人類の未来の文明と無関係なのだろう。

じぴ(9)そういえば、ジョブズの伝記のひどい書評をどこかで読んだけど、すでに知っていることだとか、皮肉のスタンスでどうでもいいことを書き散らす暇があったら、Think DifferentのCMを見て号泣する、その純粋さをこそ持つべきなのではないだろうか。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月13日日曜日

否定することは簡単だけど、創造する方が難しくて楽しいね

ひそ(1)JALだと思って楽しみにしていたのに、よく見たらAmerican Airlinesの共同運航便だった。日本テレビからのタクシーの運転手さんが、「ターミナル2というのはおかしいな」と言っていたら、本当に違っていた。

ひそ(2)乗った時から、徐々にアメリカが始まっている。最初からヘッドフォンを置いておけばいいのに、持ってくることになっていて、しかもなかなか持ってこない。隣りの大きなおじさんも、映画やビデオをあれこれと眺めながら、音がなくて呆然としている。

ひそ(3)大味のアメリカ式サービス。以前、「今度は赤ワインをください」と言ったら、それまで飲んでいた白ワインのグラスに注がれて(しかもまだ残っていたのだ!)びっくりしたことがある。それでも、アメリカに近づくにつれて、細かいことはどうでもよくなっていく。

ひそ(4)国民性にはもちろんトレードオフがあって、日本の良いところは細かいところに心遣いできること。一方、アメリカはおおざっぱだが、大胆なイノ ベーションは起こしやすい。飛行機の中でiPadで読み継いだSteve Jobsの伝記は、まさにそんな世界の話であった。

ひそ(5)国民性の比較という意味においては、興味深い一節があった。JobsがObama大統領に会って、アメリカの教育システムがいかに遅れているかを力説する。政府の規制がいかにビジネスをやりにくくしているかも熱心に説いていて、どこかの国のことかと思った。

ひそ(6)Jobs氏のObama大統領への苦言は、二つの点で面白かった。一つは、どの国でも、内部にいればいろいろ文句があるということ。日本から見るとアメリカはついつい自由の国に見えるけれども、中にいれば、いろいろなあら探しができるのであろう。

ひそ(7)もう一つは、もし、Jobs氏が文句ばかり言って自分では何もつくらない人だったら、全くインパクトを与えなかっただろうということ。批評にはそれなりの見識が表れるが、創造には身体を張る勇気がいる。社会が批評家ばかりになってしまっては、物事は進まない。

ひそ(8)ダラスの空港に降りて、コリドーを歩く。日本人は、良かれ悪しかれアメリカのことを気にしがちだが、アメリカに来ると、市民レベルで日本のことなどほとんど考えていないことが伝わってくる。だったら、もう少し気楽に、積極的にやっていいんじゃないかな。

ひそ(9)日本の社会の中に満ちている、揚げ足取り、あら探しの空気に飽き飽きしていたのかもしれない。内田樹さん(@levinassien)の言うように、呪いの言葉は知的負荷が低い。どんなにショボイものでもいいから、自分で作ってあら探しされる側に回った方が楽しいよね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月12日土曜日

「最大の欠点の近くに、最大の長所がある」ということの連続ツイート

ささ(1)自分の欠点を隠そうとすればするほど、ぎこちなくなり、他人とのコミュニケーションがうまく行かなくなる。たとえば、ガンコな人が、「いや、オ レはガンコじゃない、オレはガンコじゃないよ、それは、お前たちの勘違いだ」とガンと認めないと、話し合いがもうそこから進まない。

ささ(2)同じガンコでも、「悪いなあ、自分でもわかってはいるんだ。こう、と決めると、どうしても思い込みが強くてダメなんだよ。お前たちにも迷惑をか けているかもしれないけど、勘弁してくれよな」と言ってくれれば、周囲もほっとするし、コミュニケーションもうまく進む。

ささ(3)自分の欠点、足りないところがあったら、それを隠すのではなく、むしろ積極的に認めてしまう。ユーモアのセンスを持って、自分を客観的に見る(メタ認知する)。そのような人は、魅力的だし、人を惹き付ける。自分自身も、成長することができる。

ささ(4)わかりやすい喩えで言えば、カツラの人がいるとする。カツラをかぶっていることを隠していると、まわりは気が気じゃない。ちょと、ずれているん じゃないかな、今日は風が強いけど、だいじょうぶかな。台風中継なんてやって大丈夫かなと、見ていてはらはらしてしまう。

ささ(5)それが、こんな人がいたらどうだろう。夏の暑い日、喫茶店に入ってくるなりカツラをかばっととって、おしぼりで拭き、「いやあ、夏は蒸れてこま るよ。うちわない? (扇ぐ)あーすっきりした。」(カツラをのせて)「よっ。どう? ちゃんとのってる? それで、先日の件だけどさ。。」

ささ(6)そんな人がいたら、「ああ、この人は自分を捨てている。人間ができている、楽しい人だ、話してみたい」と思うでしょ。まあ、そんなんだったら、最初からカツラしなくてもいいんじゃないかという話もありますけれども。

ささ(7)カツラはさておき、脳の個性というのは面白いもので、回路のできかたにメリハリがある。自分の最大の欠点の近くに、自分の最大の長所があると考えてよい。だからこそ、自分の長所を活かすためにも、自分の欠点を自ら認める必要があるのです。

ささ(8)ぼくは、さっきから見ていれば判るように、落ち着きがない。ぜんぜんじっとしていない。でも、この欠点の裏返しとして、ぼくは異なる種類の仕事 を同時にできる。ぱっと瞬間的に切り替えて、集中してしまう。若い時は落ち着きのないやつだ、紳士になれないとさんざんバカにされましたが。

ささ(9)自分の欠点を見つめることができる人は、他人の欠点に対しても寛容です。包容力がある。一方、自分の欠点を認めない、隠そうとする人は、他人を攻撃する傾向がある。自分の欠点をユーモアを持って語れるような、そんな人になりたいものです。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月11日金曜日

「将棋と囲碁は異なる能力を試されるゲームだから、両方やるのがええ」についての連続ツイート

しり(1)「趣味は何ですか?」と聞かれて、答えに窮する。エッセイを書いたり、講演をしたりといった仕事の側面を考えると、すべて反映されるから、純然たる趣味というのはほとんどない。敢えて言えば、すべて仕事。しかし、ほとんど「趣味」と言って良いものがあることに気付いた。

しり(2)それは、将棋や囲碁。子どもの頃からやっているが、マジメに習ったり鍛錬したこともなく、そこそこできる程度。将棋や囲碁に絡んで、何か仕事をするということもほとんどないから、私の数少ない「純然たる趣味」と言ってよいだろう。

しり(3)時間がないのであまりやっていなかったが、このところソフトが良くなったので、iPhoneに入れて、よくトイレでやっている。最初は将棋を熱心にやり始めて、最近は囲碁に凝っている。トイレに座るたびに、「さて続き」と先を打ち出す。

しり(4)将棋も囲碁もよく出来ていて、奥深いゲームだが、両者には違いがある。将棋は、王将をめぐる、緊密な攻防戦。相手と、がっぷりよつに組んで接近している感覚があり、あまり猶予というものがない。序盤のかたちを作るところを除いて、つねに緊迫感がある。

しり(5)将棋に比べて、囲碁は、路面が広いので、あちらの失敗もこちらで挽回できる、というある程度の余裕がある。特に、序盤の布石の場面においては、ある程度のびのびと遊べるという側面がある。その点、囲碁の方が大らかなのかもしれない。

しり(6)囲碁が将棋に接近するのは、大きな石の生き死にがかかわる局面だろう。一着一着に、緊迫感がある。目をつぶしたり、コウに持ち込んだり、あるいはセキになるかどうか、勝敗を左右する分岐点だけに、相手とがっぷりよつに組んだ、将棋的な格闘技性が生まれる。

しり(7)白洲信哉(@ssbasara)はのんだくれているだけでなく、意外な特技をたくさん持っているが、将棋もその一つ。子どもの頃から、中原名人だったか誰かに指してもらって、一時期は奨励会入りも考えたという。こんど指してみたいと思うが、負けるとくやしいようにも思う。

しり(8)将棋や囲碁ができます、という人に会うと、何だか得をした気分になる。実際にはやらないにしても、いつか対局をすることがあるかもしれない、と思うからだ。昨日も、池坊雅史さんが囲碁をすると聞いて、「しめたっ」と思った。

しり(9)王将を巡る緊迫した攻防の将棋。一手でも先に。特に布石において、広々とした空間の中の多数の選択肢の中から、一つを選ぶ「目配りと決断」の囲碁。空間認識と構想力。二つの性格の異なるゲームが日本の文化の中に脈々と受け継がれていることを、誇りに思っていい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月10日木曜日

「大切なことを決めるときは、歩き回るといい」についての連続ツイート

たあ(1)Steve Jobsの伝記をiPadで読んでいるが、とても面白い(ただ今68%)。いろいろ記憶に残る点があるが、ここまで、もっとも印象深かったことの一つが、ジョブズ氏が重要な選択をする時に、やたらと歩き回ることである。

たあ(2)企業を買収するかどうか、CEOをどうするか、Appleを追い出されたあと、何をするか。人生や企業の曲がり角に来たときに、ジョブズは周囲を何時間も歩いて、考え事にふけるのである。

たあ(3)自分自身で迷って、どうするかと模索するときだけではない。たとえば、買収交渉の相手や、CEOの候補や、重要な意思決定の節目において、ジョブズは相手を散歩に誘う。そして、郊外の山などを歩きながら、じっくりと話し合って、心を決めていくのである。

たあ(4)それは、想像してみると、不思議で素敵な光景である。何千億円というような意味を持つ重大な決定を、ジョブズが一人で、あるいは交渉相手と二人 で、歩き回りながら決める。スタンフォード大学の裏で待ち合わせて、郊外の山へと登っていく。些事のようでいて、大切な叡智。

たあ(5)人は、何か重大な決定をしようとする時に、どうしても資料に頼ったり、ネットワークにつながっていようとする。でも、本当に大切なことは、自分 の心の中で起こっている。あるいは、相手の心との響き合いのうちに。一緒に歩くことで、その響き合いの中に耳を傾けることができる。

たあ(6)「歩行禅」という言葉があるように、歩いている時に、人の心は空っぽになる。心を惑わす小さなことは消えていって、本質的なポイントだけが見えてくる。ジョブズが歩きながら分かれ道を選んでいた、その数時間はその人生のクライマックスだろう。

たあ(7)「魂の探究」(soul searching)という言葉がある。自分は、そもそも何を夢見て、こんなことをやっているのか。これからやるべきことは何か。そんな探究の舞台が、ジョブズ氏にとっては「散歩」の時間だったのだろう。

たあ(8)政権も、国会も、重大な「決断の時」を迎えている。密室で、こそこそ話し合っていないで、本当は散歩でもしながら魂の底を探った方が、良質な意思決定ができると思うのだが、残念ながら心地よい道がないし、警備の問題もある。日本の政治家は可哀想だね。

たあ(9)人柄というものは、ほんとうに小さなことに表れるのだと思う。重要な決定をする時に、立派な建物の中の机にそれらしく座るのではなく、郊外の気持ちのよい空気の中を散歩することを選ぶという点に、スティーヴ・ジョブズという人の本質が示されていると私は思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月9日水曜日

「閉じるよりも開いた方がいいに決まっているが、覚悟がなければ出ていくことなどできない」ことについての連続ツイート

とか(1)TPPに関する議論で、「反対」している人の論には実は余り見るべきものがない。陰謀史観に近いものや、日本人の潜在能力を自分たちで過小評価 している人たちが多い。ツイッターでの意見表明でも、あまりものを考えずに短絡的に反応している人が多く、知的興奮がない。

とか(2)国を閉じるよりも開いた方がいいに決まっている。問題は、その時のスタンス。TPPの本質は、農業だけでなく、あらゆる分野が国際競争にさらさ れるということ。昨日ある方と話していたら、みなさんあまりおっしゃらないけど、土木分野にも入ってくると教えてくださった。

とか(3)TPP単純反対派の論が聞くに値しないのは、日本人を、一方的に「入って来られて」、「搾取される」側であるかのように描くからだろう。入って来るんだったら、同じように出ていけば良い。ところが、そのような議論をしている例が、ほとんど見あたらない。

とか(4)医療や、保険、その他のサービスの分野に外国勢が入ってくるというけれども、同じように自分たちも外国市場に出ていけばいいだけのことではない か。TPP、入るのと出るのが拮抗してちょうどバランスがとれる。反対派は、外に出るという発想がほとんどないように見える。

とか(5)ぼくが気の毒だと思うのは、農業の方で、土地に縛られるし、自然の生産力には限界があるから、外国産の農作物と単純競争させられたら、負けるかもしれない。その時に生産性を上げる道筋は、確かに一筋縄ではいかない。

とか(6)しかし、農業でさえ、付加価値を上げて対抗する道がないわけではない。「入ってくるのと出ていくことのバランス」という意味で言うと、入ってこられるだけ出ていく工夫をしなければならない。それが農業にだけ可視的に強制されてしまうのが、お気の毒だと思う。

とか(7)日本の生産性問題の本質は、ホワイトカラーにあると思っている。土地や自然の制約のある農業に比べて、サービスや情報などのホワイトカラーの生産性は、工夫すれば自分たちで勝手に上げられる。それをさぼっているんだから、こっちは入ってこられて当然である。

とか(8)膨大な書類のムダ仕事を自ら作って消費している役所や、国際化に適応できない大学や、ネット時代にそぐわないコンテンツ産業こそ、TPPの荒波にさらされて淘汰、進化すればいい。そうでないと、日本は救われない。

とか(9)TPP単純反対派の最大の愚鈍は、アメリカの戦略にやられるとばかり言い立てていることだろう。向こうに戦略があるならば、こっちにもある。入ってこられるだけ、出ていけばいい。そんなヴィジョンがないほど、日本のホワイトカラーは井の中の蛙で劣化している。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月8日火曜日

「遠くまで相互影響の関係性が及ぶ現代、予想ができない事態を避けることなどできない」ことについての連続ツイート

とよ(1)日本が不適応を起こしている「偶有性」という文明の新しい波。なぜ、そのようなことが起こってしまっているかということについては、数理的な必然性がある。

とよ(2)現代の世界は、グローバル化によって、遠くまでつながってしまっている。「6人の知り合い」を辿っていけば世界の誰にでも到達できるという「スモール・ワールド・ネットワーク」。予想がしやすいローカルなネットワークだけでなく、長距離結合が重要な意味を持つ。

とよ(3)自分の近くの世界は、ある程度予想できる。しかし、結合を辿ってようやく到達する、遠くで起こっているプロセスは、簡単には予想できない。そして、その予想できない出来事が、まわりまわってローカルなプロセスにも影響を与える。これが、グローバル化時代の特徴である。

とよ(4)たとえば、ギリシャの経済危機は、経済規模からいって以前ならば日本経済に影響を与えるものではなかった。ところが、ギリシャがユーロ圏にとりこまれ、円、ユーロ、ドルの間の相互関係が密になっている時代ゆえに、私たちにも思わぬ影響を与える。偶有性が避けられない。

とよ(5)自分たちの回りだけちゃんとやっていれば予想可能な未来が開けるような時代ではない。ギリシャの経済の行く末は、変数的に私たちにはコントロール不能。それが、回り回って「今、ここ」のローカルに影響を与えることを前提に、世界観を組み立て、生きていかねばならぬ。

とよ(6)お役所の書類主義にせよ、大学入試にせよ、新卒一括採用にせよ、日本の従来の文法の中で「ここだけはきちんとやる」という美徳が、現代の世界の中で全く意味を持たなくなって来ているのは、以上のような相互結合関係のグローバルな展開に起因する、原理的なものである。

とよ(7)偶有性は避けられないものとして、その中に飛び込むしかない。ゲーテのファウストで、人工人間ホムンクルスが、それを閉じ込めていたガラス瓶が割れて海の中に投げ出されるように、日本人もまた、自分たちを閉じ込めているガラス瓶の外に出なければ、現代の空気を生きられぬ。

とよ(8)偶有性という視点から見ると、いろいろなことがナンセンス。例えば、教科書検定問題。歴史についての勉強など、ネット上でいくらでもできる。一字一句までこだわって「標準」をコントロールしようとすることなど、偶有性の時代においては、「超」のつく愚行である。

とよ(9)教科書が電子化され、ネットにつながった瞬間、「検定」という概念が意味を持たなくなるのは、最低の論理的思考で明らかだろう。大学入試にせよ、新卒一括採用にせよ、教科書検定と同じく日本人を閉じ込める「ガラス瓶」に過ぎない。そんなものはとっとと割ってしまうに限る。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月7日月曜日

「日本が偶有性の新文明へ適応できない限り、没落が続くことは避けられない」ことについての連続ツイート

にぼ(1)人類の文明を今、変化させしめているのは「グローバリズム」と「インターネット」の二つの波である。両者に共通しているのは、「偶有性」。ローカルな結合だけでなく、長距離結合もあるネットワークの中で、容易に予測できない事態が頻発している。

にぼ(2)日本の変調は、偶有性への不適応である。日本は今や偶有性の新文明における「後進国」。よほどの覚悟を持って自分たちを見つめ、マインドセットを書き直さない限り、再浮上は覚束ない。没落は必定である。

にぼ(3)大学入試における「厳格なペーパーテスト」が「公正」だと思っている時点で、偶有性に不適応。人間の生育プロセス、能力は多様。それを、総合的 に判定して構成員を決定するアルゴリズムが、偶有性の新文明においては適応的。日本の大学入試は、もはや100年くらい古い。

にぼ(4)「記者クラブ」を維持する一つの理論付けは、「フリーランス」の記者にはさまざまな資質のものがいて、大マスコミほどの「クオリティ・コント ロール」ができないというものだろう。偶有性への不適応。さまざまな資質の人がいて、それでいい。石もあれば、玉もある。それが現実。

にぼ(5)日本の地上波テレビがネットに進出できないのも、「著作権」とか、「スポンサー」との関係を、従来通り杓子定規にとらえているから。これも、偶有性への不適応。形式的に齟齬を来すことを恐れるあまり、実質的な利益をとらえることができないでいる。

にぼ(6)役所の異常なまでの書類主義も、偶有性への不適応。ローカルな形式的齟齬を恐れるあまり、全体の最適化、効率化を図ることができないでいる。その結果、行政組織は愚鈍のかたまりになって、無駄な仕事で忙しがる、不思議なカフカ的世界が現出している。

にぼ(7)大学で教えている体系が完全に陳腐化しているため、ネットの偶有性に適応できる人材が枯渇している。そのため、単なるブツではなく、ウェブと連 動した「ものづくり2.0」で活躍する人材が枯渇。iPhoneのような画期的な商品が、日本から出なくなってしまった。

にぼ(8)日本の現在の変調は、以上に例を挙げたような、日本の従来の文明のあり方の「グローバル化」「インターネット」という偶有性の新文法への不適応 という一般現象として説明できるものであり、それだけ根が深い。このまま没落が長期化する可能性も、あながち否定できない。

にぼ(9)ウェブとの連動を考えずに済む「ものづくり」中心の時代には適応的だった国民性が、偶有性の新文明においては陳腐化し、むしろ邪魔になる。日本 の危機の本質はここにある。新卒一括採用や、不動産賃貸における「連帯保証人」など、偶有性への不適法症候群が、日本を後進国へと貶めた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月6日日曜日

「どうせ国が沈んでいくんだったら、明るく勝手にやろうぜという若者が指数関数的に増えていく」ことについての連続ツイート

どあ(1)ふりかえってみると、私はこの二年くらい? ずっと日本の課題を論じてきたように思う。グローバル化とインターネットという文明の二大潮流に適 応できないこと。それが、このところ、少し気分が変わってきた。もうどうせダメなんだったら、手を動かそうという気分に。

どあ(2)インターネット、グローバル化が何を意味するかと言えば、個人でもできることがたくさんあるということである。たとえば、一人ひとりがメディア・カンパニーになる。どんな情報を拾って、考え、発信するか。それで、ささやかだけど、世の中に波が広がっていく。

どあ(3)大学、官公庁、メディア。日本の中に、ダメなものはたくさんあって、おそらく今後も劇的な改善は期待できないけれど、よく考えたら、そういう恐竜たちの足元で、自分はちいさなほ乳類としてちょこまか動き回れる。やれることなんて、いくらでもあるんだってば。

どあ(4)昨日、浅草演芸ホールの会長さんのお話をうかがっていて、それはアルクの藤多さんがアレンジしてくださった機会だったけど、そうか、オレは、勝 手にジャーナリストだってできるんだ、と改めて思った。既成のメディアが拾わないネタだって、自分でいくらでも書けるじゃん。

どあ(5)大学のカリキュラムははっきり言って終わっているけど(入試問題はもちろミイラ化)、それに文句言ってなくて、勝手に自分たちでつくればいい じゃん。今の世界を生きるために必要な教養の体系を、勝手につくって発表していけばいいんだ。そしたら、大学がコピーするさあ。

どあ(6)これからの日本は、だんだん売るものがなくなって、エネルギーの調達コストも上がるし、いい大学−>いい企業という「エスタブリッシュメント」 のパイも減ってくる。どうせダメなんだったら、「クラブに入れてくれ」と言っていないで、無視して勝手にやればいいさあ。

どあ(7)昨日都築響一さんも言ってたけど、「クラブ」への入会の試験のやり方が悪いとか、クラブの運営規則がよくないとか言っていないで、そもそもクラブそのものを無視しちゃえばいい。ネット×グローバル化で、やれること、やるべきことはいくらでもあるんだよね。

どあ(8)どうせ国が沈むんだったら、むしろ底抜けに明るくやってしまえばいい、これが私の結論。エスタブリッシュメントには、もう何も期待しません。勝手に恐竜やっていてください。就活もしません。自分たちでやります。そんな若者が、徐々に増えてきているように思う。

どあ(9)だからね、日本の未来は、ものすごく明るい。大学入試も、就活も、メディアの体たらくも、行政の相変わらずの非効率も、一切無視して勝手にやる 若者が、これから指数関数的に増えてくる。彼らが日本を救う。そしたら、恐竜さんたちにも、少しは心地の良いねぐらを提供できるでしょう!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月5日土曜日

「噴火はなるべくしないほうがいいけど、義憤の場合は仕方がないわね」の連続ツイート

ふぎ(1)昨日、Tokyo Designers Weekでセッションがあって、やるのはやめよう、と思っていたんだけど、やっぱり噴火してしまった。しょうがないよね。いろいろ前提になっていることが受け入れられないから、どぱーっとやっちまう。 http://bit.ly/tr115t

ふぎ(2)だけど、ぼくは、絶対に私憤では噴火しないようにしている。どんなにバカにされても、アホだとか間抜けだと言われても、ああそうですかと笑っている。ぼくが噴火するのは、義憤だけ。かっこつけているようだけど、実際にそうなのです。

ふぎ(3)義憤とは何か。世の中はこうあるべきなのに、その方がもっと自由になれるし、楽しいのに、そうなっていない。そういう時にばーっと噴火する。仕方がないよね。だって、せっかく生きているのに、もったいないんだもん。

ふぎ(4)梅田望夫さんに聞いた話。アメリカでのインターネットのメンターだった人が、ある時、ソフトを買ったらフロッピーディスクに入って来たので、目 の前でその包装や箱をずたずたに切り刻んだ。「こんなのは意味がない。意味があるのはこのフロッピーの中の情報だけだ。」

ふぎ(5)当時は、まだインターネットがそれほど普及していなかったから、ソフトウェアをダウンロードして買うという習慣もなかったけど、その人は大げさにフロッピーが包装されて送られてくることに耐えられなかった。そういう「噴火」は、意味のある噴火だと思う。

ふぎ(6)ぼくには、新卒一括採用が耐えられない。世の中はそんなもんだよ、としたり顔に言うバカがいるが、本当に狂っていると思う。なんの正義も、合理 性もない。くるくるパーだ。みんなもっと自由に、創造的になれるのに、バカどもが下らない人工的な制度を押しつけて、みんなを不幸にしている。

ふぎ(7)テレビ番組をとっととネットで配信しないことも、意味がわからない。BBCのように、全部iPlayerで配信したらいいと思う。著作権がどうのこうの、と言い訳するやつらの意味がわからない。実際にBBCがiやっているのに、なぜできないんだ!?

ふぎ(8)外国人や、フリーランスの方に部屋を貸す時に、「連帯保証人」をつけろとかいうやつらも、全く意味がわからない。大家が家賃をとりっぱぐれるか ら、とかΩ理屈をしたり顔で言うやつがいるが、そのことで、日本の社会や経済がいかに流動性を失っているか、それが見えない愚鈍が信じられぬ。

ふぎ(9)というわけで、ちょっと3ツイートくらい義憤でフォースが乱れましたが、日本をもっと良くしたい、という熱情なので、ご容赦。怒りを感じないや つは、オレは信用しない。このままではこの国は沈むからね。沈むのに、まあ、そう怒らないで、とか言っている人は、ぼくの友達ではありません。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月4日金曜日

「英語ができないのは、日本人の心性に深く根ざしていて仕方がない。日本代表たちが、自分で勝手に英語で表現すればいい」ことについての連続ツイート

えに(1)新幹線の中で、内田樹さん(@levinassien)が今度新潮社から出される『呪いの時代』のゲラをiPadで拝読した。本当に面白かった。主要なテーマの「呪い」的言説についての論考は深く刺さるのだけれども、 日本人の英語についての考察も、肯けるものだった。

えに(2)日本人が英語をやらないのは、能力的にどうのというよりも、心理的、歴史的要因があるのだという。おそらくそうなのだろうと私も思う。というのも、私たちは、もしそのことが本当に必要だと思ったら、勝手に工夫してやる民族だからである。

えに(3)「大学入試」に受かるかどうかが、人生の幸せに重大な意味があると「思い込む」と、文科省がどんなカリキュラムを組もうが、学校がゆとり教育を しようが、関係なく勝手に塾に行かせ、家庭教師をつける。「受験戦争」は文科省が指導したものではなく、人々の自発的活動の結果である。

えに(4)英語ができないのは文科省のせいではない。もし、英語を学び、英語で自分を表現することが人生の幸福に重大な意味を持つ、と日本人が本気で信じ たら、学校の英語教育がなんであれ、勝手に必死にやるだろう。やっていないということは、(これまでは)必要なかったということだ。

えに(5)内田樹さんも書かれていることだが、そもそも日本人は英語がペラペラな人を信用しないところがある。講演会とかで、私はときどきふざけて英語で 即興のスピーチをひとしきりやって、「ほら、こういう人って、信用できない気がするでしょ」と言うと、会場が爆笑する。深層心理の英語嫌い。

えに(6)本居宣長が、「いろはにほへと」以外の音は排除したのだ、とうう意味のことを書いているけれども、あれほど影響を受けた中国語の発音もほとんど 入らず、「日本語化」された。英語の発音やイントネーションも、それをやると日本人ではなくなるような気がするのかもしれない。

えに(7)私自身は、英語で自分を表現するしかないと思っていて、来年3月のLong BeachのTEDも、参加者の中から公募できる枠を申し込んだ。前回落ちているし、なんとTEDx Tokyoやっているパトリックも二回連続で落ちているというから狭き門だが、とにかく挑戦し続ける。

えに(8)日本の中に、英語で自分たちのことを発信する人たちが出てきた方が、この国は救われると私は考えている。それがグローバル化の中、経済がソフト 化する状況の中で一つの必然だと思う。一方、日本の「本体」が英語嫌いのままでも、それはそれでいいんじゃないかと思う。

えに(9)自分たちの言葉ですべての学問ができるようにした、というのは日本の偉大な達成である。翻訳文化も、その一つの顕れ。本体はそれでもいいけど、 英語で表現する人たちが出てくるためには、ある程度すそ野を作っておかなければならない。それは有志で勝手にやればいいかな。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月2日水曜日

「そもそもなんでそうなっているの、という疑問に、情報関連技術が具体的なソリューションを与えてくれる時代」の連続ツイート

そじ(1)どうも、ぼくは子どものころから世の中の秩序や制度をそのまま受け入れることができなくて、「どうしてそうなっているの?」と疑問を呈するタイプだったように思う。小学校のときに、アライテツヤに砂場に呼び出された時もそうだった。

そじ(2)アライテツヤは、「けんちゃん、中学に行くと勉強たいへんだぞ。クラスで一番だと○○高校、学年で一番だと○○高校に行けるけど、けんちゃんは どうかな。」未だに、アライテツヤがなぜ砂場に呼び出す気になったのか、わからないが、その時、とても不思議な気持ちがした。

そじ(3)そもそも、なぜ成績によって、違う学校に行かなければならないのか、それがわからなかった。だって、みんなで一緒に勉強すればいいじゃん、と 思った。ぼくは、結局三年間学年トップで、東京学芸大学附属高校に行ったけど(自慢しているわけじゃないよ!)その時の疑問が 鮮烈に残る。

そじ(4)中学の時、Sがぐれて、体育館の裏で煙草を吸って、紙くずや枯れ草に火をつけていた。焦がす程度だったけど。きっと、イライラしていたんだろうなあ。そのSが、卒業してしばらく経って、消防士になったと 聞いて、首尾一貫したやつだなあ、と思った。

そじ(5)Sがイライラしていた理由はわかる。勉強があまり得意じゃなかったから、自分の将来に不安を感じていたんだろう。ぼくは、その時も、自分がいわ ゆる進学校に行って、Sと離れることに、素朴な疑問を持っていた。なんで、そうやって「選別」しなくちゃいけないんだよ、と思っていた。

そじ(6)学者がテレビに出るなとか、いろいろ言う人がいるけど、ぼくがどんな現場でもその文脈の中で全力を尽くすのは、あの頃の原体験があるような気がしてならない。人々が世界の中でばらばらになっていく、その感覚が耐えられないのだろう。

そじ(7)そもそも、大学になぜ入試があるのか、どうして、学歴で人を判断する人がいるのか、いろいろ、根源的な問題意識と文句を抱いていた子どもから青 年時代の私だったが、この頃ふと気付いてみると、なんのことはない、ITが「もう一つの」ソリューションを提供している。

そじ(8)「有名大学」が入試とやらで入れてくれないんだったら、ネットで勝手に勉強すればいい。Sとばらばらになるんだったら、ネットでつながればい い。物理的な制約のある大学と違って、ネット大学に定員なんかない。「そもそもなんで?」という疑問に、テクノロジーで解が与えられる。

そじ(9)だから、ぼくは、近頃とても楽観的になっている。メディアや就職や教育の「そもそもなんで?」という不条理に、テクノロジーが解を与えてくれると思っているから。少なくとも努力はできる。ダメなものをダメと言っているより、少しでも建設する方が、きっと楽しい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年11月1日火曜日

「壁はとっくにもうなくなっているのに、壁があるとまだ思い込んでいるぼくたち」についての連続ツイート

かか(1)僕が小学校の頃、大人たちは、「大学に行く」ということが、すなわち「学問をすること」だとよく言っていた。だから、ぼくも、なんとはなしに、学問をするためには、大学に行かなければならないのだと思っていた。

かか(2)僕が小学校の頃、「本を書く」人は、すごく偉いのだと思っていた。「本を書く」ということと、「本を書かない」ということの間には、大きな壁があるのだと思っていた。その「壁」の向こうにいつか行くことがあるとは、思っていなかった。

かか(3)気が付いてみると、ぼくたちは、壁が消えた世界の中に生きている。勉強をしようと思ったら、とくに自然科学系は、膨大な情報がネットの上に存在している。大学図書館に行く必要などない。ワンクリックで、最先端の論文が、無料で読める。そんな時代になった。

かか(4)スティーヴ・ジョブズの伝記で印象的な一節は、彼がリード・カレッジを中退したあとも、別に大学にかかわらなかったわけではなくて、スタンフォード大学の授業にもぐっていたことである。現代は一歩進んで、大学の授業に、ネットでもぐることができる。

かか(5)僕が、今の時代に小学生だったらと、想像してみる。好奇心にかられて、おっちょこちょいの僕は、きっと、「チャレンジ」などと叫びながら、 MITとかハーバードの授業にネットで潜り込んでいるんじゃないかな。その時に、「大学に行け」と大人が言ったら、どんなことを考えるだろう。

かか(6)表現する方だってそうだ。商業出版したからと言って、多くの人に読まれたり、10年後に残っているとは限らない。むしろ、ある日突然、オスカー ワイルドのDe Profundisのような文章をネット上に公開してしまって、それが静かで深い波紋を呼んでいく。そんなことを想像する。

かか(7)学ぶ方だって、表現する方だって、本当は壁などもうないのだ。それでもなお、壁があると思っている人たちがいる。壁があると思わせたい人たちがいる。壁があると思わせていた方が、儲かったり、自分たちに都合がいい、という人たちがいる。

かか(8)「壁」の幻想は、この後も存在し続けるだろう。でも、本当は「壁」などない。壁を乗りこえてメンバーの限られたクラブに入ろうと画策する人より も、壁がないことに気付いて、ただ単に実質にだけ、 全身全霊を注ぐ人が輝く、そんなフェアな時代が「今、ここ」にある。

かか(9)僕が今小学生だったら、そんな時代の空気を吸って、酔っぱらったようにウェブの上をさ迷っているんじゃないかな。「壁」のなくなった、広大な世 界の中で。そして、そんな「壁なしネイティヴ」たちが、これからの時代を明るくしてくれるとぼくは信じるし、一緒にさ迷いたい。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月31日月曜日

「落語の中には、貧しくても生活を楽しむ智恵があふれている」の連続ツイート

らま(1)落語には、江戸時代の人の智恵が詰まっていて、なんとも言えない味わいがある。何もなくても、貧しくても、そんな生活を笑って、楽しんでしまう。したたかな庶民の智恵が、停滞している今の日本にぴったりだと思えるのだ。

らま(2)たとえば、「あくび指南」。いろいろな稽古があるけれども、今度、「あくび」のやり方教えます、という看板が出たので好奇心の強いやつが行ってみよう、と言う。もう一人は、ばからしいそんなの、あくびのやり方なんて習って何になるんだ、と取り合わない。

らま(3)それでも、その師匠のところに行く。「ばからしい」と言っていたやつもついてくる。「それじゃあ、春のあくびをやりましょう」とお師匠さん。花見の季節、船遊びをしいて、ぽかぽかと日差しがあたたかく、船のゆれもここちよい。

らま(4)「船頭さん、船を川上にやっておくれ。船遊びもいいが、こうしていると、たいくつで、たいくつで、あー、ならない」とな。と師匠があくびをやってみせる。好奇心の強いやつはおもしろい、と思うが、連れは「ばからしい」とずっと取り合わない。

らま(5)そのうちに、あくびの「稽古」を見ていた連れが、「ばからしい。あいつは好きでやっているからいいけど、こうやってついてきたオレは、たいくつ で、たいくつで、あ〜ならない」とあくびをすると、それを見た師匠が、「ああ、お連れさんの方がすじがよろしい」と下げる。

らま(6)「あくび指南」がすばらしいのは、本当に何もないところから、「あくび」をするということを一つの「芸」として、その設定や、そこに至る道筋やら、工夫をすることで、奥行きが生まれてしまって、楽しみの時間を持つことができることだろう。

らま(7)「長屋の花見」。貧しくて卵焼きやお酒が買えないから、たくわんを卵焼き、お茶をお酒だと思う。それで、酔っている振りをする。「おれはお酒を 飲んで酔っぱらっているんだぞ。お茶を飲んでよっぱらっているんじゃないぞ」「おいおい、そんなこといちいち言わなくていいよ。」

らま(8)「その卵焼きとっておくれ」「はいよ」「私はね、この卵焼きが好きでね。ごはんといっしょに、ぽりぽりかじる。お茶漬けにしてもおいしいね。 やっぱり、本場は練馬かい?」「おい、そんな卵焼きがあるかよ。」下げは、「この長屋にいいことがありますよ。酒柱が立ってる。」

らま(9)経済成長がないことを「停滞」というけれども、それじゃあ江戸時代はほぼ停滞していたわけで、その中でも生活を楽しむことができる、という「落語」に表れている智恵は、間違いなくこれからの日本人にとって参考になるのではないかと私は思う。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月30日日曜日

「開国は避けられないが、他国からのイニシアティヴにあたふたするのはもうやめよう」の連続ツイート

かた(1)TPPを巡る議論が白熱している。「平成の開国」という言葉があるように、今後の日本の国のあり方を決める、重大な局面。賛成、反対の立場からさまざまな議論が沸騰しているが、今朝は、私なりに感じていること、考えていることをまとめてみたい。

かた(2)まず、TPPに参加するか、交渉に加わるかどうかは別として、何らかの「開国」は避けられないということである。日本の社会のオペレーティン グ・システムが、グローバル化にそぐわなくなっている。TPPに参加するかどうかは、一つのオプションに過ぎず、問題はより一般的で深い。

かた(3)TPP参加によって、農業分野が大きな影響を受けると言われている。これは、ある意味ではフェアではない。本来、大学などの教育分野や、新卒一 括採用にこだわる企業の統治などが、国際的に見て大きく遅れを取っているけれども、これらはTPP参加によっても微温的な影響しか受けない。

かた(4)TPP参加によって、農業は間違いなく割を食う。賛成論者は、重大な影響を受けた際に、農業関係者がどのように適応出来るのか、どんな風に衝撃 を和らげ、農業関係者の生活を支えられるのか、その具体的なシナリオを示さなければならない。それなしに進めるのは 無責任である。

かた(5)現在、TPPを推進している人たちは、自分自身は割を食わず、関税の撤廃によって利益を得る人たちなのだから、そのことに自覚的でないと、議論 が説得力を失う。参加するにしてもしないにしても、国全体としての戦略、制度設計をしっかりしなければ、意味がないだろう。

かた(6)一番気になることは、TPP問題についても、ふたたび「黒船」のパターンが繰り返されていることである。自分たちが自律的に考え、立案した戦略 ではなく、外国から提示されたスキームを、飲むか飲まないかというかたちで未来を決める。きわめて愚かな態度だと 言わざるを得ない。

かた(7)日本が「ガラパゴス化」している事実をまずは認めた上で、その上で、自分たちでどのように「開国」すればいいのか、冷静かつ戦略的に計画を立案すればいいのに、そのような努力をしない。将来のオプションを外国に丸投げ。これでは、日本の将来はいずれにせよ暗い。

かた(8)TPPの問題について、日本の新聞記者の方々には、お得意の政局報道のパターンに持ち込まないで、ぜひ、公平で冷静な報道につとめていただきた い。誰がどのような利害に基づいて何を主張しているのか、日本全体の制度設計としては、何が望ましいのか。ジャーナリズムの出番である。

かた(9)TPPの問題は、氷山の一角に過ぎない。TPP参加問題を、single issue politicsにしてはいけない。本当に問題になっているのは、いかに日本がそのOSを進化させるかということで、TPPで無傷の大学や官公庁、企業こ そが、その鼎の軽重を問われている。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月29日土曜日

「センス・オブ・ワンダーを大切にしていれば、人は怪奇話に満足せずに、進んでいくものである。」ことについての連続ツイート

せす(1)このところ、「何月何日に人類が滅亡する」という類のネタが、ツイッターを賑わせていた。それで、ああ、なつかしいなと思った。小学校の時、何度も、「おい、今度の木曜日に、地球が終わるらしいぞ」という類のうわさが流れたことを思い出す。

せす(2)実は、「人類滅亡」の類の話が、大好きだった。自分の知っている世界と全く異なる何かが起こるような、そんな予感がしたからである。同じように、子どもの頃、UFOの話とか、謎の巨大生物の話とか、心霊写真の話とか、大好きで、関連図書を大量に読んだ。

せす(3)今でも覚えているのは、牧場の柵から少年が飛び降りたら、地面に着く前に消えていた、というような話を集めた本。海にいる不思議な怪物とか。大好きで、背表紙がぼろぼろになるまで、繰り返し読んだように記憶している。

せす(4)今振り返ると、少年の私を魅了していたのは、「センス・オブ・ワンダー」だったのだろう。世界がどのように出来ているか、ということを知らない から、未知の可能性にわくわくする。UFOや、心霊写真や、地球滅亡の話は、日常にかかっているベールを、ほんの少し上げてくれた。

せす(5)迷信の類に眉をひそめる人がいるけれども、好奇心を持つことは健全だと思う。大切なのは、「センス・オブ・ワンダー」。センス・オブ・ワンダーを持っている人は、決して、そこに留まることはないから。

せす(6)そのうち、世界には、もっと深いセンス・オブ・ワンダーがあることに気づき、震撼する。たとえば、アインシュタインの相対性理論。そもそもの物理主義。自然現象が、精緻な数学的な形式で、記述されてしまうということ。時間が経過することの不思議。

せす(7)UFOや、心霊現象、海の怪物、人類滅亡といったことに最初は興味を持っても、「センス・オブ・ワンダー」に基準があれば、人は自然に別のとこ ろに行く。相対論や量子論、分子生物学、マンデルブロ集合の数学、連続体仮説。これらのセンス・オブ・ワンダーの方が、深いし、 良質だから。

せす(8)だから、陰謀史観や、人類が滅亡するという予言や、UFOや、心霊現象や、占いや、そういうものにこだわっているひとは、きっと、より大きなセ ンス・オブ・ワンダーを知らないか、あるいは、センス・オブ・ワンダー以外の何かを大切にしているのだろうと、私は考える。

せす(9)子どもの頃に、不思議な話に興味を持ったり、怪奇な物語に夢中になるのは、悪いことではない。センス・オブ・ワンダーの階段だから。今じゃあ、 牧場の柵から飛び降りた少年が消えるとはもちろん思っていないけど、そんな話を読んでわくわくしたことが、私を 育ててくれた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月28日金曜日

「一秒で集中することが、武士道の伝統的な感覚につながる」ことの連続ツイート

いぶ(1)本日のクオリア日記にもあるように、子どもの頃、私は、二階の自分の部屋にいても、母親が「やっているわよ!」と叫ぶと瞬時に駆け下りて、テレ ビの蝶の映像を見ていた。まさに、戦闘機のスクランブル発進。なつかしいとともに、生命の時間について、いろいろなことを思う。

いぶ(2)そもそも、蝶を追いかけていると、瞬時に反応しなくてはならない。蝶は、360度サラウンド、どこから飛んでくるかわからない。だから、その姿 が目に入ると、それこそコンマ何秒で反応し、走り出す。そんな子ども時代を送っていたから、今でも、瞬発力には自信がある。

いぶ(3)勉強法にも書いたけれど、1秒で集中してトップスピードに行けるようでなくてはならない。何とかの準備をして、段取りをしてとか、そんなことでは間に合わない。それは、たとえていえば、武術の心得のようなものである。

いぶ(5)あなたが坂本龍馬だとして、新撰組が突然襲撃してきた時に、「ちょっと待ってくれ、今準備するから」などとは言えない。瞬時に反応して、トップ スピードに行かなければ、間に合わない。そんなことは 日本人にとっては常識だったはずなのが、いつの間にかわすれてしまった。

いぶ(6)今、日本の講演会とか会議とかに行くと、肩書きかどうだとか、本日はお日柄もよくだとか、具にもつかないことをだらだら並べて、一向に本題に入 らない。あの弛緩した空気が、日本人の精神力を衰えさせている。段取りとか、根回しとか、そんなくだらないものは吹き飛ばしてしまえ。

いぶ(6)だいたい、日本人は自分たちを何だと思っているんだろう。段取りや根回し、肩書きや組織がなくては何もできないような、そんな下らない人間たち じゃ、オレ達はないよ。はっと思ったら、一秒で集中して、トップスピードで走り出す。それが、オレ達のやり方だったはずだ。

いぶ(7)最近では、むしろ外国の方が、一瞬にしてトップスピードに入るやり方を実践している。例えば、TEDのトーク。一秒目から飛ばして、伝えるべき もっとも熱いメッセージを送り出す。あれって、本当は、オレ達のやり方だったはずなのに、すっかり忘れてしまっているね。

いぶ(8)お役所の、あのまわりくどい、何を言っているかわからないあの弛緩した雰囲気は、一体何なのだろう。政策自体には賛否両論あれど、橋本徹さんの スピード感には学んだ方がいい。小学校の集会だって、来賓の挨拶とか、要らないだろう。来賓が坂本龍馬だったらいいけどさ。

いぶ(9)私の読みでは、日本はいよいよ売る者がなくなって没落していくから、ふたたび、一秒で集中してトップスピードに入る、そんなやり方が復活すると 思う。だって、そうじゃなくては生きていけないからね。そして、それは私たちの祖先のやり方でもあった。ただ、思い出せばいいんだよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月27日木曜日

「好奇心さえ忘れなければ、遠くに、本当に遠くに行くことができる。」ことについての連続ツイート

こと(1)昨日、池上高志と飲んでいたら、池上が、「お前、知っているか、ファインマンのレクチャー、ネットにたくさん上がっているんだぜ」と言った。それで、Feynmanでyoutubeで検索してみたら、本当にうわーって出てきた。やったね。お祭りだね!

こと(2)それで、ファインマンの話、例えば、http://bit.ly/scGDj5 を見ていると、話の内容が面白いことはもちろんのこと、その顔の表情がいきいきしていることに驚く。自分の話していることに本当に興味を持っていて、愛している、ということが伝わってくるのだ。

こと(3)「熱いとか、冷たいとかいうのは、原子がこうやってわーって動き回って、ぶつかっている、その違いなんだ。想像することが大切だよ」とファイン マンが言う。その感じが、池上が、「お前、知っているか。ファインマンのビデオが、すげー数あるんだぜ」と言っている感じに似ていた。

こと(4)好奇心は、誰にでも平等に与えられている。ところが、それが教育の中で殺されてしまう。点数とか偏差値とか、そういうくだらないもののために、子どもたちの目の輝きが奪われる。結果として、好奇心という、一番の宝ものが失われる。

こと(5)私の友人で、国際的に活躍している現代アートのキュレーターが、この前話していたとき、「オレ、実は高校の時偏差値40だったんですよ」と言った。逆に偉いじゃないか、と思った。アメリカに行って勉強して、今はベルリンで活動。そんな彼は、好奇心のかたまりだ。

こと(6)この国の教育の、最大の問題点は、学習が単なる「人数の限られたクラブ」に入る道筋に過ぎなくなっていることだろう。その結果、入試がやさしい 大学の学生たちは、そもそも意欲をなくしているとも聞く。もったいない話で、人の能力をくだらねえ点数などで選別してはいけない。

こと(7)そもそも、いわゆる一流大学を出て大企業に入るといっても、日本の没落とともにその「パイ」自体が小さくなっている。偏差値なんて関係なく、好奇心にかられて動き回るおっちょこちょいが求められている。せこい秀才なんて、日本の未来を救ってくれはしないよ。

こと(8)物理のことを語っている時の、ファインマンの顔の輝きにこそ注目すべきだ。ぼくは、結局、友人たちと、そういうピュアな心を持っているかどうか ということでつながっているような気がする。なんだか、せこくて、ちまちましているんだよね、日本の社会に満ちている空気が。

こと(9)教育が子どもたちの好奇心を殺しているとしたら、大いに反省すべきだし、別の道を勝手に見つけて疾走するしかない。日本は本当に行き詰まっているから、生命の本能としても、良質な好奇心には必ず道が開けると思う。そうでないと、国全体が助からないからね。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月26日水曜日

「いたずらは、好むと好まずとにかかわらず、創造性と深く結びついている」ことについての連続ツイート

いそ(1)Steve Jobsを読んでいる。物凄く面白いが、まず最初の山は、ジョブズが高校の時にやったたくさんのprank (practical joke, いたずら)だった。ネタバレになるから詳細は書かないが、ジョブズは何回もやらかして、停学をくらっている。

いそ(2)イタズラに当たる英語「practical joke」は、なかなか日本語の語感に直しにくい。何かと言えば「悪質な」という枕詞をつけたがる日本の学級委員な人たちが考える「イタズラ」とは異な る、自由闊達な生命の躍動のようなものが、practical jokeにはある。

いそ(3)「そんなイタズラをするなんて」と眉をひそめる人は、アメリカにもいるのだろう。何しろジョブズは何回も停学をくらうんだから。しかし、経験的に言えることは、イタズラに寛容な人は創造性に富み、不寛容な人は創造性とは無縁だということである。

いそ(3)別に、創造性を持つことが人生の唯一の目的ではないし、社会状況によっては、創造的でない方が適応的だということもあるのだから(昨今の日本の ように)、イタズラに寛容であれ、と強制するつもりはないけれども、イタズラと創造性の関係については、もっと考えていいと思う。

いそ(4)Steve Jobsは、伝記としてはおそらく出色の出来で、読み味が、ちょっと「ご冗談でしょうファインマンさん」に似ている。そのファインマンも、いろいろとイタ ズラをしていることは読者なら知っている通り。量子電磁気学や経路積分の独創性と、イタズラの愉快な関係。

いそ(5)ある時、ファインマンは重大な軍事研究をしていたロス・アラモス研究所を囲むフェンスに穴を見つける。それを管理者に報告するかわりに、イタズラを思いつく。穴から出て、正門を通り、また穴から出て、正門を通るということを何回もくりかえしたのだ。

いそ(6)最初はぼんやりと見ていた門番も、やがておかしいと気付く。あれ、こいつ、さっきから正門から入って来ているけど、一度も出てないぞ。入るばかりで、出てないぞ! どういうことなんだ? やがて「何かがおかしい!」と気付く。これぞ、アハ体験!

いそ(7)その他にも、ファインマンは数限りないイタズラをする。その自由でジャズな雰囲気が、創造性とつながる。深刻ぶったり、マジメぶったりすることが、いかに創造性を殺すか。そのことは、失われた20年を生きる日本人は、とっくに気付いていいはずだ。

いそ(8)Steve Jobsには、高校時代にジョブズがアップルの共同創業者とやった最大の「イタズラ」が書かれている。それなしでは、アップルの創業はなかっただろう、と いうイタズラ。日本の「学級委員」たちが、「違法だ」「補導しろ」とわあわあ叫ぶような、とてつもないイタズラ。

いそ(9)Steve Jobsを読んでわかるのは、Think Differentの、権威に従わず、反逆者であり、現状に尊敬を払わない、というナレーションは、まさにジョブズ自身のことだということ。どの社会にも 抑圧的な空気はあるけど、創造者は「イタズラ」でそれに対抗する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月25日火曜日

「祈りは強い者に向けられるのではない。弱い者にこそ向けられる」の連続ツイート

いよ(1)金沢の東茶屋街には、なんどか来ていた。格子が並ぶ、美しい両側の建物の中を、静かに歩いていくと魂が癒されていく。それでも知らないところがあったのは、それだけ奥行きがあるということなのだろう。

いよ(2)奥まで行って、そこを曲がったところにあるお店に連れていってもらった。カウンターに座って、お酒を飲んでいると、なんだかふらふらしたくなって、トイレにいくふりをして、そのまま戸を開けて、夜の静寂の中に出た。

いよ(3)お茶屋さんが並ぶ通りは、しんみりと静まり返っていて。時折、どこからか、人の話し声のようなものが聞こえる。ふらふらと歩いていたら、鳥居が見えた。「宇多須神社」とある。何でも、お城からみると鬼門の方角にあたるので、それで創建されたらしい。

いよ(4)境内の木には、もう雪釣りがしてあった。枝の一つひとつを、ひもで結んで、雪がつもっても負けないようにする。その細やかでやさしい心遣い。どうやら、そのあたりの光景が、そのあとのできごとを準備していたように、翌朝の今になって振り返ると思えてくる。

いよ(5)社があったので、お参りしようと思った。階段のところに、木札がある。「靴のままお上がりください。 Shoes OK」。階段を上がって、もう戸が閉まっていたので、それごしに、中を拝見してお参りした。二礼二拍手一礼。踵を返して戻ろうとしたとき、はっと思った。

いよ(6)神社で、祈るとはどういうことなのだろう。日本の神様は西洋のそれとは違うけれども、それでも、全知全能の神様に「お願い」をするということではない、と以前から感じていた。むしろ、自分で自分に誓うということの方が、しっくりと来るように感じていた。

いよ(7)それが、宇多須神社で、はっきりとわかった。祈りは、強い者に対して行われるのではない。祈りは、弱い者に対して、くじけた者に対して行われるのだと。そのことが、さーっと光の幕のように心の中でかたちをとって、確信となって感じられた。

いよ(8)いろいろ、おいしいものをいただいていたからかな。食卓に上るために、殺されていった魚たち。死んだら神様になるというのも、亡くなった方は、もっとも弱き存在だから、だって、もう何もできないから。弱き者、無力な存在の前にこそ、私たちは頭を垂れる。

いよ(9)だから、本当は、祈りの対象というのは、一木一草、至るところにあるんだね。ちょっと遠回りして店に戻ったら、田森がおもしろ話をしていた。雪の上で腹ばいになって難をのがれた話。ぼくはうふふと思って、焼酎を飲んだ。金沢の夜はふけていく。田森が、おしぼりで顔を拭いた。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月24日月曜日

「宗教的なモティーフは生きる上での糧となり得るが、党派性の下、他者を排除する必要はもはやない」ことについての連続ツイート

しと(1)「魂」や「死後の世界」は、「脳内現象」であって、その切実さを科学主義から否定すべきではないと書いた。では、そのような表象の体系としての「宗教」をどのように考えるべきかと言えば、宗教感情自体と、宗教組織、団体とは区別しなければならないと思う。

しと(2)それぞれの宗教に、切実なモティーフがある。たとえば、キリスト教における、絶対者たる神が、死すべき者である人間の苦しみを「共苦」するため に、受肉したという考え方。イスラム教における、偶像崇拝否定の思想。ムハンマドの肖像は、たとえ描かれる場合でも顔に覆いがある。

しと(3)日本の神道における、自然との共生の概念は、21世紀の地球において重要である。仏教における、すべての生きとし生けるものを慈しむ考えは、今 日のエコロジーの思想につながる。それぞれの宗教において、私たちがこの地上で生きる上で助けになる、さまざまな叡智がある。

しと(4)本来、これらの表象としてのモティーフは、特定の体系性に属するものではなく、また、お互いに排他的なものでもない。ところが、従来の宗教組織は、あたかも帰依が同時に排他的従属を意味するかのような、そんな擬制を行ってきた。

しと(5)リチャード・ドーキンスが、その著書「神は妄想である」で批判したのも、宗教「団体」の排他性だった。21世紀のグローバル社会において、異なる文化背景の持ち主が混ざり合う時、従来の意味での絶対的帰依、排他性は、もはや維持する必要がないと私は考える。

しと(6)すべての宗教的モティーフを「脳内現象」としてとらえた時、そこに排他的体系性がある必然性はない。たとえば、キリスト教の受肉の思想と、仏教のエコロジー思想が結びついてよい。さまざまな宗教のモティーフに、自由に共感し、自分の生きる糧としてよい。

しと(7)日本人は、元旦には初詣をして、クリスマスを祝い、キリスト教式の結婚をして、仏教で葬られるなど、宗教的に節操がないと言われてきた。しかし、宗教的モティーフを「脳内現象」としてとらえるという立場からみれば、それでいいのだ、とも言える。

しと(8)私自身は、特定の宗教団体に所属していないけれども、さまざまな宗教において提示されているモティーフには、関心がある。その切実さに触れ、自 らの生きる糧にすることは、大いにあっていいと思う。ただし、従来の宗教団体の、排他的体系性だけは、もうそろそろ廃してもいいのではないか。

しと(9)宗教に限らず、すべての「団体」は、それが排他的でない限りにおいて、人類社会に恵みをもたらす。ソーシャルネットワーク時代における「組織」の概念自体が見直されるべきときが来ている。「宗教」は、その典型であり、極致であろう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月23日日曜日

「魂はそとをふわふわと飛んでいるのではない、脳内現象として、表象されているのである」ことについての連続ツイート

たの(1)「科学的世界観」というものを狭くとらえる人がいて、魂とか、「あの世」とか、「神」とか、そのような概念を、一切認めない人がいる。そのような狭量主義は、存在論的/認識論的誤解に基づいていると私は思う。

たの(2)小林秀雄も言っているように、「魂」は、別にふわふわと外を飛んでいるわけではない。「魂」は、私たちの心の中にある。亡くなったおばあちゃんのことを思い出すと、その魂が心の中に脳内現象として生まれるのである。

たの(3)クオリアや志向性に満ちた脳内現象が、どのように生まれるのかは、誰にもまだわかっていない。いずれにせよ、そのような色とりどりのものたちの 中に、「魂」や「死後の世界」という仮想が存在する。それらのリアリティを否定することは、「科学的態度」では断じてない。

たの(4)そもそも、目の前のコップの表象でさえ、脳の活動が生み出した得体の知れないものであり、それと「コップ自体」の関係は、たまたま進化論的に拘束されたに過ぎぬ。同じように、「魂」の表象と、「魂自体」の関係についても、ふかしぎな暗闇が存在する。

たの(5)「コップ」の表象に対して、「コップ自体」があるのとは同じ意味では、「魂」や「死後の世界」の表象に対して、「魂自体」や「死後の世界自体」 がない、という議論はありうる。私自身もそう考えているが、 人間の意識に対する切実さという意味においては、本質ではない。

たの(6)この世に生まれて、なぜか意識というものを持ってしまい、自分の死を認識し、悩み、苦しむ。そんな中で、「魂」や「死後の世界」といった表象を生み出したからと言って、それは恥ずべきことではなく、むしろ生きることの切実さに寄り添っている。

たの(7)狭量な科学主義者が、「魂」や「死後の世界」を口にする人を笑うのは、つまりそこに「魂自体」や「死後の世界自体」が含意されていると解釈する からだろう。しかし、本当に大切なのは表象の切実さの方で、魂がふわふわと飛んでいるわけではないことなどわかっている。

たの(8)昨日、私が「人は死んだら神様になる」とツイートしたのも、むろん、本当に神様がふわふわと飛んでいて、「神様自体」がいらっしゃると考えているだからではない。神様という、表象を生み出した人間の切実さ。それに寄り添うことでしか、見えてこないことがある。

たの(9)以上申し上げたことは、私にとっては、現代を生きる上では必要不可欠な素養の一つだと思う。このことさえわかっていれば、合理主義から外れることもないし、狭量に陥ることもない。いずれにせよ、意識の中に実際に感じられることを否定するのは、愚かなことだ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月22日土曜日

ひとは、この地上の生を懸命に全うし、亡くなったときに、かみさまになる」ことについての連続ツイート

ひか(1)ぼくには一つの癖のようなものがあって、説明を聞いたり読んだりしても、アタマの中で「カチッ」と当てはまらないと、入って来ない。日本の神道についての説明もそうで、いろいろな話を聞いても、一向にしっくりとした感じになっていなかった。

ひか(2)宮崎県、高千穂の天岩戸神社に行った時のこと。若い宮司さんが、天照大神の話をして下さっていた。「徳川家康さんは、お亡くなりになって、東照大権現という神様におなりになりました。菅原道真さんは、天満天神さまにおなりになりました・・・」

ひか(3)「同じように、天照大神さまも、生きていらっしゃるときは人間のお名前をお持ちになっていたと思われますが、そのお名前を、私たちは存じ上げておりません。」若い宮司さんがそのようにおっしゃった時、私は、アタマの中で、稲妻が走ったような思いがした。

ひか(4)徳川家康が亡くなって東照大権現になり、菅原道真が天満天神になるように、どなたか、古に大切な仕事をして、一生懸命生きていらした女性が、亡 くなって天照大神になられた。そう考えたとき、それまで腑に落ちなかった日本の神話が、急に親しく、大切な存在になったのである。

ひか(5)小林秀雄は、『無常といふ事』の中で、川端康成に向かって、「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例があったのか」と言ったと書いている。

ひか(6)小林は続ける。「其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形を しているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」。だから、人間は、亡くなったときに、神様になる。

ひか(7)亡くなった人は、もう戻って来ない。しかし、その生前の姿、生き方は、縁のあった人たちの心の中にいきいきとあり続けている。つらいことや、苦 しいことがあっても、この地上での生を全うされた。その亡くなった方が、「神様」に感じられるというのは、ごく自然な心の働きなのだろう。

ひか(8)天照大神などのかみさまが、最初から存在すると思っているからわからなかった。地上の人が、懸命に生きたあとで、神様になられると考えたら、八百万の神々がいらっしゃることは、当然のことだし、私もあなたも、いつかは神様になる。

ひか(9)徳川家康さんは、まさに東を照らしたのだから、「東照大権現」という名前がふさわしい。自分の亡くなったおじいちゃんは、何という神様になられているのかな、と想像すると心温かい。神様の名前は、その人の生き方、ありありとした日常を映し、照らすのだから。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月21日金曜日

「里山の景観が、日本人にとってのふるさとの心象風景になること」についての連続ツイート

さふ(1)宮崎県の高千穂の、高天原や、天岩戸は、実見する前から人にいろいろ話を聞いていて、わくわくしていた。天岩戸は、近づくことはできなくて、対岸から見るしかない、とも聞いていた。そのあたりが、とても神秘的に思えた。

さふ(2)私の心の中では、なんとはなしに、峻厳な岩山があり、そこに天上から光が差しているような、そんなイメージが出来上がっていた。「高天原」というその名前が、「降臨」の印象として、そんな光景を心の中につくっていたのだろう。

さふ(3)数年前、高千穂を訪れた。遠くて、ひたすら車に乗った。ようやく到着したとき、私は、ちょっと拍子抜けした気がした。ここが、高天原や天岩戸が ある場所なのか。そのあとで、じんわりと感動が込み上げてきた。日本人のふるさとは、やはりこういう場所でなくてはならない。

さふ(4)ごく普通の、里山の光景が広がっていたのである。「高天原遙拝所」も、田舎にいけばどこにでもあるような、ごく普通の神社への道を歩いてついた。慣れ親しんだ、日本の雑木林の中で。そこから遙拝するにしても、峻厳な岩山としての「高天原」などどこにもない。

さふ(5)天岩戸は、素晴らしかった。対岸から眺める。天照大神がお隠れになったという岩戸。美しかった。写真も、スケッチもできないから、心に留めるしかない。その一回性がかえって、体験の質と強度を高めていた。

さふ(6)天岩戸神社で、若い宮司さんがふともらした一言が、私の「神道」に対する考え方や、そもそも日本の「神様」とは何なのかということについての概念を根底から変えることになるのだが、そのことについては別の機会に改めて論じたいと思う。

さふ(7)ある外国の日本文学研究者が、大和の「天香具山」にあこがれて、実際に見たら、それが小さいのでがっかりした、という話を聞いたことがある。その気持ちも分かるけれども、日本人のふるさとは、その小さい、ささやかな、しかし豊かな里山の中にあるのだ。

さふ(8)「天孫降臨」といっても、砂漠の宗教が構想するどこか乾いた、虚無からの創造ではない。私たちの慣れ親しんだ日本の風土は、もっと小さくて、か わいらしくて、生命の豊かな営みにあふれている。それが、日本の「神学」であり、「世界観」。天香具山が、小さくったって、それでいいのだ。

さふ(9)二十一世紀になり、人間と自然の調和が求められるようになった時に、日本の風土が育んできた、人の営みと自然のいのちが響き合う景観は、きっと 一つのモデルケースになる。私たちは、体験から肌で 知っている。大和や高千穂の「里山」をめぐる神話が、それを示している。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月20日木曜日

「この情報は本当かな、と批判的に考えることが、脳の機能を高度化する」ことについての連続ツイート

この(1)ニュージーランドの心理学者、ジェームズ・フリンが発見した「フリン効果」というものがある。先進工業諸国の人々の平均知能指数が、上昇し続けているという現象。生活条件の改善など、いろいろな要因があると考えられるが、大きな要素は「メディア」の変化だろう。

この(2)新聞、ラジオ、テレビ、インターネット、携帯電話。新しいメディアが登場する度に、人々はより多くの情報に接し、それを高速で処理するように なってきた。その結果、脳の機能が高度化しているものと考えられる。知能指数(IQ)は環境要因によって影響を受けるのである。

この(3)私たちは、今ごく普通に街中でスマートフォンを使ってメールをチェックしたり、地図で検索したり、文字を打ったりしているが、これはたとえば 50年前の人たちから見れば驚異であろう。時代とともに進化するメディアを、空気のように吸っているだけで、脳は「賢く」なっている。

この(4)フリン効果は、「ムーアの法則」と同様、今後も続くかもしれない。その際に鍵になることの一つが「批判的思考」(critical thinking)であろう。情報を鵜呑みにしない。本当にそうなのかと、裏をとる。さまざまな情報源に接して、最後は自分で判断する。

この(5)マスメディアは、人々から思考能力を奪い、情報を鵜呑みにさせるというかたちで発展してきた。古典的な事例は、オーソン・ウェルズがラジオで 「火星人襲来」のドラマを流し、人々が本気にしてパニックになった事件だろう。このようなマスメディアの悪弊は、時代が変わっても続いている。

この(6)テレビをたまに見ていると、特に民放は、「沈黙」や「空白」を嫌うメディアになっていることに気付く。よく言えば情報のかけ流しだが、悪く言え ば、視聴者に、受け身でだらだら見て、ものを考えない態度を植え付ける。「一億総白痴化」と大宅壮一が断じたころと変わらぬ。

この(7)一方、ネットは、多種多様な情報源に自分で能動的に接し、認識し、判断するという点において、マスメディアとは異なる態度を醸成する。よく、 ネットの情報は信頼できないというが、そんなことは当たり前で、マスメディアの情報だって鵜呑みにしてはいけないことでは 変わりがない。

この(8)ネットが情報流通の中心になるにつれて、脳はより総合的で批判的な思考をするように促される。ここに、「フリン効果」の次のステージが現れる。 ネットの玉石混淆の情報に接して、自らの論理と感性で選別することは、自分の脳の機能を高度化する絶好のチャンスなのだ。

この(9)ネット上でも、一部の情報を鵜呑みにして拡散したり、論を立てたりしている人を見かけるが、従来のマスメディアに対する接し方のモデルを、その ままネットに当てはめてしまっているのだろう。私たちはもっと能動的で、選別的になって良い。変化はそのうちマスメディアにも 必ず波及する。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月19日水曜日

「沖縄には未来への光があったなあと、風に吹かれながら考える」連続ツイート

おか(1)沖縄で過ごした二日間、いろいろなものを吸収した。何度も訪れている沖縄だけど、そこには未来があると感じた。行き詰まっている日本の進路を照らす光がある、大げさに言えば、そんなことまで思った。

おか(2)石垣島で会った学生は、台北の教育大学に留学しているというから、中国語わかるのか、と聞いたら、30%しかわからない、でも来年は台湾大学を受け直すという。どうして受かったんだ、と聞くと、石垣市と提携しているから〜と答えるから、お前、そういう問題じゃないだろうと笑った。

おか(3)「内地」の学生たちは、すっかり慎重になっていて、留学なんてできないと尻込みしているけど、「てーげー」に、中国語がわかってもわらなくてもとにかく行ってしまう、そんな石垣の学生に、「お前、それいいじゃないか!」と私は思わずオリオンを飲み干してしまった。

おか(4)聞くと、沖縄の人は若いときからほいほい外国に行っているらしい。吹奏楽やマーチとかの世界大会で、アメリカ行ったりしているらしい。外国に親戚がいるという人も、かなりの確率でいると見聞きする。最初から、島が外とつながっているのだ。

おか(5)「世界のウチナーンチュ大会」というのが5年に一回あって、世界中からウチュナーンチュ(沖縄出身の人)が里帰りするんだという。みんな感激して泣くらしいが、いいよね、このネーミングのセンス! だって、世界のウチナーンチュ大会だぜ。世界の都民大会とか、成立せん!

おか(6)「内地」でも、最近は新卒一括採用のアタマの古い企業に就職するのはイヤだと、世間的にはいわゆる「フリーター」になる学生が増えてきているけど、沖縄ではもともと就職しなくても支え合う文化がある。のんびりしているとか、怠けているとかじゃなくて、そっちに未来があるんじゃないの?

おか(7)沖縄で街づくりに取り組んでいる建築家の関原さんによると、世田谷でやっていた頃の何倍ものスピードで物事が進むそうだ。グローバル化やネットの新文明の下に必要なダイナミズムは、一定数の「リベロ」の人間がいないと実現できないが、沖縄にはすでにそれがある。

おか(8)それともう一つ。「内地」の人たちも、ようやく「原発」という、今そこにある現実の重さに目覚めたけれど、沖縄の人たちはずっと「基地」と向き合ってきた。今すぐにはなくせない存在にどう向き合っていくか、その態度や哲学における先進性が沖縄にある。

おか(9)グローバリズムやインターネットの新文明の下で必要な「風」が、沖縄ではすでに吹いていた。学歴だとか、新卒一括採用とか、記者クラブとか、そんなの一切関係ねえ、「てーげー」のパワー。日本沖縄化計画。適応できない古いエスタブリッシュメントから、周縁への民族大移動!

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月18日火曜日

「中心と周縁は、いつの時代にもあるけれども、どちらに飛び込むか、それが問題だ」についての連続ツイート

ちど(1)昨日、沖縄の人たちと話していて、もう、日本の「中枢」はダメなんだなあ、大学にしても、役所にしても、メディアにしても、古くさくて、身動き できなくて、ダメなんだなあ、としみじみ思って、その一方で「周縁」はなかなかいいぞと思った。みんな勝手にやっている。

ちど(2)それでふと思ったんだけど、「中心」は古くさくて、「周縁」は元気、というのは、どの時代も、洋の東西を問わず真実なのではないか。アメリカに行くと、「ワシントン」というのは悪名だし、公務員のムダ、形式主義に対する文句は、同じように聞こえてくる。

ちど(3)つまり、社会というのは、古くて融通の利かない「中心」と、小回りが利いて柔軟な「周縁」というもので常にできていて、その両方のダイナミクス でバランスをとっているものなんだろうね。だから、中心がださい、と文句を言っても、きっと仕方がないんだよ。そういうものなんだから。

ちど(4)問題は、エネルギーの配分だと思う。古くて硬い「中心」と、まだ不安定だけど柔軟で面白い「周縁」があった時に、どちらに身を投じようと思うか? 才能があって、意欲のある若者が、どこに行こうとするか。そのエネルギー配分で、社会は動いていくのだと思う。

ちど(5)従来の日本の問題は、若者たちが、みなこぞって安定した「中心」のメンバーになろうとしてきたことだろう。東大法学部から霞ヶ関へのルートな ど、典型である。そういう「硬い」人たちはもちろんいてもいいが、それは、周縁ががちゃがちゃと元気で、初めて社会のためになる。

ちど(6)すべてはバランスの問題で、日本に、もしスタンフォード大学のような学生が在学中からぎらぎらと起業を考えているような組織があったら、日本の ガチガな「中心」ももっと生きてくるのだろう。ダメな「中心」がダサイのは、「中心」のせいじゃない。周縁の元気のなさのせいだ。

ちど(7)アニメにしても、漫画にしても、コンピュータ・ゲームにしても、日本を元気にしてきた新産業は、すべて「周縁」から生まれてきた。「中心」から バカにされ、見下されても、上等だと跳ね返すそのエネルギーこそが誇りであり、活力であった。それでいいんじゃないか、これからも。

ちど(8)大学に行くとき、あるいは大学を出るときに、どんな将来を思い描くか。不確実だから、どうなるかわからないからこそある分野に行く、という若者が増えてくれば、社会のバランスは自然によくなるさ。縮んでいくパイを奪い合っても、そんなの意味はない。

ちど(9)社会のあり方は、それほど変わるわけではない。問題は、個々の人間が、どんな選択をするか。日本がこのままでも、周縁に飛び込む勇気を持つ人がもっと増えてくれば、確実に日はまた昇る。だって、おひさまって、いつも地の果て、周縁から昇ってくるでしょう。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月17日月曜日

一人ひとりがメディア・カンパニーになる」ことについての連続ツイート

ひめ(1)昨日、フリーランスという働き方を論ずる中で、「グーグル時価総額」という話をした。別の言い方をすれば、これからの時代は、「一人ひとりがメディア・カンパニーになる」ということだと思う。今朝はそのことについて考えたい。

ひめ(2)今年の2月、ロング・ビーチでのTEDの会議に参加していた時に耳にしたのが、「TEDはメディア・カンパニーである」という一言。あれだけの高度な内容のトークを、ネット上で無料で公開する。そのあり方に、ぼくは未来への大いなる希望とヴィジョンを見る思いがした。

ひめ(3)テクストや写真、絵、動画をネット上で公開することが、簡単に、ローコストでできる時代。それぞれの興味が持っているものについて、ネット上で表現をして、世界中の人と交流することができる時代。決断さえすれば、一日目から、メディア・カンパニーとしての活動を開始できるのだ。

ひめ(4)例えば、「雑草ガーデニング」。鉢植えをベランダで放っておいて、どんな草が生えてくるか観察する。ぼくは時間がないのでやってないけど、雑草ガーデニングの専門家が、ブログで草の種類や性質を説明してくれたら、ぼくは絶対に読むし、話も聞きたいと思う。

ひめ(5)ネット上のコンテンツというと、すぐにマネタイズの話をする人がいるけど、必ずしも直接やる必要はないと思う。アフィリエートで稼ぐ人がいてもいいけど、それをしなくてもいい。ブログの書き手を著者にしたという話は、出版界の人たちからしばしば聞く。

ひめ(6)問題は、その人の思いとか、内容。ぼくが今クオリア日記でやっている「勉強法」シリーズは、経済格差とかで教育内容に差がつく、という世相に反発して始めたことだった。全部無料で読めるから、みんな、それを参考にして勉強をしてくれ、という願いが込められている。

ひめ(7)マスメディアは、従来のスタイルにとらわれたり、商業主義の呪縛で、思い切った実験ができなくなっている。今植田工とかと話しているのは、ぼくが脚本を書いて、自分で喋る科学番組をつくってyoutubeで流しちゃおう、とかいうアイデア。そういうこと考えると、元気がでるよ。

ひめ(8)ネットが今すぐここにあるのに、どうしても発想が、「メジャー」なメディアでの活動に囚われすぎている。商業主義は、不自由と同義語。勝手に自分で表現して、即座に公開すればいいんだ。そうすれば、一人ひとりがメディア・カンパニーになる。

ひめ(9)TEDのスローガンは、「広げるに値するアイデア」。ここが一番肝心。自分から発して、「広げるに値するアイデア」は何か。そこを一生懸命考えて、作り込むこと。publishすること自体は、きわめて簡単な時代になった。今すぐ始めないか、あなたのメディア・カンパニー。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月16日日曜日

「フリーランスは素晴らしい」の連続ツイート

ふす(1)人間の感性とか、価値観はいろいろだと思う。ぼくにとっては、部屋を借りるのに「連帯保証人」を求めるというのは倫理的に絶対に許せない行為だけど、そうじゃないと大家が安心しないとかうんぬん言う人たちもこの世にいることも、もちろん知っている。

ふす(2)世の中には「フリーランス」に対する差別がある。ここで言う「世の中」とは、もちろん島国日本のことだけど。「大きな会社」に「所属」している 人には部屋を貸すけれども、「フリーランス」の人に対してはああだこうだ言うというのは、ぼくにとっては許し難い偏見に思われる。

ふす(3)友人の竹内薫が、あんなに本を書いてテレビやラジオでも活躍しているのに、家を借りるとき「フリーランス」だからと信用されずに、家賃を1年とか2年とか前払いさせられたそうだ。アホか? そんなに前払いできる人を「信用」しないって、一体どういうこと?

ふす(4)ぼくは、自分の「所属」はどこそこですとか、他人に「所属」はどこですか? などと聞くひとを、根本的に信用しない。そういう人が世の中にいてもいいけれども、ぼくは共感しない。フリーランスは最高の生き方だと思う。それで、何か問題でもあるというのだろうか。

ふす(5)ダニエル・ピンクは、2001年の『Free Agent Nation』の中で、「独立した働き手」たちが、いかにアメリカの社会を変えているかということを論じている。社会の中の「点」と「点」を結ぶのはその ような 人たち。フリーランスこそが、社会の流動性を担う。

ふす(6)坂本龍馬風に言えば、組織の論理から離れて「脱藩」しなければならぬ。もちろん、形式的には「社員」であっても良い。精神において「脱藩」していれば、その人は自由闊達さを手に入れられるし、何よりも吸っている空気が気持ち良い。

ふす(7)もっとも、「脱藩」しても、前にいた組織関係の仕事が多かったり、特定の取引先にぶら下がっていると、本当の意味での「フリーランス」とは言えない。フリーランスのポイントは、多様性。多くの人たちとかかわり、いろいろなことをすることが、フリーランスの特権。

ふす(8)フリーランスの活動を支えるツールの一つが、インターネット。自分の名前でグーグル検索した時に、どんな情報が出てくるか。その「グーグル時価 総額」こそが、その人のフリーランス活動を支える。そして、表現や発信自体は、誰にでもlow costでできる時代である。

ふす(9)時代の温度も変わってきていて、フリーランスに対する差別は、以前ほど意味がなくなってきているように感じる。不動産賃貸における「連帯保証 人」に関する愚かな習慣も、そのうち消えるだろう。より流動的で、しなやかな日本へ。それ以外の道はないから、抵抗するだけ無駄だよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月15日土曜日

「ノウハウなんて意味がない、心を整えることこそが大切さ」ということについての連続ツイート

のこ(1)松下村塾には二回行ったことがある。二度目の訪問の際、吉田松陰が教えていたのが「陽明学」であることが気になり始めた。心を整えること。時代 の情勢がどんなものであれ、自分の心のあり方を真っ直ぐで清明なものにすること。ぼくはそのことに撃たれて、その感覚がずっと 消えない。

のこ(2)この世をいかに生きるか、ということを考えた時に、外形的なノウハウやチェックリストから行くやり方がある。何分これをしろとか、一日の時間帯 の中ではいつやれとか、道具はこれを使えとか、そのような話が現代の日本人は大好きで、私もそんなことばかり質問される。

のこ(3)しかし、昔の日本の学問は、そうじゃなかったんだよね。心を整えること。心のあり方を見つめること。それは、いわば「心の彫刻」。その心のあり方さえきちんとすれば、あとのことはついてくる。昔の人はそう考えていたように思う。もちろん吉田松陰もそうだった。

のこ(4)具体的なノウハウは、わかりやすいようだけど、つまりそれは出来損ないの人工知能のようなもので、状況に応じて臨機応変にやり方を変えるという ことができない。一日何分やるとか言って、じゃあ、他のことが忙しくてできない日はどうする? 例外が多すぎて、意味がない。

のこ(5)勉強をやらない子どもがいるとする。一日何分やりなさい、という外形的なノウハウから入るやり方は、心に届かない。それよりも、なぜ学びたいの か、何を学ぶのか、心に火をつけることの方が長持ちするし、どんな状況でも効果を発する。だけど、心は目に見えないから、わからないんだよね。

のこ(6)スティーヴ・ジョブズのプレゼンが凄いという人がいる。私もそう思う。しかし、そのプレゼン術を、ノウハウに落としたところで何の意味もない。 自分のパッションを伝えること。人々を驚かせ、喜ばせること。そのような心の「かたち」が最初にあって、個々のプレゼンが生まれる。

のこ(7)昨日、朝日カルチャーセンターの後の飲み会で、ぼくはスイッチがオフになったように意気消沈して、「日本は変わらないよ」「日本には飽きたよ」 とクダを巻いていたらしいが、日本が変われないのも、ノウハウの問題じゃなくて、つまりは変わるという気持ちが整っていないだけの話さ。

のこ(8)どんなに状況が困難でも、障害があっても、「変わろう」と本気で思ったら、そんなことは大したことじゃない。自分の内面を見つめて、心を整える。あとのことはついてくる。ジョブズも、スピーチで、「あとのことはディテールに過ぎない」と言っているじゃないか。

のこ(9)スティーブ・ジョブズは、日本の僧侶に教えを受けたんだよね。自分を見つめ、心を整える「心の彫刻」。あとのことは大したことじゃない。日本人 は、もともとそういうことを知っていたのに、ノウハウ野郎どもに乗っ取られた。朱子学なんてぶっつぶせよ。時代は陽明学だよ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月14日金曜日

「フォローワーの反応のしなやかさと迅速さが、リーダーを作り上げる」ことについての連続ツイート

ふり(1)TEDにおけるDerek Siversの講演「How to start a movement」(http://bit.ly/gmJ4Xp 、日本語字幕もあり)は、リーダーを作る上でのフォロワーの大切さを話したものだけれど、反射神経は大切だと思う。

ふり(2)裸で踊っているやつがいる。それを見て、オレもやろう、と思って参加するやつがいる。誰もフォローしなければ、単なるバカ者。フォローワーが現れて、初めて意味がある。問題は、フォロワーの反射神経の速さとしなやかさだ。

ふり(3)日本病の本質は、人が肩書きや組織で判断して、自分の感性を信じないし磨かないことだろう。ああそうですか、って名刺を見ていて、相手の人間を見ていない。裸のその人を見て感じる能力がなかったら、迅速フォローなんてできるかよ!

ふり(4)誰がどの大学出ているとかそんなことで人を判断しない。実際に話して、どれくらいのヴィジョンがあるか、見識があるか、そういう判断を即座にしなやかにできる人たちの集まっている社会はイイネ! そういう楽器は、大きな音を奏でるぜ。ばんばんばん! ぽんぽんぽん!

ふり(5)白洲正子さんは今やカリスマになっているが、白洲さんは自分の目で全て確かめ、自分の感性で良い悪いを判断した。至宝『日月山水図屏風』は白洲さんによって「再発見」されたものだが、そんな風に自分の感性を磨かないで、人生に何の意味があるんだろう。

ふり(6)お墨付きが好きな人たちがいる。ノーベル賞、世界遺産、国宝、うんちゃらなんちゃら。そんなものがなくても、自分で価値を判断できる人たちが集まっていないと、なかなか新しいことをやるリーダーは出てこないわね。だって、誰もついてきてくれないんだから。

ふり(7)メディアもさ、権威とかお墨付きで活字の大きさ決めたりしなければいいのにね。きっと、裸になるのがこわいんだろうね。生まれたときは、みんな裸なのに。すべての子どもは、しなやかな感性を持っている。そして、自分で好きなものを選んでいる。一生そうだったらいいね。

ふり(8)大河ドラマに恨みはないけどさ、「今年はこれをやってます!」っていうような感じで、観光地の宣伝をしているのを見ていると、絶望するよね。コマーシャリズムは世の常ながら、どこがいいか悪いかくらい、自分で判断しろよ!

ふり(9)日本病の本質は、人々が自分で感じ、判断しなくなっているところにあるのでしょう。でも、治すのは簡単だよ。子どもの時に戻ればいいんだから。手始めにDerek Siversのビデオを見ればいい。何の保証もない裸踊りに参加するその勇気さえあれば、リーダーはきっと現れる。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。

2011年10月13日木曜日

「ごくありふれたものが、すごく不思議」であることについての連続ツイート

ごす(1)というわけで、科学はいろいろなことを明らかにしてきて、物理学は「万物の理論」さえ夢見ているんだけど、ちょっと待てよ、何かおかしくないかい。結局、今までの科学って、時空の中でどんなパターンで 万物があるかということを記述するだけで、時間の経過は扱えないんだよね。

ごす(2)時間が経ってしまうことの不思議さ。小学校のとき、みんなで潮干狩りに行った、あの時のオレはどこにいってしまうんだろう。分子生物学か何かしらないけど、凄いけどさ、でもさ、身体がこううーわって分子の動きでできている、この驚異って一体何?

ごす(3)脳の機能を、統計的に記述して、ああだこうだいうのはいうけど、それは進歩だけど、で、朝起きたらどうしてこんなクオリアとかあるわけ? 進歩っていうけど、それはどんな進歩なわけ? 科学にはできなことがあるっていうけど、それじゃあ、科学って何?

ごす(4)なんだか知らないけど、オレが生まれる前からずっと宇宙はあったらしいね。誰でも死の恐怖は持つのに、自分がその間ずっと存在しなかった、という恐怖は持たないよね。時間は非対称なわけだ。なんでそうなっているの?

ごす(5)そもそも、普段、われわれは地上の生活にばかり気をとられているわけだけどさ、この宇宙には、絶対に関係のない、光円錐のそとがわで、かかわりようのない世界だって、たくさんあるわけじゃないか。それらの世界と、我々の関係は、一体どうなっているの?

ごす(6)ものがあるって、どういうこと? 目の前にコップがあって、そのイメージが心の中にできるよね。でも、コップって何? ケイ素のかたまりっていうけど、そのケイ素がそこにある、ということ自体には、どうしたら届くの?

ごす(7)人格をもった神様がこの宇宙を創ったわけではない、というけど、じゃあ、なんで宇宙ってあるの? 「なんで」という質問には科学は答えないというけど、じゃあ、科学って何なの? おれたちが生まれるずっと前の、なんにも意識を持つものなんていなかった、時間の経過はどうなるの?

ごす(8)ぼくは、特定の宗教を信じてはいないし、これからもそうなることはないと思うけど、ごくありふれたものが、すごく不思議だ、という感覚はいつも持っている。それで、科学はすばらしい営みだけど、それでわかった気になって、不思議の感覚がマヒすることは、恐ろしいことだと思う。

ごす(9)ごくありふれたものが、すごく不思議だという感覚は、いろいろなことを知りすぎた人よりも、たまたま見つけた綿毛をつまんで見つめている、小さな子どもの方が、ごく当たり前に持っていると思う。そして、科学は、その「ふしぎ」を深めてくれる。初心さえ忘れなければ。

※ ここに掲載している内容は茂木健一郎さん(@kenichiromogi)のTwitterからの転載です。